心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない

2020-02-22 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想を始めたばかりの頃は瞑想の例えで水面のお話を聞いても「そんなものかな」という感じでした。理解はできても一体どうすればそのようになるのか、実態が伴いませんでした。

水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。

まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。

その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。
昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。

昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。

今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。

なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。

ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。

心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。

心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。

昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。

であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。

比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。

よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。

これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。

それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。