クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に
クンダリーニ経験後、ヨーガの呼吸法であるプラナヤーマにおける息止めである「クンバカ」がとてつもなく苦手になりました。もともとそれほど得意ではなく、それでもかろうじて1分半から2分間はクンバカできていたのですが、息苦しくない範囲では30秒、かなり頑張っても50秒〜1分が限界になってしまいました。不思議です・・・。
呼吸も浅くなって、深呼吸すら苦手になりました。何これ・・・。
かと言ってストレスが溜まっている風でもなく、クンダリーニ症候群(こちらの記事参照)という感じでもなく、前記事に書いたように元気になりましたので、この呼吸とクンバカの苦手具合だけ謎です。未だに謎は解けていません。
ヨーガの先生に聞いたら「雑念が多いのでは?」と言っていましたが、もともとクンバカが苦手で、その時はその指摘は当たっていましたが、クンダリーニ前後の差に関して言えば雑念は関係なさそうな感じがします。雑念がクンダリーニ前後でそこまで変わったとも思えないのにクンバカの時間が3分の1から2分の1に短くなったのは、その理由が雑念ではなくクンダリーニにあるのは明らかだからです。
追記:
その後、たまたま見つけたブログで「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」と書いてある記事を見かけました。であれば、クンダリーニでエネルギーが強くなったが故に器がすぐに一杯になるようになり、クンバカの時間が短くなった、と考えれば納得がいきます。同ブログでは、短くなったクンバカを伸ばすには器を大きくするために修行に励めば良い、と書いてあります。これまた納得です。
■ケヴァラ・クンバカ
クンダリーニ(2回目)以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起こっていて、それは大抵の場合は安定した心の平穏さと共に自動的にクンバカが起こるような感じでしたが、クンダリーニ(2回目)以降は息が浅くなってしまったのでケヴァラ・クンバカも起こらなくなってしまいました。
呼吸も浅くなって、深呼吸すら苦手になりました。何これ・・・。
かと言ってストレスが溜まっている風でもなく、クンダリーニ症候群(こちらの記事参照)という感じでもなく、前記事に書いたように元気になりましたので、この呼吸とクンバカの苦手具合だけ謎です。未だに謎は解けていません。
ヨーガの先生に聞いたら「雑念が多いのでは?」と言っていましたが、もともとクンバカが苦手で、その時はその指摘は当たっていましたが、クンダリーニ前後の差に関して言えば雑念は関係なさそうな感じがします。雑念がクンダリーニ前後でそこまで変わったとも思えないのにクンバカの時間が3分の1から2分の1に短くなったのは、その理由が雑念ではなくクンダリーニにあるのは明らかだからです。
追記:
その後、たまたま見つけたブログで「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」と書いてある記事を見かけました。であれば、クンダリーニでエネルギーが強くなったが故に器がすぐに一杯になるようになり、クンバカの時間が短くなった、と考えれば納得がいきます。同ブログでは、短くなったクンバカを伸ばすには器を大きくするために修行に励めば良い、と書いてあります。これまた納得です。
■ケヴァラ・クンバカ
クンダリーニ(2回目)以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起こっていて、それは大抵の場合は安定した心の平穏さと共に自動的にクンバカが起こるような感じでしたが、クンダリーニ(2回目)以降は息が浅くなってしまったのでケヴァラ・クンバカも起こらなくなってしまいました。
風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化
2019年7月5日、ちょっとしたクンダリーニっぽい経験がありました。
実は今、足首を骨折していますので家でストレッチしたりしてリハビリ中なのですが、今朝もストレッチした後にうとうとして横になっていました。
夢うつつの中、実際に会ったことはないですけど成瀬雅春先生というヨーガ行者のおじいちゃんが夢に出てきて腰をグルグルうずまき状に回しているではありませんか。「あれー? この人は確か・・・」と思っていたのですが、何故か真似しようと思い始め、自分も腰を動かそうとしたのですが寝ているので腰が動きません。夢の中ですから動いても良さそうなものですけど動きません。ですので、どーしようかなー と思ったらふと閃いて、指を使って水面にうずまきを作るかのように(自分を中心に)その指(確か右手の人差し指?)を自分の周囲にグルグルと回し始めました。肉体の指を使うのではなくて夢の中で指をグルグルと動かしたのです。最初ちょっと左回りを試したら何も動かないので、それじゃあ、ということで、反対向きの右回りで指を動かし始めました。すると、体の周り、特に腰の周りに竜巻が起こり始めました。なんだこれ! あくまでも夢の中のお話です。驚きつつも指はずっと回転をしてうずまきし続けています。体の周囲に「風」とでもいうような軽い空気の塊の流れができて、まるでうずまきです。その作られた竜巻をどうしようかなーと思って、試しに上の方にちょっと指を動かしてみると、竜巻が上に動くではありませんか!最初は腰のあたりで回転していましたので、とりあえず、胸のちょっと下まで上げました。更に上に上げるのは最初ちょっと躊躇したのです。というのも、こういうのは基本的に「背筋をまっすぐ」にしていないと危険だと思ったからです。今は寝返りして横向いているから体がまっすぐでないかもしれないので、何かおかしなことになったら嫌だから一旦体の向きを変えるべきかな? とも思ったのですが、もたもたしていると竜巻が消えてしまうかもしれない気がしましたので、「まあいいや、上げちゃえ」と決断して、更に指を上に動かしたら無事胸を通過して喉を通過して頭のあたりまで竜巻が来たところで頭の周囲で発散して消えました。特に変なことにはなっていない模様。危険性はなさそうです。竜巻が舞っている間は音がちょっとだけしていて「シュルシュルシュルシュル」って感じだったような?
ここでさすがに目が覚めて、「うーん、夢だったのかな?」と思ったら、胸のあたりにちょっとだけジンジンする感覚が数分残っているのと、背筋の上の方、うなじのちょっと下の突き出た骨のあたり(大椎、だいつい?)の血液がドクドクと波打っていました。うなじの下(大椎?)の血液がドクドクする感覚は、昔クンダリーニ経験(第2回目)をして腰の後ろのちょっと下側あたりで血液がドクドクした感覚に似ていましたので、その時に比べるとずっと弱い感覚ではあるのですが、やはりこれはクンダリーニに関連した経験だったのかなー? と、とりあえず解釈することにしました。前回のに比べると随分と小さなパワーでしたけどね。
シバナンダ先生がおっしゃるように、何度も何度もクンダリーニを上げてアジナ以上に保つことができるようにならないといけないのかもしれない、と、ふと思いました。であれば、今回は全然保てていないです。 → 最初はこんなことも思いましたが、後ほど認識が変わりました。この日以降、アナハタ優勢に変わりましたので。
今回、コツと言いますか、渦巻きの使い方というか作り方の感覚がちょっと気付けたので良かったかなと。瞑想中に似たような感じで回転をイメージすれば再度エネルギーを上げられそうです。
前記事に詳しく書きましたが前回は自分の体が全身で左回転したのですが、今回は体は静止したまま指で右回転の渦巻きを作った、という違いがあります。どちらも、パワーの流れる方向は実は同じなのかもしれないです。体が左回転ということは周囲のパワーは右回転してるわけですし。実は同じことなのかも? 面白いです。
前回はクンダリーニ後にとても暖かかったのですが、今回は小さい体験ですし、ほとんど前後で差はない感じです。今のところは。
■風のルン
直感ではこれは「風」のエネルギーだと思いました。「風」というとアナハタ・チャクラのエネルギーですよね。アナハタでジンジンした感覚はそういうことだったのかもしれません。ここでいう「風」とはチャクラの属性の「風」の意味です。ヨガの5大元素:地・水・火・風・空はそれぞれチャクラに対応していますけれどもアナハタ・チャクラは風(Air)です。
夢の中では「風のルン」って何回か誰かが私に語りかけていました。「竜巻」というのは私の感覚が解釈したものですから、元々のこの現象の呼び名は「風のルン」が正しいのかもしれません。「ルン」ってなんぞや? どこかで聞いたことあるけれども・・・ と思って調べたら、チベットにおいて生命エネルギーのようなものの呼び名が「ルン」で、その意訳が「風」とのことです。こんなこと全く知らなかったですよ! 気功で言うところの「気」やヨーガでの「プラーナ」に近いもののようです。
■うなじ下(大椎?)はどのチャクラと関係?
最初、うなじ下はアナハタともヴィシュッダともちょっと離れているのでよくわからない感じでした。ヴィシュッダ・チャクラというと「喉」かと思っていましたし、アナハタ・チャクラは胸ですから。ヴィシュッダ・チャクラの場所ははっきりしていて、(今日のことではなくて)以前から度々ジンジンと感触があるのは喉仏のあたりでしたので、反応している喉仏のあたりがヴィシュッダ・チャクラなのかなあと漠然と思っていたのです。ですから、背筋のうなじ下(大椎?)はヴィシュッダでもないしアナハタでもないし、何だろう・・・ と思っていたのです。
ちなみに、各書にあるチャクラの図は例えばこんな感じになっています。
↑ シバナンダ先生の「ヨーガとこころの科学」にはこうなっています。こう見ると、喉仏のようにも見えますし、その裏側の「背筋のうなじ下(大椎?)」こそが実はヴィシュッダなのかも? という気もしてきます。
↑ シバナンダ先生の弟子であるヴィシュヌデバナンダ先生の「Meditation and Mantra」に記されている図も同じ感じです。
↑ こちらは神智学の「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」にある図です。これですと喉仏なのが明らかですね。
↑ これは神智学の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にある図ですが、一番しっくりきます。背筋のうなじ下(大椎?)からアナハタ・チャクラに伸びています。今までアナハタ・チャクラの感覚はあるようでないようで、あまりちゃんとしていなかったのですが、どうやら、うなじ下(大椎?)のナディ(エネルギーの通路)の詰まりが解消されてアナハタまで通じるようになったと解釈するのならば全てがしっくりきます。まあ、まだ当日ですからそれほど変化はないですけど。
うなじ下(大椎?)のエネルギー・ルート(ヨガで言うところのナディ)が開いたとすると、その先に繋がっているアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの両方に関係している、と考えるのも理にかなっている気がしてきました。これが最終的な理解かもしれません。まだ様子見ですが、喉のあたりのヴィシュッダ・チャクラも以前よりザワザワした感覚が続くようになりましたので、影響している気がします。以前は、時々ザワザワするだけでしたが今はザワザワが続いている感じですので(少なくともこれを記入した数日後までは)、変化を感じます。アナハタも影響を感じますので、ナディが開けてアナハタとヴィシュッダが変化した、と言うところでしょうか。
■許す瞑想
そう言えば竜巻の当日は普段と違う事があって、普段私は沈黙の瞑想かナーダ音に集中する瞑想を行なって静寂に入るのですが、その日に関しては、足首の骨折をしたのはカルマだったかもしれないし、最近はちょっと雑念も出てきているので、カルマ解消のために今日は「許す」瞑想をしようと思って、「〇〇を許します。△△を許します。あの人(具体的な人)を許します。あの人(具体的な人)も許します。」と念じながら、昔の記憶を頼りに色々なカルマというか、まだ残っている雑念の元に対して「〜を許します」という瞑想をしたのでした。私は普段この種の瞑想はしないので、今朝に限ってそれが違う点でした。それがどの程度これと関係があるのかわかりませんし、たまたまかもしれませんけど。上の経験は瞑想中に起こったことでなくて、瞑想の数時間後に起こった事です。この瞑想をした時は、普段の瞑想と違って静寂さこそ足りませんでしたけど深いところにある何かシミのようなものが一つづつ解消されてゆくような感覚を感じました。瞑想中なのでなんとなく、の話ですけど。
これがどれだけ影響していたかは実際のところわかりませんが、きっと多少は影響していたような気がしますし、だとすれば、意外に変化というものは自分の意図によってすぐに作り出せるものなのかもしれないと思いました。長い間待ったり修行したりする必要がある気がしていても、実際のところ、割とすぐに変化できるのかもしれません。これまた、なんとなくそう思った、という仮説の話ですが。
■「許す」ことの意味
今日まで、私はもしかしたら「許す」ということの意味をきちんと理解していなかったかもしれないです。許すとは頭や心で理解することではなく、文字通り、その人に対して反感を「全く」抱かなくなることであり、「許す」とは完全なる平穏な心が伴うものなのかな、と。であれば、例えばキリスト教などで許すお祈りがあったとして、その本当の意味はこういう完全な許しなのかな、と。
■アナハタ・ショック
アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティが破れる時は俗に「アナハタ・ショック」と呼ばれるような強烈な衝撃があると聞いており、人によっては口から白い泡を吹いて倒れたりするらしいので、私の場合はそんな激しい衝撃は全くと言っていいほどなくて、アナハタがジンジンしたのとうなじ下(大椎?)の血液が強く脈打つ以外は別に普通な感じです。人によるのか、それともまた違う現象ですかね。単なる夢かもしれないですけど。とりあえず様子見です。半日後でも多少は胸のあたりにジンジンするものが残ってるくらいですね。倒れるほどでは全くないです。
そういえば、昔から何度か、このアナハタ・ショックに関して私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれていたことを思い出しました。アナハタ・ショックをしてしまうと時には内部の微細な機関を傷つけてしまって、事と次第によっては今生での霊的な成長ができなくなるほどのダメージを受ける事があるのでアナハタ・ショックのような過激な方法でヴィシュッダ・グランティを突き破るのは好ましくない、と教えてもらっていたことを思い出しました。まあ、瞑想中の事ですのでこれが絶対的に正しいとは限りませんけど、たぶんそうかなあ、と思っています。ですから今回、ちょっとチクチクするくらいでさほどショックなしに切り抜けられたのだとしたら良かったと思いたいです。
実は今、足首を骨折していますので家でストレッチしたりしてリハビリ中なのですが、今朝もストレッチした後にうとうとして横になっていました。
夢うつつの中、実際に会ったことはないですけど成瀬雅春先生というヨーガ行者のおじいちゃんが夢に出てきて腰をグルグルうずまき状に回しているではありませんか。「あれー? この人は確か・・・」と思っていたのですが、何故か真似しようと思い始め、自分も腰を動かそうとしたのですが寝ているので腰が動きません。夢の中ですから動いても良さそうなものですけど動きません。ですので、どーしようかなー と思ったらふと閃いて、指を使って水面にうずまきを作るかのように(自分を中心に)その指(確か右手の人差し指?)を自分の周囲にグルグルと回し始めました。肉体の指を使うのではなくて夢の中で指をグルグルと動かしたのです。最初ちょっと左回りを試したら何も動かないので、それじゃあ、ということで、反対向きの右回りで指を動かし始めました。すると、体の周り、特に腰の周りに竜巻が起こり始めました。なんだこれ! あくまでも夢の中のお話です。驚きつつも指はずっと回転をしてうずまきし続けています。体の周囲に「風」とでもいうような軽い空気の塊の流れができて、まるでうずまきです。その作られた竜巻をどうしようかなーと思って、試しに上の方にちょっと指を動かしてみると、竜巻が上に動くではありませんか!最初は腰のあたりで回転していましたので、とりあえず、胸のちょっと下まで上げました。更に上に上げるのは最初ちょっと躊躇したのです。というのも、こういうのは基本的に「背筋をまっすぐ」にしていないと危険だと思ったからです。今は寝返りして横向いているから体がまっすぐでないかもしれないので、何かおかしなことになったら嫌だから一旦体の向きを変えるべきかな? とも思ったのですが、もたもたしていると竜巻が消えてしまうかもしれない気がしましたので、「まあいいや、上げちゃえ」と決断して、更に指を上に動かしたら無事胸を通過して喉を通過して頭のあたりまで竜巻が来たところで頭の周囲で発散して消えました。特に変なことにはなっていない模様。危険性はなさそうです。竜巻が舞っている間は音がちょっとだけしていて「シュルシュルシュルシュル」って感じだったような?
ここでさすがに目が覚めて、「うーん、夢だったのかな?」と思ったら、胸のあたりにちょっとだけジンジンする感覚が数分残っているのと、背筋の上の方、うなじのちょっと下の突き出た骨のあたり(大椎、だいつい?)の血液がドクドクと波打っていました。うなじの下(大椎?)の血液がドクドクする感覚は、昔クンダリーニ経験(第2回目)をして腰の後ろのちょっと下側あたりで血液がドクドクした感覚に似ていましたので、その時に比べるとずっと弱い感覚ではあるのですが、やはりこれはクンダリーニに関連した経験だったのかなー? と、とりあえず解釈することにしました。前回のに比べると随分と小さなパワーでしたけどね。
今回、コツと言いますか、渦巻きの使い方というか作り方の感覚がちょっと気付けたので良かったかなと。瞑想中に似たような感じで回転をイメージすれば再度エネルギーを上げられそうです。
前記事に詳しく書きましたが前回は自分の体が全身で左回転したのですが、今回は体は静止したまま指で右回転の渦巻きを作った、という違いがあります。どちらも、パワーの流れる方向は実は同じなのかもしれないです。体が左回転ということは周囲のパワーは右回転してるわけですし。実は同じことなのかも? 面白いです。
前回はクンダリーニ後にとても暖かかったのですが、今回は小さい体験ですし、ほとんど前後で差はない感じです。今のところは。
■風のルン
直感ではこれは「風」のエネルギーだと思いました。「風」というとアナハタ・チャクラのエネルギーですよね。アナハタでジンジンした感覚はそういうことだったのかもしれません。ここでいう「風」とはチャクラの属性の「風」の意味です。ヨガの5大元素:地・水・火・風・空はそれぞれチャクラに対応していますけれどもアナハタ・チャクラは風(Air)です。
夢の中では「風のルン」って何回か誰かが私に語りかけていました。「竜巻」というのは私の感覚が解釈したものですから、元々のこの現象の呼び名は「風のルン」が正しいのかもしれません。「ルン」ってなんぞや? どこかで聞いたことあるけれども・・・ と思って調べたら、チベットにおいて生命エネルギーのようなものの呼び名が「ルン」で、その意訳が「風」とのことです。こんなこと全く知らなかったですよ! 気功で言うところの「気」やヨーガでの「プラーナ」に近いもののようです。
■うなじ下(大椎?)はどのチャクラと関係?
最初、うなじ下はアナハタともヴィシュッダともちょっと離れているのでよくわからない感じでした。ヴィシュッダ・チャクラというと「喉」かと思っていましたし、アナハタ・チャクラは胸ですから。ヴィシュッダ・チャクラの場所ははっきりしていて、(今日のことではなくて)以前から度々ジンジンと感触があるのは喉仏のあたりでしたので、反応している喉仏のあたりがヴィシュッダ・チャクラなのかなあと漠然と思っていたのです。ですから、背筋のうなじ下(大椎?)はヴィシュッダでもないしアナハタでもないし、何だろう・・・ と思っていたのです。
ちなみに、各書にあるチャクラの図は例えばこんな感じになっています。
↑ シバナンダ先生の「ヨーガとこころの科学」にはこうなっています。こう見ると、喉仏のようにも見えますし、その裏側の「背筋のうなじ下(大椎?)」こそが実はヴィシュッダなのかも? という気もしてきます。
↑ シバナンダ先生の弟子であるヴィシュヌデバナンダ先生の「Meditation and Mantra」に記されている図も同じ感じです。
↑ こちらは神智学の「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」にある図です。これですと喉仏なのが明らかですね。
↑ これは神智学の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にある図ですが、一番しっくりきます。背筋のうなじ下(大椎?)からアナハタ・チャクラに伸びています。今までアナハタ・チャクラの感覚はあるようでないようで、あまりちゃんとしていなかったのですが、どうやら、うなじ下(大椎?)のナディ(エネルギーの通路)の詰まりが解消されてアナハタまで通じるようになったと解釈するのならば全てがしっくりきます。まあ、まだ当日ですからそれほど変化はないですけど。
うなじ下(大椎?)のエネルギー・ルート(ヨガで言うところのナディ)が開いたとすると、その先に繋がっているアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの両方に関係している、と考えるのも理にかなっている気がしてきました。これが最終的な理解かもしれません。まだ様子見ですが、喉のあたりのヴィシュッダ・チャクラも以前よりザワザワした感覚が続くようになりましたので、影響している気がします。以前は、時々ザワザワするだけでしたが今はザワザワが続いている感じですので(少なくともこれを記入した数日後までは)、変化を感じます。アナハタも影響を感じますので、ナディが開けてアナハタとヴィシュッダが変化した、と言うところでしょうか。
■許す瞑想
そう言えば竜巻の当日は普段と違う事があって、普段私は沈黙の瞑想かナーダ音に集中する瞑想を行なって静寂に入るのですが、その日に関しては、足首の骨折をしたのはカルマだったかもしれないし、最近はちょっと雑念も出てきているので、カルマ解消のために今日は「許す」瞑想をしようと思って、「〇〇を許します。△△を許します。あの人(具体的な人)を許します。あの人(具体的な人)も許します。」と念じながら、昔の記憶を頼りに色々なカルマというか、まだ残っている雑念の元に対して「〜を許します」という瞑想をしたのでした。私は普段この種の瞑想はしないので、今朝に限ってそれが違う点でした。それがどの程度これと関係があるのかわかりませんし、たまたまかもしれませんけど。上の経験は瞑想中に起こったことでなくて、瞑想の数時間後に起こった事です。この瞑想をした時は、普段の瞑想と違って静寂さこそ足りませんでしたけど深いところにある何かシミのようなものが一つづつ解消されてゆくような感覚を感じました。瞑想中なのでなんとなく、の話ですけど。
これがどれだけ影響していたかは実際のところわかりませんが、きっと多少は影響していたような気がしますし、だとすれば、意外に変化というものは自分の意図によってすぐに作り出せるものなのかもしれないと思いました。長い間待ったり修行したりする必要がある気がしていても、実際のところ、割とすぐに変化できるのかもしれません。これまた、なんとなくそう思った、という仮説の話ですが。
■「許す」ことの意味
今日まで、私はもしかしたら「許す」ということの意味をきちんと理解していなかったかもしれないです。許すとは頭や心で理解することではなく、文字通り、その人に対して反感を「全く」抱かなくなることであり、「許す」とは完全なる平穏な心が伴うものなのかな、と。であれば、例えばキリスト教などで許すお祈りがあったとして、その本当の意味はこういう完全な許しなのかな、と。
■アナハタ・ショック
アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティが破れる時は俗に「アナハタ・ショック」と呼ばれるような強烈な衝撃があると聞いており、人によっては口から白い泡を吹いて倒れたりするらしいので、私の場合はそんな激しい衝撃は全くと言っていいほどなくて、アナハタがジンジンしたのとうなじ下(大椎?)の血液が強く脈打つ以外は別に普通な感じです。人によるのか、それともまた違う現象ですかね。単なる夢かもしれないですけど。とりあえず様子見です。半日後でも多少は胸のあたりにジンジンするものが残ってるくらいですね。倒れるほどでは全くないです。
そういえば、昔から何度か、このアナハタ・ショックに関して私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれていたことを思い出しました。アナハタ・ショックをしてしまうと時には内部の微細な機関を傷つけてしまって、事と次第によっては今生での霊的な成長ができなくなるほどのダメージを受ける事があるのでアナハタ・ショックのような過激な方法でヴィシュッダ・グランティを突き破るのは好ましくない、と教えてもらっていたことを思い出しました。まあ、瞑想中の事ですのでこれが絶対的に正しいとは限りませんけど、たぶんそうかなあ、と思っています。ですから今回、ちょっとチクチクするくらいでさほどショックなしに切り抜けられたのだとしたら良かったと思いたいです。
胸(アナハタ)が開いて呼吸がしやすくなりました
[風のルンの竜巻の経験から2日後 ]
■呼吸がしやすくなりました
別記事で書きましたが、クンダリーニ(2回目)経験後から呼吸が浅くなり、クンバカが極端に苦手になっていました。同様に、以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカという自動的なクンバカ(息止め)が瞑想中や休憩中に普通に起こっていたのですが、クンダリーニ(2回目)以降はケヴァラ・クンバカも起こらなくなっていました。ケヴァラ・クンバカは落ち着いた静寂な心があると自動的に起こるとされています。ずっと息が止まっているわけではなくて、必要とあれば自動的に呼吸が再開されるような種類のものです。私の場合、ヨガを始めてしばらく経った後、ナーダ音が聞こえ始めた頃だったか、その前後くらいから心が落ち着いてきて自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起きていました。その後、クンダリーニ(2回目)によってパワーは向上してポジティブになったので心は基本的に落ち着いてはいるのですが、何故か呼吸だけは浅くなってケヴァラ・クンバカが起こらなくなったのです。
ですが、今日のこの経験後から急に呼吸が深くなり、クンバカもかなりしやすくなりました。まだ当日なのでケヴァラ・クンバカとまでは行きませんが、かなり呼吸が違うのを感じます。昨日までは、胸のあたりが詰まっていてそこに呼吸が入らない感じでしたが、今は胸いっぱいに息を吸う事ができます。こんな急に変わるものですね・・・。不思議です。
■息が浅いのは「何かが詰まっている」状態?
別記事に追記しましたように「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」の関係があるようで、第2回目クンダリーニではエネルギーが強まって息が相対的に浅くなってクンバカが短くなりましたが今回は器が大きくなって息が深くなってクンバカも長くなった感じです。
スピリチュアルでは息が浅い状態は「何かが詰まっている状態だから詰まりを取る必要がある」と言われていて、基本的な意味は「詰まっていなかったものが詰まってしまったから取り除く必要がある」ですが、それに加えて上記の計算式の「器」と「エネルギーの強さ」も加味して解釈すると「エネルギーが強まったので器が小さく感じるようになってしまったから器を大きくする必要がある」「エネルギーが強まったので今まで意識していなかった場所に詰まり(ブロック)があることが分かった(もともと詰まっていたが気付かなかった)。新たに判明した詰まり(ブロック)を外す必要がある」という意味にも解釈できそうです。それはまるで、気球に空気がちゃんと入っていなかったのに気付かなかった状態から改めて空気を入れてちゃんと膨らませて布が伸びること、あるいは、風船にちゃんと空気が入っていなかったのがもっと空気を入れることでゴムの端っこも伸びてハリが出るようになったようなもの、とでも言えるでしょうか。
■ケヴァラ・クンバカと背筋をまっすぐにする姿勢の関係
呼吸がしやすくなったのと同時に、再度、ケヴァラ・クンバカ(自動的に起こる息止め)も時々起こるようになりました。時には、起こりすぎて息がずっと止まってしまい、意識的に吸気をしてあげなくてはいけない時があって、そんなときは「面倒だなあ」と思うくらいになりました。でも、同じケヴァラ・クンバカでも自動的に無意識に吸気できている時もあって、意識的に吸気をしないといけない時とは何が違うのかなあ・・・と思っていたのです。観察したところ、どうやら背筋がまっすぐのときは呼吸が自然にできており、背筋が曲がっているとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないことに気付きました。瞑想や普段の生活で背筋をまっすぐにすることがこれほどまでに呼吸に影響するなんて、以前はそんなことありませんでした。敏感になったのでしょうか? このあたりは、ちょっと様子見です。それにしても、ヨガなどで「背筋をまっすぐ」という教えにこんな微細な影響があったなんて驚きです。てっきり、スシュムナを真っ直ぐにしてクンダリーニ等のエネルギーを通りやすくするくらいの意味なのかなと思っていました。それだけではなかったのですね。まあ、あくまでもそんな気がするだけですが。
■ケヴァラ・クンバカと「枕」の関係
寝る時もケヴァラ・クンバカが自動的に起こるのですが、枕をして上を向いて仰向けで寝ると、前に書いたのと同様、吸気がうまくできません。横になって背筋をまっすぐにすると吸気が問題ないのですが仰向けにするとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないのです。これは、第2回目クンダリーニ前に起きていたケヴァラ・クンバカのときは問題なくて、今回初めて問題になりました。一体どうしたものか・・・ と思ったのですが、試しに枕を取って布団の上にそのまま寝てみたところ吸気がうまくできるようになりました。枕をしていると少し猫背になってしまっていたのかもしれません。枕なしにすることで背筋がまっすぐになったのかもしれないです。今まで布団の上にそのまま寝ると調子が悪くなってしまっていたので枕なしで寝るのはあまりしたことがなく、せいぜい薄い枕を試すくらいだったのですが、どうやら今日のところは問題なさそうです。これもちょっと様子見ですね。過渡期だけの問題かもしれませんし。まだ数日なのでこれから様子を見ます。
■アナハタ・チャクラが開いた?
これがいわゆる「開いた」状態かどうかはわかりません。様子見です。前よりは胸に空気が入りやすくなりましたので、一応少し開いたと言えなくもないです。一気に開くというよりは徐々に動き出すようですから、最初はこのくらいでもいいのかもしれません。
■楽観的でポジティブであるべき
ヨーガの本山博先生は「密教ヨーガ」にて、サッチャナンダの言説を引用しつつ「アナハタの目覚めを志す人は、希望に満ちた楽天家であるべき。」 「一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の1つ」と述べています。
■アナハタ以上に至ればカルマに従わない
「密教ヨーガ(本山博著)」によると、マニプラまではカルマに影響されていますが、アナハタ以上に至った人は基本的にカルマには従わないと言います。アナハタに至ればカルマが現実であるのを知ってはいるが超越して自由でいられる、と言います。その点がマニプラまでとアナハタとの大きな違いとのことです。マニプラは情を司っており基本的にはカルマに支配されているものの意思の力でそれをコントロールすることができます。一方、アナハタになると基本的にカルマに束縛されないとのことです。
このことは、上記のように私が過去のトラウマに対して「〇〇を許します」と瞑想した時の感覚の違いに現れていると思います。先日の竜巻の経験の前では、過去のトラウマを思い出す度に多少ながら神経にショックが走っていました。このトラウマは子供の頃から蓄積されていたものであり、物によっては何十年も度々思い出してきたトラウマでした。ですから、なるべく思い出さないようにして、思い出したとしてもそのトラウマの反応を自分で律していました。なるべく早く気付いて律するのが基本でありました。最近は随分とトラウマのショックが小さくなってきたな、と思ってはいたのですが、それでもゼロではありませんでした。
それが、先日の竜巻の後は、トラウマのことを思い出してもショックが起こらないようになりました。ショックがゼロでした。しかも、全てのトラウマに対して。いくつもトラウマがあった筈ですが、ショックが起こらないのが不思議でしたので、試しにその他のトラウマも意識的に色々と思い出してみたところ、どれもショックが起こらなかったのです。確かに、ほとんどのトラウマは月日が経つにつれて段々と小さくなってはいましたがそれぞれのトラウマは多少ながら残っていましたので、先日の竜巻の後にその全てのトラウマに対して全く反応しなくなったのが不思議です。
まあ、ゼロとは言いましても、トラウマ的な記憶を思い出しても反応がゼロという意味で、トラウマの元になる記憶は残っていますので時折その記憶は奥底から浮かび上がってきます。その記憶の浮上は依然として時々ありますので、それはさほど変わりがありません。ただ、その記憶が浮かんだ時の反応がゼロになった、という意味です。でも、よく観察してみるとゼロは言い過ぎかもしれないと言う気もします。先日の竜巻の前後で10分の1以下になってほとんどゼロに近い、というくらいが正しいでしょうか。意図的にこのトラウマを呼び覚まそうとしない限りは特に問題ない程度にまで反応が下がった、というところでしょうか。
実はカルマというのはヨーガ的にはサムスカーラ(サンスカーラ)という微細な「印象」であって、印象がカルマとして輪廻転生に導きます。過去のトラウマがあるが故に同様の問題にも引き込まれますし、過去の喜びを覚えている、すなわち「印象」を覚えているからこそ未来の喜びを求めてカルマが発芽して新たな喜びや苦しみを生み出すわけですが、トラウマがなくなったということは、それはすなわち「印象」が消え去ったということであり、記憶はあるものの「印象」がなくなりましたので、少なくともトラウマに関するカルマはかなり解消されたのかな、と解釈しています。補足しますと、これはあくまでもトラウマに対してのことであって、他人に嫌なことをもし言われたら不愉快というほどでもないにせよ多少は面倒に感じると思います。でも、その程度です。
最初アナハタの説明を読んだときは「ふうん」と思っていたのですが、実際こうなってみると随分と状態が違うものだと思います。確かに、アナハタに関してはカルマを超える部分が多いにあるように思います。
そうは言いましても、思考のパターンと言いますか「癖」が多少は残っていますので、トラウマの反応はほとんどないにせよたまについネガティブに考えそうになることがなくはないです。そこは流石にまだ成長の途中のようです。そんなことがあったとしても以前より遥かにコントロールしやすくなっていますので、昔の思考パターンの癖が出そうになってもその度に「おっと、ネガティブ思考の癖が出てしまった。これも許します。これも許します。」と言ってあげることにしました。記憶はまだありますし癖もありますし思考パターンも割とそのままなのですが「印象」だけが消えてトラウマがほとんど消えただけなので、思考パターンの癖を戻すのはまだ続けないといけないようです。まあ、それだけでもかなりの進歩です。
ちなみに、第2回目のクンダリーニでは光の筋が2つ上がったのですが、その時はエネルギーの向上・生命力のアップが起こりまして、ネガティブも一時的にほとんど消えたのですがそれは生命力アップによるネガティブの解消でした。第2回目クンダリーニ経験の直後が最もエネルギーが高くてその後徐々に生命力が下がって行ったのですが、生命力が下がるにつれてネガティブが少し出てきていました(それでも昔より生命力が高いですしネガティブは少ないですが)。その、残っていたネガティブがこうして竜巻の経験を経ることによって更に劇的に減少した、というところです。
ちなみに、同書およびいくつかの書物、確かサッチャナンダの書物にも他のヨーガの書物にも書いてあるアナハタに関する有名な警告があります。
・アナハタを目覚めさせると思考に基づいて良いこと悪いこと全てが実現するので、ポジティブに考えるべきである。これが、「ポジティブに考えるべき」という事項に対する密教的な解釈のようです。
同書には、サッチャナンダによる別の警告も書いてあります。
・クンダリーニがマニプラまで上がり、その後下がってしまっても再度ヨーガ行などで上げることができる。しかし、一旦アナハタまで上昇してからネガティブな思考のためにムーラダーラまで下がってしまうと再び上昇させることは非常に困難。
■熱から暖へ
第2回目のクンダリーニではまさに「熱」を強く感じていました。その後、次第にその熱が下がってきており、私はそれがエネルギー低下と解釈していました。下がってきたと言ってもそれ以前よりはエネルギーレベルが高いのですが、それでも下がっている気がしていました。その根拠は主に「熱」を基準にしており、ポジティブさの度合いも判断基準でした。場所は、お腹のあたりを中心に熱がありました。
おそらく、この理解は確かにその通りでエネルギー低下もあったのだとは思いますが、変化はそれだけではなく、エネルギーの質が同時に「熱」から「暖」に変わったこともあるのだと最近は理解するようになりました。
「ヨガと冥想(内藤 景代 著)」には、ムーラダーラからマニプラまでは「熱」で、アナハタが「暖」で、ヴィシュッダからサハスララが「冷」と言う分類をしています。
まさにこれで、第2回目のクンダリーニは主にマニプラまでの経験だったように思います。ムーラダーラのクンダリーニが活性化し、それが主にマニプラにまで上がってエネルギーレベルが上昇してポジティブになったのだと理解しています。その時は、エネルギーがアナハタ以上に上がろうとしてもアナハタに詰まっている何かがそれを遮っているような感覚がありました。アナハタにエネルギーが上がると記憶の奥底に眠っているネガティブが出てきてエネルギーの上昇を妨げており、アナハタにエネルギーが行くことは多少あったとはいえ基本的にはアナハタの手前でエネルギーが遮られていたように思います。
それが今回の第3回目のクンダリーニのよってその障害が取り払われ、アナハタまでエネルギーが通ったように思いますが、それは第2回目のような「熱」のエネルギーというよりは、それよりも「暖」というくらいの温度の違いを感じます。基本的には内的な温度の感覚で肉体的な体温ではないのですが、第2回目の後は熱っぽくてポカポカして暑いくらいだったのが、最近はそこまで暑くはありません。それを言葉で言い表すと「暖」とでも言えるでしょうか。場所としても、以前と違って胸のあたりを中心に「暖」があります。
■時系列
前回の形式で、今までの流れを時系列で記載しておきます。
今回のでコツがなんとなく掴めましたので、同様に竜巻を起こすことでシバナンダ先生がおっしゃるように何度もエネルギー上昇させることができるのかもしれません。そのうち気をつけながら少し試してみようかなとも思います。
具体的なやり方は、まず、体の腰の周囲に空気というかエネルギーをグルグルと回転させる。意識で手の平を動かすイメージ。体は実際には動かさないで手の平を動かすイメージだけ行います。イメージ上で手の平を腰の少し前方、腰の右、腰の後ろ、腰の左、と言う順番でスムーズにグルグルと回転させて空気というかエネルギーの渦を作ります。5回転くらいさせた後、イメージの手の平が腰の左から腰の前方に来たら次は手の平を胸の前を通って顔の前を通って頭上まで動かすイメージをして、その時、回転している空気の渦を手の平と一緒に上に上げるイメージをします。すると、何かスーーーっとした感覚が胸の中と背筋、頭の後頭部のあたりまで上がって体の中をすり抜けます。まあ、だからと言ってすぐ何かが変わるわけでもないですが、これは有名な瞑想法の「ソー・ハン」や「小周天」とかと似ている気がします。これを誰かにお勧めする訳ではないですけど、私が夢の中で起きたことを再現するとこんな感じです。
■ベジタリアンでないと感じにくい
上のようなイメージをした時に風のルンが体の中を通過する感覚は、少なくとも私の場合はベジタリアン食をしていないと感じにくいようです。私は今は完全にベジ食ではありませんがベジを意識した食事を取っており、ベジ食を続けていた時は感じやすかったのですが、たまにお肉を食べると体内エネルギーが乱されて感じにくくなるような気が致します。ものにもよるのかもしれませんが。肉体を持っていますのでベジ食だけですと栄養バランスを崩すと思いますので雑食を心がけてはいるのですが、少なくとも精神にとってはベジ食がいいような気が致します。
■呼吸がしやすくなりました
別記事で書きましたが、クンダリーニ(2回目)経験後から呼吸が浅くなり、クンバカが極端に苦手になっていました。同様に、以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカという自動的なクンバカ(息止め)が瞑想中や休憩中に普通に起こっていたのですが、クンダリーニ(2回目)以降はケヴァラ・クンバカも起こらなくなっていました。ケヴァラ・クンバカは落ち着いた静寂な心があると自動的に起こるとされています。ずっと息が止まっているわけではなくて、必要とあれば自動的に呼吸が再開されるような種類のものです。私の場合、ヨガを始めてしばらく経った後、ナーダ音が聞こえ始めた頃だったか、その前後くらいから心が落ち着いてきて自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起きていました。その後、クンダリーニ(2回目)によってパワーは向上してポジティブになったので心は基本的に落ち着いてはいるのですが、何故か呼吸だけは浅くなってケヴァラ・クンバカが起こらなくなったのです。
ですが、今日のこの経験後から急に呼吸が深くなり、クンバカもかなりしやすくなりました。まだ当日なのでケヴァラ・クンバカとまでは行きませんが、かなり呼吸が違うのを感じます。昨日までは、胸のあたりが詰まっていてそこに呼吸が入らない感じでしたが、今は胸いっぱいに息を吸う事ができます。こんな急に変わるものですね・・・。不思議です。
■息が浅いのは「何かが詰まっている」状態?
別記事に追記しましたように「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」の関係があるようで、第2回目クンダリーニではエネルギーが強まって息が相対的に浅くなってクンバカが短くなりましたが今回は器が大きくなって息が深くなってクンバカも長くなった感じです。
スピリチュアルでは息が浅い状態は「何かが詰まっている状態だから詰まりを取る必要がある」と言われていて、基本的な意味は「詰まっていなかったものが詰まってしまったから取り除く必要がある」ですが、それに加えて上記の計算式の「器」と「エネルギーの強さ」も加味して解釈すると「エネルギーが強まったので器が小さく感じるようになってしまったから器を大きくする必要がある」「エネルギーが強まったので今まで意識していなかった場所に詰まり(ブロック)があることが分かった(もともと詰まっていたが気付かなかった)。新たに判明した詰まり(ブロック)を外す必要がある」という意味にも解釈できそうです。それはまるで、気球に空気がちゃんと入っていなかったのに気付かなかった状態から改めて空気を入れてちゃんと膨らませて布が伸びること、あるいは、風船にちゃんと空気が入っていなかったのがもっと空気を入れることでゴムの端っこも伸びてハリが出るようになったようなもの、とでも言えるでしょうか。
■ケヴァラ・クンバカと背筋をまっすぐにする姿勢の関係
呼吸がしやすくなったのと同時に、再度、ケヴァラ・クンバカ(自動的に起こる息止め)も時々起こるようになりました。時には、起こりすぎて息がずっと止まってしまい、意識的に吸気をしてあげなくてはいけない時があって、そんなときは「面倒だなあ」と思うくらいになりました。でも、同じケヴァラ・クンバカでも自動的に無意識に吸気できている時もあって、意識的に吸気をしないといけない時とは何が違うのかなあ・・・と思っていたのです。観察したところ、どうやら背筋がまっすぐのときは呼吸が自然にできており、背筋が曲がっているとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないことに気付きました。瞑想や普段の生活で背筋をまっすぐにすることがこれほどまでに呼吸に影響するなんて、以前はそんなことありませんでした。敏感になったのでしょうか? このあたりは、ちょっと様子見です。それにしても、ヨガなどで「背筋をまっすぐ」という教えにこんな微細な影響があったなんて驚きです。てっきり、スシュムナを真っ直ぐにしてクンダリーニ等のエネルギーを通りやすくするくらいの意味なのかなと思っていました。それだけではなかったのですね。まあ、あくまでもそんな気がするだけですが。
■ケヴァラ・クンバカと「枕」の関係
寝る時もケヴァラ・クンバカが自動的に起こるのですが、枕をして上を向いて仰向けで寝ると、前に書いたのと同様、吸気がうまくできません。横になって背筋をまっすぐにすると吸気が問題ないのですが仰向けにするとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないのです。これは、第2回目クンダリーニ前に起きていたケヴァラ・クンバカのときは問題なくて、今回初めて問題になりました。一体どうしたものか・・・ と思ったのですが、試しに枕を取って布団の上にそのまま寝てみたところ吸気がうまくできるようになりました。枕をしていると少し猫背になってしまっていたのかもしれません。枕なしにすることで背筋がまっすぐになったのかもしれないです。今まで布団の上にそのまま寝ると調子が悪くなってしまっていたので枕なしで寝るのはあまりしたことがなく、せいぜい薄い枕を試すくらいだったのですが、どうやら今日のところは問題なさそうです。これもちょっと様子見ですね。過渡期だけの問題かもしれませんし。まだ数日なのでこれから様子を見ます。
■アナハタ・チャクラが開いた?
これがいわゆる「開いた」状態かどうかはわかりません。様子見です。前よりは胸に空気が入りやすくなりましたので、一応少し開いたと言えなくもないです。一気に開くというよりは徐々に動き出すようですから、最初はこのくらいでもいいのかもしれません。
■楽観的でポジティブであるべき
ヨーガの本山博先生は「密教ヨーガ」にて、サッチャナンダの言説を引用しつつ「アナハタの目覚めを志す人は、希望に満ちた楽天家であるべき。」 「一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の1つ」と述べています。
■アナハタ以上に至ればカルマに従わない
「密教ヨーガ(本山博著)」によると、マニプラまではカルマに影響されていますが、アナハタ以上に至った人は基本的にカルマには従わないと言います。アナハタに至ればカルマが現実であるのを知ってはいるが超越して自由でいられる、と言います。その点がマニプラまでとアナハタとの大きな違いとのことです。マニプラは情を司っており基本的にはカルマに支配されているものの意思の力でそれをコントロールすることができます。一方、アナハタになると基本的にカルマに束縛されないとのことです。
このことは、上記のように私が過去のトラウマに対して「〇〇を許します」と瞑想した時の感覚の違いに現れていると思います。先日の竜巻の経験の前では、過去のトラウマを思い出す度に多少ながら神経にショックが走っていました。このトラウマは子供の頃から蓄積されていたものであり、物によっては何十年も度々思い出してきたトラウマでした。ですから、なるべく思い出さないようにして、思い出したとしてもそのトラウマの反応を自分で律していました。なるべく早く気付いて律するのが基本でありました。最近は随分とトラウマのショックが小さくなってきたな、と思ってはいたのですが、それでもゼロではありませんでした。
それが、先日の竜巻の後は、トラウマのことを思い出してもショックが起こらないようになりました。ショックがゼロでした。しかも、全てのトラウマに対して。いくつもトラウマがあった筈ですが、ショックが起こらないのが不思議でしたので、試しにその他のトラウマも意識的に色々と思い出してみたところ、どれもショックが起こらなかったのです。確かに、ほとんどのトラウマは月日が経つにつれて段々と小さくなってはいましたがそれぞれのトラウマは多少ながら残っていましたので、先日の竜巻の後にその全てのトラウマに対して全く反応しなくなったのが不思議です。
まあ、ゼロとは言いましても、トラウマ的な記憶を思い出しても反応がゼロという意味で、トラウマの元になる記憶は残っていますので時折その記憶は奥底から浮かび上がってきます。その記憶の浮上は依然として時々ありますので、それはさほど変わりがありません。ただ、その記憶が浮かんだ時の反応がゼロになった、という意味です。でも、よく観察してみるとゼロは言い過ぎかもしれないと言う気もします。先日の竜巻の前後で10分の1以下になってほとんどゼロに近い、というくらいが正しいでしょうか。意図的にこのトラウマを呼び覚まそうとしない限りは特に問題ない程度にまで反応が下がった、というところでしょうか。
実はカルマというのはヨーガ的にはサムスカーラ(サンスカーラ)という微細な「印象」であって、印象がカルマとして輪廻転生に導きます。過去のトラウマがあるが故に同様の問題にも引き込まれますし、過去の喜びを覚えている、すなわち「印象」を覚えているからこそ未来の喜びを求めてカルマが発芽して新たな喜びや苦しみを生み出すわけですが、トラウマがなくなったということは、それはすなわち「印象」が消え去ったということであり、記憶はあるものの「印象」がなくなりましたので、少なくともトラウマに関するカルマはかなり解消されたのかな、と解釈しています。補足しますと、これはあくまでもトラウマに対してのことであって、他人に嫌なことをもし言われたら不愉快というほどでもないにせよ多少は面倒に感じると思います。でも、その程度です。
最初アナハタの説明を読んだときは「ふうん」と思っていたのですが、実際こうなってみると随分と状態が違うものだと思います。確かに、アナハタに関してはカルマを超える部分が多いにあるように思います。
そうは言いましても、思考のパターンと言いますか「癖」が多少は残っていますので、トラウマの反応はほとんどないにせよたまについネガティブに考えそうになることがなくはないです。そこは流石にまだ成長の途中のようです。そんなことがあったとしても以前より遥かにコントロールしやすくなっていますので、昔の思考パターンの癖が出そうになってもその度に「おっと、ネガティブ思考の癖が出てしまった。これも許します。これも許します。」と言ってあげることにしました。記憶はまだありますし癖もありますし思考パターンも割とそのままなのですが「印象」だけが消えてトラウマがほとんど消えただけなので、思考パターンの癖を戻すのはまだ続けないといけないようです。まあ、それだけでもかなりの進歩です。
ちなみに、第2回目のクンダリーニでは光の筋が2つ上がったのですが、その時はエネルギーの向上・生命力のアップが起こりまして、ネガティブも一時的にほとんど消えたのですがそれは生命力アップによるネガティブの解消でした。第2回目クンダリーニ経験の直後が最もエネルギーが高くてその後徐々に生命力が下がって行ったのですが、生命力が下がるにつれてネガティブが少し出てきていました(それでも昔より生命力が高いですしネガティブは少ないですが)。その、残っていたネガティブがこうして竜巻の経験を経ることによって更に劇的に減少した、というところです。
ちなみに、同書およびいくつかの書物、確かサッチャナンダの書物にも他のヨーガの書物にも書いてあるアナハタに関する有名な警告があります。
・アナハタを目覚めさせると思考に基づいて良いこと悪いこと全てが実現するので、ポジティブに考えるべきである。これが、「ポジティブに考えるべき」という事項に対する密教的な解釈のようです。
同書には、サッチャナンダによる別の警告も書いてあります。
・クンダリーニがマニプラまで上がり、その後下がってしまっても再度ヨーガ行などで上げることができる。しかし、一旦アナハタまで上昇してからネガティブな思考のためにムーラダーラまで下がってしまうと再び上昇させることは非常に困難。
■熱から暖へ
第2回目のクンダリーニではまさに「熱」を強く感じていました。その後、次第にその熱が下がってきており、私はそれがエネルギー低下と解釈していました。下がってきたと言ってもそれ以前よりはエネルギーレベルが高いのですが、それでも下がっている気がしていました。その根拠は主に「熱」を基準にしており、ポジティブさの度合いも判断基準でした。場所は、お腹のあたりを中心に熱がありました。
おそらく、この理解は確かにその通りでエネルギー低下もあったのだとは思いますが、変化はそれだけではなく、エネルギーの質が同時に「熱」から「暖」に変わったこともあるのだと最近は理解するようになりました。
「ヨガと冥想(内藤 景代 著)」には、ムーラダーラからマニプラまでは「熱」で、アナハタが「暖」で、ヴィシュッダからサハスララが「冷」と言う分類をしています。
まさにこれで、第2回目のクンダリーニは主にマニプラまでの経験だったように思います。ムーラダーラのクンダリーニが活性化し、それが主にマニプラにまで上がってエネルギーレベルが上昇してポジティブになったのだと理解しています。その時は、エネルギーがアナハタ以上に上がろうとしてもアナハタに詰まっている何かがそれを遮っているような感覚がありました。アナハタにエネルギーが上がると記憶の奥底に眠っているネガティブが出てきてエネルギーの上昇を妨げており、アナハタにエネルギーが行くことは多少あったとはいえ基本的にはアナハタの手前でエネルギーが遮られていたように思います。
それが今回の第3回目のクンダリーニのよってその障害が取り払われ、アナハタまでエネルギーが通ったように思いますが、それは第2回目のような「熱」のエネルギーというよりは、それよりも「暖」というくらいの温度の違いを感じます。基本的には内的な温度の感覚で肉体的な体温ではないのですが、第2回目の後は熱っぽくてポカポカして暑いくらいだったのが、最近はそこまで暑くはありません。それを言葉で言い表すと「暖」とでも言えるでしょうか。場所としても、以前と違って胸のあたりを中心に「暖」があります。
■時系列
前回の形式で、今までの流れを時系列で記載しておきます。
- 2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。
- 2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分
- 2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分
- 2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。
- 2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後
- 2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。
- 2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。
- 2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)
今回のでコツがなんとなく掴めましたので、同様に竜巻を起こすことでシバナンダ先生がおっしゃるように何度もエネルギー上昇させることができるのかもしれません。そのうち気をつけながら少し試してみようかなとも思います。
具体的なやり方は、まず、体の腰の周囲に空気というかエネルギーをグルグルと回転させる。意識で手の平を動かすイメージ。体は実際には動かさないで手の平を動かすイメージだけ行います。イメージ上で手の平を腰の少し前方、腰の右、腰の後ろ、腰の左、と言う順番でスムーズにグルグルと回転させて空気というかエネルギーの渦を作ります。5回転くらいさせた後、イメージの手の平が腰の左から腰の前方に来たら次は手の平を胸の前を通って顔の前を通って頭上まで動かすイメージをして、その時、回転している空気の渦を手の平と一緒に上に上げるイメージをします。すると、何かスーーーっとした感覚が胸の中と背筋、頭の後頭部のあたりまで上がって体の中をすり抜けます。まあ、だからと言ってすぐ何かが変わるわけでもないですが、これは有名な瞑想法の「ソー・ハン」や「小周天」とかと似ている気がします。これを誰かにお勧めする訳ではないですけど、私が夢の中で起きたことを再現するとこんな感じです。
■ベジタリアンでないと感じにくい
上のようなイメージをした時に風のルンが体の中を通過する感覚は、少なくとも私の場合はベジタリアン食をしていないと感じにくいようです。私は今は完全にベジ食ではありませんがベジを意識した食事を取っており、ベジ食を続けていた時は感じやすかったのですが、たまにお肉を食べると体内エネルギーが乱されて感じにくくなるような気が致します。ものにもよるのかもしれませんが。肉体を持っていますのでベジ食だけですと栄養バランスを崩すと思いますので雑食を心がけてはいるのですが、少なくとも精神にとってはベジ食がいいような気が致します。
アーランバ段階、アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」
[風のルンの竜巻の経験から3日後]
■アーランバ段階
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されているハタ・ヨガ・プラディーピカには以下のように記されています。
4-69) [ヨーガの四段階] アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。
4-70) [アーランバ段階] 梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、たえなる、さまざまな、装飾具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。
節とは体に3つあると言われているグランティ(結節)のことで、梵天の結節とはアナーハタ・チャクラのなかにある結節です。ヴィシュヌ・グランティについての考察を話したいのですが、基本的な説明をまずしたいと思います。そうしないと理解が難しいと思いますので。
■グランティ(結節、結び目)
グランティは3つあります。グランティとはエネルギーのブロックあるいはエネルギーが滞っている場所で、サンスクリットで「霊的な結び目」という意味です。ブロックが解かれることでエネルギーが通るようになります。そのことを「グランティを破る」とか「壊す」とか「突き破る」とか「解く」とか言ったりしますが、何かが壊れるのではなく、そのブロックが取り除かれることを意味します。
三つの結節の位置については諸説がある。尾てい骨、心臓、眉間の3所、或いは尾てい骨、ヘソ、ノドの三所、或いは胸部、ノド、眉間の3所
今回の「風のルンの竜巻」では喉に近い「うなじ下(大椎?)」にあるグランティが外れたと仮定すると、そこを何と呼ぶのかは微妙ですが、とりあえずはヴィシュヌ・グランティの結束が外れたと仮定しておきます。グランティは通説があるようでいてないので謎が多いです。
■アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」
上に引用した「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」の文章に戻りますが、「装飾具のふれ合う音」についてです。
私としては、私の状態が確実にこの段階かどうかはまだわかりませんが、似ている部分が見受けられます。私は前に書きましたように「シュルシュルシュルシュル」という音を風の音だと解釈し、エネルギーの流れ的にも竜巻のように感じましたので風の音かなとも思ったのですが、ここに記されている「装飾具のふれ合う音」と言えなくもないかな、とこれを読んで思いました。同書によると、この段階では気が満ちてきて博愛心などの高尚な素質が開発される、と書いてありますが、経験した直後の今としてはそれほど変化ありません。今後、そういう感じになってゆくのでしょうか。既にクンダリーニ1回目と2回目をしてかなりポジティブになりはしましたが、まだ有名人のナイチンゲールですとかマザーテレサなどに比べたら全然そんな博愛なんて私には足りてない気がしていますので、今後、そういう博愛精神が開発されてゆくのならばそれは楽しみです。私がこの段階かどうかまだ確証はないのですが。
■ヨーガの四段階とその時に聞こえるナーダ音
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に基づきますと以下のようになります。
■アーランバ段階の「装飾具のふれ合う音」
「装飾具のふれ合う音」と言うのかどうかはわかりませんが、最近私が聞こえているナーダ音は細かく波打っていて、装飾具の触れ合う音にはちょっと遠いのですが、無理して解釈すればそう言えなくもないです。少し前までは高周波の「ピー」と言う一定音だったのですが、高周波が最近は細かく波打っている感じです。高周波のままですがブーンと言う感じの波打った感じの高周波になっています。「ピー」の上に「ブーン」と言う波が乗っていると言いますか。紐が両側についていて引っ張って回転を速くしたり遅くしたりしてブンブン回して遊ぶおもちゃが出すような音が高周波の上に乗っかっています。まあ、様子見ですけれど。 同じ音を「ミンミンゼミの大合唱」と表現できなくもないです。以前もしばらくの間ミンミンゼミっぽい音が聞こえていたことがありますが、その時とは音の密度というかミンミンゼミの数が数倍は違う感じです。以前はミンミンゼミの音だけでしたが、今は基音と言いますか基本的なピーと言う音の上にミンミンゼミというかブーンという音が乗っています。以前はミンミンゼミの音の音量の上下というか振幅幅がとても大きかったのですが、今は基本的なピーという音がそれなりの音量でしていて、その上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという音が以前よりは小さな振幅幅の音で乗っかっています。昔の方がよほどミンミンゼミっぽかったです。ピーという高周波の上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという低い音というかザワザワザワというか、そんな音が乗っています。ザワザワって感じが「装飾具の触れ合う音」と言えなくもないですね。様子見です。ただ、この音は今回の竜巻の前後で変わったというわけではなくて、最近はこういう感じで聞こえている、というお話ですけど。むしろ、今回の竜巻の1ヶ月くらい前から当日くらいまでこういう風にザワザワが加わって聞こえていた、という方が正しいかもしれません。竜巻の後はむしろ高周波のみに戻ってきた感じです。ヴィシュヌ・グランティが破られ始めるとザワザワした音が聞こえて、破られるとその音は消える、とも推測できます。
■アーランバ段階
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されているハタ・ヨガ・プラディーピカには以下のように記されています。
4-69) [ヨーガの四段階] アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。
4-70) [アーランバ段階] 梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、たえなる、さまざまな、装飾具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。
節とは体に3つあると言われているグランティ(結節)のことで、梵天の結節とはアナーハタ・チャクラのなかにある結節です。ヴィシュヌ・グランティについての考察を話したいのですが、基本的な説明をまずしたいと思います。そうしないと理解が難しいと思いますので。
■グランティ(結節、結び目)
グランティは3つあります。グランティとはエネルギーのブロックあるいはエネルギーが滞っている場所で、サンスクリットで「霊的な結び目」という意味です。ブロックが解かれることでエネルギーが通るようになります。そのことを「グランティを破る」とか「壊す」とか「突き破る」とか「解く」とか言ったりしますが、何かが壊れるのではなく、そのブロックが取り除かれることを意味します。
- ブラフマ・グランティ 通説ではムーラダーラ・チャクラの中にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」によると、このグランティが解かれるとクンダリーニが覚醒するとのことです。ムーラダーラがどこにあるのかは時代によって変わってきたようです。現代での通説はムーラダーラは会陰(男女で若干違う)にあります。ちょっと前の時代に書かれた神智学系の「チャクラ」(C.W.リードビーター著)には、ムーラダーラは仙骨だと記されています。どこかの文献によると、「古代においてはクンダリーニはスワディスタナ・チャクラに眠っていて、その後、ムーラダーラに移動した」と読んだ記憶があるのですが、私はずっとこのことを文字通り解釈していて、時代を経るにつれて人間が変化して、クンダリーニの居場所が文字通り変わったのだと理解しておりましたが、今思えば、真理がそんなに変わるわけもありませんね。これは誤訳かあるいは伝言ミスで、ただ単に、同じ場所を違う名前で言うようになった、と推測すれば筋は通ります。ヨーガの方が歴史が古そうなのに「昔はムーラダーラ」と言うのはよくわかりませんが、著者にとっての昔がムーラダーラと呼ばれていたのかもしれません。クンダリーニの眠る場所は仙骨あるいは尾骨のあたりであることは私の経験上、そうなんだなと思います。スワディスタナ・チャクラがどこにあるかと言うのは「密教ヨーガ(本山博著)」によると仙骨あるいは尾骨のあたりであり、多くのヨーガ行者はこの場所だとしているようですが、スピリチュアル系では違う場所を言っているのも散見されます。ヨーガ的には古代のムーラダーラである現代のスワディスタナにクンダリーニが眠っていて、グランディもそこにある、と解釈するのが良さそうです。ただし、これは私の個人的な解釈ですので、一般的にブラフマ・グランティはムーラダーラの中に眠っていてムーラダーラは会陰ですので、このことを誰かに言っても理解されにくいとは思います。私も他所ではあまりこんなこと言わないと思います。私の個人的な解釈です。
- ヴィシュヌ・グランティ 通説ではアナハタ・チャクラの中にあります。どこかの書籍では「マニプラとアナハタの間にある」とも書かれてあったかと思いますが、通説はアナハタの中です。さて、ようやく本題。ヴィシュヌ・グランティの場所は通説ではアナハタ・チャクラですが、グランティ(結び目)が解ける時に熱が発生して血液が強く脈打つ、と言うのが私の(勝手な)解釈です。これはどの書物にも書かれてありませんので推測になりますが、熱が発生して血液が脈打つ場所がグランティであるとすれば、ヴィシュヌ・グランティは「(背筋の)うなじ下(大椎?)」にあると解釈できます。ここは、先日引用したチャクラの図で言うとマニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの合流地点であり、どこかの書籍で読んだ「マニプラとアナハタの間にある」と言うのも、あながち間違いではありません。通説の「アナハタの中にある」と言うお話も、場所的に近いので、それほど間違いでもありません。アナハタの場所はハートなのはそうだとは思いますが、うなじ下そのものがアナハタではないとは思いますので、通説の「アナハタの中にある」と言うよりは、体感そのままに「ヴィシュヌ・グランティは(背筋の)うなじ下にある」と解釈することもできます。もちろん、他所でこんなこと言わないですけどね。仮定です。→ 後で思い直せば、どうもしっくりきません。ちょっと保留です。
- ルドラ・グランティ 通説ではアジナ・チャクラの中にあります。これはまだ未体験です。
三つの結節の位置については諸説がある。尾てい骨、心臓、眉間の3所、或いは尾てい骨、ヘソ、ノドの三所、或いは胸部、ノド、眉間の3所
今回の「風のルンの竜巻」では喉に近い「うなじ下(大椎?)」にあるグランティが外れたと仮定すると、そこを何と呼ぶのかは微妙ですが、とりあえずはヴィシュヌ・グランティの結束が外れたと仮定しておきます。グランティは通説があるようでいてないので謎が多いです。
■アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」
上に引用した「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」の文章に戻りますが、「装飾具のふれ合う音」についてです。
私としては、私の状態が確実にこの段階かどうかはまだわかりませんが、似ている部分が見受けられます。私は前に書きましたように「シュルシュルシュルシュル」という音を風の音だと解釈し、エネルギーの流れ的にも竜巻のように感じましたので風の音かなとも思ったのですが、ここに記されている「装飾具のふれ合う音」と言えなくもないかな、とこれを読んで思いました。同書によると、この段階では気が満ちてきて博愛心などの高尚な素質が開発される、と書いてありますが、経験した直後の今としてはそれほど変化ありません。今後、そういう感じになってゆくのでしょうか。既にクンダリーニ1回目と2回目をしてかなりポジティブになりはしましたが、まだ有名人のナイチンゲールですとかマザーテレサなどに比べたら全然そんな博愛なんて私には足りてない気がしていますので、今後、そういう博愛精神が開発されてゆくのならばそれは楽しみです。私がこの段階かどうかまだ確証はないのですが。
■ヨーガの四段階とその時に聞こえるナーダ音
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に基づきますと以下のようになります。
- アーランバ段階 ヴィシュヌ・グランティが解けた状態。アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」が聞こえる。
- ガタ段階 ヴィシュッダ・チャクラが活性化。「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とが喉のチャクラの空処で起る」
- パリチャヤ段階 アジナ・チャクラが活性化。「眉と眉の間にマルダラ(鼓の一種)の音のような音がはっきりと知覚される。」
- ニシバティ段階 ルドラ・グランティ(結節)が破られた状態。「フルートの音やヴィーナーと弾ずるような音が聞こえる」ラージャ・ヨガと呼ばれる。
■アーランバ段階の「装飾具のふれ合う音」
「装飾具のふれ合う音」と言うのかどうかはわかりませんが、最近私が聞こえているナーダ音は細かく波打っていて、装飾具の触れ合う音にはちょっと遠いのですが、無理して解釈すればそう言えなくもないです。少し前までは高周波の「ピー」と言う一定音だったのですが、高周波が最近は細かく波打っている感じです。高周波のままですがブーンと言う感じの波打った感じの高周波になっています。「ピー」の上に「ブーン」と言う波が乗っていると言いますか。紐が両側についていて引っ張って回転を速くしたり遅くしたりしてブンブン回して遊ぶおもちゃが出すような音が高周波の上に乗っかっています。まあ、様子見ですけれど。 同じ音を「ミンミンゼミの大合唱」と表現できなくもないです。以前もしばらくの間ミンミンゼミっぽい音が聞こえていたことがありますが、その時とは音の密度というかミンミンゼミの数が数倍は違う感じです。以前はミンミンゼミの音だけでしたが、今は基音と言いますか基本的なピーと言う音の上にミンミンゼミというかブーンという音が乗っています。以前はミンミンゼミの音の音量の上下というか振幅幅がとても大きかったのですが、今は基本的なピーという音がそれなりの音量でしていて、その上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという音が以前よりは小さな振幅幅の音で乗っかっています。昔の方がよほどミンミンゼミっぽかったです。ピーという高周波の上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという低い音というかザワザワザワというか、そんな音が乗っています。ザワザワって感じが「装飾具の触れ合う音」と言えなくもないですね。様子見です。ただ、この音は今回の竜巻の前後で変わったというわけではなくて、最近はこういう感じで聞こえている、というお話ですけど。むしろ、今回の竜巻の1ヶ月くらい前から当日くらいまでこういう風にザワザワが加わって聞こえていた、という方が正しいかもしれません。竜巻の後はむしろ高周波のみに戻ってきた感じです。ヴィシュヌ・グランティが破られ始めるとザワザワした音が聞こえて、破られるとその音は消える、とも推測できます。
ガタ段階の「太鼓」と血液の脈動音。瞑想の質の変化
[風のルンの竜巻の経験から4日後]
■ガタ段階の「太鼓の音のような音」
その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。以前記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。
その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下(大椎?)」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。
この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。
・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。
■瞑想の質の変化
竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。
この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。
これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。
となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?
以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。
と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。
■シャクティ・チャーラナ・ムドラー
竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。
これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。
■うなじ下(大椎?)と「エネルギーの漏電」
シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下(大椎?)が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。
■ガタ段階の「太鼓の音のような音」
その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。以前記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。
その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下(大椎?)」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。
この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。
・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。
■瞑想の質の変化
竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。
この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。
これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。
となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?
- プラティヤハーラ 雑念を受け流す努力をしている段階。(私見では)この段階でも時々第一禅定(思考が残っている集中状態)や第二禅定(いわゆる無の状態)に至る。(私見では)いわゆるゾーン(ZONE)による集中力向上&判断力向上もここ(これ以上集中してしまうと思考も止まってしまうためここが限界)。マニプラ・チャクラが優勢。(関連記事を昔書きました)
- ダーラナ (私見では)第一禅定の安定化、第二禅定の深まり。アナハタ・チャクラが優勢。ヴィシュッダ・チャクラも活性化。一般的にはこれは「集中」の意味。
- ディヤーナ おそらくはアジナ・チャクラが優勢(未体験)。一般的にはこれは「瞑想」の意味。
- サマーディ 定説ではこれだけが禅定および三昧。おそらくはサハスララ・チャクラが優勢(未体験)
以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。
- 原始仏教の第一禅定 プラティヤハーラ熟練度50%、ダーラナ熟練度20%、ディヤーナ熟練度10%、サマーディ熟練度5%
- 原始仏教の第二禅定 プラティヤハーラ熟練度80%、ダーラナ熟練度50%、ディヤーナ熟練度30%、サマーディ熟練度20%
- 原始仏教の第三禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度80%、ディヤーナ熟練度50%、サマーディ熟練度30%
- 原始仏教の第四禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度100%、ディヤーナ熟練度80%、サマーディ熟練度50%
と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。
■シャクティ・チャーラナ・ムドラー
竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。
これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。
■うなじ下(大椎?)と「エネルギーの漏電」
シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下(大椎?)が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。
統合されたチャクラと「半歩」(グランティ相当)
[風のルンの竜巻の経験から5日後]
■フラワー・オブ・ライフに基づくグランティの解釈
スピリチュアル系の「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」では、おそらくグランティに相当するものを「半歩」として紹介しています。それは2つあって、「マニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラの間」と、「アジナ・チャクラとサハスララ・チャクラの間」にそれぞれ存在しています。「ひとたびエネルギーがこの半歩(マニプラとアナハタの間)を発見し、そこを通過すると、(エネルギーが)心臓や喉や脳下垂体、松果体に流れて行きます。そしてまた新たな壁または半歩に突き当たり、流れが止められます。今度の壁(半歩)は後頭部と脳下垂体の間にあります。」とのことです。又、興味深い記述としては、ハート・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの間で同書の言うところの「虚空(Void, ボイド)」を通過して極性が 「女性」から「男性」に変わるとの記述があります。ムーラダーラから女性のエネルギーが入ってきてアナハタまでは女性で、その次に「虚空(Void, ボイド)」を通過してヴィシュッダ以降に男性の極性に変わります。位置的に「虚空(Void, ボイド)」および「極性の変換」と「うなじ下(大椎?)」は何か関係があるのかもしれませんので気になりますが答えは同書にはなさそうです。
同書の解釈に基づいて私の内的感覚を解釈すると、該当箇所のグランティそのものの感覚はないのですが、2回目のクンダリーニ経験の後はマニプラでエネルギーが止まっていてそれ以上になかなかエネルギーが上がっていかない感覚がありましたので、マニプラとアナハタの間にグランティと言いますか「壁(半歩)」があると言うのは納得できます。これは言い方の問題で、通説のように「アナハタの中にある」と言ってもさほど違いはないのかもしれませんが、以前はアナハタの感覚があまりなかったのに対して今は感覚がありますので、「アナハタの中」にあるとすればグランティが破れる前であってもアナハタの感覚があっても良さそうです。であれば、マニプラとアナハタの間にあるとする方がしっくりきます。
同書によれば、スピリチュアル的に成長するまではマニプラまでで人生を過ごし、「壁(半歩)」を超えるとアナハタ〜アジナの霊的生活を送るようになる、と言います。確かに、よく書物で見るように1つづつチャクラが進むと言う説明文は内的感覚と比べて違和感がありましたが、このように、セットで段階を進むと言う方がしっくりきます。チャクラと「壁(半歩)」の関係を踏まえて「壁(半歩)」を超えると大きく霊的に成長するとする同書の主張は現実に合っている気がします。
■統合されたチャクラ
そう言えば「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」や「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にも「チャクラは1つづつ発達するのではない」と言う説明がありましたね。こちらには「壁(半歩)」の説明はあまりなくて、グランティの説明として、グランティを破らなければ霊的成長はない、と言うような説明だったと思います。こちらの書物では「チャクラは1つづつ発達するのではなく全てのチャクラが融合して働く」と記載してあったと思います。確かにそれは「壁(半歩)」を超えた後ではそうなのかなと思いますし、第2回目クンダリーニ経験してしばらくはそんな気がしていましたが、やはり基本はこの「壁(半歩)」は存在していますし、いくら第2回目クンダリーニで多少のエネルギーが壁(半歩)を超えて上がったような気がしていても、やはり今回改めてきちんと「壁(半歩)」を超えるまではちゃんとは超えていなかったのかな、と言う気がしています。この、チャクラが連携というか統合して全てが大きなチャクラになることとグランティや壁(半歩)の関係は、体験して見るまではなかなかピンときていませんでしたが、今はまあ、たぶんこんな感じだなというのがわかりますが、なかなか説明が難しいところがあります。
別のスピリチュアル系の書物「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)になるとハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になり、やがて他のチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが溶け合って「統合されたチャクラ」と呼ぶものになるとのことです。尚、同レベルでは松果体と脳下垂体が開き出すとありますので、上記の書物の記載とも段階的に整合性があるような気がします。おそらくは同じ段階を違う表現をしているだけなのかなと思います。ヨーガ的で言うところのヴィシュヌ・グランティを超えてハート・チャクラ(アナハタ)が開き出した段階を、スピリチュアル的に表現しているようです。それぞれの視点があって参考になります。
第2回目のクンダリーニ後はお腹のあたりが中心に熱を帯びて体がポカポカしていたのですが、その時もこの「統合されたチャクラ」と言おうと思えば確かにそんな感じに言えなくもないような、体全体が包まれて全体がチャクラ化しているような、どこがチャクラかよくわからないくらい体全体が活性化された状態になっていたのですが、それはマニプラ中心の体全体のポカポカであって、それは「ライトボディの目覚め」で言うところの「統合されたチャクラ」とは違って、同書における「統合されたチャクラ」はその次の段階の、アナハタ(ハート)チャクラによって統合されたチャクラの状態を言うのだと思います。
■フラワー・オブ・ライフに基づくグランティの解釈
スピリチュアル系の「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」では、おそらくグランティに相当するものを「半歩」として紹介しています。それは2つあって、「マニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラの間」と、「アジナ・チャクラとサハスララ・チャクラの間」にそれぞれ存在しています。「ひとたびエネルギーがこの半歩(マニプラとアナハタの間)を発見し、そこを通過すると、(エネルギーが)心臓や喉や脳下垂体、松果体に流れて行きます。そしてまた新たな壁または半歩に突き当たり、流れが止められます。今度の壁(半歩)は後頭部と脳下垂体の間にあります。」とのことです。又、興味深い記述としては、ハート・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの間で同書の言うところの「虚空(Void, ボイド)」を通過して極性が 「女性」から「男性」に変わるとの記述があります。ムーラダーラから女性のエネルギーが入ってきてアナハタまでは女性で、その次に「虚空(Void, ボイド)」を通過してヴィシュッダ以降に男性の極性に変わります。位置的に「虚空(Void, ボイド)」および「極性の変換」と「うなじ下(大椎?)」は何か関係があるのかもしれませんので気になりますが答えは同書にはなさそうです。
同書の解釈に基づいて私の内的感覚を解釈すると、該当箇所のグランティそのものの感覚はないのですが、2回目のクンダリーニ経験の後はマニプラでエネルギーが止まっていてそれ以上になかなかエネルギーが上がっていかない感覚がありましたので、マニプラとアナハタの間にグランティと言いますか「壁(半歩)」があると言うのは納得できます。これは言い方の問題で、通説のように「アナハタの中にある」と言ってもさほど違いはないのかもしれませんが、以前はアナハタの感覚があまりなかったのに対して今は感覚がありますので、「アナハタの中」にあるとすればグランティが破れる前であってもアナハタの感覚があっても良さそうです。であれば、マニプラとアナハタの間にあるとする方がしっくりきます。
同書によれば、スピリチュアル的に成長するまではマニプラまでで人生を過ごし、「壁(半歩)」を超えるとアナハタ〜アジナの霊的生活を送るようになる、と言います。確かに、よく書物で見るように1つづつチャクラが進むと言う説明文は内的感覚と比べて違和感がありましたが、このように、セットで段階を進むと言う方がしっくりきます。チャクラと「壁(半歩)」の関係を踏まえて「壁(半歩)」を超えると大きく霊的に成長するとする同書の主張は現実に合っている気がします。
■統合されたチャクラ
そう言えば「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」や「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にも「チャクラは1つづつ発達するのではない」と言う説明がありましたね。こちらには「壁(半歩)」の説明はあまりなくて、グランティの説明として、グランティを破らなければ霊的成長はない、と言うような説明だったと思います。こちらの書物では「チャクラは1つづつ発達するのではなく全てのチャクラが融合して働く」と記載してあったと思います。確かにそれは「壁(半歩)」を超えた後ではそうなのかなと思いますし、第2回目クンダリーニ経験してしばらくはそんな気がしていましたが、やはり基本はこの「壁(半歩)」は存在していますし、いくら第2回目クンダリーニで多少のエネルギーが壁(半歩)を超えて上がったような気がしていても、やはり今回改めてきちんと「壁(半歩)」を超えるまではちゃんとは超えていなかったのかな、と言う気がしています。この、チャクラが連携というか統合して全てが大きなチャクラになることとグランティや壁(半歩)の関係は、体験して見るまではなかなかピンときていませんでしたが、今はまあ、たぶんこんな感じだなというのがわかりますが、なかなか説明が難しいところがあります。
別のスピリチュアル系の書物「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)になるとハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になり、やがて他のチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが溶け合って「統合されたチャクラ」と呼ぶものになるとのことです。尚、同レベルでは松果体と脳下垂体が開き出すとありますので、上記の書物の記載とも段階的に整合性があるような気がします。おそらくは同じ段階を違う表現をしているだけなのかなと思います。ヨーガ的で言うところのヴィシュヌ・グランティを超えてハート・チャクラ(アナハタ)が開き出した段階を、スピリチュアル的に表現しているようです。それぞれの視点があって参考になります。
第2回目のクンダリーニ後はお腹のあたりが中心に熱を帯びて体がポカポカしていたのですが、その時もこの「統合されたチャクラ」と言おうと思えば確かにそんな感じに言えなくもないような、体全体が包まれて全体がチャクラ化しているような、どこがチャクラかよくわからないくらい体全体が活性化された状態になっていたのですが、それはマニプラ中心の体全体のポカポカであって、それは「ライトボディの目覚め」で言うところの「統合されたチャクラ」とは違って、同書における「統合されたチャクラ」はその次の段階の、アナハタ(ハート)チャクラによって統合されたチャクラの状態を言うのだと思います。
マニプラからアナハタへ。「好き」の感覚。性欲の昇華。
[風のルンの竜巻の経験から6日後]
■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ
上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。
■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。
感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。
第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。
■性的欲求の違い
前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。 数値で書くと以下のようになります。
第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。
今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。
■目に見えない自分の体から異物を取り除く
そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。
■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ
上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。
■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。
感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。
第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。
■性的欲求の違い
前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。 数値で書くと以下のようになります。
- ヨガを始める前は性欲150で制御が困難な状態
- ヨガを初めて性欲がコントロールしやすくなる。性欲100、その後少しずつ低下
- 第2回目クンダリーニで性欲10へ
- 今回の竜巻の経験で性欲1へ
第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。
今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。
■目に見えない自分の体から異物を取り除く
そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。
瞑想の深まり。ディヤーナへ?
[風のルンの竜巻の経験から7日後]
■瞑想の深まり。ディヤーナへ?
上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。
何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、前に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下(大椎?)」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。
そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。
ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。
■脈拍の場所が頭の下の方に移動
1週間経ちましたが、前に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下(大椎?)」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。
■瞑想の深まり。ディヤーナへ?
上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。
何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、前に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下(大椎?)」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。
そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。
ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。
■脈拍の場所が頭の下の方に移動
1週間経ちましたが、前に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下(大椎?)」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。
グランティ(半歩、壁、結節)は壊さずに調整弁として活用
[風のルンの竜巻の経験から8日後]
■グランティ(半歩、壁、結節)は調整弁
瞑想中、グランティは調整弁であると言うイメージが降りてきました。瞑想中のお話なのでこれまた根拠はなくておいおい聖典で確認していきたいですが、そのインスピレーションによると、それは調整弁であるから基本的な機能はオーラをその範囲に留めておくことで、上(アナハタ〜アジナ)のオーラはその中で混じり合い、下(ムーラダーラ〜マニプラ)のオーラはその中で交じり合うのが基本のようです。その上で、上(アナハタなど)で発生した低い波動のオーラは自動的にヴィシュヌ・グランティ(アナハタとマニプラの間)を通って下(ムーラダーラ〜マニプラ)に抜けるし、逆に、下で発生した軽いエネルギーはヴィシュヌ・グランティを通って上に行く。このことで、それぞれの場所に適したオーラを保ちつつも調整弁がフィルターの役割を果たしてそれぞれのエリアに適したオーラの純度が高まってゆくのだと思います。ですから、この調整弁がないとオーラが上下で混ざってしまってそれぞれに適した波動を「練る」あるいは「保つ」のが難しくなるのかな、と言うのが瞑想で得た理解です。
ハタヨガではグランティ(結節)を「破壊」あるいは「解く」するのが基本となっていますし、西洋ではキリスト教の神秘主義の流派やいわゆる魔法と呼ばれているものを扱う秘術の流派は同様にこのグランティを「破壊」するのを基本としていますが、それは時に「アナハタ・ショック」とも言われる衝撃を胸に与えることになります。その結果、場合によってはオーラが混ざってしまうので荒いオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)から上(アナハタ〜アジナ)にそのまま登ってしまえば意識がおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。逆に、上(アナハタ〜アジナ)のオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)に下がってしまえば本来は高度な神秘のエネルギーが程度の低い欲求やカルマと結びついて一見奇跡的ではあるけれども高度な理解や精神性に基づいていない神秘を作り出し、最終的には心身共に疲れ果てて自分も周囲にも破壊的な結果をもたらすであろうことが理解できます。
最近のスピリチュアルではこの種のグランティの破壊あるいは解くことはあまり重要視されていないと言いますか、ほとんど言及がないような気が致します。これは、グランティは本来「破壊」「解く」ものではなくそのまま利用するものではないか、と言うのが今回の瞑想における理解です。その理解は、私の今回の竜巻の経験の後の状態を観察したことによる考察も含んでいます。
それとは別に、ヨガで言うところのナディ(エネルギーのルート)が詰まっているのならば詰まりを取らなければいけない、と言うのは似ているようでいてちょっと違うお話かなと思います。確かに、調整弁でありますから構造が複雑でそこは詰まりやすいのではありますが、構造が複雑であるからこそ慎重に掃除やメンテナンスをしなければならないのであって、調整弁が錆び付いていて固まっているからと言って調整弁を丸ごと壊して通過してしまうのは乱暴なのかなと思います。
まあ、こんな解釈はどこにも見たことがありませんので、私はここにメモ的に書くだけで、わざわざ他所で言ったりしませんけどね。
■ハタヨガではグランティを破壊するのに「バストリカ」呼吸法を使う
ハタ・ヨガ・プラディーピカには、「グランティを破壊するにはバストリカしかない」と記載されています。バストリカは危険な呼吸法と言われており、流派によっては「経験豊富なグルが監視している時以外は、一人でバストリカを行なってはいけない」とされていたりします。これも、上記のことを考えれば当然なのかなと思います。本来は機能すべき調整弁を壊して神秘的な成長(?)のために活用するのですから、普通ではないことをするのであればその行法に精通したグルがいないとおかしくなるのも当然かなと思います。
■胸のエネルギーの高まり
竜巻の8日後(2019年7月13日)、横になって休んでいたらムーラダーラの会陰がピリビリし初めて、何か電気の塊が下から入ってきたかと思えばゆっくり背筋を通って胸まで上がりました。上がる途中、細い管を無理やり広げながら通っている感じで、ちょっと圧迫感がありました。アナハタあたりで止まりましたが、その後、胸や上腕および頭の下半分がとてもポカポカするようになりました。何でしょう、これ。以前は似たようなポカポカが下腹部あたりでずっとありましたが、今は似たようなポカポカが胸であります。熱と言うほどではなりませんが、竜巻の経験の後の「暖」よりはちょっとだけ「熱」に近い感じです。第2回クンダリーニの後の熱と竜巻の後の「暖」を足して2で割ったくらいの中間的なポカポカでしょうか。
■喉のガラガラ感が薄れました
竜巻の前も、事あるごとに喉がガラガラする詰まったような感覚が度々あって、恐らくは私はヴィシュッダが弱いのだとは思いますが、特に竜巻の後はずっとガラガラする詰まったような感覚が続いていたのですが、竜巻の8日後(2019年7月13日)の瞑想中に喉の感覚が変わって、喉が弾力のある肌に変わって乾燥っぽいガラガラ感が減って随分と楽になりました。これでヴィシュッダが優勢になったわけでもなさそうですが今まで弱かったのが多少ながら普通にまで回復してきた感じです。
■クンダリーニを「上げる」時間軸とその範囲
ハタ・ヨガ・プラディーピカなどヨーガの聖典ではクンダリーニを「上げる」ことを重視していますが、その時間軸と上げる範囲が流派によって異なる気がしてきました。要点は以下でしょうか。
・グランティを破壊するのか、残して活用するのか
・クンダリーニを上げる時間軸はどのくらいか
・クンダリーニを上げる幅は、どこからどこまでか
ハタヨガ系は「グランティは破壊する」「クンダリーニを上げる時間軸は数十分〜数時間」「クンダリーニを上げる幅は、ムーラダーラから上げられるところまで。アジナやサハスララを目指してサハスララから上にクンダリーニを逃す」と言う感じでしょうか。古典的なキリスト教神秘主義の流派や魔法などの流派もヨーガを学んでいますので実際はこの辺りは割と似通っている気がいたします。一方、一部のスピリチュアル系(神智学系も?)は「グランティは破壊しない」「クンダリーニを上げる時間軸は数ヶ月〜数年」「クンダリーニがムーラダーラ〜マニプラにある段階と、アナハタ以上にある段階に分ける」と言うように特徴が違う気が致します。これは、流派によってかなりバリエーションがあると思いますので必ずしもこの通りとは限りませんが、大体の方向性はこんな感じかなと思っております。
■流儀と情緒不安定
ハタヨガ系のヨーギは、素晴らしい方もいらっしゃいますが怒りの沸点が低い方も散見されます。これを上記のグランティの視点から考えますと、グランティを破壊してしまうと情緒を司るマニプラと高度な意識であるアナハタとが混ざってしまって情緒不安定になるのも当然かなと言う気が致します。グランティが破壊されていますとムーラダーラの低いエネルギーがアジナの方にまで流れてしまいますので、意識が成長していない状態でもムーラダーラのエネルギーがアジナまで流れるのでそれでもアジナの力は出せるのかもしれませんが、エネルギー的にムーラダーラとアジナとは調和しませんのでムーラダーラのエネルギーでアジナを使うとおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。同様に、アジナやアナハタの高いエネルギーがマニプラに流れ込んで霊的な能力であるとか呪術などに応用して一見すると奇跡のようなことを起こせるかもしれませんが、その結果はやはり情緒不安定なのかなと思います。
であれば、グランティは破壊せずに、呪術や魔術なども求めずに、清正と基本に忠実にそれぞれの段階に応じた精神修行をしてゆくのが一番いいのかなと思います。
■「ムーラダーラとアジナは直結している」の謎は解けた?
有名なスワミ・サッチャナンダの説明が「密教ヨーガ(本山博著)」に掲載されていますが、それによると「ムーラダーラはアジナと直結している」と言います。これは、主要ナディであるスシュムナ・イダ・ピンガラが直結しているからと説明がありますが、そうであれば他のチャクラも直結しているので、なぜムーラダーラとアジナだけが特別なのかと疑問であり、この説明には納得がいきませんでした。実際、第2回クンダリーニが起こってムーラダーラが活性化してもアジナが活性化したように私は思えませんでした。スワミ・サッチャナンダの説明に基づけば、アジナ・チャクラを目覚ますためにムーラダーラをまず目覚めさせると言います。今思うのは、これはバストリカ等でグランティを破壊しているヨーギにのみ適用可能な方法なのかなと想像しております。確証はありませんけど。グランティが破壊されていればムーラダーラのエネルギーがアジナまでおそらくそのまま通じますのでムーラダーラを目覚めさせることがアジナの目覚めの行法にそのまま通じるのだと想像できます。であれば、グランティを破壊していなければいくらムーラダーラを活性化してもアジナの目覚めには繋がらないのも納得です。
実際、いまアナハタが活性化した状態にあってはエネルギーはムーラダーラ優勢ではなくアナハタ優勢ですので、アナハタとアジナは近いので、わざわざムーラダーラを活性化させる必要があるようには思えません。まあ、私はアジナはまだ動き出していないので今のところは仮定でしかないのですが。
■クンダリーニの居処
基本的にはクンダリーニの居所は背骨の一番下、尾骶骨のあたりに眠っていますが、どうやらクンダリーニが目覚めた後は居所それ自体が移動することもあるようです。このあたりは秘技のようなので書物では詳しくは述べられていませんが、「チャクラ」(C.W.リードビーター著)の以下の記述からこの辺りが読み取れます。
瞑想を終わるときには、クンダリニーをムーラダーラへと戻す。ただし、ある場合には、心臓のチャクラに戻す。そこで、クンダリニーの部屋とよばれる場所に入れるのである。クンダリーニは臍のチャクラにあると記した文献もあるが、ふつうの人では、クンダリニーはここには見られない。これは、既にクンダリニーを目覚めさせた人たちのことを言っているのであって、このチャクラの中に「蛇の火」のエネルギーが貯えられていることを言っているのであろう。
これ以上の説明はありませんが、これだけでもかなりの情報が読み取れます。
・普通(クンダリーニをまだ目覚めさせていない人の場合)はクンダリーニは尾骶骨に眠っている
・クンダリーニを目覚めさせた後は、クンダリーニは次第に尾骶骨からマニプラに向かって移動して、そこを居所とする(と私は解釈する)
・クンダリーニの居所は更に上昇し、(ヴィシュヌ・グランティを超えた後は)アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)に移動してそこを居所とする(と私は解釈する)
ここで言う「そこを居所とする」とは、瞑想中やヨーガ行法中だけでなく普段の生活においても24時間常にそこにエネルギーが居続けると言う意味です。クンダリーニのエネルギーが行法中は意識で移動することがあるとしても、基本は上記の場所にエネルギーが居続けると言う意味です。ただし、これは恐らくは流派によっても違うのかなと思います。グランティを破壊してしまった場合はこうはならずに常にムーラダーラやマニプラあたりに居留まる気もしますが、私はグランティ「破壊」は体験していないのでただの仮定です。
■グランティは「破壊」? 結束を「解く」?
私はヨガをしていますのでこれからバストリカとかも練習する機会がある気がしますが、ここまで理解してしまったならば、バストリカ等で今更グランティを「破壊」しようとは私は思わないです。一応、課題が与えられたら練習するとは思いますが・・・。
昔は聖典を読んでグランティ破壊(結束を解く)ことを「へえ」と思っていたのですが、これまた聖典の難しいところで、もしかしたら原典の意味は文字通り「結束を解く」ことなのかもしれないですね。それを、後の人が間違って解釈して「破壊」だと解釈してしまった。そうとも想像できますけど、昔のことですので想像でしかありません。
もしかしたら、間違って破壊してしまわないようにグルが監視するのかもしれません。流派次第なのかもしれませんが。
■グランティ(半歩、壁、結節)は調整弁
瞑想中、グランティは調整弁であると言うイメージが降りてきました。瞑想中のお話なのでこれまた根拠はなくておいおい聖典で確認していきたいですが、そのインスピレーションによると、それは調整弁であるから基本的な機能はオーラをその範囲に留めておくことで、上(アナハタ〜アジナ)のオーラはその中で混じり合い、下(ムーラダーラ〜マニプラ)のオーラはその中で交じり合うのが基本のようです。その上で、上(アナハタなど)で発生した低い波動のオーラは自動的にヴィシュヌ・グランティ(アナハタとマニプラの間)を通って下(ムーラダーラ〜マニプラ)に抜けるし、逆に、下で発生した軽いエネルギーはヴィシュヌ・グランティを通って上に行く。このことで、それぞれの場所に適したオーラを保ちつつも調整弁がフィルターの役割を果たしてそれぞれのエリアに適したオーラの純度が高まってゆくのだと思います。ですから、この調整弁がないとオーラが上下で混ざってしまってそれぞれに適した波動を「練る」あるいは「保つ」のが難しくなるのかな、と言うのが瞑想で得た理解です。
ハタヨガではグランティ(結節)を「破壊」あるいは「解く」するのが基本となっていますし、西洋ではキリスト教の神秘主義の流派やいわゆる魔法と呼ばれているものを扱う秘術の流派は同様にこのグランティを「破壊」するのを基本としていますが、それは時に「アナハタ・ショック」とも言われる衝撃を胸に与えることになります。その結果、場合によってはオーラが混ざってしまうので荒いオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)から上(アナハタ〜アジナ)にそのまま登ってしまえば意識がおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。逆に、上(アナハタ〜アジナ)のオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)に下がってしまえば本来は高度な神秘のエネルギーが程度の低い欲求やカルマと結びついて一見奇跡的ではあるけれども高度な理解や精神性に基づいていない神秘を作り出し、最終的には心身共に疲れ果てて自分も周囲にも破壊的な結果をもたらすであろうことが理解できます。
最近のスピリチュアルではこの種のグランティの破壊あるいは解くことはあまり重要視されていないと言いますか、ほとんど言及がないような気が致します。これは、グランティは本来「破壊」「解く」ものではなくそのまま利用するものではないか、と言うのが今回の瞑想における理解です。その理解は、私の今回の竜巻の経験の後の状態を観察したことによる考察も含んでいます。
それとは別に、ヨガで言うところのナディ(エネルギーのルート)が詰まっているのならば詰まりを取らなければいけない、と言うのは似ているようでいてちょっと違うお話かなと思います。確かに、調整弁でありますから構造が複雑でそこは詰まりやすいのではありますが、構造が複雑であるからこそ慎重に掃除やメンテナンスをしなければならないのであって、調整弁が錆び付いていて固まっているからと言って調整弁を丸ごと壊して通過してしまうのは乱暴なのかなと思います。
まあ、こんな解釈はどこにも見たことがありませんので、私はここにメモ的に書くだけで、わざわざ他所で言ったりしませんけどね。
■ハタヨガではグランティを破壊するのに「バストリカ」呼吸法を使う
ハタ・ヨガ・プラディーピカには、「グランティを破壊するにはバストリカしかない」と記載されています。バストリカは危険な呼吸法と言われており、流派によっては「経験豊富なグルが監視している時以外は、一人でバストリカを行なってはいけない」とされていたりします。これも、上記のことを考えれば当然なのかなと思います。本来は機能すべき調整弁を壊して神秘的な成長(?)のために活用するのですから、普通ではないことをするのであればその行法に精通したグルがいないとおかしくなるのも当然かなと思います。
■胸のエネルギーの高まり
竜巻の8日後(2019年7月13日)、横になって休んでいたらムーラダーラの会陰がピリビリし初めて、何か電気の塊が下から入ってきたかと思えばゆっくり背筋を通って胸まで上がりました。上がる途中、細い管を無理やり広げながら通っている感じで、ちょっと圧迫感がありました。アナハタあたりで止まりましたが、その後、胸や上腕および頭の下半分がとてもポカポカするようになりました。何でしょう、これ。以前は似たようなポカポカが下腹部あたりでずっとありましたが、今は似たようなポカポカが胸であります。熱と言うほどではなりませんが、竜巻の経験の後の「暖」よりはちょっとだけ「熱」に近い感じです。第2回クンダリーニの後の熱と竜巻の後の「暖」を足して2で割ったくらいの中間的なポカポカでしょうか。
■喉のガラガラ感が薄れました
竜巻の前も、事あるごとに喉がガラガラする詰まったような感覚が度々あって、恐らくは私はヴィシュッダが弱いのだとは思いますが、特に竜巻の後はずっとガラガラする詰まったような感覚が続いていたのですが、竜巻の8日後(2019年7月13日)の瞑想中に喉の感覚が変わって、喉が弾力のある肌に変わって乾燥っぽいガラガラ感が減って随分と楽になりました。これでヴィシュッダが優勢になったわけでもなさそうですが今まで弱かったのが多少ながら普通にまで回復してきた感じです。
■クンダリーニを「上げる」時間軸とその範囲
ハタ・ヨガ・プラディーピカなどヨーガの聖典ではクンダリーニを「上げる」ことを重視していますが、その時間軸と上げる範囲が流派によって異なる気がしてきました。要点は以下でしょうか。
・グランティを破壊するのか、残して活用するのか
・クンダリーニを上げる時間軸はどのくらいか
・クンダリーニを上げる幅は、どこからどこまでか
ハタヨガ系は「グランティは破壊する」「クンダリーニを上げる時間軸は数十分〜数時間」「クンダリーニを上げる幅は、ムーラダーラから上げられるところまで。アジナやサハスララを目指してサハスララから上にクンダリーニを逃す」と言う感じでしょうか。古典的なキリスト教神秘主義の流派や魔法などの流派もヨーガを学んでいますので実際はこの辺りは割と似通っている気がいたします。一方、一部のスピリチュアル系(神智学系も?)は「グランティは破壊しない」「クンダリーニを上げる時間軸は数ヶ月〜数年」「クンダリーニがムーラダーラ〜マニプラにある段階と、アナハタ以上にある段階に分ける」と言うように特徴が違う気が致します。これは、流派によってかなりバリエーションがあると思いますので必ずしもこの通りとは限りませんが、大体の方向性はこんな感じかなと思っております。
■流儀と情緒不安定
ハタヨガ系のヨーギは、素晴らしい方もいらっしゃいますが怒りの沸点が低い方も散見されます。これを上記のグランティの視点から考えますと、グランティを破壊してしまうと情緒を司るマニプラと高度な意識であるアナハタとが混ざってしまって情緒不安定になるのも当然かなと言う気が致します。グランティが破壊されていますとムーラダーラの低いエネルギーがアジナの方にまで流れてしまいますので、意識が成長していない状態でもムーラダーラのエネルギーがアジナまで流れるのでそれでもアジナの力は出せるのかもしれませんが、エネルギー的にムーラダーラとアジナとは調和しませんのでムーラダーラのエネルギーでアジナを使うとおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。同様に、アジナやアナハタの高いエネルギーがマニプラに流れ込んで霊的な能力であるとか呪術などに応用して一見すると奇跡のようなことを起こせるかもしれませんが、その結果はやはり情緒不安定なのかなと思います。
であれば、グランティは破壊せずに、呪術や魔術なども求めずに、清正と基本に忠実にそれぞれの段階に応じた精神修行をしてゆくのが一番いいのかなと思います。
■「ムーラダーラとアジナは直結している」の謎は解けた?
有名なスワミ・サッチャナンダの説明が「密教ヨーガ(本山博著)」に掲載されていますが、それによると「ムーラダーラはアジナと直結している」と言います。これは、主要ナディであるスシュムナ・イダ・ピンガラが直結しているからと説明がありますが、そうであれば他のチャクラも直結しているので、なぜムーラダーラとアジナだけが特別なのかと疑問であり、この説明には納得がいきませんでした。実際、第2回クンダリーニが起こってムーラダーラが活性化してもアジナが活性化したように私は思えませんでした。スワミ・サッチャナンダの説明に基づけば、アジナ・チャクラを目覚ますためにムーラダーラをまず目覚めさせると言います。今思うのは、これはバストリカ等でグランティを破壊しているヨーギにのみ適用可能な方法なのかなと想像しております。確証はありませんけど。グランティが破壊されていればムーラダーラのエネルギーがアジナまでおそらくそのまま通じますのでムーラダーラを目覚めさせることがアジナの目覚めの行法にそのまま通じるのだと想像できます。であれば、グランティを破壊していなければいくらムーラダーラを活性化してもアジナの目覚めには繋がらないのも納得です。
実際、いまアナハタが活性化した状態にあってはエネルギーはムーラダーラ優勢ではなくアナハタ優勢ですので、アナハタとアジナは近いので、わざわざムーラダーラを活性化させる必要があるようには思えません。まあ、私はアジナはまだ動き出していないので今のところは仮定でしかないのですが。
■クンダリーニの居処
基本的にはクンダリーニの居所は背骨の一番下、尾骶骨のあたりに眠っていますが、どうやらクンダリーニが目覚めた後は居所それ自体が移動することもあるようです。このあたりは秘技のようなので書物では詳しくは述べられていませんが、「チャクラ」(C.W.リードビーター著)の以下の記述からこの辺りが読み取れます。
瞑想を終わるときには、クンダリニーをムーラダーラへと戻す。ただし、ある場合には、心臓のチャクラに戻す。そこで、クンダリニーの部屋とよばれる場所に入れるのである。クンダリーニは臍のチャクラにあると記した文献もあるが、ふつうの人では、クンダリニーはここには見られない。これは、既にクンダリニーを目覚めさせた人たちのことを言っているのであって、このチャクラの中に「蛇の火」のエネルギーが貯えられていることを言っているのであろう。
これ以上の説明はありませんが、これだけでもかなりの情報が読み取れます。
・普通(クンダリーニをまだ目覚めさせていない人の場合)はクンダリーニは尾骶骨に眠っている
・クンダリーニを目覚めさせた後は、クンダリーニは次第に尾骶骨からマニプラに向かって移動して、そこを居所とする(と私は解釈する)
・クンダリーニの居所は更に上昇し、(ヴィシュヌ・グランティを超えた後は)アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)に移動してそこを居所とする(と私は解釈する)
ここで言う「そこを居所とする」とは、瞑想中やヨーガ行法中だけでなく普段の生活においても24時間常にそこにエネルギーが居続けると言う意味です。クンダリーニのエネルギーが行法中は意識で移動することがあるとしても、基本は上記の場所にエネルギーが居続けると言う意味です。ただし、これは恐らくは流派によっても違うのかなと思います。グランティを破壊してしまった場合はこうはならずに常にムーラダーラやマニプラあたりに居留まる気もしますが、私はグランティ「破壊」は体験していないのでただの仮定です。
■グランティは「破壊」? 結束を「解く」?
私はヨガをしていますのでこれからバストリカとかも練習する機会がある気がしますが、ここまで理解してしまったならば、バストリカ等で今更グランティを「破壊」しようとは私は思わないです。一応、課題が与えられたら練習するとは思いますが・・・。
昔は聖典を読んでグランティ破壊(結束を解く)ことを「へえ」と思っていたのですが、これまた聖典の難しいところで、もしかしたら原典の意味は文字通り「結束を解く」ことなのかもしれないですね。それを、後の人が間違って解釈して「破壊」だと解釈してしまった。そうとも想像できますけど、昔のことですので想像でしかありません。
もしかしたら、間違って破壊してしまわないようにグルが監視するのかもしれません。流派次第なのかもしれませんが。
うなじ下(大椎?)と首の裏と盆の窪(ぼんのくぼ)
[風のルンの竜巻の経験から9~11日後]
■うなじ下(大椎?)と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」
数日くらい前から脈拍の場所がうなじ下(大椎?)から少し上の首元に移動しておりましたが、本日確認したところ、脈拍は手で感じられない程度にまで治ってきている一方で、暖かさはまだ首元に残っていました。手で脈拍は感じられないものの、頭の下の方にある脈拍のような音と感触はまだ続いています。第2回クンダリーニの時の尾骶骨あたりの血液の脈動の時も一過性のものでしたが、今回も一過性のようです。ただ、以前もしばらく暖かい感じは続いていましたので、今回も同様に周囲が多少暖かい感じは続いているようです。
そこよりも少し上に上がれば「盆の窪(ぼんのくぼ)」とか「大孔」とか呼ばれている場所になりますけど、暖かい箇所はそこまで上ではありませんね。誤差かもしれませんが。
■シャクティパッド
瞑想中のインスピレーションで教えられました。「ヨガの流派によってはグルによって弟子にシャクティパッド(Shakti Pat)(グルが弟子の額に手の指を当てて特別なオーラを送り込んで霊的成長を加速させること。流派によってはイニシエーションと呼んだりもする)が行われる。ある程度の浄化がされていることを条件にしている流派もあるが、弟子入りしてすぐに行う流派もある。条件があったとしてもシャクティパッドはクンダリーニ経験以前に行われることがほとんどで、多くの場合それはヴィシュヌ・グランティを超える段階(今回の竜巻の経験、第3回目クンダリーニ)より前、ムーラダーラのクンダリーニの経験(私の場合は第2回目のクンダリーニ)よりも前に行われるが、その場合、弟子の準備ができていない可能性が高く、弟子が調子を崩す可能性が多々ある。それ故にグルの監視とケアが不可欠で、グルがサイキックな目で監視をして遠隔で常に弟子の様子を見て、調子が悪ければサイキック的に遠隔あるいは直接的に整えるというきめ細かな対応が必要になる。インドではグルが不可欠と見なされているのは文化的背景のみならず、このあたりが理由になっている。しかし、今回の場合は段階を踏んでいるのでそういった危険性は少ない。ムーラダーラのクンダリーニを経て、次は今回のヴィシュヌ・グランティを経て、今はアナハタの段階というように順番を踏んでいるため、危険は少ない。これは(私の守護霊の)チベット系の方法。シャクティパッドの方がスピードは早いが途中の過程を飛ばすので途中のことは分からなくなる。(メッセージ主の意見としては)長期的な成長を考えるとシャクティパッドは良くない。時間をかけた方が良い。」どこまで本当かどうか確かめることができない事項も含まれていますが、とりあえずメモして、機会があれば文献を確認します。
■アナハタのピリピリ
瞑想中、胸のアナハタの皮膚あたりがピリピリと静電気を帯びていました。こんなことあまりないので不思議です。何でしょうか。様子見です。
■顔のピリピリ
今朝の瞑想中、顔全体がブルブル静電気で震えている感じ。特に左の頬が若干強め。こういうことは今まであまりなかったと思います。
■うなじ下(大椎?)と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」
数日くらい前から脈拍の場所がうなじ下(大椎?)から少し上の首元に移動しておりましたが、本日確認したところ、脈拍は手で感じられない程度にまで治ってきている一方で、暖かさはまだ首元に残っていました。手で脈拍は感じられないものの、頭の下の方にある脈拍のような音と感触はまだ続いています。第2回クンダリーニの時の尾骶骨あたりの血液の脈動の時も一過性のものでしたが、今回も一過性のようです。ただ、以前もしばらく暖かい感じは続いていましたので、今回も同様に周囲が多少暖かい感じは続いているようです。
そこよりも少し上に上がれば「盆の窪(ぼんのくぼ)」とか「大孔」とか呼ばれている場所になりますけど、暖かい箇所はそこまで上ではありませんね。誤差かもしれませんが。
■シャクティパッド
瞑想中のインスピレーションで教えられました。「ヨガの流派によってはグルによって弟子にシャクティパッド(Shakti Pat)(グルが弟子の額に手の指を当てて特別なオーラを送り込んで霊的成長を加速させること。流派によってはイニシエーションと呼んだりもする)が行われる。ある程度の浄化がされていることを条件にしている流派もあるが、弟子入りしてすぐに行う流派もある。条件があったとしてもシャクティパッドはクンダリーニ経験以前に行われることがほとんどで、多くの場合それはヴィシュヌ・グランティを超える段階(今回の竜巻の経験、第3回目クンダリーニ)より前、ムーラダーラのクンダリーニの経験(私の場合は第2回目のクンダリーニ)よりも前に行われるが、その場合、弟子の準備ができていない可能性が高く、弟子が調子を崩す可能性が多々ある。それ故にグルの監視とケアが不可欠で、グルがサイキックな目で監視をして遠隔で常に弟子の様子を見て、調子が悪ければサイキック的に遠隔あるいは直接的に整えるというきめ細かな対応が必要になる。インドではグルが不可欠と見なされているのは文化的背景のみならず、このあたりが理由になっている。しかし、今回の場合は段階を踏んでいるのでそういった危険性は少ない。ムーラダーラのクンダリーニを経て、次は今回のヴィシュヌ・グランティを経て、今はアナハタの段階というように順番を踏んでいるため、危険は少ない。これは(私の守護霊の)チベット系の方法。シャクティパッドの方がスピードは早いが途中の過程を飛ばすので途中のことは分からなくなる。(メッセージ主の意見としては)長期的な成長を考えるとシャクティパッドは良くない。時間をかけた方が良い。」どこまで本当かどうか確かめることができない事項も含まれていますが、とりあえずメモして、機会があれば文献を確認します。
■アナハタのピリピリ
瞑想中、胸のアナハタの皮膚あたりがピリピリと静電気を帯びていました。こんなことあまりないので不思議です。何でしょうか。様子見です。
■顔のピリピリ
今朝の瞑想中、顔全体がブルブル静電気で震えている感じ。特に左の頬が若干強め。こういうことは今まであまりなかったと思います。
眉間の瞑想が安定。「統合されたチャクラ」とマニプラ。ヴィパッサナー瞑想と四沙門果
[風のルンの竜巻の経験から12日後]
■眉間で安定
竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。
■「統合されたチャクラ」とマニプラ
以前引用した「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。
このあたりに思いを巡らせていたところ(おそらく私の内なるガイドから)インスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。
同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。
■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?
前に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。
これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないのですが、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。
これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。
■うなじ下(大椎?)の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました
うなじ下(大椎?)の脈拍とポカポカは前に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。
■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。
以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。
■四沙門果(ししゃもんか)
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。
■眉間で安定
竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。
■「統合されたチャクラ」とマニプラ
以前引用した「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。
このあたりに思いを巡らせていたところ(おそらく私の内なるガイドから)インスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。
同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。
■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?
前に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。
これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないのですが、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。
これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。
■うなじ下(大椎?)の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました
うなじ下(大椎?)の脈拍とポカポカは前に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。
■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。
以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。
■四沙門果(ししゃもんか)
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。
- 預流果(よるか)無常だとわかったので「私」や「私の生涯」や「私の家族」や「私の所有物」などについて、何となく諦めがつくようになる。説法を聞くだけで至ることもできる。世間的な欲や怒りは、まだまだかなりある段階。
- 一来果(いちらいか)煩悩がかなり弱まる。相変わらず欲しくなったり怒ったりするのですが、すぐに「まあいいか。こんな程度のこと」などと醒めてしまって、欲や怒りが大きくならない。欲しがっても、すぐに「まあ、別にいらないね」と思い直して気持ちが治る。怒っても、怒鳴ったりとか、夜中にわら人形を打つほどの執念はなく、「まあ、いいか。このくらいのこと」と、すぐに気分が穏やかになる。
- 不還果(ふげんか)煩悩が断ち切れる。お腹が空くなどと言う感覚は残るが、欲望は消える。異性への関心がなくなり、心が揺れ動かなくなる。禅定に熟達している人がほとんど。「私」と言う感覚はまだ残っている。
- 阿羅漢果(あらかんか)「私」がなくなる。「私」と言う感覚が消え、錯覚・誤解だったとわかる。「私」がなくなることで煩悩も完全に消える。完全に清らかな状態。
- 預流果は私の基本で、生まれてこの方、こうではなかった時は思い当たりません。人生においてストレスを感じて調子を崩したりもしましたが、立ち戻るところは常にここでした。(表現としては預流果と言うのは当時は知らなかったとはいえ)
- 一来果は第2回目クンダリーニ後の状態と似ている気がします。
- 不還果は今回の竜巻の後は似た状態になっている気がします。特に性欲。
- 阿羅漢果は「私」に関する謎解きはこれからの課題ですね。
雑念が減り、「いま」に生きる
[風のルンの竜巻の経験から15日後]
■「今に生きる」ことと「雑念」の相関関係
雑念がほとんどなく、心が曇りの少ない鏡、あるいは、風の少ない水面のように穏やかな状態こそが「今に生きる」ことなのだと思いました。と、言いますのも、雑念は往々にして「過去」あるいは「未来」に心を引っ張っていってしまうからです。未来の希望を想像したり、過去の思いに浸ったり。「雑念」と「今」とはなかなか結びつかないものだと思います。前に書いた、生活上でのヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)も同じようなことを意味しています。今に生きているからこそ日常生活において全身を観察する瞑想ができますし、全身を観察できている時は雑念は少なくて落ち着いていて安らぎを感じられている筈です。
雑念がなければ「今」に生きていて体の状態が隅々まで観察できていて喜びあるいは安らぎを感じることができます。逆に、雑念がある時は「今」に生きていなくて体の状態も隅々まで観察できていなくて喜びあるいは安らぎをあまり感じられないのです。「今に生きる」ことと「雑念」には相関関係があるようです。
スピリチュアルで「今に生きる」ことは重要だと散々色々なところで言われていますし、頭ではその事を理解していましたが、今回は体で強烈にこのことを体験しています。もちろん以前にも段々と雑念が減って、言おうと思えば「今に生きる」と言えなくもない変化もありましたが、それはあくまでも「点(その一瞬だけ)」としての「今」だったことが多く、今回のように「線(10秒以下の連続)」として「行動の間しばらく今に生きている状態を保つ」と言う意味においては竜巻の経験の後で初めて達した状態のように思います。竜巻の経験後、このくらいの状態がスピリチュアルでいう「今に生きる」ことなのかもしれないと自分の中で腑に落ちました。
今後、これが更に時間が伸びるのかあるいは面になってゆくのかわかりませんが、これまた、ありのまま「今」を観察していきたいと思います。ここで私は「今後の変化に期待したいです」とは言わないです。そう言う気持ちもなくはないですが、期待というのは未来への雑念ですので、今に生きるのであればその気持ちは本来不要な筈ですので。
「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)において、はるかに「いま」のなか行動するようになると言います。
このカルマ・ゲームではあなたの精神体は未来のなかで生きています。それはいつも「もしもこうなれば」というふうに生きているのです。感情体は過去の中で生きていて、あなたがかつて体験したことによって引き金が引かれます。だから、目の前で起きていることは、正確に言うとほとんど体験していないことになります。ライトボディ第七レベルにおいて、あなたは「いま」を体験しはじめます。それは本当に気持ちのいいものです。
この書籍で言うところの第七レベルが私の状態に近い気がします。このレベルはアナハタ・チャクラが活性化し始める段階です。この文章で言うところの「精神体」とは未来への願望や希望、「感情体」は過去のトラウマなどと考えるとよくわかります。未来への希望や願望を考えることで今に生きることが難しくなり、過去のトラウマがあると今に生きることが難しくなります。確かに、このように2つに分けた方が分かりやすいですね。そして、このレベルに達して初めて「今」に生き始めるのだとすればなかなか面白い段階にまでようやく至ったとも言えると思っています。
このことに気づいてから、瞑想の位置付けが少し変化したように思います。今までは雑念を減らしたり安らぎや平穏の境地が目的でしたが、ここにきて「今に生きる」ために瞑想を使うようになってきました。「今に生きていない時に瞑想をして今に生きるように自分を調整し直す」とでも言いましょうか。もちろん、今までのような瞑想がなくなったわけではなくて目的と言いますか使い方が1つ加わったと言うことですが。
これは、竜巻の経験でアナハタ優勢になる前は(私にとって)なかなかできなかったことです。
「ライトボディの目覚め」の言葉を借りると「なんとなく追いついた」感じがしています。「いま」に生きることもそうですし、魂(スピリット)に従って生きることもそうです。以前は、頭でそうは分かっていてもどこかピンときていないところがありました。アナハタ優勢になって初めて「いま」に生きることや魂(スピリット)に従って生きることが体全体で理解というかしっくりくるようになって、今まで頭で考えて理解しいたところにようやく体全体の実際のオーラの状態がなんとなく「追いついた」のだと感じれています。「いま」に生きることも魂(スピリット)に委ねて生きることも、今まではどこか深く分かっていなかったのが、この書籍で言うところの第七レベルでようやく実際にそうなってきた、と言う感覚です。
■「今に生きる」ことと「雑念」の相関関係
雑念がほとんどなく、心が曇りの少ない鏡、あるいは、風の少ない水面のように穏やかな状態こそが「今に生きる」ことなのだと思いました。と、言いますのも、雑念は往々にして「過去」あるいは「未来」に心を引っ張っていってしまうからです。未来の希望を想像したり、過去の思いに浸ったり。「雑念」と「今」とはなかなか結びつかないものだと思います。前に書いた、生活上でのヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)も同じようなことを意味しています。今に生きているからこそ日常生活において全身を観察する瞑想ができますし、全身を観察できている時は雑念は少なくて落ち着いていて安らぎを感じられている筈です。
雑念がなければ「今」に生きていて体の状態が隅々まで観察できていて喜びあるいは安らぎを感じることができます。逆に、雑念がある時は「今」に生きていなくて体の状態も隅々まで観察できていなくて喜びあるいは安らぎをあまり感じられないのです。「今に生きる」ことと「雑念」には相関関係があるようです。
スピリチュアルで「今に生きる」ことは重要だと散々色々なところで言われていますし、頭ではその事を理解していましたが、今回は体で強烈にこのことを体験しています。もちろん以前にも段々と雑念が減って、言おうと思えば「今に生きる」と言えなくもない変化もありましたが、それはあくまでも「点(その一瞬だけ)」としての「今」だったことが多く、今回のように「線(10秒以下の連続)」として「行動の間しばらく今に生きている状態を保つ」と言う意味においては竜巻の経験の後で初めて達した状態のように思います。竜巻の経験後、このくらいの状態がスピリチュアルでいう「今に生きる」ことなのかもしれないと自分の中で腑に落ちました。
今後、これが更に時間が伸びるのかあるいは面になってゆくのかわかりませんが、これまた、ありのまま「今」を観察していきたいと思います。ここで私は「今後の変化に期待したいです」とは言わないです。そう言う気持ちもなくはないですが、期待というのは未来への雑念ですので、今に生きるのであればその気持ちは本来不要な筈ですので。
「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)において、はるかに「いま」のなか行動するようになると言います。
このカルマ・ゲームではあなたの精神体は未来のなかで生きています。それはいつも「もしもこうなれば」というふうに生きているのです。感情体は過去の中で生きていて、あなたがかつて体験したことによって引き金が引かれます。だから、目の前で起きていることは、正確に言うとほとんど体験していないことになります。ライトボディ第七レベルにおいて、あなたは「いま」を体験しはじめます。それは本当に気持ちのいいものです。
この書籍で言うところの第七レベルが私の状態に近い気がします。このレベルはアナハタ・チャクラが活性化し始める段階です。この文章で言うところの「精神体」とは未来への願望や希望、「感情体」は過去のトラウマなどと考えるとよくわかります。未来への希望や願望を考えることで今に生きることが難しくなり、過去のトラウマがあると今に生きることが難しくなります。確かに、このように2つに分けた方が分かりやすいですね。そして、このレベルに達して初めて「今」に生き始めるのだとすればなかなか面白い段階にまでようやく至ったとも言えると思っています。
このことに気づいてから、瞑想の位置付けが少し変化したように思います。今までは雑念を減らしたり安らぎや平穏の境地が目的でしたが、ここにきて「今に生きる」ために瞑想を使うようになってきました。「今に生きていない時に瞑想をして今に生きるように自分を調整し直す」とでも言いましょうか。もちろん、今までのような瞑想がなくなったわけではなくて目的と言いますか使い方が1つ加わったと言うことですが。
これは、竜巻の経験でアナハタ優勢になる前は(私にとって)なかなかできなかったことです。
「ライトボディの目覚め」の言葉を借りると「なんとなく追いついた」感じがしています。「いま」に生きることもそうですし、魂(スピリット)に従って生きることもそうです。以前は、頭でそうは分かっていてもどこかピンときていないところがありました。アナハタ優勢になって初めて「いま」に生きることや魂(スピリット)に従って生きることが体全体で理解というかしっくりくるようになって、今まで頭で考えて理解しいたところにようやく体全体の実際のオーラの状態がなんとなく「追いついた」のだと感じれています。「いま」に生きることも魂(スピリット)に委ねて生きることも、今まではどこか深く分かっていなかったのが、この書籍で言うところの第七レベルでようやく実際にそうなってきた、と言う感覚です。
「感じること」の意味
[風のルンの竜巻の経験から16日後]
■スピリチュアルでの「感じること」の意味
竜巻の4日後くらいから瞑想が変化して、その頃から眉間に意識を当てて感覚の観察をすると雑念が「ひらがな2〜3文字」で消えるようになりましたが、今日は雑念がほとんどなしで感覚を観察し続ける瞑想がある程度(30秒〜数分?)続きました。時間ははっきりとはわからないのです。と言いますのも、心でカウントしたりマントラ唱えたりするんのであればどのくらいの長さかわかるのですが、「感覚」の観察をして、その間の雑念が出てきてもすぐに雑念をなくす方向に意識が動いていますので時間はよく分からないのです。とても表現し辛いのですが、この観察瞑想の基本は「感覚」で、具体的には「息」を「感覚で感じる(観察する)」ことが基本で、それに加えて体の各所の感覚を感じます。その観察は意識の「深い」ところで行なっているのですが、その一方で、意識の「浅い」ところでいわゆる「心」が雑念として動き出すのですが、浅いところで「心」が動くと何かちょっと苦しさを感じるので雑念が「ひらがな1文字」出るか出ないかで体が拒否反応を示して「心」の雑念を押さえ込んでしまいます。この時、雑念がいわゆる「心」として出てくると「トゲトゲしい」感覚があって拒否してしまうのです。それは、雑念が「ひらがな0.5文字くらい」で消える感じです。こうなるのは瞑想が深まった時のお話で常にそうというわけでもないのですが、この種の状態になると観察だけがずっと続いて時間の感覚が薄れてゆきます。その上で、いわゆる「心」の荒い感覚には興味がなくなってゆきます。おそらくは、微細な感覚にフォーカスが当たっているのでそれよりも荒い心の動きは激しすぎて苦しく感じてしまうのかなとも思います。リラックスと言えばそうなのですが、喜びというのとはちょっと違っていて、安堵や安らぎと言った方が近いです。意識が「感覚」を観察し続けることが「細かな」感覚だとすれば、「心」の動きは「荒い」感覚です。昔はこの「心」と「意識」の違いがあまり区別できなかったのですが、最近は割とこの「細かな感覚」と「荒い感覚」の違いがよくわかります。これが、スピリチュアルでよく言われる「感じること」の意味なのかもしれません。この種の「微細な意識」は、いわゆる雑念を「(心で)聞く」とか「(心で)思う」とは違っていて、もっと根源の「感じる」感覚です。
心であれば「聞く(受信)」と「思う(発信)」が対になっていますが、今のところ、微細な意識に関しては「感じる(受信)」のみです。心が「発する」機能もあるのであれば「感じる(受信)」だけでなく感覚を「送る(送信)」機能もきっとあるのではないかと思いますが、それはまだわかりません。今は相手がいなくて1人で座って瞑想しているだけなので「(感覚を)送る(送信)」は今は試せていません。とりあえずは「感じる(受信)」ことをもっと続けてみたいと思います。
■いわゆる「無」と今回の状態の違い
以前に書いた「いわゆる無」は割と雑念が多い時のお話で、(微細な)意識も(荒い)心も両方「ギュッ」と抑えて停止させて一時的なくつろぎを得ていました。しかし、今回の場合は微細な意識は動いたままで、心はほぼ停止するものの以前のように力強く意思の力を働かせて「ギュッ」と抑え込む必要なしに心に雑念が浮かぶか浮かばないかの瞬時のうちに感覚的に自動的に「なにかの触媒」に反応してその心の動きが勝手に止まってゆく、と言う種類のものです。その状態を、(意識と比較すると荒い)心の動きのみに注目すれば「いわゆる無」と似てはいますが、意識で押さえ込んでいるわけではありませんし、今回の場合「意識」は動いていますので、今回の状態を「いわゆる無」とは言えない感じです。言うなればヴィパッサナー瞑想と言えるのかもしれませんが、私の知っている各流派のヴィパッサナー瞑想とも細かなところが違うので、そのまんまヴィパッサナー瞑想とも言い辛い感じです。別に、何か学んでこうした訳ではありませんが、色々と違う感じです。
■スピリチュアルでの「感じること」の意味
竜巻の4日後くらいから瞑想が変化して、その頃から眉間に意識を当てて感覚の観察をすると雑念が「ひらがな2〜3文字」で消えるようになりましたが、今日は雑念がほとんどなしで感覚を観察し続ける瞑想がある程度(30秒〜数分?)続きました。時間ははっきりとはわからないのです。と言いますのも、心でカウントしたりマントラ唱えたりするんのであればどのくらいの長さかわかるのですが、「感覚」の観察をして、その間の雑念が出てきてもすぐに雑念をなくす方向に意識が動いていますので時間はよく分からないのです。とても表現し辛いのですが、この観察瞑想の基本は「感覚」で、具体的には「息」を「感覚で感じる(観察する)」ことが基本で、それに加えて体の各所の感覚を感じます。その観察は意識の「深い」ところで行なっているのですが、その一方で、意識の「浅い」ところでいわゆる「心」が雑念として動き出すのですが、浅いところで「心」が動くと何かちょっと苦しさを感じるので雑念が「ひらがな1文字」出るか出ないかで体が拒否反応を示して「心」の雑念を押さえ込んでしまいます。この時、雑念がいわゆる「心」として出てくると「トゲトゲしい」感覚があって拒否してしまうのです。それは、雑念が「ひらがな0.5文字くらい」で消える感じです。こうなるのは瞑想が深まった時のお話で常にそうというわけでもないのですが、この種の状態になると観察だけがずっと続いて時間の感覚が薄れてゆきます。その上で、いわゆる「心」の荒い感覚には興味がなくなってゆきます。おそらくは、微細な感覚にフォーカスが当たっているのでそれよりも荒い心の動きは激しすぎて苦しく感じてしまうのかなとも思います。リラックスと言えばそうなのですが、喜びというのとはちょっと違っていて、安堵や安らぎと言った方が近いです。意識が「感覚」を観察し続けることが「細かな」感覚だとすれば、「心」の動きは「荒い」感覚です。昔はこの「心」と「意識」の違いがあまり区別できなかったのですが、最近は割とこの「細かな感覚」と「荒い感覚」の違いがよくわかります。これが、スピリチュアルでよく言われる「感じること」の意味なのかもしれません。この種の「微細な意識」は、いわゆる雑念を「(心で)聞く」とか「(心で)思う」とは違っていて、もっと根源の「感じる」感覚です。
心であれば「聞く(受信)」と「思う(発信)」が対になっていますが、今のところ、微細な意識に関しては「感じる(受信)」のみです。心が「発する」機能もあるのであれば「感じる(受信)」だけでなく感覚を「送る(送信)」機能もきっとあるのではないかと思いますが、それはまだわかりません。今は相手がいなくて1人で座って瞑想しているだけなので「(感覚を)送る(送信)」は今は試せていません。とりあえずは「感じる(受信)」ことをもっと続けてみたいと思います。
■いわゆる「無」と今回の状態の違い
以前に書いた「いわゆる無」は割と雑念が多い時のお話で、(微細な)意識も(荒い)心も両方「ギュッ」と抑えて停止させて一時的なくつろぎを得ていました。しかし、今回の場合は微細な意識は動いたままで、心はほぼ停止するものの以前のように力強く意思の力を働かせて「ギュッ」と抑え込む必要なしに心に雑念が浮かぶか浮かばないかの瞬時のうちに感覚的に自動的に「なにかの触媒」に反応してその心の動きが勝手に止まってゆく、と言う種類のものです。その状態を、(意識と比較すると荒い)心の動きのみに注目すれば「いわゆる無」と似てはいますが、意識で押さえ込んでいるわけではありませんし、今回の場合「意識」は動いていますので、今回の状態を「いわゆる無」とは言えない感じです。言うなればヴィパッサナー瞑想と言えるのかもしれませんが、私の知っている各流派のヴィパッサナー瞑想とも細かなところが違うので、そのまんまヴィパッサナー瞑想とも言い辛い感じです。別に、何か学んでこうした訳ではありませんが、色々と違う感じです。
心と意識の拡大
[風のルンの竜巻の経験から17日後]
■意識の拡大? 光の広がり・強まり?
心を動かさずに息などを観察していると胸の意識が拡大してきました。胸のあたりが「グッ」と広がる感覚。と同時に、意識がよりはっきりしてきました。それを「意識の拡大」とも言えるかもしれないし、「光の広がり・強まり」とも言えるかもしれないです。
■心の無常の体感について補足
先日書いた「心の有限さを感じること」を少し補足します。今回、ヴィシュヌ・グランティを超えてアナハタ(ハート)優勢になることでいわゆる「意識」が活性化していわゆる「心」の半分から同程度にまで意識が表に出てきました。その状態で「意識」が「心」を観察することで無情を(ハートで)体感する、という意味になります。アナハタ優勢になる以前は「意識」がはっきりしておらず「心」が「意識」よりも優勢な状態ですので瞑想で「心」を観察しようとしても「観察する側(見る側)」である「意識」がぼんやりとしているのでうまく観察できなかったのです。アナハタ優勢になることで「観察(見る)側」である「意識」が活性化して、その状態でようやく「心」を観察できるようになりました。
■アナハタ優勢になるまではヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想)は同じ?
以前にも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の基礎は同じだと思います。この辺りは「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にも記載があって、外見的なやり方や必要な集中力はほとんど同じであると書かれています。どの辺りから違いが出てくるのかあまりピンときていませんでしたが、どうやら今回のアナハタ優勢になる段階くらいで違いが出てくるような気がしてきました。
ただ、これは流派によって違う言い方をすることがあって、実際のところヨガ系瞑想(一般にはそれはサマタ瞑想だと思われている)であっても内実はヴィパッサナー瞑想だったりしますので、一般論としてのお話をそのまま流派での瞑想の手法とをそのまま結びつけることはできないことを補足しておきます。
■心で観察するか、意識で観察するか。
今回竜巻の経験でアナハタ優勢になる前には、上に書きましたように「意識」がぼんやりとしていて観察がうまくできなかったのですが、それでもヴィパッサナー瞑想を試みる時は「心」で「感覚」を観察しようとしていましたが、これはうまくいきませんでした。そして、アナハタ優勢になった後は「意識」が「見る側(観察する側)」になったように思います。これは大きな違いです。
「心」で見るというのは、随分と回りくどい(というか本質的ではない?)ことだと今は思います。感覚が体のどこかで感じられて「意識」にザワッと来るのをそのまま観察すればいいだけなのに、わざわざそこから「心」が反応して「触れた」「離れた」「チクチクする」「サワサワする」とか、いわゆる雑念を作り出さなければならないからです。その心の動きにはエネルギーが必要ですから、意識で感じるだけであればとても省エネですし。
むしろ、「心」すらも「見られる側」であるとすればスッキリします。「意識」が「感覚」だけでなく「心」も観察するのであれば、感覚の動きも心の微細な動きもよく観察できることになります。この状態においては、ありきたりの感覚は意識で観察して終わりですけど、普段あまり感じていない感覚が来た時に心が言語化するところまで観察できます。どのように感じていて、心がその感覚をどのように言葉として解釈するのかまで事細かに見るのがヴィパッサナー的瞑想だと思います。「感覚」は「ありのまま」で、「心」が「解釈」を司る仕組みを分離できることは、「ありのまま(の感覚)」は変化させずに後から「(心の)解釈」だけをやり直すことだってできますから。
それはそうで、ヨガ的には「心」は「道具」であって、見る側(観察する側)ではありません。更には、ヨガでは「心は自分ではない」と言いますが、世間一般の精神分析などでは「心が私」とか言いますので、このあたりに混乱があります。ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)では「観察」という言葉に惑わされて、「私(であるところの心)が観察する」と勘違いしてしまいがちですが、実際は「心」ではなく「意識」で観察するということです。この辺り、人によっては「心」を「心と意識」という意味で使っていたりしますのでコンテキストの解釈が難しい時もあるのですが、ここでは心が「道具」で雑念や分析を司るとすれば、それを観察する側が「意識」という位置付けで書いています。
■「統合されたチャクラ」と「チャクラがわからない」感覚
以前何度か(1回目,2回目)「統合されたチャクラ」を取り上げましたけど、この種の状態ではチャクラがわからなくなることもありました。私のチャクラに関する感覚を以下にまとめておきます。
私は完全なベジタリアンではないですが、今回の竜巻の経験の数ヶ月くらい前からお肉はほとんど食べなくなっていました。ベジタリアンは栄養に不安がありますしお肉やお魚もバランスよく食べたいとは思っていましたが、2年くらい前から少しだけお肉の頻度が下がって鶏肉中心に選ぶようになり、その後、1年くらい前から更にお肉の頻度が下がり始め、ここ数ヶ月に至ってはほとんど食べなくなっていました。とは言いましても日本では調味料や出汁および醤油などに魚などが使われていますので、厳密なベジタリアンを目指していたわけではありません。主なモチベーションとしては、単純に「お肉を食べると気持ち悪くなるようになってきた」というものです。ただ単に、食べてフレッシュできる新鮮な野菜や果物や何かを食べたいと思うようになっただけのことで、それがたまたまお肉の頻度を減らしただけのことでした。
特に豚肉は苦手で、たまに栄養のために味噌で味付けして食べたりもしましたが、最近はほとんど食べません。牛肉も栄養のために食べたりもしましたが、以前は美味しく食べていた気がするのですが、最近は食べても美味しく感じませんし、牛肉のステーキなどを食べたいとも思わないようになってきています。鶏肉はそれでも最近までたまに食べていたのですが、頻度はかなり落ちています。お肉が美味しいというよりもタレが美味しく感じていただけかもしれないです。昔の記憶で美味しい高い焼肉屋とかの記憶とかはありますけど、別にそんなの食べなくてもいいかな、という感じです。まあ、高い焼肉屋はそれはそれで美味しいのだとは思いますが。たぶん。
ベジタリアン食に関しては今回の竜巻がはっきりとした境になっているわけではありませんが、お肉の頻度が下がってきてある程度の閾値に達したところで今回の竜巻の経験が起きたような感じです。竜巻の経験の前後にはお肉はほとんど食べたいと思わなくなっており、貰い物や外食などで頂くときは食べますが、積極的にお肉を食べたいというモチベーションはほとんどなくなっています。
そもそも、最近の食事があまりにもシンプル過ぎて、特徴もなくなってきているというのもあるのですが。それでも修行者のように「おかゆと塩と1品」ってことはないですけどね。そこまでシンプルではありませんので、たぶん十分なのだと思います。
■意識の拡大? 光の広がり・強まり?
心を動かさずに息などを観察していると胸の意識が拡大してきました。胸のあたりが「グッ」と広がる感覚。と同時に、意識がよりはっきりしてきました。それを「意識の拡大」とも言えるかもしれないし、「光の広がり・強まり」とも言えるかもしれないです。
■心の無常の体感について補足
先日書いた「心の有限さを感じること」を少し補足します。今回、ヴィシュヌ・グランティを超えてアナハタ(ハート)優勢になることでいわゆる「意識」が活性化していわゆる「心」の半分から同程度にまで意識が表に出てきました。その状態で「意識」が「心」を観察することで無情を(ハートで)体感する、という意味になります。アナハタ優勢になる以前は「意識」がはっきりしておらず「心」が「意識」よりも優勢な状態ですので瞑想で「心」を観察しようとしても「観察する側(見る側)」である「意識」がぼんやりとしているのでうまく観察できなかったのです。アナハタ優勢になることで「観察(見る)側」である「意識」が活性化して、その状態でようやく「心」を観察できるようになりました。
■アナハタ優勢になるまではヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想)は同じ?
以前にも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の基礎は同じだと思います。この辺りは「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にも記載があって、外見的なやり方や必要な集中力はほとんど同じであると書かれています。どの辺りから違いが出てくるのかあまりピンときていませんでしたが、どうやら今回のアナハタ優勢になる段階くらいで違いが出てくるような気がしてきました。
ただ、これは流派によって違う言い方をすることがあって、実際のところヨガ系瞑想(一般にはそれはサマタ瞑想だと思われている)であっても内実はヴィパッサナー瞑想だったりしますので、一般論としてのお話をそのまま流派での瞑想の手法とをそのまま結びつけることはできないことを補足しておきます。
■心で観察するか、意識で観察するか。
今回竜巻の経験でアナハタ優勢になる前には、上に書きましたように「意識」がぼんやりとしていて観察がうまくできなかったのですが、それでもヴィパッサナー瞑想を試みる時は「心」で「感覚」を観察しようとしていましたが、これはうまくいきませんでした。そして、アナハタ優勢になった後は「意識」が「見る側(観察する側)」になったように思います。これは大きな違いです。
「心」で見るというのは、随分と回りくどい(というか本質的ではない?)ことだと今は思います。感覚が体のどこかで感じられて「意識」にザワッと来るのをそのまま観察すればいいだけなのに、わざわざそこから「心」が反応して「触れた」「離れた」「チクチクする」「サワサワする」とか、いわゆる雑念を作り出さなければならないからです。その心の動きにはエネルギーが必要ですから、意識で感じるだけであればとても省エネですし。
むしろ、「心」すらも「見られる側」であるとすればスッキリします。「意識」が「感覚」だけでなく「心」も観察するのであれば、感覚の動きも心の微細な動きもよく観察できることになります。この状態においては、ありきたりの感覚は意識で観察して終わりですけど、普段あまり感じていない感覚が来た時に心が言語化するところまで観察できます。どのように感じていて、心がその感覚をどのように言葉として解釈するのかまで事細かに見るのがヴィパッサナー的瞑想だと思います。「感覚」は「ありのまま」で、「心」が「解釈」を司る仕組みを分離できることは、「ありのまま(の感覚)」は変化させずに後から「(心の)解釈」だけをやり直すことだってできますから。
それはそうで、ヨガ的には「心」は「道具」であって、見る側(観察する側)ではありません。更には、ヨガでは「心は自分ではない」と言いますが、世間一般の精神分析などでは「心が私」とか言いますので、このあたりに混乱があります。ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)では「観察」という言葉に惑わされて、「私(であるところの心)が観察する」と勘違いしてしまいがちですが、実際は「心」ではなく「意識」で観察するということです。この辺り、人によっては「心」を「心と意識」という意味で使っていたりしますのでコンテキストの解釈が難しい時もあるのですが、ここでは心が「道具」で雑念や分析を司るとすれば、それを観察する側が「意識」という位置付けで書いています。
■「統合されたチャクラ」と「チャクラがわからない」感覚
以前何度か(1回目,2回目)「統合されたチャクラ」を取り上げましたけど、この種の状態ではチャクラがわからなくなることもありました。私のチャクラに関する感覚を以下にまとめておきます。
- クンダリーニ2回目経験前はチャクラの感覚がほとんどなく、特に下半身の感覚はゼロ。せいぜい瞑想やマントラ時に眉間がザワザワというかジワジワとした感覚になる程度。ムーラダーラは電気ショックのようなジワっというかピリピリした感覚が時々あり(特にプラナヤーマの時)。ハートに何かあるような無いようなぼんやりとした感覚のみ。他人の思いを感じると喉のあたりがイガイガすることあり。この段階は「チャクラが(ほとんど)わからない」状態だったと言えます。
- クンダリーニ2回目以降は体全体がポカポカと「熱」を浴びて熱かったです。特に下半身が熱かったですがムーラダーラからアナハタくらいまでの区別なく満遍なく暖かかったです。以前の記事2回目に書きましたように、オーラが発散している状態だったのだと思います。この時も、割と「チャクラが分からない」状態でした。
- やがて熱が収まり、今回の竜巻の経験で「暖」の状態になってアナハタ優勢になりました。ここに来てようやくアナハタとマニプラの区別がよくつくようになりました。その一方で、アナハタが優勢に変わっていわゆる「統合されたチャクラ」として次第に他のチャクラと合わさってゆくのを感じます。ただ、それはチャクラの区別がないのではなくて調和してチャクラが動作する種類のものです。ですから、チャクラは確かに存在するけれども、(私の場合は)チャクラの区別がつくようになったら割とすぐに「統合されたチャクラ」として協調して動き出したので、またすぐにチャクラが分からない状態になるのかな・・・ という気もします。
私は完全なベジタリアンではないですが、今回の竜巻の経験の数ヶ月くらい前からお肉はほとんど食べなくなっていました。ベジタリアンは栄養に不安がありますしお肉やお魚もバランスよく食べたいとは思っていましたが、2年くらい前から少しだけお肉の頻度が下がって鶏肉中心に選ぶようになり、その後、1年くらい前から更にお肉の頻度が下がり始め、ここ数ヶ月に至ってはほとんど食べなくなっていました。とは言いましても日本では調味料や出汁および醤油などに魚などが使われていますので、厳密なベジタリアンを目指していたわけではありません。主なモチベーションとしては、単純に「お肉を食べると気持ち悪くなるようになってきた」というものです。ただ単に、食べてフレッシュできる新鮮な野菜や果物や何かを食べたいと思うようになっただけのことで、それがたまたまお肉の頻度を減らしただけのことでした。
特に豚肉は苦手で、たまに栄養のために味噌で味付けして食べたりもしましたが、最近はほとんど食べません。牛肉も栄養のために食べたりもしましたが、以前は美味しく食べていた気がするのですが、最近は食べても美味しく感じませんし、牛肉のステーキなどを食べたいとも思わないようになってきています。鶏肉はそれでも最近までたまに食べていたのですが、頻度はかなり落ちています。お肉が美味しいというよりもタレが美味しく感じていただけかもしれないです。昔の記憶で美味しい高い焼肉屋とかの記憶とかはありますけど、別にそんなの食べなくてもいいかな、という感じです。まあ、高い焼肉屋はそれはそれで美味しいのだとは思いますが。たぶん。
ベジタリアン食に関しては今回の竜巻がはっきりとした境になっているわけではありませんが、お肉の頻度が下がってきてある程度の閾値に達したところで今回の竜巻の経験が起きたような感じです。竜巻の経験の前後にはお肉はほとんど食べたいと思わなくなっており、貰い物や外食などで頂くときは食べますが、積極的にお肉を食べたいというモチベーションはほとんどなくなっています。
そもそも、最近の食事があまりにもシンプル過ぎて、特徴もなくなってきているというのもあるのですが。それでも修行者のように「おかゆと塩と1品」ってことはないですけどね。そこまでシンプルではありませんので、たぶん十分なのだと思います。
禅の十牛図「身心脱落」からヨーガスートラとウパニシャッドへ
■禅の十牛図「身心脱落」(しんじんだつらく)
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には以下のようにあります。
最初の心の脱落は、肉体が周囲の空間に溶け込んだ時に起こる。感覚を受け止めるフィールドは残っているが、独特の調和が保たれることで、ほとんど雑念が湧いてこない。あたかも静かな泉の水面(みなも)を淡々と眺めているだけのような感覚だ。心中、嵐もなく波紋も起こらない。意識は判然としていて心の平静を自覚している。
これは先日書いた内容ととても似ています。どうやら私はこの段階にいるようです。第三図の「見牛」に相当します。同書は次のように続きます。
だが、本当の意味での心の脱落とは、一定の調和によって雑念などを起こらなくさせることではなく、ヨーガスートラ第1章にあるように心の作用そのものを止滅させることなのだ。(中略)これは「騎牛帰家」から「忘牛存人」に至るプロセスに他ならないのである。
この最終的な状態は私にはまだよくわかりません。と言いますか、てっきり前者のお話がヨーガスートラの「心の作用の止滅」かと思っておりましたので、今の私の状態はまだ半分なのだとこの本で気付かされました。
■禅の十牛図とヨーガスートラ・ウパニシャッドの比較
同書ではこれらの比較も行なっています。
ヨーガスートラで言うところの「心の作用の止滅」が半分ではあるものの体感できるようになってきて、「次はどうすれば良いのだろう?」と思っておりましたので、道筋が見えてきました。
■主観と客観、意と識の分離、客体と自体
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」では、先日書いた「心で観察するか、意識で観察するか」に関して次のように説明しています。
ヨーガで止滅させる対象は”意”であって”識”ではない。なぜなら”識”は、意の働くフィールドであって、ヨーガの技術によっても止滅させることはできないからだ。つまり、識なくして個の存在もない。またこの識は、個を超えて全体とも繋がっている。だからこそそこに全体との合一と融合つまりウパニシャッドへの道が開かれるわけだ。ヨーガは意と”個の段階の識”を対象とし、ウパニシャッドは”個”を超えたより深く広い領域を対象としている。
これまた興味深い記述です。この”意”と”識”という表現はこの著者の編み出した言い方のようです。上の段階と合わせるとよく理解できます。同書では、同じ”意”と”識”について別の観点からも紹介しています。
ヨーガスートラには「(中略)客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」とある。佐保田博士は「心理学的に言えば、主観の状態が忘れ去られて、客体だけが意識の野を占領する状態」と説明されている。
上記の原文を探しましたところ、「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のヨーガ・スートラ 3-3 に記載がありました。三昧の説明としてこれが記載されていますが、それがこの”意”と”識”と結びつくのは私にとってはちょっと意外でした。と言いますのも、三昧の定義は「主体と客体が同一になる(二元性がない)」ことだと思っていたからです。であれば私は既に三昧(の一種)に既に到達していることになりますけど、あまりピンときません。三昧は種類が沢山あって、どれがどうなのか文章だけではイマイチわかり辛いのも難点です。手元の書物を改めて確認してみましたところ、どうやら最初の三昧(サマーディ)は主体と客体の二元性がまだ残っており、次第に二元性のない三昧(サマーディ)に移ってゆくとのことです。サマーディはあまりにも高い目標とばかり思っていましたのでサマーディのことはノーマークでしたが、基本的なサマーティの要素はいつの間にか達成していたようです。
私は”心”と”意識”という言葉で表現しましたが、こうして見ると色々と表現方法があるものです。
人はよく客観視という言葉を気軽に使いますけど、ヨーガ的というか心理学的な狭義の「客観」がこの種の状態を意味するのであれば狭義の客観ができている人はかなり絞られると思います。広義の客観が技術的・論理的なものであるとしたらここで言う狭義の客観はまるで別物ですね。興味深いです。まあ、この辺りを突っ込みだしたら色々とあるでしょうし定義によっても異論も色々あるでしょうからこのくらいにしておきます。客体とか主体とか客観とか主観という言葉の定義を色々調べ出したら、上の引用文も論理的にどうなのでしょう? という気もしてきましたので。自分の瞑想で「答え」を知っているので「ああ、あのことを言いたいのかな」と類推できますけど、そうでなければこれはなかなか理解し辛い表現だと思います。
■息の「観察」の変化
先日書いた「息の観察」について補足します。かなり以前は瞑想で「息を観察」する場合に「心」で「吸っています」「吐いています」あるいは擬音で「スー」「ハー」と「心の声」を出すようにしておりましたが、それは「観察」とは言わないような気が最近はしています。昔はこの辺りの表現がごちゃ混ぜだったかもしれませんので、昔の記事を読むと混乱があるかもしれません。かなり以前は心による現象の追っかけ動作も「観察している(筈)」と思っていましたが、いつ頃からか、息の「観察」と言うと「意識で」観察することだと今は思っています。よって、上に書いた「心を動かさずに息などを観察していると〜」と言うのは心で息の動きを言語化することではなくて、「意識」で(心はほとんど動かさずに)息を観察することを意味します。この違いは大きいです。この「意識」の動作は「感じること」と言い換えても良いです。
■ヨーガスートラにおけるサマーディ
幾つかの書物を探ってみます。
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には以下のようにあります。
最初の心の脱落は、肉体が周囲の空間に溶け込んだ時に起こる。感覚を受け止めるフィールドは残っているが、独特の調和が保たれることで、ほとんど雑念が湧いてこない。あたかも静かな泉の水面(みなも)を淡々と眺めているだけのような感覚だ。心中、嵐もなく波紋も起こらない。意識は判然としていて心の平静を自覚している。
これは先日書いた内容ととても似ています。どうやら私はこの段階にいるようです。第三図の「見牛」に相当します。同書は次のように続きます。
だが、本当の意味での心の脱落とは、一定の調和によって雑念などを起こらなくさせることではなく、ヨーガスートラ第1章にあるように心の作用そのものを止滅させることなのだ。(中略)これは「騎牛帰家」から「忘牛存人」に至るプロセスに他ならないのである。
この最終的な状態は私にはまだよくわかりません。と言いますか、てっきり前者のお話がヨーガスートラの「心の作用の止滅」かと思っておりましたので、今の私の状態はまだ半分なのだとこの本で気付かされました。
■禅の十牛図とヨーガスートラ・ウパニシャッドの比較
同書ではこれらの比較も行なっています。
- (十牛図)心身脱落 = (ヨーガスートラ)心の作用の止滅 = (初期仏教)止
- (十牛図)見性 = (ヨーガスートラ)純粋観察者の出現(真我を見る) = (初期仏教)観
- (十牛図)得牛〜放牛 = (ヨーガスートラ)真我独存 = (初期仏教)還
- (十牛図)騎牛帰家 = (ウパニシャッド)真我の離脱 = (初期仏教)還
- (十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)宇宙の最高原理との合一 = (初期仏教)還
- (十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)穢れを離れる = (初期仏教)浄
- (十牛図)人牛倶忘 = (ウパニシャッド)死を超越する = (初期仏教)浄
ヨーガスートラで言うところの「心の作用の止滅」が半分ではあるものの体感できるようになってきて、「次はどうすれば良いのだろう?」と思っておりましたので、道筋が見えてきました。
■主観と客観、意と識の分離、客体と自体
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」では、先日書いた「心で観察するか、意識で観察するか」に関して次のように説明しています。
ヨーガで止滅させる対象は”意”であって”識”ではない。なぜなら”識”は、意の働くフィールドであって、ヨーガの技術によっても止滅させることはできないからだ。つまり、識なくして個の存在もない。またこの識は、個を超えて全体とも繋がっている。だからこそそこに全体との合一と融合つまりウパニシャッドへの道が開かれるわけだ。ヨーガは意と”個の段階の識”を対象とし、ウパニシャッドは”個”を超えたより深く広い領域を対象としている。
これまた興味深い記述です。この”意”と”識”という表現はこの著者の編み出した言い方のようです。上の段階と合わせるとよく理解できます。同書では、同じ”意”と”識”について別の観点からも紹介しています。
ヨーガスートラには「(中略)客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」とある。佐保田博士は「心理学的に言えば、主観の状態が忘れ去られて、客体だけが意識の野を占領する状態」と説明されている。
上記の原文を探しましたところ、「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のヨーガ・スートラ 3-3 に記載がありました。三昧の説明としてこれが記載されていますが、それがこの”意”と”識”と結びつくのは私にとってはちょっと意外でした。と言いますのも、三昧の定義は「主体と客体が同一になる(二元性がない)」ことだと思っていたからです。であれば私は既に三昧(の一種)に既に到達していることになりますけど、あまりピンときません。三昧は種類が沢山あって、どれがどうなのか文章だけではイマイチわかり辛いのも難点です。手元の書物を改めて確認してみましたところ、どうやら最初の三昧(サマーディ)は主体と客体の二元性がまだ残っており、次第に二元性のない三昧(サマーディ)に移ってゆくとのことです。サマーディはあまりにも高い目標とばかり思っていましたのでサマーディのことはノーマークでしたが、基本的なサマーティの要素はいつの間にか達成していたようです。
私は”心”と”意識”という言葉で表現しましたが、こうして見ると色々と表現方法があるものです。
人はよく客観視という言葉を気軽に使いますけど、ヨーガ的というか心理学的な狭義の「客観」がこの種の状態を意味するのであれば狭義の客観ができている人はかなり絞られると思います。広義の客観が技術的・論理的なものであるとしたらここで言う狭義の客観はまるで別物ですね。興味深いです。まあ、この辺りを突っ込みだしたら色々とあるでしょうし定義によっても異論も色々あるでしょうからこのくらいにしておきます。客体とか主体とか客観とか主観という言葉の定義を色々調べ出したら、上の引用文も論理的にどうなのでしょう? という気もしてきましたので。自分の瞑想で「答え」を知っているので「ああ、あのことを言いたいのかな」と類推できますけど、そうでなければこれはなかなか理解し辛い表現だと思います。
■息の「観察」の変化
先日書いた「息の観察」について補足します。かなり以前は瞑想で「息を観察」する場合に「心」で「吸っています」「吐いています」あるいは擬音で「スー」「ハー」と「心の声」を出すようにしておりましたが、それは「観察」とは言わないような気が最近はしています。昔はこの辺りの表現がごちゃ混ぜだったかもしれませんので、昔の記事を読むと混乱があるかもしれません。かなり以前は心による現象の追っかけ動作も「観察している(筈)」と思っていましたが、いつ頃からか、息の「観察」と言うと「意識で」観察することだと今は思っています。よって、上に書いた「心を動かさずに息などを観察していると〜」と言うのは心で息の動きを言語化することではなくて、「意識」で(心はほとんど動かさずに)息を観察することを意味します。この違いは大きいです。この「意識」の動作は「感じること」と言い換えても良いです。
■ヨーガスートラにおけるサマーディ
幾つかの書物を探ってみます。
- ヨーガスートラ 3章1~3) 「集中(ダーラナ)とは、心を1つの場所、対象、あるいは観念に縛りつけておくことである。瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。」瞑想には、3つの要素がある。つまり、瞑想者と瞑想と瞑想される対象である。しかしサマーディには、対象か瞑想者かの、どちらかしかない。そこには、「私はこれこれのものに瞑想している」という感じがない。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
- ヨーガスートラ 3章1~3) 「ダーラナー(集中)とは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の普段の流れが、ディヤーナ(瞑想)である。それが全ての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。」それは、瞑想中に形、すなわち外側の部分がすてられたときにやってくる。かりに私がある書物を瞑想していたとする。そして徐々に心をそれに集中し、内面の感覚、すなわち形ではまったく表現されていない意味だけを知覚することに成功した時、ディヤーナのその状態が、サマーディとよばれるのである。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
- ヨーガスートラ 3章1~3) 「凝念(ぎょうねん)とは、心を特定の場所に縛りつけておくことである。静慮(じょうりょ)とは、同一の場所を対象とする想念がひとすじに伸びていくことである。その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。」心理学的にいえば、主観の存在が忘れられて、客体だけが意識の野を占領する状態である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」
- ヨーガスートラ 3章1~3) 「心(マインド)と物体との間の途切れない認識の流れがディヤーナ(瞑想)です。瞑想では、心(マインド)は気を散らすことなく、着実に集中の対象を掴んでいます。 他の考えは心(マインド)に入りません。主体と対象の意識が消えて意味だけが残るとき、サマーディと呼ばれます。」サマーディは、瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)から翻訳」
- 「対象か瞑想者かの、どちらかしかない」ということは「瞑想」が抜け落ちるので、瞑想という「動作」が抜け落ちて「主体がなくなる」「心の動きがなくなる」と解釈できます。この種の3つのお話はヨーガでは時々あって、見る者/見られる者(物)/見ること(動作)という3つのセットなのでそのうち1つが抜け落ちると解釈できます。
- 「私はこれこれのものに瞑想している、という感じがない」というのは、心の停止・雑念の停止を意味すると解釈。
- 「意味だけを知覚」とは 「意識」で「感じること」と同等と解釈。
- 「客体ばかりになる」というのは「意識で感じる」ことであり、「自体を無くしてしまったかのように」とは、「心がなくなる(停止した)」状態、と解釈。
- 「主観の存在が忘れられて」とは、主観となる「心」の動きが停止することだと解釈。「客体だけが意識の野を占領する状態」とは、「意識」で「感じる」状態だと解釈。
- 「主体と対象の意識が消えて意味だけが残る」とは、原文の「意識」という言葉が混乱しますが、本来の意味を考えればこれは「心の動きが止まり、意識で意味を感じる」と解釈。同様に「瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。」も混乱しますが、「瞑想の対象の本質に意識を結びつけるもの。その純粋な意識以外には何も存在しません。心は停止しています。」と解釈できます。
西洋の心「マインド」と無意識
■西洋の心「マインド」
先日の ”心”と”意識” の続きです。英語でマインド(心)と呼ぶ時、基本的には顕在意識を意味し、潜在意識(無意識)を含みません。しかし、時折、深く精神を語る時には潜在意識(無意識)もマインド(心)の一部として語られます。ここに混乱があります。例えば、先日引用したヨーガスートラ 3章1~3の中で「マインド」という言葉が潜在意識の意味で使われていたりします。
一部の論者は言葉を使い分けて、例えばOSHOラジニーシは通常の心(顕在意識)に対して潜在意識(無意識)をノー・マインド(無心)などと言ったりします。使い分けてもらえるとわかりやすいのですが、両者を共にマインド(心)と言ってしまうところにこの種の話の混乱があるように思います。
私が先日書いた文章も似たような言葉を使っているので混乱があって申し訳ないのですが、先日の記事の”心”は顕在意識で、先日の記事の”意識(で感じる)”は潜在意識(無意識)に対応します。そのまま顕在意識と潜在意識と書いてしまうと精神分析っぽく聞こえてしまって本来言いたいことが伝わらなかったりしますので難しいところです。このあたり、一般的に用語が統一されれば良いのですが。
■銀河鉄道999
たしか銀河鉄道999で「心」がどうのこうの、という印象的な詩的表現があったかと思いますが、詩的表現は潜在意識(無意識)の心(マインド)の方だと思います。
■心と「1なる心」
精神分析のユングは顕在意識と潜在意識を研究した立役者の1人ですが、彼の著書「東洋的瞑想の心理学(C・G・ユング 著)」の中で次のように分析しています。
世間でふつう心とよばれているものについての知識は、広くゆきわたっている。
これは、顕在意識を「ふつう」の心と言っていて、それに対比して説明を試みているようです。
一なる心は、まさに空であり、何らの基礎も持っていない。人の心は、同じように、天空のようにからっぽである。(中略)真なる状態における心は、創造されず、自ら輝いている。(中略)一なる心と無意識が同一であることについて、なお疑いをもっている読者には、この節はその疑いをぬぐい去ってくれるはずである。
ユングは、ヨーガにおいてアートマンとかブラフマンとか呼ばれているいわゆる「魂」を「心」とか「一なる心」と表現しています。時に「心」と言ったり「一なる心」と言ったり紛らわしいところではありますが。そして、心の表現を以下のように羅列しています。
心に与えられた名称
それに与えられていたさまざまの名は、数えきれない。
ある人びとはそれを「心の自己」とよぶ。
ある者たちは、それを「自我」(アートマン)とよぶ。
小乗の者たちによって、それは「教えの本質をなすもの」とよばれる。
ヨーガ学派によって、それは「智恵」とよばれる。
ある人びとはそれを、「彼岸の知恵に達する方法」(般若波羅蜜、プラジュニャー・パーラミタ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「仏陀の本質」とよぶ。
ある人びとはそれを、「偉大なる象徴」とよぶ。
ある人びとはそれを、「唯一の種子」(ビンドゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「真理の潜在的可能力」(法界、ダルマダートゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「すべての基礎」とよぶ。
日常の言葉では、それにはまた、別な名がつけられている。
中には、ちょっと違うのではないかと思われるものも含まれていますが、ユングが西洋人としてアジアを理解しようとしたのが見てとれますのでこれはこれで興味深いです。
先日の ”心”と”意識” の続きです。英語でマインド(心)と呼ぶ時、基本的には顕在意識を意味し、潜在意識(無意識)を含みません。しかし、時折、深く精神を語る時には潜在意識(無意識)もマインド(心)の一部として語られます。ここに混乱があります。例えば、先日引用したヨーガスートラ 3章1~3の中で「マインド」という言葉が潜在意識の意味で使われていたりします。
一部の論者は言葉を使い分けて、例えばOSHOラジニーシは通常の心(顕在意識)に対して潜在意識(無意識)をノー・マインド(無心)などと言ったりします。使い分けてもらえるとわかりやすいのですが、両者を共にマインド(心)と言ってしまうところにこの種の話の混乱があるように思います。
私が先日書いた文章も似たような言葉を使っているので混乱があって申し訳ないのですが、先日の記事の”心”は顕在意識で、先日の記事の”意識(で感じる)”は潜在意識(無意識)に対応します。そのまま顕在意識と潜在意識と書いてしまうと精神分析っぽく聞こえてしまって本来言いたいことが伝わらなかったりしますので難しいところです。このあたり、一般的に用語が統一されれば良いのですが。
■銀河鉄道999
たしか銀河鉄道999で「心」がどうのこうの、という印象的な詩的表現があったかと思いますが、詩的表現は潜在意識(無意識)の心(マインド)の方だと思います。
■心と「1なる心」
精神分析のユングは顕在意識と潜在意識を研究した立役者の1人ですが、彼の著書「東洋的瞑想の心理学(C・G・ユング 著)」の中で次のように分析しています。
世間でふつう心とよばれているものについての知識は、広くゆきわたっている。
これは、顕在意識を「ふつう」の心と言っていて、それに対比して説明を試みているようです。
一なる心は、まさに空であり、何らの基礎も持っていない。人の心は、同じように、天空のようにからっぽである。(中略)真なる状態における心は、創造されず、自ら輝いている。(中略)一なる心と無意識が同一であることについて、なお疑いをもっている読者には、この節はその疑いをぬぐい去ってくれるはずである。
ユングは、ヨーガにおいてアートマンとかブラフマンとか呼ばれているいわゆる「魂」を「心」とか「一なる心」と表現しています。時に「心」と言ったり「一なる心」と言ったり紛らわしいところではありますが。そして、心の表現を以下のように羅列しています。
心に与えられた名称
それに与えられていたさまざまの名は、数えきれない。
ある人びとはそれを「心の自己」とよぶ。
ある者たちは、それを「自我」(アートマン)とよぶ。
小乗の者たちによって、それは「教えの本質をなすもの」とよばれる。
ヨーガ学派によって、それは「智恵」とよばれる。
ある人びとはそれを、「彼岸の知恵に達する方法」(般若波羅蜜、プラジュニャー・パーラミタ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「仏陀の本質」とよぶ。
ある人びとはそれを、「偉大なる象徴」とよぶ。
ある人びとはそれを、「唯一の種子」(ビンドゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「真理の潜在的可能力」(法界、ダルマダートゥ)とよぶ。
ある人びとはそれを、「すべての基礎」とよぶ。
日常の言葉では、それにはまた、別な名がつけられている。
中には、ちょっと違うのではないかと思われるものも含まれていますが、ユングが西洋人としてアジアを理解しようとしたのが見てとれますのでこれはこれで興味深いです。
神に許しを請う祈りとは?
■「私」という感覚の希薄化に伴う「神に対する祈り」への変化
先日 許す瞑想 について書きましたが、その時の主体は「私」で、私が許します、という瞑想でした。ですが、私という感覚の希薄化に伴って、(私が)「許します」という瞑想 から(神よ)「許してください」という瞑想に自然に変化してきました。
竜巻の経験の前は自分という感覚(自我)がまだそれなりにあったので「私が」許します、という瞑想だったのです。今は、「私」という自我の感覚が薄まったので「私が」許すというのは違和感があるので「神よ、許してください」というのがしっくりきます。論理的に考えてそうなったというよりは、どちらが「しっくり来るか」というお話です。しっくりくる言葉が自然に湧き上がってきます。これは他人(あるいは人格神)に依存するということではなくて、自我がなくなった時の許しはこうするしかない、という感覚です。自我がある時はおそらくは「私が許します」で問題ないのかなと思います。
キリスト教の許しを請う祈りはこのレベルなのかもしれないです。自我が薄まるまではその許しと祈りの本質は理解できないのかもしれません。神様に祈って許しを請うのは、過去のカルマを解消するにはそれ以外に方法がないからです。神様以外に、一体誰に許しをもらえるというのでしょう? 特定の神様のイメージはありません。他に表現することができないのでとりあえず神様と言っているだけで、ブラフマンとか大自然とか宇宙とか言ってもいいかもしれませんけど、私にとっては普通に神様というのがしっくりとくるというだけのことです。些細なことであっても、今までしてきたことに対して、それの許しがもらえるとしたら神様以外に思い浮かびません。まあ、人によっては「守護霊様」とか「大心霊様」とか「天照大御神様」とか「キリスト様」とか「アッラー」とか、なんでもきっと同じなのだと思います。
自我がまだある状態で無理やり許しの瞑想を誰かにさせられたらキリスト教の悪い習慣のように神様に対して恐怖を感じてしまうのかもしれませんが、本来の意味は自我がなくなった状態でのこの種の許しを自発的にすることだとすればそこに強制はなくて恐怖もなくて、ただただ安らぎ(と言う言葉すら違和感がある平穏さ)だけがあるのでしょう。言葉にすればそれは何か違う感じになってしまいますが、神様に委ねるしかない、という気持ちです。繰り返しますけど、神様への依存ではないです。自我がなくなった時の祈りを表現するとしたら神様への祈りとしか言いようがない、という、表現だけの問題です。
過去を振り返りますと、過去の大きなトラウマに関しては「自分」に対して許す瞑想でかなり解消してきていました。それをベースにして、まだ残っているとても小さな小さな出来事に対しても完全に浄化するには、これはもう神様に祈るしかないな、という感覚です。最初から自我が少ない人であれば最初から神様に祈ればいいのかもしれませんが。
ここでは「神」という言葉はブラフマン的な意味で言っており、大自然や宇宙とも言える大きな存在ですので人格神ではありませんが、神様が「人」だと頑なに思っている人、あるいは、神様がなにがしかの「自分以外の意志や存在」、あるいは、絶対的な人格神だと頑なに思っている人は、これは逆じゃないかと思うかもしれません。その種の人々は、「大きな罪は神様に助けてもらって小さな罪は自分でなんとかする」、いうように逆に考えるかもしれません。ですが、ここで言っている神は人格神ではありませんので、ここで言っているのはそういうことではなくて、自我が強いか弱まっているかという観点で瞑想というか祈りのやり方を変えているだけです。祈りも瞑想も本質は同じです。この祈りの本質は「許し」で、本質的には自分も他人もないのですから自我なんて幻想ですので、ただ単に、自我が強ければ「私が許す」とするしかないし、自我が弱まれば自然に「神様(自分も実は含まれる)が許す」という観点になるのは自然なことだと思います。この辺りを勘違いしてしまうとモラルハザードになってしまう可能性がありますので難しいところではあると思います。勘違いして「自分が許す」とか言ってしまうと「自分が後で許すんだから何をやってもいい」とか考えてしまう人もいらっしゃるかもしれませんが、自分が酷いことをしたらカルマの法則で自分が後で酷い目にあうだけです。その危険性は置いておいて、ここで言いたいのは、自我の減少に伴って神に対する祈りが瞑想中に自然に出てきた、ということです。
■「好き」の感覚は治まりました
先日から感じていた「好き」の感覚は次第に治まりました。あまりにも波が減って、過去の感情の起伏がちょっと懐かしいような(執着?)気もちょっとするのですが、まあ、これはこれでいいかな、という感じです。瞑想中も「喜び」はほとんど感じなくなりました。次の段階に進んできたのでしょうか。
■「好き」の感覚と第3禅定、第4禅定
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、第3禅定で「喜悦感から離れて平安(捨)な心になる。幸福感はまだあります」と言います。第4禅定で「最後に残った幸福感さえもなくします。と言っても不幸になるのではなく、苦、喜び、憂いなどはとっくに消えていますので、心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。しかも、心はこの平安状態をしっかり確認して、気づき(念)は途絶えません。喜びや幸福感さえも静まった心の平安だけを味わいます。」とあります。私が「好き」の感覚が治ったということは、この第3あるいは第4禅定のどちらかに来ていると思われます。
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」はテーラワーダ仏教ですがチベット仏教系の「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」にも同じようなことが書かれています。第3禅定で「よろこびの感情のない幸福感(捨)」が達成されるとのことです。
私はおそらく第3禅定なのかなと思っております。「何かがちょっと足りない」感じがあります。
「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと、第4禅定で「4つの限りない心(四無量心)」を得ると言います。
■「意識で感じること」の補足
先日の「感じること」の補足です。
「意識で感じること」と「(五感の)皮膚で感じること」とは別物です。記事で扱っているのは前者の意味です。
■アートマンはどこにいる?
瞑想中、先日読んだ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」に従って禅の十牛図「身心脱落」(先日の記事 )から「純粋観察者(真我、アートマン)の出現」を目指して、瞑想中に心を平穏にしてからアートマン(純粋観察者)がどこにいるのか探してみました。最初は胸のあたりかなと思ったのですが、胸は確かに「暖」と言えるくらい暖かい状態ではあるのですが、アートマンがそのものかどうかどうかはよくわからず。感覚で探ってみたら、胸の前から顔の少し前にかけて浮かんでいる? ような気がしました。私の体より少し前方に、体と少し重なって丸く存在? 楕円で、顔の前くらいから胸のちょっと前あたりまで。まあ、これはまだ様子見です。まだちゃんと見つけた気はしません。
先日 許す瞑想 について書きましたが、その時の主体は「私」で、私が許します、という瞑想でした。ですが、私という感覚の希薄化に伴って、(私が)「許します」という瞑想 から(神よ)「許してください」という瞑想に自然に変化してきました。
竜巻の経験の前は自分という感覚(自我)がまだそれなりにあったので「私が」許します、という瞑想だったのです。今は、「私」という自我の感覚が薄まったので「私が」許すというのは違和感があるので「神よ、許してください」というのがしっくりきます。論理的に考えてそうなったというよりは、どちらが「しっくり来るか」というお話です。しっくりくる言葉が自然に湧き上がってきます。これは他人(あるいは人格神)に依存するということではなくて、自我がなくなった時の許しはこうするしかない、という感覚です。自我がある時はおそらくは「私が許します」で問題ないのかなと思います。
キリスト教の許しを請う祈りはこのレベルなのかもしれないです。自我が薄まるまではその許しと祈りの本質は理解できないのかもしれません。神様に祈って許しを請うのは、過去のカルマを解消するにはそれ以外に方法がないからです。神様以外に、一体誰に許しをもらえるというのでしょう? 特定の神様のイメージはありません。他に表現することができないのでとりあえず神様と言っているだけで、ブラフマンとか大自然とか宇宙とか言ってもいいかもしれませんけど、私にとっては普通に神様というのがしっくりとくるというだけのことです。些細なことであっても、今までしてきたことに対して、それの許しがもらえるとしたら神様以外に思い浮かびません。まあ、人によっては「守護霊様」とか「大心霊様」とか「天照大御神様」とか「キリスト様」とか「アッラー」とか、なんでもきっと同じなのだと思います。
自我がまだある状態で無理やり許しの瞑想を誰かにさせられたらキリスト教の悪い習慣のように神様に対して恐怖を感じてしまうのかもしれませんが、本来の意味は自我がなくなった状態でのこの種の許しを自発的にすることだとすればそこに強制はなくて恐怖もなくて、ただただ安らぎ(と言う言葉すら違和感がある平穏さ)だけがあるのでしょう。言葉にすればそれは何か違う感じになってしまいますが、神様に委ねるしかない、という気持ちです。繰り返しますけど、神様への依存ではないです。自我がなくなった時の祈りを表現するとしたら神様への祈りとしか言いようがない、という、表現だけの問題です。
過去を振り返りますと、過去の大きなトラウマに関しては「自分」に対して許す瞑想でかなり解消してきていました。それをベースにして、まだ残っているとても小さな小さな出来事に対しても完全に浄化するには、これはもう神様に祈るしかないな、という感覚です。最初から自我が少ない人であれば最初から神様に祈ればいいのかもしれませんが。
ここでは「神」という言葉はブラフマン的な意味で言っており、大自然や宇宙とも言える大きな存在ですので人格神ではありませんが、神様が「人」だと頑なに思っている人、あるいは、神様がなにがしかの「自分以外の意志や存在」、あるいは、絶対的な人格神だと頑なに思っている人は、これは逆じゃないかと思うかもしれません。その種の人々は、「大きな罪は神様に助けてもらって小さな罪は自分でなんとかする」、いうように逆に考えるかもしれません。ですが、ここで言っている神は人格神ではありませんので、ここで言っているのはそういうことではなくて、自我が強いか弱まっているかという観点で瞑想というか祈りのやり方を変えているだけです。祈りも瞑想も本質は同じです。この祈りの本質は「許し」で、本質的には自分も他人もないのですから自我なんて幻想ですので、ただ単に、自我が強ければ「私が許す」とするしかないし、自我が弱まれば自然に「神様(自分も実は含まれる)が許す」という観点になるのは自然なことだと思います。この辺りを勘違いしてしまうとモラルハザードになってしまう可能性がありますので難しいところではあると思います。勘違いして「自分が許す」とか言ってしまうと「自分が後で許すんだから何をやってもいい」とか考えてしまう人もいらっしゃるかもしれませんが、自分が酷いことをしたらカルマの法則で自分が後で酷い目にあうだけです。その危険性は置いておいて、ここで言いたいのは、自我の減少に伴って神に対する祈りが瞑想中に自然に出てきた、ということです。
■「好き」の感覚は治まりました
先日から感じていた「好き」の感覚は次第に治まりました。あまりにも波が減って、過去の感情の起伏がちょっと懐かしいような(執着?)気もちょっとするのですが、まあ、これはこれでいいかな、という感じです。瞑想中も「喜び」はほとんど感じなくなりました。次の段階に進んできたのでしょうか。
■「好き」の感覚と第3禅定、第4禅定
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、第3禅定で「喜悦感から離れて平安(捨)な心になる。幸福感はまだあります」と言います。第4禅定で「最後に残った幸福感さえもなくします。と言っても不幸になるのではなく、苦、喜び、憂いなどはとっくに消えていますので、心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。しかも、心はこの平安状態をしっかり確認して、気づき(念)は途絶えません。喜びや幸福感さえも静まった心の平安だけを味わいます。」とあります。私が「好き」の感覚が治ったということは、この第3あるいは第4禅定のどちらかに来ていると思われます。
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」はテーラワーダ仏教ですがチベット仏教系の「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」にも同じようなことが書かれています。第3禅定で「よろこびの感情のない幸福感(捨)」が達成されるとのことです。
私はおそらく第3禅定なのかなと思っております。「何かがちょっと足りない」感じがあります。
「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと、第4禅定で「4つの限りない心(四無量心)」を得ると言います。
- 慈しみの心(慈、じ)
- あわれみの心(悲、ひ)
- 他に対する喜びの心(喜、き)
- 平静な心(捨、しゃ)
■「意識で感じること」の補足
先日の「感じること」の補足です。
「意識で感じること」と「(五感の)皮膚で感じること」とは別物です。記事で扱っているのは前者の意味です。
■アートマンはどこにいる?
瞑想中、先日読んだ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」に従って禅の十牛図「身心脱落」(先日の記事 )から「純粋観察者(真我、アートマン)の出現」を目指して、瞑想中に心を平穏にしてからアートマン(純粋観察者)がどこにいるのか探してみました。最初は胸のあたりかなと思ったのですが、胸は確かに「暖」と言えるくらい暖かい状態ではあるのですが、アートマンがそのものかどうかどうかはよくわからず。感覚で探ってみたら、胸の前から顔の少し前にかけて浮かんでいる? ような気がしました。私の体より少し前方に、体と少し重なって丸く存在? 楕円で、顔の前くらいから胸のちょっと前あたりまで。まあ、これはまだ様子見です。まだちゃんと見つけた気はしません。
クンダリーニがアナハタまで上がった。許されています。アートマンはどこに?
■クンダリーニがアナハタまで上がった
先日の「風のルンの竜巻」 の経験以降アナハタが優勢になっています。ちゃんとは書いていませんでしたがこのことがいわゆる「クンダリーニがアナハタまで上がった」状態かなと思っております。第2回目クンダリーニでいわゆるクンダリーニっぽい経験があって、今回の竜巻では同種の感覚ではなかったものの、アナハタ優勢になっています。初回は「熱」が中心でしたが、今回は「風」が上昇した感じです。エネルギーの違いかなと思っております。
クンダリーニヨガ系の書物を見るとクンダリーニを数十分〜数時間の行法でムーラダーラからアナハタを超えてアジナやサハスララまで上げる方法などが書かれてあったりしますが、そのように短時間でクンダリーニを上げる行法のことは私にはよく分かりません。書物で読んだことはありますが私自身の体験としてそのような短時間でのクンダリーニの移動は経験がありません。第2回目クンダリーニの「熱」をそのままアナハタ以上に上げるのはエネルギーの種類が違うのであまりよくない気もするのですがどうなのでしょう?
ここで「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言っているのは、クンダリーニの「居所」がムーラダーラ(あるいはマニプラ)からアナハタまで移動した(上がった)ということで、そのことを、きっと「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言うのかな、と思っております。この辺りは流派によって色々とあるかもしれませんね。クンダリーニの居所が変わることを「上がった」とは言わない流派もありそうですし。
上がるだけではなく、エネルギーの質も「熱」から「暖」に変わっています。
当日の記事を読むとこの辺りは「夢の中」で起こったことになってますので、読んだ方は「え。現実ではなくて夢でしょ?」とお思いになるかもございませんが、ヨーガやスピリチュアル的には夢も現実なのです。ですので、私にとって夢での経験が現実に影響することは全く違和感がないのです。
■許しの瞑想の続き
先日書いた「許しの瞑想」の続きです。
最初は(自分が)「許す瞑想」(該当記事) でした。
次は (神様に)「許しを請う瞑想」 (該当記事) に変わりました。
今日は、その許しの瞑想が(主体なしに)「許されています」に変化しました。
「神様に許されています」ではありません。
「誰かに許されている」ではありません。
ただ、「許されています」に変化しました。
冠詞はなくても良いですし、主体はなくても良いのですが、あえて主体をつけるのであれば「太陽に許されています」ならアリです。「太陽の光に許されています」よりは「太陽に許されています」の方がしっくりきます。
特に付け加えることはほとんどないのですが、あえて説明のために言うならば「存在することを許されている」「太陽に存在することを許されている」「太陽が許さなければこの世のものは何者も存在できない」と言う感じがします。であれば、この地上に存在するだけで、それは太陽に存在を許されていると言うことなのかもしれません。この地上に存在すると言うだけで、それは既に太陽に存在を許可されているとは凄いことです。許容力が絶大ですね。
■アートマンは十字架の姿?
先日の「アートマンはどこにいる?」 (該当記事) の続きです。
アートマンを今日も探したところ、自分の正面にいるのは同じなのですが、その姿が「十字架」っぽい気がしました。十字架の形で何かがあって、後光が差している感覚。十字架のところだけ若干暗いです。これが何なのかまだ掴めていませんので、もう少し様子を見ます。
■第三禅定と第四禅定
先日の第三禅定と第四禅定のお話の続きです。
ほぼ同一ではありますが、「釈尊の生涯 (中村 元 著)」に第三禅定と第四禅定の描写があります。
第三禅「平静であり、念あり、安楽にとどまっている」
第四禅「楽を捨てて苦を捨てるがゆえに、先に喜びと憂いとを滅したので不苦不楽であり、平静と念とによって清められている」
ここまではほぼ同一なのですが、先日のアビダンマ仏教では第四禅定が悟りではなくてその先があるのですが、こちらの原文を見ますと、第四禅定で悟りになっています。原文とは言いましてもブッダ本人の著作ではなくて弟子の残した文章ですので必ずしも正しいとは限りませんし、ブッダは語る相手によって言論を使い分けていたと言いますから鵜呑みにはできませんが、第四禅定で悟りにしている点は興味深いです。
先日の「風のルンの竜巻」 の経験以降アナハタが優勢になっています。ちゃんとは書いていませんでしたがこのことがいわゆる「クンダリーニがアナハタまで上がった」状態かなと思っております。第2回目クンダリーニでいわゆるクンダリーニっぽい経験があって、今回の竜巻では同種の感覚ではなかったものの、アナハタ優勢になっています。初回は「熱」が中心でしたが、今回は「風」が上昇した感じです。エネルギーの違いかなと思っております。
クンダリーニヨガ系の書物を見るとクンダリーニを数十分〜数時間の行法でムーラダーラからアナハタを超えてアジナやサハスララまで上げる方法などが書かれてあったりしますが、そのように短時間でクンダリーニを上げる行法のことは私にはよく分かりません。書物で読んだことはありますが私自身の体験としてそのような短時間でのクンダリーニの移動は経験がありません。第2回目クンダリーニの「熱」をそのままアナハタ以上に上げるのはエネルギーの種類が違うのであまりよくない気もするのですがどうなのでしょう?
ここで「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言っているのは、クンダリーニの「居所」がムーラダーラ(あるいはマニプラ)からアナハタまで移動した(上がった)ということで、そのことを、きっと「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言うのかな、と思っております。この辺りは流派によって色々とあるかもしれませんね。クンダリーニの居所が変わることを「上がった」とは言わない流派もありそうですし。
上がるだけではなく、エネルギーの質も「熱」から「暖」に変わっています。
当日の記事を読むとこの辺りは「夢の中」で起こったことになってますので、読んだ方は「え。現実ではなくて夢でしょ?」とお思いになるかもございませんが、ヨーガやスピリチュアル的には夢も現実なのです。ですので、私にとって夢での経験が現実に影響することは全く違和感がないのです。
■許しの瞑想の続き
先日書いた「許しの瞑想」の続きです。
最初は(自分が)「許す瞑想」(該当記事) でした。
次は (神様に)「許しを請う瞑想」 (該当記事) に変わりました。
今日は、その許しの瞑想が(主体なしに)「許されています」に変化しました。
「神様に許されています」ではありません。
「誰かに許されている」ではありません。
ただ、「許されています」に変化しました。
冠詞はなくても良いですし、主体はなくても良いのですが、あえて主体をつけるのであれば「太陽に許されています」ならアリです。「太陽の光に許されています」よりは「太陽に許されています」の方がしっくりきます。
特に付け加えることはほとんどないのですが、あえて説明のために言うならば「存在することを許されている」「太陽に存在することを許されている」「太陽が許さなければこの世のものは何者も存在できない」と言う感じがします。であれば、この地上に存在するだけで、それは太陽に存在を許されていると言うことなのかもしれません。この地上に存在すると言うだけで、それは既に太陽に存在を許可されているとは凄いことです。許容力が絶大ですね。
■アートマンは十字架の姿?
先日の「アートマンはどこにいる?」 (該当記事) の続きです。
アートマンを今日も探したところ、自分の正面にいるのは同じなのですが、その姿が「十字架」っぽい気がしました。十字架の形で何かがあって、後光が差している感覚。十字架のところだけ若干暗いです。これが何なのかまだ掴めていませんので、もう少し様子を見ます。
■第三禅定と第四禅定
先日の第三禅定と第四禅定のお話の続きです。
ほぼ同一ではありますが、「釈尊の生涯 (中村 元 著)」に第三禅定と第四禅定の描写があります。
第三禅「平静であり、念あり、安楽にとどまっている」
第四禅「楽を捨てて苦を捨てるがゆえに、先に喜びと憂いとを滅したので不苦不楽であり、平静と念とによって清められている」
ここまではほぼ同一なのですが、先日のアビダンマ仏教では第四禅定が悟りではなくてその先があるのですが、こちらの原文を見ますと、第四禅定で悟りになっています。原文とは言いましてもブッダ本人の著作ではなくて弟子の残した文章ですので必ずしも正しいとは限りませんし、ブッダは語る相手によって言論を使い分けていたと言いますから鵜呑みにはできませんが、第四禅定で悟りにしている点は興味深いです。
後頭部と眉間の鼓動。ルドラ・グランティが揺さぶられた
■後頭部と眉間の鼓動
朝、枕につけている後頭部が脈拍の倍くらいの速度で脈動していました。と同時に、同じくらいの速度で眉間が細かく震えていました。
頭の中の下の方での脈拍は先日と同じように感じていますが、確認してみると、先日のような「うなじ下」の脈動はなし。脈拍と同じスピードでの鼓動が頭の下の方であるのと、脈拍の倍くらいの脈動が後頭部と眉間にあります。これら3箇所には何か連動があるのかもしれませんけど、一応別物です。まあ、様子見です。
■今日の許しの瞑想
先日まで変化してきた許しの瞑想ですが、今日はそういう感じになりませんでした。特にそれで不都合もなく、ただの平穏な瞑想でした。
■目覚め
クンダリーニ経験後は基本的に目覚めは良かったのですがここ最近、目覚めが悪かったのです。ですが、昨日今日は割と普通に起きられました。許しの瞑想が関係しているのでしょうか? それとも、何か別の要因でしょうか。様子見です。
[2020/11/18 追記]
後日思い返せば、これがルドラ・グランティが(少し)解かれたときの体験だったのかな? とも思います。
朝、枕につけている後頭部が脈拍の倍くらいの速度で脈動していました。と同時に、同じくらいの速度で眉間が細かく震えていました。
頭の中の下の方での脈拍は先日と同じように感じていますが、確認してみると、先日のような「うなじ下」の脈動はなし。脈拍と同じスピードでの鼓動が頭の下の方であるのと、脈拍の倍くらいの脈動が後頭部と眉間にあります。これら3箇所には何か連動があるのかもしれませんけど、一応別物です。まあ、様子見です。
■今日の許しの瞑想
先日まで変化してきた許しの瞑想ですが、今日はそういう感じになりませんでした。特にそれで不都合もなく、ただの平穏な瞑想でした。
■目覚め
クンダリーニ経験後は基本的に目覚めは良かったのですがここ最近、目覚めが悪かったのです。ですが、昨日今日は割と普通に起きられました。許しの瞑想が関係しているのでしょうか? それとも、何か別の要因でしょうか。様子見です。
[2020/11/18 追記]
後日思い返せば、これがルドラ・グランティが(少し)解かれたときの体験だったのかな? とも思います。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”
■心が一枚岩だという誤解によりヴィパッサナー瞑想が生まれた?
先日引用した「釈尊の生涯 (中村 元 著)」の通り、仏教経典には第四禅定で悟りになっているようです。禅定というのはいわゆるサマタ瞑想です。一般にはそのように考えられています。アビダンマ仏教などではヴィパッサナー瞑想という概念を使って、禅定の後に観察瞑想を行うことで悟りに至ると説明されています。
ブッダが第四禅定で悟ったとは、一体どういうことでしょう? 仮説ではありますが、ブッダの時代の禅定はヴィパッサナー瞑想相当だった、とも考えられます。 このあたり、本当に混乱するのですが、前提条件として「心」が何なのかが異なっていると意味合いも異なってくるのです。まず、心が「顕在意識(いわゆる論理思考の表面な意識)」のみであるという前提がサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という2つの概念を作り出しているような気がします。一方で、ブッダの言う「心」は「顕在意識」のみならず「潜在意識」をも含み、むしろ「潜在意識」を中心に「心」と言っているのでサマタだとかヴィパッサナーだとか言う区分はなくなると思います。
■サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”
区分けしてみますと、本当にスッキリします。
・顕在意識での瞑想がサマタ瞑想。瞑想初心者はここから開始。禅定で達成できるのもサマタ瞑想の禅定のみ。
・潜在意識での瞑想がヴィパッサナー瞑想。先日の記事の「身心脱落 」に至ることで潜在意識が表に出てくるとすれば、その段階に至って初めてヴィパッサナー瞑想が可能になるのだと思います。それ以前は潜在意識でのヴィパッサナー瞑想は不可能。それ以前は形式だけヴィパッサナー瞑想だとしても潜在意識を使ったヴィパッサナー瞑想は不可能だと思います。この状態での禅定で達成できるのはヴィパッサナー瞑想的な禅定。最近の用語ではこれは禅定とは言わないようですが、推測ですがブッダの時代にはこれも禅定と言っていたのではないでしょうか。仮説ですが。自分で禅定を体験してみると、禅定の状態でも潜在意識は停止しませんので、よく書籍で見るように「禅定はサマタ瞑想だから心が停止してしまうだけなので一時的な安らぎに過ぎない」とか書いてあることの意味がわかるようでいてしっくりきません。先日の引用記事にて、ヨーガで止滅させるのは”意”であって”識”ではない、とありますが、この説明を流用して、「禅定はサマタ瞑想だから意が停止します。身心脱落に至っていれば識がありますが至っていなければ識はまだありません(あるいはぼんやりとしています)」とだけ言ってもらった方がスッキリします。一時的な安らぎとかなんとか言われても、なんだかお茶を濁しているように感じてしまいます。禅定で「意」が止まると言うことならそれはそうですけど、身心脱落の後であればそれでも同時に「識」は動いていますから、その禅定は同時にヴィパッサナー瞑想でもあるわけです。その状態になった時、その瞑想をサマタ瞑想と呼ぶのでしょうか? それともヴィパッサナー瞑想と呼ぶのでしょうか? 微妙ですよね。
同じ禅定で”意”を停止した場合、”識”が動いていなければ(身心脱落の前)それをサマタ瞑想と呼んで、”識”が動いている(身心脱落の後)のであればそれをヴィパッサナー瞑想と呼ぶのであれば、それはそうかなと思いますが、そのような区分けは聞いたことがありません。従来の瞑想の区分けですと、”意”で観察している時も(形式によって)ヴィパッサナー瞑想と呼んでしまうので、何が何だかよく分からなくなります。”識”で観察している時だけヴィパッサナー瞑想と呼べばいいのにと思うのですが、それよりも瞑想の形式でヴィパッサナー瞑想と呼んだりしていると思います。
今の混乱した用語のままですと、”意”を停止させてサマタ瞑想をしていても”識”が動いているのであればヴィパッサナー瞑想相当ですが本人は自分の瞑想のことをサマタ瞑想と言ったりするかもしれません。もしかしたら仏教原典に書かれたブッダの禅定とはこのことかなと推測するのですが。であれば、身心脱落により”識”が動いているブッダが禅定でサマタ瞑想に入って”意”を止めて”識”だけで観察するヴィパッサナー瞑想で悟った、と言うのはすんなり理解できます。
どうも、この種の用語はブッダ本人ではなく、後の世代の人が身心脱落に至ることなく、”識”とは何なのかを体感することなく”意”のみでブッダの瞑想を理解したことによってサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という区分が出来てしまったのではないかと推測したりするのですが、どうですかね。もちろん仮説ですけれども。仮説はさておき、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想との区分けは今日の考察で私的には随分とスッキリしました。
先日引用した「釈尊の生涯 (中村 元 著)」の通り、仏教経典には第四禅定で悟りになっているようです。禅定というのはいわゆるサマタ瞑想です。一般にはそのように考えられています。アビダンマ仏教などではヴィパッサナー瞑想という概念を使って、禅定の後に観察瞑想を行うことで悟りに至ると説明されています。
ブッダが第四禅定で悟ったとは、一体どういうことでしょう? 仮説ではありますが、ブッダの時代の禅定はヴィパッサナー瞑想相当だった、とも考えられます。 このあたり、本当に混乱するのですが、前提条件として「心」が何なのかが異なっていると意味合いも異なってくるのです。まず、心が「顕在意識(いわゆる論理思考の表面な意識)」のみであるという前提がサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という2つの概念を作り出しているような気がします。一方で、ブッダの言う「心」は「顕在意識」のみならず「潜在意識」をも含み、むしろ「潜在意識」を中心に「心」と言っているのでサマタだとかヴィパッサナーだとか言う区分はなくなると思います。
■サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”
区分けしてみますと、本当にスッキリします。
意(顕在意識) | 身心脱落 | 識(潜在意識) | |
1 | あり | なし(未達) | なし(隠れている) |
2 | あり/なし | あり(可能) | あり |
・顕在意識での瞑想がサマタ瞑想。瞑想初心者はここから開始。禅定で達成できるのもサマタ瞑想の禅定のみ。
・潜在意識での瞑想がヴィパッサナー瞑想。先日の記事の「身心脱落 」に至ることで潜在意識が表に出てくるとすれば、その段階に至って初めてヴィパッサナー瞑想が可能になるのだと思います。それ以前は潜在意識でのヴィパッサナー瞑想は不可能。それ以前は形式だけヴィパッサナー瞑想だとしても潜在意識を使ったヴィパッサナー瞑想は不可能だと思います。この状態での禅定で達成できるのはヴィパッサナー瞑想的な禅定。最近の用語ではこれは禅定とは言わないようですが、推測ですがブッダの時代にはこれも禅定と言っていたのではないでしょうか。仮説ですが。自分で禅定を体験してみると、禅定の状態でも潜在意識は停止しませんので、よく書籍で見るように「禅定はサマタ瞑想だから心が停止してしまうだけなので一時的な安らぎに過ぎない」とか書いてあることの意味がわかるようでいてしっくりきません。先日の引用記事にて、ヨーガで止滅させるのは”意”であって”識”ではない、とありますが、この説明を流用して、「禅定はサマタ瞑想だから意が停止します。身心脱落に至っていれば識がありますが至っていなければ識はまだありません(あるいはぼんやりとしています)」とだけ言ってもらった方がスッキリします。一時的な安らぎとかなんとか言われても、なんだかお茶を濁しているように感じてしまいます。禅定で「意」が止まると言うことならそれはそうですけど、身心脱落の後であればそれでも同時に「識」は動いていますから、その禅定は同時にヴィパッサナー瞑想でもあるわけです。その状態になった時、その瞑想をサマタ瞑想と呼ぶのでしょうか? それともヴィパッサナー瞑想と呼ぶのでしょうか? 微妙ですよね。
同じ禅定で”意”を停止した場合、”識”が動いていなければ(身心脱落の前)それをサマタ瞑想と呼んで、”識”が動いている(身心脱落の後)のであればそれをヴィパッサナー瞑想と呼ぶのであれば、それはそうかなと思いますが、そのような区分けは聞いたことがありません。従来の瞑想の区分けですと、”意”で観察している時も(形式によって)ヴィパッサナー瞑想と呼んでしまうので、何が何だかよく分からなくなります。”識”で観察している時だけヴィパッサナー瞑想と呼べばいいのにと思うのですが、それよりも瞑想の形式でヴィパッサナー瞑想と呼んだりしていると思います。
今の混乱した用語のままですと、”意”を停止させてサマタ瞑想をしていても”識”が動いているのであればヴィパッサナー瞑想相当ですが本人は自分の瞑想のことをサマタ瞑想と言ったりするかもしれません。もしかしたら仏教原典に書かれたブッダの禅定とはこのことかなと推測するのですが。であれば、身心脱落により”識”が動いているブッダが禅定でサマタ瞑想に入って”意”を止めて”識”だけで観察するヴィパッサナー瞑想で悟った、と言うのはすんなり理解できます。
どうも、この種の用語はブッダ本人ではなく、後の世代の人が身心脱落に至ることなく、”識”とは何なのかを体感することなく”意”のみでブッダの瞑想を理解したことによってサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という区分が出来てしまったのではないかと推測したりするのですが、どうですかね。もちろん仮説ですけれども。仮説はさておき、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想との区分けは今日の考察で私的には随分とスッキリしました。
七つの目覚めの要員(七覚支)と執着の放棄・貧欲の終わり・欲の止滅
私はこれから具体的にどうすれば良いのでしょう? と思っていて、調べてみました。すると、手がかりが「ブッダの〈呼吸〉の瞑想(ティク・ナット・ハン 著)」に掲載されているヴィパッサナー関連の経典にありました。それは、アーナンダ尊者による質問という形式になっています。
「修行が実を結んだ暁に、四種の気づきの確立(四念処、身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)と、七つの目覚めの要員(七覚支)と、智恵と解放というふたつの要因を保ち続ける力を獲得できるような、そうした修行の仕方はあるだろうか?」
・・・(中略)・・・活力(精進)という要因が完成したとき、それは喜び(喜)という目覚めの要因を成就するための道を開く。それによって、心が自然に喜びに満たされるからだ。
これは、明示はしてありませんが、第一禅定に似ています。この経典は一般ではヴィパッサナー瞑想として解釈されていると思いますけど、先日書きましたようにヴィパッサナー瞑想もサマタ瞑想もそうは変わらないと仮定しますと、一般的にはサマタ瞑想だと考えられている禅定とこの説明が結びつくわけです。これは個人的な解釈ですので、他所で言っても通じないと思います。あくまでも仮説です。
(中略)安らぎという要因が完成したとき、身心は満たされ、それは集中(定)という目覚めの要因を成就するための道を開く助けになる。
これも、明示はしてありませんが、第二禅定に似ています。
(中略)集中という要因が完成したとき、貧欲は消え、それは平静(捨、しゃ)という目覚めの要因を成就するための道を開く。
これも明示はしてありませんが、第三禅定に似ています。
「高潔な弟子が、感覚において感覚の観察を行い、心の活動において心の活動の観察を行い、現象において現象の観察を行うとき、ちょうど身体において身体の観察を行うのと同じように、七つの目覚めの要員を完成させることができる。」
「アーナンダよ、これは七つの目覚めの要員の観察を目指すための四種の気づきの確立の修行と呼ばれる」
と、言うことは、第三禅定(明記はありませんが)に到達するために行うのは四念処(身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)だと言うことになります。もちろん前提条件としてヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想が前記の意味でほぼ同じという仮定が成り立つ場合においての話です。
この後、アーナンダはいわゆる「悟り」であると思われる「理解と解放」に至る方法を訪ねています。
「七つの目覚めの要員によって理解と解放を完成するには、どんな修行をすればいいのでしょうか?」
ブッダはアーナンダに説いた。
「比丘(びく、男子修行者)が、目覚めの一要因である気づきを、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして修行するとき、彼は平静さへと向かう道を歩み、気づきという目覚めの一要因の力によって、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。比丘が、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして、その他の目覚めの諸要因 ーーー 現象の識別、活力、喜び、安らぎ、集中、平静の修行をするとき、これらの目覚めの諸要因の力によって、同じように、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。」
以前の記事( 1, 2, 3 )で引用しましたが、第四禅定の要件はこれとは微妙に異なりますね。拡大解釈すれば同じとみなせなくもないですが、第三禅定まではかなり似ていて第四禅定だけ違うのはどういうことでしょう? 謎です。その差は保留するにしても、ここでのポイントは「執着」「貧欲」の克服ですね。これは「煩悩」ですので悟る前に煩悩があるのは当然で、悟ることで煩悩がなくなる、という方向性が理解できます。であれば、ここでブッダが説いているのは悟りへの道ですね。このブッダの言葉をそのまま解釈すれば、第三禅定相までで悟るための「目覚めの要員、七覚支」は一通り揃うことになります。その上で、その目覚めの要員(七覚支)を使うことで悟り(あるいは第四禅定?)に至ることができる、と読めます。
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、アビダンマ仏教では第四禅定が悟りではありません。ですが、仏教原典では度々、第四禅定で悟りのように読めなくもない表現に遭遇します。解説書よりも原典の方がスッキリしていてシンプルですし、実は悟りとはかなり単純なものなのかもしれない気がしています。
もしかしたら一般的に「悟り」と言われているのは第四禅定くらいのことを意味しているのかもしれません。
先日、十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの段階を引用しましたけど、第四禅定より先があるのにも関わらず一般的には第四禅定が悟りと見なされるのだとすれば、それはそうかもしれない、という気もします。
もちろんここで言う第四禅定とは、先日考察しましたようにサマタ瞑想だけの第四禅定ではなくヴィパッサナー的な第四禅定のことで、身心脱落していて”意(顕在意識)”が止まっていて”識(潜在意識、いわゆるアートマン)”が現れている第四禅定のことです。
■許す瞑想
先日の続きです。
一連の「許す瞑想」の変化ですが、最後の「(太陽に)許されています」から「(太陽に)癒やされています」に変わりました。癒やしとはこういうことかもしれません?
昼間はそんな感じですけど、夜は「(星々に)癒されています」という感じです。
最初から変化を書きますと「(私が)許します」→「(神よ)許してください」→「(主体なしに)許されています」→「(太陽に)許されています」→(昼間は)「(太陽に)癒やされています」&(夜は)「(星々に)癒されています」に変化してきました。
「修行が実を結んだ暁に、四種の気づきの確立(四念処、身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)と、七つの目覚めの要員(七覚支)と、智恵と解放というふたつの要因を保ち続ける力を獲得できるような、そうした修行の仕方はあるだろうか?」
・・・(中略)・・・活力(精進)という要因が完成したとき、それは喜び(喜)という目覚めの要因を成就するための道を開く。それによって、心が自然に喜びに満たされるからだ。
これは、明示はしてありませんが、第一禅定に似ています。この経典は一般ではヴィパッサナー瞑想として解釈されていると思いますけど、先日書きましたようにヴィパッサナー瞑想もサマタ瞑想もそうは変わらないと仮定しますと、一般的にはサマタ瞑想だと考えられている禅定とこの説明が結びつくわけです。これは個人的な解釈ですので、他所で言っても通じないと思います。あくまでも仮説です。
(中略)安らぎという要因が完成したとき、身心は満たされ、それは集中(定)という目覚めの要因を成就するための道を開く助けになる。
これも、明示はしてありませんが、第二禅定に似ています。
(中略)集中という要因が完成したとき、貧欲は消え、それは平静(捨、しゃ)という目覚めの要因を成就するための道を開く。
これも明示はしてありませんが、第三禅定に似ています。
「高潔な弟子が、感覚において感覚の観察を行い、心の活動において心の活動の観察を行い、現象において現象の観察を行うとき、ちょうど身体において身体の観察を行うのと同じように、七つの目覚めの要員を完成させることができる。」
「アーナンダよ、これは七つの目覚めの要員の観察を目指すための四種の気づきの確立の修行と呼ばれる」
と、言うことは、第三禅定(明記はありませんが)に到達するために行うのは四念処(身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)だと言うことになります。もちろん前提条件としてヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想が前記の意味でほぼ同じという仮定が成り立つ場合においての話です。
この後、アーナンダはいわゆる「悟り」であると思われる「理解と解放」に至る方法を訪ねています。
「七つの目覚めの要員によって理解と解放を完成するには、どんな修行をすればいいのでしょうか?」
ブッダはアーナンダに説いた。
「比丘(びく、男子修行者)が、目覚めの一要因である気づきを、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして修行するとき、彼は平静さへと向かう道を歩み、気づきという目覚めの一要因の力によって、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。比丘が、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして、その他の目覚めの諸要因 ーーー 現象の識別、活力、喜び、安らぎ、集中、平静の修行をするとき、これらの目覚めの諸要因の力によって、同じように、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。」
以前の記事( 1, 2, 3 )で引用しましたが、第四禅定の要件はこれとは微妙に異なりますね。拡大解釈すれば同じとみなせなくもないですが、第三禅定まではかなり似ていて第四禅定だけ違うのはどういうことでしょう? 謎です。その差は保留するにしても、ここでのポイントは「執着」「貧欲」の克服ですね。これは「煩悩」ですので悟る前に煩悩があるのは当然で、悟ることで煩悩がなくなる、という方向性が理解できます。であれば、ここでブッダが説いているのは悟りへの道ですね。このブッダの言葉をそのまま解釈すれば、第三禅定相までで悟るための「目覚めの要員、七覚支」は一通り揃うことになります。その上で、その目覚めの要員(七覚支)を使うことで悟り(あるいは第四禅定?)に至ることができる、と読めます。
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、アビダンマ仏教では第四禅定が悟りではありません。ですが、仏教原典では度々、第四禅定で悟りのように読めなくもない表現に遭遇します。解説書よりも原典の方がスッキリしていてシンプルですし、実は悟りとはかなり単純なものなのかもしれない気がしています。
もしかしたら一般的に「悟り」と言われているのは第四禅定くらいのことを意味しているのかもしれません。
先日、十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの段階を引用しましたけど、第四禅定より先があるのにも関わらず一般的には第四禅定が悟りと見なされるのだとすれば、それはそうかもしれない、という気もします。
もちろんここで言う第四禅定とは、先日考察しましたようにサマタ瞑想だけの第四禅定ではなくヴィパッサナー的な第四禅定のことで、身心脱落していて”意(顕在意識)”が止まっていて”識(潜在意識、いわゆるアートマン)”が現れている第四禅定のことです。
■許す瞑想
先日の続きです。
一連の「許す瞑想」の変化ですが、最後の「(太陽に)許されています」から「(太陽に)癒やされています」に変わりました。癒やしとはこういうことかもしれません?
昼間はそんな感じですけど、夜は「(星々に)癒されています」という感じです。
最初から変化を書きますと「(私が)許します」→「(神よ)許してください」→「(主体なしに)許されています」→「(太陽に)許されています」→(昼間は)「(太陽に)癒やされています」&(夜は)「(星々に)癒されています」に変化してきました。
心身脱落と禅定との関係
今朝、息や体の感覚を観察しつつ執着や貧欲が体のどこかに眠っていないか探るように瞑想していました。すると、いつの間にか足の存在の感覚が半分くらい薄れて、手を足に乗せているところが触れている感覚だけが残っていました。完全に足がないわけではありませんが、感覚が薄れています。今回は「体の一部がなくなる感覚」と言えばそうなのですが、今まではそもそも体の感覚がそれほど認識できていなかったのが、今回は体の全体に意識が行き届いたために体の一部がないかのような感覚になった、とでも言いますか。体が意識できていなければそもそも「なくなる感覚」なんてできないので以前はこんな感じにはなりませんでした。言葉でうまく表現できているかどうかわかりませんが。今までは息の観察や体の観察をするにしても部分的に観察をしていました。息であれば鼻とか肺とか、気の流れであれば体の内的感覚であるとか、皮膚の感覚であれば皮膚の反応があった時にそこを観察するとか。ですが、今朝の場合は体全体に薄い感覚が広がっていて、オーラっぽいものが体の全体に広がっているのを感じつつ、瞑想中に足の一部が何か薄れて存在がなくなるかのような感じになったのです。これはひょっとしたら、なくなったのではなくて、そこだけオーラが薄れたとか、エネルギー的な偏差が体の一部で生じたとか、そのようなものかもしれないと思いました。様子見ではありますけど。
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、「最初の身の脱落は、空間に溶けてゆく感覚だが、そこに全身全霊で浸りきることが、心の作用の止滅へと繋がってゆく。」とあります。
先日引用した部分に相当しますね。私のやっていることの方向性は合っていそうですのでこのまま続けてみることにします。座った方がしやすそうですが必ずしも座った瞑想中でないとできないようなものでもなさそうですので、普段の生活でも感覚を眺めつつ様子をみることにします。同書によりますと「体」の脱落が先で「心」の脱落が後だと言います。個人的にはこれは同じもので体が脱落すれば心も脱落すると言いますか全部一度に落ちるわけではなくて体が少し落ちれば心も少し落ちて、心が少し落ちれば体も少し落ちて、というように協調して落ちて行く気がしていますが、今後は体が先に脱落するようになるのでしょうか? 同書の理屈でいえばその順番になるのは理屈ではわかる気もしますけど、実際のところどうなのかな? という気もします。まあ、この辺りも様子見ですね。
■心身脱落と禅定との関係
先日の続きです。書籍ではこのような分類は見つけられませんが、私自身の感覚に基づいて心身脱落と禅定との関係をまとめてみます。他で言っても通じないとは思います。メモ相当です。
サマタ瞑想論者は「集中していけば第四禅定に至って悟ることができる・・・」と思っているかもしれませんし、一方で、ヴィパッサナー瞑想の論者は基本的な集中力の必要さは認めているものの「観察さえしていけば悟ることができる・・・」と思っているかもしれません。少なくとも、私の基本的な両者への理解はこんな感じです。ですが、ブッダがそんな分類なんてしていなくて、本当に単純なことを言っていただけだったような気がします。それは例えば「意(顕在意識)を止めて心身脱落すれば(それまでは隠れていた)識(潜在意識・アートマン)が現れてきて、識(潜在意識・アートマン)で観察をすれば悟りに至ることができる」というようなことかなという気がいたします。
■心身脱落なし(心身脱落前)でのサマタ瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でサマタ瞑想を考えてみます。
■心身脱落なし(心身脱落前)でのヴィパッサナー瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でヴィパッサナー瞑想を考えてみます。この場合、意・顕在意識による観察ということになります。この場合、心身脱落なし(心身脱落前)ですので識(潜在意識)による観察はできません。
それぞれ簡単に考察してみましたが、サマタとかヴィパッサナーとか拘らずにステップごとに必要なものを学んだ方がいいような気がします。そもそもブッダの原文を見ますとそれほどこの分類に拘っているような感じは受けませんし。ブッダの禅定の発言の中にもヴィパッサナー的な視点は読み取れますし、ブッダのヴィパッサナー瞑想の説明の中に禅定的な視点も読み取れます。
ヴィパッサナー論者は「観察瞑想とは言ってもある程度の集中は必要」と言いますが、サマタ瞑想とかヴィパッサナー瞑想とかいう区分けを取っ払って、第二禅定に至るまではサマタ(観察)瞑想8割、ヴィパッサナー(観察)瞑想2割くらいで基本は集中瞑想にして心を平穏にして、第三禅定以降でヴィパッサナー瞑想の割合を増やして行くのがいいのかな、という気もします。流派によってはサマタ瞑想を最初にやってヴィパッサナー瞑想をその後にするそうですが、その理屈はこんなところかもしれません。その流派にこの辺りを聞いたことはありませんが、そのうち機会があれば聞いてみたいとは思います。サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想への移行はそれなりに瞑想が進まないと移らないとすれば、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の切り替えは数ヵ月から年単位になる気がします。
「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、「最初の身の脱落は、空間に溶けてゆく感覚だが、そこに全身全霊で浸りきることが、心の作用の止滅へと繋がってゆく。」とあります。
先日引用した部分に相当しますね。私のやっていることの方向性は合っていそうですのでこのまま続けてみることにします。座った方がしやすそうですが必ずしも座った瞑想中でないとできないようなものでもなさそうですので、普段の生活でも感覚を眺めつつ様子をみることにします。同書によりますと「体」の脱落が先で「心」の脱落が後だと言います。個人的にはこれは同じもので体が脱落すれば心も脱落すると言いますか全部一度に落ちるわけではなくて体が少し落ちれば心も少し落ちて、心が少し落ちれば体も少し落ちて、というように協調して落ちて行く気がしていますが、今後は体が先に脱落するようになるのでしょうか? 同書の理屈でいえばその順番になるのは理屈ではわかる気もしますけど、実際のところどうなのかな? という気もします。まあ、この辺りも様子見ですね。
■心身脱落と禅定との関係
先日の続きです。書籍ではこのような分類は見つけられませんが、私自身の感覚に基づいて心身脱落と禅定との関係をまとめてみます。他で言っても通じないとは思います。メモ相当です。
- ステップ1(禅定以前):心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想あるいは心身脱落前の(意・顕在意識による)ヴィパッサナー瞑想で基本的な集中力と基本的な観察力を鍛える。
- ステップ2:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第一禅定(心はまだ動いており、基本的な集中による喜びの感覚があります)
- ステップ3:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第二禅定(心が静寂になり統一され、本当の意味での禅定の達成)
- ステップ4:心身脱落の初期段階で第三禅定を達成し、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想が可能になる。
- ステップ5:(今後)おそらくは・・・ 心身脱落の完成によって意・顕在意識が完全に落ちて第四禅定に至り、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想の状態になるのだと推測します。ヴィパッサナー瞑想的に見ればこれは禅定とは言わずにヴィパッサナー瞑想なのでしょうが、先日の記事のような視点でサマタ瞑想的に見れば第四禅定となり、実際の状態は同じなのではないでしょうか。もともとブッダの言葉で第四禅定が悟りになっているのはこの種の意味で第四禅定であれば確かに悟りとも言えるのかな、という気もします。禅定とヴィパッサナー瞑想が別々にあるのではなく、実質は一緒なのかな、という気がします。
サマタ瞑想論者は「集中していけば第四禅定に至って悟ることができる・・・」と思っているかもしれませんし、一方で、ヴィパッサナー瞑想の論者は基本的な集中力の必要さは認めているものの「観察さえしていけば悟ることができる・・・」と思っているかもしれません。少なくとも、私の基本的な両者への理解はこんな感じです。ですが、ブッダがそんな分類なんてしていなくて、本当に単純なことを言っていただけだったような気がします。それは例えば「意(顕在意識)を止めて心身脱落すれば(それまでは隠れていた)識(潜在意識・アートマン)が現れてきて、識(潜在意識・アートマン)で観察をすれば悟りに至ることができる」というようなことかなという気がいたします。
■心身脱落なし(心身脱落前)でのサマタ瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でサマタ瞑想を考えてみます。
- ステップ1(禅定以前):上と同じ
- ステップ2:上と同じ。第一禅定
- ステップ3:上と同じ。第二禅定
- ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
- ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
■心身脱落なし(心身脱落前)でのヴィパッサナー瞑想
対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でヴィパッサナー瞑想を考えてみます。この場合、意・顕在意識による観察ということになります。この場合、心身脱落なし(心身脱落前)ですので識(潜在意識)による観察はできません。
- ステップ1(禅定以前):上と同じ
- ステップ2:ヴィパッサナー瞑想と言いつつも意・顕在意識による観察ですから集中力がある程度にまで高まれば第一禅定には至る気がします。
- ステップ3:ステップ2と同様。実のところ集中瞑想をして第二禅定に至ることはある気がします。
- ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
- ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?
それぞれ簡単に考察してみましたが、サマタとかヴィパッサナーとか拘らずにステップごとに必要なものを学んだ方がいいような気がします。そもそもブッダの原文を見ますとそれほどこの分類に拘っているような感じは受けませんし。ブッダの禅定の発言の中にもヴィパッサナー的な視点は読み取れますし、ブッダのヴィパッサナー瞑想の説明の中に禅定的な視点も読み取れます。
ヴィパッサナー論者は「観察瞑想とは言ってもある程度の集中は必要」と言いますが、サマタ瞑想とかヴィパッサナー瞑想とかいう区分けを取っ払って、第二禅定に至るまではサマタ(観察)瞑想8割、ヴィパッサナー(観察)瞑想2割くらいで基本は集中瞑想にして心を平穏にして、第三禅定以降でヴィパッサナー瞑想の割合を増やして行くのがいいのかな、という気もします。流派によってはサマタ瞑想を最初にやってヴィパッサナー瞑想をその後にするそうですが、その理屈はこんなところかもしれません。その流派にこの辺りを聞いたことはありませんが、そのうち機会があれば聞いてみたいとは思います。サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想への移行はそれなりに瞑想が進まないと移らないとすれば、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の切り替えは数ヵ月から年単位になる気がします。
十牛図とナーダ音
幾つかバージョンがあるようですので複数引用します。
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
尋ねゆく みやまの牛は見えずして ただうつせみの声のみぞする
尋ねいる 牛こそ見えぬ夏山の こずゑにせみの声ばかりして
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)心身ともに力尽きたが、見当もつかない。ただ楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の声を聞くばかりだ。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)力尽き元気も涸(か)れ、求める牛は見つからない。聞こえるのはただ夜の森に鳴く蝉の声ばかり
(「究極の旅(OSHO著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
青柳の糸の中なる春の日に つねはるかなる形をぞ見る
吼(ほ)えけるをしるべにしつつ荒牛の 影みるほどに尋ねゆきけり
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
声に従って入り口に足を踏み入れれば、見の境地でその源に逢う。
(中略)枝に止まる うぐいすの声が聞こえる。
(中略)荘重なその牛の角は描こうとしてもなかなか描けない。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
私は鶯(ナイチンゲール)の歌を聞く。
(中略)その声を聞けば、人はそれの源を感じ取ることができる。六感が溶け合うやいなや、もう門の中に入っている。どこから入ろうと、人は牛の頭を見る。
(「究極の旅(OSHO著)」より)
これらに共通しているのは「蝉の音」と「鶯の鳴き声」です。インド各国では鶯によく似たナイチンゲールと言う鳥がいるそうですので、日本語で考えるならば全部ウグイスでいいと思います。
先日ナーダ音について引用した中に7種類の音に関する言及がありますが、その1番目の音がそのものズバリ「ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声」で、一致しています。ですので、仮説ではありますが、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」はナーダ音のことを言及しているのかなと思います。
一方、第一図「尋牛(じんぎゅう)」の「蝉の音」ですが、聖典にはそのものズバリはありません。私自身の記録で言うと一番最初に聞こえてきたのが(一番最初に気づいたのが)「チ・チ・チ・チ・チ」と言う鶯の声っぽい音でしたので、それ以前は気付きませんでした。ですが、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」を始め各種書物を読むと必ずしも先に引用した7つの順番とは限らないようですので、人によっては「蝉の音」が最初に聞こえるのかもしれません。
「蝉の音」がナーダ音だと言う確証を得られませんでしたので、もしかしたら「蝉の音」もナーダ音かもしれませんがの判断は保留で、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」がナーダ音だと(個人的には)考えることにします。
ちなみに、上記で引用した本のどれにもこれらの音がナーダ音だとは書いてありませんでした。
唯一それらしき詩の引用が「参禅入門(大森 曹玄 著)」の第三図「見牛(けんぎゅう)の説明の中にありました。
「やみの夜に、鳴かぬ鳥の声きけば、生まれぬさきの父ぞ悲しき」(一球禅師)というが、「凡ての牛が黒くなる暗夜」に心牛の声を聞くことができれば、それが「源に逢う」というもので、自己の根源にふれたといえよう。(中略)見牛とは、この源に逢うこと、つまり見性のことである。ただしこの段階では見ることは見たのだが、霞の中にボーッと牛の影を見たのか、同じ見たと言っても、その見た程度は人によってさまざまであろう。
このあたりは微妙なところですので、わかっていても書物にははっきりとは書かなかったのかもしれませんね。
先日の十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの考察の通り、第三図「見牛(けんぎゅう)が自己の本性というかアートマンを見る段階である、と言うのは共通していそうです。ただ、十牛図には幾つかバージョンがあるようですので、これと一致していないものもありました。第三図の説明で「牛の姿をはっきりと描けない」とか「はっきりとは見えない」と言っているのは、この段階ではアートマンをしっかりと見ることができない、と言う点でも共通しています。
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
尋ねゆく みやまの牛は見えずして ただうつせみの声のみぞする
尋ねいる 牛こそ見えぬ夏山の こずゑにせみの声ばかりして
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)心身ともに力尽きたが、見当もつかない。ただ楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の声を聞くばかりだ。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)
■第一図「尋牛(じんぎゅう)」
(前略)力尽き元気も涸(か)れ、求める牛は見つからない。聞こえるのはただ夜の森に鳴く蝉の声ばかり
(「究極の旅(OSHO著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
青柳の糸の中なる春の日に つねはるかなる形をぞ見る
吼(ほ)えけるをしるべにしつつ荒牛の 影みるほどに尋ねゆきけり
(「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
声に従って入り口に足を踏み入れれば、見の境地でその源に逢う。
(中略)枝に止まる うぐいすの声が聞こえる。
(中略)荘重なその牛の角は描こうとしてもなかなか描けない。
(「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)
■第三図「見牛(けんぎゅう)」
私は鶯(ナイチンゲール)の歌を聞く。
(中略)その声を聞けば、人はそれの源を感じ取ることができる。六感が溶け合うやいなや、もう門の中に入っている。どこから入ろうと、人は牛の頭を見る。
(「究極の旅(OSHO著)」より)
これらに共通しているのは「蝉の音」と「鶯の鳴き声」です。インド各国では鶯によく似たナイチンゲールと言う鳥がいるそうですので、日本語で考えるならば全部ウグイスでいいと思います。
先日ナーダ音について引用した中に7種類の音に関する言及がありますが、その1番目の音がそのものズバリ「ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声」で、一致しています。ですので、仮説ではありますが、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」はナーダ音のことを言及しているのかなと思います。
一方、第一図「尋牛(じんぎゅう)」の「蝉の音」ですが、聖典にはそのものズバリはありません。私自身の記録で言うと一番最初に聞こえてきたのが(一番最初に気づいたのが)「チ・チ・チ・チ・チ」と言う鶯の声っぽい音でしたので、それ以前は気付きませんでした。ですが、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」を始め各種書物を読むと必ずしも先に引用した7つの順番とは限らないようですので、人によっては「蝉の音」が最初に聞こえるのかもしれません。
「蝉の音」がナーダ音だと言う確証を得られませんでしたので、もしかしたら「蝉の音」もナーダ音かもしれませんがの判断は保留で、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」がナーダ音だと(個人的には)考えることにします。
ちなみに、上記で引用した本のどれにもこれらの音がナーダ音だとは書いてありませんでした。
唯一それらしき詩の引用が「参禅入門(大森 曹玄 著)」の第三図「見牛(けんぎゅう)の説明の中にありました。
「やみの夜に、鳴かぬ鳥の声きけば、生まれぬさきの父ぞ悲しき」(一球禅師)というが、「凡ての牛が黒くなる暗夜」に心牛の声を聞くことができれば、それが「源に逢う」というもので、自己の根源にふれたといえよう。(中略)見牛とは、この源に逢うこと、つまり見性のことである。ただしこの段階では見ることは見たのだが、霞の中にボーッと牛の影を見たのか、同じ見たと言っても、その見た程度は人によってさまざまであろう。
このあたりは微妙なところですので、わかっていても書物にははっきりとは書かなかったのかもしれませんね。
先日の十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの考察の通り、第三図「見牛(けんぎゅう)が自己の本性というかアートマンを見る段階である、と言うのは共通していそうです。ただ、十牛図には幾つかバージョンがあるようですので、これと一致していないものもありました。第三図の説明で「牛の姿をはっきりと描けない」とか「はっきりとは見えない」と言っているのは、この段階ではアートマンをしっかりと見ることができない、と言う点でも共通しています。