最初は回転する力が要りますが回り始めてしまえば軽い力で回り続けます。
あるいは、長いゴム紐あるいは縄跳びの紐をピンと引っ張るときのようなもの、とも言えるかもしれません。長いゴム紐を軽く引っ張ってもゆらゆら揺れているだけですがある程度のテンションをかけると細かく揺れ動くようになります。最初は引っ張る力が要りますが、ある程度のテンションがかかってしまった後は維持するのにさほどの力を要しません。
駒が回る時に最初に力がいるのと同様に、瞑想においても、最初は「集中(サマタ)」という力が必要です。
瞑想が進むにつれて努力が次第に不要になってゆき、やがては「観察(ヴィパッサナー)」の状態に辿り着きますが、それは長い道のりであったりもします。これは人によります。人によってはなかなか辿り着かないでしょうし、あっという間に辿り着く、あるいは、生まれながらにその状態を知っている人もいらっしゃいます。
瞑想初心者の場合は集中(サマタ)から始めるわけですが、人によっては、誰が教え始めたのかは知りませんが「観察だけしていればいい」という教えに固執していたりします。そのような人は「雑念は放っておけば次第に消える」と主張するわけですが、それが真実なのは中級者以上の、特に観察(ヴィパッサナー)の領域で迷走をしている人たちにとっての身であり、初心者がそのようにしたら雑念が増大して精神に混乱を来すようになります。
ゴム紐を力を入れずに引っ張ってもふにゃふにゃのままですし、力を入れずに駒を回そうとしてもすぐに止まってしまいます。瞑想も同じようなものです。最初は集中(サマタ)という力が必要です。
バガバッドギータというインドの聖典においてもクリシュナが瞑想の手ほどきの中で「外にあるものを外に保つ」というようなことを言っていますけど、いわゆる「集中(サマタ)」とこのことは、割と似ています。雑念が入ってきたら、それは自分ではないのだから集中することで外側に保って内に入れないようにするわけです。説明として外と内という言葉を使っていますが、それがわかりにくければ、単に雑念を集中によって止める、という理解でいいと思います。
どちらにせよ、瞑想は「雑念を受け流すこと」というお話が誤解されていて、これは確かに真実ですが、雑念は力を入れて消すのが基本で、受け流すのはその先のお話になるわけです。