魔境
先日書きましたように、最近は瞑想をして眉間に集中をすることで意(顕在意識)が出てもすぐに消えていわゆる「定(じょう)」とでも言うべき安定した状態には入れるようになったのですが、その状態で、何か奥底からザワザワとしたものが出てきて揺さぶられたり、何かちょっとした重要ではないイメージが見えたり、外が一瞬見えた気がしたり、今更ながら急に雑念がザワッと出てきたりして、なんだこれ??? と思っていたりしました。何かが間違っていて、逆戻りして瞑想が変になった可能性も含めて瞑想を観察して、なるべく取り込まれないように「定(じょう)」に立ち戻ろうとしていましたが、なんだかうまくいかない日もあったりして、どうしたものかと思っていました。ヨーガの瞑想の基本は、何か見えたり聞こえたりしても重要ではないので無視すること、と言うのが基本にありますので何を見たかと言う点に関してはそれほど重要視はしていないのですが、それよりも、このような現象一般が起こることに対しての全般的な理解が欲しかったのです。
そんな時、調べ物をしていたところこの記述を発見しました。私の状態が似ているかもしれません。
誰でも坐に慣れてある程度定力が熟してくると、まず手の感覚がなくなり、次に足の感覚がなくなる、といった具合に自分と外界との隔てがだんだんとなくなってくるであろう。(中略)そのいい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象が現れることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来「魔境」と呼んでいる。 (中略)魔境の起こるのは禅定力がある程度熟した証拠であることは間違いない。
先日 から、体の感覚がなくなる、と言う感じになってきたかと思ったら急に次は魔境です。まだ魔境というほど酷い魔境には出くわしていないですが、これから酷くなるのでしょうか? 魔境が禅定力が熟した証拠と言うことは、いわゆる雑念で混乱している状態のことは魔境とは言わないのですね。
われわれが座禅三昧にはいると、いわゆる意馬心猿(いばしんえん、煩悩・欲情・妄想)が静まってくる。静止状態になるのである。そこで潜在意識の煩悩の活動が表面化され、そこにいわゆる魔境を現出するのである。意識の動きが休止して、その底にひそむ無意識層が表面に現れるのだから、これを定力の効験だといっても、いっこうさしつかえないわけである。
無意識に眠っている、ヨーガ的に言えばサムスカーラと言う「印象」が深いところから出てきて魔境を作り出すのだ、と解釈できます。著者は次のように続けます。
真実の自己を悟るために座禅するのだから、いかに無意識界だといっても翻弄されているわけにはいかない。そこで「仏に逢うては仏を斬り、祖に逢うては祖を斬る」で、勇猛心をふるい起こして定中に幻出する一切の現象を粉砕してゆかねばならないのである。(中略)禅定中には、仏が現れても、光明を見ても、絶対の無が現れても、善境悪境ともにひっくるめてこれを魔境と心得、木っ端微塵に粉砕してしまうがいいのである。
仏を斬るのは魔境についてのお話で、いわゆる普通の雑念を斬るのとはちょっと違うのかもしれませんね。両方なのかもしれませんが。ここまで言い切る著者の大森曹玄氏はどのような方かと思いましたが、臨済宗で花園大学学長も勤められた方だとか。そのような方がおっしゃるからには、きっとそう言うことなのでしょう。
おそらくは、基本は今の瞑想を続ければいいのだと解釈しました。
そんな時、調べ物をしていたところこの記述を発見しました。私の状態が似ているかもしれません。
誰でも坐に慣れてある程度定力が熟してくると、まず手の感覚がなくなり、次に足の感覚がなくなる、といった具合に自分と外界との隔てがだんだんとなくなってくるであろう。(中略)そのいい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象が現れることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来「魔境」と呼んでいる。 (中略)魔境の起こるのは禅定力がある程度熟した証拠であることは間違いない。
先日 から、体の感覚がなくなる、と言う感じになってきたかと思ったら急に次は魔境です。まだ魔境というほど酷い魔境には出くわしていないですが、これから酷くなるのでしょうか? 魔境が禅定力が熟した証拠と言うことは、いわゆる雑念で混乱している状態のことは魔境とは言わないのですね。
われわれが座禅三昧にはいると、いわゆる意馬心猿(いばしんえん、煩悩・欲情・妄想)が静まってくる。静止状態になるのである。そこで潜在意識の煩悩の活動が表面化され、そこにいわゆる魔境を現出するのである。意識の動きが休止して、その底にひそむ無意識層が表面に現れるのだから、これを定力の効験だといっても、いっこうさしつかえないわけである。
無意識に眠っている、ヨーガ的に言えばサムスカーラと言う「印象」が深いところから出てきて魔境を作り出すのだ、と解釈できます。著者は次のように続けます。
真実の自己を悟るために座禅するのだから、いかに無意識界だといっても翻弄されているわけにはいかない。そこで「仏に逢うては仏を斬り、祖に逢うては祖を斬る」で、勇猛心をふるい起こして定中に幻出する一切の現象を粉砕してゆかねばならないのである。(中略)禅定中には、仏が現れても、光明を見ても、絶対の無が現れても、善境悪境ともにひっくるめてこれを魔境と心得、木っ端微塵に粉砕してしまうがいいのである。
仏を斬るのは魔境についてのお話で、いわゆる普通の雑念を斬るのとはちょっと違うのかもしれませんね。両方なのかもしれませんが。ここまで言い切る著者の大森曹玄氏はどのような方かと思いましたが、臨済宗で花園大学学長も勤められた方だとか。そのような方がおっしゃるからには、きっとそう言うことなのでしょう。
おそらくは、基本は今の瞑想を続ければいいのだと解釈しました。
チャクラの花びらと浮き上がった感覚
■チャクラの花びら(蓮の花)
後頭部のあたりから前方方向に花びらのようなオーラが広がっている感覚。赤ちゃんの頭巾やフードのように頭の周囲にひらひらと何かが漂っている感覚。頭巾とは違って花びらのように1本づつ分かれています。最初は割とまとまりがなくて上下左右に広がって揺れていました。これはオーラの形がなんとなくそういう感じに見えた(気がする)というだけで、本当の花びらがあるわけではありません。ひまわりの花のようにも見えます。伝統的ヨーガのチャクラでは蓮の花びらですが、オーラの花びらが咲いているかのような感覚。最初はゆらゆら動いていましたが、定(じょう)が深まって集中力というか観察力が高まるにつれてそのオーラの花びらの先っぽまで気が行き届くような感覚。最初は風に揺られるように規則性がなく揺られているだけでしたが、定が高まるとそのオーラの花びらは、まるで、刺激を受けて気が入った動物の尻尾のようにオーラの花びらの先っぽまで意識が入り込んだ感じがします。そうすると、オーラの花びらはだんだんと筒状になるというか根元からピンと伸びてきて、花びらの先っぽが前方向を向きました。今までそれは後頭部のチャクラのお話でしたが、花びらの数は数えられませんでしたが10以上はありました。アジナは二つなのでアジナではないのかもしれません。後頭部のような気がしましたがヴィシュッダだったのかも? ヴィシュッダだとしたらもしかしたら16かもしれません。そんな状態に続いて、ハートの花びらも同様にひらひら状態だったのが意識が入るにつれて先っぽが前方を向くようになりました。定が深まって集中力と観察力が更に高まると、お腹のあたりもちょっと硬くなる感じがしました。お腹の花びらは感じませんでした。今回、花びらは後頭部とハートだけです。今回の定(じょう)の安定度は今までより高かったように思います。花びらの動きは、集中力と観察力に応じて形が変わる気がしました。まあ、瞑想中のお話ですので、そんな気がする、というくらいですけど。
■浮き上がった感覚
上記のチャクラの花びらの瞑想の後の方で、体は座ったままなのですが、意識の体だけ数センチ浮き上がった感覚が何回かありました。
これはヨーガ行者の経験談で度々聞くお話です。それほど珍しいことでもないようです。今まであまり気にしていませんでしたが、何かの段階の「しるし」だったかもしれませんので、そのうちまた書物を確認してみます。たしかヨーガ根本経典あたりで実際の肉体が宙に浮くお話はあった気がしますが、「意識だけ」のお話はどこにありましたかね・・・。まあ、魔境の一つとして無視しといても良いのかもしれません。これだけ熱心に書物を探すほどでもないですが、何かの折にたまたま見つけたら確認する、というくらいの低い重要度です。
■消しゴム
そういえば20年くらい前にどこかのスピリチュアル本で読んだことをふと思い出したのですが、エゴを消すにはイメージで消しゴムを使ってエゴを消したり、体と周囲の境界線をイメージ上の消しゴムで消したり、トラウマを消しゴムで消してゆけば良い、と書いてあったことを思い出しました。何故こんなことを思い出しかと言いますと、「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」の心身脱落の説明のところに、周囲との境界を消してゆく、という方法が書いてあったからです。瞑想中に周囲との境界線を消して溶け込ませてゆけば自我がなくなる、という方法のようです。特別私はこれをお勧めはしませんけど、思い出しましたのでメモ書き。
■魔境
先日の続きですが、根拠は不明確で今後更に確認が必要なところではありますが、私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれたことによりますと、いわゆる魔境というのは瞑想の仕方が間違っている(あるいは組み合わせが良くない、あるいは瞑想とその人の相性によって生じる。しかしながら瞑想の仕方が間違っていることがほとんど)とのことです。例えば、周囲との境界線を消して溶け込ませるという方法が人によっては魔境を作り出すと言います。私の場合は多少ながらその傾向があるので、消しゴムとかを使って瞑想中に周囲との境界線を消すことはしなくて良い、みたいな指示がありました。その時のインスピレーションの説明では、周囲との境界線を消すのは自然に起こることなのでわざわざ消しゴムを使う必要はないし、消しゴムや意思の力で境界線を消そうとするとオーラが発散してしまう。境界線を消してエゴを消すよりもオーラを発散させないことの方が重要なので、オーラの質を純化することが手段で周囲との境界線が消えるのは結果であり、わざわざ消す必要がなくて、オーラは自分の周囲に留めておくこと。オーラが発散してしまうと先日の神道の神秘の鎮魂のお話のように周囲の雑多な印象を取り込んでしまうことがあり、それが魔境を引き起こす。というようなお話が内なるガイドからありました。
先日の書物の理解ですと無意識に眠っている、ヨーガ的なサムスカーラと思われる「印象」が表に出てきて魔境になるのかと思っておりましたが、その説明とは若干この説明は食い違っています。まあ、このあたりも様子見です。両方あるのかもしれないですね。理屈で言うならばサムスカーラは溜まっているものですから有限で浄化のしがいもありますけどオーラが不安定になって周囲から拾うのであれば限りなく続いてしまうので、前者はどうにかなりますけど後者はその点はどうにもならないので後者の方はオーラを閉じるというか自分の周囲に留めるしかない気もします。
後頭部のあたりから前方方向に花びらのようなオーラが広がっている感覚。赤ちゃんの頭巾やフードのように頭の周囲にひらひらと何かが漂っている感覚。頭巾とは違って花びらのように1本づつ分かれています。最初は割とまとまりがなくて上下左右に広がって揺れていました。これはオーラの形がなんとなくそういう感じに見えた(気がする)というだけで、本当の花びらがあるわけではありません。ひまわりの花のようにも見えます。伝統的ヨーガのチャクラでは蓮の花びらですが、オーラの花びらが咲いているかのような感覚。最初はゆらゆら動いていましたが、定(じょう)が深まって集中力というか観察力が高まるにつれてそのオーラの花びらの先っぽまで気が行き届くような感覚。最初は風に揺られるように規則性がなく揺られているだけでしたが、定が高まるとそのオーラの花びらは、まるで、刺激を受けて気が入った動物の尻尾のようにオーラの花びらの先っぽまで意識が入り込んだ感じがします。そうすると、オーラの花びらはだんだんと筒状になるというか根元からピンと伸びてきて、花びらの先っぽが前方向を向きました。今までそれは後頭部のチャクラのお話でしたが、花びらの数は数えられませんでしたが10以上はありました。アジナは二つなのでアジナではないのかもしれません。後頭部のような気がしましたがヴィシュッダだったのかも? ヴィシュッダだとしたらもしかしたら16かもしれません。そんな状態に続いて、ハートの花びらも同様にひらひら状態だったのが意識が入るにつれて先っぽが前方を向くようになりました。定が深まって集中力と観察力が更に高まると、お腹のあたりもちょっと硬くなる感じがしました。お腹の花びらは感じませんでした。今回、花びらは後頭部とハートだけです。今回の定(じょう)の安定度は今までより高かったように思います。花びらの動きは、集中力と観察力に応じて形が変わる気がしました。まあ、瞑想中のお話ですので、そんな気がする、というくらいですけど。
■浮き上がった感覚
上記のチャクラの花びらの瞑想の後の方で、体は座ったままなのですが、意識の体だけ数センチ浮き上がった感覚が何回かありました。
これはヨーガ行者の経験談で度々聞くお話です。それほど珍しいことでもないようです。今まであまり気にしていませんでしたが、何かの段階の「しるし」だったかもしれませんので、そのうちまた書物を確認してみます。たしかヨーガ根本経典あたりで実際の肉体が宙に浮くお話はあった気がしますが、「意識だけ」のお話はどこにありましたかね・・・。まあ、魔境の一つとして無視しといても良いのかもしれません。これだけ熱心に書物を探すほどでもないですが、何かの折にたまたま見つけたら確認する、というくらいの低い重要度です。
■消しゴム
そういえば20年くらい前にどこかのスピリチュアル本で読んだことをふと思い出したのですが、エゴを消すにはイメージで消しゴムを使ってエゴを消したり、体と周囲の境界線をイメージ上の消しゴムで消したり、トラウマを消しゴムで消してゆけば良い、と書いてあったことを思い出しました。何故こんなことを思い出しかと言いますと、「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」の心身脱落の説明のところに、周囲との境界を消してゆく、という方法が書いてあったからです。瞑想中に周囲との境界線を消して溶け込ませてゆけば自我がなくなる、という方法のようです。特別私はこれをお勧めはしませんけど、思い出しましたのでメモ書き。
■魔境
先日の続きですが、根拠は不明確で今後更に確認が必要なところではありますが、私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれたことによりますと、いわゆる魔境というのは瞑想の仕方が間違っている(あるいは組み合わせが良くない、あるいは瞑想とその人の相性によって生じる。しかしながら瞑想の仕方が間違っていることがほとんど)とのことです。例えば、周囲との境界線を消して溶け込ませるという方法が人によっては魔境を作り出すと言います。私の場合は多少ながらその傾向があるので、消しゴムとかを使って瞑想中に周囲との境界線を消すことはしなくて良い、みたいな指示がありました。その時のインスピレーションの説明では、周囲との境界線を消すのは自然に起こることなのでわざわざ消しゴムを使う必要はないし、消しゴムや意思の力で境界線を消そうとするとオーラが発散してしまう。境界線を消してエゴを消すよりもオーラを発散させないことの方が重要なので、オーラの質を純化することが手段で周囲との境界線が消えるのは結果であり、わざわざ消す必要がなくて、オーラは自分の周囲に留めておくこと。オーラが発散してしまうと先日の神道の神秘の鎮魂のお話のように周囲の雑多な印象を取り込んでしまうことがあり、それが魔境を引き起こす。というようなお話が内なるガイドからありました。
先日の書物の理解ですと無意識に眠っている、ヨーガ的なサムスカーラと思われる「印象」が表に出てきて魔境になるのかと思っておりましたが、その説明とは若干この説明は食い違っています。まあ、このあたりも様子見です。両方あるのかもしれないですね。理屈で言うならばサムスカーラは溜まっているものですから有限で浄化のしがいもありますけどオーラが不安定になって周囲から拾うのであれば限りなく続いてしまうので、前者はどうにかなりますけど後者はその点はどうにもならないので後者の方はオーラを閉じるというか自分の周囲に留めるしかない気もします。
懐かしい欲求と無意識の水面の下
■懐かしい欲求
かつて戯れていた、かつて楽しんでいた、かつて欲していた。その懐かしい気持ち。
懐かしい何か。忘れてしまった何かを取り戻したいという微かな欲求。
その欲求が、ひらひらと瞑想の只中でそよ風のように私の中に流れている。
それは、かつてあったもの。かつて私の中に、当然として占めていたもの。
その欲求はもはや風前のともし火となり、懐かしい欲求として秋風のように微かな風としてしか私の中に残ってはいない。
そのそよ風は、私の心の水面を軽く揺らしている。
水は無意識であり、無意識の表面が心だとすれば、私の心を今揺らしているのはかつての懐かしい欲求であろう。
無意識は、懐かしい欲求によって微かに揺られている。と同時に、私の心も揺さぶられている。
しかし、その欲求は瞑想の中で、やがて強さを失って消えて行った。
完全に消えたかどうかは分からない。しかし、先日よりも確かに弱まっている。
欲求がおさまるにつれ、心は平穏になってゆく。
ふと、周囲の家から子供の楽しげな声が聞こえてきた。週末の夜だ。
瞑想中にそれが聞こえてきてもいい。その楽しそうな声があろうとなかろうと、私の心は平穏そのものだ。
相当な騒音ではない限り、瞑想の状態はそう変わらない。
心を揺らすのは、今や息をする時の観察する心のみ。
息をするとき、心がそれを観察している。すると、観察する時の波紋が心に広がる。それのみ。
言い換えると、無意識という湖の表面である心に微かな波紋が広がって、やがては波紋は消えてゆく。
懐かしい欲求はかつてその何倍もの波紋を作っていた。しかし、今や自分の息を観察する波紋のみになった。
■無意識の水面の下
今、ようやく、無意識という湖を覗き込んだ。しかし、中はまだ濁っている。
水面が静かになっても、今まで無意識が風によって動いていたために、無意識がまだ濁っているようだ。
もしかしたら、これは十牛図で言うところの見牛における「微かに牛を見つける」と言うことなのかもしれない、とふと閃いた。
これから、平らな水面を保持した時、無意識の中が見えてくるのだろうか・・・?
まだ、無意識の湖の底は見えない。
湖のように、風のない日々が長く続けば続くほど汚れが湖底に沈んで無意識の水が澄んでくるのだろうか?
水面は、以前は波立ちやすいサラサラとした液体のようだった。小さな風で大きな波紋ができていた。
今は、水そのものというよりは、透明ではあるものの、粘質がある液体のようになってきた。
粘質があるので、風が吹いて波紋が広がってもすぐにその波紋は静まってしまう。それでいて透明な液体。不思議な感覚だ。
そもそも風があまり強く吹かないので、波紋がほとんど広がらない。
これは、オーラの質とも関係しているのでしょうか? そんな気がしなくもないです。
■静か
瞑想の中だけでなく、瞑想が終わってからも世界が静か。
息を感じるだけ。息が心を揺らすだけ。風が窓から入り、皮膚を撫でる。その感覚が心を揺らすだけ。
その感覚に、特に付け加えることもない。何かを付け加えようとすれば蛇足になるだけだ。
ただ静かにいるだけ。それだけでいい。
■過去の記憶を探る
無意識はヨーガで言うところのサムスカーラ。いわゆる過去の記憶。
無意識を探ると思わず叫びだしたくなるものも眠っている。なるほど、これが魔境か。
思えば、昔から常に探っていた。
無意識からの追憶はこの段階に限ったものでもないが、今は静けさと共に探ることができる。
かつて戯れていた、かつて楽しんでいた、かつて欲していた。その懐かしい気持ち。
懐かしい何か。忘れてしまった何かを取り戻したいという微かな欲求。
その欲求が、ひらひらと瞑想の只中でそよ風のように私の中に流れている。
それは、かつてあったもの。かつて私の中に、当然として占めていたもの。
その欲求はもはや風前のともし火となり、懐かしい欲求として秋風のように微かな風としてしか私の中に残ってはいない。
そのそよ風は、私の心の水面を軽く揺らしている。
水は無意識であり、無意識の表面が心だとすれば、私の心を今揺らしているのはかつての懐かしい欲求であろう。
無意識は、懐かしい欲求によって微かに揺られている。と同時に、私の心も揺さぶられている。
しかし、その欲求は瞑想の中で、やがて強さを失って消えて行った。
完全に消えたかどうかは分からない。しかし、先日よりも確かに弱まっている。
欲求がおさまるにつれ、心は平穏になってゆく。
ふと、周囲の家から子供の楽しげな声が聞こえてきた。週末の夜だ。
瞑想中にそれが聞こえてきてもいい。その楽しそうな声があろうとなかろうと、私の心は平穏そのものだ。
相当な騒音ではない限り、瞑想の状態はそう変わらない。
心を揺らすのは、今や息をする時の観察する心のみ。
息をするとき、心がそれを観察している。すると、観察する時の波紋が心に広がる。それのみ。
言い換えると、無意識という湖の表面である心に微かな波紋が広がって、やがては波紋は消えてゆく。
懐かしい欲求はかつてその何倍もの波紋を作っていた。しかし、今や自分の息を観察する波紋のみになった。
■無意識の水面の下
今、ようやく、無意識という湖を覗き込んだ。しかし、中はまだ濁っている。
水面が静かになっても、今まで無意識が風によって動いていたために、無意識がまだ濁っているようだ。
もしかしたら、これは十牛図で言うところの見牛における「微かに牛を見つける」と言うことなのかもしれない、とふと閃いた。
これから、平らな水面を保持した時、無意識の中が見えてくるのだろうか・・・?
まだ、無意識の湖の底は見えない。
湖のように、風のない日々が長く続けば続くほど汚れが湖底に沈んで無意識の水が澄んでくるのだろうか?
水面は、以前は波立ちやすいサラサラとした液体のようだった。小さな風で大きな波紋ができていた。
今は、水そのものというよりは、透明ではあるものの、粘質がある液体のようになってきた。
粘質があるので、風が吹いて波紋が広がってもすぐにその波紋は静まってしまう。それでいて透明な液体。不思議な感覚だ。
そもそも風があまり強く吹かないので、波紋がほとんど広がらない。
これは、オーラの質とも関係しているのでしょうか? そんな気がしなくもないです。
■静か
瞑想の中だけでなく、瞑想が終わってからも世界が静か。
息を感じるだけ。息が心を揺らすだけ。風が窓から入り、皮膚を撫でる。その感覚が心を揺らすだけ。
その感覚に、特に付け加えることもない。何かを付け加えようとすれば蛇足になるだけだ。
ただ静かにいるだけ。それだけでいい。
■過去の記憶を探る
無意識はヨーガで言うところのサムスカーラ。いわゆる過去の記憶。
無意識を探ると思わず叫びだしたくなるものも眠っている。なるほど、これが魔境か。
思えば、昔から常に探っていた。
無意識からの追憶はこの段階に限ったものでもないが、今は静けさと共に探ることができる。
2分のディヤーナと感謝の瞑想
■2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)
今朝、雑念なく息を観察する瞑想がしばらく続きました。雑念がないのでカウントすらできませんが、おそらくは数分以内だったように思います。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャーヨーガ」に以下のようにあります。
もし心がその中心に12秒間集中することができるなら、それはダーラナー(集中)であり、12のそのようなダーラナーはディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナはサマーディであろう。
実のところはよく分かりませんが。意識がなかっただけでもっと長かったのかもしれません。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの定義によりますと「心が集中」ということですが、私の場合「息を観察」という違いはありますけど、おそらく本質は同じことを意味しているかなと思っております。言い換えるならば、「息を観察して12秒続けばダーラナ(集中)、その12倍続けばディヤーナ(瞑想)、その12倍続けばサマーディ」という感じでしょうか。2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)、という換算ですね。であれば、私の場合は今の所ディヤーナ(瞑想)の段階にいると判断できそうです。途中で雑念でちょっと途切れた場合などをどうカウントするのかというお話は微妙なところですが。瞑想していてそのような気付いていない中断はちょこちょことありそうです。
■凄いと思われなくなってようやく一流
先日読んだ「参禅入門(大森 曹玄 著)」にそのようなことが書いてあったのを思い出しました。
周囲から凄いとか思われているうちはまだまだで、何にも思われなくなってスルーされるようになってようやく一流であると。
思うに、チャクラ的に言うとマニプラ優勢の場合はエネルギッシュで傍目から見ても元気そうに見える気がします。
しかし、アナハタ優勢になるとそのエネルギッシュさが静かな物になります。マニプラが「熱」だとすればアナハタが「暖」であり、であればマニプラの「熱」の方が一見すると凄そうに見えるのもわかる気がします。
マニプラくらいであれば「暖」なのでなんとなくわかるのですが、それ以上のヴィシュッダとかアジナとかになると書物によればどうやら「冷」になるようなので、きっとますます傍目には分からなくなる気が致します。私は割と今はアナハタ優勢ですので「暖」の状態で、なんと言いますか・・・、割と「普通の人」になってきた感じが致します。特段私が「凄い」とかそう言うことは全然ないですし、むしろ、そこらで歩いている普通のおじさんやおばちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの方がよっぽど真理がわかっているんじゃないかなあ・・・ と思うくらいです。ここ数年は、「あれ? かなりの人は実は既に悟っていて、私の成長が遅れていただけだったのかも?」とすら思っています。特にマニプラ優勢になって以降はそんな思いが強いです。ですから、意外にこの世は悟っている人が多いんじゃないのかなあ・・・ という気もしています。まあ、日本のお話ですけどね。
■瞑想とナーダ音と息
ハタヨガプラピディカにはナーダ音に集中する瞑想も書いてありますけど、今朝の場合は息を観察する瞑想をしていますのでナーダ音は気にしていませんでした。と言いますか、息を観察しているとナーダ音のことが気にならないと言いますか、意識の中にナーダ音が入ってきません。かと言ってナーダ音がなくなったわけでもなく、息の観察が途切れるとナーダ音があることに気づくとでも言いましょうか・・・。普通の音でもそうですよね。ずっと鳴っている何かの音だとしたら特別意識しないでもその音はずっとそこにあるわけですけれどもあまり意識しなくなります。それと同じで、ナーダ音もずっとそこにあるわけですが、息を観察している間は意識からナーダ音は外れると言いますか。
ひょっとしたら、これこそがハタヨガプラピディカの以下の記述に繋がっているのかもしれません。
4章101ー102番)アナーハタ音のひびきが聞こえている間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音がないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。およそ音の形で聞こえるものはシャクティに外ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上我である。(アナーハタ音とはナーダ音のことです。至上我とはアートマンのこと。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より。)他著者のバーションもあります。過去記事参照。
今日の瞑想では、まず、息を観察して瞑想していると自身が静かになってゆきました。息の観察が途切れて顕在意識が動くとナーダ音が聞こえます。息の観察によって顕在意識がほとんど動いていない状態であればナーダ音は意識に入ってきません。現在の瞑想がアートマンを掴んだとは到底思えていませんが、これらの、顕在意識とナーダ音の聞こえ方の関係から、上記のハタヨガプラピディカの記述そのものではないにせよ、部分的に似通った部分があることがわかります。引用文の「虚空」は解釈が微妙ですが、「ナーダ音が聞こえている間は想念は存在している」ということであれば「ナーダ音が聞こえている間は顕在意識は動いている」と読み替えることができると思います。ナーダ音が聞こえないところはどこか・・・? それは「息」。このあたりに秘密がありそうです。
■感謝の瞑想
先日まで「許す瞑想」をしてきましたが、今日は感謝の瞑想に自然になりました。特に計画をしていたわけでもないのですが、なんとなくしっくりくるからしただけです。先日と同じように「〇〇さんありがとうございます。〇〇さんありがとうございます。」を色々と繰り返して、人だけでなく物や自然や地球さんなども気が向くままに感謝をします。先日の方式に倣って、最初は「(私が)〇〇さん ありがとうございます」から始めて、やがて「(神様が)感謝しています」「(神様によって)感謝されています」のように主体を切り替えてみました。
この瞑想をすると眉間に意識が集まって、何やら眉間のところで螺旋状の竜巻みたいなものを感じます。やがて、エネルギーが眉間に集まるのですが、お腹のマニプラあたりに何かネガティブなものが溜まっているらしく、感謝の瞑想をするとそこのエネルギーの通りがあまり良くなくてちょっとじんわりときていましたが、感謝の瞑想を続けるにつれてマニプラあたりのエネルギーの通りも割と良くなってきました。
先日の竜巻の経験 でアナハタ優勢に変わりましたが、その時はまだヴィシュッダやアジナにそれほどエネルギーがある感じではありませんでした。そもそも竜巻の経験の前はヴィシュッダやアジナにエネルギーがあまりなかったので、竜巻の経験でエネルギーが頭の方まで通るようにはなったのですが、それでも、それほどエネルギーがある感じではなかったということです。その後も、瞑想中は集中することでエネルギーがアナハタからヴィシュッダやアジナに一時的には集まるのですがやはりアナハタ優勢でした。だいたい2対8くらいの割合でアナハタ優勢だったでしょうか。
しかし、この感謝の瞑想をしたら4対6くらいに比率が変わりました。依然としてアナハタ優勢ではありますが、ヴィシュッダやアジナにエネルギーが留まりやすくなったように思います。感謝の瞑想に何かの鍵がある気がしてきました。まあ、昔から良いとされてきた感謝の瞑想ですので、悪いわけがないとは思います。この感謝の瞑想をすると、瞑想が終わった後もアジナに静電気のような感覚がしばらく残っています。
今朝、雑念なく息を観察する瞑想がしばらく続きました。雑念がないのでカウントすらできませんが、おそらくは数分以内だったように思います。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャーヨーガ」に以下のようにあります。
もし心がその中心に12秒間集中することができるなら、それはダーラナー(集中)であり、12のそのようなダーラナーはディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナはサマーディであろう。
実のところはよく分かりませんが。意識がなかっただけでもっと長かったのかもしれません。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの定義によりますと「心が集中」ということですが、私の場合「息を観察」という違いはありますけど、おそらく本質は同じことを意味しているかなと思っております。言い換えるならば、「息を観察して12秒続けばダーラナ(集中)、その12倍続けばディヤーナ(瞑想)、その12倍続けばサマーディ」という感じでしょうか。2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)、という換算ですね。であれば、私の場合は今の所ディヤーナ(瞑想)の段階にいると判断できそうです。途中で雑念でちょっと途切れた場合などをどうカウントするのかというお話は微妙なところですが。瞑想していてそのような気付いていない中断はちょこちょことありそうです。
■凄いと思われなくなってようやく一流
先日読んだ「参禅入門(大森 曹玄 著)」にそのようなことが書いてあったのを思い出しました。
周囲から凄いとか思われているうちはまだまだで、何にも思われなくなってスルーされるようになってようやく一流であると。
思うに、チャクラ的に言うとマニプラ優勢の場合はエネルギッシュで傍目から見ても元気そうに見える気がします。
しかし、アナハタ優勢になるとそのエネルギッシュさが静かな物になります。マニプラが「熱」だとすればアナハタが「暖」であり、であればマニプラの「熱」の方が一見すると凄そうに見えるのもわかる気がします。
マニプラくらいであれば「暖」なのでなんとなくわかるのですが、それ以上のヴィシュッダとかアジナとかになると書物によればどうやら「冷」になるようなので、きっとますます傍目には分からなくなる気が致します。私は割と今はアナハタ優勢ですので「暖」の状態で、なんと言いますか・・・、割と「普通の人」になってきた感じが致します。特段私が「凄い」とかそう言うことは全然ないですし、むしろ、そこらで歩いている普通のおじさんやおばちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの方がよっぽど真理がわかっているんじゃないかなあ・・・ と思うくらいです。ここ数年は、「あれ? かなりの人は実は既に悟っていて、私の成長が遅れていただけだったのかも?」とすら思っています。特にマニプラ優勢になって以降はそんな思いが強いです。ですから、意外にこの世は悟っている人が多いんじゃないのかなあ・・・ という気もしています。まあ、日本のお話ですけどね。
■瞑想とナーダ音と息
ハタヨガプラピディカにはナーダ音に集中する瞑想も書いてありますけど、今朝の場合は息を観察する瞑想をしていますのでナーダ音は気にしていませんでした。と言いますか、息を観察しているとナーダ音のことが気にならないと言いますか、意識の中にナーダ音が入ってきません。かと言ってナーダ音がなくなったわけでもなく、息の観察が途切れるとナーダ音があることに気づくとでも言いましょうか・・・。普通の音でもそうですよね。ずっと鳴っている何かの音だとしたら特別意識しないでもその音はずっとそこにあるわけですけれどもあまり意識しなくなります。それと同じで、ナーダ音もずっとそこにあるわけですが、息を観察している間は意識からナーダ音は外れると言いますか。
ひょっとしたら、これこそがハタヨガプラピディカの以下の記述に繋がっているのかもしれません。
4章101ー102番)アナーハタ音のひびきが聞こえている間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音がないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。およそ音の形で聞こえるものはシャクティに外ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上我である。(アナーハタ音とはナーダ音のことです。至上我とはアートマンのこと。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より。)他著者のバーションもあります。過去記事参照。
今日の瞑想では、まず、息を観察して瞑想していると自身が静かになってゆきました。息の観察が途切れて顕在意識が動くとナーダ音が聞こえます。息の観察によって顕在意識がほとんど動いていない状態であればナーダ音は意識に入ってきません。現在の瞑想がアートマンを掴んだとは到底思えていませんが、これらの、顕在意識とナーダ音の聞こえ方の関係から、上記のハタヨガプラピディカの記述そのものではないにせよ、部分的に似通った部分があることがわかります。引用文の「虚空」は解釈が微妙ですが、「ナーダ音が聞こえている間は想念は存在している」ということであれば「ナーダ音が聞こえている間は顕在意識は動いている」と読み替えることができると思います。ナーダ音が聞こえないところはどこか・・・? それは「息」。このあたりに秘密がありそうです。
■感謝の瞑想
先日まで「許す瞑想」をしてきましたが、今日は感謝の瞑想に自然になりました。特に計画をしていたわけでもないのですが、なんとなくしっくりくるからしただけです。先日と同じように「〇〇さんありがとうございます。〇〇さんありがとうございます。」を色々と繰り返して、人だけでなく物や自然や地球さんなども気が向くままに感謝をします。先日の方式に倣って、最初は「(私が)〇〇さん ありがとうございます」から始めて、やがて「(神様が)感謝しています」「(神様によって)感謝されています」のように主体を切り替えてみました。
この瞑想をすると眉間に意識が集まって、何やら眉間のところで螺旋状の竜巻みたいなものを感じます。やがて、エネルギーが眉間に集まるのですが、お腹のマニプラあたりに何かネガティブなものが溜まっているらしく、感謝の瞑想をするとそこのエネルギーの通りがあまり良くなくてちょっとじんわりときていましたが、感謝の瞑想を続けるにつれてマニプラあたりのエネルギーの通りも割と良くなってきました。
先日の竜巻の経験 でアナハタ優勢に変わりましたが、その時はまだヴィシュッダやアジナにそれほどエネルギーがある感じではありませんでした。そもそも竜巻の経験の前はヴィシュッダやアジナにエネルギーがあまりなかったので、竜巻の経験でエネルギーが頭の方まで通るようにはなったのですが、それでも、それほどエネルギーがある感じではなかったということです。その後も、瞑想中は集中することでエネルギーがアナハタからヴィシュッダやアジナに一時的には集まるのですがやはりアナハタ優勢でした。だいたい2対8くらいの割合でアナハタ優勢だったでしょうか。
しかし、この感謝の瞑想をしたら4対6くらいに比率が変わりました。依然としてアナハタ優勢ではありますが、ヴィシュッダやアジナにエネルギーが留まりやすくなったように思います。感謝の瞑想に何かの鍵がある気がしてきました。まあ、昔から良いとされてきた感謝の瞑想ですので、悪いわけがないとは思います。この感謝の瞑想をすると、瞑想が終わった後もアジナに静電気のような感覚がしばらく残っています。
サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)
サムヤマ(サンヤマ、綜制)とはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こるとそれはサムヤマ(サンヤマ、綜制)と呼ばれますが、これは謎が多いです。
ヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)
それにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。と言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?
神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。
3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。
とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。
言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。
ちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。
別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。
4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。
同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。
ここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。
・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。
・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。
であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。
少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。
関連記事:
・オーラ的に見たサマーディとサムヤマ
・ゾクチェンをヒントにしたサムヤマの謎解き
ヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)
それにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。と言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?
神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。
3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。
とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。
マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。
言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。
ちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。
別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。
4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。
同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。
ここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。
・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。
・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。
であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。
少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。
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サムヤマで光が輝き出る
ヨーガスートラ3章5番。書物によってサンスクリットの訳が異なっています。
それ(サムヤマ)をかち得ると、知識の光が来る。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)
サンヤマ(綜制)の修了によって、知の光が生まれる。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」)
これがよく見る意味で、おそらくはサンスクリット的にはこのような内容なのかなと思います。
神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」ではこれを以下のように意訳しています。
サンヤマの結果として、光が輝き出る。(「魂の光(アリス・ベイリー 著)」)
同書では以下のように説明されています。
魂の性質は光であり、魂は偉大なる啓示者であるという概念が含まれている。ヨギは、瞑想の着実な実践によって、自らの存在そのものから発する光を意のままに、どの方向にも向けられるようになり、どのような対象でも照らすことができるようになる。したがって、彼にとって隠されたものは何もなく、あらゆる知識が彼の手中にある。
最初の訳の「知識の光が来る(生まれる)」の内実がこのような意味であるのならばよく分かります。「知識の光が来る」とだけ言われてもよく分かりませんが、魂が光で、光が輝き出ることで知識が明らかになる、と言うことであればすんなり理解できます。
サンヤマの効果として、以下のようにも記されています。
この過程(サンヤマ)がより頻繁になり、しっかりとしたものになるにつれて、肉体人間の中に変化が起こる。彼はますます魂と同調するようになる。伝達における時間という要素は背後に退き、魂の光による知識領域のイルミネーションと、肉体脳の啓発が瞬時の出来事になる。頭部内の光はそれに対応して増大し、第三の目が発達し機能するようになる。アストラル界とメンタル界でもそれに対応する「目」が発達し、このようにしてエゴつまり魂は魂の領域だけでなく三界すべてにイルミネーションをもたらすことができるようになる。
瞑想(ディヤーナ)とサマーディ(三昧)、そしてサンヤマ(サムヤマ)へと続く一連の流れはついに第三の目に辿り着きました。アジナ・チャクラが活性化するのはサムヤマの段階と対応しているのだと解釈できます。同書を読み解くと、マニプラ以下の段階では低次サイキックな性質のみが開発され、低次サイキックな性質は高次サイキックな性質の開発の妨げになると書いてあります。マニプラ以下からアナハタ以上に「移動」(比喩的な言い方)して初めて高次サイキックな性質の開発が可能になると言います。ですから、サムヤマもアナハタ以上になってからようやく可能なものだと解釈できます。
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それ(サムヤマ)をかち得ると、知識の光が来る。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)
サンヤマ(綜制)の修了によって、知の光が生まれる。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」)
これがよく見る意味で、おそらくはサンスクリット的にはこのような内容なのかなと思います。
神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」ではこれを以下のように意訳しています。
サンヤマの結果として、光が輝き出る。(「魂の光(アリス・ベイリー 著)」)
同書では以下のように説明されています。
魂の性質は光であり、魂は偉大なる啓示者であるという概念が含まれている。ヨギは、瞑想の着実な実践によって、自らの存在そのものから発する光を意のままに、どの方向にも向けられるようになり、どのような対象でも照らすことができるようになる。したがって、彼にとって隠されたものは何もなく、あらゆる知識が彼の手中にある。
最初の訳の「知識の光が来る(生まれる)」の内実がこのような意味であるのならばよく分かります。「知識の光が来る」とだけ言われてもよく分かりませんが、魂が光で、光が輝き出ることで知識が明らかになる、と言うことであればすんなり理解できます。
サンヤマの効果として、以下のようにも記されています。
この過程(サンヤマ)がより頻繁になり、しっかりとしたものになるにつれて、肉体人間の中に変化が起こる。彼はますます魂と同調するようになる。伝達における時間という要素は背後に退き、魂の光による知識領域のイルミネーションと、肉体脳の啓発が瞬時の出来事になる。頭部内の光はそれに対応して増大し、第三の目が発達し機能するようになる。アストラル界とメンタル界でもそれに対応する「目」が発達し、このようにしてエゴつまり魂は魂の領域だけでなく三界すべてにイルミネーションをもたらすことができるようになる。
瞑想(ディヤーナ)とサマーディ(三昧)、そしてサンヤマ(サムヤマ)へと続く一連の流れはついに第三の目に辿り着きました。アジナ・チャクラが活性化するのはサムヤマの段階と対応しているのだと解釈できます。同書を読み解くと、マニプラ以下の段階では低次サイキックな性質のみが開発され、低次サイキックな性質は高次サイキックな性質の開発の妨げになると書いてあります。マニプラ以下からアナハタ以上に「移動」(比喩的な言い方)して初めて高次サイキックな性質の開発が可能になると言います。ですから、サムヤマもアナハタ以上になってからようやく可能なものだと解釈できます。
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ヨーガスートラはマニプラ以下を主に扱う?
ヨーガスートラの主目的は低次サイキック領域(マニプラ以下)から高位サイキック領域(アナハタ以上)に移行することだと解釈しました。
これはインド系ヨーギの解釈というよりは、神智学的な解釈になります。実際のところ同じなのかとは思いますが幾つかの解説書を確認したところ、ここまではっきりと同様のことを記載してあるのは神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」くらいでした。他の解説書でも高次の認識について記載があるので言及はされているのですが、ヨーガスートラの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)は基本的に低次サイキック(マニプラ以下)の克服について記載されています。高次サイキック(アナハタ以上)はウパニシャッドの領域になると思われます。
ヨーガスートラ3章7〜8番にて、八支則の位置付けが示されています。
3章7〜8番)これら3つ((ダーラナ、ディアーナ、サマーディ)は、その前のもの(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ)よりもっと内面的である。しかしそれらさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)
これは、神智学的には次のように解釈できます。
・八支則の最初の5つ(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ):準備段階
・八支則の最後の3つ(ダーラナ、ディアーナ、いわゆるサマーディ(サビージャ・サマーディ、有種子三昧)):内的なもの。低位サイキック領域(マニプラ以下)
・八支則を超えたもの。真のサマーディ(いわゆるニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)。高位サイキック領域(アナハタ以上)
ヨーガスートラは基礎なわけですね。何事も基礎が重要なのだと思います。
ヴィヴェーカーナンダは真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に至る前段階のサマーディについて以下のように記しています。
3章9番の解説)サマーディのこの最初の段階では、心の変化は制御されているが完全にはではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる。ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心が泡立ち騒いでいる時よりは遥かに、より高いサマーディに近いのである。
と、言うことは、多少の心の波があったとしても基礎的なサマーディと呼んで良いと言うことなのですね。サマーディは色々と種類があり過ぎてどれがどうなのかいまいち解りづらいですが、少なくとも最後の目標地点はこれでかなり明らかになったように思います。瞑想にしてもそうですが、サマーディも自称であったりする場合が多いので、なかなか解りづらいところがあります。
これは、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」では以下のように説明されています。
3章9番)メンタル的な状態は以下のようにして連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。
これまた、分かるような分からないような微妙なお話です。私はこのあたりをもう少し瞑想する必要がありそうです。マインドはいわゆる心で顕在意識であり、チッタはサンスクリットで言うところのマインド相当(微妙に違いますけど)。ちょっと訳が微妙と言いますか。英語とサンスクリットを混ぜずにいっその事全部サンスクリットで書いてもらった方が有難いのですが。ですが、きっと元々のサンスクリットが微妙なのでしょう。
「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」では以下のように訳されています。こちらの方が分かりが良いかもしれません。
生起してくる印象(サンスカーラ、雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、二ローダ・パリナーマ(止滅転換)である。
どうやら、これこそが「二ローダ」のようです。と言いますのも、ヨーガスートラの最初の方にある有名なヨガの定義にこの「二ローダ」が言われているからです。以前 引用した文章が以下です。
「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)
「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)
と、言うことは、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダが達成できる、と言うことなのだと解釈できます。
その次に続くヨーガのもう一つの定義は軽視されがちですけどこちらも重要で、これはいわゆる「アートマンの出現」のことだと思います。
瞑想をしてサマーディに達し、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダ(止滅)を達成して、アートマンを出現させる、と言うところがヨーガスートラの範疇であると考えられます。これは以前 禅の十牛図 を調べた時にヨーガスートラとウパニシャッドの領域がそれぞれ明らかになりましたが、同様のことを意味していると思われます。
これはインド系ヨーギの解釈というよりは、神智学的な解釈になります。実際のところ同じなのかとは思いますが幾つかの解説書を確認したところ、ここまではっきりと同様のことを記載してあるのは神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」くらいでした。他の解説書でも高次の認識について記載があるので言及はされているのですが、ヨーガスートラの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)は基本的に低次サイキック(マニプラ以下)の克服について記載されています。高次サイキック(アナハタ以上)はウパニシャッドの領域になると思われます。
ヨーガスートラ3章7〜8番にて、八支則の位置付けが示されています。
3章7〜8番)これら3つ((ダーラナ、ディアーナ、サマーディ)は、その前のもの(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ)よりもっと内面的である。しかしそれらさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)
これは、神智学的には次のように解釈できます。
・八支則の最初の5つ(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ):準備段階
・八支則の最後の3つ(ダーラナ、ディアーナ、いわゆるサマーディ(サビージャ・サマーディ、有種子三昧)):内的なもの。低位サイキック領域(マニプラ以下)
・八支則を超えたもの。真のサマーディ(いわゆるニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)。高位サイキック領域(アナハタ以上)
ヨーガスートラは基礎なわけですね。何事も基礎が重要なのだと思います。
ヴィヴェーカーナンダは真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に至る前段階のサマーディについて以下のように記しています。
3章9番の解説)サマーディのこの最初の段階では、心の変化は制御されているが完全にはではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる。ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心が泡立ち騒いでいる時よりは遥かに、より高いサマーディに近いのである。
と、言うことは、多少の心の波があったとしても基礎的なサマーディと呼んで良いと言うことなのですね。サマーディは色々と種類があり過ぎてどれがどうなのかいまいち解りづらいですが、少なくとも最後の目標地点はこれでかなり明らかになったように思います。瞑想にしてもそうですが、サマーディも自称であったりする場合が多いので、なかなか解りづらいところがあります。
これは、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」では以下のように説明されています。
3章9番)メンタル的な状態は以下のようにして連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。
これまた、分かるような分からないような微妙なお話です。私はこのあたりをもう少し瞑想する必要がありそうです。マインドはいわゆる心で顕在意識であり、チッタはサンスクリットで言うところのマインド相当(微妙に違いますけど)。ちょっと訳が微妙と言いますか。英語とサンスクリットを混ぜずにいっその事全部サンスクリットで書いてもらった方が有難いのですが。ですが、きっと元々のサンスクリットが微妙なのでしょう。
「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」では以下のように訳されています。こちらの方が分かりが良いかもしれません。
生起してくる印象(サンスカーラ、雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、二ローダ・パリナーマ(止滅転換)である。
どうやら、これこそが「二ローダ」のようです。と言いますのも、ヨーガスートラの最初の方にある有名なヨガの定義にこの「二ローダ」が言われているからです。以前 引用した文章が以下です。
「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)
「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)
と、言うことは、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダが達成できる、と言うことなのだと解釈できます。
その次に続くヨーガのもう一つの定義は軽視されがちですけどこちらも重要で、これはいわゆる「アートマンの出現」のことだと思います。
瞑想をしてサマーディに達し、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダ(止滅)を達成して、アートマンを出現させる、と言うところがヨーガスートラの範疇であると考えられます。これは以前 禅の十牛図 を調べた時にヨーガスートラとウパニシャッドの領域がそれぞれ明らかになりましたが、同様のことを意味していると思われます。
ヨーガスートラの八支則とクンダリーニ
これはパタンジャリのヨーガスートラ八支則(アシュタンガ・ヨーガ)とクンダリーニの関係のメモです。
- ヤマ Yama(禁戒)
- ニヤマ Niyama(勧戒)
- アーサナ Asana(坐法)
- プラーナヤーマ Pranayama(調気、呼吸法)
- プラーティヤハーラ Pratyahara(制感、感覚の制御)
- ダーラナー Dharana(疑念・集中)
- ディヤーナ Dhyana(瞑想)
- サマーディ Samadhi(三昧)
- 準備段階の5つ:ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ
- 内的な3つ:ダーラナ、ディアーナ、サマーディ
- 真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)
- ヤマ。自己統制。間違った行為の抑制。
- ニヤマ。正しい遵守。宗教的遵守。
- アサナ。正しい態度、姿勢。
- プラーナヤーマ。呼吸の調整、抑制。プラーナの通り道であるナディを浄化
- 雑念の減少。”苦”から”苦の少ない状態”に変化。
- ナーダ音が聞こえ始める。私の場合ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後
- プラティヤハーラ。感覚の撤退。内的世界への入り口。この段階の最初でナーダ音が聞こえ始め、どんどんと聞こえやすくなる。
- クンダリーニの覚醒。ムーラダーラの活性化。マニプラ優勢の状態。私の場合ナーダ音が聞こえ始めてから約1年後。ポジティブになる。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)の達成(性欲10分の1)。体がポカポカになる。
- ”苦の少ない状態”から”楽”の状態に変化。
- ダーラナ。集中。一点集中。マインドの固定。
- ”楽”から”苦もないが楽もない状態”に変化
- ディアーナ。瞑想。集中の連続。正しいマインドの利用。
- クンダリーニの上昇(というか移動?)。アナハタ優勢の状態。私の場合クンダリーニ覚醒の約9ヶ月後。性欲が更に10分の1(クンダリーニ覚醒前と比べると100分の1)。脳の活性化の開始。瞑想の深まり。”いま”に生きる。
- サマーディ。観照。分離性や個我を認識しなくなる。形を認識しなくなり意味だけを認識。十牛図の「見牛」と心身脱落。
- 真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)(私はこれから)
何故瞑想するのか? シバナンダの答え
スワミ・シバナンダおよびその弟子のスワミ・ヴィシュヌ・デヴァナンダは次のように説明しています。
瞑想の助けがなければ、あなたは自己(Self)の知識を得ることができません。 その援助がなければ、あなたは神の状態に成長することはできませ ん。それがなければ、あなたが心の不調から解放され、不滅を得ることはでき ません。瞑想は、自由を得るための唯一の王道です。それは、地球から天国へ、過ちから真実へ、闇から光へ、痛みから至福へ、落ち着きのなさから平和へ、無知から知識 へと至る謎のはしごです。 死から不死まで 。
これが宗教的な最終的な目標になります。
瞑想を通して、心の遊びが目撃されます。 初期段階では、自我が絶えず自分自身を表明していることを発見する以上のことは起きません。しかし、そのゲームに慣れ親しむにつれ、満足した平和な状態を好み始めます。自我が静まった時、個人の成長と他者の奉仕のために エネルギーを建設的に利用することができます。
これが途中経過です。一般的にはこの段階を得るだけでも十分、人生を建設的に生きることができます。欧米で流行っているマインドフルネスなどもこの段階を目的にしています。ビジネスの効率を上げたりストレスの解消はこの段階で達成されます。
道は数多くありますが、真実は一つだと言われています。定期的に瞑想することによって、心はより明確になり、より純粋な動機が得ら れます。潜在意識は、より良い理解を可能にする隠された知識を解放します。 自我はゆっくりと消滅します。 最終的には潜在意識やエネルギーが解放され、知恵と平和のある生活に変わってゆきます。
最初の目的がビジネスや心の平穏であったとしても、最終的に瞑想はこれらの状態に導くことでしょう。それを求めるかどうかは各人次第ではありますが。
引用元:「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」から翻訳
瞑想の助けがなければ、あなたは自己(Self)の知識を得ることができません。 その援助がなければ、あなたは神の状態に成長することはできませ ん。それがなければ、あなたが心の不調から解放され、不滅を得ることはでき ません。瞑想は、自由を得るための唯一の王道です。それは、地球から天国へ、過ちから真実へ、闇から光へ、痛みから至福へ、落ち着きのなさから平和へ、無知から知識 へと至る謎のはしごです。 死から不死まで 。
これが宗教的な最終的な目標になります。
瞑想を通して、心の遊びが目撃されます。 初期段階では、自我が絶えず自分自身を表明していることを発見する以上のことは起きません。しかし、そのゲームに慣れ親しむにつれ、満足した平和な状態を好み始めます。自我が静まった時、個人の成長と他者の奉仕のために エネルギーを建設的に利用することができます。
これが途中経過です。一般的にはこの段階を得るだけでも十分、人生を建設的に生きることができます。欧米で流行っているマインドフルネスなどもこの段階を目的にしています。ビジネスの効率を上げたりストレスの解消はこの段階で達成されます。
道は数多くありますが、真実は一つだと言われています。定期的に瞑想することによって、心はより明確になり、より純粋な動機が得ら れます。潜在意識は、より良い理解を可能にする隠された知識を解放します。 自我はゆっくりと消滅します。 最終的には潜在意識やエネルギーが解放され、知恵と平和のある生活に変わってゆきます。
最初の目的がビジネスや心の平穏であったとしても、最終的に瞑想はこれらの状態に導くことでしょう。それを求めるかどうかは各人次第ではありますが。
引用元:「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」から翻訳
スピリチュアルの3つの系統。インド系、キリスト教系、薔薇十字系
「いかにして高次の世界を認識するか」(ルドルフ シュタイナー 著、松浦 賢 訳)の訳者あとがきによると、霊的な訓練を行うには大きく分けて三つの流れがあると言います。
・インド系
・キリスト教系(グノーシス系)
・薔薇十字系(神智学等)
インド系は自我を消し、全てをグル(師匠)に委ねます。
キリスト教系は、キリストの鞭打ちや十字架の磔などを想像して追体験します。この時、キリストが究極のグル(師匠)とみなされ、人間のグルは仲介役になります。特に感情の強い人に有効とのことです。
薔薇十字系では自我と自由と自主性が重んじられ、グルは存在せず、友人として助言する師がいるだけとのことです。
どちらにせよ最終的には慈悲の心や人類への貢献の気持ちが芽生えるとのことで、最終地点は同じのようです。
私はインド系とスピリチュアル系の中間くらいな感じです。必ずしも全てグルに委ねているわけでもなく、というか、確固としたグルがいるわけでもなく、それでいて基本はインド系で自我をなくす手法を取りつつも方向的にはスピリチュアル系です。私自身はインド系かなと思っていましたが、グルに委ねないという点で、私はその点では薔薇十字系なのかもしれないです。
キリスト教系は私自身はしたことがありませんが、イエズス会の創立者の1人の書いた「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ 著)」という書物には具体的な瞑想方法(修行方法)が書かれてあって興味深いです。
スピリチュアル系がどれに入るのかは微妙なところですが、どちらかというと薔薇十字系(神智学等)になるのだとは思います。スピリチュアル系はいいとこ取りなので、良いところはどれでも取り入れるのだと思います。自我をなくすと言ってもグルに委ねるわけでもなく、キリストの追体験をして神を知ることをしているスピリチュアリストもいますし、自我と自主性を重んじるスピリチュアリストも大勢いますので、薔薇十字系6割+キリスト教系2割+インド系2割、というところでしょうか。肌感覚的なものですが。
・インド系
・キリスト教系(グノーシス系)
・薔薇十字系(神智学等)
インド系は自我を消し、全てをグル(師匠)に委ねます。
キリスト教系は、キリストの鞭打ちや十字架の磔などを想像して追体験します。この時、キリストが究極のグル(師匠)とみなされ、人間のグルは仲介役になります。特に感情の強い人に有効とのことです。
薔薇十字系では自我と自由と自主性が重んじられ、グルは存在せず、友人として助言する師がいるだけとのことです。
どちらにせよ最終的には慈悲の心や人類への貢献の気持ちが芽生えるとのことで、最終地点は同じのようです。
私はインド系とスピリチュアル系の中間くらいな感じです。必ずしも全てグルに委ねているわけでもなく、というか、確固としたグルがいるわけでもなく、それでいて基本はインド系で自我をなくす手法を取りつつも方向的にはスピリチュアル系です。私自身はインド系かなと思っていましたが、グルに委ねないという点で、私はその点では薔薇十字系なのかもしれないです。
キリスト教系は私自身はしたことがありませんが、イエズス会の創立者の1人の書いた「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ 著)」という書物には具体的な瞑想方法(修行方法)が書かれてあって興味深いです。
スピリチュアル系がどれに入るのかは微妙なところですが、どちらかというと薔薇十字系(神智学等)になるのだとは思います。スピリチュアル系はいいとこ取りなので、良いところはどれでも取り入れるのだと思います。自我をなくすと言ってもグルに委ねるわけでもなく、キリストの追体験をして神を知ることをしているスピリチュアリストもいますし、自我と自主性を重んじるスピリチュアリストも大勢いますので、薔薇十字系6割+キリスト教系2割+インド系2割、というところでしょうか。肌感覚的なものですが。
5つの代表的な宇宙人の特徴
「癒しフェア」(東京ビッグサイト)に行ってJCETIという団体の公演を聞きました。中で、興味深いことを言っていました。うろ覚えですので間違っているかもしれませんけど。
■シリウス出身者
猫のような顔(!)
ヨガを好む(!)
■プレアデス
有名
■アルクトゥルス(アークトゥルス)
映画のアバターみたいな顔のイメージ。公演者のグレゴリー・サリバンもここの出身
■アンドロメダ
天使(!)
■オリオン
太鼓や祭り好き
オリオン大戦(宇宙戦争)の生き残り
これが真実だとは私は言いませんけど、動物占いのように星座で人の特徴が表せられるところが興味深いです。シリウスが猫のような顔でヨガを好む、というのは知っている人にその特徴がいくつか見受けられて面白かったです。公演者もアークトゥルス出身だと自分で言っていて、「それっぽい」感じでした。アンドロメダが天使、というのは、なるほどなー と妙に納得。オリオンが太鼓や祭り好き、というのはオリオンビールじゃないですけど、イメージ合ってます。
この団体はよくわからないですけど、その団体が出版していた 「UFOテクノロジー隠蔽工作」は昔買って(ざっと読んだけですけど)家に置いてあったので方向性は理解したのです。と言うのも、「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)を授かった僕がなぜ ハトホルの秘儀 in ギザの大ピラミッド(保江 邦夫 著)」という本の中で紹介されていましたので興味本位で買ってみたのでした。
私が子供の頃に幽体離脱して過去生を見た時に宇宙人との繋りもあったので、個人的には宇宙人は親しみがあるものの、今生では直接的な繋がりはないです。そういえば、子供の頃の同級生の父親が翻訳の仕事(ボランティア?)でスイスのUFOコンタクティのビリー・マイヤーとか言う人の本を訳していて、同級生の友人がしきりにその内容を私に自慢(苦笑)してくるのがうざったかったことはありますけど。そう言えば大学生の頃に興味でUFO見学会(苦笑)とかに行ったりもしましたっけ。懐かしい。
そう言えば思い出したのですが、小学生の頃の同級生の1人が宇宙人らしき人とチャネリングしていて、その人の一定範囲に入ると指向性スピーカーのように思考が漏れてきていて、こちらから話しかけるとそのチャネルを流用できたりしましたっけ。盗み聞きというか盗み思念キャッチとでも言いましょうか(苦笑)。こちらから話しかけたら「誰だ、君は?」とか言われたり。その時は子供なのでその後、変なこと言ったらチャネル切られちゃいましたけど。今から思えば、宇宙船のテクノロジーで強制的にチャネルをオープンしてチャネリングできるのだと思います。子供の頃に簡単にできたので、宇宙人の方からやろうと思えばいとも簡単にチャネリングできると思います。ですから、チャネリング自体は大したことではないですね。めちゃくちゃはっきりした思念波なので、子供の頃で瞑想していなくても明らかに「それ」とわかりますし。ハイヤーセルフの声というか意思の方を読み取るのは難易度がそれよりは高いとは思いますけど、宇宙人とのチャネリングは向こうがテクノロジーでチャネル開いてくれたら誰でも(文字通り誰でも)できると思います。選ばれて役割が与えられたら誰でもできるので、チャネリングしていても特別とは思わないことですね。チャネリングしていて優越意識が育ってきたらお役御免でチャネル切られて終わりだと思います。その人の意識を高める目的でチャネリングしている場合もあれば、役目のためにチャネリングしてくる場合もあると思うので、宇宙人はこちらより何枚も上手ですから、まあ、チャネリングがあっても小手先でどうこうせずに基本に素直でいればいいと思います。そう言えば、「ある瞑想家の冒険( ボブ・フィックス 著)」の中で、著者の師匠のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがチャネリングに否定的な見解を示していましたけど、基本はそうだと思います。普通の肉体のおしゃべりと変わらない、というのが基本ですし。
過去生では、その頃はたぶん中世くらいでその宇宙人にとって地球は未知の場所で、地球を知るために地球人とコンタクトしてきて、その時に私の過去生が宇宙人と接触したり、その後、半生を宇宙船で過ごしたり、その後の転生で宇宙船に生まれたり、任務で他の惑星に転生したり・・・ そんな記憶というか幽体離脱した時にそんな過去生も見ましたけど、実際のところどこまで本当かどうか分かりませんからね。宇宙人はもっと昔から地球にコンタクトしている気もしますし。その団体というかグループがその頃からコンタクトを始めたのか、あるいは、私のただの想像の夢でしかないか。まあ、証拠もないですしね。
今生では特にその系での使命があって地球に生まれてきたわけではない感じですし。これから何かあるなら、それはそれでいいですけど。
そう言えば、「アルクトゥルス人より地球人へ」という本は昔買って、興味深く読みました。
■マインドフルネス
その団体が出している本で、マインドフルネス瞑想が強調されていました。
代表者のグレゴリー・サリバンに話を聞いたところ、どうやら最終的な目的は人類の意識を高めることのようです。
であれば、方向性は理解できます。
■ハイヤーセルフ
そもそも私のグループソウルというかハイヤーセルフはあっちの世界から来たのだし、地球からみたら宇宙人に分類されるのかも。まあ、大したことではないですけど。あの世界を地球の言葉で何というのか当てはまる言葉を知りませんけど。たぶんアレ、ってのはありますけどね。
■シリウス出身者
猫のような顔(!)
ヨガを好む(!)
■プレアデス
有名
■アルクトゥルス(アークトゥルス)
映画のアバターみたいな顔のイメージ。公演者のグレゴリー・サリバンもここの出身
■アンドロメダ
天使(!)
■オリオン
太鼓や祭り好き
オリオン大戦(宇宙戦争)の生き残り
これが真実だとは私は言いませんけど、動物占いのように星座で人の特徴が表せられるところが興味深いです。シリウスが猫のような顔でヨガを好む、というのは知っている人にその特徴がいくつか見受けられて面白かったです。公演者もアークトゥルス出身だと自分で言っていて、「それっぽい」感じでした。アンドロメダが天使、というのは、なるほどなー と妙に納得。オリオンが太鼓や祭り好き、というのはオリオンビールじゃないですけど、イメージ合ってます。
この団体はよくわからないですけど、その団体が出版していた 「UFOテクノロジー隠蔽工作」は昔買って(ざっと読んだけですけど)家に置いてあったので方向性は理解したのです。と言うのも、「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)を授かった僕がなぜ ハトホルの秘儀 in ギザの大ピラミッド(保江 邦夫 著)」という本の中で紹介されていましたので興味本位で買ってみたのでした。
私が子供の頃に幽体離脱して過去生を見た時に宇宙人との繋りもあったので、個人的には宇宙人は親しみがあるものの、今生では直接的な繋がりはないです。そういえば、子供の頃の同級生の父親が翻訳の仕事(ボランティア?)でスイスのUFOコンタクティのビリー・マイヤーとか言う人の本を訳していて、同級生の友人がしきりにその内容を私に自慢(苦笑)してくるのがうざったかったことはありますけど。そう言えば大学生の頃に興味でUFO見学会(苦笑)とかに行ったりもしましたっけ。懐かしい。
そう言えば思い出したのですが、小学生の頃の同級生の1人が宇宙人らしき人とチャネリングしていて、その人の一定範囲に入ると指向性スピーカーのように思考が漏れてきていて、こちらから話しかけるとそのチャネルを流用できたりしましたっけ。盗み聞きというか盗み思念キャッチとでも言いましょうか(苦笑)。こちらから話しかけたら「誰だ、君は?」とか言われたり。その時は子供なのでその後、変なこと言ったらチャネル切られちゃいましたけど。今から思えば、宇宙船のテクノロジーで強制的にチャネルをオープンしてチャネリングできるのだと思います。子供の頃に簡単にできたので、宇宙人の方からやろうと思えばいとも簡単にチャネリングできると思います。ですから、チャネリング自体は大したことではないですね。めちゃくちゃはっきりした思念波なので、子供の頃で瞑想していなくても明らかに「それ」とわかりますし。ハイヤーセルフの声というか意思の方を読み取るのは難易度がそれよりは高いとは思いますけど、宇宙人とのチャネリングは向こうがテクノロジーでチャネル開いてくれたら誰でも(文字通り誰でも)できると思います。選ばれて役割が与えられたら誰でもできるので、チャネリングしていても特別とは思わないことですね。チャネリングしていて優越意識が育ってきたらお役御免でチャネル切られて終わりだと思います。その人の意識を高める目的でチャネリングしている場合もあれば、役目のためにチャネリングしてくる場合もあると思うので、宇宙人はこちらより何枚も上手ですから、まあ、チャネリングがあっても小手先でどうこうせずに基本に素直でいればいいと思います。そう言えば、「ある瞑想家の冒険( ボブ・フィックス 著)」の中で、著者の師匠のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがチャネリングに否定的な見解を示していましたけど、基本はそうだと思います。普通の肉体のおしゃべりと変わらない、というのが基本ですし。
過去生では、その頃はたぶん中世くらいでその宇宙人にとって地球は未知の場所で、地球を知るために地球人とコンタクトしてきて、その時に私の過去生が宇宙人と接触したり、その後、半生を宇宙船で過ごしたり、その後の転生で宇宙船に生まれたり、任務で他の惑星に転生したり・・・ そんな記憶というか幽体離脱した時にそんな過去生も見ましたけど、実際のところどこまで本当かどうか分かりませんからね。宇宙人はもっと昔から地球にコンタクトしている気もしますし。その団体というかグループがその頃からコンタクトを始めたのか、あるいは、私のただの想像の夢でしかないか。まあ、証拠もないですしね。
今生では特にその系での使命があって地球に生まれてきたわけではない感じですし。これから何かあるなら、それはそれでいいですけど。
そう言えば、「アルクトゥルス人より地球人へ」という本は昔買って、興味深く読みました。
■マインドフルネス
その団体が出している本で、マインドフルネス瞑想が強調されていました。
代表者のグレゴリー・サリバンに話を聞いたところ、どうやら最終的な目的は人類の意識を高めることのようです。
であれば、方向性は理解できます。
■ハイヤーセルフ
そもそも私のグループソウルというかハイヤーセルフはあっちの世界から来たのだし、地球からみたら宇宙人に分類されるのかも。まあ、大したことではないですけど。あの世界を地球の言葉で何というのか当てはまる言葉を知りませんけど。たぶんアレ、ってのはありますけどね。
トランステック(TransTech)と古神道の出会い
癒しフェア(東京ビッグサイト)で見かけた興味深いブース。
neten(ネッテン)と言うブースでは古神道を技術で再現すると言うコンセプトにて手軽に瞑想状態を作り出す機械を数多く出していました。私は購入しておりませんが、ちょっと試したところ少しネガティブなものが「抜けた」とでも言いましょうか、少しだけ「お祓い」と同じ効果があったような、なかったような? 展示会ではガヤガヤしていますし、確実な効果がわかったかどうかは微妙なところですが、なんとなく効果があったような気がしました。(主観です)
同じノウハウを使ったお水を飲んだらピリピリと感じるものがあって、機械の方よりも水の方が効果ありそうな気もしましたが、ウォーターサーバーはかなりのお値段ということで簡単に手が出る価格ではありませんでした。
無料講演会を聞きましたが、古神道の基本的な概念が使われていて、なるほどなー と妙に納得しました。
今回の癒しフェアの講演会をいくつか聞きましたが、時代的なものなのか、人々が同期して成長しているのか、無意識というか無というか全体というか、意識より上のレベルに関するお話がこれに限らず多かったような気がします。ですので、他で聞いた話がこっちでも繋がっていて、同じことを違う面から言っていたりして、シンクロしているところも興味深かったです。みんな同じ壁を同時期に超えてきていて、一斉にスイッチが入ってきている感じですね。
ここの機械は買いませんでしたけど、これに限らず今シリコンバレーで流行してきている TransTech というジャンルは今後とも注目していきたいです。
neten(ネッテン)と言うブースでは古神道を技術で再現すると言うコンセプトにて手軽に瞑想状態を作り出す機械を数多く出していました。私は購入しておりませんが、ちょっと試したところ少しネガティブなものが「抜けた」とでも言いましょうか、少しだけ「お祓い」と同じ効果があったような、なかったような? 展示会ではガヤガヤしていますし、確実な効果がわかったかどうかは微妙なところですが、なんとなく効果があったような気がしました。(主観です)
同じノウハウを使ったお水を飲んだらピリピリと感じるものがあって、機械の方よりも水の方が効果ありそうな気もしましたが、ウォーターサーバーはかなりのお値段ということで簡単に手が出る価格ではありませんでした。
無料講演会を聞きましたが、古神道の基本的な概念が使われていて、なるほどなー と妙に納得しました。
今回の癒しフェアの講演会をいくつか聞きましたが、時代的なものなのか、人々が同期して成長しているのか、無意識というか無というか全体というか、意識より上のレベルに関するお話がこれに限らず多かったような気がします。ですので、他で聞いた話がこっちでも繋がっていて、同じことを違う面から言っていたりして、シンクロしているところも興味深かったです。みんな同じ壁を同時期に超えてきていて、一斉にスイッチが入ってきている感じですね。
ここの機械は買いませんでしたけど、これに限らず今シリコンバレーで流行してきている TransTech というジャンルは今後とも注目していきたいです。
夢で登った霊山とこの世のものとは思えない巨大な大仏
夢でとある霊山にやってきました。すごくリアルな夢で、まるで現実のようです。
電車に揺られ、バスに乗り、山のふもとで降り、そこからまる一日の山登り。最初はトンネルの階段を登ります。まだ朝で真っ暗です。
ショルダーバッグには水が500ml入っています。トンネルになっている階段を出て登山道かと思っていたらいきなり頂上付近に出ました。
まる一日登るつもりで朝早く出たのでまだそこは真っ暗です。ライトをつけて標識を見ると、すぐそこにお寺があるようです。
近づくとチケット売り場の電気がつき、チケットを売ってくれました。持っているパンフレットを手に、今はどこかをチケット売り場の人に訪ねたらパンフレットが違うらしく、別の厚いパンフレットをくれました。山の各所には50を超えるお寺がぎっしりあるようです。
ちょっとだけ明るくなってきて、薄っすらとお寺や何かが見えてきました。ひとまずすぐそこにあるお寺に入ろうとして、ふと上を見上げると、とてもとても大きな仏像がお寺の中から顔を出しています。この世のものとは思えない(夢ですけど 笑)大きさと立派さです。
そのお寺にはエレベーターもあるけれども階段もあると言われ、階段から登ることにします。その一階には食堂がありました。食堂には、何故かコイン式双眼鏡のコイン入れだけぽいものが食堂の席についていました。なんだこれ?? 食堂はまだ朝早くてやっていないようで、ひとまず上に登ることに。階段を登っていると朝日が登ってきたようで、日の光を感じました・・・
朝日を見ようと階段を登っていたら、いいところで目覚しが鳴って起きてしまいました。うーん。登ったところの景色を見たかった・・・。そのうちまた夢で見れるかな。
電車に揺られ、バスに乗り、山のふもとで降り、そこからまる一日の山登り。最初はトンネルの階段を登ります。まだ朝で真っ暗です。
ショルダーバッグには水が500ml入っています。トンネルになっている階段を出て登山道かと思っていたらいきなり頂上付近に出ました。
まる一日登るつもりで朝早く出たのでまだそこは真っ暗です。ライトをつけて標識を見ると、すぐそこにお寺があるようです。
近づくとチケット売り場の電気がつき、チケットを売ってくれました。持っているパンフレットを手に、今はどこかをチケット売り場の人に訪ねたらパンフレットが違うらしく、別の厚いパンフレットをくれました。山の各所には50を超えるお寺がぎっしりあるようです。
ちょっとだけ明るくなってきて、薄っすらとお寺や何かが見えてきました。ひとまずすぐそこにあるお寺に入ろうとして、ふと上を見上げると、とてもとても大きな仏像がお寺の中から顔を出しています。この世のものとは思えない(夢ですけど 笑)大きさと立派さです。
そのお寺にはエレベーターもあるけれども階段もあると言われ、階段から登ることにします。その一階には食堂がありました。食堂には、何故かコイン式双眼鏡のコイン入れだけぽいものが食堂の席についていました。なんだこれ?? 食堂はまだ朝早くてやっていないようで、ひとまず上に登ることに。階段を登っていると朝日が登ってきたようで、日の光を感じました・・・
朝日を見ようと階段を登っていたら、いいところで目覚しが鳴って起きてしまいました。うーん。登ったところの景色を見たかった・・・。そのうちまた夢で見れるかな。
私に必要なのは、もっと楽しむこと
癒しフェア(東京ビッグサイト)のブースでカウンセリングをいくつか受けました。
私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。
サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。
これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。
こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。
語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。
最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。
以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。
そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。
ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。
ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。
■サイキックなカウンセラーとの付き合い方
基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。
私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。
サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。
これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。
こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。
語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。
最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。
以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。
そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。
ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。
ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。
■サイキックなカウンセラーとの付き合い方
基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。
2つの喜びの謎
感情の喜びと、感情を超えた喜び。
感情の喜びはマニプラに結びついている。
感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。
私の場合は後者はまだです。
先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえますと、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。
クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。
その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。
これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。
マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。
どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。
感情の喜びはマニプラに結びついている。
感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。
私の場合は後者はまだです。
先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえますと、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。
クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。
その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。
これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。
マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。
どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。
想念とフォーカスポイントと雑念
以前書きましたように、瞑想の質が変化してきてからは眉間に集中すれば2〜3秒で雑念が消えるようになりました。それは、眉間にあるザワザワした感覚と言いますかエネルギー的な何かが雑念を打ち消してしまうのですが、最近までその眉間のザワザワ感が何かよく分かりませんでした。
どうやら、その眉間のザワザワ感は、集中(フォーカス)が十分にできていないことによるエネルギー的な「ブレ」な気がしてきました。
特にここ1週間はちょっと頭の上に壁がある感じがしており、それを不安定と言えばそうなのかもしれませんけど不安定というと語弊があるかもしれない状態でした。以前よりは遥かに安定してい流のですがその安定の中であっても頭の上に壁があって、瞑想するときにその壁と言いますか何かが安定感を損なわせている感じだったのです。
そこで、ここ1週間くらいはその壁が何なのかな・・・ と思いつつも眉間に集中する瞑想を続けていましたところ、急に眉間の集中の度合いが深まって、眉間にちょっとした玉が出来たような感じになりました。それはいわゆるフォーカスポイントとでも言うべき集中の点ですけれども、そのフォーカスポイントの玉が出来た瞬間に、雑念のレベルが急に更に減りました。
どうやら瞑想が終わってもその効果が続いているようです。
眉間のザワザワ感がほとんどなくなって、代わりにフォーカスポイントに玉が出来た感じです。
ザワザワ感は振動幅が大きいことによる感覚で、今は振動幅が狭くなって周波数が高くなったような感じがしています。
以前は眉間の周りが沸騰する水のように色々なところからザワザワと浮き沈みがあり、浮き沈みの一つ一つの振動幅が今よりも大きくて、周波数も今よりも低い感じでした。その感覚がある範囲は円ではなく割と幅広い感じでした。今は範囲が玉というか球のような感じで、沸騰の浮き沈みはほとんど感じられないくらい振動幅が小さくなって周波数も上がった感じです。
おもちゃで、円盤に紐がついていて両手で引っ張るとビューンと回るのがあったと思いますけど、そういうイメージです。そのおもちゃは、あまり勢いなくゆっくり回っているとブレが大いですけど勢いよく回すと中心で安定する、という感じが今回のと似ています。「びゅんびゅんマスター」みたいな。
雑念のレベルには浮き沈みがありますけど、1ヶ月くらい前に書きましたように雑念が減って「いま」に生きる感じになってきましたが、ここ1週間はちょっとリバウンド気味で雑念が少し増えていると言いますか上に書きましたように壁がある感じでした。雑念が増えたと言っても、数ヶ月前に比べると随分と減っているので、1ヶ月くらい前に比べると少しリバウンド、と言うことではありますが。
そんな状態でここ数日瞑想をしていたら、上に書いたような変化があったのです。
1ヶ月前は「瞑想中に雑念が出てきても眉間のザワザワで2〜3秒で雑念が消える。瞑想している間だけ効果あり。」と言う感じでしたが、今日の瞑想では「フォーカスポイントの玉がある間は雑念がそもそも湧きにくい。瞑想の後にも効果が持続する。」と言う違いがあるようです。
雑念なく生きることが「いま」に生きることですから、今回の変化で更に雑念が湧きにくくなったことにより「いま」に生きることがより簡単になったとも言えます。程度問題ではありますけれども。
どうやら、その眉間のザワザワ感は、集中(フォーカス)が十分にできていないことによるエネルギー的な「ブレ」な気がしてきました。
特にここ1週間はちょっと頭の上に壁がある感じがしており、それを不安定と言えばそうなのかもしれませんけど不安定というと語弊があるかもしれない状態でした。以前よりは遥かに安定してい流のですがその安定の中であっても頭の上に壁があって、瞑想するときにその壁と言いますか何かが安定感を損なわせている感じだったのです。
そこで、ここ1週間くらいはその壁が何なのかな・・・ と思いつつも眉間に集中する瞑想を続けていましたところ、急に眉間の集中の度合いが深まって、眉間にちょっとした玉が出来たような感じになりました。それはいわゆるフォーカスポイントとでも言うべき集中の点ですけれども、そのフォーカスポイントの玉が出来た瞬間に、雑念のレベルが急に更に減りました。
どうやら瞑想が終わってもその効果が続いているようです。
眉間のザワザワ感がほとんどなくなって、代わりにフォーカスポイントに玉が出来た感じです。
ザワザワ感は振動幅が大きいことによる感覚で、今は振動幅が狭くなって周波数が高くなったような感じがしています。
以前は眉間の周りが沸騰する水のように色々なところからザワザワと浮き沈みがあり、浮き沈みの一つ一つの振動幅が今よりも大きくて、周波数も今よりも低い感じでした。その感覚がある範囲は円ではなく割と幅広い感じでした。今は範囲が玉というか球のような感じで、沸騰の浮き沈みはほとんど感じられないくらい振動幅が小さくなって周波数も上がった感じです。
おもちゃで、円盤に紐がついていて両手で引っ張るとビューンと回るのがあったと思いますけど、そういうイメージです。そのおもちゃは、あまり勢いなくゆっくり回っているとブレが大いですけど勢いよく回すと中心で安定する、という感じが今回のと似ています。「びゅんびゅんマスター」みたいな。
雑念のレベルには浮き沈みがありますけど、1ヶ月くらい前に書きましたように雑念が減って「いま」に生きる感じになってきましたが、ここ1週間はちょっとリバウンド気味で雑念が少し増えていると言いますか上に書きましたように壁がある感じでした。雑念が増えたと言っても、数ヶ月前に比べると随分と減っているので、1ヶ月くらい前に比べると少しリバウンド、と言うことではありますが。
そんな状態でここ数日瞑想をしていたら、上に書いたような変化があったのです。
1ヶ月前は「瞑想中に雑念が出てきても眉間のザワザワで2〜3秒で雑念が消える。瞑想している間だけ効果あり。」と言う感じでしたが、今日の瞑想では「フォーカスポイントの玉がある間は雑念がそもそも湧きにくい。瞑想の後にも効果が持続する。」と言う違いがあるようです。
雑念なく生きることが「いま」に生きることですから、今回の変化で更に雑念が湧きにくくなったことにより「いま」に生きることがより簡単になったとも言えます。程度問題ではありますけれども。
集中と雑念の分離と客観視
先日の続きです。
フォーカスポイントに玉のような感覚が出来て雑念が浮かびにくくなったわけですけれども、それに加えて、次のような変化がありました。
以前は、集中と雑念がそれぞれ依存関係にあると言いますか、集中すれば雑念がそれに引っ張られて雑念が止まったり、あるいは、雑念が起これば集中が途切れる、というように相関関係が見られました。
今回の変化の以降は、この結びつきがかなり緩くなりました。
集中は集中として眉間のフォーカスポイントに玉を作り続け、かと言って、その集中が時折聞こえる雑念・・・ ともまた違う感じですがとりあえず雑念としておきますが、その雑念を妨げないのです。逆も同様で、とりあえず雑念としておきますが雑念のような何かのインプットがあっても集中を妨げずに眉間のフォーカスポイントに玉を作り続けるのです。
雑念よりももっと微細な意思のような気もしますので、雑念と言ってしまうといわゆる心というかマインド的なものを意味しますけど、それよりも微細な感覚な気が致します。言葉にするとどちらも「心」だったり「マインド」だったり「雑念」と言うことになるのかもしれませんけど。
そのように、「集中」と「雑念(心、マインド)」が分離してきたわけです。
「集中と雑念(心、マインド)が分離」と言う表現はちょっと誤解がありそうですので、別の表現をすると以下のようになります。
「集中」は顕在意識における「思考」としての心、マインド、雑念と結びついており、集中している間は「思考」は止まり、同レベルにおける雑念も止まる。
一方、集中して思考が止まっている間であっても「想念」としての心、マインド、雑念は動いている。あるいは、その想念はどこかから流れたりしてきている。
と、このようなことなのかな? と言う気が致します。
以前は「思考」と「想念」がごっちゃになっていて、今回のことで「想念」が見えてきた、と言うことなのかもしれません。
「想念」と言う言い方が必ずしも正しいとは限りませんけど、対比して言うならばこんな感じです。
■客観視
これを、人によってはもしかしたら古来から「客観視」とか言ってきたのかもしれないですけど、この感覚をそのまんま表現するならば客観視と言うのは語弊がある言い方のような気が致します。と言うのも、客観視というと「自分」がどこか「彼方」から、例えばゲームキャラクタのように俯瞰することをイメージしてしまいがちですけれども、この種の想念の観察は自分がどこにも行かなくて、むしろ完全に「ここ」にいて、「いま」「ここ」にいるからこそ想念が見えるので、それを客観視と言ってしまうと「なんのこっちゃ?」となる気が致します。分かっている人同士ならば「ああ、客観視ですか。ああ、そうですね」と納得できるでしょうが、その状態を知らない人に対する説明として「客観視」は誤解がかなりあると思います。ミスリードしてしまいそうな表現です。
本当の客観視は幽体離脱のように外から見ることだと個人的には思います。
客観視と言うよりも、状況そのままに言えば「思考と想念が分離して認識できるようになり、それが思考ではなく想念だと認識しつつ想念の観察が可能になった状態」とでも言いますか。
きっと古来からこのことを客観視だとか言ってきたのかなあ、という気がしました。古来から、という部分は推測で仮説ですけど。「自分」というのはどこにも行ったりせずに「いま、ここ」にいて「想念の観察」をしているので「客観」というのはよく分かりませんけど、この種の「想念の観察」のことをきっと「客観視」と世間では言ったりするのかなと思います。流派にもよるのかもしれないですけど。
フォーカスポイントに玉のような感覚が出来て雑念が浮かびにくくなったわけですけれども、それに加えて、次のような変化がありました。
以前は、集中と雑念がそれぞれ依存関係にあると言いますか、集中すれば雑念がそれに引っ張られて雑念が止まったり、あるいは、雑念が起これば集中が途切れる、というように相関関係が見られました。
今回の変化の以降は、この結びつきがかなり緩くなりました。
集中は集中として眉間のフォーカスポイントに玉を作り続け、かと言って、その集中が時折聞こえる雑念・・・ ともまた違う感じですがとりあえず雑念としておきますが、その雑念を妨げないのです。逆も同様で、とりあえず雑念としておきますが雑念のような何かのインプットがあっても集中を妨げずに眉間のフォーカスポイントに玉を作り続けるのです。
雑念よりももっと微細な意思のような気もしますので、雑念と言ってしまうといわゆる心というかマインド的なものを意味しますけど、それよりも微細な感覚な気が致します。言葉にするとどちらも「心」だったり「マインド」だったり「雑念」と言うことになるのかもしれませんけど。
そのように、「集中」と「雑念(心、マインド)」が分離してきたわけです。
「集中と雑念(心、マインド)が分離」と言う表現はちょっと誤解がありそうですので、別の表現をすると以下のようになります。
「集中」は顕在意識における「思考」としての心、マインド、雑念と結びついており、集中している間は「思考」は止まり、同レベルにおける雑念も止まる。
一方、集中して思考が止まっている間であっても「想念」としての心、マインド、雑念は動いている。あるいは、その想念はどこかから流れたりしてきている。
と、このようなことなのかな? と言う気が致します。
以前は「思考」と「想念」がごっちゃになっていて、今回のことで「想念」が見えてきた、と言うことなのかもしれません。
「想念」と言う言い方が必ずしも正しいとは限りませんけど、対比して言うならばこんな感じです。
■客観視
これを、人によってはもしかしたら古来から「客観視」とか言ってきたのかもしれないですけど、この感覚をそのまんま表現するならば客観視と言うのは語弊がある言い方のような気が致します。と言うのも、客観視というと「自分」がどこか「彼方」から、例えばゲームキャラクタのように俯瞰することをイメージしてしまいがちですけれども、この種の想念の観察は自分がどこにも行かなくて、むしろ完全に「ここ」にいて、「いま」「ここ」にいるからこそ想念が見えるので、それを客観視と言ってしまうと「なんのこっちゃ?」となる気が致します。分かっている人同士ならば「ああ、客観視ですか。ああ、そうですね」と納得できるでしょうが、その状態を知らない人に対する説明として「客観視」は誤解がかなりあると思います。ミスリードしてしまいそうな表現です。
本当の客観視は幽体離脱のように外から見ることだと個人的には思います。
客観視と言うよりも、状況そのままに言えば「思考と想念が分離して認識できるようになり、それが思考ではなく想念だと認識しつつ想念の観察が可能になった状態」とでも言いますか。
きっと古来からこのことを客観視だとか言ってきたのかなあ、という気がしました。古来から、という部分は推測で仮説ですけど。「自分」というのはどこにも行ったりせずに「いま、ここ」にいて「想念の観察」をしているので「客観」というのはよく分かりませんけど、この種の「想念の観察」のことをきっと「客観視」と世間では言ったりするのかなと思います。流派にもよるのかもしれないですけど。
虚空に響き渡るオーム
先日から眉間の集中ポイントで玉っぽい感覚が出来てきましたが、その後、お腹のあたりにも何か大きな玉のようなものが感じられるようになりました。お腹のあたりがキュッと締まって玉を抱えているような感覚です。その状態で瞑想を続けていると、眉間の玉が無あるいは虚空のような空間と繋がっているような気がしてきました。
私は瞑想する時は沈黙の瞑想をすることも多いですが、オームを心の中で唱える瞑想をする時もあります。眉間に玉の感覚がある状態でオームを心で唱えると、以前との変化を感じることができました。
以前は、眉間のオームをすると眉間の肌がザワザワした感じになりました。単に眉間に集中しただけでも眉間の肌がザワザワきますが、オームを唱えるとそのザワザワがより強くはっきりと感じられていました。
眉間に玉がある状態では先日の記事で書きましたようにザワザワした感じがほとんどなく、オームを唱えてもやはりザワザワした感じはないのですが、オームを唱えると眉間の玉の中にオームが響き渡る感じになってきました。眉間の玉が無あるいは虚空の空間に繋がっている、とでも言いましょうか。オームを唱えると眉間の玉の無あるいは虚空の空間の先に響き渡る感じなのです。
そういえば「密教ヨーガ(本山博著)」に以下のようなアジナチャクラの覚醒方法が書いてあります。
心(意識)を眉間のアジナチャクラに集中し、眉間からプラナを吸い取ると念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくり深く吸い取ります。次に、アジナチャクラからプラナを宇宙に吐き出すと念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくりと吐き出します。これをできるだけ長時間繰り返します。
これを前に読んだ時は「プラナを吸い取る」とか「宇宙に吐き出す」みたいな感じがよく分からなかったのです。今は、吸い取るとか吐き出すとかの明確な感覚はないにせよ、もしかしたらこの部分は無あるいは虚空へと繋がる感じのことを言っているのかな? という気がしました。
瞑想の調子次第ですので、毎回このような感じになるわけでもないですが。この感覚、なかなか微妙で感じるのが難しいです。
私は瞑想する時は沈黙の瞑想をすることも多いですが、オームを心の中で唱える瞑想をする時もあります。眉間に玉の感覚がある状態でオームを心で唱えると、以前との変化を感じることができました。
以前は、眉間のオームをすると眉間の肌がザワザワした感じになりました。単に眉間に集中しただけでも眉間の肌がザワザワきますが、オームを唱えるとそのザワザワがより強くはっきりと感じられていました。
眉間に玉がある状態では先日の記事で書きましたようにザワザワした感じがほとんどなく、オームを唱えてもやはりザワザワした感じはないのですが、オームを唱えると眉間の玉の中にオームが響き渡る感じになってきました。眉間の玉が無あるいは虚空の空間に繋がっている、とでも言いましょうか。オームを唱えると眉間の玉の無あるいは虚空の空間の先に響き渡る感じなのです。
そういえば「密教ヨーガ(本山博著)」に以下のようなアジナチャクラの覚醒方法が書いてあります。
心(意識)を眉間のアジナチャクラに集中し、眉間からプラナを吸い取ると念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくり深く吸い取ります。次に、アジナチャクラからプラナを宇宙に吐き出すと念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくりと吐き出します。これをできるだけ長時間繰り返します。
これを前に読んだ時は「プラナを吸い取る」とか「宇宙に吐き出す」みたいな感じがよく分からなかったのです。今は、吸い取るとか吐き出すとかの明確な感覚はないにせよ、もしかしたらこの部分は無あるいは虚空へと繋がる感じのことを言っているのかな? という気がしました。
瞑想の調子次第ですので、毎回このような感じになるわけでもないですが。この感覚、なかなか微妙で感じるのが難しいです。
悪口の根絶は不還果=アナハタ優勢の時に起る
テーラワーダ仏教に基づきますと、悟りの第三段階である不還果(ふげんか)によって悪口(あっく)が根絶されると言います。
第三の段階に至ってはじめて、瞑想者は貪りと怒り、そして欲求不満を完全に克服することができます。誤った思考(miccha-sankappo, 邪思惟)、中傷(pisunavaca, 両舌)、ひどくきつい言葉(pharusavaca, 悪口 あっく)が根絶されます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
第三の段階とは不還だと解釈できます。
私の場合、もともと汚い言葉は好きではありませんでしたが社会に何十年と暮らすにつれて言葉が悪くなってきてしまっていましたが、2ヶ月前の風の体験でアナハタ優勢になって以来、汚い言葉を聞くのも話すのも無理になってしまいました。汚い言葉を聞くと調子が悪くなって頭痛がしたりしますし、汚い言葉を話すのは無理な感じになってきております。
悟りの第三段階である不還果で悪口が根絶されるということは、私の場合に当てはめると、不還果がアナハタ優勢の状態に対応するのだと思います。
アナハタ優勢になれば悪口ができなくなる、というのは理にかなっていますし、実際そんな感じです。これは躾とか道徳というものではなくて、感覚的に汚い言葉は無理な感じで、生理的に受け付けなくなってきました。ある意味、とても生き辛くなってしまったのです。
他の人がどうかは知りません。私の場合はこんな感じです。
■四沙門果とチャクラの対応
あまりこう言う対応付けはしないのかもしれませんが、私の感覚を元に四沙門果をチャクラに対応付けてみますと以下のようになります。
・預流果:クンダリーニ覚醒前。チャクラ感覚ほとんどなし。
・一来果:クンダリーニ覚醒後。マニプラ優勢
・不還果:アナハタ優勢。
・阿羅漢果:アジナかサハスララ優勢と推測(私はこれから)
これらの内容については以前の記事で引用したことがあります。
■違う切り口
上で引用した書物は同じテーラワーダ仏教でも以前に引用した「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」とは切り口が違うので興味深いです。例えば、預流果と一来果について以下のように説明しています。
同書では第1〜4という数字での言い方が多く、この部分に明確に四沙門果の名前は書いてありませんが、内容的に第一の段階は預流者、第二段階は一来、第三段階は不還、 第四とは阿羅漢果だと解釈できます。
[追記 2020/12/10]
同じ仏教でも流派によって分類が異なるようです。煩悩という観点からすると上のような解釈になりますが、涅槃という観点からすると段階が異なるようですね。
→ 最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)
→ やっている修行によって涅槃と煩悩の克服の度合いは異なる
第三の段階に至ってはじめて、瞑想者は貪りと怒り、そして欲求不満を完全に克服することができます。誤った思考(miccha-sankappo, 邪思惟)、中傷(pisunavaca, 両舌)、ひどくきつい言葉(pharusavaca, 悪口 あっく)が根絶されます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
第三の段階とは不還だと解釈できます。
私の場合、もともと汚い言葉は好きではありませんでしたが社会に何十年と暮らすにつれて言葉が悪くなってきてしまっていましたが、2ヶ月前の風の体験でアナハタ優勢になって以来、汚い言葉を聞くのも話すのも無理になってしまいました。汚い言葉を聞くと調子が悪くなって頭痛がしたりしますし、汚い言葉を話すのは無理な感じになってきております。
悟りの第三段階である不還果で悪口が根絶されるということは、私の場合に当てはめると、不還果がアナハタ優勢の状態に対応するのだと思います。
アナハタ優勢になれば悪口ができなくなる、というのは理にかなっていますし、実際そんな感じです。これは躾とか道徳というものではなくて、感覚的に汚い言葉は無理な感じで、生理的に受け付けなくなってきました。ある意味、とても生き辛くなってしまったのです。
他の人がどうかは知りません。私の場合はこんな感じです。
■四沙門果とチャクラの対応
あまりこう言う対応付けはしないのかもしれませんが、私の感覚を元に四沙門果をチャクラに対応付けてみますと以下のようになります。
・預流果:クンダリーニ覚醒前。チャクラ感覚ほとんどなし。
・一来果:クンダリーニ覚醒後。マニプラ優勢
・不還果:アナハタ優勢。
・阿羅漢果:アジナかサハスララ優勢と推測(私はこれから)
これらの内容については以前の記事で引用したことがあります。
■違う切り口
上で引用した書物は同じテーラワーダ仏教でも以前に引用した「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」とは切り口が違うので興味深いです。例えば、預流果と一来果について以下のように説明しています。
- 欲望、貪り、怒りあるいは欲求不満は、悟りの第一の段階によっては根絶されず、ただ誤った見方と疑いだけが根絶される。
- 悟りの第二段階は煩悩を弱めるだけ。貪り、怒り、欲求不満が弱められる。
- (第三の段階(不還)は上に引用した通り)
- 綺語(無益なお喋り)、即ち「新聞に書いてあるような、ニュースやゴシップについて語ること」と、邪精進(誤った努力)、邪定(じゃじょう、誤った禅定)、邪解脱(誤った解脱)、邪智(誤った知識)については、第四の洞察智によって初めて、根絶することが可能です。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
同書では第1〜4という数字での言い方が多く、この部分に明確に四沙門果の名前は書いてありませんが、内容的に第一の段階は預流者、第二段階は一来、第三段階は不還、 第四とは阿羅漢果だと解釈できます。
[追記 2020/12/10]
同じ仏教でも流派によって分類が異なるようです。煩悩という観点からすると上のような解釈になりますが、涅槃という観点からすると段階が異なるようですね。
→ 最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)
→ やっている修行によって涅槃と煩悩の克服の度合いは異なる
瞑想中に生じるイメージや音は重要ではない
ヨーガの瞑想では瞑想中に見たり聞いたりするものは重要ではないので無視するように指導されます。
類似のことが仏教においてもありますが、わかりやすい説明がありましたのでメモしておきたいと思います。
瞑想中に生じる明るい光は、サマタ瞑想において、ただ純粋な集中を通して起こり得ます。また、それらはヴィパッサナー瞑想の洞察智によっても起こり得る。理解がたいへん明晰で鋭くなるので、あなたは自己の内側に、非常な輝きを感じるのです。(中略)一部の人は、ブッダの姿や安らぎに満ちた景色といった、それぞれ異なったイメージを見ることもあります。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
この2種類の指摘は面白いです。ヨーガでも似たような説明がありますね。同書は次のように続きます。
場合によっては、それを解釈しても構いません。しかし、解釈は重要ではない。(中略)こうしたイメージは、ニミッタ(nimitta)と呼ばれます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
以下は同書で引用している聖典の言葉です。
色々なものを見た時、それが何であれ、ただそれらに気づきを入れるか、あるいは注意を払うだけにして、何事も解釈しないようにしてください。というのも、解釈する時、あなたは考えていることになる。考える時、あなたは気づきと集中を失って、マインドフルネスの水準は、下がっていくことになるのです。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
これは明確な指摘だと思いました。イメージや音は心が生み出しているものなので現在の心の状態を知る手助けにはなるが、それよりもマインドフルネス(ヴィパッサナー、気付きの瞑想)の状態を保つことが重要とのことです。
■クンダリーニ・ヨーガや仙道での光
クンダリーニ・ヨーガの流派によっては瞑想中に見える光の中に飛び込んだりするらしいですけど、私はよくわかりません。
同様に仙道でも似たような行法があったりするようですが、こちらもわかりません。
これ、瞑想中に見える光のことではなくて、幽体離脱の時にサハスララあるいは後頭部あたりからいわゆる魂が抜け出る時に見える光というか目印になる「いわゆる」光(のようなもの)、抜け出る方向を示す、方向指示器のような・・・、あるいは、三次元の目から幽体の目に切り替わる(というか両方動いているが幽体の目が優勢になる)タイミングで過渡的に光が見える感じがする、そういう、いわゆる「光」でしたらそういうのもあるのかな、と思うのですが、瞑想中に見える光に飛び込む、というのはどうもコンテキストが違う文脈を一緒くたにしている気がします。普通に瞑想している時に見える光に関しては無視でいいと思います。
類似のことが仏教においてもありますが、わかりやすい説明がありましたのでメモしておきたいと思います。
瞑想中に生じる明るい光は、サマタ瞑想において、ただ純粋な集中を通して起こり得ます。また、それらはヴィパッサナー瞑想の洞察智によっても起こり得る。理解がたいへん明晰で鋭くなるので、あなたは自己の内側に、非常な輝きを感じるのです。(中略)一部の人は、ブッダの姿や安らぎに満ちた景色といった、それぞれ異なったイメージを見ることもあります。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
この2種類の指摘は面白いです。ヨーガでも似たような説明がありますね。同書は次のように続きます。
場合によっては、それを解釈しても構いません。しかし、解釈は重要ではない。(中略)こうしたイメージは、ニミッタ(nimitta)と呼ばれます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
以下は同書で引用している聖典の言葉です。
色々なものを見た時、それが何であれ、ただそれらに気づきを入れるか、あるいは注意を払うだけにして、何事も解釈しないようにしてください。というのも、解釈する時、あなたは考えていることになる。考える時、あなたは気づきと集中を失って、マインドフルネスの水準は、下がっていくことになるのです。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)
これは明確な指摘だと思いました。イメージや音は心が生み出しているものなので現在の心の状態を知る手助けにはなるが、それよりもマインドフルネス(ヴィパッサナー、気付きの瞑想)の状態を保つことが重要とのことです。
■クンダリーニ・ヨーガや仙道での光
クンダリーニ・ヨーガの流派によっては瞑想中に見える光の中に飛び込んだりするらしいですけど、私はよくわかりません。
同様に仙道でも似たような行法があったりするようですが、こちらもわかりません。
これ、瞑想中に見える光のことではなくて、幽体離脱の時にサハスララあるいは後頭部あたりからいわゆる魂が抜け出る時に見える光というか目印になる「いわゆる」光(のようなもの)、抜け出る方向を示す、方向指示器のような・・・、あるいは、三次元の目から幽体の目に切り替わる(というか両方動いているが幽体の目が優勢になる)タイミングで過渡的に光が見える感じがする、そういう、いわゆる「光」でしたらそういうのもあるのかな、と思うのですが、瞑想中に見える光に飛び込む、というのはどうもコンテキストが違う文脈を一緒くたにしている気がします。普通に瞑想している時に見える光に関しては無視でいいと思います。
アナハタ優勢になると万人が悟っているように感じる
以前 にも書きましたが、特に2ヶ月前にアナハタ優勢になってからは「実は周囲の多くの人が実は悟っているのでは・・・?」という気になってきました。その時はちょっと控え目な書き方しましたが、実は、(地域によっては)住民のほとんどが悟っているのではないかな・・・ と、日本国内ですらそう思うようになったのです。「あれ? 実は私が悟っていなかっただけで、みんな実は既に悟っていたのかもしれない???」というような気持ちになったのです。今はそれが錯覚のようなものだと気付いてきましたし、感覚も薄れてきたのですが、それでも、今もそのような感覚はあります。
「正法眼蔵 参究(門脇 佳吉 著)」には以下のようにあります。
人の、さとりをうる、月に水のやどるがごとし。(中略)「人が悟りをうると、月が水に宿るがごとく、本証が万物に宿ることがわかる」という意味になる。「もし人が、三昧に端坐するとき、宇宙万物ことごとく悟りとなる」と同じ事態を指している。この場合、月が水に映るように、本証(悟り)が人・万物に映っているのではない。人も万物も、もともと仏法であるから、本証であったのである。ある人が悟ることによって、人・万物が本証であることが顕になるのである。
であれば、私の感じた「万人が悟っている気がする」感覚は、ある種の悟りの片鱗を垣間見たのだと思われます。
「さとり」には何段階もありますが、ここでの「さとり」はおそらくアナハタ以降のことを言っているのかな、と私個人的には思います。きっともっと深まれば強くこのことを感じて確信に至るのでしょうが、アナハタくらいですと「そんな感じがする」というくらいなのだと思います。
マニプラ優勢の頃までは、このことを頭で理解していても体感することはあまりありませんでした。マニプラ優勢の頃は「頭で理解して、体感せず」という感じだったのです。
一方、アナハタ優勢になってからは「頭で考える以前に、体感で万人が悟っている気がする。でも、頭で考えると、そんな筈はないと思い留まる。」という感じです。頭で考えなかったら素直に「みんな悟ってる!」とすんなり受け入れてしまいそうになりますが、そんな筈はないですから。体感的にはみんな悟っている気がするのですけど、行動を分析したり観察したりすると悟っている訳はないとロジックで理解するわけです。
もしかしたら、その変な行動すらも含めて「悟り」なのかもしれないですけど。思い悩むことも怒ることも悲しむことも笑うことも喜ぶことも全て含めて「さとり」であるのだとすれば、周囲の人はやっぱり全員既に悟っていて、きっとそれに自分では気づいていないだけなのでしょう。
「正法眼蔵 参究(門脇 佳吉 著)」には以下のようにあります。
人の、さとりをうる、月に水のやどるがごとし。(中略)「人が悟りをうると、月が水に宿るがごとく、本証が万物に宿ることがわかる」という意味になる。「もし人が、三昧に端坐するとき、宇宙万物ことごとく悟りとなる」と同じ事態を指している。この場合、月が水に映るように、本証(悟り)が人・万物に映っているのではない。人も万物も、もともと仏法であるから、本証であったのである。ある人が悟ることによって、人・万物が本証であることが顕になるのである。
であれば、私の感じた「万人が悟っている気がする」感覚は、ある種の悟りの片鱗を垣間見たのだと思われます。
「さとり」には何段階もありますが、ここでの「さとり」はおそらくアナハタ以降のことを言っているのかな、と私個人的には思います。きっともっと深まれば強くこのことを感じて確信に至るのでしょうが、アナハタくらいですと「そんな感じがする」というくらいなのだと思います。
マニプラ優勢の頃までは、このことを頭で理解していても体感することはあまりありませんでした。マニプラ優勢の頃は「頭で理解して、体感せず」という感じだったのです。
一方、アナハタ優勢になってからは「頭で考える以前に、体感で万人が悟っている気がする。でも、頭で考えると、そんな筈はないと思い留まる。」という感じです。頭で考えなかったら素直に「みんな悟ってる!」とすんなり受け入れてしまいそうになりますが、そんな筈はないですから。体感的にはみんな悟っている気がするのですけど、行動を分析したり観察したりすると悟っている訳はないとロジックで理解するわけです。
もしかしたら、その変な行動すらも含めて「悟り」なのかもしれないですけど。思い悩むことも怒ることも悲しむことも笑うことも喜ぶことも全て含めて「さとり」であるのだとすれば、周囲の人はやっぱり全員既に悟っていて、きっとそれに自分では気づいていないだけなのでしょう。
頭で詰まる感じはマニプラで詰まる感じと似ている
マニプラ優勢だった時はマニプラとアナハタの間に壁があるような感じがしていて、マニプラで詰まって上に行かないような感じでした。
今はアナハタ優勢になっているのですが、エネルギーが頭の半分くらいまでは来ているのですが、そこから上には行かなくて、マニプラ優勢だった時と同様に、頭の途中で詰まっているような感じです。
■グランティ(結節、結び目)
マニプラとアナハタの間にはヴィシュヌ・グランティ、アジナとサハスララの間にはルドラ・グランティがありますが、それぞれの段階で「詰まる」感覚があるのだと思っております。
■一気に抜けてしまう人もいる
グランティは私の場合は一つづつ通過していますが、本を読むと、最初のクンダリーニ覚醒時に一気にこれらのグランティを通過してしまう人もいらっしゃるようです。
以前 書きましたようにクンダリーニの覚醒は3種類あるように思われますが、グランティを解放してからクンダリーニが上がる場合と、グランティ解放前にクンダリーニを上げてすぐにはグランティが解放されない場合と、クンダリーニ覚醒と同時にグランティも破壊する場合と、クンダリーニ覚醒後にゆっくりとグランティを超えてゆく場合とがあるように思われます。
私の場合はクンダリーニ覚醒時に完全にクンダリーニが動いたというよりは2つの光の筋が通っただけでクンダリーニが完全に動いた感じはありませんでしたので、クンダリーニは少しずつ動き出して、グランティも一つづつ超えている感じです。
ちなみに、クンダリーニって何か特殊なもののような感じがしていましたが、今はただ単に、エネルギーのルートができて活性化するだけのことな気がしてきています。比喩的に蛇の力とか何とか言われていますけど、人によってエネルギーの質も強さも違うのですからクンダリーニと言っても人それぞれなのは当然なのかなと今は思います。
今はアナハタ優勢になっているのですが、エネルギーが頭の半分くらいまでは来ているのですが、そこから上には行かなくて、マニプラ優勢だった時と同様に、頭の途中で詰まっているような感じです。
■グランティ(結節、結び目)
マニプラとアナハタの間にはヴィシュヌ・グランティ、アジナとサハスララの間にはルドラ・グランティがありますが、それぞれの段階で「詰まる」感覚があるのだと思っております。
■一気に抜けてしまう人もいる
グランティは私の場合は一つづつ通過していますが、本を読むと、最初のクンダリーニ覚醒時に一気にこれらのグランティを通過してしまう人もいらっしゃるようです。
以前 書きましたようにクンダリーニの覚醒は3種類あるように思われますが、グランティを解放してからクンダリーニが上がる場合と、グランティ解放前にクンダリーニを上げてすぐにはグランティが解放されない場合と、クンダリーニ覚醒と同時にグランティも破壊する場合と、クンダリーニ覚醒後にゆっくりとグランティを超えてゆく場合とがあるように思われます。
私の場合はクンダリーニ覚醒時に完全にクンダリーニが動いたというよりは2つの光の筋が通っただけでクンダリーニが完全に動いた感じはありませんでしたので、クンダリーニは少しずつ動き出して、グランティも一つづつ超えている感じです。
ちなみに、クンダリーニって何か特殊なもののような感じがしていましたが、今はただ単に、エネルギーのルートができて活性化するだけのことな気がしてきています。比喩的に蛇の力とか何とか言われていますけど、人によってエネルギーの質も強さも違うのですからクンダリーニと言っても人それぞれなのは当然なのかなと今は思います。
イグナチオ・デ・ロヨラ(イエスズ会創立者)の内的理解
世俗的な思いは心を虚ろにし不安にするが、霊的な思いは深い平安と喜びをもたらす。不安に満ちた虚ろなあらゆる思いをかき立てるのは悪魔で、静かな喜びを伴う霊的反省を呼び起こすのは神であるという結論に達した。(中略)キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神との決戦の戦場である。「イエズス会の歴史(上)(ウィリアム・V・バンガート 著)」
これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。
「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。
霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」
同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。
自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」
これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。
これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。
「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。
霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」
同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。
自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」
これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。
眉間と鼻頭とアジナチャクラ
書物や流派によりアジナチャクラが何処なのか諸説あります。
■松果体がアジナと言う説
「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。
アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」
これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。
■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説
流派によってはこの論も時々目にします。
■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説
「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。
アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。
瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえますと、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。
ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。
■眉間と鼻頭
バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。
言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」
ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。
アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。
■神智学
「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。
同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。
■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体
「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。
どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」
これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。
- 眉間(あるいは鼻頭)
- 脳下垂体
- 松果体
■松果体がアジナと言う説
「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。
アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」
これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。
■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説
流派によってはこの論も時々目にします。
■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説
「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。
アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。
瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえますと、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。
ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」
この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。
■眉間と鼻頭
バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。
言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」
ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。
アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。
■神智学
「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。
同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。
■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体
「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。
どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」
これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。
霊感・霊視のレベル
「神道の神秘(山蔭 基央 著)」で述べられている山陰神道では「霊視」の段階を以下のように分けているようです。
1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下
2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下
3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上
4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度
5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない
6.神通 辿り着ける人はほとんどいない
「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より
同書によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。
■低級霊に注意
狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。
■大地の母
出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。
昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。
■審神(さにわ)
神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。
神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。
神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。
1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下
2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下
3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上
4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度
5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない
6.神通 辿り着ける人はほとんどいない
「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より
同書によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。
■低級霊に注意
狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。
■大地の母
出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。
昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。
■審神(さにわ)
神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。
神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。
神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。
霊視とオーラ
先日の霊感・霊視のレベルに関する記事の続きです。
低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。
以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。
単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。
ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。
オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。
そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。
■オーラの発散について
前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。
オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。
■霊障
前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。
自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。
相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。
オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。
■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る
カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。
まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。
霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。
■意外にこのあたり知られていない?
この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。
大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。
■基本は、オーラを発散させない事
まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。
■次に、オーラをどう使うのか?
オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。
■オーラのケーブルを切る
オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。
勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。
有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。
そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。
最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。
常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。
私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。
儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。
■邪気
邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。
エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。
■オーラの知識の重要さ
オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。
案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。
低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。
以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。
単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。
ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。
オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。
そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。
■オーラの発散について
前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。
オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。
■霊障
前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。
自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。
相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。
オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。
■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る
カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。
まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。
霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。
■意外にこのあたり知られていない?
この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。
大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。
■基本は、オーラを発散させない事
まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。
■次に、オーラをどう使うのか?
オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。
■オーラのケーブルを切る
オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。
勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。
有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。
そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。
最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。
常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。
私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。
儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。
■邪気
邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。
エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。
■オーラの知識の重要さ
オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。
案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。
心は相手を映し出す鏡。ヨーガの心のオーラ的な解釈
スピリチュアルやヨーガ(あるいはヴェーダ)では心(ヨーガで言うところのチッタ)は相手や対象物を映し出す鏡のようなものだと言われています。
例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。
人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。
”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。
ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。
■心とオーラの関係
以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。
ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。
(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より
(2) ヨガとは心の活動を抑えることです。
(3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。
「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳
(2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。
(3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。
■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈
上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。
「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。
その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」
ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。
■鏡について
「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。
オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。
古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。
もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。
最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)
例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。
人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。
”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。
ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。
■心とオーラの関係
以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。
ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。
(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より
(2) ヨガとは心の活動を抑えることです。
(3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。
「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳
(2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。
(3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。
■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈
上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。
「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。
その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」
ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。
■鏡について
「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。
オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。
古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。
もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。
最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)