サマーディという言葉の2つの意味
サマーディが神秘的な不可解なものになっている上に、訳語に禅定や三昧などの当て字がつけられて、更に混乱しているように思います。
例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。
当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より
これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。
前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。
それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。
ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)
・テクチュの境地 → サマーディ
よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。
上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。
そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。
ほんと、ややこしいですね。
ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。
古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。
禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定
・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー
例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。
当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より
これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。
前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。
それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。
ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)
・テクチュの境地 → サマーディ
よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。
上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。
そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。
ほんと、ややこしいですね。
ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。
古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。
禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。
・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定
・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー
ヴィパッサナー瞑想で体や息を観察すること
ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、 世間一般でヴィパッサナー瞑想というと体や息を観察することだと言われているように思います。
ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。
これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。
ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。
目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。
ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。
それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。
実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。
私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。
個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。
ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。
例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。
一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。
ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。
ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。
ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。
これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。
ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。
目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。
ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。
それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。
実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。
私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。
個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。
ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。
例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。
一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。
ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。
ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。
テレパシーが後頭部上部で感じる
昔は頭全体と言いますか体全体で感じたように思いますが、最近は、頭を斜め後ろ方向に半分にした部分あるいは後頭部上部の小さなところでテレパシー的なものを感じるようになりました。まあ、テレパシーと言いましても誰か知り合いが私の噂話をしたり頭に思い浮かべているという程度のお話ではありますが、そういう考えは割と他人に筒抜けだと思います(苦笑)
以前にもテレパシーに2種類あるようなことを書きましたけど、今回のは思念波が伝わる場合です。
オーラが接触して情報が伝わる場合はもっと「混ざる」感覚があって、相手もわかると思います。
とは言いましても、仮説としては、これはどの程度微細なオーラなのかの違いだけで同じことかもしれないな... とも薄々思うようになってきていますが。
その仮説としましては、肉体の密度に近い粗めのオーラが近接して情報が伝わる場合がまずあって、それとは別に、微細な波動が伝わるのが思念波によるテレパシーなのかなと。オーラ接触の場合はかなり濃厚な感じですけど、テレパシーの場合は微細な波動を感じるという感じです。
まあ、そんなに違いはないのかも... とか最近は思うようになってきています。
思念波にしても、それは指向性があってこちらに向かってきているわけですし、その波動がオーラとどう違うのかと言いますと、密度や質に違いこそあれ、性質としてはそんなに変わらないのかな、とも思い始めています。
これは仮説ですので、これからもっと見極めてゆくところですけど。
以前にもテレパシーに2種類あるようなことを書きましたけど、今回のは思念波が伝わる場合です。
オーラが接触して情報が伝わる場合はもっと「混ざる」感覚があって、相手もわかると思います。
とは言いましても、仮説としては、これはどの程度微細なオーラなのかの違いだけで同じことかもしれないな... とも薄々思うようになってきていますが。
その仮説としましては、肉体の密度に近い粗めのオーラが近接して情報が伝わる場合がまずあって、それとは別に、微細な波動が伝わるのが思念波によるテレパシーなのかなと。オーラ接触の場合はかなり濃厚な感じですけど、テレパシーの場合は微細な波動を感じるという感じです。
まあ、そんなに違いはないのかも... とか最近は思うようになってきています。
思念波にしても、それは指向性があってこちらに向かってきているわけですし、その波動がオーラとどう違うのかと言いますと、密度や質に違いこそあれ、性質としてはそんなに変わらないのかな、とも思い始めています。
これは仮説ですので、これからもっと見極めてゆくところですけど。
精神修行で山にこもるのかこもらないのか?
山にこもって修行する時代なんて終わったとよく耳にしますけど、終わったのはそう言っている人個人の都合や趣味であって、山にこもった方が良い方は沢山いらっしゃいます。
今は自由の時代ですから山から出ろなんて一律な話ではなくて、山にこもりたければこもればいいし、出たければ出ればいいんです。
思いっきり咀嚼して言えば、そんなのは趣味の問題です。好きにすればいいのです。
ドヤ顔で山から出る時代だとか言っている人を見ますと、ちょっと見解の狭さを感じます。見解の狭さはスピリチュアル初心者(本人はそうは思っていない)によくあることですけど。
山からこもった方がいいかどうかは私にしてみれば基準があって、ゾクチェンで言うところのシネーの境地のためにはこもった方が良くて、ヴィパッサナー状態であるところのテクチュの境地に移行したら街で趣味のように暮せばいいと思うわけです。
ですが、それすらも趣味みたいなものですので、どうでもいい... とまでは言いませんけど、好きにすればいいのです。
シネーの境地というのは雑念がなくなったり抑えられている状態ですので、その境地のためには街にいるのではなくて静かな山奥などに行くか、街にいるにしても仕事を辞めて静かな数年間を過ごす必要があるかもしれません。もはや、この時点で趣味の感覚が満載ですよね。
そして、テクチュの境地と言うのは静かな状態のまま活動できるヴィパッサナー状態のことですので、そうなれば山に籠っている必要はなくて街で変化を楽しめば良いわけです。そうなっても山に篭っても良いですし、どちらにしても、趣味みたいなものです。
テクチュの境地に至る前のシネーの境地以前に街にいると他人に翻弄されて他人の影響を受けやすいため山に篭った方が良いと個人的には思いますが、それでも街で精神訓練することもできますし、そんなのは、好きにすればいいのです。
私には私なりの見解があって、この時はこうすればいい、と言う理解はありますが、それが全員に適用できるとは限りませんし。
テクチュの境地で街中で暮らして生活を楽しんでいる方もたくさんおられますので、街で暮らすのも悪くはないと思います。
まあ、どちらにしてもこの世の中は趣味で出来ていますよね。山に籠ると言う趣味もたまには面白いのかなとは思います。
私の過去の記憶とかを引っ張り出してみますと特別に今の時代が精神的に進んでいるかと言うとそうでもない... と言いますか、そもそも時間なんてものは幻で、今の時代に生きている魂が死んでから少し過去の時代に転生ということもありますから、あんまり過去とか未来とか関係ないと思います。
どの時代にも進んだ文化や精神があって、それぞれの魂が自分の趣味で住むところを選んでいるという、ただそれだけのお話です。
今は自由の時代ですから山から出ろなんて一律な話ではなくて、山にこもりたければこもればいいし、出たければ出ればいいんです。
思いっきり咀嚼して言えば、そんなのは趣味の問題です。好きにすればいいのです。
ドヤ顔で山から出る時代だとか言っている人を見ますと、ちょっと見解の狭さを感じます。見解の狭さはスピリチュアル初心者(本人はそうは思っていない)によくあることですけど。
山からこもった方がいいかどうかは私にしてみれば基準があって、ゾクチェンで言うところのシネーの境地のためにはこもった方が良くて、ヴィパッサナー状態であるところのテクチュの境地に移行したら街で趣味のように暮せばいいと思うわけです。
ですが、それすらも趣味みたいなものですので、どうでもいい... とまでは言いませんけど、好きにすればいいのです。
シネーの境地というのは雑念がなくなったり抑えられている状態ですので、その境地のためには街にいるのではなくて静かな山奥などに行くか、街にいるにしても仕事を辞めて静かな数年間を過ごす必要があるかもしれません。もはや、この時点で趣味の感覚が満載ですよね。
そして、テクチュの境地と言うのは静かな状態のまま活動できるヴィパッサナー状態のことですので、そうなれば山に籠っている必要はなくて街で変化を楽しめば良いわけです。そうなっても山に篭っても良いですし、どちらにしても、趣味みたいなものです。
テクチュの境地に至る前のシネーの境地以前に街にいると他人に翻弄されて他人の影響を受けやすいため山に篭った方が良いと個人的には思いますが、それでも街で精神訓練することもできますし、そんなのは、好きにすればいいのです。
私には私なりの見解があって、この時はこうすればいい、と言う理解はありますが、それが全員に適用できるとは限りませんし。
テクチュの境地で街中で暮らして生活を楽しんでいる方もたくさんおられますので、街で暮らすのも悪くはないと思います。
まあ、どちらにしてもこの世の中は趣味で出来ていますよね。山に籠ると言う趣味もたまには面白いのかなとは思います。
私の過去の記憶とかを引っ張り出してみますと特別に今の時代が精神的に進んでいるかと言うとそうでもない... と言いますか、そもそも時間なんてものは幻で、今の時代に生きている魂が死んでから少し過去の時代に転生ということもありますから、あんまり過去とか未来とか関係ないと思います。
どの時代にも進んだ文化や精神があって、それぞれの魂が自分の趣味で住むところを選んでいるという、ただそれだけのお話です。
視界が益々ゲームに似てくる日々
最近のゲームは動きがスムーズですが、日常生活の視界がスローモーションで見えてくるにつれて段々と現実がゲームっぽく感じられるようになってきました。
例えば、先日に視界がスローモーションで見え始めた頃から体が上下するのに合わせて視界が上下に振動することを細かく認識するようになったわけですけれども、3Dで主人公の主観の視点のゲームによっては歩くタイミングに合わせて視界が上下運動するものがあって、その上下運動が現実に認識される視界とよく似ていてまるでゲームの主人公になっているかのような感覚です。
定期的にどこかで誰かが言っていることではありますけど、この世の中は巨大なゲームだ、みたいなお話ですが、そんな感じが最近してきています。
昔はここまでスローモーションで視界を認識できていなくて1秒のうち3コマくらいの認識でしたので上下運動を感じることはあまりなかったのですが、最近は上下運動を細かく把握していますのでゲームの世界に似てきた、というわけです。
どこかに私をコントロールしているプレイヤーがいてもおかしくはありません(苦笑)
みんな割とシリアスにこの現実を生きているわけですけれども、シリアスに演じるというゲームをみんなプレイしているのだなあ、と思っています。でも、私はちょっと飽きてきちゃいましたけど。 飽きてきたというと語弊があります。どんよりと飽きたというよりは、興味を失ってきたと言うのかなんというか。
ゲームであっても攻略したり裏技見つけたりするのが面白くもありますけどね。
例えば、先日に視界がスローモーションで見え始めた頃から体が上下するのに合わせて視界が上下に振動することを細かく認識するようになったわけですけれども、3Dで主人公の主観の視点のゲームによっては歩くタイミングに合わせて視界が上下運動するものがあって、その上下運動が現実に認識される視界とよく似ていてまるでゲームの主人公になっているかのような感覚です。
定期的にどこかで誰かが言っていることではありますけど、この世の中は巨大なゲームだ、みたいなお話ですが、そんな感じが最近してきています。
昔はここまでスローモーションで視界を認識できていなくて1秒のうち3コマくらいの認識でしたので上下運動を感じることはあまりなかったのですが、最近は上下運動を細かく把握していますのでゲームの世界に似てきた、というわけです。
どこかに私をコントロールしているプレイヤーがいてもおかしくはありません(苦笑)
みんな割とシリアスにこの現実を生きているわけですけれども、シリアスに演じるというゲームをみんなプレイしているのだなあ、と思っています。でも、私はちょっと飽きてきちゃいましたけど。 飽きてきたというと語弊があります。どんよりと飽きたというよりは、興味を失ってきたと言うのかなんというか。
ゲームであっても攻略したり裏技見つけたりするのが面白くもありますけどね。
ヨーガとサマーディとヴェーダンタ
ヨーガとヴェーダンタは似ているようで微妙に異なる思想体系を形成しているようです。
ヨーガと言ってもインドに諸派があり、一般的にヨーガというと日本では体操やストレッチのことですがインドではヨーガスートラという古典に基づいた八支則(アシュタンガ・ヨーガ)のことを指し、ヴェーダンタはヴェーダの聖典の最後の部分にあるウパニシャッド(奥義)に基づく考えです。
インドでヨーガスートラとヴェーダンタは微妙に仲が悪い(苦笑)ように思います。
細かなことでいがみ合っているようですけど、私に言わせてみれば大した違いではないのです。まあ、遠くの喧騒という感じですが、最近ではインドで学んだ人がその対立や思想の違いを日本に持ち込んでいて、インドという対岸の火事をわざわざ日本に持ち込んでいる感もちょっとあったりします。
ヨーガの基本的な考え方は何度か引用しましたように「心の作用を死滅」させることで、その結果としてサマーディという心の平常状態および至福が達成されると言います。
一方、ヴェーダンタの諸派の基本的な考えは、悟るために心を死滅させる必要はなくてただ真実に関する知識を正確に知れば良い、と言います。
最近何度か書いていますように、サマーディがゾクチェンでいうところのシネーの境地なのかテクチュの境地なのかで見解が違うのですが、一般的にはシネーの境地であると理解されています。それゆえに、シネーの境地は最終目標ではないというヴェーダンタ諸派の主張は確かにその通りだと思いますし、実際のところ、ヨーガの人たちもシネーの境地に相当するサマーディが最終目的地だとは思っていないのではないかと思います。
現実には、心を死滅させるかどうかでヨーガとヴェーダンタで言い争いになったりしているそうです。ヨーガをしている人はヴェーダンタ派の心の乱れを指摘したり、逆に、ヴェーダンタ派はヨーガ派に対して心の死滅は不要であると説いたりします。
ですがまあ・・・・、私に言わせてみると、そんなのはどうでも良いです。シネーの境地を抜けてテクチュの境地に到ればどちらも同じであることを悟るわけですから、そんな言い争いしている暇があれば瞑想でもしたら良いのです(苦笑)
どちらにせよ心を制御できるようになるべきという点では両者は同意しているようですし、であれば、ヴェーダンタ派にとっても実際はヨーガは有用なものとして認識されているようです。ヴェーダンタ派の主張を間にうけてヨーガの訓練を辞めてしまう人もいるようですが、それはちょっと気の毒な人です。
ヴェーダンタ派にしてみればそのような境地に「何らの効果」も認めないこともあるようですが、そんな極端な話を日本に持ち込まないでいただきたいものです。そんなお話はインドでやってください(苦笑)
ですから、インドのお話を読むときは以下のように差っ引いて聞いたり読んだりすると良いと思います。
・ヨーガ派(ヨーガスートラ)のお話を聞くときは、サマーディで悟れるというお話を話半分に聞いておく。
・ヴェーダンタ派(ウパニシャッド)のお話を聞くときは、ヨーガの心の死滅は不要であるというお話を話半分に聞いておく。ヨーガスートラ不要論を話半分に聞いておく。アサナや瞑想が不要というお話を話半分に聞いておく。
このくらいがちょうど良いと思います。
そのくらい差っ引けばヴェーダンタの言う以下のお話も「ふむふむ」と聞くことができます。
ヨーガは目的ではなくて手段である。観念の停止は手段であるに過ぎない。ヴェーダーンタは、サマーディを得ることは悟りを得るために絶対に必要な条件ではない、といっている。これはしばしば、他者からは理解されない。(中略)彼らはいう、絶対者の自覚は、必ずしも人がサマーディに入っていることを意味するのではない。なぜなら、サマーディは、もしそれが心の状態であるなら、われわれは心を超えなければならないのであるし、また、単なる心の状態は、最高の状態ではないのだ。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」
これはヨーガやサマーディに対する誤解を差っ引いて読めば確かにそうだと思わせるお話ですが、これを読んでヨーガは不要と思ってしまうのであれば残念なお話です。私にしてみれば、ヴェーダンタも目的ではなく手段ですけどね。どちらも変わらないです。視点が違うだけのことです。
主義主張が大事だと思っている人は違いに拘りますけど、どちらも手段ですから便利に使えば良いだけのことです。相手を手段だと言って自分の主張は違う、自分の主張は手段ではないと言っている時点でそのお話はどうなのかなあ? と思ってしまいます。
ヴェーダンタはアドヴァイタという非二元論的見解に基づいていますが、それによると以下のようなところが重要のようです。
非二元論的見解からは、われわれは自己の実在だけを悟らなければならない。他の一切のものは、単なる現れとして理解されなければならないであろう。(中略)ブラフマンのみが実在、他の一切はまぼろしと悟れ。(中略)知識の人は、サマーディにいようと、目覚めて世間で活動していようと、彼の悟りの性質には全く何の違いもないのであるる。それがが、非二元論者の主張である。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」
これは視点の違いであって、確かにこのようなお話も理解できます。流派によって見解が違いますので、それをわざわざ指摘するのは野暮というものですので「ふむふむ」と有り難く聞いて自分の中である程度を差っ引いてお話を聞けば良いのかなと思います。
こういうのって、最初に言っていた人は正しく理解していますけど時代が過ぎて伝言ゲームになるにつれて真実から離れてゆきますのである程度は差っ引いて聞けばいいのだと思います。
私が見たところ、ヨーガスートラも似たようなことを言っていますし、最近の考察ではサマーディとヴィパッサナーは同じと言う理解にいたりしましたし、結局は目指すところはゾクチェンで言うところのシネーの境地やテクチュの境地なわけですから、どこから見たところで目的地は同じだと思います。
そもそもサマーディとは何かというお話の共通理解がないのにサマーディという言葉を聞いただけでヴェーダンタ的なお話でサマーディを否定してくる人がたまにいて、それはちょっとどうかなあと思うこともあり、日本では馴染みの少ないヴェーダンタ派でのインドの混乱を日本に持ち込んで欲しくはないなあ... と思ってちょっと書いてみました。
ヴェーダンタ派が心の死滅が不要と言っているのは最終的なテクチュの境地を目指すなら心の死滅は通過点に過ぎない、という意味なのだと咀嚼して聞くことにしています。その基本的な理解ができてしまえばヨーガの人もヴェーダンタのいうことが理解できるでしょうし、特に争う点もない気が致します。
まあ、最近もちょっと書きましたけど、主義主張の違いなんてのは所詮は趣味の問題ですから、自分の趣味にあった主義主張ややり方を選べばいいのです。成長するのも趣味ですし成長しないのも趣味です。ですから、こんな流派の違いなんて趣味の違いかなと思います。まあ、そのくらい気軽に捉えています。
ヨーガと言ってもインドに諸派があり、一般的にヨーガというと日本では体操やストレッチのことですがインドではヨーガスートラという古典に基づいた八支則(アシュタンガ・ヨーガ)のことを指し、ヴェーダンタはヴェーダの聖典の最後の部分にあるウパニシャッド(奥義)に基づく考えです。
インドでヨーガスートラとヴェーダンタは微妙に仲が悪い(苦笑)ように思います。
細かなことでいがみ合っているようですけど、私に言わせてみれば大した違いではないのです。まあ、遠くの喧騒という感じですが、最近ではインドで学んだ人がその対立や思想の違いを日本に持ち込んでいて、インドという対岸の火事をわざわざ日本に持ち込んでいる感もちょっとあったりします。
ヨーガの基本的な考え方は何度か引用しましたように「心の作用を死滅」させることで、その結果としてサマーディという心の平常状態および至福が達成されると言います。
一方、ヴェーダンタの諸派の基本的な考えは、悟るために心を死滅させる必要はなくてただ真実に関する知識を正確に知れば良い、と言います。
最近何度か書いていますように、サマーディがゾクチェンでいうところのシネーの境地なのかテクチュの境地なのかで見解が違うのですが、一般的にはシネーの境地であると理解されています。それゆえに、シネーの境地は最終目標ではないというヴェーダンタ諸派の主張は確かにその通りだと思いますし、実際のところ、ヨーガの人たちもシネーの境地に相当するサマーディが最終目的地だとは思っていないのではないかと思います。
現実には、心を死滅させるかどうかでヨーガとヴェーダンタで言い争いになったりしているそうです。ヨーガをしている人はヴェーダンタ派の心の乱れを指摘したり、逆に、ヴェーダンタ派はヨーガ派に対して心の死滅は不要であると説いたりします。
ですがまあ・・・・、私に言わせてみると、そんなのはどうでも良いです。シネーの境地を抜けてテクチュの境地に到ればどちらも同じであることを悟るわけですから、そんな言い争いしている暇があれば瞑想でもしたら良いのです(苦笑)
どちらにせよ心を制御できるようになるべきという点では両者は同意しているようですし、であれば、ヴェーダンタ派にとっても実際はヨーガは有用なものとして認識されているようです。ヴェーダンタ派の主張を間にうけてヨーガの訓練を辞めてしまう人もいるようですが、それはちょっと気の毒な人です。
ヴェーダンタ派にしてみればそのような境地に「何らの効果」も認めないこともあるようですが、そんな極端な話を日本に持ち込まないでいただきたいものです。そんなお話はインドでやってください(苦笑)
ですから、インドのお話を読むときは以下のように差っ引いて聞いたり読んだりすると良いと思います。
・ヨーガ派(ヨーガスートラ)のお話を聞くときは、サマーディで悟れるというお話を話半分に聞いておく。
・ヴェーダンタ派(ウパニシャッド)のお話を聞くときは、ヨーガの心の死滅は不要であるというお話を話半分に聞いておく。ヨーガスートラ不要論を話半分に聞いておく。アサナや瞑想が不要というお話を話半分に聞いておく。
このくらいがちょうど良いと思います。
そのくらい差っ引けばヴェーダンタの言う以下のお話も「ふむふむ」と聞くことができます。
ヨーガは目的ではなくて手段である。観念の停止は手段であるに過ぎない。ヴェーダーンタは、サマーディを得ることは悟りを得るために絶対に必要な条件ではない、といっている。これはしばしば、他者からは理解されない。(中略)彼らはいう、絶対者の自覚は、必ずしも人がサマーディに入っていることを意味するのではない。なぜなら、サマーディは、もしそれが心の状態であるなら、われわれは心を超えなければならないのであるし、また、単なる心の状態は、最高の状態ではないのだ。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」
これはヨーガやサマーディに対する誤解を差っ引いて読めば確かにそうだと思わせるお話ですが、これを読んでヨーガは不要と思ってしまうのであれば残念なお話です。私にしてみれば、ヴェーダンタも目的ではなく手段ですけどね。どちらも変わらないです。視点が違うだけのことです。
主義主張が大事だと思っている人は違いに拘りますけど、どちらも手段ですから便利に使えば良いだけのことです。相手を手段だと言って自分の主張は違う、自分の主張は手段ではないと言っている時点でそのお話はどうなのかなあ? と思ってしまいます。
ヴェーダンタはアドヴァイタという非二元論的見解に基づいていますが、それによると以下のようなところが重要のようです。
非二元論的見解からは、われわれは自己の実在だけを悟らなければならない。他の一切のものは、単なる現れとして理解されなければならないであろう。(中略)ブラフマンのみが実在、他の一切はまぼろしと悟れ。(中略)知識の人は、サマーディにいようと、目覚めて世間で活動していようと、彼の悟りの性質には全く何の違いもないのであるる。それがが、非二元論者の主張である。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」
これは視点の違いであって、確かにこのようなお話も理解できます。流派によって見解が違いますので、それをわざわざ指摘するのは野暮というものですので「ふむふむ」と有り難く聞いて自分の中である程度を差っ引いてお話を聞けば良いのかなと思います。
こういうのって、最初に言っていた人は正しく理解していますけど時代が過ぎて伝言ゲームになるにつれて真実から離れてゆきますのである程度は差っ引いて聞けばいいのだと思います。
私が見たところ、ヨーガスートラも似たようなことを言っていますし、最近の考察ではサマーディとヴィパッサナーは同じと言う理解にいたりしましたし、結局は目指すところはゾクチェンで言うところのシネーの境地やテクチュの境地なわけですから、どこから見たところで目的地は同じだと思います。
そもそもサマーディとは何かというお話の共通理解がないのにサマーディという言葉を聞いただけでヴェーダンタ的なお話でサマーディを否定してくる人がたまにいて、それはちょっとどうかなあと思うこともあり、日本では馴染みの少ないヴェーダンタ派でのインドの混乱を日本に持ち込んで欲しくはないなあ... と思ってちょっと書いてみました。
ヴェーダンタ派が心の死滅が不要と言っているのは最終的なテクチュの境地を目指すなら心の死滅は通過点に過ぎない、という意味なのだと咀嚼して聞くことにしています。その基本的な理解ができてしまえばヨーガの人もヴェーダンタのいうことが理解できるでしょうし、特に争う点もない気が致します。
まあ、最近もちょっと書きましたけど、主義主張の違いなんてのは所詮は趣味の問題ですから、自分の趣味にあった主義主張ややり方を選べばいいのです。成長するのも趣味ですし成長しないのも趣味です。ですから、こんな流派の違いなんて趣味の違いかなと思います。まあ、そのくらい気軽に捉えています。
ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくる
私は割と目の良い方ですけど、スローモーションのヴィパッサナー状態になってくると視界に遠近感がなくなっていることに気がつきました。
自転車などを運転しているとすれ違う際の距離感がうまく掴めなくて割と危険です... 今は何となくすれ違っていますけど、自動車や自転車の運転でよくぶつける人の気持ちが分かったような気が致します。
視界がテレビやパソコンの画面のように平べったいもののように感じられて、世界が3次元かどうかすらよくわからなくなってきます。
地球を宇宙から眺める映像を見ても、本当に地球が球状なのか実感が湧きません。以前は当たり前だと思っていたのですが。
ひょっとして、中世で地球が平面だと思っていた人はこのような視界の遠近感のない人たちだったりしたのでしょうか? 絵にしても昔は遠近感がなかったと言いますし。 最近はヴィパッサナー状態が失われてしまったが故に遠近感が認識されるようになった、という仮説も成り立ちます。
遠近感はどうしてなくなってしまったのだろう... と思いつつ視界を更に観察してみたのですが、おそらく次のようなことではないかなと。
以前は1秒に3回くらい映像認識されてパラパラアニメのように映像が切り替わっていましたが、そのくらいですと切り替わりの際に差がかなりありますので、ビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれなりにあって、左右の目の視界の差によって遠近感が認識されたのかなと思います。
今はヴィパッサナー状態で1秒間のうちにもっと細かくスローモーションのように映像が認識されますのでビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれほどなく、割と似たような映像が続いて連続して認識されますので遠近感をさほど感じないのかな、と理解しました。
あるいは、以前ちょっと書きましたがサードアイ(あるいはフォースアイ)と呼ばれているものは単眼だったと思いますのでそれが原因で遠近感がなくなってきたのかなと最初は思ったりもしましたが、それよりも、上記に書いたことが理由な気が今はしています。
例えば道の遠くを眺めたとき、以前でしたら道の遠くにあるものが遠近感と共に直感的に遠くだと感じられたのですが、今はただの景色として平べったい映像として認識されており、手を伸ばせばすぐに手が届きそうな気がしています。もちろん届かないことは頭では分かっているので試したりはしませんけど、視界だけを見ると世界が平たく感じられて遠近感が失われています。
この状態ですと、実体が本当に目の前にあるのかどうかもよくわかりません。
たまに理論で聞かれるように、どこか遠くに実体があって目に見えているのはただの映像あるいはホログラムなのかもしれない、というお話もあながち嘘ではないかもしれない気がしてきています。
まあ、おそらくは遠くにあるというよりもほとんど同じ位置だけれどもちょっとだけズレたところにある、というくらいかな、という気もします。
どちらにせよ確かなことは遠近感がなくなってきているということで、そうなってくると、自然と自分と他人との区別もよく分からなくなってきています。全部が映像で平ら、あるいはホログラムならば自分も相手も大して差がない、と言いますか、どちらも映像でしかない、あるいは、どちらもホログラムでしかない... となると、「自分」という存在が消えてしまいます。
まあ、とりあえず今のところの認識はそんなところです。これが良いとも悪いとも判断する必要がなくて、ひとまずは、今の状態を更に進めてみることにします。
自転車などを運転しているとすれ違う際の距離感がうまく掴めなくて割と危険です... 今は何となくすれ違っていますけど、自動車や自転車の運転でよくぶつける人の気持ちが分かったような気が致します。
視界がテレビやパソコンの画面のように平べったいもののように感じられて、世界が3次元かどうかすらよくわからなくなってきます。
地球を宇宙から眺める映像を見ても、本当に地球が球状なのか実感が湧きません。以前は当たり前だと思っていたのですが。
ひょっとして、中世で地球が平面だと思っていた人はこのような視界の遠近感のない人たちだったりしたのでしょうか? 絵にしても昔は遠近感がなかったと言いますし。 最近はヴィパッサナー状態が失われてしまったが故に遠近感が認識されるようになった、という仮説も成り立ちます。
遠近感はどうしてなくなってしまったのだろう... と思いつつ視界を更に観察してみたのですが、おそらく次のようなことではないかなと。
以前は1秒に3回くらい映像認識されてパラパラアニメのように映像が切り替わっていましたが、そのくらいですと切り替わりの際に差がかなりありますので、ビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれなりにあって、左右の目の視界の差によって遠近感が認識されたのかなと思います。
今はヴィパッサナー状態で1秒間のうちにもっと細かくスローモーションのように映像が認識されますのでビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれほどなく、割と似たような映像が続いて連続して認識されますので遠近感をさほど感じないのかな、と理解しました。
あるいは、以前ちょっと書きましたがサードアイ(あるいはフォースアイ)と呼ばれているものは単眼だったと思いますのでそれが原因で遠近感がなくなってきたのかなと最初は思ったりもしましたが、それよりも、上記に書いたことが理由な気が今はしています。
例えば道の遠くを眺めたとき、以前でしたら道の遠くにあるものが遠近感と共に直感的に遠くだと感じられたのですが、今はただの景色として平べったい映像として認識されており、手を伸ばせばすぐに手が届きそうな気がしています。もちろん届かないことは頭では分かっているので試したりはしませんけど、視界だけを見ると世界が平たく感じられて遠近感が失われています。
この状態ですと、実体が本当に目の前にあるのかどうかもよくわかりません。
たまに理論で聞かれるように、どこか遠くに実体があって目に見えているのはただの映像あるいはホログラムなのかもしれない、というお話もあながち嘘ではないかもしれない気がしてきています。
まあ、おそらくは遠くにあるというよりもほとんど同じ位置だけれどもちょっとだけズレたところにある、というくらいかな、という気もします。
どちらにせよ確かなことは遠近感がなくなってきているということで、そうなってくると、自然と自分と他人との区別もよく分からなくなってきています。全部が映像で平ら、あるいはホログラムならば自分も相手も大して差がない、と言いますか、どちらも映像でしかない、あるいは、どちらもホログラムでしかない... となると、「自分」という存在が消えてしまいます。
まあ、とりあえず今のところの認識はそんなところです。これが良いとも悪いとも判断する必要がなくて、ひとまずは、今の状態を更に進めてみることにします。
異空間の虹色の枠
瞑想中、ここ最近数回ほど異空間のような虹色の枠が視界に現れてきています。実物はもっと虹色が鮮やかで滑らかですけど。
最近はスローモーションのヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、そうして視界をまるでテレビやディスプレイの画面のように平らなものとして観察していると、時々視界の一部に異空間のような虹色の枠が出てきていることに気が付きました。
以前からあって気がついていなかったのか、あるいは、最近になって現れるようになったのかは不明です。
最初は確か右目の少し上、2回目は左目の少し中央寄りだったかと思います。
モヤモヤっとした虹色のやや横長の楕円あるいは長方形が現れて、まるで、視界のディスプレイの一部の調子が悪くなって意図した画像を写せていないかのような感じになってきています。
その虹色のモヤモヤの先はまだ雲のようなものしか見えず、何があるのかはわかりません。
何となく直感でその先は異空間かな... という気がしてきています。
あるいは、逆に今の世界が異空間のまやかしの世界で虹色のモヤモヤの先こそが本当の世界なのかもしれませんが。
まあ、今後どうなるのか、更に観察を進めてゆきます。
最近はスローモーションのヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、そうして視界をまるでテレビやディスプレイの画面のように平らなものとして観察していると、時々視界の一部に異空間のような虹色の枠が出てきていることに気が付きました。
以前からあって気がついていなかったのか、あるいは、最近になって現れるようになったのかは不明です。
最初は確か右目の少し上、2回目は左目の少し中央寄りだったかと思います。
モヤモヤっとした虹色のやや横長の楕円あるいは長方形が現れて、まるで、視界のディスプレイの一部の調子が悪くなって意図した画像を写せていないかのような感じになってきています。
その虹色のモヤモヤの先はまだ雲のようなものしか見えず、何があるのかはわかりません。
何となく直感でその先は異空間かな... という気がしてきています。
あるいは、逆に今の世界が異空間のまやかしの世界で虹色のモヤモヤの先こそが本当の世界なのかもしれませんが。
まあ、今後どうなるのか、更に観察を進めてゆきます。
ヴィパッサナー瞑想と思考の停止
最近しばらくヴィパッサナー瞑想と思考の停止と体や息の観察について書いてきたわけですけれども、もう少しまとめたいと思います。
瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。
1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。
個人的にはこれはサマタ瞑想です。
2.ゾクチェンのシネーの境地
同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。
これも個人的にはサマタ瞑想です。
3.ゾクチェンのテクチュの境地
個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。
その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。
1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。
テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。
サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。
2.ゾクチェンのシネーの境地
おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。
テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。
サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。
3.ゾクチェンのテクチュの境地
シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。
テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。
ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。
このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。
ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。
このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。
別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。
ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。
ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。
ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。
よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。
ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。
こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。
であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。
瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。
1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。
個人的にはこれはサマタ瞑想です。
2.ゾクチェンのシネーの境地
同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。
これも個人的にはサマタ瞑想です。
3.ゾクチェンのテクチュの境地
個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。
その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。
1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態
日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。
テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。
サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。
2.ゾクチェンのシネーの境地
おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。
テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。
サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。
3.ゾクチェンのテクチュの境地
シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。
テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。
ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。
このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。
ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。
このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。
別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。
ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。
ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。
ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。
よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。
ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。
こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。
であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。
次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去る
世間では次元上昇とかアセンションとか何とか言われていますけど、スローモーションのヴィパッサナー状態で観察したところによりますと、次元が3次元から4次元や5次元に上がるのではなくて2次元になって1次元になって次元が消滅する、と言う方が実態に近いような気が致します。表現の違いかもしれませんけど。
次元が3次元から4次元になると言うのはこの「奥行き」のある空間がそのまま保持されてそれに時間が加わって、更に5次元になるとパラレルワールドとか何とか表現されたり6次元になるとどうなのかよくわかりませんけど、どちらにせよ、それらの次元が増えるにしても3次元という奥行きのある遠近感のあるワールドは保持されているということなのかなと思います。
そういうことであれば、私の感覚はそれとは逆で、今生きている場所が4次元で奥行きも時間も感じられる世界だとすれば、時間というものはパラレルに存在しているとも言えるし全ての時間が同時に存在しているとも言えるし、まやかしみたいなものですので時間がまず消え去ります。
遠近感に関してはヴィパッサナー状態で消え去り、2次元になります。
2次元のヴィパッサナー状態を続けていると意識が広がって空間の距離感もよく分からなくなり、それは1次元とも0次元とも言えるような、全体が同時に満遍なく存在していて、それでいて、位置を特定しようとしてもよく分からなくて、ここかもしれないけれどもその「ここ」とはあっちの「あそこ」と同じであるような同じでないような、距離感のない不思議な感覚になります。それが1次元です。それを比喩して0次元と言えるかもしれませんけど、まあ、とりあえずは1次元としておきます。
そんな感じで次元が減少してゆき、世界が1次元の点とも言えるし面とも言えるし時空とも言えるよく分からないところに収束というか広がりというかよく分からない状態になって全体が満遍なく存在していることを実感するわけです。
であれば、世間でよく言われている次元上昇とかそんなのは、見方によってはあるのかもしれないですけど、あるとしても今の世の中の延長線上のまやかしで、そういう次元上昇があるような気がするだけで、実際の世の中は次元数が1(あるいはゼロ)という世界が本当なのかなあ、という気が致します。
まあ、こんなこと言っても大して理解されないと思いますけど。
世間一般では次元上昇だとかアセンションだとか盛り上がったりしていますけど、個人的に確かにレムリア時代の記憶を呼び起こしますとみんなと一緒にあれれと言う間にアセンションしたことが確かに過去にあったような気がしますけど、それでも、やはり本当の真実はこの1次元(あるいはゼロ次元)というところなのかなあ、と言う気が致します。
次元が3次元から4次元になると言うのはこの「奥行き」のある空間がそのまま保持されてそれに時間が加わって、更に5次元になるとパラレルワールドとか何とか表現されたり6次元になるとどうなのかよくわかりませんけど、どちらにせよ、それらの次元が増えるにしても3次元という奥行きのある遠近感のあるワールドは保持されているということなのかなと思います。
そういうことであれば、私の感覚はそれとは逆で、今生きている場所が4次元で奥行きも時間も感じられる世界だとすれば、時間というものはパラレルに存在しているとも言えるし全ての時間が同時に存在しているとも言えるし、まやかしみたいなものですので時間がまず消え去ります。
遠近感に関してはヴィパッサナー状態で消え去り、2次元になります。
2次元のヴィパッサナー状態を続けていると意識が広がって空間の距離感もよく分からなくなり、それは1次元とも0次元とも言えるような、全体が同時に満遍なく存在していて、それでいて、位置を特定しようとしてもよく分からなくて、ここかもしれないけれどもその「ここ」とはあっちの「あそこ」と同じであるような同じでないような、距離感のない不思議な感覚になります。それが1次元です。それを比喩して0次元と言えるかもしれませんけど、まあ、とりあえずは1次元としておきます。
そんな感じで次元が減少してゆき、世界が1次元の点とも言えるし面とも言えるし時空とも言えるよく分からないところに収束というか広がりというかよく分からない状態になって全体が満遍なく存在していることを実感するわけです。
であれば、世間でよく言われている次元上昇とかそんなのは、見方によってはあるのかもしれないですけど、あるとしても今の世の中の延長線上のまやかしで、そういう次元上昇があるような気がするだけで、実際の世の中は次元数が1(あるいはゼロ)という世界が本当なのかなあ、という気が致します。
まあ、こんなこと言っても大して理解されないと思いますけど。
世間一般では次元上昇だとかアセンションだとか盛り上がったりしていますけど、個人的に確かにレムリア時代の記憶を呼び起こしますとみんなと一緒にあれれと言う間にアセンションしたことが確かに過去にあったような気がしますけど、それでも、やはり本当の真実はこの1次元(あるいはゼロ次元)というところなのかなあ、と言う気が致します。
空間と時間の認識
空間の認識と時間の認識は割と似通っていることに気が付きました。
最近はヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、遠近感によって空間として認識するためには2つの画像を見比べてその差が空間として認識されると思うわけです。
一般的には空間に関しては2つの目が異なる視点で見ることで遠近感を生み出すと言われているように思いますし、以前は私もそうでしたが最近のヴィパッサナー状態では両目で見るのと単眼で見るのと対して差がないような平面を見るような感じになってきています。ちなみに、きちんと視力は1以上どちらもあります。
ヴィパッサナー状態では両目による空間認識能力があまりないようです。ですから、距離感も少しおかしくなって衝突に気を付けなくてはなりませんが、まあ、そこはそんなに問題にはなっていません。
思うに、両目の差で空間を認識していると言うのは正しいような正しくないようなお話で、それだけでは不十分で、認識可能な1コマ前の画像と頭の中で見比べることで空間を認識しているのではないかなと思うわけです。
ヴィパッサナー以前の状態ですと1秒の間に数コマの認識でしたので1コマ前との画像の違いがそれなりにあり、その差の大きさによって頭が処理して空間を認識していたように思います。今はスローモーションのように細かく認識されますので1コマ前の画像との違いがあまりなく、それ故に空間として認識されにくいのではないかと思っております。
これは空間の認識のお話ですが、時間についてもそうかなと言う気が致します。
人は本来、時間を認識しないのではないでしょうか?
空間も実際は空間そのものを認識せずに1コマ前との画像との違いを頭で処理して認識しているのと同様、時間も実際は時間そのものを認識せずに少し前との画像(や感覚)との違いを頭で処理して時間を認識しているのではないでしょうか?
であれば、空間も時間も実は幻のようなものではないか... という気もしてきます。
実際、物理学者やスピリチュアルではこの種の話題はよく出てきますし、空間も時間もそのものずばりを認識することはできないのではないかという気が致します。空間も時間も、そこにあるような気がしているだけ、ということであればすっきりします。まあ、おそらくはそうなのでしょう。
数十年前からこの種の話題はよく聞きますが、ヴィパッサナー状態になって初めてその意味を別の視点から理解できた気が致します。今までは、わかるような分からないような... というお話でした。
ヴィパッサナー状態でスロモーションの認識になれば視界を識別できるコマ数が増え、それにより1コマ前との差分が小さくなって空間が次第に消え去り、時間も消え去り、ということなのかな... という気が致します。
と同時に、視界が平面で距離感がなくなり自分と他人の区別がよく分からなくなり、一歩引いた視点になって、あたかもテレビかモニタを眺めている気がしてきて、見える画面の本質が全て同一であるような気もしてきて、であれば自分も他人も他のものも実体としては同じあるいは両方とも幻のようなもののような気がしてきて、自分と他人を区別している空間というものも消え去り、認識は常にその瞬間瞬間で連続して起こっているので過去とか未来を認識せずに常に今だけの認識になります。
頭で考えることで過去が生まれ、頭で考えることで未来が生まれます。空間も頭で考えることで生まれます。
これは、過去や未来や空間が消え去ってしまうとか全く存在しないと言っているわけではなく、本質が上記のようなものであることがわかる、ということです。物理法則を否定しているわけではありません。
・・・空間や時間の本質がそうなのであれば、ちょっと工夫すれば空間を飛び越して認識したり、時間を超えて認識できるのでは... という気がしてきています。
そんな気がするということはきっとできるということでしょう。これからの趣味の探究の領域はその辺りになりそうです。
最近はヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、遠近感によって空間として認識するためには2つの画像を見比べてその差が空間として認識されると思うわけです。
一般的には空間に関しては2つの目が異なる視点で見ることで遠近感を生み出すと言われているように思いますし、以前は私もそうでしたが最近のヴィパッサナー状態では両目で見るのと単眼で見るのと対して差がないような平面を見るような感じになってきています。ちなみに、きちんと視力は1以上どちらもあります。
ヴィパッサナー状態では両目による空間認識能力があまりないようです。ですから、距離感も少しおかしくなって衝突に気を付けなくてはなりませんが、まあ、そこはそんなに問題にはなっていません。
思うに、両目の差で空間を認識していると言うのは正しいような正しくないようなお話で、それだけでは不十分で、認識可能な1コマ前の画像と頭の中で見比べることで空間を認識しているのではないかなと思うわけです。
ヴィパッサナー以前の状態ですと1秒の間に数コマの認識でしたので1コマ前との画像の違いがそれなりにあり、その差の大きさによって頭が処理して空間を認識していたように思います。今はスローモーションのように細かく認識されますので1コマ前の画像との違いがあまりなく、それ故に空間として認識されにくいのではないかと思っております。
これは空間の認識のお話ですが、時間についてもそうかなと言う気が致します。
人は本来、時間を認識しないのではないでしょうか?
空間も実際は空間そのものを認識せずに1コマ前との画像との違いを頭で処理して認識しているのと同様、時間も実際は時間そのものを認識せずに少し前との画像(や感覚)との違いを頭で処理して時間を認識しているのではないでしょうか?
であれば、空間も時間も実は幻のようなものではないか... という気もしてきます。
実際、物理学者やスピリチュアルではこの種の話題はよく出てきますし、空間も時間もそのものずばりを認識することはできないのではないかという気が致します。空間も時間も、そこにあるような気がしているだけ、ということであればすっきりします。まあ、おそらくはそうなのでしょう。
数十年前からこの種の話題はよく聞きますが、ヴィパッサナー状態になって初めてその意味を別の視点から理解できた気が致します。今までは、わかるような分からないような... というお話でした。
ヴィパッサナー状態でスロモーションの認識になれば視界を識別できるコマ数が増え、それにより1コマ前との差分が小さくなって空間が次第に消え去り、時間も消え去り、ということなのかな... という気が致します。
と同時に、視界が平面で距離感がなくなり自分と他人の区別がよく分からなくなり、一歩引いた視点になって、あたかもテレビかモニタを眺めている気がしてきて、見える画面の本質が全て同一であるような気もしてきて、であれば自分も他人も他のものも実体としては同じあるいは両方とも幻のようなもののような気がしてきて、自分と他人を区別している空間というものも消え去り、認識は常にその瞬間瞬間で連続して起こっているので過去とか未来を認識せずに常に今だけの認識になります。
頭で考えることで過去が生まれ、頭で考えることで未来が生まれます。空間も頭で考えることで生まれます。
これは、過去や未来や空間が消え去ってしまうとか全く存在しないと言っているわけではなく、本質が上記のようなものであることがわかる、ということです。物理法則を否定しているわけではありません。
・・・空間や時間の本質がそうなのであれば、ちょっと工夫すれば空間を飛び越して認識したり、時間を超えて認識できるのでは... という気がしてきています。
そんな気がするということはきっとできるということでしょう。これからの趣味の探究の領域はその辺りになりそうです。
朝起きたら、体が溶けたようになっていた
手で触ってみたら体はきちんとありましたが、意識で体を探ってみても感触がない感じです。
瞑想の本などでよく「体の感覚がなくなります」と書いてあって「ふむふむ」と読んでいて、それはきっと瞑想中に体の感覚がなくなる、あれのことかなあ、と割と読み流していたのですが、今朝の感覚と比べるとちょっと透明感と言いますか本当に「何もない」感覚が微妙ですが確実に違いました。
これはどういうことかな・・・ と思っていましたら、おそらくは、最近はヴィパッサナーで気付きながら体の緊張をリセットし続けているので体の緊張がかなり抜けてきているのかな、というのが1点。
もう1点は、意識の広がり。今までは割と自分を中心とした体の周囲に意識があったように思いますが、今は、もうちょっと末広がりと言いますか、銀河系のように自分を中心として楕円形に末広がりの意識が広がっているような気が致します。寝ている自分を中心として意識が横方向にペタッと溶けたように広がっているようです。
起きてみましたらいつもの朝起きたときの体の硬い感覚はありましたので、完全に体が柔らかくなったわけでもなさそうです。ですので、これは主に意識の問題かなと。
もともと体の各所が意識の緊張により硬くなっていて、最初に意識がリセットされて意識の緊張がリセットされてから体の緊張が少しずつ取れ、そのサイクルが進むうちに次第と意識が広がってきたのかな、と解釈しております。
瞑想などで「体の感覚がなくなる」と言われていたことが実際はこのくらいの状態を指していたのだとすると今まではまだその状態になかった、ということなのかもしれません。本当に体がスカスカな感じです。皮膚の感触はまだあるので体があることはわかるのですが、体の中の意識がスカスカになってきています。
内なるガイドが示唆するには、これはあまり言葉で言い表せない状態ですので味わいましょう、とのことです。
瞑想の本などでよく「体の感覚がなくなります」と書いてあって「ふむふむ」と読んでいて、それはきっと瞑想中に体の感覚がなくなる、あれのことかなあ、と割と読み流していたのですが、今朝の感覚と比べるとちょっと透明感と言いますか本当に「何もない」感覚が微妙ですが確実に違いました。
これはどういうことかな・・・ と思っていましたら、おそらくは、最近はヴィパッサナーで気付きながら体の緊張をリセットし続けているので体の緊張がかなり抜けてきているのかな、というのが1点。
もう1点は、意識の広がり。今までは割と自分を中心とした体の周囲に意識があったように思いますが、今は、もうちょっと末広がりと言いますか、銀河系のように自分を中心として楕円形に末広がりの意識が広がっているような気が致します。寝ている自分を中心として意識が横方向にペタッと溶けたように広がっているようです。
起きてみましたらいつもの朝起きたときの体の硬い感覚はありましたので、完全に体が柔らかくなったわけでもなさそうです。ですので、これは主に意識の問題かなと。
もともと体の各所が意識の緊張により硬くなっていて、最初に意識がリセットされて意識の緊張がリセットされてから体の緊張が少しずつ取れ、そのサイクルが進むうちに次第と意識が広がってきたのかな、と解釈しております。
瞑想などで「体の感覚がなくなる」と言われていたことが実際はこのくらいの状態を指していたのだとすると今まではまだその状態になかった、ということなのかもしれません。本当に体がスカスカな感じです。皮膚の感触はまだあるので体があることはわかるのですが、体の中の意識がスカスカになってきています。
内なるガイドが示唆するには、これはあまり言葉で言い表せない状態ですので味わいましょう、とのことです。
タマスにより没入感が生まれる
ヴィパッサナーが客観だとすれば、非ヴィパッサナー、特にタマスなどんよりとした感覚は主観であり、更に言えば没入感を生み出すような気がしてまいりました。
没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。
タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。
タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。
特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。
であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。
タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。
そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。
であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。
人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。
化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。
その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。
であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。
おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。
今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。
勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。
まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。
没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。
タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。
タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。
特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。
であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。
タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。
そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。
であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。
人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。
化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。
その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。
であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。
おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。
今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。
勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。
まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。
テーラワーダ仏教における禅定とサマーディの関係
テーラワーダ仏教では、第二禅定からサマーディ(三昧)と呼ぶようです。
仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。
第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。
・第一禅定
欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第二禅定(サマーディ)
思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第三禅定
「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第四禅定
楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。
個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。
以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。
まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。
仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。
第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。
・第一禅定
欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第二禅定(サマーディ)
思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第三禅定
「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
・第四禅定
楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」
最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。
個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。
以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。
まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。
いつシッディが現れるか
シッディとはいくつかの超常的能力、いわゆる超能力のことです。これがどのように現れるのかは宗派の間で割と似通っているように思います。
仏教では第四禅定の後に現れるとされているようです。
ヨーガではサマーディ(三昧)によって現れるとされています。
チベットのゾクチェンにおいてもサマーディ(三昧)によって現れるとされています。
これらは割と似通っておりますが、仏教だけサマーディ(三昧)ではなく禅定という言葉を使っており、日本語ではこの禅定はサマーディの訳であることもありながら文脈によって異なる意味を持つという微妙な言葉でもあります。
三昧はサマーディの当て字ですので同じものを指します。
これら、禅定だったりサマーディ(三昧)だったりするにせよ、そのような超意識とも言える状態において超能力が現れるとされています。
テーラワーダ仏教に基けば第四禅定があれば悟ることができる、とされているようです。その同じ第四禅定でシッディが現れるとのことです。
先日引用した第四禅定の定義に基づきましても、どうしてそれでシッディが現れるのか謎です。
これら正統派のシッディとは別に、スピリチュアルあるいはミディアムとしてのシッディもあります。
スピリチュアルのうち魔女系は実はヨーガ系と系統が似ていたりして意外に正統派のやり方を踏まえていますが、ミディアムは正統派と少し異なっています。
正統系はオーラを強化して自然と能力が出てくるようにしますが、ミディアムや先住民族のやり方は自分のオーラを逆に不安定にさせてその不安定にさせた部分に先祖などの霊を呼び込んで自分の体や口を動かしてもらったりインスピレーションを伝えてもらうという手法を取ります。
私はそれらのミディアム手法にはあまり興味がなくて、ヨーガ系の正統派の手法にのみ興味があります。
ただ、一般的には魔女とか魔法とかいうとミディアム系の手法をイメージする方が多いかもしれませんが、確かに能力はその方が手っ取り早く現れますけど自分の制御下にありませんので協力してくれる霊の気分次第になり、自分のオーラは不安定にさせておかなくてはならないために悪意のある霊にいたずらされると非常に危険なことになります。
まあ、こう言ってもやる人はやるのでしょうから好きにすればいいのです。
何十回という転生の成長を一気に無に帰するような事故・事件が一瞬にして起こることもありますから、そのような秘術は易々と行わないのが良いと思うのですが。
一方で、サマーディを基礎とした自分の能力であればそれほど危険性はないと思います。過去生の記憶を辿ってみてもその筈です。このあたりはおいおい確認できればと思っております。
仏教では第四禅定の後に現れるとされているようです。
ヨーガではサマーディ(三昧)によって現れるとされています。
チベットのゾクチェンにおいてもサマーディ(三昧)によって現れるとされています。
これらは割と似通っておりますが、仏教だけサマーディ(三昧)ではなく禅定という言葉を使っており、日本語ではこの禅定はサマーディの訳であることもありながら文脈によって異なる意味を持つという微妙な言葉でもあります。
三昧はサマーディの当て字ですので同じものを指します。
これら、禅定だったりサマーディ(三昧)だったりするにせよ、そのような超意識とも言える状態において超能力が現れるとされています。
テーラワーダ仏教に基けば第四禅定があれば悟ることができる、とされているようです。その同じ第四禅定でシッディが現れるとのことです。
先日引用した第四禅定の定義に基づきましても、どうしてそれでシッディが現れるのか謎です。
これら正統派のシッディとは別に、スピリチュアルあるいはミディアムとしてのシッディもあります。
スピリチュアルのうち魔女系は実はヨーガ系と系統が似ていたりして意外に正統派のやり方を踏まえていますが、ミディアムは正統派と少し異なっています。
正統系はオーラを強化して自然と能力が出てくるようにしますが、ミディアムや先住民族のやり方は自分のオーラを逆に不安定にさせてその不安定にさせた部分に先祖などの霊を呼び込んで自分の体や口を動かしてもらったりインスピレーションを伝えてもらうという手法を取ります。
私はそれらのミディアム手法にはあまり興味がなくて、ヨーガ系の正統派の手法にのみ興味があります。
ただ、一般的には魔女とか魔法とかいうとミディアム系の手法をイメージする方が多いかもしれませんが、確かに能力はその方が手っ取り早く現れますけど自分の制御下にありませんので協力してくれる霊の気分次第になり、自分のオーラは不安定にさせておかなくてはならないために悪意のある霊にいたずらされると非常に危険なことになります。
まあ、こう言ってもやる人はやるのでしょうから好きにすればいいのです。
何十回という転生の成長を一気に無に帰するような事故・事件が一瞬にして起こることもありますから、そのような秘術は易々と行わないのが良いと思うのですが。
一方で、サマーディを基礎とした自分の能力であればそれほど危険性はないと思います。過去生の記憶を辿ってみてもその筈です。このあたりはおいおい確認できればと思っております。
サマーディの不二の境地からシッディが副産物として現れてくる
ゾクチェンの本にも似たようなことが書かれてありました。
仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。
今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。
昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。
特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。
今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。
シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。
ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。
そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。
であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。
仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。
しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。
同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。
1.チェルドル
2.シャルドル
3.ランドル
最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。
すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。
であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。
私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。
仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。
今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。
昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。
特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。
今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。
シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。
ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。
そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。
であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。
仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。
しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。
同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。
1.チェルドル
2.シャルドル
3.ランドル
最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。
すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。
であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。
私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。
ヨーガスートラにせよ、仏教にせよ、大切なのは疑わない心
大切なのは不二の境地に至ることでありますから、そこに至るまでは何に頼るにせよ疑わないことが大切なのだと最近は思います。
ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。
仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。
これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。
しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。
その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。
もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。
しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。
何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。
ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。
その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。
ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。
ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。
仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。
これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。
しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。
その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。
もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。
しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。
何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。
ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。
その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。
ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。
日常生活でなるべくサマーディ状態を保つ
最近は日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想を心がけているわけですけれども、私の言うサマーディとヴィパッサナー瞑想とは同じことです。
やっていることは24時間瞑想の考え方と同じです。日常生活で思考に囚われていたら一旦脇に置いておくか素早く結論を出してからヴィパッサナー状態に戻ります。その状態をサマーディと読み替えても同じことです。スローモーションで感じるサマーディ状態をなるべく保ちます。
日によってその観察の深さが違うのを感じます。ここでいう深さとは、1秒間に何コマくらいのスムーズさで視界を認識できているのか、という点で私は判別しています。
これは、以前にも動画編集の例えを出しました。24fpsや30fpsくらいの割とスムーズな映像として視界が認識されているのが基本のヴィパッサナー状態で、疲れやどんよりとして認識力が弱まっている時は8fpsや12fpsなどで視界を認識しているように思います。明らかに視界の動きの滑らかさが違いますので自分の状態が客観的に判別できるわけです。
思考をしていると目の前の景色を見ているような見ていないような状態になります。その思考に気付いて視界に意識を戻すと24fpsですとか12fpsですとかその時の状態に応じた認識の状態に戻るわけです。
ですから、修行と言えるほどのものでもありませんが、思考している自分に気付いたら、それが大切なことであれば素早く結論を出して、単なる雑念であればその雑念を止めて視界の認識に戻してサマーディ状態、ヴィパッサナー状態に戻るということを最近は日々、心がけています。
ですから、座った瞑想もそれなりに行いますが、むしろ、最近はこちらの日常生活のヴィパッサナー瞑想によるサマーディの方が重要な気がしてきています。
どちらも必要ですが、座った瞑想を以前のように長くする必要はない感じで、日常生活のヴィパッサナー瞑想をなるべく長くするように心がけています。
基本的にヴィパッサナー瞑想とサマーディとは同じことであるわけですけれども、単に視界をスローモーションで認識している時はヴィパッサナー瞑想とは呼びますが不二の意識は働いておりませんのでサマーディと呼ぶのは不適格かもしれません。
ですが、ヴィパッサナー状態を続ければすぐに不二の認識が働いてきてサマーディに導かれてゆくと思いますので同じと言ってしまってもさほど支障は無いように思います。
このあたり、用語が混乱しておりますので私のコンテキストを他の流派の定義に当てはめて読むことは難しいと思います。私の考えるヴィパッサナーとサマーディに当てはめるとこんな感じ、というだけのお話です。
やっていることは24時間瞑想の考え方と同じです。日常生活で思考に囚われていたら一旦脇に置いておくか素早く結論を出してからヴィパッサナー状態に戻ります。その状態をサマーディと読み替えても同じことです。スローモーションで感じるサマーディ状態をなるべく保ちます。
日によってその観察の深さが違うのを感じます。ここでいう深さとは、1秒間に何コマくらいのスムーズさで視界を認識できているのか、という点で私は判別しています。
これは、以前にも動画編集の例えを出しました。24fpsや30fpsくらいの割とスムーズな映像として視界が認識されているのが基本のヴィパッサナー状態で、疲れやどんよりとして認識力が弱まっている時は8fpsや12fpsなどで視界を認識しているように思います。明らかに視界の動きの滑らかさが違いますので自分の状態が客観的に判別できるわけです。
思考をしていると目の前の景色を見ているような見ていないような状態になります。その思考に気付いて視界に意識を戻すと24fpsですとか12fpsですとかその時の状態に応じた認識の状態に戻るわけです。
ですから、修行と言えるほどのものでもありませんが、思考している自分に気付いたら、それが大切なことであれば素早く結論を出して、単なる雑念であればその雑念を止めて視界の認識に戻してサマーディ状態、ヴィパッサナー状態に戻るということを最近は日々、心がけています。
ですから、座った瞑想もそれなりに行いますが、むしろ、最近はこちらの日常生活のヴィパッサナー瞑想によるサマーディの方が重要な気がしてきています。
どちらも必要ですが、座った瞑想を以前のように長くする必要はない感じで、日常生活のヴィパッサナー瞑想をなるべく長くするように心がけています。
基本的にヴィパッサナー瞑想とサマーディとは同じことであるわけですけれども、単に視界をスローモーションで認識している時はヴィパッサナー瞑想とは呼びますが不二の意識は働いておりませんのでサマーディと呼ぶのは不適格かもしれません。
ですが、ヴィパッサナー状態を続ければすぐに不二の認識が働いてきてサマーディに導かれてゆくと思いますので同じと言ってしまってもさほど支障は無いように思います。
このあたり、用語が混乱しておりますので私のコンテキストを他の流派の定義に当てはめて読むことは難しいと思います。私の考えるヴィパッサナーとサマーディに当てはめるとこんな感じ、というだけのお話です。
神から離れれば離れるほど遠近感が生まれる
タマスにより没入感が生まれるのと同様に、タマスになればなるほど遠近感が生まれるような気がしております。これは、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくるのと逆の現象で、ヴィパッサナー状態から離れれば離れるほど遠近感が生まれ、それはタマスな状態のことである、とすれば、とても理に叶っているような気が致します。
西洋文明は近年になって遠近法という手法を発見し、アジアや過去の文明を遅れた文明だと白人文明が主張したわけですが、実際のところ遠近法が上記のようなものだとすれば遠近法を発見できた白人文明とはタマスな文明でありヴィパッサナーとは遠く離れた文明であり、神とは遠い文明であるという仮定が成り立つわけです。
科学技術の発達も遠近法のような技術に根差しているわけで、タマスなことが必ずしも悪いというわけでもなく、タマスによって真実を探るということがよく行われているのだとすれば近年のタマスは神の意志であるという解釈も成り立つわけです。
タマスな状態、神と離れた状態に突き放したのが近年の文明だとすれば、それでどうなるのか見極めたかったという神のご意志であるという仮説も成り立ちます。
一方、ヨガの3グナのうち他の二つ、ラジャスとサットヴァはどうかと言えば、ラジャスは遠近感が中くらいで、サットヴァなヴィパッサナー状態は遠近感が少ない状態ですが、サットヴァは物事を正しく把握するという点において遠近法とは相性がいいのかもしれません。
であれば、タマスだけが遠近法を生み出したのではなくタマスとサットヴァが組み合わさって遠近法を生み出した、という仮説も成り立ちます。
もしかしたら、科学技術や文明というのは両極端なタマスとサットヴァによって作られてきたのかもしれません。そんな仮説も出てきます。
一般大衆が中間のラジャスだとすれば、極端なタマスが神の意思で作り出され、それがサットヴァな神の意識と合わさることで認識が生まれ、文明や科学技術が発展する。
ヨガの世界では割とタマスが悪者になりがちですが、そう考えると、タマスも意外に悪くないものだということになります。
西洋文明は近年になって遠近法という手法を発見し、アジアや過去の文明を遅れた文明だと白人文明が主張したわけですが、実際のところ遠近法が上記のようなものだとすれば遠近法を発見できた白人文明とはタマスな文明でありヴィパッサナーとは遠く離れた文明であり、神とは遠い文明であるという仮定が成り立つわけです。
科学技術の発達も遠近法のような技術に根差しているわけで、タマスなことが必ずしも悪いというわけでもなく、タマスによって真実を探るということがよく行われているのだとすれば近年のタマスは神の意志であるという解釈も成り立つわけです。
タマスな状態、神と離れた状態に突き放したのが近年の文明だとすれば、それでどうなるのか見極めたかったという神のご意志であるという仮説も成り立ちます。
一方、ヨガの3グナのうち他の二つ、ラジャスとサットヴァはどうかと言えば、ラジャスは遠近感が中くらいで、サットヴァなヴィパッサナー状態は遠近感が少ない状態ですが、サットヴァは物事を正しく把握するという点において遠近法とは相性がいいのかもしれません。
であれば、タマスだけが遠近法を生み出したのではなくタマスとサットヴァが組み合わさって遠近法を生み出した、という仮説も成り立ちます。
もしかしたら、科学技術や文明というのは両極端なタマスとサットヴァによって作られてきたのかもしれません。そんな仮説も出てきます。
一般大衆が中間のラジャスだとすれば、極端なタマスが神の意思で作り出され、それがサットヴァな神の意識と合わさることで認識が生まれ、文明や科学技術が発展する。
ヨガの世界では割とタマスが悪者になりがちですが、そう考えると、タマスも意外に悪くないものだということになります。
想念をもありのままに観察する、なんてのは上級者のお話
少なくとも私は想念、いわゆる思いや考えが出てくるとスローモーションのヴィパッサナー状態が解除されます。
よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。
おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。
・思いや考えが出てきても否定しないでください。
・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。
これは瞑想の基礎のお話です。
それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。
「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。
意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。
ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。
想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。
想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。
もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。
ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。
よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。
おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。
・思いや考えが出てきても否定しないでください。
・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。
これは瞑想の基礎のお話です。
それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。
「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。
意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。
ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。
想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。
想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。
もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。
ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。
エネルギーの枯渇に気を付ける
この日常生活にはエネルギーの枯渇の危険性が沢山あります。
一般常識で「良い」とされていることでも、実のところやらない方が良いことも沢山あります。
その1つが「相手への同情、同意」です。
もちろん、時と場合によります。
同程度の相手あるいは自分より素晴らしいオーラをお持ちの人に同意するのは良いとしても、自分より下のオーラにいちいち同情・同意していたら落ちるところまで落ちてゆきます。
エネルギーを奪うための「嘘」がこの世には蔓延っておりますから、そう言った嘘を見抜いて相手にしないことが肝要です。
まあ、こんなこといいますと「それは分離の意識だ」とか「みんな本当は繋がっているのです」とかスピリチュアルなことを言い出す人が必ずいますけど、実際のところこの世界は野獣がたむろしているジャングルですから、いちいち相手に同意とか同情していたら落ちるところまで落ちてゆきます。
このジャングルを生き抜くためには自分たちと意思を同じくした人たちとの間で同情・同意をして同じ船に乗ることが肝心で、誰それ構わず同意して自分を相手に合わせる必要はない筈です。
そして、それこそが最終的には相手のためになります。
相手は、せっかくどん底に落ちているのに勝手に誰かが自分を助けてしまうとそのどん底を心底、骨の髄まで体験することができなくなってしまうからです。
ですから、どん底に落ちている相手にはどん底を体験して貰えばいいのです。
もちろん、突き落とすことはしてはなりません。相手が勝手に落ちているのですから、それは自由意志のなせる技ですからそれを「これがいいよ」とか「光の世界に上がりましょう」とかスピリチュアルなことを言って引き上げようとするのは余計なお世話というものなのです。
ぶっちゃけ、この世界は、いいことも悪いことも含めて全て完璧ですから、落ちているのも趣味みたいなものなのです。
好きにすればいいのです。
光の世界も趣味みたいなものです。私は趣味で光の世界を好みますが、そうでない人もいるわけです。
それなのに、光の世界がいいですよ、なんて他人にいう必要はなくて、誰かにそんなことを言っているのだとしたら、それは相手をコントロールしたいというエゴかもしれないわけです。
基本は、各人が好きに生きればいいのですから、落ちようが上ろうが好きにすればいいのです。
落ちる人は往々にして他人からエネルギーを奪おうとしますが、私はそんなのに付き合うのは趣味ではないのでエネルギーを盗まれないようにしてエネルギーの枯渇に気を付ける、という、ただそれだけのお話です。
世の中にはヒーラーさんとかいますけど、それすらも趣味みたいなものです。自分が相手のためにエネルギーを与えると決めてヒーラーになったのだとすれば、それは好きにすればいいわけです。それを誇る必要は全くないし、全ての人がヒーラーになる必要もありません。
それもまた、趣味みたいなものです。
何でもして良い、自由な素晴らしいこの世界であるわけです。
一般常識で「良い」とされていることでも、実のところやらない方が良いことも沢山あります。
その1つが「相手への同情、同意」です。
もちろん、時と場合によります。
同程度の相手あるいは自分より素晴らしいオーラをお持ちの人に同意するのは良いとしても、自分より下のオーラにいちいち同情・同意していたら落ちるところまで落ちてゆきます。
エネルギーを奪うための「嘘」がこの世には蔓延っておりますから、そう言った嘘を見抜いて相手にしないことが肝要です。
まあ、こんなこといいますと「それは分離の意識だ」とか「みんな本当は繋がっているのです」とかスピリチュアルなことを言い出す人が必ずいますけど、実際のところこの世界は野獣がたむろしているジャングルですから、いちいち相手に同意とか同情していたら落ちるところまで落ちてゆきます。
このジャングルを生き抜くためには自分たちと意思を同じくした人たちとの間で同情・同意をして同じ船に乗ることが肝心で、誰それ構わず同意して自分を相手に合わせる必要はない筈です。
そして、それこそが最終的には相手のためになります。
相手は、せっかくどん底に落ちているのに勝手に誰かが自分を助けてしまうとそのどん底を心底、骨の髄まで体験することができなくなってしまうからです。
ですから、どん底に落ちている相手にはどん底を体験して貰えばいいのです。
もちろん、突き落とすことはしてはなりません。相手が勝手に落ちているのですから、それは自由意志のなせる技ですからそれを「これがいいよ」とか「光の世界に上がりましょう」とかスピリチュアルなことを言って引き上げようとするのは余計なお世話というものなのです。
ぶっちゃけ、この世界は、いいことも悪いことも含めて全て完璧ですから、落ちているのも趣味みたいなものなのです。
好きにすればいいのです。
光の世界も趣味みたいなものです。私は趣味で光の世界を好みますが、そうでない人もいるわけです。
それなのに、光の世界がいいですよ、なんて他人にいう必要はなくて、誰かにそんなことを言っているのだとしたら、それは相手をコントロールしたいというエゴかもしれないわけです。
基本は、各人が好きに生きればいいのですから、落ちようが上ろうが好きにすればいいのです。
落ちる人は往々にして他人からエネルギーを奪おうとしますが、私はそんなのに付き合うのは趣味ではないのでエネルギーを盗まれないようにしてエネルギーの枯渇に気を付ける、という、ただそれだけのお話です。
世の中にはヒーラーさんとかいますけど、それすらも趣味みたいなものです。自分が相手のためにエネルギーを与えると決めてヒーラーになったのだとすれば、それは好きにすればいいわけです。それを誇る必要は全くないし、全ての人がヒーラーになる必要もありません。
それもまた、趣味みたいなものです。
何でもして良い、自由な素晴らしいこの世界であるわけです。
自分のオーラを使わないヒーリング
自分のオーラを通じてヒーリングする人は大勢いらっしゃいますけれども、私のグループソウルから転生しているパラレルワールドにいる自分の分身は、自分のオーラを使わないヒーリングの技を持っています。
ヒーリングは色々と方法があります。
・自分のオーラを相手に繋げて、自分のオーラを譲るヒーリング
・天あるいは地のエネルギーを一旦自分が受けて、自分の体を経由して相手に与えるヒーリング
・天あるいは地のエネルギーを相手に直接与えるヒーリング
大抵は自分のオーラを経由するヒーリングですが、自分のオーラを経由しないヒーリングですと自分のオーラが相手のオーラと混ざらないために自分のオーラが淀まないというメリットがあります。
この他には、自分ではやらずに守護霊や守護天使が直接ヒーリングするというお話もありますが、それは肉体があるかないかの違いだけでさほど差がないのでここでは割愛します。
守護霊や守護天使のエネルギーを一旦受けて自分の体を経由して相手に与える場合は上記の2番目と割と近いので含めることができます。
ヒーリングのテクニックとして、地のエネルギーは淀んでいることが多いために天のエネルギーを使う方が良いと思いますが、天のエネルギーを使うためにはまず自分が天に繋がる必要があります。
最初に自分が天に繋がり、その後、自分のオーラの触手のようなものをグッと天にまで伸ばして、天からヒーリングの対象(相手)、例えば自分の目の前にいる相手に対して、天から新たなエネルギー・ルートを作ってヒーリングの対象(相手)にエネルギーを繋ぎます。
そうして一旦エネルギーが天から繋がったら、あとはエネルギーを降ろすだけです。最初が難しいですが、一旦繋がってしまえば維持するのはさほど難しくはありません。繋がりが切れないように時々意識でルートを保持してあげるだけです。
これは人のヒーリングだけでなく、場所のヒーリングにも使えます。
場所のヒーリングに使う場合は、そこを通る人が自動的にその光の柱からヒーリングを受けることになります。
言い方を変えれば、イヤシロチ化ですね。
保持していないとそのエネルギーの柱は切れてしまうことがありますので時々メンテナンスする必要があります。
人為的に作った場合ですと数十分や長くて数時間で無くなってしまいますので、場所をイヤシロチ化する場合は維持が肝心だと思います。
その手間を考えると、聖地を守ってくれてくださる方々の苦労は並々ならぬものがあるのだな、ということも理解できるわけですが、それはまたおいおい。
ヒーリングは色々と方法があります。
・自分のオーラを相手に繋げて、自分のオーラを譲るヒーリング
・天あるいは地のエネルギーを一旦自分が受けて、自分の体を経由して相手に与えるヒーリング
・天あるいは地のエネルギーを相手に直接与えるヒーリング
大抵は自分のオーラを経由するヒーリングですが、自分のオーラを経由しないヒーリングですと自分のオーラが相手のオーラと混ざらないために自分のオーラが淀まないというメリットがあります。
この他には、自分ではやらずに守護霊や守護天使が直接ヒーリングするというお話もありますが、それは肉体があるかないかの違いだけでさほど差がないのでここでは割愛します。
守護霊や守護天使のエネルギーを一旦受けて自分の体を経由して相手に与える場合は上記の2番目と割と近いので含めることができます。
ヒーリングのテクニックとして、地のエネルギーは淀んでいることが多いために天のエネルギーを使う方が良いと思いますが、天のエネルギーを使うためにはまず自分が天に繋がる必要があります。
最初に自分が天に繋がり、その後、自分のオーラの触手のようなものをグッと天にまで伸ばして、天からヒーリングの対象(相手)、例えば自分の目の前にいる相手に対して、天から新たなエネルギー・ルートを作ってヒーリングの対象(相手)にエネルギーを繋ぎます。
そうして一旦エネルギーが天から繋がったら、あとはエネルギーを降ろすだけです。最初が難しいですが、一旦繋がってしまえば維持するのはさほど難しくはありません。繋がりが切れないように時々意識でルートを保持してあげるだけです。
これは人のヒーリングだけでなく、場所のヒーリングにも使えます。
場所のヒーリングに使う場合は、そこを通る人が自動的にその光の柱からヒーリングを受けることになります。
言い方を変えれば、イヤシロチ化ですね。
保持していないとそのエネルギーの柱は切れてしまうことがありますので時々メンテナンスする必要があります。
人為的に作った場合ですと数十分や長くて数時間で無くなってしまいますので、場所をイヤシロチ化する場合は維持が肝心だと思います。
その手間を考えると、聖地を守ってくれてくださる方々の苦労は並々ならぬものがあるのだな、ということも理解できるわけですが、それはまたおいおい。
心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない
瞑想を始めたばかりの頃は瞑想の例えで水面のお話を聞いても「そんなものかな」という感じでした。理解はできても一体どうすればそのようになるのか、実態が伴いませんでした。
水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。
まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。
その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。
昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。
昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。
今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。
なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。
ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。
心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。
心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。
昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。
であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。
比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。
よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。
これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。
それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。
水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。
まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。
その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。
昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。
昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。
今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。
なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。
ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。
心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。
心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。
昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。
であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。
比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。
よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。
これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。
それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。
日常が映画になるヴィパッサナー瞑想
最近はヴィパッサナー状態でスローモーションのように視界を観察しているわけですが、その状態のオンオフや深度に変化がつくにつれ、日常生活が次第に映画のように緩急のあるものになってきました。
なんてことはない景色が映画やドラマの一場面のように感じられることが多くなってきています。
例えば渋谷の人混みで、遠くに視点を合わせます。
ヴィパッサナー状態では全体がスローモーションで感じられますが、そこはあえて緩急をつけて、目のフォーカスを遠くに合わせてみます。すると、手前がぼやけて見えます。
以前ですと非ヴィパッサナー状態ですから遠くを見た時は遠くしか意識に入りませんでした。
調子にもよりますが今は視界の全体が割と広めに見えますので、遠くに視点が合っていても近くがぼやけて人の動きが感じられます。
それが、まるで映画やドラマで遠くに焦点が合っていて手前がぼやけている場面のように感じられるわけです。
これは、現実世界でドラマや映画を見ているかのようです!
視点を例えば近くに向けると、遠くの景色は焦点が外れてぼやけて見えますから、まるでボートレートの写真を見ているかのようです。
風景画のようにパンフォーカス(全焦点状態)で見ると手前も奥も平べったく見えますから、それはそれで楽しいものです。
そうすると、視界全てが美しい場所、というのがいいな、と思うようになりました。
映画やドラマだって美しい景色が良いでしょう? それと同じです。
ヴィパッサナー状態になるにつれて、自宅の部屋もちょっと気になり始めました。
もともと美術館や博物館にはちょくちょく出かける方ですが、ヴィパッサナー状態になって視点が変わりましたので今まで見たことのある作品も一旦はリセットして気持ちを新たにしてもっと美というものに焦点を当て直してみるのもいいかなあ、と思い始めています。
なんてことはない景色が映画やドラマの一場面のように感じられることが多くなってきています。
例えば渋谷の人混みで、遠くに視点を合わせます。
ヴィパッサナー状態では全体がスローモーションで感じられますが、そこはあえて緩急をつけて、目のフォーカスを遠くに合わせてみます。すると、手前がぼやけて見えます。
以前ですと非ヴィパッサナー状態ですから遠くを見た時は遠くしか意識に入りませんでした。
調子にもよりますが今は視界の全体が割と広めに見えますので、遠くに視点が合っていても近くがぼやけて人の動きが感じられます。
それが、まるで映画やドラマで遠くに焦点が合っていて手前がぼやけている場面のように感じられるわけです。
これは、現実世界でドラマや映画を見ているかのようです!
視点を例えば近くに向けると、遠くの景色は焦点が外れてぼやけて見えますから、まるでボートレートの写真を見ているかのようです。
風景画のようにパンフォーカス(全焦点状態)で見ると手前も奥も平べったく見えますから、それはそれで楽しいものです。
そうすると、視界全てが美しい場所、というのがいいな、と思うようになりました。
映画やドラマだって美しい景色が良いでしょう? それと同じです。
ヴィパッサナー状態になるにつれて、自宅の部屋もちょっと気になり始めました。
もともと美術館や博物館にはちょくちょく出かける方ですが、ヴィパッサナー状態になって視点が変わりましたので今まで見たことのある作品も一旦はリセットして気持ちを新たにしてもっと美というものに焦点を当て直してみるのもいいかなあ、と思い始めています。
だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる
感覚的なものですが、瞑想が安定するにつれて首から下の下半身がだるまさん、あるいはドラえもんの体のように丸くなった感じがしております。
その上に、ドラえもんの頭のようにちょこんと丸い頭が乗っかっています。
かなり昔はオーラを頭に集めたままにしていると不安定になって情緒不安定になったりしたものでした。ですから、以前は瞑想中に頭にオーラを集中させても瞑想を終える前にオーラを胸かお腹の辺りまで下ろすことが肝心でした。
しかし、今はオーラを頭に集めても安定していますし、そのまま瞑想を終えても特に問題ありません。
今から思えば昔はオーラが縦長だったかもしれません。体のオーラが安定していなくて、体に沿った縦長のオーラの上にある頭にオーラを集めようとしてもなかなか集まらなかったり安定しなかったように思います。
しかし、今は体の部分がどっしりと安定しておりますので、頭にオーラを集めてもそのままで安定しています。
頭の、眉間の辺りにオーラが集中している... と言いますか、勝手にそうなる感じです。
昔は意識してオーラを頭に集める必要がありました。
今は、眉間のあたりにオーラが勝手に集まる、という感じです。
これを集中と言うのかどうかは微妙なところで、オーラが集まっているという結果からすればそうですけれども意思として特に集中しようと意図したわけではありません。
下半身のオーラがだるまさんのように丸く安定した結果、勝手にオーラが眉間のあたりに集まるようになった、というお話です。
もしかしたら、そもそもの瞑想の意義とはこういうものなのかもしれませんね。
意図的に集めようとしているうちはまだまだで、オーラが勝手に集まるような状態を目指してその練習をしているのが瞑想である、とも言えるのかもしれません。
これは、呼吸法にも言えますね。最終的な目標の状態をマスターが弟子に教えて弟子はマスターの真似をする。しかし、マスターは努力をそもそもしておらず、単に自分の状態を伝えただけなのでしょう。であれば、瞑想にしても努力するものではなくてマスターの状態が眉間に集中... と言いますか眉間にオーラが集まっている状態なのだ、という解釈もできます。
そんな気がしてきました。
表現の違いといえばそうかもしれませんけど、以前および今日くらいまではこれらの状態を「オーラを集める」だとか「オーラが眉間に集まる」とか「眉間に集中する」とか表現していたわけですけれども、瞑想でこれらの状態を観察していましたところ、どうやらオーラを集めるというのは一応は正しいものの、手のひらでオーラを持って頭の上に集めようとしているようなイメージ、あるいは、頭の上半分が空洞で、そこの周囲にオーラを集めている、という表現の方が正しい気がしてきました。
昔、マニプラ優勢の頃にアナハタの感触がなくてアナハタにエネルギーがあまり通っていなかった時の感覚に似ています。今は頭の上半分のアジナに感触がありませんのでアジナにエネルギーがあまり通っておらず、アジナにエネルギーを集めようとしている状態なのだと思います。アナハタ優勢になる以前の経過を踏まえて、アジナも同じような経過を辿るのだと仮定すればおそらくは今はアジナにエネルギーをようやく通そうとしている状態なのかなと思います。
チャクラって「開く」って表現されますけど、開くというのも間違いではないにせよ、エネルギーがそこに通る、という感じだと思いますので、アジナにエネルギーが通っていない現在の状態においてようやくその「境目」が認識されるようになったのであれば、それはマニプラ優勢の頃にアナハタに対して境目とアナハタの感触のなさを感じていてその後アナハタにエネルギーが通り始めたのと同様、アジナより下にエネルギーが満ち始めてオーラの体がだるまさんのようになってアジナに対して境目とアジナの感触のなさを感じているのは、割と良い傾向なのではないかなと思っております。
その上に、ドラえもんの頭のようにちょこんと丸い頭が乗っかっています。
かなり昔はオーラを頭に集めたままにしていると不安定になって情緒不安定になったりしたものでした。ですから、以前は瞑想中に頭にオーラを集中させても瞑想を終える前にオーラを胸かお腹の辺りまで下ろすことが肝心でした。
しかし、今はオーラを頭に集めても安定していますし、そのまま瞑想を終えても特に問題ありません。
今から思えば昔はオーラが縦長だったかもしれません。体のオーラが安定していなくて、体に沿った縦長のオーラの上にある頭にオーラを集めようとしてもなかなか集まらなかったり安定しなかったように思います。
しかし、今は体の部分がどっしりと安定しておりますので、頭にオーラを集めてもそのままで安定しています。
頭の、眉間の辺りにオーラが集中している... と言いますか、勝手にそうなる感じです。
昔は意識してオーラを頭に集める必要がありました。
今は、眉間のあたりにオーラが勝手に集まる、という感じです。
これを集中と言うのかどうかは微妙なところで、オーラが集まっているという結果からすればそうですけれども意思として特に集中しようと意図したわけではありません。
下半身のオーラがだるまさんのように丸く安定した結果、勝手にオーラが眉間のあたりに集まるようになった、というお話です。
もしかしたら、そもそもの瞑想の意義とはこういうものなのかもしれませんね。
意図的に集めようとしているうちはまだまだで、オーラが勝手に集まるような状態を目指してその練習をしているのが瞑想である、とも言えるのかもしれません。
これは、呼吸法にも言えますね。最終的な目標の状態をマスターが弟子に教えて弟子はマスターの真似をする。しかし、マスターは努力をそもそもしておらず、単に自分の状態を伝えただけなのでしょう。であれば、瞑想にしても努力するものではなくてマスターの状態が眉間に集中... と言いますか眉間にオーラが集まっている状態なのだ、という解釈もできます。
そんな気がしてきました。
表現の違いといえばそうかもしれませんけど、以前および今日くらいまではこれらの状態を「オーラを集める」だとか「オーラが眉間に集まる」とか「眉間に集中する」とか表現していたわけですけれども、瞑想でこれらの状態を観察していましたところ、どうやらオーラを集めるというのは一応は正しいものの、手のひらでオーラを持って頭の上に集めようとしているようなイメージ、あるいは、頭の上半分が空洞で、そこの周囲にオーラを集めている、という表現の方が正しい気がしてきました。
昔、マニプラ優勢の頃にアナハタの感触がなくてアナハタにエネルギーがあまり通っていなかった時の感覚に似ています。今は頭の上半分のアジナに感触がありませんのでアジナにエネルギーがあまり通っておらず、アジナにエネルギーを集めようとしている状態なのだと思います。アナハタ優勢になる以前の経過を踏まえて、アジナも同じような経過を辿るのだと仮定すればおそらくは今はアジナにエネルギーをようやく通そうとしている状態なのかなと思います。
チャクラって「開く」って表現されますけど、開くというのも間違いではないにせよ、エネルギーがそこに通る、という感じだと思いますので、アジナにエネルギーが通っていない現在の状態においてようやくその「境目」が認識されるようになったのであれば、それはマニプラ優勢の頃にアナハタに対して境目とアナハタの感触のなさを感じていてその後アナハタにエネルギーが通り始めたのと同様、アジナより下にエネルギーが満ち始めてオーラの体がだるまさんのようになってアジナに対して境目とアジナの感触のなさを感じているのは、割と良い傾向なのではないかなと思っております。
瞑想における意識の拡大
意識が静まることで微細な意識が近くを感じるようになりました。今はせいぜい半径50cmというくらいです。
これを通称で「意識の拡大」とでも呼ぶのでしょうか?
以前は、意識の拡大とは言ってもいわゆる心・マインドが拡大するような感じでした。
今は、心・マインドが逆に縮小していて、それよりも微細な感覚が外に広がっている感じです。
これを瞑想の用語で表現すると、心・マインドは内へ集中するのでサマタ瞑想(集中瞑想)をしていることになり、それと同時に、それよりも微細な感覚、おそらくは五感よりも微細な感覚・・・ と言いますか、皮膚の感覚よりも微細な感じる何かが外側に広がるのでいわゆるヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もしていることになるかと思います。
瞑想というとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のどちらかを行う、というような理解が多いように思うわけですけれども、この場合、サマタ瞑想である心・マインドの集中瞑想と微細な感覚による観察であるヴィパッサナー瞑想を同時に行なっていることになるわけです。
サマタ瞑想の心・マインドは五感と同じかそれよりも少しだけ微細な階層だと思われます。
一方、ヴィパッサナー瞑想で外側に微細に広がっている観察する感覚はおそらく五感を超えているものだと思われます。
瞑想で意識の拡大が言われておりますが、心・マインド・五感の階層で広がるのとそれよりも超えた部分で広がるのとではおそらく違いがあるのだと思います。
最近の瞑想では、その区分が割としっかりとしてきたように思います。以前はその区別がもっと曖昧でした。今後は更に明確になるのかもしれません。
ここでいう区分とは、瞑想中にサマタとしての体の近くにおける何か・・・ いわゆるオーラと呼ばれるようなものの定着と、それと同時に、周囲に広がる微細な感覚とが以前は割とごっちゃになっていたのですが、定着する部分と広がる部分とが割と明確になってきた、ということです。
心・マインドがしっかりと定着して体の近くに固定されればされるほど周囲の微細な感覚と言いますか観察する部分が出てくるような気が致します。
ですから、よくある説明で「ヴィパッサナー瞑想は皮膚などの感覚を観察すること」というお話は私にはピンとこないのです。それは五感を使って観察するのであればサマタ瞑想(集中瞑想)だと思いますし、これはその流派における表現だけかもしれませんが、五感がヴィパッサナー瞑想だと勘違いしてしまうと五感が敏感になってしまって、例えばとある流派の人たちの特徴のように「怒りの沸点がとても低くてキレやすい」人を大量生産することにもなりかねません。ですが、基本はサマタ瞑想で五感を抑えて心・マインドを体の近くに定着することを心がけていればそんなことにはならないと思うわけです。
基本はサマタ瞑想で集中をして、やがて自然にヴィパッサナーの観察状態になるのだと今は思います。
であれば、ヴィパッサナーとかをあまり気にせずにサマタ瞑想をしていればいいのかな、と思います。
これを通称で「意識の拡大」とでも呼ぶのでしょうか?
以前は、意識の拡大とは言ってもいわゆる心・マインドが拡大するような感じでした。
今は、心・マインドが逆に縮小していて、それよりも微細な感覚が外に広がっている感じです。
これを瞑想の用語で表現すると、心・マインドは内へ集中するのでサマタ瞑想(集中瞑想)をしていることになり、それと同時に、それよりも微細な感覚、おそらくは五感よりも微細な感覚・・・ と言いますか、皮膚の感覚よりも微細な感じる何かが外側に広がるのでいわゆるヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もしていることになるかと思います。
瞑想というとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のどちらかを行う、というような理解が多いように思うわけですけれども、この場合、サマタ瞑想である心・マインドの集中瞑想と微細な感覚による観察であるヴィパッサナー瞑想を同時に行なっていることになるわけです。
サマタ瞑想の心・マインドは五感と同じかそれよりも少しだけ微細な階層だと思われます。
一方、ヴィパッサナー瞑想で外側に微細に広がっている観察する感覚はおそらく五感を超えているものだと思われます。
瞑想で意識の拡大が言われておりますが、心・マインド・五感の階層で広がるのとそれよりも超えた部分で広がるのとではおそらく違いがあるのだと思います。
最近の瞑想では、その区分が割としっかりとしてきたように思います。以前はその区別がもっと曖昧でした。今後は更に明確になるのかもしれません。
ここでいう区分とは、瞑想中にサマタとしての体の近くにおける何か・・・ いわゆるオーラと呼ばれるようなものの定着と、それと同時に、周囲に広がる微細な感覚とが以前は割とごっちゃになっていたのですが、定着する部分と広がる部分とが割と明確になってきた、ということです。
心・マインドがしっかりと定着して体の近くに固定されればされるほど周囲の微細な感覚と言いますか観察する部分が出てくるような気が致します。
ですから、よくある説明で「ヴィパッサナー瞑想は皮膚などの感覚を観察すること」というお話は私にはピンとこないのです。それは五感を使って観察するのであればサマタ瞑想(集中瞑想)だと思いますし、これはその流派における表現だけかもしれませんが、五感がヴィパッサナー瞑想だと勘違いしてしまうと五感が敏感になってしまって、例えばとある流派の人たちの特徴のように「怒りの沸点がとても低くてキレやすい」人を大量生産することにもなりかねません。ですが、基本はサマタ瞑想で五感を抑えて心・マインドを体の近くに定着することを心がけていればそんなことにはならないと思うわけです。
基本はサマタ瞑想で集中をして、やがて自然にヴィパッサナーの観察状態になるのだと今は思います。
であれば、ヴィパッサナーとかをあまり気にせずにサマタ瞑想をしていればいいのかな、と思います。
純化されつつあるやや曇ったオーラを通して周囲を認識する
意識が拡大するにつれて体の周囲のオーラの境界を感じるようになりました。
心が穏やかになり、意識が広がると、体のオーラと外側との境界がザワザワとした水面のように感じられるようになったのです。
それは、シュタイナーの説く境域の守護者かもしれませんし、単なるオーラの壁のようにも見えます。
体と、体の近くに存在しているオーラまでが内側です。オーラの外側との境界がそのように濁ったようなザワザワしたような水面あるいは灰色の雲のように感じられます。
内側から見るとオーラの境界のざわつきであり、その外側に広い世界が広がっています。
外側を感じることを意識の拡大といえばそうでしょうし、この、内側から外側を見たときの景色をシュタイナーの言う境域の守護者だといえばそれはそうかもしれません。
内側から曇りガラスを通して外を眺めるとよく見えないのと同様に、曇ったオーラを通じては外がよく見えません。
外側に立っている守護霊や友人知人の霊などの存在を見て、それがよく見えない初期の段階のことをシュタイナーは境域の守護者と呼んだのかもしれません。なんとなくそんな気が致します。
精神的訓練を始める前は完全にオーラが濁っていて何も外が見えなかったりしますが、やがてオーラが純化されてきて雲の色が次第に白くなってゆき、まだ曇ってはいるものの霧が次第に晴れてきて外側が見えるか見えないくらいになったとき、その時、初めて外側の景色を曇ったオーラを通じて見たら、それは雲のようにぼやけた霊の体のように見えるかもしれません。それを境域の守護者とか呼んだのかもしれません。
境域の守護者とか言っているのはシュタイナーくらいですが、確かに、曇ったオーラを通して外を眺めるとそのように見えるかもしれません。シュタイナーは存命ではないのでこれは想像になってしまいますが。
シュタイナーは境域の守護者を突破して霊界への扉を開く、と言うようなことを言っています。
であれば、その段階とは、意識が次第にクリアになってあと少しの曇りが残っている状態になって外がようやく見え始めた段階のことを言うのかな、と推測できます。
瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影もそれに準じたものかもしれません。
この推測が正しいのであれば、それは境域の守護者とか大そうなものではなく、見えたものがそのようにも解釈できる段階に達した、と言うことなのでしょう。
ゾクチェンで言うテクチュの境地がこれに該当するのかなと思います。テクチュは曇りがある程度晴れてはいるものの完全に晴れてはおりませんので似ている気が致しますし、段階的にも合っています。
まあ、本人に聞くことはできないので想像です。ですが、そんな気が致します。
心が穏やかになり、意識が広がると、体のオーラと外側との境界がザワザワとした水面のように感じられるようになったのです。
それは、シュタイナーの説く境域の守護者かもしれませんし、単なるオーラの壁のようにも見えます。
体と、体の近くに存在しているオーラまでが内側です。オーラの外側との境界がそのように濁ったようなザワザワしたような水面あるいは灰色の雲のように感じられます。
内側から見るとオーラの境界のざわつきであり、その外側に広い世界が広がっています。
外側を感じることを意識の拡大といえばそうでしょうし、この、内側から外側を見たときの景色をシュタイナーの言う境域の守護者だといえばそれはそうかもしれません。
内側から曇りガラスを通して外を眺めるとよく見えないのと同様に、曇ったオーラを通じては外がよく見えません。
外側に立っている守護霊や友人知人の霊などの存在を見て、それがよく見えない初期の段階のことをシュタイナーは境域の守護者と呼んだのかもしれません。なんとなくそんな気が致します。
精神的訓練を始める前は完全にオーラが濁っていて何も外が見えなかったりしますが、やがてオーラが純化されてきて雲の色が次第に白くなってゆき、まだ曇ってはいるものの霧が次第に晴れてきて外側が見えるか見えないくらいになったとき、その時、初めて外側の景色を曇ったオーラを通じて見たら、それは雲のようにぼやけた霊の体のように見えるかもしれません。それを境域の守護者とか呼んだのかもしれません。
境域の守護者とか言っているのはシュタイナーくらいですが、確かに、曇ったオーラを通して外を眺めるとそのように見えるかもしれません。シュタイナーは存命ではないのでこれは想像になってしまいますが。
シュタイナーは境域の守護者を突破して霊界への扉を開く、と言うようなことを言っています。
であれば、その段階とは、意識が次第にクリアになってあと少しの曇りが残っている状態になって外がようやく見え始めた段階のことを言うのかな、と推測できます。
瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影もそれに準じたものかもしれません。
この推測が正しいのであれば、それは境域の守護者とか大そうなものではなく、見えたものがそのようにも解釈できる段階に達した、と言うことなのでしょう。
ゾクチェンで言うテクチュの境地がこれに該当するのかなと思います。テクチュは曇りがある程度晴れてはいるものの完全に晴れてはおりませんので似ている気が致しますし、段階的にも合っています。
まあ、本人に聞くことはできないので想像です。ですが、そんな気が致します。
幽体離脱中に2000年問題を回避したお話
何度か書いておりますように子供の頃に幽体離脱をして過去と未来とを長い間彷徨って真理を見たりハイヤーセルフや守護霊たちから学んだりしたわけですけれども、その時、あるいは、その後に夢の中でいわゆる2000年問題に対処したことを思い出しました。
その頃、私はまだ学生で卒業するかどうかという頃でしたが、時代はインターネットによるITバブルと2000年問題で盛り上がっていたように思います。
具体的には、その時代に対処したわけではない... というと語弊がありますが、こういうことです。
更に遡ること7〜8年前にたしか最初に幽体離脱をして、その時、時間を超えて過去と未来を行き来して様々なことを学んだり将来の意識に入り込んで意思決定をしました。
これ、なかなか理解されにくいことですけど、幽体離脱した後は時間を過去にも未来にも行き来できましたので、基本は近くの時代にスライドするのですが、大きく行き来することもできました。
その幽体離脱した時の意識の空間は繋がっていて、例えば、そのとある幽体離脱の数年経った後に夢で同じ空間に接続して同じ意識に繋がって意思決定をする、という時もありました。どちらも同じ空間ですので、数年前に幽体離脱した時の意思決定と、後に夢で接続した意思決定はどちらも同じ瞬間の意志なのです。
このことを人は「今しか存在しない」「未来とか過去は存在しない」とか言ったりするのかもしれませんけど、言い方はともかく、意志の空間は繋がっていて、そこは過去にも未来にも意識のフォーカスによってスライドできますので、そうして、意識のスライドのとある瞬間において2000年問題にフォーカスしたことがあるのです。
幽体離脱した私の意識は時代をフォーカスしているとある時代に2000年問題で盛り上がっているのを発見しました。
上に書いたように、幽体離脱の時にしたのか、あるいは、夢の時にしたのかは微妙なところで、同じ空間に繋がっておりますので、どちらも正解ではあるのですが、まあ、幽体離脱で2000年問題を解決したとも夢で2000年問題を解決したとも、どちらとも言えるわけです。
まあ、所詮はこのような幽体離脱でのお話ですので、一般的には、夢のお話だと思っておいて下されば良いです。何も証拠はないですしね。
ですから、これから話すことは夢で見たお話だと思ってください。
幽体離脱、あるいは夢の中で私はとあるタイムラインを漂っていました。
2000年問題が起きて、社会が混乱する姿を見ました。
問題として大きかったのはヨーロッパの、おそらくは西の方、フランスかスペインか・・・ その辺りの電力系の問題が発端として暗い夜に突入し、人心が不安定になり恐慌および争いの世の中に突入するタイムラインでした。その他にもたしかアメリカの問題や、日本の問題もありました。さすがに20年以上前の記憶ですので曖昧ですが、たしか原子力発電所の問題もあってメルトダウンに近い問題も生じていたような気が致します。
ですから、その時の私の意識は時代を行き来するうちにこれは良くない・・・ という印象を強く持ったようです。
その時、私の意識は誰から指示されたわけでもなく・・・ と思ってはおりますが実は上位の意思があったのかもしれませんが、少なくともその時の私の幽体離脱中の夢っぽい意識の中においては半分「実験」のつもりで、問題究明および解決にあたったのでした。
問題究明とは言いましても、時間軸を行ったり来たりできますので、基本的には未来のニュースを見て原因特定している番組の内容から理由を知るだけのお話です。
数ヶ月あるいは数年経てば原因究明も進んで詳しくテレビ報道しますが、その時は問題が大きかったので原因究明は早くて1ヶ月とか数ヶ月もしないうちにテレビで様々なお話が流れていたように思います。
原因究明がそのくらいでできたということは対処も割と短期間でできた筈ですが社会に残った傷跡は大きく、どうやら今のようなインターネットによるIT革命は今日ほど盛んではなくてITバブルの出鼻を2000年問題でくじいてしまってITに資金があまり行かずに旧来型産業が温存されたようにも思います。このあたりはちゃんと見ておりませんので半分は印象によるインプレッションになりますが、状況はどうあれ、世界の全体を見たら2000年問題で大きく時代が動いて暗い世の中になっていたと思います。少なくとも私の見たタイムラインではそうでした。
そうして原因を特定できたら後は時代を遡ってその原因である研究所あるいは開発のオフィスに出向いて、問題のところを研究者あるいは開発者の意識に植え付け、直るまで繰り返し繰り返し意識にそのことを働きかけるだけです。一旦問題に気が付けばそこは専門家ですから適切に対処してもらえるというわけです。
そうして、2000年問題はほとんど解決して、2000年の大晦日は静かに過ぎて行きました。人々は、何も起こらなかった夜を揶揄して騒ぎ過ぎだとか口々に言ったわけですけれども、実際は大騒ぎしていた筈だったのです。
そういえばその前後にジョンタイターとかの予言が流行ったりしましたけど、私はその人が本物かどうかはわかりませんけど少なくとも言っていることのうちに2000年問題のこともあって、それを境に世界が暗い方向に行くというのは私が見たタイムラインと妙に一致しておりましたので当時は興味深く眺めておりました。
まあ、未来人かどうかはともかく、意志が過去や未来に行くのは幽体離脱時の経験からしてあり得ると思いますし、意志の世界には時間的制約はあまりないのではないでしょうか。
同じ幽体離脱と言っても他の人の経験談には時間を超えるお話はあまり出てこないように思いますが、それは、地上の生活に慣れ過ぎていて時間的制約に意思が囚われているだけで、時間を越えようと思えば超えられるように思うのですが、どうでしょうか。
それはともかく、そうして2000年問題は回避され、ITバブルでインターネット企業に大金が投資され、こうして世界はインターネット企業が時価総額のトップを飾る世界になっているわけです。
この現代を人はインターネット企業の独占が問題だとか言ったりするわけですけれども、違うタイムラインで従来型産業が維持されていて世界各地の紛争も今のタイムラインよりも多くてインターネット企業が今のタイムラインよりも細々と存在している世界とを比べますと、今のタイムラインは色々問題があるとはいえ、割とマシなタイムラインなのではないかと思うわけです。
ま、こういうのは信じる必要はないです。
上に書いてあるように、夢で見たお話ですからね。
しばらくすっかり忘れておりましたが、不意に思い出しましたので書いてみました。
その頃、私はまだ学生で卒業するかどうかという頃でしたが、時代はインターネットによるITバブルと2000年問題で盛り上がっていたように思います。
具体的には、その時代に対処したわけではない... というと語弊がありますが、こういうことです。
更に遡ること7〜8年前にたしか最初に幽体離脱をして、その時、時間を超えて過去と未来を行き来して様々なことを学んだり将来の意識に入り込んで意思決定をしました。
これ、なかなか理解されにくいことですけど、幽体離脱した後は時間を過去にも未来にも行き来できましたので、基本は近くの時代にスライドするのですが、大きく行き来することもできました。
その幽体離脱した時の意識の空間は繋がっていて、例えば、そのとある幽体離脱の数年経った後に夢で同じ空間に接続して同じ意識に繋がって意思決定をする、という時もありました。どちらも同じ空間ですので、数年前に幽体離脱した時の意思決定と、後に夢で接続した意思決定はどちらも同じ瞬間の意志なのです。
このことを人は「今しか存在しない」「未来とか過去は存在しない」とか言ったりするのかもしれませんけど、言い方はともかく、意志の空間は繋がっていて、そこは過去にも未来にも意識のフォーカスによってスライドできますので、そうして、意識のスライドのとある瞬間において2000年問題にフォーカスしたことがあるのです。
幽体離脱した私の意識は時代をフォーカスしているとある時代に2000年問題で盛り上がっているのを発見しました。
上に書いたように、幽体離脱の時にしたのか、あるいは、夢の時にしたのかは微妙なところで、同じ空間に繋がっておりますので、どちらも正解ではあるのですが、まあ、幽体離脱で2000年問題を解決したとも夢で2000年問題を解決したとも、どちらとも言えるわけです。
まあ、所詮はこのような幽体離脱でのお話ですので、一般的には、夢のお話だと思っておいて下されば良いです。何も証拠はないですしね。
ですから、これから話すことは夢で見たお話だと思ってください。
幽体離脱、あるいは夢の中で私はとあるタイムラインを漂っていました。
2000年問題が起きて、社会が混乱する姿を見ました。
問題として大きかったのはヨーロッパの、おそらくは西の方、フランスかスペインか・・・ その辺りの電力系の問題が発端として暗い夜に突入し、人心が不安定になり恐慌および争いの世の中に突入するタイムラインでした。その他にもたしかアメリカの問題や、日本の問題もありました。さすがに20年以上前の記憶ですので曖昧ですが、たしか原子力発電所の問題もあってメルトダウンに近い問題も生じていたような気が致します。
ですから、その時の私の意識は時代を行き来するうちにこれは良くない・・・ という印象を強く持ったようです。
その時、私の意識は誰から指示されたわけでもなく・・・ と思ってはおりますが実は上位の意思があったのかもしれませんが、少なくともその時の私の幽体離脱中の夢っぽい意識の中においては半分「実験」のつもりで、問題究明および解決にあたったのでした。
問題究明とは言いましても、時間軸を行ったり来たりできますので、基本的には未来のニュースを見て原因特定している番組の内容から理由を知るだけのお話です。
数ヶ月あるいは数年経てば原因究明も進んで詳しくテレビ報道しますが、その時は問題が大きかったので原因究明は早くて1ヶ月とか数ヶ月もしないうちにテレビで様々なお話が流れていたように思います。
原因究明がそのくらいでできたということは対処も割と短期間でできた筈ですが社会に残った傷跡は大きく、どうやら今のようなインターネットによるIT革命は今日ほど盛んではなくてITバブルの出鼻を2000年問題でくじいてしまってITに資金があまり行かずに旧来型産業が温存されたようにも思います。このあたりはちゃんと見ておりませんので半分は印象によるインプレッションになりますが、状況はどうあれ、世界の全体を見たら2000年問題で大きく時代が動いて暗い世の中になっていたと思います。少なくとも私の見たタイムラインではそうでした。
そうして原因を特定できたら後は時代を遡ってその原因である研究所あるいは開発のオフィスに出向いて、問題のところを研究者あるいは開発者の意識に植え付け、直るまで繰り返し繰り返し意識にそのことを働きかけるだけです。一旦問題に気が付けばそこは専門家ですから適切に対処してもらえるというわけです。
そうして、2000年問題はほとんど解決して、2000年の大晦日は静かに過ぎて行きました。人々は、何も起こらなかった夜を揶揄して騒ぎ過ぎだとか口々に言ったわけですけれども、実際は大騒ぎしていた筈だったのです。
そういえばその前後にジョンタイターとかの予言が流行ったりしましたけど、私はその人が本物かどうかはわかりませんけど少なくとも言っていることのうちに2000年問題のこともあって、それを境に世界が暗い方向に行くというのは私が見たタイムラインと妙に一致しておりましたので当時は興味深く眺めておりました。
まあ、未来人かどうかはともかく、意志が過去や未来に行くのは幽体離脱時の経験からしてあり得ると思いますし、意志の世界には時間的制約はあまりないのではないでしょうか。
同じ幽体離脱と言っても他の人の経験談には時間を超えるお話はあまり出てこないように思いますが、それは、地上の生活に慣れ過ぎていて時間的制約に意思が囚われているだけで、時間を越えようと思えば超えられるように思うのですが、どうでしょうか。
それはともかく、そうして2000年問題は回避され、ITバブルでインターネット企業に大金が投資され、こうして世界はインターネット企業が時価総額のトップを飾る世界になっているわけです。
この現代を人はインターネット企業の独占が問題だとか言ったりするわけですけれども、違うタイムラインで従来型産業が維持されていて世界各地の紛争も今のタイムラインよりも多くてインターネット企業が今のタイムラインよりも細々と存在している世界とを比べますと、今のタイムラインは色々問題があるとはいえ、割とマシなタイムラインなのではないかと思うわけです。
ま、こういうのは信じる必要はないです。
上に書いてあるように、夢で見たお話ですからね。
しばらくすっかり忘れておりましたが、不意に思い出しましたので書いてみました。
まことの悟りが現れる前兆
ゾクチェンの3つの境地に当てはめればテクチュの境地の後にトゥガルの境地があるわけですけれども、おそらくは私はテクチュにいてこれからトゥガルかな、ということはここ数ヶ月の考察で推測してきたわけですけれども、最近の心が水面のように穏やかになるのは比喩ではないという経験あるいはヴィパッサナー的な「識」の状態に関して、面白い記述を本に見つけました。
同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。
心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。
ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。
ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。
妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
なるほど。道はここに示されたような気が致します。
同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。
心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。
ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。
ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。
妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」
なるほど。道はここに示されたような気が致します。
スローモーションのヴィパッサナー状態を妨げる習慣
いくつかの習慣により、いわゆるスローモーションのヴィパッサナー状態が妨げられるようです。
・食べ過ぎ
・お肉
・きのこ類?(要検証)
・揚げ物類(天ぷら等)
これはヨーガでよろしくないと言われている食べ物と被る部分があります。
最近のスローモーションのヴィパッサナー状態に至る前は、そこまで影響はなかったように思います。
ですから、ヨーガ等で言われている食事の習慣は文化的なものが大きいのかな、と思っておりました。今までは。
食生活においては、教理とは関係なく自然にお肉は食べなくなってきておりましたし、食事の量も減ってきておりました。ですので、自然に変わる食生活に従えば良いのかな、というくらいに思っていたのですが、どうやら、ここに来て自然以上に遥かに食生活に影響を与えている習慣があったことに気付かされました。
まあ、それも含めて自然な変化だと言えばそうなのかもしれませんが、これは明確にわかる感覚ですので、以前のようになんとなく食べなくなる、という感覚よりもはっきりとしたものです。
明確にヴィパッサナー状態が妨げられますので、はっきりと良くないことが分かるのです。
きのこ類は微妙で、多少は影響がある感じです。お肉は牛肉はマシですが豚肉はかなり悪いですね。鶏肉もそんなに良くないです。
感覚的なものとしてお肉は避けてきており、お肉くらいしか選択肢がない時は仕方なく食べても後悔することが多く、お酒も飲みたくなくなって最近はゼロなのです。
今までは、害があるとは言っても具体的にはちょっと気分が重くなるという程度でしたが、最近はスローモーションのヴィパッサナー状態という具体的な状態が判断の基準になってきておりますので、そうした害のある食べ物を取り入れると明確にヴィパッサナー状態が妨げられるのが分かるわけです。
ですから、たまに聞くお話として、「ある程度に達したら食事は何を取っても良い」みたいな話は、少し前まではもうそんな段階なのかもしれないと思ったりしたこともありましたが、どうやら全然そんな状態ではないことがわかりました。
最終段階に至っても食事に影響されないなんてことがあるのでしょうかね? なんだか、影響されないなんてことは永遠にない気がしてきました。
理屈を考えてみれば当然で、食事を取るということはそのもののオーラを取り入れるということですから、淀んだオーラの食物を取り入れれば自分のオーラが淀むのは当然のことであるわけです。
もちろん、淀んだオーラも純粋なオーラもそれよりも上の階層から見たら同じ「わたし」なわけですが、そんなレベルは私はまだ知りませんし。
であれば、この地上に住む以上は相手のオーラを取り入れることが食事という行為である以上、永遠に食事に気を付けるというのがいい気がしてきました。
おそらくは、このあたりが理解できない人向けに「何を食べてもいいんですよ」と過去のグルが言った大衆向けの説明から始まったお話の気もします。
生活習慣で言えば身の回りの環境もそうですね。大衆向けの説明に「どんな生活をしてもいいのですよ」とは言っても、実際には清潔で純粋な環境でなければヴィパッサナー状態は失われて行きます。これもオーラで説明がつきますし、そんな説明しなくても感覚的に当然だと思うわけですが、それでも、「理解」を求める大衆向けには「それでいいんですよ」と言ってあげる必要があるような気がします。
一方で、良いこと良くないことは明確な基準があって、分かる人は従えばいいのだと思います。
その辺りも、従う従わないという選択は自由意志が尊重されているわけですし、自由に生きればいいわけです。
・食べ過ぎ
・お肉
・きのこ類?(要検証)
・揚げ物類(天ぷら等)
これはヨーガでよろしくないと言われている食べ物と被る部分があります。
最近のスローモーションのヴィパッサナー状態に至る前は、そこまで影響はなかったように思います。
ですから、ヨーガ等で言われている食事の習慣は文化的なものが大きいのかな、と思っておりました。今までは。
食生活においては、教理とは関係なく自然にお肉は食べなくなってきておりましたし、食事の量も減ってきておりました。ですので、自然に変わる食生活に従えば良いのかな、というくらいに思っていたのですが、どうやら、ここに来て自然以上に遥かに食生活に影響を与えている習慣があったことに気付かされました。
まあ、それも含めて自然な変化だと言えばそうなのかもしれませんが、これは明確にわかる感覚ですので、以前のようになんとなく食べなくなる、という感覚よりもはっきりとしたものです。
明確にヴィパッサナー状態が妨げられますので、はっきりと良くないことが分かるのです。
きのこ類は微妙で、多少は影響がある感じです。お肉は牛肉はマシですが豚肉はかなり悪いですね。鶏肉もそんなに良くないです。
感覚的なものとしてお肉は避けてきており、お肉くらいしか選択肢がない時は仕方なく食べても後悔することが多く、お酒も飲みたくなくなって最近はゼロなのです。
今までは、害があるとは言っても具体的にはちょっと気分が重くなるという程度でしたが、最近はスローモーションのヴィパッサナー状態という具体的な状態が判断の基準になってきておりますので、そうした害のある食べ物を取り入れると明確にヴィパッサナー状態が妨げられるのが分かるわけです。
ですから、たまに聞くお話として、「ある程度に達したら食事は何を取っても良い」みたいな話は、少し前まではもうそんな段階なのかもしれないと思ったりしたこともありましたが、どうやら全然そんな状態ではないことがわかりました。
最終段階に至っても食事に影響されないなんてことがあるのでしょうかね? なんだか、影響されないなんてことは永遠にない気がしてきました。
理屈を考えてみれば当然で、食事を取るということはそのもののオーラを取り入れるということですから、淀んだオーラの食物を取り入れれば自分のオーラが淀むのは当然のことであるわけです。
もちろん、淀んだオーラも純粋なオーラもそれよりも上の階層から見たら同じ「わたし」なわけですが、そんなレベルは私はまだ知りませんし。
であれば、この地上に住む以上は相手のオーラを取り入れることが食事という行為である以上、永遠に食事に気を付けるというのがいい気がしてきました。
おそらくは、このあたりが理解できない人向けに「何を食べてもいいんですよ」と過去のグルが言った大衆向けの説明から始まったお話の気もします。
生活習慣で言えば身の回りの環境もそうですね。大衆向けの説明に「どんな生活をしてもいいのですよ」とは言っても、実際には清潔で純粋な環境でなければヴィパッサナー状態は失われて行きます。これもオーラで説明がつきますし、そんな説明しなくても感覚的に当然だと思うわけですが、それでも、「理解」を求める大衆向けには「それでいいんですよ」と言ってあげる必要があるような気がします。
一方で、良いこと良くないことは明確な基準があって、分かる人は従えばいいのだと思います。
その辺りも、従う従わないという選択は自由意志が尊重されているわけですし、自由に生きればいいわけです。