サマーディが神秘的な不可解なものになっている上に、訳語に禅定や三昧などの当て字がつけられて、更に混乱しているように思います。
例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。
当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より
これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。
前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。
それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。
ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)
・テクチュの境地 → サマーディ
よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。
上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。
そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。
ほんと、ややこしいですね。
ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。
古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。
禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定
・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー