ヴィパッサナーが客観だとすれば、非ヴィパッサナー、特にタマスなどんよりとした感覚は主観であり、更に言えば没入感を生み出すような気がしてまいりました。
没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。
タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。
タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。
特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。
であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。
タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。
そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。
であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。
人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。
化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。
その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。
であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。
おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。
今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。
勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。
まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。