意識が静まることで微細な意識が近くを感じるようになりました。今はせいぜい半径50cmというくらいです。
これを通称で「意識の拡大」とでも呼ぶのでしょうか?
以前は、意識の拡大とは言ってもいわゆる心・マインドが拡大するような感じでした。
今は、心・マインドが逆に縮小していて、それよりも微細な感覚が外に広がっている感じです。
これを瞑想の用語で表現すると、心・マインドは内へ集中するのでサマタ瞑想(集中瞑想)をしていることになり、それと同時に、それよりも微細な感覚、おそらくは五感よりも微細な感覚・・・ と言いますか、皮膚の感覚よりも微細な感じる何かが外側に広がるのでいわゆるヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もしていることになるかと思います。
瞑想というとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のどちらかを行う、というような理解が多いように思うわけですけれども、この場合、サマタ瞑想である心・マインドの集中瞑想と微細な感覚による観察であるヴィパッサナー瞑想を同時に行なっていることになるわけです。
サマタ瞑想の心・マインドは五感と同じかそれよりも少しだけ微細な階層だと思われます。
一方、ヴィパッサナー瞑想で外側に微細に広がっている観察する感覚はおそらく五感を超えているものだと思われます。
瞑想で意識の拡大が言われておりますが、心・マインド・五感の階層で広がるのとそれよりも超えた部分で広がるのとではおそらく違いがあるのだと思います。
最近の瞑想では、その区分が割としっかりとしてきたように思います。以前はその区別がもっと曖昧でした。今後は更に明確になるのかもしれません。
ここでいう区分とは、瞑想中にサマタとしての体の近くにおける何か・・・ いわゆるオーラと呼ばれるようなものの定着と、それと同時に、周囲に広がる微細な感覚とが以前は割とごっちゃになっていたのですが、定着する部分と広がる部分とが割と明確になってきた、ということです。
心・マインドがしっかりと定着して体の近くに固定されればされるほど周囲の微細な感覚と言いますか観察する部分が出てくるような気が致します。
ですから、よくある説明で「ヴィパッサナー瞑想は皮膚などの感覚を観察すること」というお話は私にはピンとこないのです。それは五感を使って観察するのであればサマタ瞑想(集中瞑想)だと思いますし、これはその流派における表現だけかもしれませんが、五感がヴィパッサナー瞑想だと勘違いしてしまうと五感が敏感になってしまって、例えばとある流派の人たちの特徴のように「怒りの沸点がとても低くてキレやすい」人を大量生産することにもなりかねません。ですが、基本はサマタ瞑想で五感を抑えて心・マインドを体の近くに定着することを心がけていればそんなことにはならないと思うわけです。
基本はサマタ瞑想で集中をして、やがて自然にヴィパッサナーの観察状態になるのだと今は思います。
であれば、ヴィパッサナーとかをあまり気にせずにサマタ瞑想をしていればいいのかな、と思います。