仏教の「空」はゾクチェンのシネーの境地か?

2020-05-03 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

スピリチュアルや仏教で「空」という言葉は人気がありますけど、この言葉は幅が広すぎていまいち掴み難いところがありましたが、ふとパラパラとゾクチェンの本をめくっていたらその対応が書かれておりましてはっきりしました。

「空」は「集中(サマタ)」している静寂(シネー)の境地に対応するようです。

すべての仏教の伝統において、修習には二つの段階がある。すなわち<静寂な境地(シネー)>(「止 」zhi-gnas)と<直観的洞察(ラントン)>(「観」lhag-mthong)である。(中略)シネーは空に、またラントンは光明に対応する。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

同書はゾクチェンの本ですが、仏教にも造詣が深いように思います。

仏教だと「止」と「観」の対応で語られていますけど、ゾクチェンの3分割の方が明確な気が致します。

(仏教の)顕教において、ラントンは(中略)静寂の境地の修習の後、自動的に生じてくると考えられている。これに対して、密教においては、ラントンは、変化の修行における悟りの一定の段階と考えられている。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

この対応も興味深いです。どちらにせよシネーの境地の後にラントン(テクチュの境地)到達するわけですね。ラントンはチベット語で、サンスクリットでいうとヴィパッサナー(観察)に対応するようです。であれば以下のような対応になると思います。

・仏教の空 → 「サマタ」(集中)。チベット語(ゾクチェン)で「zhi-gnas」。ゾクチェンのシネーの境地。
・仏教の光明 → 「ヴィパッサナー」(観察)。チベット語(ゾクチェン)でラントン(lhag-mthong)。ゾクチェンでのテクチュの境地やトゥガルの境地。覚醒の境地。

完全な対応ではないにせよ、概念的に上記のような対応だということが読み取れます。

仏教の「空」は色々な人が様々に語っていてどうも掴み所がなくて不思議な感じがしていたのですが、ゾクチェンの階梯に合わせると明確になった気が致します。同様に「光明」の意味も明らかになりましたね。

日本語で「光明」というとまるで悟ったかのような印象を受けてしまいますが、光明がヴィパッサナーだとすれば光明そのものが悟りではないですね。とは言いましても悟りに近づくための重要な一歩ではあるわけですが、日本語で「光明を得た」というとそのまま悟ったかのような印象を受けてしまいますけど、光明がヴィパッサナー(観察)に対応するのだとすればまだ続きがあるということですね。