ヴィパッサナー瞑想と思考の停止

2020-02-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近しばらくヴィパッサナー瞑想と思考の停止と体や息の観察について書いてきたわけですけれども、もう少しまとめたいと思います。

瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。

1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
 私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。
 個人的にはこれはサマタ瞑想です。

2.ゾクチェンのシネーの境地
 同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。
 これも個人的にはサマタ瞑想です。

3.ゾクチェンのテクチュの境地
 個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。

その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。

1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
 日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。
 テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。
 サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。

2.ゾクチェンのシネーの境地
 おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。
 テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。
 サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。

3.ゾクチェンのテクチュの境地
 シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。
 テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。
 ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。


このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。

ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」

これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。

このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。

別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。

ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。

ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。

ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。

よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。

ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。

こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。
であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。



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