スシュムナを地に伸ばして錨にし、グラウンディングする
先日のように、天と地のエネルギーを上下に伸ばした後に何をするべきかと思って書籍を探ったところ、この記述がありました。
意識を素早く体内のプラーナ管に移し、それをイメージのなかで地球の核にまで伸ばすというものです。(中略)地球深くに固定されるように意図するだけで、プラーナ管を地球の核にグラウンディングさせることができます。「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」
ヨーガで言うスシュムナを同書ではプラーナ管と呼んでいるようです。
これを意図してやってみたところ、あっさりとグラウンディングできました。これは良いです。
と、言いますか、以前は同様にグラウンディングしようとしたら地のエネルギーの気持ち悪い、泥のようなエネルギーが登ってくるのであまりグラウンディングしたいとは思わなかったのです。多少は地のエネルギーを取り入れつつも、天のエネルギーを取り入れることでその気持ち悪さを中和するような感じでした。
しかし、今日、このエクササイズをしたところ、気持ち悪さもなくあっさりとグラウンディングできました。
この違いはなんでしょう?
先日の時点で、天のエネルギーがすんなりと入ってくるようになりました。これが大きいのではないかと思います。
それ以前は天のエネルギーが途中で詰まってうまく降りてこない状態でしたので地のエネルギーが優勢でしたが、先日に天のエネルギーがすんなり降りるようになってからは地のエネルギーと天のエネルギーのバランスが取れたように思います。
この状態であれば地のエネルギーにアクセスしても気持ちの悪さを感じず、すんなりグラウンディングできました。
グラウンディングは大事だとはよく言われていますが、地のエネルギーだけでなく天のエネルギーもグラウンディングに意外に重要なのだと思いました。
意識を素早く体内のプラーナ管に移し、それをイメージのなかで地球の核にまで伸ばすというものです。(中略)地球深くに固定されるように意図するだけで、プラーナ管を地球の核にグラウンディングさせることができます。「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」
ヨーガで言うスシュムナを同書ではプラーナ管と呼んでいるようです。
これを意図してやってみたところ、あっさりとグラウンディングできました。これは良いです。
と、言いますか、以前は同様にグラウンディングしようとしたら地のエネルギーの気持ち悪い、泥のようなエネルギーが登ってくるのであまりグラウンディングしたいとは思わなかったのです。多少は地のエネルギーを取り入れつつも、天のエネルギーを取り入れることでその気持ち悪さを中和するような感じでした。
しかし、今日、このエクササイズをしたところ、気持ち悪さもなくあっさりとグラウンディングできました。
この違いはなんでしょう?
先日の時点で、天のエネルギーがすんなりと入ってくるようになりました。これが大きいのではないかと思います。
それ以前は天のエネルギーが途中で詰まってうまく降りてこない状態でしたので地のエネルギーが優勢でしたが、先日に天のエネルギーがすんなり降りるようになってからは地のエネルギーと天のエネルギーのバランスが取れたように思います。
この状態であれば地のエネルギーにアクセスしても気持ちの悪さを感じず、すんなりグラウンディングできました。
グラウンディングは大事だとはよく言われていますが、地のエネルギーだけでなく天のエネルギーもグラウンディングに意外に重要なのだと思いました。
内なる雲が晴れわたり、観照へ
最近の瞑想では内なる雲が晴れわたり、夜明けのように光を感じるようになりました。
長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。
以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。
しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。
例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。
瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。
今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。
おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。
ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。
この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。
以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。
以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。
瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。
「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。
(1) 生気の上昇(Pranottana)
(2) 光輝状態の始まり
同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。
どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。
ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。
知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。
とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。
しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。
内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。
長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。
以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。
しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。
例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。
瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。
今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。
おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。
ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。
この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。
以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。
以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。
瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。
「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。
(1) 生気の上昇(Pranottana)
(2) 光輝状態の始まり
同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。
どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。
ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。
知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。
とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。
しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。
内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。
論理思考は独立して機能している
先日の続きです。
内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。
今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。
もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。
それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。
今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。
・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)
・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。
・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。
・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。
論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。
今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。
スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。
内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。
今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。
もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。
それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。
今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。
・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)
・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。
・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。
・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。
論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。
今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。
スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。
緊張と瞑想中の光
先日に意識体に憑依されてからちょっと体に緊張が走っていたわけですけれども、瞑想をするにつれて緊張が取れてきました。
その時ふと気がついたのですが、どうやら緊張が解消される瞬間に瞑想中の場合は視界に光を感じるようですね。
緊張というものがエネルギー的な淀みなのかあるいはエネルギー的な凝縮なのか、その具体的なところはわかりませんが、少なくとも緊張が解けることと光を感じることの間には多少の相関関係があるような感じがしてきました。
ヨーガにおける瞑想の基本としては瞑想中に見聞きすることは重要ではないので気にしない、ということはもちろんあるわけですけれども、それでも、多少はこのように相関関係があるのかもしれないな、と気が付きました。
ただし、これは本当に「たまたま」かもしれませんけどね。それでも、多少の相関関係はあると思うのです。
その時ふと気がついたのですが、どうやら緊張が解消される瞬間に瞑想中の場合は視界に光を感じるようですね。
緊張というものがエネルギー的な淀みなのかあるいはエネルギー的な凝縮なのか、その具体的なところはわかりませんが、少なくとも緊張が解けることと光を感じることの間には多少の相関関係があるような感じがしてきました。
ヨーガにおける瞑想の基本としては瞑想中に見聞きすることは重要ではないので気にしない、ということはもちろんあるわけですけれども、それでも、多少はこのように相関関係があるのかもしれないな、と気が付きました。
ただし、これは本当に「たまたま」かもしれませんけどね。それでも、多少の相関関係はあると思うのです。
無の瞑想と暖かい光
最近の瞑想は息を観察しているかあるいは微かな思いや考えを観察するくらいで、とても静かな、いわゆる”無”とも言える状態で瞑想をしています。その上で、エネルギー・ワーク的に天のエネルギーを下ろしたり地のエネルギーと繋がったりしているわけです。
その状態でハートに目を向けると、ふと大広間と雛壇のような階段の上に王様が座るような椅子があるのが見えました。これが、スピリチュアルやヨーガやベーダで言われている「ハートの奥の小部屋」なのでしょうか?
それが見えている状態で瞑想を続けましたところ、ふと、2つの空間が重なって存在しているように感じたのです。
1つは、以前書いたような論理思考と体の感覚と想念・思念が感じられる空間。
もう1つは、草の茂った原っぱに太陽の暖かい光が挿している空間。
その2つが、重なって存在していて、お互いが半透明のホログラフのように目の前に同時に存在しているのです。この時点になったら、大広間と椅子は見えなくなっていました。
これは一体どういうことでしょう? ちなみに、今は夜です。
無の瞑想に関してはここ最近ずっとそんな感じで、雑念が出ても観察しているだけで、周囲に広がった無の漆黒の空間の中で、私が中心にいる瞑想をしています。
一方、時々その同じ空間のどこかがパッと明るく感じられることは度々あったのですが、本日のように、2つの空間が重なって存在しているように感じられたのは初めてでした。
これは興味深いです。
しかも、その空間だけでなく、ハートの奥の小部屋も関係しているようです。
空間が重なったというのが正しいのか、あるいは、ハートの奥の小部屋に入った事による変化なのかもしれません。
このハートの奥の空間は人によって見え方が違うようで、一定の空間で見える人もいればそうでもない人もいるようです。私はまだ見え始めたばかりな感じです。あるいは気のせいかもしれないですけどね。まだまだ様子見です。
その状態でハートに目を向けると、ふと大広間と雛壇のような階段の上に王様が座るような椅子があるのが見えました。これが、スピリチュアルやヨーガやベーダで言われている「ハートの奥の小部屋」なのでしょうか?
それが見えている状態で瞑想を続けましたところ、ふと、2つの空間が重なって存在しているように感じたのです。
1つは、以前書いたような論理思考と体の感覚と想念・思念が感じられる空間。
もう1つは、草の茂った原っぱに太陽の暖かい光が挿している空間。
その2つが、重なって存在していて、お互いが半透明のホログラフのように目の前に同時に存在しているのです。この時点になったら、大広間と椅子は見えなくなっていました。
これは一体どういうことでしょう? ちなみに、今は夜です。
無の瞑想に関してはここ最近ずっとそんな感じで、雑念が出ても観察しているだけで、周囲に広がった無の漆黒の空間の中で、私が中心にいる瞑想をしています。
一方、時々その同じ空間のどこかがパッと明るく感じられることは度々あったのですが、本日のように、2つの空間が重なって存在しているように感じられたのは初めてでした。
これは興味深いです。
しかも、その空間だけでなく、ハートの奥の小部屋も関係しているようです。
空間が重なったというのが正しいのか、あるいは、ハートの奥の小部屋に入った事による変化なのかもしれません。
このハートの奥の空間は人によって見え方が違うようで、一定の空間で見える人もいればそうでもない人もいるようです。私はまだ見え始めたばかりな感じです。あるいは気のせいかもしれないですけどね。まだまだ様子見です。
プレアデスのエネルギー・ワークと白隠禅師の軟酥の法
書籍を探っていたところ、プレアデス系のワークに似たようなものがありました。
「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」
これはオーラを保護する方法のようです。グラウンディングして、オーラの卵を作るレッスンのようです。そして、同書によれば「境界の色」をイメージすることをお勧めするとのことです。色は時々の状態や目的によって多少異なるようです。
・基本は黄金
・その上に、目的に応じて色を重ねる。不安定な時は高貴なブルー。外出したり人を迎える時はスミレ色。
・ある程度のレベルに達すればこれらは不要になるが、それまではこの「境界」は有用
詳しくは同書を参照して頂ければと思いますが、ヨーガのプラクティスや他のスピリチュアルのワークにも通じるものがあります。色に対する言及はスピリチュアル系に多い気が致します。
以前少し言及しました白隠禅師による禅病に対する対処法である「軟酥の法(なんそのほう)」がとてもよく似ている気が致します。白隠禅師は白幽という仙人から授かったとのことですが、案外根幹はスピリチュアルと似たところなのかもしれないですね。単なる推測ですけど。
「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」
これはオーラを保護する方法のようです。グラウンディングして、オーラの卵を作るレッスンのようです。そして、同書によれば「境界の色」をイメージすることをお勧めするとのことです。色は時々の状態や目的によって多少異なるようです。
・基本は黄金
・その上に、目的に応じて色を重ねる。不安定な時は高貴なブルー。外出したり人を迎える時はスミレ色。
・ある程度のレベルに達すればこれらは不要になるが、それまではこの「境界」は有用
詳しくは同書を参照して頂ければと思いますが、ヨーガのプラクティスや他のスピリチュアルのワークにも通じるものがあります。色に対する言及はスピリチュアル系に多い気が致します。
以前少し言及しました白隠禅師による禅病に対する対処法である「軟酥の法(なんそのほう)」がとてもよく似ている気が致します。白隠禅師は白幽という仙人から授かったとのことですが、案外根幹はスピリチュアルと似たところなのかもしれないですね。単なる推測ですけど。
世界の30%が自分のことのように感じられる
最近は、身の回りの出来事や出会う人々のうち30%ほどが自分の分身のように感じられます。
70%はやっぱり他人なわけですが、30%は自分だと思う... と言いますか、そもそも空間が同一で繋がっているあるように感じられるのです。
世界と言っても地球のことではなく、世界地図のことでもないのです。あくまでも、私の生活の周囲の現実のうちの30%という意味で、世界の隅々の30%がそう感じられるわけではありません。
空間が繋がっている、とでも言いますと、まるで線が伸びているかのように印象付けてしまうかもしれませんが、そのような線があるわけではありません。透明の空気のようなところですらも「なにか」がぎっしりと詰まっていて、物質があるところにもその「なにか」が詰まっていて、空気の部分であろうと物質の部分であろうと関係なく身の回りの生活の空間の認識できる範囲すべての30%が自分であるように感じられるのです。
この30%というのは、「ここは感じられるけれどもここは感じられない」とかいうものではなくて、半透明にホログラフィック的に全体が満遍なく30%くらいの濃度と言いますか濃さと言いますか、そのように空間全てがおそらく均一の濃度で大体30%くらいは自分で感じられている、という意味です。
これは主に瞑想中にそう感じられるわけですけれども、明示的に瞑想をしていなくても意識が瞑想状態に近ければ同じように感じられます。
ですから、完全に周囲の全てが自分と感じられるわけではないにせよ、多少ながらすべて自分である、という現実を認識しながら生活する今日このごろなわけです。
これは、頭で考えるとなかなかに複雑に思えてしまうかもしれませんが、感情的にも意識的にも、かなり淡々としています。
そもそも最近の瞑想ではどんどん雑念が減って透明な感覚の、いわゆる「無」の瞑想を続けることが多くなってきていますので、その延長線上で、他人の姿が意識に入ってきたとしても雑念がひとつあるのとそうは変わらないのです。ですから、世界の30%が自分として認識したとしても、それはホログラフのように半透明で認識されて惑わされることもあまりなく、それでいて他人や周囲の環境が自分として認識できるので今までとは違った意識の持ち方ができるのです。
これは、マニプラ的な「情緒」の繋がりとは異なる感じです。淡々としていて、それでいて、しっかりと繋がっている感覚です。
こうなると、もはや以前の私の振る舞いをすべてやり直したくなるくらい意識が変わってきてしまっているわけですけれども、流石にやり直すことができるわけもなく、これからの振る舞いを意識的に新しいものに適合していくくらいしかできないわけですけれども。
以前の意識で作ってしまった古い習慣を取り除いて新しい習慣に作り直してゆく時期に来ているのかもしれません。
もしかしたら仕事のありようも同様で新しい習慣に作り直すといいますか選択し直してゆく時期に来ているのかもしれません。
70%はやっぱり他人なわけですが、30%は自分だと思う... と言いますか、そもそも空間が同一で繋がっているあるように感じられるのです。
世界と言っても地球のことではなく、世界地図のことでもないのです。あくまでも、私の生活の周囲の現実のうちの30%という意味で、世界の隅々の30%がそう感じられるわけではありません。
空間が繋がっている、とでも言いますと、まるで線が伸びているかのように印象付けてしまうかもしれませんが、そのような線があるわけではありません。透明の空気のようなところですらも「なにか」がぎっしりと詰まっていて、物質があるところにもその「なにか」が詰まっていて、空気の部分であろうと物質の部分であろうと関係なく身の回りの生活の空間の認識できる範囲すべての30%が自分であるように感じられるのです。
この30%というのは、「ここは感じられるけれどもここは感じられない」とかいうものではなくて、半透明にホログラフィック的に全体が満遍なく30%くらいの濃度と言いますか濃さと言いますか、そのように空間全てがおそらく均一の濃度で大体30%くらいは自分で感じられている、という意味です。
これは主に瞑想中にそう感じられるわけですけれども、明示的に瞑想をしていなくても意識が瞑想状態に近ければ同じように感じられます。
ですから、完全に周囲の全てが自分と感じられるわけではないにせよ、多少ながらすべて自分である、という現実を認識しながら生活する今日このごろなわけです。
これは、頭で考えるとなかなかに複雑に思えてしまうかもしれませんが、感情的にも意識的にも、かなり淡々としています。
そもそも最近の瞑想ではどんどん雑念が減って透明な感覚の、いわゆる「無」の瞑想を続けることが多くなってきていますので、その延長線上で、他人の姿が意識に入ってきたとしても雑念がひとつあるのとそうは変わらないのです。ですから、世界の30%が自分として認識したとしても、それはホログラフのように半透明で認識されて惑わされることもあまりなく、それでいて他人や周囲の環境が自分として認識できるので今までとは違った意識の持ち方ができるのです。
これは、マニプラ的な「情緒」の繋がりとは異なる感じです。淡々としていて、それでいて、しっかりと繋がっている感覚です。
こうなると、もはや以前の私の振る舞いをすべてやり直したくなるくらい意識が変わってきてしまっているわけですけれども、流石にやり直すことができるわけもなく、これからの振る舞いを意識的に新しいものに適合していくくらいしかできないわけですけれども。
以前の意識で作ってしまった古い習慣を取り除いて新しい習慣に作り直してゆく時期に来ているのかもしれません。
もしかしたら仕事のありようも同様で新しい習慣に作り直すといいますか選択し直してゆく時期に来ているのかもしれません。
チャクラを開く際の体験
チベットの古代ボン教の教えによりますと、以下のようにあります。
チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
これに関して、以下のように説明されています。
・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。
・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。
・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。
・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。
「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より
これは興味深いですね。
西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。
それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。
ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。
一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。
確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。
であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。
体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。
チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。
身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。
私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。
チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
これに関して、以下のように説明されています。
・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。
・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。
・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。
・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。
「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より
これは興味深いですね。
西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。
それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。
ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。
一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。
確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。
であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。
体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。
チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。
身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」
チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。
私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。
ゾクチェンとヴェーダンタ
これら2つに共通点があるような気が致しました。
ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。
これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。
以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。
それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。
ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。
ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。
ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。
どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。
今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。
上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より
これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。
三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。
ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。
ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。
これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。
以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。
それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。
ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。
ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。
ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。
どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。
今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。
上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より
これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。
三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。
ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。
ゾクチェンの修行法を記した「イェシェ・ラマ」
「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」によりますと、イェシェ・ラマという本にゾクチェンのことが詳しく書かれてあると言います。原本は入手できていませんが興味深いです。
ゾクチェンの瞑想は2つでできていて、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」でできており、イェシェ・ラマに詳しく述べられていると言います。
テクチュウの瞑想は心の雑念を取り払って清々しい清浄なる空(くう)を体験することが目的で、そのために特別なマントラを唱えたりもするようです。
同書には以下のように記されています。
テクチュウでは目が見たり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(これがテクチュウという言葉の意味だ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想をおこなう。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽をみつめながら、「跳躍(トゥカルとはそういう意味を持っている)」の瞑想に入っていく。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」
その時の経験を、同書では以下のように述べています。
透明な空性(くうしょう)からは、途切れることなく、光の滴がわきあがってくるのだ。(中略)裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度はトゥカルの瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」
このあたりを読むと、やはり「空(くう)」の次は光の体験が続くのだな、ということがわかります。
具体的にどうすれば良いのかは謎が残りますが、そのうち他の書籍も調べていきたいと思います。他のスピリチュアルとそこまで変わらないのかもしれませんが、何かヒントが眠っているかもしれませんし。
ゾクチェンの瞑想は2つでできていて、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」でできており、イェシェ・ラマに詳しく述べられていると言います。
テクチュウの瞑想は心の雑念を取り払って清々しい清浄なる空(くう)を体験することが目的で、そのために特別なマントラを唱えたりもするようです。
同書には以下のように記されています。
テクチュウでは目が見たり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(これがテクチュウという言葉の意味だ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想をおこなう。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽をみつめながら、「跳躍(トゥカルとはそういう意味を持っている)」の瞑想に入っていく。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」
その時の経験を、同書では以下のように述べています。
透明な空性(くうしょう)からは、途切れることなく、光の滴がわきあがってくるのだ。(中略)裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度はトゥカルの瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」
このあたりを読むと、やはり「空(くう)」の次は光の体験が続くのだな、ということがわかります。
具体的にどうすれば良いのかは謎が残りますが、そのうち他の書籍も調べていきたいと思います。他のスピリチュアルとそこまで変わらないのかもしれませんが、何かヒントが眠っているかもしれませんし。
ヨーガ・スートラにおける心理作用の止滅
久々にヨーガ・スートラのお話です。
■ヨーガの定義
ヨーガの有名な聖典の一つであるヨーガ・スートラではヨーガの定義として以下のように記されています。
1.2) ヨーガとは心の作用を死滅することである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
一般的には、このヨーガの定義は「雑念をなくすこと」と説明されているような気がいたします。
ただ、聖典の解釈をし始めるとなかなか混乱するところではあります。
■ヨーガで得るもの
そして、ヨーガをした結果として以下のようになると記されています。
1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。
1.4) その他の状態にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
真我とはヨーガやベーダでいうアートマンです。
この書籍は古くから存在しており、日本で一番よく知られた定義だと思います。
■解釈いろいろ
同化した形をとっている、というのは、昔からよくある例え話で、心は鏡のようなものだ、というお話だと思いますが、最初これを読んだときはわかるようでいてわからず、そんなものかなと思ったのですが、どうやら、ヴェーダの文化やヨーガの考え方ではちょっと解釈が違うようです。
ヴェーダやヨーガ(ほぼ同じですが)の考えに基づきますと真我(アートマン)は変化せずに永遠のものであり、上記のような変化は起こりません。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」によりますと、真我(アートマン)のすぐ近くに心が存在していて、心自体は輝いていないが心は真我(アートマン)の光を受けて輝き、心が色々な形を取る、と言います。
上に記されたヨーガの定義も書籍によって解釈が違います。
上記は誤解を与えそうな誤訳なのかな... と今は思います。同書はヨーガが人気になる30年以上も前からずっと存在している本ですので、そのようなこともあるでしょう。今と違って一つ一つ調べていった時代だと思いますし。
こちらも古い本ですが、インドのヨガ ニケタンを作ったスワミによる本では以下のように解釈されています。
ヨーガとは心素の働きを死滅させることである。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」P272
ここでは、明確に心素という言葉を使っており、同書での心素とは Chitta のことです。同書P207によれば以下のように分類されます。
■内的心理機関(Antaḥkaraṇa Chatushtaya)
・意思(Manas)考えたり空想したりする心理的能力
・理智(Buddhi)意思を統率し判断決定能力を有する
・我執(Ahankara)自我意識
・心素(Chitta)心理作用の源
そもそもヨーガの定義 1.2 の原文は Yogas Chitta Vritti Nirodha のようになっており、二ローダが死滅という意味でブルッティが振動とかそういう意味ですから、同文の目的語は心素(Chitta)であると言えます。
このあたりは色々な書籍で様々に記されていて、それぞれを読んでも「そんなものかな」とそれぞれスルーしたりなんとなく「ふむふむ」と読んだことが多かったのですが、最近になってどれが正しくてどれがちょっと違うのか、肌感覚が出てきた感じであります。
■よくある誤解いろいろ
よくある誤解の1つとして、ヨーガの定義を理智(Buddhi)と勘違いしてしまうことがあると思います。ヨーガ・スートラへの批判として、「考えることをやめてしまったら一体どうするのだ」というのがありますが、そもそもそれは誤解です。ヨーガ・スートラの目的は心素(Chitta)の動きを抑えることですので、考える作用である理智(Buddhi)は残ります。
他の誤解としては、そうは言っても心素(Chitta)の心理作用は死滅なんてできない、というお話があります。これもその通りで、完全に死滅することはできず、新たに現れてきますが、それでいいという解釈です。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる「魂の科学」によりますと、この「死滅」という言葉は様々に誤解を与えており、いくつかの種類のサマーディ(三昧)で心素(Chitta)を一時的に停止させることはできるし、それが悟りの助けにもなるが、最終的に心素(Chitta)の作用が永久になくなってしまうわけではない、ということが記されています。
■死滅というよりは浄化
個人的な解釈ですが、ヨーガの定義にある二ローダは直訳の「死滅」ではなく「浄化」と解釈すればわかりが良いです。
その後に続く内容的にもそんな感じですし。最初のキャッチフレーズとしてわかりが良い表現を表に持ってきたのかなぁ... という気も致します。
■ヨーガの定義
ヨーガの有名な聖典の一つであるヨーガ・スートラではヨーガの定義として以下のように記されています。
1.2) ヨーガとは心の作用を死滅することである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
一般的には、このヨーガの定義は「雑念をなくすこと」と説明されているような気がいたします。
ただ、聖典の解釈をし始めるとなかなか混乱するところではあります。
■ヨーガで得るもの
そして、ヨーガをした結果として以下のようになると記されています。
1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。
1.4) その他の状態にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
真我とはヨーガやベーダでいうアートマンです。
この書籍は古くから存在しており、日本で一番よく知られた定義だと思います。
■解釈いろいろ
同化した形をとっている、というのは、昔からよくある例え話で、心は鏡のようなものだ、というお話だと思いますが、最初これを読んだときはわかるようでいてわからず、そんなものかなと思ったのですが、どうやら、ヴェーダの文化やヨーガの考え方ではちょっと解釈が違うようです。
ヴェーダやヨーガ(ほぼ同じですが)の考えに基づきますと真我(アートマン)は変化せずに永遠のものであり、上記のような変化は起こりません。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」によりますと、真我(アートマン)のすぐ近くに心が存在していて、心自体は輝いていないが心は真我(アートマン)の光を受けて輝き、心が色々な形を取る、と言います。
上に記されたヨーガの定義も書籍によって解釈が違います。
上記は誤解を与えそうな誤訳なのかな... と今は思います。同書はヨーガが人気になる30年以上も前からずっと存在している本ですので、そのようなこともあるでしょう。今と違って一つ一つ調べていった時代だと思いますし。
こちらも古い本ですが、インドのヨガ ニケタンを作ったスワミによる本では以下のように解釈されています。
ヨーガとは心素の働きを死滅させることである。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」P272
ここでは、明確に心素という言葉を使っており、同書での心素とは Chitta のことです。同書P207によれば以下のように分類されます。
■内的心理機関(Antaḥkaraṇa Chatushtaya)
・意思(Manas)考えたり空想したりする心理的能力
・理智(Buddhi)意思を統率し判断決定能力を有する
・我執(Ahankara)自我意識
・心素(Chitta)心理作用の源
そもそもヨーガの定義 1.2 の原文は Yogas Chitta Vritti Nirodha のようになっており、二ローダが死滅という意味でブルッティが振動とかそういう意味ですから、同文の目的語は心素(Chitta)であると言えます。
このあたりは色々な書籍で様々に記されていて、それぞれを読んでも「そんなものかな」とそれぞれスルーしたりなんとなく「ふむふむ」と読んだことが多かったのですが、最近になってどれが正しくてどれがちょっと違うのか、肌感覚が出てきた感じであります。
■よくある誤解いろいろ
よくある誤解の1つとして、ヨーガの定義を理智(Buddhi)と勘違いしてしまうことがあると思います。ヨーガ・スートラへの批判として、「考えることをやめてしまったら一体どうするのだ」というのがありますが、そもそもそれは誤解です。ヨーガ・スートラの目的は心素(Chitta)の動きを抑えることですので、考える作用である理智(Buddhi)は残ります。
他の誤解としては、そうは言っても心素(Chitta)の心理作用は死滅なんてできない、というお話があります。これもその通りで、完全に死滅することはできず、新たに現れてきますが、それでいいという解釈です。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる「魂の科学」によりますと、この「死滅」という言葉は様々に誤解を与えており、いくつかの種類のサマーディ(三昧)で心素(Chitta)を一時的に停止させることはできるし、それが悟りの助けにもなるが、最終的に心素(Chitta)の作用が永久になくなってしまうわけではない、ということが記されています。
■死滅というよりは浄化
個人的な解釈ですが、ヨーガの定義にある二ローダは直訳の「死滅」ではなく「浄化」と解釈すればわかりが良いです。
その後に続く内容的にもそんな感じですし。最初のキャッチフレーズとしてわかりが良い表現を表に持ってきたのかなぁ... という気も致します。
最近、霊視による未来予想は外れやすいです
私のグループソウル(類魂)の記憶を辿ると色々と経験していて、未来を霊視できる過去生もいたりします。
例えば100〜200年くらい前に北インドの中部、バラナシの南東あたりの小さな村でグルになって小さなヒンドゥ寺院の長だった人がいましたけど、その周囲では未来を予知できる聖者としてそれなりに有名でした。
もともとその人生ではヒンドゥのグルを体験して弟子を教えて霊的成長を促すと共に自分も学ぶことが目的だったわけですけれども、まず生まれる前に、グルとして経験できそうな場所を探したのです。既にグルがいるとこを探して弟子になって長年修行するコースもあったのですが、その時は、かなり昔に捨てられて廃墟になっていた寺院を選んでその近くに生まれることにしました。もちろん生まれる前からある程度の一生を霊視して未来予想して、だいたいこんな感じになるということを計画してから生まれたのです。
生まれてから自由に動けるようになったら、まずその廃墟の掃除から初めました。綺麗にして祈りを捧げて、転がっている岩などを整理したりしました。
歳をとって青年になった頃には、その廃墟が随分と綺麗になったことで周囲の人々にも自分の存在を知らしめることができました。ここで、この廃墟に足跡を残したわけです。そして、成人になった時に出家を選びましたが、家族はそんな姿を見ていましたので反対はしませんでした。
成人後は、まず他のグルの弟子に数年間ついて修行し、続いて別のグルに数年間ついて修行し、修行は終了としました。他のグルに長年ついて修行するよりは、早く自分の寺院を持つことを選んだわけです。
修行をするにつれて霊視は研ぎ澄まされ、他人の過去や未来も見通せるようになりました。
過去については、出身地や過去の問題などが主でした。未来については運勢や将来の安全などを見通したりしました。
中年になる頃まで、ほぼ百発百中です。外れたことはほとんどありませんでした。
名前や、出身地などを言い当てました。
弟子がやってきた時は、「おお。お主を待っておった。○○村から来た○○ではないだろうか?」と言って相手を驚かせた事もしょっちゅうでした。
日々の祭事(ヒンドゥ教のプージャ、火の儀式)では村人がやってきて、運勢を尋ねられました。○○はうまくいくだろうか、とか、結婚についてとか、そのような、今日でも人々が尋ねたくなるようなことをグルに尋ねては答えていたのです。
お参りに来た人々が置いていくお布施で食べ物を購入してその寺院の人々は暮らしていました。
ですから、昔は、霊視による未来予想はそうそう外れなかったのです。
唯一、一回だけ、近くの村のお婆さんが訪ねた運勢が外れて、安全を脅かされて危険な目に遭ったという事でしたが、再度霊視しても危険なことにあうわけもありませんでした。
どうやら、霊視での未来予測はほぼその通りなのですが、偶発的に「事故」は起こるようなのです。
「ついうっかり」ですとか「たまたま」という部類の事故は霊視では防ぎきれないようです。
成功する筈でも自分の意思で成功を妨げることもできます。
失敗する筈でもどうにか成功する、ということもあるかと思います。
ですが、普通の場合は大抵の霊視は当たりました。過去においては。
これは類魂が過去に体験したお話ですので今の私の何%かくらいの話ですけど、記憶のほんのちょっとが残っているのです。
ですが、最近は、かなり状況が異なってきているように思います。未来が割と固定されたものではなくなり、相当、未来が書き換わっているような感じが致します。
と言いますのも、どうやら未来を霊視で見通せる人が増えたからなのかな... という気がしてきております。
であれば未来を見た上で自分の行動を変える人も増えるでしょうし、結果として大きな未来も変わってゆくでしょう。
時代は変わったのかな、と最近は思っております。
昔はほんと単純でしたけどね。
基本は昔と変わりませんけど、意図して未来を変えることができる人が増えて、その人が影響力を持つようになったような気がしてきております。
過去には、この寺院が実在して残っていないかな... と思って地図を探したこともありましたけど、よくわかりませんでした。私が今生でそれを探し当てて現地に行ったとして、それで学べるものが何もないのであれば私のガイドもそこに導いたりはしないのかなとも思います。何かそこに決定的な何かがあって学べるのであればきっとガイドは私を導くのでしょうが、今のところその兆候はないです。
例えば100〜200年くらい前に北インドの中部、バラナシの南東あたりの小さな村でグルになって小さなヒンドゥ寺院の長だった人がいましたけど、その周囲では未来を予知できる聖者としてそれなりに有名でした。
もともとその人生ではヒンドゥのグルを体験して弟子を教えて霊的成長を促すと共に自分も学ぶことが目的だったわけですけれども、まず生まれる前に、グルとして経験できそうな場所を探したのです。既にグルがいるとこを探して弟子になって長年修行するコースもあったのですが、その時は、かなり昔に捨てられて廃墟になっていた寺院を選んでその近くに生まれることにしました。もちろん生まれる前からある程度の一生を霊視して未来予想して、だいたいこんな感じになるということを計画してから生まれたのです。
生まれてから自由に動けるようになったら、まずその廃墟の掃除から初めました。綺麗にして祈りを捧げて、転がっている岩などを整理したりしました。
歳をとって青年になった頃には、その廃墟が随分と綺麗になったことで周囲の人々にも自分の存在を知らしめることができました。ここで、この廃墟に足跡を残したわけです。そして、成人になった時に出家を選びましたが、家族はそんな姿を見ていましたので反対はしませんでした。
成人後は、まず他のグルの弟子に数年間ついて修行し、続いて別のグルに数年間ついて修行し、修行は終了としました。他のグルに長年ついて修行するよりは、早く自分の寺院を持つことを選んだわけです。
修行をするにつれて霊視は研ぎ澄まされ、他人の過去や未来も見通せるようになりました。
過去については、出身地や過去の問題などが主でした。未来については運勢や将来の安全などを見通したりしました。
中年になる頃まで、ほぼ百発百中です。外れたことはほとんどありませんでした。
名前や、出身地などを言い当てました。
弟子がやってきた時は、「おお。お主を待っておった。○○村から来た○○ではないだろうか?」と言って相手を驚かせた事もしょっちゅうでした。
日々の祭事(ヒンドゥ教のプージャ、火の儀式)では村人がやってきて、運勢を尋ねられました。○○はうまくいくだろうか、とか、結婚についてとか、そのような、今日でも人々が尋ねたくなるようなことをグルに尋ねては答えていたのです。
お参りに来た人々が置いていくお布施で食べ物を購入してその寺院の人々は暮らしていました。
ですから、昔は、霊視による未来予想はそうそう外れなかったのです。
唯一、一回だけ、近くの村のお婆さんが訪ねた運勢が外れて、安全を脅かされて危険な目に遭ったという事でしたが、再度霊視しても危険なことにあうわけもありませんでした。
どうやら、霊視での未来予測はほぼその通りなのですが、偶発的に「事故」は起こるようなのです。
「ついうっかり」ですとか「たまたま」という部類の事故は霊視では防ぎきれないようです。
成功する筈でも自分の意思で成功を妨げることもできます。
失敗する筈でもどうにか成功する、ということもあるかと思います。
ですが、普通の場合は大抵の霊視は当たりました。過去においては。
これは類魂が過去に体験したお話ですので今の私の何%かくらいの話ですけど、記憶のほんのちょっとが残っているのです。
ですが、最近は、かなり状況が異なってきているように思います。未来が割と固定されたものではなくなり、相当、未来が書き換わっているような感じが致します。
と言いますのも、どうやら未来を霊視で見通せる人が増えたからなのかな... という気がしてきております。
であれば未来を見た上で自分の行動を変える人も増えるでしょうし、結果として大きな未来も変わってゆくでしょう。
時代は変わったのかな、と最近は思っております。
昔はほんと単純でしたけどね。
基本は昔と変わりませんけど、意図して未来を変えることができる人が増えて、その人が影響力を持つようになったような気がしてきております。
過去には、この寺院が実在して残っていないかな... と思って地図を探したこともありましたけど、よくわかりませんでした。私が今生でそれを探し当てて現地に行ったとして、それで学べるものが何もないのであれば私のガイドもそこに導いたりはしないのかなとも思います。何かそこに決定的な何かがあって学べるのであればきっとガイドは私を導くのでしょうが、今のところその兆候はないです。
今生の目的はカルマの解消
これまた夢で見たお話。本当のことかどうかはわかりません。
人によって今生の目的は違うと思いますが、私の場合、カルマの解消が目的です。
使命が目的だったりしますとカルマを貯めてでも使命を達成しようとしますし、私の場合、前世までの数多くの生では使命の達成を優先してきました。
他人のスピリチュアルな指導をしますと弟子のカルマを背負いますし、国の運命を変えたりしますと大きなカルマを背負います。
そうしてかなりのカルマが溜まってしまい、いつか解消しなくてはと思って後回しにしてきたのですが今生でようやくカルマの解消を目的に、そのためだけに生きることにしました。
私の場合、並行世界(パラレルワールド)がいくつかあって、最初は裕福な家庭に生まれて生きましたがカルマが解消されずに失敗し、時空を逆戻りして再設定してからパラレルワールド2を開始し、何度か試した後に今の人生を選んだようです。結果、かなり厳しい生活を約40年間過ごしましたが、ほとんどのカルマは解消されて及第点に至ったような気が致します。
単一の人生ではなくて類魂(グループソウル)のカルマを色々と背負い込んだのでルーツが異なる様々なカルマが入り混じっており、複合した問題に対処せざるを得ない状況になることも多くて苦労しました。
今もまだカルマが多少残ってはいますが、類魂(グループソウル)と一旦溶け合ってカルマを分散しさえすればそれぞれ解消できる程度のカルマにまで減ったので今生の人生は目的を既に達成したと言えます。
先日記載したヒンドゥのグルの人生においても、その人生では弟子を覚醒させることができなかったので後悔のカルマを背負ってしまい、今生では一からステップを踏むことで弟子が何に悩んでいたのかをひとつづつ確かめよう、という意図がありました。ですから、スピリチュアルを学んでいるというよりはスピリチュアルの悩みを理解するという点に重きを置いており、そのためには自分自身が悩んだ状態にならなければ根元から理解できない。であれば自分をどん底まで一旦突き落とす必要がある、ということで子供の頃から自分を谷底に突き落とした人生だったようです。かなり苦労しましたが、今は平気です。
思えば、類魂(グループソウル)の過去生の記憶を辿るとこのような悩みをかつてしたことがなく、自分が悩んだことがないので弟子が何に悩んでいて弟子にどのように成長したら良いかわからず、アドバイスする方法がよくわからない、という悩みが共通してあるようでした。ですから、私が今生で悩んで様々に突き止めたことを類魂(グループソウル)は興味津々で待ち構えているようです。類魂(グループソウル)は今は分離していますので私が知り得たことを完全にはわからず、私が死んでから類魂(グループソウル)と一旦溶け合うことで私の得た知識を完全に共有するのです。その時を類魂(グループソウル)は心待ちにしているようです。
私が今生でそのような悩みの多い人生を選び、カルマの解消に集中することにした結果として前世までに付き合いのあったスピリチュアルな友人や弟子たちとは今生ではほとんど付き合いがなくなっているのですが、本来は、このようなカルマの解消をする予定ではありませんでした。今の時代はいわゆるアセンションとか言われている時代で、大きな変革が訪れる予定だったわけですけれども、私の類魂(グループソウル)が過去生で様々に活動することであまりにもカルマを溜め込んでしまったために、肝心の自分が重くなりすぎてアセンションの対応が厳しいかもしれない状況になりつつあったのです。ですから、本来は今生も同様のスピリチュアル活動を続けたい意向ではあったわけですけれども、仕方なく私は今生はカルマの解消に集中することにしたわけです。そして、それが約40年かかりました。今は精魂使い果たしていてそれほどパワーは残っていませんが、それでも、ある程度の元気さを保っています。
実は、この計画変更のために、周囲の人々には苦労をかけました。
本来は今生もスピリチュアル活動をする予定でしたが今生はカルマの解消に費やすことにしたために、本来は私が指導したり導いてきた人たちのスピリチュアルなレベルを今生のアセンションに間に合うように引き上げるのではなく、スピードアップして前世の段階までにある程度のレベルまで引き上げておくことにしたのです。私は大丈夫と判断したのですが、もしかしてこれに少し無理があったのかもしれません。
それを決めるまでは割とゆっくりと指導してきたわけですけれども、私のカルマ解消の時間を作るためにスピードアップすることに決めた後は、ビシバシと指導することにしました... 今も世界の一部のスピリチュアルなスクールでスパルタがあったりするのは、私の類魂(グループソウル)の過去生が厳しく指導したからかもしれません。またもや変なカルマを作ってしまったかもしれません... でも、少なくともそれで各自のスピリチュアルなレベルは早く成長した筈です。
そうして、なんとか今生では知人や弟子たちが自分たちでアセンションまで行けるような状態になったかと思って私は今生でカルマの解消に集中したわけです。
私がいなくてもかつての友人知人や弟子などの他のスピリチュアルな活動家が活躍することでなんとかなる筈でした。私が今生を生まれる前あるいは生まれた後に霊視や夢で見ていた状況では、そのような計画になっていました。元々は私の類魂(グループソウル)がそのまま成長に付き添う予定でしたが、私が今生でカルマの解消に集中するために準備して、霊視した段階では、大丈夫と判断したわけです。
...しかし、最近、どうも、何かで止まっているような気がしています。
予定していた東海地震も起こらないし関東大震災もまだ起こっていません。ただ遅れているだけかもしれませんが、どうも何かおかしいです。東京オリンピックは震災で開催しない筈なのに、このままでは開催しそうです。元々東京オリンピックは震災のために開催しなかった筈なので、その影響もあってか、理由は違どもマラソンやいくつかの競技が東京から他の場所(札幌)に移動し始めているのが興味深いです。スピリチュアル的な観点から言えば、震災が理由で移動することはなくても移動するという衝動と言いますかその計画の青写真みたいなものはそのまま引き継がれるのかもなぁ... というところを興味深く見ています。東京オリンピックがなくなった場合にどうなっていたのかはわかりませんが、いくつかの競技は復興及び震災復興の応援のために札幌とかで開催する青写真があったのかもしれないですね。
私は今生では現世に影響を与える予定はなくてひっそりと暮らすだけですのでこうして適当にブログでも書いているくらいなのですが、このまま変革が中途半端で失敗に終わるのであれば、スピリチュアルな変革を助けるためにもしかしたら私が何かしないといけなくなるのかも... という気もしてきています。そのくらい、危機感とまでは言わないですけど、何か違和感を感じています。
私のやり方はちょっと荒っぽくって、例えるならジャンヌダルクや織田信長のように性急なたちがありますので私が何かしたら刺される可能性が高まるのでどうしたものかなとも思いますし、今のところ特に何かするつもりはないのですが。
それでも、私のガイドが私に行動するように導いてきたら従うような気もしますが、今のところは生まれた時に私に与えられた使命というか目的である「カルマの解消」をしていさえすれば良い、と思っています。
ま、基本は夢で見たお話ですけどね。私のような個人が何かできるわけもないですし。
続き → 今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ
人によって今生の目的は違うと思いますが、私の場合、カルマの解消が目的です。
使命が目的だったりしますとカルマを貯めてでも使命を達成しようとしますし、私の場合、前世までの数多くの生では使命の達成を優先してきました。
他人のスピリチュアルな指導をしますと弟子のカルマを背負いますし、国の運命を変えたりしますと大きなカルマを背負います。
そうしてかなりのカルマが溜まってしまい、いつか解消しなくてはと思って後回しにしてきたのですが今生でようやくカルマの解消を目的に、そのためだけに生きることにしました。
私の場合、並行世界(パラレルワールド)がいくつかあって、最初は裕福な家庭に生まれて生きましたがカルマが解消されずに失敗し、時空を逆戻りして再設定してからパラレルワールド2を開始し、何度か試した後に今の人生を選んだようです。結果、かなり厳しい生活を約40年間過ごしましたが、ほとんどのカルマは解消されて及第点に至ったような気が致します。
単一の人生ではなくて類魂(グループソウル)のカルマを色々と背負い込んだのでルーツが異なる様々なカルマが入り混じっており、複合した問題に対処せざるを得ない状況になることも多くて苦労しました。
今もまだカルマが多少残ってはいますが、類魂(グループソウル)と一旦溶け合ってカルマを分散しさえすればそれぞれ解消できる程度のカルマにまで減ったので今生の人生は目的を既に達成したと言えます。
先日記載したヒンドゥのグルの人生においても、その人生では弟子を覚醒させることができなかったので後悔のカルマを背負ってしまい、今生では一からステップを踏むことで弟子が何に悩んでいたのかをひとつづつ確かめよう、という意図がありました。ですから、スピリチュアルを学んでいるというよりはスピリチュアルの悩みを理解するという点に重きを置いており、そのためには自分自身が悩んだ状態にならなければ根元から理解できない。であれば自分をどん底まで一旦突き落とす必要がある、ということで子供の頃から自分を谷底に突き落とした人生だったようです。かなり苦労しましたが、今は平気です。
思えば、類魂(グループソウル)の過去生の記憶を辿るとこのような悩みをかつてしたことがなく、自分が悩んだことがないので弟子が何に悩んでいて弟子にどのように成長したら良いかわからず、アドバイスする方法がよくわからない、という悩みが共通してあるようでした。ですから、私が今生で悩んで様々に突き止めたことを類魂(グループソウル)は興味津々で待ち構えているようです。類魂(グループソウル)は今は分離していますので私が知り得たことを完全にはわからず、私が死んでから類魂(グループソウル)と一旦溶け合うことで私の得た知識を完全に共有するのです。その時を類魂(グループソウル)は心待ちにしているようです。
私が今生でそのような悩みの多い人生を選び、カルマの解消に集中することにした結果として前世までに付き合いのあったスピリチュアルな友人や弟子たちとは今生ではほとんど付き合いがなくなっているのですが、本来は、このようなカルマの解消をする予定ではありませんでした。今の時代はいわゆるアセンションとか言われている時代で、大きな変革が訪れる予定だったわけですけれども、私の類魂(グループソウル)が過去生で様々に活動することであまりにもカルマを溜め込んでしまったために、肝心の自分が重くなりすぎてアセンションの対応が厳しいかもしれない状況になりつつあったのです。ですから、本来は今生も同様のスピリチュアル活動を続けたい意向ではあったわけですけれども、仕方なく私は今生はカルマの解消に集中することにしたわけです。そして、それが約40年かかりました。今は精魂使い果たしていてそれほどパワーは残っていませんが、それでも、ある程度の元気さを保っています。
実は、この計画変更のために、周囲の人々には苦労をかけました。
本来は今生もスピリチュアル活動をする予定でしたが今生はカルマの解消に費やすことにしたために、本来は私が指導したり導いてきた人たちのスピリチュアルなレベルを今生のアセンションに間に合うように引き上げるのではなく、スピードアップして前世の段階までにある程度のレベルまで引き上げておくことにしたのです。私は大丈夫と判断したのですが、もしかしてこれに少し無理があったのかもしれません。
それを決めるまでは割とゆっくりと指導してきたわけですけれども、私のカルマ解消の時間を作るためにスピードアップすることに決めた後は、ビシバシと指導することにしました... 今も世界の一部のスピリチュアルなスクールでスパルタがあったりするのは、私の類魂(グループソウル)の過去生が厳しく指導したからかもしれません。またもや変なカルマを作ってしまったかもしれません... でも、少なくともそれで各自のスピリチュアルなレベルは早く成長した筈です。
そうして、なんとか今生では知人や弟子たちが自分たちでアセンションまで行けるような状態になったかと思って私は今生でカルマの解消に集中したわけです。
私がいなくてもかつての友人知人や弟子などの他のスピリチュアルな活動家が活躍することでなんとかなる筈でした。私が今生を生まれる前あるいは生まれた後に霊視や夢で見ていた状況では、そのような計画になっていました。元々は私の類魂(グループソウル)がそのまま成長に付き添う予定でしたが、私が今生でカルマの解消に集中するために準備して、霊視した段階では、大丈夫と判断したわけです。
...しかし、最近、どうも、何かで止まっているような気がしています。
予定していた東海地震も起こらないし関東大震災もまだ起こっていません。ただ遅れているだけかもしれませんが、どうも何かおかしいです。東京オリンピックは震災で開催しない筈なのに、このままでは開催しそうです。元々東京オリンピックは震災のために開催しなかった筈なので、その影響もあってか、理由は違どもマラソンやいくつかの競技が東京から他の場所(札幌)に移動し始めているのが興味深いです。スピリチュアル的な観点から言えば、震災が理由で移動することはなくても移動するという衝動と言いますかその計画の青写真みたいなものはそのまま引き継がれるのかもなぁ... というところを興味深く見ています。東京オリンピックがなくなった場合にどうなっていたのかはわかりませんが、いくつかの競技は復興及び震災復興の応援のために札幌とかで開催する青写真があったのかもしれないですね。
私は今生では現世に影響を与える予定はなくてひっそりと暮らすだけですのでこうして適当にブログでも書いているくらいなのですが、このまま変革が中途半端で失敗に終わるのであれば、スピリチュアルな変革を助けるためにもしかしたら私が何かしないといけなくなるのかも... という気もしてきています。そのくらい、危機感とまでは言わないですけど、何か違和感を感じています。
私のやり方はちょっと荒っぽくって、例えるならジャンヌダルクや織田信長のように性急なたちがありますので私が何かしたら刺される可能性が高まるのでどうしたものかなとも思いますし、今のところ特に何かするつもりはないのですが。
それでも、私のガイドが私に行動するように導いてきたら従うような気もしますが、今のところは生まれた時に私に与えられた使命というか目的である「カルマの解消」をしていさえすれば良い、と思っています。
ま、基本は夢で見たお話ですけどね。私のような個人が何かできるわけもないですし。
続き → 今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ
ジャンヌダルクを幽体離脱でみたお話
<幽体離脱や夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません。>
元々、ジャンヌダルクの魂の元となる大きな大きな神様はフランスの未来を案じていました。
ジャンヌダルクは神様の分霊ですので、神様自身が案じていたということです。
神様は、フランスがイギリスに攻められ続けている状況にイライラしていました。
しっかり戦えばイギリスなんて追い返せるのに、フランス軍は根性がないのです。騎士道精神が足りないとでも言いましょうか。戦う気力で負けているのです。
イライラしていた神様は、霊視で未来を確認しました。
・・・このままでは、フランスの未来は暗い。本来計画していたフランスの未来が消えてしまう。
フランスは将来に重要な役割を果たさなくてはならないのに、イギリスに支配されてしまったら、その元々の計画が消えてしまう。
・・・どうやら、フランスがここまでイギリスに攻められたことは神様にとっても想定外だったようです。そんなことってあるのですね。
そこでジャンヌダルクを分霊として転生させ、ジャンヌダルクは神の声を聞いてフランスを救った、ということのようです。
この神のイライラは、そのまま分霊であるジャンヌダルクに引き継がれていて面白いですね。神と言っても性格があるのですね。
■ジャンヌ・ダルクの魂は死後、3つに分かれた
・純粋な部分は神様の元へとそのまま帰って合一した
・中間の部分は、貴族の娘として転生、そして幾度かの転生の後に昇天して神様の元へと帰還・合一した
・火炙りで苦しんだ下部の辛い部分は、しばらく幽界を漂った後、日本の2人の神様からお願いをされ、徳川家康を助けることを目的に織田信長として転生した。
ジャンヌの時は使命があって、天使から必要なオーラを分け与えてもらってその使命を全うしました。その後、大きすぎるオーラのうちいくつかは天使に返したり分割したりして、それで残った部分がジャンヌの転生として何度か人生を繰り返したように思います。
その1つが貴族の娘だったりしたわけですけど、普通の裕福な家庭に生まれたりもして、基本的には不自由なく暮らしてきました。
しかしながら、いくつもの人生を過ごすうちに変な人とも付き合う必要があったりして、内に黒いオーラをどこかにカルマとして溜め込んでしまったわけです。それはジャンヌの分霊としてのカルマでもありますし、もっと大きなグループソウルという単位からみればグループソウル全体が抱え込んでいる黒いカルマでもあるわけです。
この黒いカルマはある程度の量であれば問題にはなりませんが、割合が増えてくると精神的に不安定になってきます。そのうち、そのカルマの解消のために、一つの方法としては単純に火で消滅させて浄化する、あるいは、そのカルマを現実化して理解する、などという方法が取られます。この場合、後者の方法が選択され、理解するための分霊が作られて転生が行われたようです。
元々、ジャンヌダルクの魂の元となる大きな大きな神様はフランスの未来を案じていました。
ジャンヌダルクは神様の分霊ですので、神様自身が案じていたということです。
神様は、フランスがイギリスに攻められ続けている状況にイライラしていました。
しっかり戦えばイギリスなんて追い返せるのに、フランス軍は根性がないのです。騎士道精神が足りないとでも言いましょうか。戦う気力で負けているのです。
イライラしていた神様は、霊視で未来を確認しました。
・・・このままでは、フランスの未来は暗い。本来計画していたフランスの未来が消えてしまう。
フランスは将来に重要な役割を果たさなくてはならないのに、イギリスに支配されてしまったら、その元々の計画が消えてしまう。
・・・どうやら、フランスがここまでイギリスに攻められたことは神様にとっても想定外だったようです。そんなことってあるのですね。
そこでジャンヌダルクを分霊として転生させ、ジャンヌダルクは神の声を聞いてフランスを救った、ということのようです。
この神のイライラは、そのまま分霊であるジャンヌダルクに引き継がれていて面白いですね。神と言っても性格があるのですね。
■ジャンヌ・ダルクの魂は死後、3つに分かれた
・純粋な部分は神様の元へとそのまま帰って合一した
・中間の部分は、貴族の娘として転生、そして幾度かの転生の後に昇天して神様の元へと帰還・合一した
・火炙りで苦しんだ下部の辛い部分は、しばらく幽界を漂った後、日本の2人の神様からお願いをされ、徳川家康を助けることを目的に織田信長として転生した。
ジャンヌの時は使命があって、天使から必要なオーラを分け与えてもらってその使命を全うしました。その後、大きすぎるオーラのうちいくつかは天使に返したり分割したりして、それで残った部分がジャンヌの転生として何度か人生を繰り返したように思います。
その1つが貴族の娘だったりしたわけですけど、普通の裕福な家庭に生まれたりもして、基本的には不自由なく暮らしてきました。
しかしながら、いくつもの人生を過ごすうちに変な人とも付き合う必要があったりして、内に黒いオーラをどこかにカルマとして溜め込んでしまったわけです。それはジャンヌの分霊としてのカルマでもありますし、もっと大きなグループソウルという単位からみればグループソウル全体が抱え込んでいる黒いカルマでもあるわけです。
この黒いカルマはある程度の量であれば問題にはなりませんが、割合が増えてくると精神的に不安定になってきます。そのうち、そのカルマの解消のために、一つの方法としては単純に火で消滅させて浄化する、あるいは、そのカルマを現実化して理解する、などという方法が取られます。この場合、後者の方法が選択され、理解するための分霊が作られて転生が行われたようです。
暗性優生のサマーディと動性優生と善性優位
訳によって微妙に表現は異なりますが、これはタマス優生のサマーディ、ラジャス優生のサマーディ、サットヴァ優生のサマーディのことです。
ヨーガやアユルベーダでは3つのグナとしてタマス(惰質、暗性)、ラジャス(激質、動性)、サットヴァ(純質、善性)が言われていますが、サマーディにもその質の違いがあるようです。
ヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」にて以下のように述べています。
■暗性(タマス)優位の三昧(サマーディ)
暗性とは、粗雑であるとか暗く不活発である、といった性質のことです。(中略)この境地にある時、私たちの意識は2時間から12時間もうつろなまま(Shunya Bhava)でいることもあります。(中略)この状態は、いわば深く寝入ってしまったようなものだと言うことができると思います。(中略)この境地においては、重要な知識とか役に立つような経験をするとかいうことが全くありません。(中略)導師につかずに自分一人で修行を続け、心素の働き(Vritti)を制御しようとしている者は、ほとんどの場合、この暗性優位の空虚な三昧境にまず入って行きます。私(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)の場合も、何年もの間この空虚三昧のみを経験しておりました。(中略)智恵と分別が得られる三昧によって出なければ、解脱を目指す探究心は満足させられないのです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」
このあたりに私の次の段階へのヒントがありそうです。
ひとまず雑念は抑えることができて晴々とした瞑想ができるようになりましたが、時折、人と接することで他人のタマスを受け取ってしまい、暗闇に包まれてしまうことが最近よくありました。そんな時、改めて上記のようなタマス優生の瞑想のことを意識するようになったのです。赤の他人のタマスなら拒否して終わりですけど、最近あった身内の不幸で他の身内がタマスに落ち込んでいたりしますとどうにかして回復させてあげる必要がありますよね。そんな時に否応なしにタマスを受け取ってしまいました。まあ、これは仕方がないですね。
今までのように、タマスを浄化してサットヴァにするのも良いですが、どうも時間がかかるな... と思っておりました。そこで、同書にヒントがありました。
■動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)
動性とは、感情を高ぶらせ、奮闘し、執着するといった性質のことです。この動性優位の三昧境では、善性が動性を助けますので、精妙な事物の知識を得ることができます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」
ここでピンと来ました。
他人のタマスを受け取ってしまったりしてタマスが増えた時、浄化してサットヴァにする手の他に、ラジャスを高めると言う手段があるのだと。
なんでこんな単純なことに気が付かなかったのでしょう。
タマスからサットヴァを目指すとは良く言いますが、その途中にあるラジャスを軽視していたかもしれません。そもそも瞑想でラジャスをどう使うかなんて、本でも読んだり誰かに教えてもらわないと気づきにくいですよね。
タマスを浄化してサットヴァにすると言う手はもちろんありますが、タマスにラジャスの要素を加える、例えば感情を高ぶらせたりすることでタマスのどんよりとした瞑想からラジャスの瞑想に一旦持っていって、それからサットヴァの質を加えて浄化すればタマスをそのまま浄化してサットヴァにするよりも簡単にサットヴァまで持っていくことができそうです。
この、段階的な瞑想は、灯台足元暗しとでも言うのでしょうか。3つのグナの説明としては「ふむふむ」と理解していても、それを瞑想に応用するところまで気付きませんでした。
まあ、サマーディとまでは行かないまでも、普通の瞑想でも同じような要素を応用できるかな、と思っております。
感情を高ぶらせると言いましても、感情的になって叫ぶとかそう言うことではなくて、もはや既にそれなりの瞑想の静けさがありますので、体、特に上半身にちょっと力を入れてそのまま細かくブルブルブルっと細かな振動を入れて静電気と言いますか感覚がちょっと高まった状態を作り出すだけでも随分とタマスが消えて行きます。感情を高ぶらせると言うよりも感覚を高ぶらせる、静電気を作り出す、と言う感じでしょうか。
そういえば、同じような感情の高まりの瞑想手法、どこかで見たことがあるような... 何でしたっけ。忘れましたけど、そういえばこんな瞑想方法もありましたね。どのくらい同じかはちょっと思い出せませんけど、なかなかこの静電気の手法はタマスに効果的かもしれません。今後もタマスをもらってしまった時は試してみたいと思います。
続き: 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂
ヨーガやアユルベーダでは3つのグナとしてタマス(惰質、暗性)、ラジャス(激質、動性)、サットヴァ(純質、善性)が言われていますが、サマーディにもその質の違いがあるようです。
ヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」にて以下のように述べています。
■暗性(タマス)優位の三昧(サマーディ)
暗性とは、粗雑であるとか暗く不活発である、といった性質のことです。(中略)この境地にある時、私たちの意識は2時間から12時間もうつろなまま(Shunya Bhava)でいることもあります。(中略)この状態は、いわば深く寝入ってしまったようなものだと言うことができると思います。(中略)この境地においては、重要な知識とか役に立つような経験をするとかいうことが全くありません。(中略)導師につかずに自分一人で修行を続け、心素の働き(Vritti)を制御しようとしている者は、ほとんどの場合、この暗性優位の空虚な三昧境にまず入って行きます。私(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)の場合も、何年もの間この空虚三昧のみを経験しておりました。(中略)智恵と分別が得られる三昧によって出なければ、解脱を目指す探究心は満足させられないのです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」
このあたりに私の次の段階へのヒントがありそうです。
ひとまず雑念は抑えることができて晴々とした瞑想ができるようになりましたが、時折、人と接することで他人のタマスを受け取ってしまい、暗闇に包まれてしまうことが最近よくありました。そんな時、改めて上記のようなタマス優生の瞑想のことを意識するようになったのです。赤の他人のタマスなら拒否して終わりですけど、最近あった身内の不幸で他の身内がタマスに落ち込んでいたりしますとどうにかして回復させてあげる必要がありますよね。そんな時に否応なしにタマスを受け取ってしまいました。まあ、これは仕方がないですね。
今までのように、タマスを浄化してサットヴァにするのも良いですが、どうも時間がかかるな... と思っておりました。そこで、同書にヒントがありました。
■動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)
動性とは、感情を高ぶらせ、奮闘し、執着するといった性質のことです。この動性優位の三昧境では、善性が動性を助けますので、精妙な事物の知識を得ることができます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」
ここでピンと来ました。
他人のタマスを受け取ってしまったりしてタマスが増えた時、浄化してサットヴァにする手の他に、ラジャスを高めると言う手段があるのだと。
なんでこんな単純なことに気が付かなかったのでしょう。
タマスからサットヴァを目指すとは良く言いますが、その途中にあるラジャスを軽視していたかもしれません。そもそも瞑想でラジャスをどう使うかなんて、本でも読んだり誰かに教えてもらわないと気づきにくいですよね。
タマスを浄化してサットヴァにすると言う手はもちろんありますが、タマスにラジャスの要素を加える、例えば感情を高ぶらせたりすることでタマスのどんよりとした瞑想からラジャスの瞑想に一旦持っていって、それからサットヴァの質を加えて浄化すればタマスをそのまま浄化してサットヴァにするよりも簡単にサットヴァまで持っていくことができそうです。
この、段階的な瞑想は、灯台足元暗しとでも言うのでしょうか。3つのグナの説明としては「ふむふむ」と理解していても、それを瞑想に応用するところまで気付きませんでした。
まあ、サマーディとまでは行かないまでも、普通の瞑想でも同じような要素を応用できるかな、と思っております。
感情を高ぶらせると言いましても、感情的になって叫ぶとかそう言うことではなくて、もはや既にそれなりの瞑想の静けさがありますので、体、特に上半身にちょっと力を入れてそのまま細かくブルブルブルっと細かな振動を入れて静電気と言いますか感覚がちょっと高まった状態を作り出すだけでも随分とタマスが消えて行きます。感情を高ぶらせると言うよりも感覚を高ぶらせる、静電気を作り出す、と言う感じでしょうか。
そういえば、同じような感情の高まりの瞑想手法、どこかで見たことがあるような... 何でしたっけ。忘れましたけど、そういえばこんな瞑想方法もありましたね。どのくらい同じかはちょっと思い出せませんけど、なかなかこの静電気の手法はタマスに効果的かもしれません。今後もタマスをもらってしまった時は試してみたいと思います。
続き: 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂
奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂
先日の続きです。
古神道の「振魂(ふるたま、ふりたま)の法」が先日の感覚を高ぶらせる瞑想に似ている事に気が付きました。古神道にも流派がありますのでそれぞれ異なるようですが、「神道の神秘(山蔭 基央 著)」によりますと「鎮魂の法」の前段階としてこの振魂が行われることもあるようです。
鎮魂とは先日少し書きましたオーラを凝縮させる方法が一般的な解釈ですが、古神道的な本義は他にあるようです。その前段階としてこの振魂が行われる流派があるようです。
振魂とは、身体的には「軽い振動」を与える事で一種の神がかり状態に導くものでもあるようですが、そのような目を引く意味は本義ではなさそうですのでとりあえず置いておいて、私はそれよりも、ヨーガでも行われるような緩急をつけた筋肉の緊張と弛緩でリラックスする方法に似ているとも思いましたし、この振魂の本質はと言いますと、先日気付きましたようにタマスをより効果的に浄化する作用にあるように思われました。
古神道の鎮魂は高級な神霊界などに接触あるいは導き入れる法のことでもあるようですのでそれはサットヴァな状態であると解釈すれば、その前段階としてラジャスの状態に導くために振魂がタマスを浄化するというのは理に叶っているように思われました。
まとめますと
・タマスを浄化してラジャスの状態にするのが古神道の振魂(という私の解釈)。「軽い振動」を与える。
・ラジャスをサットヴァにするのが(本来の)古神道の鎮魂(という私の解釈)。呼吸法(ヨーガでいうプラナヤーマ)。
とすれば、様々なスピリチュアルな手法で最初に軽い運動をしたり振動っぽい働きを体にさせたりするのはこれと同じようにタマスを浄化してラジャスにする効果があるのだと解釈できます。
ヨーガのアサナ(体操)ももちろんそうですし、ヨーガのプラナヤーマ(呼吸法)の中には激しい呼吸をするものもありますけど、物によっては同様にタマスを浄化してラジャスにする効果のプラナヤーマもあれば、ラジャスをサットヴァにするためのプラナヤーマもあるのだと思います。
滝行なども、精神を強くするという意味合いももちろんあるのでしょうけど、この「軽い振動」を与えることが目的なのかもしれないですね。滝行でタマスをラジャスにしてサットヴァまで持っていくのはなかなか厳しそうにも思えますが、どうなのでしょう。滝行は大勢滝壺で死んでいるとも言いますしね。滝行で生命を危険に晒すよりは本質である「軽い振動」でタマスを浄化していけば十分な気も致しますが、どうなのでしょう。いろいろ流派があってやり方もそれぞれですので、体系に組み込まれているのだとしたら滝行はそれぞれの流派の意義があるのでしょうけど。
そういえば50年かもっと昔には「霊動法」とか言われるものも流行ったようですね。自分ではしたことがありませんが、1冊だけ本は持っています。見たところ、霊動法は振魂に似ているような気も致しますが、どうなのでしょう。同じ古神道の系列ですので同じように見えたりもしますが。
このラジャスの状態が先日の「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の解釈における「動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)」と同じ段階なのだとすれば、それで繋がる世界は物理的な世界(の精妙な部分)であって、「善性(サットヴァ)優位の三昧(サマーディ)」のように高次の世界と繋がっているわけではないようですので、ラジャスの段階である振魂ですとか霊動法でそれほど良くない魂と繋がったり低級霊(狐や狸)が出てきたりするのも理に叶っている気が致します。霊動法にも色々あって、上達すればサットヴァなものに繋がったりもするようですが、見たところラジャスの事例が多いように見受けられます。
霊動法とよく似た事例として、大本教の出口王仁三郎の伝記である「大地の母」に面白い話が載っていたのを思い出したのですが、古神道の行法をして高級霊が来たかと思ったら狸か何かに騙されて埋蔵金の大捕物をした挙句何もなくて大恥をかいて信用を失った、みたいな話もあるようです。これは、振魂や鎮魂あるいは霊動法のような内容だと本からは読み取れますが、さほど熟練しておらず、試行錯誤的にしていたらよくわからない状態になったようですが、おそらくはタマスを浄化してラジャスになった段階で低級霊と繋がったのかな、と解釈できます。ですから、この種の「お告げ」なんてものはよくよく気をつけないといけないと思います。本当にサットヴァな状態に達する前は、このような、霊界からの「いたずら」に翻弄されたりもするのかな、と思います。
ヨーガ・スートラでも、悟りに達する前は様々な神々やその他の霊からの誘惑があるが、一切を退けなくてはならない、とあります。それはひょっとしたら、この種のラジャスな段階では特に気をつけなさい、ということかもしれません。
古神道の「振魂(ふるたま、ふりたま)の法」が先日の感覚を高ぶらせる瞑想に似ている事に気が付きました。古神道にも流派がありますのでそれぞれ異なるようですが、「神道の神秘(山蔭 基央 著)」によりますと「鎮魂の法」の前段階としてこの振魂が行われることもあるようです。
鎮魂とは先日少し書きましたオーラを凝縮させる方法が一般的な解釈ですが、古神道的な本義は他にあるようです。その前段階としてこの振魂が行われる流派があるようです。
振魂とは、身体的には「軽い振動」を与える事で一種の神がかり状態に導くものでもあるようですが、そのような目を引く意味は本義ではなさそうですのでとりあえず置いておいて、私はそれよりも、ヨーガでも行われるような緩急をつけた筋肉の緊張と弛緩でリラックスする方法に似ているとも思いましたし、この振魂の本質はと言いますと、先日気付きましたようにタマスをより効果的に浄化する作用にあるように思われました。
古神道の鎮魂は高級な神霊界などに接触あるいは導き入れる法のことでもあるようですのでそれはサットヴァな状態であると解釈すれば、その前段階としてラジャスの状態に導くために振魂がタマスを浄化するというのは理に叶っているように思われました。
まとめますと
・タマスを浄化してラジャスの状態にするのが古神道の振魂(という私の解釈)。「軽い振動」を与える。
・ラジャスをサットヴァにするのが(本来の)古神道の鎮魂(という私の解釈)。呼吸法(ヨーガでいうプラナヤーマ)。
とすれば、様々なスピリチュアルな手法で最初に軽い運動をしたり振動っぽい働きを体にさせたりするのはこれと同じようにタマスを浄化してラジャスにする効果があるのだと解釈できます。
ヨーガのアサナ(体操)ももちろんそうですし、ヨーガのプラナヤーマ(呼吸法)の中には激しい呼吸をするものもありますけど、物によっては同様にタマスを浄化してラジャスにする効果のプラナヤーマもあれば、ラジャスをサットヴァにするためのプラナヤーマもあるのだと思います。
滝行なども、精神を強くするという意味合いももちろんあるのでしょうけど、この「軽い振動」を与えることが目的なのかもしれないですね。滝行でタマスをラジャスにしてサットヴァまで持っていくのはなかなか厳しそうにも思えますが、どうなのでしょう。滝行は大勢滝壺で死んでいるとも言いますしね。滝行で生命を危険に晒すよりは本質である「軽い振動」でタマスを浄化していけば十分な気も致しますが、どうなのでしょう。いろいろ流派があってやり方もそれぞれですので、体系に組み込まれているのだとしたら滝行はそれぞれの流派の意義があるのでしょうけど。
そういえば50年かもっと昔には「霊動法」とか言われるものも流行ったようですね。自分ではしたことがありませんが、1冊だけ本は持っています。見たところ、霊動法は振魂に似ているような気も致しますが、どうなのでしょう。同じ古神道の系列ですので同じように見えたりもしますが。
このラジャスの状態が先日の「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の解釈における「動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)」と同じ段階なのだとすれば、それで繋がる世界は物理的な世界(の精妙な部分)であって、「善性(サットヴァ)優位の三昧(サマーディ)」のように高次の世界と繋がっているわけではないようですので、ラジャスの段階である振魂ですとか霊動法でそれほど良くない魂と繋がったり低級霊(狐や狸)が出てきたりするのも理に叶っている気が致します。霊動法にも色々あって、上達すればサットヴァなものに繋がったりもするようですが、見たところラジャスの事例が多いように見受けられます。
霊動法とよく似た事例として、大本教の出口王仁三郎の伝記である「大地の母」に面白い話が載っていたのを思い出したのですが、古神道の行法をして高級霊が来たかと思ったら狸か何かに騙されて埋蔵金の大捕物をした挙句何もなくて大恥をかいて信用を失った、みたいな話もあるようです。これは、振魂や鎮魂あるいは霊動法のような内容だと本からは読み取れますが、さほど熟練しておらず、試行錯誤的にしていたらよくわからない状態になったようですが、おそらくはタマスを浄化してラジャスになった段階で低級霊と繋がったのかな、と解釈できます。ですから、この種の「お告げ」なんてものはよくよく気をつけないといけないと思います。本当にサットヴァな状態に達する前は、このような、霊界からの「いたずら」に翻弄されたりもするのかな、と思います。
ヨーガ・スートラでも、悟りに達する前は様々な神々やその他の霊からの誘惑があるが、一切を退けなくてはならない、とあります。それはひょっとしたら、この種のラジャスな段階では特に気をつけなさい、ということかもしれません。
タマスな瞑想から始まってサットヴァな瞑想へ
先日チベットのゾクチェンの瞑想を引用しましたけど、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」のそれぞれのステップは先日引用したヨーガや古神道の瞑想法とも繋がっているような気がしてきました。
チベットでは「テクチュウ(突破する)」で清々しい清浄なる空(くう)に至り、「トゥカル(跳躍する)」でそれを超えると言います。
一方、ヨーガではまず最初に「集中」から始まってタマス(惰質、暗性)的な瞑想から入ってゆきます。
ヨーガでは割とタマスが悪いことのようなイメージで語られることが多いような気が致しますが、ゾクチェンの瞑想と結びつけるとそれもまた一つのステップのように読み解けます。
ゾクチェンではまず最初に「テクチュウ(突破する)」から入り、それ以前の雑念の多い状態に比べるとかなり平穏で清々しい状態に達します。
ヨーガでもまず最初に「集中」から入り、雑念を抑えて無の状態の瞑想にまずは達します。
先日引用しましたように、ヨーガではこの最初の無の瞑想はタマス優位の瞑想だと解釈することができます。
割とヨーガでは否定的に語られることが多いタマスですが、瞑想の最初の段階では必ず(おそらく、必ずだと思われる)、このタマスの瞑想にまず辿り着きます。
タマスの瞑想であったとしても、元の雑念の多い状態に比べればかなり心は落ち着いており、それはそれは清々しいものです。ですから、タマスの瞑想であっても恥じることはなく、それは一つの到達点であると思うわけです。
このタマスの瞑想は、おそらくチベットのゾクチェンでは「テクチュウ(突破する)」で到達する清々しい境地であると思われます。
と、言いますのも、本屋でゾクチェン関係の書籍を探っていましたところ、「テクチュウ(突破する)」は確かに素晴らしい境地に導くけれども、「トゥカル(跳躍する)」で超えた先の境地はもっと清々しくて素晴らしい境地である、というようなことが書かれてあったからです。更には、ゾクチェンの完成にはもういくつかステップがあるようでした。
であれば、この「トゥカル(跳躍する)」とは、ラジャス(激質、動性)のことであると推測できます。
もしこの推測が正しいとすれば、ヨーガにせよゾクチェンにせよ、最初はタマスの瞑想から始まる、ということなのだと思います。
ヨーガで悪者扱いされがちなタマスですが、瞑想においてはきっとそれが最初のステップなのだと思います。
こうして見ますと、タマスの瞑想も悪いことはないんだな、ということが今更ながらよくわかります。
ただ、「魂の科学」によりますとタマスの瞑想に至ったらその先に進まなければ成長はないようですので、タマスの瞑想でサマーディに入って何時間、何日間も思考が停止した状態で瞑想を続けられたとしてもそれが新たな知恵を生み出すことはなく、ラジャスやサットヴァな瞑想(あるいはサマーディ)によらなくては更なる精神的な成長をすることは難しいようです。それを教えてくれるのがグルの役割の1つでもあるようです。
チベットでは「テクチュウ(突破する)」で清々しい清浄なる空(くう)に至り、「トゥカル(跳躍する)」でそれを超えると言います。
一方、ヨーガではまず最初に「集中」から始まってタマス(惰質、暗性)的な瞑想から入ってゆきます。
ヨーガでは割とタマスが悪いことのようなイメージで語られることが多いような気が致しますが、ゾクチェンの瞑想と結びつけるとそれもまた一つのステップのように読み解けます。
ゾクチェンではまず最初に「テクチュウ(突破する)」から入り、それ以前の雑念の多い状態に比べるとかなり平穏で清々しい状態に達します。
ヨーガでもまず最初に「集中」から入り、雑念を抑えて無の状態の瞑想にまずは達します。
先日引用しましたように、ヨーガではこの最初の無の瞑想はタマス優位の瞑想だと解釈することができます。
割とヨーガでは否定的に語られることが多いタマスですが、瞑想の最初の段階では必ず(おそらく、必ずだと思われる)、このタマスの瞑想にまず辿り着きます。
タマスの瞑想であったとしても、元の雑念の多い状態に比べればかなり心は落ち着いており、それはそれは清々しいものです。ですから、タマスの瞑想であっても恥じることはなく、それは一つの到達点であると思うわけです。
このタマスの瞑想は、おそらくチベットのゾクチェンでは「テクチュウ(突破する)」で到達する清々しい境地であると思われます。
と、言いますのも、本屋でゾクチェン関係の書籍を探っていましたところ、「テクチュウ(突破する)」は確かに素晴らしい境地に導くけれども、「トゥカル(跳躍する)」で超えた先の境地はもっと清々しくて素晴らしい境地である、というようなことが書かれてあったからです。更には、ゾクチェンの完成にはもういくつかステップがあるようでした。
であれば、この「トゥカル(跳躍する)」とは、ラジャス(激質、動性)のことであると推測できます。
もしこの推測が正しいとすれば、ヨーガにせよゾクチェンにせよ、最初はタマスの瞑想から始まる、ということなのだと思います。
ヨーガで悪者扱いされがちなタマスですが、瞑想においてはきっとそれが最初のステップなのだと思います。
- 集中して雑念を減らし、タマスの瞑想に入って「無」の清々しい境地に至る。ゾクチェンの「テクチュウ(突破する)」、「集中」の瞑想。ある種のサマーディ。
- 感情や感覚を奮い立たせて「軽い振動」を与え、タマスからラジャスの瞑想に至る。ゾクチェンの「トゥカル(跳躍する)」、古神道の振魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。
- 更に浄化を進め、ラジャスからサットヴァ(純質、善性)な境地に至る。ゾクチェンの上の段階。古神道の鎮魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。
- サットヴァすらなくなる境地がある筈。ゾクチェンの更に上の段階。古神道にも該当がある筈。ある種のサマーディ。悟り?
こうして見ますと、タマスの瞑想も悪いことはないんだな、ということが今更ながらよくわかります。
ただ、「魂の科学」によりますとタマスの瞑想に至ったらその先に進まなければ成長はないようですので、タマスの瞑想でサマーディに入って何時間、何日間も思考が停止した状態で瞑想を続けられたとしてもそれが新たな知恵を生み出すことはなく、ラジャスやサットヴァな瞑想(あるいはサマーディ)によらなくては更なる精神的な成長をすることは難しいようです。それを教えてくれるのがグルの役割の1つでもあるようです。
ゾクチェンの3つの境地。シネー、テクチュー、トゥガル
先日の続きです。
「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」によりますと、ゾクチェンには3つの境地があるようです。
・シネーの境地
・テクチュの境地
・トゥガルの境地
同書からポイントを書き出してみます。
■シネーの境地
くつろぎ。穏やかさ。
インドの言葉で「シャマタ」
想念や雑念の減少
集中の対象がある。
■テクチュの境地
突破、の意味。シネーの境地の突破。二次元的な心の動きの突破。
集中していない。
思考や分別が消え去っても存在している「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態。
対象と心の区別ができなくなる。
■トゥガルの境地
跳躍、の意味。
ティクレ(光滴)が見え始める。ティクレとは光が輝き出すこと。瞑想の初期に現れた光とは別物。
輪廻から涅槃への跳躍
実体性から空性への飛躍。
さて、ここまで読むと、見えてくるものがあります。シネーの境地とはいわゆるタマスの瞑想のことかなと思います。そして、テクチュの瞑想はラジャスの瞑想。そしてトゥガルはサットヴァな瞑想に相当すると解釈できそうです。仮説ですけどね。
瞑想をしても多くの場合はタマスの瞑想であるシネーの境地で止まっている、とは同書でも指摘されています。とは言いましても、それはそれで心が穏やかになって、瞑想を始める以前と比べたら随分と爽やかに人生を過ごせますので、一般社会を快適に過ごすにはそのくらいで十分なのかもしれませんが。
テクチュの境地では上に記しましたように「対象」と「心」の区別ができなくなる、とありますので、これは一般的なサマーディの定義と似ているように読み取れます。サマーディは色々な種類がありますが、一般的には「見るもの」と「見られるもの」の区別がなくなって一体化する状態だと解釈されていますので、一般的なサマーディ相当がテクチュの境地なのかなと読み取れます。
そして、同書によればテクチュの境地の瞑想を続ければ一続きのものとしてトゥガルの境地に導かれるとありますので、まずはテクチュの境地に至るところが一つの壁であるようです。
続き: テクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験
「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」によりますと、ゾクチェンには3つの境地があるようです。
・シネーの境地
・テクチュの境地
・トゥガルの境地
同書からポイントを書き出してみます。
■シネーの境地
くつろぎ。穏やかさ。
インドの言葉で「シャマタ」
想念や雑念の減少
集中の対象がある。
■テクチュの境地
突破、の意味。シネーの境地の突破。二次元的な心の動きの突破。
集中していない。
思考や分別が消え去っても存在している「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態。
対象と心の区別ができなくなる。
■トゥガルの境地
跳躍、の意味。
ティクレ(光滴)が見え始める。ティクレとは光が輝き出すこと。瞑想の初期に現れた光とは別物。
輪廻から涅槃への跳躍
実体性から空性への飛躍。
さて、ここまで読むと、見えてくるものがあります。シネーの境地とはいわゆるタマスの瞑想のことかなと思います。そして、テクチュの瞑想はラジャスの瞑想。そしてトゥガルはサットヴァな瞑想に相当すると解釈できそうです。仮説ですけどね。
瞑想をしても多くの場合はタマスの瞑想であるシネーの境地で止まっている、とは同書でも指摘されています。とは言いましても、それはそれで心が穏やかになって、瞑想を始める以前と比べたら随分と爽やかに人生を過ごせますので、一般社会を快適に過ごすにはそのくらいで十分なのかもしれませんが。
テクチュの境地では上に記しましたように「対象」と「心」の区別ができなくなる、とありますので、これは一般的なサマーディの定義と似ているように読み取れます。サマーディは色々な種類がありますが、一般的には「見るもの」と「見られるもの」の区別がなくなって一体化する状態だと解釈されていますので、一般的なサマーディ相当がテクチュの境地なのかなと読み取れます。
そして、同書によればテクチュの境地の瞑想を続ければ一続きのものとしてトゥガルの境地に導かれるとありますので、まずはテクチュの境地に至るところが一つの壁であるようです。
続き: テクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験
クンダリーニはシンボル(象徴)
「ヨガの真義( M.ドーリル 著)」に基づきますと、そのように説明されています。
これは、他の書籍、例えば「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」などにも同様のことが書かれてありますが、「ヨガの真義」にはよりはっきりとそのように記されています。
エーテル的エネルギーをヨガ行者たちはプラナ的エネルギー、プラナ的力と呼んでいる。プラナという語は、訳するとエーテル的ということになる。(中略)クンダリーニというものは、エーテルエネルギーで形成されているのである。クンダリーニは引き出されたエーテル的エネルギーにすぎないのである。「ヨガの真義( M.ドーリル 著)」
というように、クンダリーニの解説をしています。
これはある程度ヨガを勉強すれば割とすぐに理解できることだとは思いますし、私自身の経験からもそのように思います。
蛇が登ったというよりはエネルギーが通り出した、という表現の方がより実感に近いですし、それが蛇かと言われれば蛇かもしれませんが、蛇かどうかはよくわかりませんし。
これは、他の書籍、例えば「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」などにも同様のことが書かれてありますが、「ヨガの真義」にはよりはっきりとそのように記されています。
エーテル的エネルギーをヨガ行者たちはプラナ的エネルギー、プラナ的力と呼んでいる。プラナという語は、訳するとエーテル的ということになる。(中略)クンダリーニというものは、エーテルエネルギーで形成されているのである。クンダリーニは引き出されたエーテル的エネルギーにすぎないのである。「ヨガの真義( M.ドーリル 著)」
というように、クンダリーニの解説をしています。
これはある程度ヨガを勉強すれば割とすぐに理解できることだとは思いますし、私自身の経験からもそのように思います。
蛇が登ったというよりはエネルギーが通り出した、という表現の方がより実感に近いですし、それが蛇かと言われれば蛇かもしれませんが、蛇かどうかはよくわかりませんし。
クンダリーニは上がるのか下がるのか?
一部のスピリチュアルで、クンダリーニはアジナまで上昇したら下降してアナハタ(ハート)に到達する、というようなお話を度々聞いたり目にしたりします。これは、クンダリーニが活性化した後はそうなのでしょうが、クンダリーニが活性化する前に、「活性化させるために上下する」というお話をこの度初めて書籍で読みました。
大白色聖同胞団(グレート・ホワイト・ブラザーフッド、Great White Brotherhood)という神智学やニューエイジ系の活動をしている団体が出している書籍の中に、以下のような記述がありました。松果腺は頭の真ん中あたりにあります。
人間はクンダリーニを上げる前にエーテルエネルギーを降ろさねばならないのである。「ヨガの真義(M・ドーリル 著)」
クンダリーニーの力が脊柱最下部付近から頭の方へと上昇する前に、まず、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、松果腺から肉体の他の内分泌腺に下りてゆき、それから上へと昇るのである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」
とは言いましても、私の場合、こんなこと意識していませんでしたけどね... こうしていればもっと簡単だったのでしょうかね。もし最初から私がこのように言われていたとしてもグル等の指示がなければどうしたら良いのかわからなかったかもしれないですけどね。
とは言いましても、思えば、いつしか書きましたけどクンダリーニが本格的に活性化する前にムーラダーラの電気ショックと額の前の空間(アジナ付近)でのボンっという爆発を経験していますので、もしかしたらその爆発がここでいう宇宙力(エーテルのエネルギー?)が体に入った時だったかもしれません。
先日引用しましたように同書ではクンダリーニはエーテル的エネルギーと言っています。一方、上の引用文ではクンダリーニを上げる前に「エーテルエネルギー」を下すと記載されています。そして、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、下る、との部分は「ヨガの真義」の記述と同じことを言っているのだとすれば宇宙力とはエーテルエネルギーのことであると解釈できます。エーテルエネルギーであれば宇宙力とはクンダリーニのことですから、言い方が3つ「クンダリーニ」「エーテルエネルギー」「宇宙力」とありますが、全て同じ種類のエネルギーであると解釈できます。結局はクンダリーニとはシンボル的な表現ですからこんな感じになるのでしょうかね?
となれば、最初にエーテルエネルギーが下るときもエネルギーを感じても良さそうなものですが、私はこの種の「下るエネルギー」は意識していませんでした。もしかしたら単なるエネルギーの変化としてスルーしていたのかもしれませんけど、もはや覚えていません。あらかじめこのように言われていたらどれがそうなのか意識してチェックしていたかもしれませんので、惜しいことをしました。
大白色聖同胞団(グレート・ホワイト・ブラザーフッド、Great White Brotherhood)という神智学やニューエイジ系の活動をしている団体が出している書籍の中に、以下のような記述がありました。松果腺は頭の真ん中あたりにあります。
人間はクンダリーニを上げる前にエーテルエネルギーを降ろさねばならないのである。「ヨガの真義(M・ドーリル 著)」
クンダリーニーの力が脊柱最下部付近から頭の方へと上昇する前に、まず、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、松果腺から肉体の他の内分泌腺に下りてゆき、それから上へと昇るのである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」
とは言いましても、私の場合、こんなこと意識していませんでしたけどね... こうしていればもっと簡単だったのでしょうかね。もし最初から私がこのように言われていたとしてもグル等の指示がなければどうしたら良いのかわからなかったかもしれないですけどね。
とは言いましても、思えば、いつしか書きましたけどクンダリーニが本格的に活性化する前にムーラダーラの電気ショックと額の前の空間(アジナ付近)でのボンっという爆発を経験していますので、もしかしたらその爆発がここでいう宇宙力(エーテルのエネルギー?)が体に入った時だったかもしれません。
先日引用しましたように同書ではクンダリーニはエーテル的エネルギーと言っています。一方、上の引用文ではクンダリーニを上げる前に「エーテルエネルギー」を下すと記載されています。そして、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、下る、との部分は「ヨガの真義」の記述と同じことを言っているのだとすれば宇宙力とはエーテルエネルギーのことであると解釈できます。エーテルエネルギーであれば宇宙力とはクンダリーニのことですから、言い方が3つ「クンダリーニ」「エーテルエネルギー」「宇宙力」とありますが、全て同じ種類のエネルギーであると解釈できます。結局はクンダリーニとはシンボル的な表現ですからこんな感じになるのでしょうかね?
となれば、最初にエーテルエネルギーが下るときもエネルギーを感じても良さそうなものですが、私はこの種の「下るエネルギー」は意識していませんでした。もしかしたら単なるエネルギーの変化としてスルーしていたのかもしれませんけど、もはや覚えていません。あらかじめこのように言われていたらどれがそうなのか意識してチェックしていたかもしれませんので、惜しいことをしました。
ヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とゾクチェン
先日ゾクチェンの3つの境地を引用しましたが、タマスな瞑想についての記事を踏まえますとヨーガ・スートラの瞑想について別の視点が現れて来ます。
ヨーガ・スートラでは以下の段階で瞑想が進んでゆきます。
・ダーラナ(集中)
・ディアーナ(瞑想)
・サマーディ(三昧)
■ヨーガ・スートラでのディアーナ(瞑想)
ヨーガ・スートラではディアーナ(瞑想)について様々な解釈がなされていますが、そのうちの幾つかは以下のようなものです。
・心が12秒間集中することができるなら、それはダーラナーであり、十二のそのようなダーラナーはディャーナであり、そして12のそのようなディャーナあ、サマーディであろう。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
・瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。(中略)真の瞑想では、身体さえも忘れ去れられる。あなたは時間と空間を超える。(中略)心が身体意識を超える。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
これを読む限り、ヨーガ・スートラの瞑想とはダーラナ(集中)の延長線上ということになります。
そしてその後にはサマーディが来ます。ヨーガ・スートラではサマーディについて以下のように記しています。
・サマーディ(三昧)とは、ディアーナ(瞑想)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
ヨーガ・スートラではサマーディについて様々に記述されていますが、ディアーナ(瞑想)からサマーディへの飛躍があり過ぎような気がしています。
又、ディアーナ(瞑想)を文字通り実行するには誤解が入り込む余地があり過ぎます。このあたりはグルがいれば回避できる問題なのかもしれませんが、文章を読むだけですと以下のような落とし穴にはまる可能性があるような気が致します。
・ディアーナ(瞑想)でタマスな瞑想に嵌まり込んでそれで終着地点だと思ってしまい、次の段階へ進めなくなる。とは言いましても瞑想をする前に比べたら十分に清々しい境地ですのでこれが無駄とは言いませんが。
・ディアーナ(瞑想)が「無になること」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」が最終地点だと勘違いする可能性がある。
この状態は落とし穴ではあるものの、一旦はその境地に達する必要があると私なんかは思っております。ただ、その境地に留まらずに次のステップに進めばいいのですが、そこが終着地点だと勘違いしてしまうと成長が止まってしまうのかなと思います。瞑想を始めた最初は雑念が多くてダーラナ(集中)から初めて雑念を抑えていくのが普通だと思いますし、であればその方法を進めてゆけば「無」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」に一旦はたどり着き、そこを超えて先に進むはずです。それらの状態は否定する必要はなくて、単なるマイルストン(道標)として使えばいいわけです。ヨーガ・スートラの記述をそのまま真に受けますとそのような落とし穴もありますが、基本はそれでいいのかなと思います。おそらくヨーガ・スートラで重きを置いているのはダーラナ(集中)くらいまでで、その先はわかるようでいてわからない記述になっていますので、この辺りは実践しつつ確かめてゆくものなのでしょう。
・ヨーガ・スートラで述べられている瞑想(ディアーナ、タマスな瞑想)とサマーディ(三昧)の間に飛躍がある。あるいは、ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)に2種類ある。
飛躍があるとはどういうことかと言いますと、上に引用しましたように「ダーラナ(集中)の延長」という記述もあれば、「意識と時間を失う」というタマスな瞑想的な解説もあれば、その一方で、瞑想とは観察だ、という記述や解説も多くあります。
■集中と拡大
解釈によっては、ダーラナ(集中)が「集中」でディアーナ(瞑想)が「拡大」だとする説もあるようです。
凝念(ぎょうねん、ダーラナ)は集中的であるのに対して、静慮(じょうりょ、ディアーナ)は拡大的である。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
■ゾクチェンを踏まえたヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)
ヨーガ・スートラだけではよくわからない部分も、ゾクチェン等の知識を踏まえますと別の視点が現れてきます。
・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)はゾクチェンの「シネーの境地」に相当。いわゆる「タマスな瞑想」に相当。沈み込むような瞑想。想念や雑念の減少。寛ぎ。穏やかさ。インドの言葉で「シャマタ」。「無」の境地。これはダーラナ(集中)からディアーナ(瞑想)に移行した最初の兆候だと解釈できます。多少は観察できていますが、まだ集中が優勢な状態。
・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)の別の側面はいわゆる「ラジャスな瞑想」あるいは「拡大的」な瞑想。ゾクチェンの「テクチュの境地の入り口」だと解釈できます。「一点集中」から「観察」へ移行し始めた段階です。
・ヨーガ・スートラで述べられているサマーディ(三昧)はいくつかありますが、低次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「テクチュの境地」。いわゆる「サットヴァな瞑想」。「観察」の瞑想。集中していない。「対象」と「心」の区別がなくなる。
・ヨーガ・スートラで述べられている高次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「トゥガルの境地」に対応。
こうしてゾクチェンの段階を踏まえますと、ヨーガ・スートラをそのまま解釈しただけでは見えないものが見えてきます。
ヨーガ・スートラでは以下の段階で瞑想が進んでゆきます。
・ダーラナ(集中)
・ディアーナ(瞑想)
・サマーディ(三昧)
■ヨーガ・スートラでのディアーナ(瞑想)
ヨーガ・スートラではディアーナ(瞑想)について様々な解釈がなされていますが、そのうちの幾つかは以下のようなものです。
・心が12秒間集中することができるなら、それはダーラナーであり、十二のそのようなダーラナーはディャーナであり、そして12のそのようなディャーナあ、サマーディであろう。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
・瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。(中略)真の瞑想では、身体さえも忘れ去れられる。あなたは時間と空間を超える。(中略)心が身体意識を超える。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
これを読む限り、ヨーガ・スートラの瞑想とはダーラナ(集中)の延長線上ということになります。
そしてその後にはサマーディが来ます。ヨーガ・スートラではサマーディについて以下のように記しています。
・サマーディ(三昧)とは、ディアーナ(瞑想)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
ヨーガ・スートラではサマーディについて様々に記述されていますが、ディアーナ(瞑想)からサマーディへの飛躍があり過ぎような気がしています。
又、ディアーナ(瞑想)を文字通り実行するには誤解が入り込む余地があり過ぎます。このあたりはグルがいれば回避できる問題なのかもしれませんが、文章を読むだけですと以下のような落とし穴にはまる可能性があるような気が致します。
・ディアーナ(瞑想)でタマスな瞑想に嵌まり込んでそれで終着地点だと思ってしまい、次の段階へ進めなくなる。とは言いましても瞑想をする前に比べたら十分に清々しい境地ですのでこれが無駄とは言いませんが。
・ディアーナ(瞑想)が「無になること」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」が最終地点だと勘違いする可能性がある。
この状態は落とし穴ではあるものの、一旦はその境地に達する必要があると私なんかは思っております。ただ、その境地に留まらずに次のステップに進めばいいのですが、そこが終着地点だと勘違いしてしまうと成長が止まってしまうのかなと思います。瞑想を始めた最初は雑念が多くてダーラナ(集中)から初めて雑念を抑えていくのが普通だと思いますし、であればその方法を進めてゆけば「無」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」に一旦はたどり着き、そこを超えて先に進むはずです。それらの状態は否定する必要はなくて、単なるマイルストン(道標)として使えばいいわけです。ヨーガ・スートラの記述をそのまま真に受けますとそのような落とし穴もありますが、基本はそれでいいのかなと思います。おそらくヨーガ・スートラで重きを置いているのはダーラナ(集中)くらいまでで、その先はわかるようでいてわからない記述になっていますので、この辺りは実践しつつ確かめてゆくものなのでしょう。
・ヨーガ・スートラで述べられている瞑想(ディアーナ、タマスな瞑想)とサマーディ(三昧)の間に飛躍がある。あるいは、ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)に2種類ある。
飛躍があるとはどういうことかと言いますと、上に引用しましたように「ダーラナ(集中)の延長」という記述もあれば、「意識と時間を失う」というタマスな瞑想的な解説もあれば、その一方で、瞑想とは観察だ、という記述や解説も多くあります。
■集中と拡大
解釈によっては、ダーラナ(集中)が「集中」でディアーナ(瞑想)が「拡大」だとする説もあるようです。
凝念(ぎょうねん、ダーラナ)は集中的であるのに対して、静慮(じょうりょ、ディアーナ)は拡大的である。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
■ゾクチェンを踏まえたヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)
ヨーガ・スートラだけではよくわからない部分も、ゾクチェン等の知識を踏まえますと別の視点が現れてきます。
・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)はゾクチェンの「シネーの境地」に相当。いわゆる「タマスな瞑想」に相当。沈み込むような瞑想。想念や雑念の減少。寛ぎ。穏やかさ。インドの言葉で「シャマタ」。「無」の境地。これはダーラナ(集中)からディアーナ(瞑想)に移行した最初の兆候だと解釈できます。多少は観察できていますが、まだ集中が優勢な状態。
・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)の別の側面はいわゆる「ラジャスな瞑想」あるいは「拡大的」な瞑想。ゾクチェンの「テクチュの境地の入り口」だと解釈できます。「一点集中」から「観察」へ移行し始めた段階です。
・ヨーガ・スートラで述べられているサマーディ(三昧)はいくつかありますが、低次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「テクチュの境地」。いわゆる「サットヴァな瞑想」。「観察」の瞑想。集中していない。「対象」と「心」の区別がなくなる。
・ヨーガ・スートラで述べられている高次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「トゥガルの境地」に対応。
こうしてゾクチェンの段階を踏まえますと、ヨーガ・スートラをそのまま解釈しただけでは見えないものが見えてきます。
パワーが上がればポジティブになって雑念が減る
最近は瞑想手法の「集中」だとか「観察」だとかの話が多くなって、基本のところをあまり言及していない気がしましたのでちょっと言及します。
「集中」とか「観察」とかいう「感覚」「行動」を元に分類するのは心理学的とでも言いましょうか。瞑想やヨーガにそういう面はあります。特に仏教は心理学的に内的感覚を分析している気が致しますし、ヨーガでも内的な観察を重視していますから「集中」とか「観察」とかいうお話が出てきます。
しかし、それと同じくらい重要な視点として「パワー」のことがあります。
男性的に言えば「パワー」ですし、女性的に言えば「癒し」だったり、中性的に言えば「エネルギー」とか言ったりしますが、同じことです。
パワー(癒しの力、エネルギー)が高まればポジティブになって雑念が減って「集中」も「観察」もできるようになります。
パワーが高まらずにやっている集中と観察ですと高い瞑想状態に入ることは難しいかと思います。
パワーが高まらなくても行える瞑想として昔から「トランス」とかの手法がありますが、トランスとはオーラを不安定にさせて異常な状態を作り出すことで霊能力やその他の能力、あるいは他の霊に自分を操作しやすくするような特殊な状態を作り出すことであり、トランスは王道とは言えません。むしろ自分がトランスしにくい状態にするのがヨーガや瞑想の王道になります。
パワーが高まるには体の中のエネルギーのルート、ヨーガで言うナディを活性化する必要があります。そして、ナディが活性化することを、ヨーガ的には「浄化が進む」とか言ったりします。ナディが汚れで詰まっているので浄化することによりエネルギーが通りやすくなり、パワーが高まるのです。
そして、俗に言うクンダリーニが活性化してポジティブになり、集中力も観察力も高まります。
ですから、流派によっては集中とか観察とかよりもパワーを上げること、あるいは、癒しの力を増大させること、あるいは、エネルギーを強めること、などを重視しています。どれも見方が違うだけで一緒ですが。
そして、エネルギーが高まれば観察力が高まり、いわゆる観察瞑想のようなことも可能になってゆくわけです。
それぞれの流派にやり方があって、それぞれのやり方に落とし穴やメリットがあると思います。
エネルギーを高める方法ですと最近記述した「タマスの瞑想」「無の瞑想」「眠り込むような瞑想」と言った落とし穴には落ちにくい気も致します。
流派によってはヨガのアサナ(体操)を軽視していますが、瞑想だけ行っているとこの種の落とし穴に落ちやすい気も致します。
瞑想だけで精神修行する場合は特にグルが必要なのかなとも思います。何せ、瞑想は目に見えないものですから。
私の場合、最初はヨガのアサナ(体操)から入って、瞑想も少しはしていましたがクンダリーニが少し活性化した後に瞑想が急にしやすくなって瞑想にのめり込んで行きました。
ある程度のパワーがなければ瞑想がうまくできないような気も致します。
どちらにせよ、最近は瞑想のことばかり書いて来ましたのでパワーに対する言及が不足している気が致しましたので少し書いて見ました。
「集中」とか「観察」とかいう「感覚」「行動」を元に分類するのは心理学的とでも言いましょうか。瞑想やヨーガにそういう面はあります。特に仏教は心理学的に内的感覚を分析している気が致しますし、ヨーガでも内的な観察を重視していますから「集中」とか「観察」とかいうお話が出てきます。
しかし、それと同じくらい重要な視点として「パワー」のことがあります。
男性的に言えば「パワー」ですし、女性的に言えば「癒し」だったり、中性的に言えば「エネルギー」とか言ったりしますが、同じことです。
パワー(癒しの力、エネルギー)が高まればポジティブになって雑念が減って「集中」も「観察」もできるようになります。
パワーが高まらずにやっている集中と観察ですと高い瞑想状態に入ることは難しいかと思います。
パワーが高まらなくても行える瞑想として昔から「トランス」とかの手法がありますが、トランスとはオーラを不安定にさせて異常な状態を作り出すことで霊能力やその他の能力、あるいは他の霊に自分を操作しやすくするような特殊な状態を作り出すことであり、トランスは王道とは言えません。むしろ自分がトランスしにくい状態にするのがヨーガや瞑想の王道になります。
パワーが高まるには体の中のエネルギーのルート、ヨーガで言うナディを活性化する必要があります。そして、ナディが活性化することを、ヨーガ的には「浄化が進む」とか言ったりします。ナディが汚れで詰まっているので浄化することによりエネルギーが通りやすくなり、パワーが高まるのです。
そして、俗に言うクンダリーニが活性化してポジティブになり、集中力も観察力も高まります。
ですから、流派によっては集中とか観察とかよりもパワーを上げること、あるいは、癒しの力を増大させること、あるいは、エネルギーを強めること、などを重視しています。どれも見方が違うだけで一緒ですが。
そして、エネルギーが高まれば観察力が高まり、いわゆる観察瞑想のようなことも可能になってゆくわけです。
それぞれの流派にやり方があって、それぞれのやり方に落とし穴やメリットがあると思います。
エネルギーを高める方法ですと最近記述した「タマスの瞑想」「無の瞑想」「眠り込むような瞑想」と言った落とし穴には落ちにくい気も致します。
流派によってはヨガのアサナ(体操)を軽視していますが、瞑想だけ行っているとこの種の落とし穴に落ちやすい気も致します。
瞑想だけで精神修行する場合は特にグルが必要なのかなとも思います。何せ、瞑想は目に見えないものですから。
私の場合、最初はヨガのアサナ(体操)から入って、瞑想も少しはしていましたがクンダリーニが少し活性化した後に瞑想が急にしやすくなって瞑想にのめり込んで行きました。
ある程度のパワーがなければ瞑想がうまくできないような気も致します。
どちらにせよ、最近は瞑想のことばかり書いて来ましたのでパワーに対する言及が不足している気が致しましたので少し書いて見ました。
クンダリーニ経験が起こらない人
先日、クンダリーニはシンボル(象徴)だという記事を書きましたが、それを踏まえますと、いわゆるクンダリーニ経験が起こらない人もいることがわかります。
クンダリーニ経験とはもともとエネルギーが低かった人がエネルギー上昇する経験ですので、生まれながらにエネルギーが高い人、あるいは、子供の頃に無意識のうちにエネルギーが高まった人とかはもはやいわゆるクンダリーニ経験とは無縁かもしれないわけです。
もしかしたら昔のインドは同じくらいのスピリチュアルなレベルの人たちが在住していた関係で「経験」も似たり寄ったりだったのかもしれませんが、今の世の中、特に日本には生まれながらにかなりのスピリチュアルなレベルで生まれて来た人たちが大勢いるような気も致しますし。
私の場合、おそらく前世までは上記の理由でずっとクンダリーニ経験とは無縁だったような気が致します。私のグループソウル(類魂)を探って見ても、基本的にはエネルギー活性化した状態で生まれて来ているように思います。来世や並行世界を探ってみると子供の頃にクンダリーニ経験していたりします。
私の今世の場合、前にも少し書きましたが今世の目的がカルマの解消で一旦どん底に落ちないとカルマの経験ができない・・・と言いますかどん底に落ちることがカルマの発芽でもあったわけで、カルマの解消の目的およびカルマの結果としてどん底に落ちたわけですけれども、その過程で、一旦はエネルギーのルート、ヨーガで言うところのナディが詰まってエネルギーが通わない状態にして低いエネルギーの状態に自らを追い込んだと言いますかカルマの発芽によりその状態に導かれたわけです。
その後、カルマの解消を40年ほど行って、その後、カルマはもう十分に経験したので満足して、カルマ的生活から抜けるためにヨーガ等を始めて、そしてしばらくしてクンダリーニ的経験をしたわけですけれども、それはやはり、もともとエネルギーのルート(ナディ)が詰まってエネルギーが枯渇していたからこそルートが開いてエネルギーが高まる際にクンダリーニの経験があったのだと思うのです。
クンダリーニの経験とはカタルシスのようなもので、今まで抑圧されていたものが吹き出して活性化する経験ですから、もともと抑圧されていなかったりもともとエネルギーが高まった状態でしたらクンダリーニ経験は起こらないのだと思っています。もしかしたら更に上位のクンダリーニがあるのかもしれないですが、それは更に上のレベルかなとも思います。
人によってクンダリーニ経験が異なるのも、エネルギーのルート(ナディ)がかなり詰まっていたり一部詰まっていたり状態が違うでしょうし、ルートが通り出してエネルギーが高まるにしても一部だけ高まる場合とかあるでしょうし、であればクンダリーニ経験があったりなかったり経験が独特だったりするのも理解できます。
と、いうことで、スピリチュアルなレベルを判断するにも、クンダリーニのような「経験」は一つの「しるし」にはなりますが、それだけで判断はできないのだと思います。
基本は、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーがどれだけ高まっていてどれだけ瞑想の「集中」「観察」ができているのか、といったところが判断材料になるのかなと思います。
ヨーガをやっている人の中には最初からエネルギーが高まっていてクンダリーニ活性化後のような状態のように見受けられるのに「私はまだクンダリーニ経験がない」と思っている人がいらっしゃいますが、必ずしもクンダリーニ経験があるわけではない、と私なんかは思います。
一方で、クンダリーニ経験なんてなくても元々エネルギーが高まっていてスピリチュアルな霊視や霊聴ができる人もいらっしゃるような気が致します。
ですから、クンダリーニ経験があるのは素晴らしいことですが、私自身の経験から思うにも、クンダリーニ経験があったからと言って完全にエネルギーが高まったわけではなくて、書籍なんかを読むと多くの場合はクンダリーニの一部が動き出しただけだと言われていますし、私なんかの場合もそうでしたし、クンダリーニどうこうよりももっと高いレベルが存在するのだと思っています。クンダリーニ後の完全にエネルギーが高まった状態こそが目的地であるとすれば、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーが高まった状態こそが注目されるべきでありますし。
クンダリーニ経験とはもともとエネルギーが低かった人がエネルギー上昇する経験ですので、生まれながらにエネルギーが高い人、あるいは、子供の頃に無意識のうちにエネルギーが高まった人とかはもはやいわゆるクンダリーニ経験とは無縁かもしれないわけです。
もしかしたら昔のインドは同じくらいのスピリチュアルなレベルの人たちが在住していた関係で「経験」も似たり寄ったりだったのかもしれませんが、今の世の中、特に日本には生まれながらにかなりのスピリチュアルなレベルで生まれて来た人たちが大勢いるような気も致しますし。
私の場合、おそらく前世までは上記の理由でずっとクンダリーニ経験とは無縁だったような気が致します。私のグループソウル(類魂)を探って見ても、基本的にはエネルギー活性化した状態で生まれて来ているように思います。来世や並行世界を探ってみると子供の頃にクンダリーニ経験していたりします。
私の今世の場合、前にも少し書きましたが今世の目的がカルマの解消で一旦どん底に落ちないとカルマの経験ができない・・・と言いますかどん底に落ちることがカルマの発芽でもあったわけで、カルマの解消の目的およびカルマの結果としてどん底に落ちたわけですけれども、その過程で、一旦はエネルギーのルート、ヨーガで言うところのナディが詰まってエネルギーが通わない状態にして低いエネルギーの状態に自らを追い込んだと言いますかカルマの発芽によりその状態に導かれたわけです。
その後、カルマの解消を40年ほど行って、その後、カルマはもう十分に経験したので満足して、カルマ的生活から抜けるためにヨーガ等を始めて、そしてしばらくしてクンダリーニ的経験をしたわけですけれども、それはやはり、もともとエネルギーのルート(ナディ)が詰まってエネルギーが枯渇していたからこそルートが開いてエネルギーが高まる際にクンダリーニの経験があったのだと思うのです。
クンダリーニの経験とはカタルシスのようなもので、今まで抑圧されていたものが吹き出して活性化する経験ですから、もともと抑圧されていなかったりもともとエネルギーが高まった状態でしたらクンダリーニ経験は起こらないのだと思っています。もしかしたら更に上位のクンダリーニがあるのかもしれないですが、それは更に上のレベルかなとも思います。
人によってクンダリーニ経験が異なるのも、エネルギーのルート(ナディ)がかなり詰まっていたり一部詰まっていたり状態が違うでしょうし、ルートが通り出してエネルギーが高まるにしても一部だけ高まる場合とかあるでしょうし、であればクンダリーニ経験があったりなかったり経験が独特だったりするのも理解できます。
と、いうことで、スピリチュアルなレベルを判断するにも、クンダリーニのような「経験」は一つの「しるし」にはなりますが、それだけで判断はできないのだと思います。
基本は、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーがどれだけ高まっていてどれだけ瞑想の「集中」「観察」ができているのか、といったところが判断材料になるのかなと思います。
ヨーガをやっている人の中には最初からエネルギーが高まっていてクンダリーニ活性化後のような状態のように見受けられるのに「私はまだクンダリーニ経験がない」と思っている人がいらっしゃいますが、必ずしもクンダリーニ経験があるわけではない、と私なんかは思います。
一方で、クンダリーニ経験なんてなくても元々エネルギーが高まっていてスピリチュアルな霊視や霊聴ができる人もいらっしゃるような気が致します。
ですから、クンダリーニ経験があるのは素晴らしいことですが、私自身の経験から思うにも、クンダリーニ経験があったからと言って完全にエネルギーが高まったわけではなくて、書籍なんかを読むと多くの場合はクンダリーニの一部が動き出しただけだと言われていますし、私なんかの場合もそうでしたし、クンダリーニどうこうよりももっと高いレベルが存在するのだと思っています。クンダリーニ後の完全にエネルギーが高まった状態こそが目的地であるとすれば、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーが高まった状態こそが注目されるべきでありますし。
古代のオームの唱え方
スピリチュアリストのドリーン・バーチューは第三の目を開くトレーニングとして古代のオームのマントラを勧めています。
(エジプトの)神官は、自分の生徒たちに「オーム」の3つの音節、「アー」「ウー」「ンー」という3つの音節をはっきり注意深く発音するように教えていました(「オーム」は英語では”Aum”と書き、"Ahh" "Uuuu" "Mmm" の3つの音から成る)。古代の調子で唱えてみると、第三の目のあたりで振動が感じられるでしょう。それを心の中で唱えてみてください。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」
同様のことは大白色聖同胞団という団体の文献にも記載されています。
例えば、(チベットのマントラである)オーム・マニ・パードム・オームは、Om-Man-i-Pad-Me-Om と六音節を持っていたと考えられていた。しかし、これは正しくない。Om (オム)は、一音節ではなく、正しく発音すると Aum (アウム) と2音節になり、(中略)ア・ウム、マ・ニ、パ・ドム、フム、ア・ウム、タット、サット、ア・ウムと唱えるのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
これを試してみましたが、早速、眉間および頭の中心部分に反応がありました。
ドリーン・バーチューでは3音節、「ヨガの真義」には2音節という違いこそあれ、単に「オーム」と唱えるよりは区切って唱えた方が効果がありそうです。
ヴェーダの勉強会においてオームの発音について習ったことがありますが、オームはもともと2つに分かれていて、それをサンディ・ルール(連音変化のルール)で繋げて読む、ということでした。ですから現代においては繋げて読むのが正しいのだとは思いますが、古代の読み方の方が効果がありそうな感じが致します。
今までは息を観察する瞑想が中心でしたが、ここ数日チベットのマントラを上記の発音で唱えてみたところ、変化を感じています。ただ、効果がありすぎるのか、ちょっと意識が疲れやすい気も致します。今までにない眠気が出て来ます。
今までマントラ瞑想の効果に疑問が多少なりともあったのですが、このチベットのマントラを古代の唱え方で試したところこのような状態になって来ましたので、マントラ瞑想の効果を見直しているところです。
以前ですとマントラ瞑想は単なる「集中」の対象でしかなかったと思います。しかし、このマントラによる内的な変化は大きいような気が致します。これ、効果がありすぎるかもしれませんので自分でやるのは注意深くしないと危険なような気も致します。本来はグルから伝授されるべきものだ、というのも理解できます。
マントラにはそれぞれ効果があって、正しく唱えないと効果がないとはよく言われていることですが、有名なマントラであっても古代の唱え方と比べると違っている、なんてこともあるのですね。私にはどちらが本当に正しいのかの判断は付きかねますが、古代の唱え方の方が私の体が反応しています。
続き: 古代の唱え方でのチベットのマントラ瞑想による変化
(エジプトの)神官は、自分の生徒たちに「オーム」の3つの音節、「アー」「ウー」「ンー」という3つの音節をはっきり注意深く発音するように教えていました(「オーム」は英語では”Aum”と書き、"Ahh" "Uuuu" "Mmm" の3つの音から成る)。古代の調子で唱えてみると、第三の目のあたりで振動が感じられるでしょう。それを心の中で唱えてみてください。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」
同様のことは大白色聖同胞団という団体の文献にも記載されています。
例えば、(チベットのマントラである)オーム・マニ・パードム・オームは、Om-Man-i-Pad-Me-Om と六音節を持っていたと考えられていた。しかし、これは正しくない。Om (オム)は、一音節ではなく、正しく発音すると Aum (アウム) と2音節になり、(中略)ア・ウム、マ・ニ、パ・ドム、フム、ア・ウム、タット、サット、ア・ウムと唱えるのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
これを試してみましたが、早速、眉間および頭の中心部分に反応がありました。
ドリーン・バーチューでは3音節、「ヨガの真義」には2音節という違いこそあれ、単に「オーム」と唱えるよりは区切って唱えた方が効果がありそうです。
ヴェーダの勉強会においてオームの発音について習ったことがありますが、オームはもともと2つに分かれていて、それをサンディ・ルール(連音変化のルール)で繋げて読む、ということでした。ですから現代においては繋げて読むのが正しいのだとは思いますが、古代の読み方の方が効果がありそうな感じが致します。
今までは息を観察する瞑想が中心でしたが、ここ数日チベットのマントラを上記の発音で唱えてみたところ、変化を感じています。ただ、効果がありすぎるのか、ちょっと意識が疲れやすい気も致します。今までにない眠気が出て来ます。
今までマントラ瞑想の効果に疑問が多少なりともあったのですが、このチベットのマントラを古代の唱え方で試したところこのような状態になって来ましたので、マントラ瞑想の効果を見直しているところです。
以前ですとマントラ瞑想は単なる「集中」の対象でしかなかったと思います。しかし、このマントラによる内的な変化は大きいような気が致します。これ、効果がありすぎるかもしれませんので自分でやるのは注意深くしないと危険なような気も致します。本来はグルから伝授されるべきものだ、というのも理解できます。
マントラにはそれぞれ効果があって、正しく唱えないと効果がないとはよく言われていることですが、有名なマントラであっても古代の唱え方と比べると違っている、なんてこともあるのですね。私にはどちらが本当に正しいのかの判断は付きかねますが、古代の唱え方の方が私の体が反応しています。
続き: 古代の唱え方でのチベットのマントラ瞑想による変化
古代の唱え方でのチベットのマントラ瞑想による変化
先日の続きです。
翌日。マントラを唱えたらすぐに眠気。数回マントラを唱えたところで眠気が消え、その後は眉間の奥、頭の中で何かが生まれたような圧迫感。その後、ポーンと水滴が1つ落ちる音と感覚。音のない静かな水面に水滴が落ちたときのような音と感覚。実際あったのは音と感覚のみで、水滴が落ちたイメージを見たわけではなく、感じた音と感覚を例えるならそのようなものだった、と言うことです。その後、微妙な少しの不快感と軽い吐き気で瞑想を続けられなくなり、その日(早朝)の瞑想は終了。
その後、数日経ちました。その間、何度かチベットのマントラ瞑想を試みていましたが、今までは眉間と頭の中で圧力と、それに伴う不快感がありました。それはドリーン・バーチューの言う以下のようなことかもしれませんし、そうでないかもしれません。
鈍い頭痛のような圧力か、痛みの感覚を感じるはずです。でも、心配しないでください。この感覚は単に、第三の目のまぶたをしばらく使っていなかったため、さびついているからなのです。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」
しかし、本日はその不快感が消え、代わりに、頭の中に「熱」が出て来ました。マントラを唱えると出てくる熱です。
今まではマントラのバイブレーションが不規則な感じがしていましたが、ここに来て安定して来ました。
その翌日。眉間の熱感というか圧力が、朝起きても継続していました。
このマントラを唱え始めた後の変化ですが、ここ数日、以前より少し勘が働きやすくなった気が致します。勘がわかりやすくなったと言いますか。
例えば、街に出て何を食べようかと思って歩いていたら、左の方に感覚が現れるのでその方向に行ってみます。そこに○○○○があるということなので角をそのように曲がり、そして左のビルに感覚を感じて、どうやらここで食べましょう、ということのようなので見てみると思っていたのと違うお店がありました。あれ?ここですか? と思ってよく見てみると、最初に感じた○○○○はグループになっていて、こんなお店もやっているようですのでそこもグループの一店舗でした。ふーむ。そういうことね... インスピレーションって、特に新しい物事に関しては伝えにくいようなので既存のイメージを使って分かりやすく伝えることってよくあるんですよね。まあ、そういうこと自体はよくあったので珍しいことではないのですが、今回、その感覚が分かりやすくなりました。感度が高まったと言いますか。これはこのマントラを試した後の効果です。
良いものとダメなものの感覚が、よりはっきり見えるようになりました。これは以前との比較ですから相対的なものではありますが。
翌日。マントラを唱えたらすぐに眠気。数回マントラを唱えたところで眠気が消え、その後は眉間の奥、頭の中で何かが生まれたような圧迫感。その後、ポーンと水滴が1つ落ちる音と感覚。音のない静かな水面に水滴が落ちたときのような音と感覚。実際あったのは音と感覚のみで、水滴が落ちたイメージを見たわけではなく、感じた音と感覚を例えるならそのようなものだった、と言うことです。その後、微妙な少しの不快感と軽い吐き気で瞑想を続けられなくなり、その日(早朝)の瞑想は終了。
その後、数日経ちました。その間、何度かチベットのマントラ瞑想を試みていましたが、今までは眉間と頭の中で圧力と、それに伴う不快感がありました。それはドリーン・バーチューの言う以下のようなことかもしれませんし、そうでないかもしれません。
鈍い頭痛のような圧力か、痛みの感覚を感じるはずです。でも、心配しないでください。この感覚は単に、第三の目のまぶたをしばらく使っていなかったため、さびついているからなのです。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」
しかし、本日はその不快感が消え、代わりに、頭の中に「熱」が出て来ました。マントラを唱えると出てくる熱です。
今まではマントラのバイブレーションが不規則な感じがしていましたが、ここに来て安定して来ました。
その翌日。眉間の熱感というか圧力が、朝起きても継続していました。
このマントラを唱え始めた後の変化ですが、ここ数日、以前より少し勘が働きやすくなった気が致します。勘がわかりやすくなったと言いますか。
例えば、街に出て何を食べようかと思って歩いていたら、左の方に感覚が現れるのでその方向に行ってみます。そこに○○○○があるということなので角をそのように曲がり、そして左のビルに感覚を感じて、どうやらここで食べましょう、ということのようなので見てみると思っていたのと違うお店がありました。あれ?ここですか? と思ってよく見てみると、最初に感じた○○○○はグループになっていて、こんなお店もやっているようですのでそこもグループの一店舗でした。ふーむ。そういうことね... インスピレーションって、特に新しい物事に関しては伝えにくいようなので既存のイメージを使って分かりやすく伝えることってよくあるんですよね。まあ、そういうこと自体はよくあったので珍しいことではないのですが、今回、その感覚が分かりやすくなりました。感度が高まったと言いますか。これはこのマントラを試した後の効果です。
良いものとダメなものの感覚が、よりはっきり見えるようになりました。これは以前との比較ですから相対的なものではありますが。
チベットの第三の眼の伝説
図書館でチベット関係の書籍を探っていたところ、面白い記述を発見しました。
チベットの伝説によると、昔は全ての男女が第三の眼を使うことができた。その当時は神さまも地球の上を歩き、人間と雑居していた。人間は、神さまの方がよりよくものを見抜くことができるということを忘れ、神さまにとってかわろうと、とんでもないことを考え出し、神さまを殺そうとした。その罰として、人間の第三の眼は閉じられてしまったのだ。「第三の眼(ロブサン・ランパ 著)」
ネットで調べると同書は偽書の疑いが投げかけられており著者にも疑問符がつくようですが、そうであったとしてもこの伝説はおそらく実際のものであるかな、と推測致します。チベット人の知り合いはいませんので確認することはできませんが、機会があれば聞いてみたいものです。
同書には眉間の骨を砕くくらいの穴を開けて特別な薬草を流し込む秘法が描かれており、それにより第三の眼の能力を最大限に引き出す様が描かれていて興味深いですが、本当に骨を砕くくらい穴を開ける事例があったのかどうかはよく分かりません。その結果、オーラを見ることができたり他人の意思を読み取ったりすることができるようになったようですが、そのような能力はチベットの事例でよく見かけますので実際にそのような人はいて、今もいるのだろうとは思いますが、骨を砕く秘法のことはよく分かりません。そういう流派もかつていたのかもしれませんが。
他の書籍で単に薬草を額につけるくらいのお話は読んだことがあります。額につけるだけでも激痛の薬草だと描かれてあったような気が致します。
チベットの伝説によると、昔は全ての男女が第三の眼を使うことができた。その当時は神さまも地球の上を歩き、人間と雑居していた。人間は、神さまの方がよりよくものを見抜くことができるということを忘れ、神さまにとってかわろうと、とんでもないことを考え出し、神さまを殺そうとした。その罰として、人間の第三の眼は閉じられてしまったのだ。「第三の眼(ロブサン・ランパ 著)」
ネットで調べると同書は偽書の疑いが投げかけられており著者にも疑問符がつくようですが、そうであったとしてもこの伝説はおそらく実際のものであるかな、と推測致します。チベット人の知り合いはいませんので確認することはできませんが、機会があれば聞いてみたいものです。
同書には眉間の骨を砕くくらいの穴を開けて特別な薬草を流し込む秘法が描かれており、それにより第三の眼の能力を最大限に引き出す様が描かれていて興味深いですが、本当に骨を砕くくらい穴を開ける事例があったのかどうかはよく分かりません。その結果、オーラを見ることができたり他人の意思を読み取ったりすることができるようになったようですが、そのような能力はチベットの事例でよく見かけますので実際にそのような人はいて、今もいるのだろうとは思いますが、骨を砕く秘法のことはよく分かりません。そういう流派もかつていたのかもしれませんが。
他の書籍で単に薬草を額につけるくらいのお話は読んだことがあります。額につけるだけでも激痛の薬草だと描かれてあったような気が致します。
瞑想とは心穏やかな状態で対象を観察すること
見ようによっては、そのように瞑想を捉えることができそうです。流派によってはそのように言っていたりするようです。
単に物事を論理的に思考することとは違って、まず前提条件として心が穏やかになって心が鏡のように静かな状態になる必要があります。その上で、対象をその心の中にそっと置く(比喩表現)ことで、対象を様々な角度から眺めて深く理解することができるわけです。それが瞑想だ、という流派があるのも納得です。
ここで言う「心が穏やか」とは、ヨーガ・スートラで言うところの「心の作用の死滅」です。定義はいつしか引用していましたが、そのまま読むと「心を停止させて何も考えないようにして、何か意味があるのだろうか?」と思ってしまうかもしれませんが、ここで言っているのは心の「揺らぎ」を止めましょう、と言っているだけですので、より高次の観察能力的なものは死滅できません。
例えば、以下のような説明が神智学ではなされています。
想念の停止はより高い次元で働くための必要な予備行為である。(中略)パタンデヤリはヨーガをチッタ・ヴリティ・ニロドウハ chitta-vriti-nirodha であると定義したが、それはチッタ(精神)のヴリティ(渦)のニロドウハ(制限)という意味である。(中略)ヨーガとはメンタル体内におけるすべての波動と変化を抑制することである。「神智学大要3 メンタル体(アーサー・E. パウエル著)」
ヨーガ・スートラの言う状態を達成できたならば、外部の刺激によって心が揺れ動くことはなくなり、静かな水面のように静かで清々しい心が保たれることになります。
その静かな状態で、より上位の意識が「意図」を持って対象を選び、その対象の観察を行うのが瞑想だと言うわけです。
より高い意識とは神智学で言うところのコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)であり、下位であるメンタル体が静かな状態になるとコーザル体が出てきます。
ヨーガ・スートラのよくある誤解としてコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)を死滅させると思ってしまう方がいらっしゃいますが、そう言うことではないようです。死滅させるのはチッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」であるヴリッティ(Vrtti, 波)です。
チッタ(Citta, 心)のヴリッティ(Vrtti, 波)を死滅(停止)させた状態で対象を静かに観察して深く理解する、と言うのが瞑想だと言うのもこう言うことであれば納得です。
単に物事を論理的に思考することとは違って、まず前提条件として心が穏やかになって心が鏡のように静かな状態になる必要があります。その上で、対象をその心の中にそっと置く(比喩表現)ことで、対象を様々な角度から眺めて深く理解することができるわけです。それが瞑想だ、という流派があるのも納得です。
ここで言う「心が穏やか」とは、ヨーガ・スートラで言うところの「心の作用の死滅」です。定義はいつしか引用していましたが、そのまま読むと「心を停止させて何も考えないようにして、何か意味があるのだろうか?」と思ってしまうかもしれませんが、ここで言っているのは心の「揺らぎ」を止めましょう、と言っているだけですので、より高次の観察能力的なものは死滅できません。
例えば、以下のような説明が神智学ではなされています。
想念の停止はより高い次元で働くための必要な予備行為である。(中略)パタンデヤリはヨーガをチッタ・ヴリティ・ニロドウハ chitta-vriti-nirodha であると定義したが、それはチッタ(精神)のヴリティ(渦)のニロドウハ(制限)という意味である。(中略)ヨーガとはメンタル体内におけるすべての波動と変化を抑制することである。「神智学大要3 メンタル体(アーサー・E. パウエル著)」
ヨーガ・スートラの言う状態を達成できたならば、外部の刺激によって心が揺れ動くことはなくなり、静かな水面のように静かで清々しい心が保たれることになります。
その静かな状態で、より上位の意識が「意図」を持って対象を選び、その対象の観察を行うのが瞑想だと言うわけです。
より高い意識とは神智学で言うところのコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)であり、下位であるメンタル体が静かな状態になるとコーザル体が出てきます。
ヨーガ・スートラのよくある誤解としてコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)を死滅させると思ってしまう方がいらっしゃいますが、そう言うことではないようです。死滅させるのはチッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」であるヴリッティ(Vrtti, 波)です。
チッタ(Citta, 心)のヴリッティ(Vrtti, 波)を死滅(停止)させた状態で対象を静かに観察して深く理解する、と言うのが瞑想だと言うのもこう言うことであれば納得です。
ヨガセンターでの朝瞑想中にハヌマーン神降臨
ヨガでは瞑想中に何かを見聞きしても重要ではない、と言うのが基本にあるにはあるのですが、こんな感じの瞑想体験もしました、と言う記録です。
とある朝、いつものようにヨガセンターで瞑想をしていました。11月30日のことです。
最近はチベットのマントラを古代の唱え方で心の中で繰り返す瞑想を試していますが、それをしていたところ、急に目の前に視界が見えてきて祭壇とその前の席の上で踊っているハヌマーン神が現れました。
インドの踊りは体とか頭をクネクネ動かして、頭も首のところから左右に動かしたりするのですが、このハヌマーン神は人間ではあり得ないくらいのクネクネした動きをしていました。正面と左側にそれぞれとても立派なインド風の祭壇があって、その前でハヌマーン神が踊っていたのです。
インドでは「はい」を答える時に首を左右に振るのですが、それを首の限界を超えて動いている感じです。もののけ姫の「首振りコダマ」の首の動きをもうちょっとゆっくりした感じと言えばわかるでしょうか。
しかも、そのハヌマーン神はそのヨガセンターでいつも歌っている歌を踊りながらアカペラで詠唱しているではありませんか。
それに、何とも言えない、低くて響き渡る、いい声!!! こんな声で呼びかけられたら女はもちろん、男だって男惚れしてしまいそうなくらい透き通っていて低くて爽やかな声で歌っているのです。
頭の動きと体の手足の動きがあり得なくて、しかもヨガセンターの定番曲をアカペラでいい声で詠唱しているのです。動きと歌を見ると、とても和かで自然に笑顔と笑いが出てきそうなくらい楽しげですが、声だけを見るととてもいい声で惚れ惚れとしてしまいます。
神様ってそんな声なのだと言われればそうかなぁ、と思ってしまいます。
絵だと祭壇がうまく書けませんでしたのでなんとなく描いてありますが、実際に見たものはとても立派で、ハヌマーンもかなりの男前でした。
こう言うのって、ヨーガ的には「重要ではないので無視すること」とか言われていたりします。
一方、スピリチュアル的には「そのイメージは守護霊が分かりやすいイメージを使ってメッセージを伝えてきている場合が多いです。」とも言われています。守護霊は姿を自在に変えられますので有名な神様は使いやすいようです。受け取り手が「凄い神様が出てきた」と勘違いしてしまうことも多いようですが、大抵は守護霊が姿を変えている場合が多いようです。守護霊にも上位と下位があって、現れた映像と言葉の波動およびメッセージの内容から判断する必要があるようです。神道で言うところの審神者(さにわ)ですね。
まあ、今回は特にメッセージ的なものもありませんし、どこかの守護霊・スピリットがハヌマーンのような分かりやすい姿を借りたのかなあ... と推測しています。今回、名前を聞きませんでしたからね。名前をちゃんと聞けば答えてくれる場合が多いとも聞きますが、あまりにも楽しい踊りと歌でしたので笑いながら見とれていたら終わってしまいました。
実は、瞑想の後に「あれ? どんな声だったかな?」と心に思ったらその時の声で再度答えてくれたので、やはりハヌマーン神そのものというよりは守護霊・スピリットが答えてくれたのかなあ、と思っていますが、このように推測すると「違う違う」と言う感覚が内に現れてきますので、まだ私はこの正体を突き止めてはいないようです。となればハヌマーンそのものではなく、何か別の存在で、守護霊でもない何者か、と言う可能性も出てきます。まあ、そのうちわかるのでしょうか。どうでしょうかね。ハヌマーン系統の分霊あるいはゆかりのある存在っぽい気もしています。
とある朝、いつものようにヨガセンターで瞑想をしていました。11月30日のことです。
最近はチベットのマントラを古代の唱え方で心の中で繰り返す瞑想を試していますが、それをしていたところ、急に目の前に視界が見えてきて祭壇とその前の席の上で踊っているハヌマーン神が現れました。
インドの踊りは体とか頭をクネクネ動かして、頭も首のところから左右に動かしたりするのですが、このハヌマーン神は人間ではあり得ないくらいのクネクネした動きをしていました。正面と左側にそれぞれとても立派なインド風の祭壇があって、その前でハヌマーン神が踊っていたのです。
インドでは「はい」を答える時に首を左右に振るのですが、それを首の限界を超えて動いている感じです。もののけ姫の「首振りコダマ」の首の動きをもうちょっとゆっくりした感じと言えばわかるでしょうか。
しかも、そのハヌマーン神はそのヨガセンターでいつも歌っている歌を踊りながらアカペラで詠唱しているではありませんか。
それに、何とも言えない、低くて響き渡る、いい声!!! こんな声で呼びかけられたら女はもちろん、男だって男惚れしてしまいそうなくらい透き通っていて低くて爽やかな声で歌っているのです。
頭の動きと体の手足の動きがあり得なくて、しかもヨガセンターの定番曲をアカペラでいい声で詠唱しているのです。動きと歌を見ると、とても和かで自然に笑顔と笑いが出てきそうなくらい楽しげですが、声だけを見るととてもいい声で惚れ惚れとしてしまいます。
神様ってそんな声なのだと言われればそうかなぁ、と思ってしまいます。
絵だと祭壇がうまく書けませんでしたのでなんとなく描いてありますが、実際に見たものはとても立派で、ハヌマーンもかなりの男前でした。
こう言うのって、ヨーガ的には「重要ではないので無視すること」とか言われていたりします。
一方、スピリチュアル的には「そのイメージは守護霊が分かりやすいイメージを使ってメッセージを伝えてきている場合が多いです。」とも言われています。守護霊は姿を自在に変えられますので有名な神様は使いやすいようです。受け取り手が「凄い神様が出てきた」と勘違いしてしまうことも多いようですが、大抵は守護霊が姿を変えている場合が多いようです。守護霊にも上位と下位があって、現れた映像と言葉の波動およびメッセージの内容から判断する必要があるようです。神道で言うところの審神者(さにわ)ですね。
まあ、今回は特にメッセージ的なものもありませんし、どこかの守護霊・スピリットがハヌマーンのような分かりやすい姿を借りたのかなあ... と推測しています。今回、名前を聞きませんでしたからね。名前をちゃんと聞けば答えてくれる場合が多いとも聞きますが、あまりにも楽しい踊りと歌でしたので笑いながら見とれていたら終わってしまいました。
実は、瞑想の後に「あれ? どんな声だったかな?」と心に思ったらその時の声で再度答えてくれたので、やはりハヌマーン神そのものというよりは守護霊・スピリットが答えてくれたのかなあ、と思っていますが、このように推測すると「違う違う」と言う感覚が内に現れてきますので、まだ私はこの正体を突き止めてはいないようです。となればハヌマーンそのものではなく、何か別の存在で、守護霊でもない何者か、と言う可能性も出てきます。まあ、そのうちわかるのでしょうか。どうでしょうかね。ハヌマーン系統の分霊あるいはゆかりのある存在っぽい気もしています。