精神的成長とスピリチュアルな知恵の探求 - 瞑想録 2020年5月

2020-05-01 記
トピックスピリチュアル

環境問題より精神的な成長を優先すべき

環境第一の方には申し訳ありませんが、一部の人が頑張っても世界の人口は増え続けておりますし多くの方が貧困から脱出するごとに大きなエネルギーを使うようになりますので環境問題は解決しません。

このままではあと300年ほどで地球に作物が育たなくなり、海の魚も激減し、世界の人口は今の10分の1くらいにまで落ち込みます。

それは予想されておりますし、未来を見れる方がタイムラインを覗いてもそのようなことが確認できます。そのタイムラインは存在しております。ただ、他のタイムラインも存在しております。

半世紀ほど前でしょうか。アメリカなど主要国のトップに善意の宇宙人がコンタクトしたことがあります。

地球上の戦争をやめて、富を分配して平和に平等に暮らすようにするのであればクリーンなテクノロジーを提供すると提案されたのです。

しかし、当時の支配者は支配を辞めたくありませんでしたし庶民を助けるどころか奴隷化したいと思っておりましたからその提案を拒否し、他の宇宙人とコンタクトをしたり宇宙船を攻撃したりしてテクノロジーを手に入れたわけです。

環境問題はテクノロジーが生み出した悲劇ですから、テクノロジーで解決すれば良いわけです。地球のテクノロジーの多くは生え抜きの地球人というよりも宇宙から来た優れた魂が生み出したもの・・・ と言いますか、宇宙からのインスピレーションを受けて発明したものですから、環境問題の解決を宇宙からの助けに頼っても問題ないと思うのです。

このあたりは割と有名で多くのところで噂されておりますが、かなりの部分で真実です。

今の環境問題は問題を煽って環境に対する優越感や罪悪感を植え付けることで問題解決しようとしている場面が多いですが、精神的な成長と共に育つ環境意識とは全く別物です。地球に住めなくなると言って他人を貶めようとしたり、和やかな環境で他人の環境と比べて優越感を感じることは本質的ではないどころか、最終的に争いを産んで環境を全て壊すことになります。

精神的な成長をすれば環境にも気を使うようになり、かなり質素な生活に満足するようになります。質素ですが清潔な生活です。

宇宙人が助けるとか言っても、メシアではありません(苦笑)
ただ単に手助けしてくれるだけで、自分の足で立つ必要があります。

環境のテクノロジーは環境だけでなくエネルギー供給にも革命が起きますので、環境問題は解決し、人類は平等になります。少なくともその基盤ができます。

今は石油に頼っておりますので、石油がなくなると人類の文明は死滅すると思っている人が多いですが、意外にそうでもないです。

宇宙人に頼ってしまうと人間の自立心や自尊心が損なわれると思っている人もそれなりにいますが、意外にそうでもないです。ノーベル賞の学者の研究結果で人類生活が改善されてきましたが、それは自立心や自尊心とは全く関係がないでしょう? それと同じことです。

地球で環境問題をしようとすると経済のお話や格差のお話に繋がって利権や政治のお話になってしまいます。それでは解決しません。

現代の環境問題を解決しようとするより、地球上から戦争を無くして、貧困もある程度までなくすことで宇宙からの手助けに頼った方が環境問題の解決は早いと思います。

戦争と貧困の解決ができなければ地球の環境は数百年で上記のようになるだけです。現実というのは残酷なもので、争いを続けていればそのタイムラインに入っていく、というそれだけのことです。

注意しなくてはならないのは、自尊心や自立心を失ってはならない、ということです。宇宙からやってくるメシアを求めるような依存する気持ちを持ってはいけないのです。ただ単に、ノーベル賞と同じような枠が貴方から遠いところに1つ新たに出来上がるだけです。ですが、それは全て、戦争をこの地球からなくせるかどうかにかかっており、そのためには環境問題よりも精神的な成長と解決を目指した方が早いと思うのです。

環境破壊の原因で一番大きなものはエネルギーです。食事や自然農法で解決はしないですし、循環型社会とか言っても解決しません。環境を叫びながら自然農法したところでガソリン使う車にいつも乗って生活している間は永久に解決しなくて、残念ながら、現在のタイムラインに乗ってそのまま進めば数百年後には地球に作物が育たなくなります。その時はその時で、そんなものだと思うだけかもしれないですけど。

環境破壊の原因はエネルギー産業にあり、エネルギー問題を解決するのはテクノロジーであり、テクノロジーは戦争さえなくせば宇宙から援助してくれると言っているのだから助けを借りれば地球は楽園になります。テクノロジーが原因で環境破壊されたのだからテクノロジーでしか直せません。

テクノロジーを辞めて自然に帰ろう、という運動もありますけど、そういう人だってたいてい車には乗っていたり物流に頼っていますし、そのように豊かな自然のある場所はどんどんと減ってゆきますので後ほど力のある人たちに強引に武力で奪われてゆくようになります。力のないネイティブアメリカンは簡単に虐殺されたでしょう?

精神的な観点で自然農法とか環境とか叫んでもテクノロジーの環境破壊の前には無力です。
精神的な観点で環境は良くしたいですけど環境を良くするにはテクノロジーが必要です。

一部の人が精神的に向上しても環境破壊する人が大勢いたら宇宙の人は助けてくれません。ですが、条件として既に提示があって、戦争さえ無くして貧困を(ある程度)解消すれば援助してくれるというのですから、このあたりで現在の支配者層が考え方を変えなければ地球は住みにくい場所に変わります。

おそらく、地球の支配者層は現在のところ宇宙の提案を受け入れるつもりがなくて、疫病や戦争で人口を大幅に減らそうとしているように思われます。その選択をするのであれば、一部の大天使の召使いが手間をかけてそれらの魂を死後に捕まえて来世にスラム街の貧困家庭の赤ん坊の中に放り込むことになります。自業自得ではないでしょうか。

支配者層というと人間というイメージがありますが、それだけ大きなことをするにはある種の大きな霊的な存在がついていないとできない筈なんですよね。それを竜と呼ぶか神様と呼ぶのか悪魔と呼ぶのか堕天使と呼ぶのか天使と呼ぶのか人それぞれですけど、いないと大きな人口削減もできない筈なのですよね。大虐殺も実は世の中の人々への神の審判な場合もなくはないです。ソドムとゴモラの件もありますしね。表面的に支配者層を一括して悪者にもできないのです。しかし、そのような大虐殺の実行者になるにはそれなりの悪の心がないとできませんから神が背後で手引きしていたとしても実行者は悪に染まるようです。



守護霊は自分のスピリットなのかどうか

スピリチュアルで、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生なのではないかと思う」という記述を読みましたが、確かに、そのような場合もあります。いわゆる守護霊・・・ と言うと混乱がありますが、このコンテキストにおける守護霊という意味で言いますと、自分のスピリットの場合もあれば別のスピリットの場合もあります。

一方で、一般に言われているように個別のスピリットが守護霊がつく場合もあります・・・。というか、守護という意味では必ず誰がしかついています。

ですから、意識するしないに関わらず自分のスピリットではない他人としてのスピリットが守護霊がついているのが基本です。

それとは別に、自分自身へのインスピレーションとして時空を超えた自分のスピリットが語りかけてきたりイメージや概念を送ってくる場合があります。

どちらもあります。

ですから、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生」というよりも、自分のスピリットが時空を超えてコンタクトしてきているということです。

生まれる場合に計画をした場合にはその計画の途中でインスピレーションを与えることもありますし、未来生から過去を修正するためにインスピレーションを与えることもあります。未来も過去もあってないようなものですから、未来であっても気付きさえすればタイムラインは変わります。ですが、基本は未来に対する介入がほとんどのように思います。

過去を変えられるという観点はほとんどの人は持っておられないでしょうし、やらないと思います。実際はさほど違いがありませんけど、基本は、生まれる前に計画をしてその過程で人生に介入をしてインスピレーションを与え、その時のことが守護霊として認識されるが実際は自分の生まれる前のスピリットからのメッセージだった、ということだと思います。実際は時空を超えておりますのでスピリットからしたら過去も未来もありませんけど、基本はこんな感じになると思います。

それとは別に、見守るという意味での普通の守護霊もついていますし、守護霊からのインスピレーションも同じようにあります。

ですから、そのスピリチュアリストが言うように守護霊が自分の過去生か未来生だと思うのも自由ですけど、そんなこと言ったら混乱するだけですので、私は普通に「自分のスピリット」と「守護霊」と言うだけがすっきりして良いと思っています。



仏教の「空」はゾクチェンのシネーの境地か?

スピリチュアルや仏教で「空」という言葉は人気がありますけど、この言葉は幅が広すぎていまいち掴み難いところがありましたが、ふとパラパラとゾクチェンの本をめくっていたらその対応が書かれておりましてはっきりしました。

「空」は「集中(サマタ)」している静寂(シネー)の境地に対応するようです。

すべての仏教の伝統において、修習には二つの段階がある。すなわち<静寂な境地(シネー)>(「止 」zhi-gnas)と<直観的洞察(ラントン)>(「観」lhag-mthong)である。(中略)シネーは空に、またラントンは光明に対応する。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

同書はゾクチェンの本ですが、仏教にも造詣が深いように思います。

仏教だと「止」と「観」の対応で語られていますけど、ゾクチェンの3分割の方が明確な気が致します。

(仏教の)顕教において、ラントンは(中略)静寂の境地の修習の後、自動的に生じてくると考えられている。これに対して、密教においては、ラントンは、変化の修行における悟りの一定の段階と考えられている。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

この対応も興味深いです。どちらにせよシネーの境地の後にラントン(テクチュの境地)到達するわけですね。ラントンはチベット語で、サンスクリットでいうとヴィパッサナー(観察)に対応するようです。であれば以下のような対応になると思います。

・仏教の空 → 「サマタ」(集中)。チベット語(ゾクチェン)で「zhi-gnas」。ゾクチェンのシネーの境地。
・仏教の光明 → 「ヴィパッサナー」(観察)。チベット語(ゾクチェン)でラントン(lhag-mthong)。ゾクチェンでのテクチュの境地やトゥガルの境地。覚醒の境地。

完全な対応ではないにせよ、概念的に上記のような対応だということが読み取れます。

仏教の「空」は色々な人が様々に語っていてどうも掴み所がなくて不思議な感じがしていたのですが、ゾクチェンの階梯に合わせると明確になった気が致します。同様に「光明」の意味も明らかになりましたね。

日本語で「光明」というとまるで悟ったかのような印象を受けてしまいますが、光明がヴィパッサナーだとすれば光明そのものが悟りではないですね。とは言いましても悟りに近づくための重要な一歩ではあるわけですが、日本語で「光明を得た」というとそのまま悟ったかのような印象を受けてしまいますけど、光明がヴィパッサナー(観察)に対応するのだとすればまだ続きがあるということですね。



集中(サマタ)瞑想を否定する流派

サマタ瞑想でまず行き着くのはいわゆる「止(シャマタ)」の境地であり、ゾクチェンでいうところのシネーの境地であって、その先にテクチュの境地やトゥガルの境地があります。仏教やヨーガではそのシネーの境地に相当する状態を通ってからその先のテクチュやトゥガルの境地に達します。

しかし、サマタ瞑想を頑なに否定する流派がこの世の中には存在しています。サマタ瞑想、例えばヨーガ・スートラ等で述べられている静寂の境地を否定して、頑なに、時にはヒステリックに、時にはマウンティングしてサマタ瞑想を否定する方がいらっしゃいます。これはある程度は根拠があって、サマタ瞑想のシネーの境地を通らずにいきなりテクチュの境地やトゥガルの境地に達することも可能なわけです。ただ、一般的にはそれは難しく、普通はシネーの境地を通るのが無難かと思います。

テクチュや最終的なトゥガルの境地はヴィパッサナーの状態であり、特に、ヴィパッサナー系の流派やヴェータンタの流派がそのような主張をしています。その主たる主張では、「(シネーの境地で)心を停止させたら、それは人間と言えるのだろうか?」みたいなことが言われていて、それはそれで理に叶っています。

一部の仏教やヨーガ派の人たちはシネーの境地に相当する状態で心を停止させさえすれば最上の状態になると誤解して信じ切っておりますので、そのような誤解している人たちに対する反論としては正しいです。しかし、どちらもお互いの一面を見ているだけでしかなく、仏教やヨーガ派の一部の誤解している人たちはシネーの境地の先をきちんと見てテクチュやトゥガルの境地に進むべきですし、ヴィパッサナーやヴェーダンタを信奉している人たちの中には仏教やヨーガを誤解している点があることを学ぶべきです。

仏教やヨーガであってもシネーの境地相当が最終的な悟りだとは言っていませんし、シネーの境地であるシャマタ(止)が最終的な悟りだというのは良くある誤解でしかありません。その、良くある誤解を持ち出して「それは悟りではない」とか外から指摘しているように思えるのです。

お互いに色々と言い合っていますけど、普通はシネーの境地ですらなかなか辿りつかないので、要らぬ心配でもあります。その先のテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーな状態も同様だと思います。

であれば、相手の流派についてどうこういうのは時間の無駄ではないでしょうか。
そんな論争する暇でもあったら自分の修行でもしたらいいと思います。

と、言いますのも、どちらにせよシネーの境地あるいはテクチュの境地に達すれば理が分かるわけですから。

世の中には生まれながらにある程度の境地にいる人がいて、そのような人が例えばシネーの境地が生まれながらに当たり前だったりするとシネーの境地を否定してテクチュの境地のヴィパッサナーだけを良しとするかもしれませんけど、一般的にはシネーの境地を通るのが普通だと思います。

世の中にはシネーの境地すらうまくできない人が大勢いらっしゃいますから、シネーの境地であるシャマタ(止)を否定しても、それは修行者を混乱させるだけかもしれないわけです。基礎としてシネーの境地があってその境地が最終的な悟りではないことを示唆するために否定するのならばわかりますが、全く否定してしまうのは違うと思います。シネーの境地を否定したら、ふにゃふにゃの集中できない状態しか残りません。

生まれながらにきちんとシネーの境地で集中できていて、その上で、自分が当たり前なことに気が付かずに集中することを否定してしまって相手を混乱させている方がいらっしゃる一方で、受けた教えを盲目的に信じてシャマタ(止、集中)を否定している方もいらっしゃいます。前者は勘違いなので仕方がないかなあ、とも思うのですが、後者はちょっと微妙ですね。

スピリチュアル初心者でも運良く最初から本物の教えを受けることがあるわけで、それが高度なヴェーダンタですとかテクチュやトゥガルの境地だったりしますと、それは確かに集中(サマタ)ではありませんので、教えをする過程においてその説明の表現では集中(サマタ)瞑想を否定したりもしますけど、それは通過点としてのサマタ瞑想を否定しているわけではなくてただ単に説明してるだけなのですが、スピリチュアル初心者はその辺りのことを良くわかっていないのかなんなのか、言葉通りにサマタ瞑想を否定してしまったりするわけです。

流派として伝統的にサマタ(集中)を否定している流派もありますけど、おそらくは創始者あるいは過去のどこかの点でそこのマスターがそのように説明したのでしょうね。きっと創始者やマスターはわかっていると思いますけど、流派として伝統的な団体になってしまうと伝言ゲームで教えが異なってきたりもしますよね。

シネーの境地は基礎ですから、その先を語って説明する時にはシネーの境地を否定する表現になってしまったりもしますけど、階梯としてのシネーの境地を否定するかどうかは別の問題であるわけです。

生まれながらにある程度の境地にある人は自分の認識としてはシネーの境地を通らずにテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーの境地に達したりするでしょうし、そうなればシネーの境地を否定するかもしれませんが、それを言ったところで、瞑想の初心者を混乱させるだけだと思うのです。

ただでさえこの辺りはごちゃごちゃしていてわかりにくいのに、このようにサマタ(集中)瞑想を否定する人たちが一定数いて、集中を否定するような説明があると初心者が訳わからない状況に陥ったりします。

その上、集中を否定するようなヴィパッサナーの流派の教えを見てみるとぜんぜんヴィパッサナーじゃなくてサマタ(集中)瞑想を自分たちでしていたりしますし。実態が集中瞑想なのに集中瞑想を否定しているなんてわけがわからないです。まあ、全てではなくて、そういうところもあった、ということです。

学ぶ側としましては、自分の感覚と比べて理解できるところだけ理解して、不思議なところは判断を保留する態度が必要だと個人的には思います。

スピリチュアルや宗教では基本的にこのような態度が必要だと思います。宗教と言うと盲目的に信じることだと思われていますけど、信じるかどうかは自分次第です。私はある程度は信じた方が成長は早いと思いますけど信じるかどうかは自由意志に委ねられていますし、信じた内容が正しいかどうかを考えても良いわけです。瞑想なんてのは心の中の出来事ですから、きちんと自分の内面と向き合わないと変な流派に囚われてしまったりしまいますしね。

この辺りは人によりますので好きにすればいいと思います。この世は自由の世界で、良くなるのも悪くなるのも全部自分次第で、いかようにもなります。



体の震えとプラナヤーマ(呼吸法)

シヴァ・サンヒターの中にプラナヤーマで段階に達した「しるし」が記されています。

・汗
・震え
・蛙のように飛び跳ねる
・空中歩行
・睡眠時間が短くなる
・排泄の減少
・無病、無憂
「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)より

この中で、特に「汗」と「震え」はヨーガの先生にとって生徒たちのプラナヤーマの進捗を図るための重要な「しるし」として認識されていると思います。おそらくこの2つは特に有名なのではないかと。

その先の「蛙のように飛び跳ねる」は先日のダルドリーシッディっぽい感じのことでしょうし、その先の空中歩行はただの比喩なのか本気なのかはちょっとわかりませんけど睡眠時間は私の場合クンダリーニ覚醒後に短くなっており、その他も昔に比べればそうだと言えます。

プラナヤーマをすると身体中のエネルギー(ヨーガでいうプラーナ)が動きますから、それによって汗が出たり、エネルギーが詰まっていたりすると震えが出ます。

特に、息留めの「クンバカ」をすると体にエネルギー的な詰まりがある場合に震えが出ます。ですから、エネルギー的な詰まりを取るにはクンバカは有効なわけです。

蛙のように飛び跳ねる、というのは、私が思うにはおそらく震えと同じようなものだと思います。特に詰まりが硬い場合に電気ショックみたいに飛び跳ねるのかな、と私は思っています。

私の場合は飛び跳ねるほどの電気ショックはたまにあるくらいで、エネルギー的な詰まりがあっても大抵は震えるくらいです。

汗は最初のうちは出ましたけど、最近は出ませんね。

流派によっては汗はエネルギーが溜まっているので洗い流さない、としていますが、それはこのシヴァ・サンヒターの記述に基づいていると思います。

個人的には汗かいたらすぐに軽くシャワー浴びてしまいますけどね。不衛生の方が嫌です。



思念波を防御して跳ね返す五芒星

最近関わっているちょっとしたプロジェクトでとある事に関してどうするか軽く議論になったのですが、コロナのこんな状況で相手はストレスを抱えていたらしく、ちょっとヒステリーな反応がその時あって、その後も思念波を週末にかけて私のところへ送ってきていました。

私にとってはもう終わった事だったのですが、どうやら向こうはネチネチと考えていたようです。男のくせにめんどくさい・・・。こんなコロナ籠りの状況じゃちょっと同情もしますけど。

瞑想していない人はこういうとき弱いですよね。

とは言いましてもこちらは守らなければなりません。

何か体に刺さっていないかな? と思って瞑想中に探ってみましたが見つかりません。

どうやら、思念波だけが飛んできているようです。

最近、陰陽道に関する動画をちょっと見たのを思い出して、それを真似て試しに五芒星を瞑想中に頭の上の方に意識で書いてみましたところ、急に思念波が止まりました。

これにはびっくりです!

自分ではここまで期待していなかったのですが、急に思念波が止まりました。意図としては「思念波を跳ね返して送り主のところに戻してください」と指示をしながら五芒星を書いたので、どうやらその指示通りに術が効いているみたいです。

特別に誰かに学んだわけでもなくて、なんとなく試してみた術でこんなに効くとすればしっかりとした術はもっと効き目があって怖いんだな・・・。と、ちょっと思いました。

まあ、自分で出した思念波を自分で受けるわけですから自業自得でしょう。私が気にすることでもないです。プロジェクトで後でネチネチやってくるかもしれないですけどね。男のくせに面倒な・・・。



十牛図は幽体離脱してグループソウルと合流する秘術の書なのか

十牛図にはいくつかバリエーションがありますけど、どうして「離脱」とか「再合一」とか書かれてあるのか不思議に思っておりました。

しかし、今朝のシャワー中及び瞑想においてインスピレーションが降りてきて、どうやらこれは幽体離脱してグループソウルと一体になり、再度自分の魂が分離して肉体に戻ってくる秘法を説明したもののように思えてきました。そのようなイメージがありました。

であれば色々と明確に説明がつきます。

もともと十牛図は意識の成長過程を説明するものだと思っておりましたが、上のように読み替えるとスッキリします。

最初は瞑想をして意識を統一してオーラを体の中に収めるようにして安定させます。

次に、魂と幽体(オーラ)を意識的に動かせるようにします。

そうしたら、幽体を体から離脱させます。

次に、グループソウルの元へと向かいます。基本的には上方に登ってゆき、グループソウルが見えてきたら、自分の意思でそれと合流するかどうかを選びます。

合流することを選んだらその中に入ります。その場合、魂の核は残りますがオーラはグループソウルと混ざり合い、自分の意識がグループソウルと溶け合うと共にグループソウルの叡智も流れ込んできます。グループソウルとしての集合意識が存在しているのと同時に、自分の個別の魂としての意識も存在しています。

その後、離脱を選んだらグループソウルから核としての魂とその周囲のオーラが分離します。

そして、最終的に肉体に戻ってきます。これが合流とか再合一とか説明されている段階です。

このように考えるならば難しい十牛図も随分とスッキリします。

であるならば、実のところグループソウル自体にも意識の高低がありますので、この秘法で得られる効果はグループソウルとしての集合意識に接続することで幅広い見識を得られる、という点にあります。

このあたりは、おそらくはウパニシャッドも同じ観点なのかな、という気が致します。まだ個人的な仮説ですけどね。

よくウパニシャッドとかで言われているように「ブラフマンは全知全能」というのは確かに概念としてはそうでしょうけど、人間が認識できるものとしてはグループソウル相当であって、ブラフマンとの合一、というのも実際に可能なのはグループソウルの範疇に限られているわけです。

みたところ、私の属しているグループソウルは私からすると全知全能に見えなくもないですがそれでも色々とわからないことや認識不足があったりして、だからこそ分霊としての私が地上に来ていたりするわけです。

宇宙のありようを見ますと、ブラフマンとか言って一括りにできるほど小さくはなくて、宇宙の広がりはまさに無限大なわけです。それを、瞑想をして宇宙と一体になる... というのは人間の意識でみたらそう思えるかもしれないでしょうけど、実際はグループソウルとの合一だと思うのです。その先の次元に行くにはこの小さな人間の意識ではかなり難しいのではないでしょうか。

これは人間の可能性を卑下しているわけではなくて、もともとグループソウルから目的があって分霊となって生まれてきて、その自分というスピリットは自由意志を持って創造的なことが行える偉大な存在なわけです。そのグループソウルと再合流するも自由ですし、個別の魂(スピリット)として生きてゆくのも自由。しかし、スピリットとしての意識が認識できるのはそこまでだと思うのです。少なくとも人間としての意識が認識できる範囲としては限界のような気が致します。ただ、それでもかなり十分であると思うのです。

色々と仮説ではありますが、このように考えると随分とスッキリします。これは今後もまた様子をみてゆきます。


(2022/7/31 追記)
どうも幽体離脱というわけでもなさそうです。そのように解釈している人がいる、というくらいのお話のようです。



馬陰蔵相とムーラバンダ

馬陰蔵相(ばいんぞうそう)とは性器が子供の頃のように戻ることですが、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になった時に性欲10分の1、アナハタ優勢になった時に更に10分の1になったわけですけれども、その時も馬陰蔵相っぽい状態になってきましたのでその状態が馬陰蔵相なのかと思っていたわけですけれども、最近、更に子供の頃のようになって、もっとそれっぽくなってきました。

それと同時に、足の太ももから下方の感覚が透明になってきて意識が腰よりも上、温感はアナハタ優勢で、意識は胸から頭にかけてが優勢になってきています。

下半身が透明でエネルギー的に最低限になってきており、それと馬陰蔵相と、ヨーガでいうムーラバンダっぽい状態になってきました。

ムーラバンダ(ムーラ・バンドハ)とはエネルギー・ロックの技法であるバンダ(バンドハ)の主要な3つのうちの1つですが、男性なら会陰、女性ならもうちょっと内側の部分でエネルギーを漏らさないようにすることです。

ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなるというお話があって、今まで時あるごとに試してみましたがムーラバンダがしっくりきませんでした。

しかし、今、馬陰蔵相の状態が進むにつれ、まさにこの状態がムーラバンダなのではないか? という気がしてきました。

実際にはヨーガではムーラバンダは手法の1つで意識的に行うものですが、特に意識的に行っていなくても、日常生活をある程度はスローモーションのヴィパッサナーをしながら生活していますと、その状態においては、毎日ではないにせよ、時あるごとに下半身からエネルギーが漏れていない、ということを認識することができるのです。

これがムーラバンダの真意であるとすれば、ムーラバンダが完成すると馬陰蔵相になる、あるいは、馬陰蔵相の状態はムーラバンダと同等、と言えるように思います。

今のところ、なんとなくそんな気がするだけです。

今後、書物等で裏を取っていきたいと思います。

関連:
馬陰蔵相が深まり、性的欲求が更になくなる



神の審判に逆らい逆上する人たち

神に善悪はなくて、ただ選択と行動があるだけです。神が善だけを行うというのは幻想で、神は何をしても良いのです。今の神様は人々に精神的なゆとりと成長を期待しておりますので、人間が調子に乗って他人や自然などの環境をないがしろにすると「立ち止まりなさい」というメッセージとして災害や人災が起こります。大抵の大きな災害の背景には手引きしている霊的な存在がいて、その霊的な存在が高次の存在なら神と言われることもありますが、同じことです。

本当に上位の神になると人間界のことなんて興味がありませんので人間は放っておかれます。

人間界に介入してくる神はそれよりもちょっと人間に近い神で、人が成長する過程で神に近づいた魂たちです。例えば有名どころでいうと松下 幸之助とかですね。ああいう偉大なことをした人は神に近づきます。もともと神に近かったというのもあります。

人間が死後に神に近づいて、更に成長すると神と呼ばれるようになります。そのような、半人半神の存在が人間界に介入してきます。そして、それは善悪はあまり関係なくて、その魂の意図を実現させるために介入してきます。

大抵の場合、人間は災害の意図を理解できませんから、そのような災害があっても単に謙虚になるか自然を更に支配しようとするのかのどちらかに揺れ動くことになります。そこで人が振り分けられるわけですね。

どちらがいいというわけでもなく、好きな方を選ぶわけです。

その災害を神の審判と言うのならばそうでしょうし、単なる自然災害だと思うのならばそれはそのような意識で生きることになります。その人にとってはそれが真実で、それぞれ、そのような意図を実現したい神がそれぞれにつく事になります。直接的、間接的ではあっても神の意図があって、それぞれの神に振り分けられてゆくわけですね。

今までの中世以降の歴史は、神の審判があると神に逆上する、と言う事の繰り返しでした。

まず神の意図を謙虚に受け止めて他人に伝える人がいますが、それを聞いた人は謙虚さがそれほどないことが多く、謙虚さがそれほどない人が神の意図を更に他人に伝えるとそれを聞いた人が逆上する、と言うことの繰り返しでした。

神は純粋な形でこの世に現れることはなくて、濁った中に現れるわけですね。

他人の中に神を見た時に、人間としての悪い部分を見てしまってもキリがなくて、神の部分だけを見ればいいわけです。人間としての部分は切り捨てればいいと思います。そうしないといつまでも逆上するループにはまり込んでしまいます。



「知識」を「行動」との対比で比喩的に表現するヴェーダンタ

ヴェーダンタでは「知識」が重要で「行動」は不要であると説いているようです。このあたりは先日も少し書きました。

ヴェーダンタの人がいう「知識」は、一般的には「知恵」「叡智」と読み替えると良いと思います。

ヴェーダンタの人は「知識」というものは本来、単に知っているというだけでなく応用できて深い知識があることだと言いますし、それはそれで正しいと思うのですが、一般的には知識というと軽く扱われており、単に知っていることを意味しているので、個人的には知識じゃなくて知恵と訳せばいいと思うのですが、割と軽く扱われる「知識」という言葉を選んでいるようです。

ですので、ヴェーダンタの人が「知識」という時は「知恵」のことなんだな、と読み替えるといいと思います。

こんなことをヴェーダンタの人に直接言ったら「知識だ」と言われるだけなので、そんな野暮なことを本人に言う必要はありません(苦笑) 単に、自分の心の中で「知恵」に読み替えて理解すればいいだけです。

いいんです。それで。 一般人に「知識」が大事と言っても「何のこっちゃ?」と思われるだけですから。

ここで知識と言っているのは、以下のポイントにおいてです。

・魂・スピリットに関する知識は肉体による行動を伴わない。しかし、魂・スピリットによるオーラ的な行動・活動は伴う。
・真実を見抜くこと。幻想に惑わされない。

まあ、ヴェーダンタの人は細かく用語を使っていろいろ言いますけど、物事は単純です。

ヴェーダンタの人の主張に「理解さえすれば行動せずに解脱できる」と言うのがありますけど、そう言っている本人たちが一生懸命修行していたりします。本人たちはその行動を「行動ではない!」と言っているだけですので、あまり突っ込まない方がいいと思います。

ただ単に、「行動」と言う言葉に敏感になっているだけですので、そっとしておいてあげましょう。スピリチュアルにはいろいろな流派があって、例えばこのように「行動」をとにかく毛嫌いして時にはヒステリックになる流派もあるのです。まあ、その人だけかもしれませんけど。

本来の意味としては上記のように「肉体の行動を超えたものである」と言う点だけだと思うのですけど、それを曲解して、肉体の行動に制限を加えてしまうのはせっかく肉体があるのそれに制限を加える意味がわかりません。使いたくなければ使わなければいいし、使いたければ使うだけです。それを、教義を持って行動に制限を加えて何が楽しいのでしょう? 自分を縛って精神修行していると言うのであればわかりますが。

三位一体なんて言われていたりしますけど、魂・スピリットと体とは繋がっているのですから、体だけ邪険にせずに全部、それぞれ必要な時に好きなように使ってあげればいいだけだと思うのですが。

とりあえず、ヴェーダンタの主張としては修行のために一時的に行動を制限しているのだ、と理解する事にします。確かに、一時的には静かに過ごして精神を落ち着かせる必要があるのでじっとしている必要性もわかります。しかし、ヴェーダンタはそれこそが彼岸の悟りへの知識だと説いているので混乱しますけど、一般人向けにはそのように語っているだけなのかもしれないですね。そのような方便(手法)を用いて初学者を黙らせて静かに座らせる効果はあるかもしれません。

この地上世界はスピリットが活動する自由な場所ですので、自由に制限を加えるのも自分の自由ですし、修行のために行動を制限するのは好きにすればいいと思います。



見えない存在をことごとく神様だと思ってしまう人が多い

単なる意識体です。大抵の場合は幽体です。生きている人間とそう変わりません。「神様から言われた」とか言って特別視する必要は基本的にはありません。

現実と一緒で素晴らしい人や神々しいオーラの意識体に言われたら感動したり感銘を受けたりしますので、そのように人と霊を同格に置くのはいいですけど見えない存在だからと言って神様扱いを毎回する必要はないわけです。

守護霊の中にはそれなりに修行している人がいて、修験道であるとかお坊さんなどで長らく修行して守護霊をしていると人間からすればまるで神であるかのように素晴らしい教えを説いたり神々しいオーラを放ったりしていますが、それを神と呼ぶかどうかは人それぞれです。

物事は全て程度問題でありますから、特に日本ですと神格化された人物を神様として拝んだりしますので、そのような場合も神とみなすことは個人の自由です。好きにすればいいと思います。

ただ、それを持ってして他人に「神様がこう言っている」と主張してくる人がたまにいて、そういう人の発言には「聞く人は謝意すべきだ」という含意が含まれていて、確かに正しい主張も混じっているので話半分に聞いていればそれは十分なのですが、いわゆるゴッドとしての一神教的な神様としての主張として守護霊の意図を伝えている人もいらっしゃいますので、そういう一神教的な部分はどうなのかなあ、とも思ってしまいます。

神様であっても単なる意識体の1つだ、という基本が分かっていないといわゆる一神教のようになってしまうのかもしれませんね。

精神的に高度に発達した意識体の発している意思あるいは意見だ、ということが分かってしまえば人間と接するのと実はそうは変わらないのに、神様に言われたからと言ってそれを100%信じなくてはならないとか100%従わなければならないとか思っている人が多すぎます。

神様という言葉を特別視しすぎているんですよねえ。見えない存在はピンキリで、神々しい存在もいればキツネやタヌキもいて人を化かしたりしますしね。見えない存在をことごとく神様だと思う必要はないですし、いかに素晴らしい意見で神のように見えたとしてもそれは一つの意識体ですから、人と人とが接するように意識体と接すればいいのです。

ですから、基本は人と接することであれば拝めたり全て言いなりに従ったりする必要はなくて、あくまでも聞き手側の自由意志で全てを選択していけばいいわけです。

まあ、そうは言いましても、実際に神々しい存在に対峙したらなかなかそうはうまくはいかないですけどね。それはもう、しょうがないです。人生経験と同じだと思います。



瞑想は駒あるいはモーターを回すようなもの

最初は回転する力が要りますが回り始めてしまえば軽い力で回り続けます。

あるいは、長いゴム紐あるいは縄跳びの紐をピンと引っ張るときのようなもの、とも言えるかもしれません。長いゴム紐を軽く引っ張ってもゆらゆら揺れているだけですがある程度のテンションをかけると細かく揺れ動くようになります。最初は引っ張る力が要りますが、ある程度のテンションがかかってしまった後は維持するのにさほどの力を要しません。

駒が回る時に最初に力がいるのと同様に、瞑想においても、最初は「集中(サマタ)」という力が必要です。

瞑想が進むにつれて努力が次第に不要になってゆき、やがては「観察(ヴィパッサナー)」の状態に辿り着きますが、それは長い道のりであったりもします。これは人によります。人によってはなかなか辿り着かないでしょうし、あっという間に辿り着く、あるいは、生まれながらにその状態を知っている人もいらっしゃいます。

瞑想初心者の場合は集中(サマタ)から始めるわけですが、人によっては、誰が教え始めたのかは知りませんが「観察だけしていればいい」という教えに固執していたりします。そのような人は「雑念は放っておけば次第に消える」と主張するわけですが、それが真実なのは中級者以上の、特に観察(ヴィパッサナー)の領域で迷走をしている人たちにとっての身であり、初心者がそのようにしたら雑念が増大して精神に混乱を来すようになります。

ゴム紐を力を入れずに引っ張ってもふにゃふにゃのままですし、力を入れずに駒を回そうとしてもすぐに止まってしまいます。瞑想も同じようなものです。最初は集中(サマタ)という力が必要です。

バガバッドギータというインドの聖典においてもクリシュナが瞑想の手ほどきの中で「外にあるものを外に保つ」というようなことを言っていますけど、いわゆる「集中(サマタ)」とこのことは、割と似ています。雑念が入ってきたら、それは自分ではないのだから集中することで外側に保って内に入れないようにするわけです。説明として外と内という言葉を使っていますが、それがわかりにくければ、単に雑念を集中によって止める、という理解でいいと思います。

どちらにせよ、瞑想は「雑念を受け流すこと」というお話が誤解されていて、これは確かに真実ですが、雑念は力を入れて消すのが基本で、受け流すのはその先のお話になるわけです。



神様や守護霊だってよく嫉妬します

神様と言ってもピンキリで、守護霊に近い神様もいます。

例えば、私がとある女の人とお話をした時に守護霊である元修験道者が嫉妬したようで、インスピレーションで私の欠点のようなものをその女の人に伝え、それを感じた女の人が私の欠点(とも言えない些細なこと)を指摘して、私を遠ざけようとしたわけです。

まあ、実際のところ、私はその女の人をそんなに何とも思っていたなかったわけですけれども。それに、その指摘にしても理由があってのことで、表面的なことは分かっていても背景の奥深いところは見抜けていないんだなあ、と思ったものでした。

逆もあって、私の守護霊というかいつも一緒にいる霊の中には過去生の元妻や仲の良かった女の人たちがいるのですが、その人が私が話をする女の人に嫉妬することもあります(苦笑)

まあ、嫉妬とは言わないまでも、相手をしっかりと見抜いて、「この人はだめ!」という強烈なインスピレーションを送ってくることはしょっちゅうです。

「なんだかうまくいかないなぁ〜?」と思うときは大抵、このような干渉があります。

守護霊は、グループソウルであるハイヤーセルフからの指示というかお願いで守護についている本当の意味での守護霊と、単に仲良かったという理由で近くに一緒にいる霊たちがいて、広義ではどちらも守護霊と言われると思いますが、前者は本当に気をつけて過去や未来を見通した上で人生を見守っていて、後者は単に一緒にいて遊んでいたり、あるいは家族のように心配している、という違いがあります。

もちろんそれぞれの守護霊にもレベルの差はありますし、後者であってもそのうち前者のような役割を担うこともあります。

もともとハイヤーセルフからの指示というかお願いがどのようなものであったかにもよります。まず目的が設定されて、それに従って目的達成を目指すのが前者で、後者はお友達や家族として幸せを願っている、という違いがあります。後者はハイヤーセルフの目的とかはあまり認識していなかったりします。普通の家族がそのまま近くにいて見守っているのが後者です。

ですから、後者のような守護霊が嫉妬することもありますし、時には、前者に近い人であっても嫉妬することがあります。

まあ、どうやら嫉妬はどこまで行っても人間から切り離せないようです(苦笑)

感覚的には、上位の神に近づくと嫉妬はなくなるような気が致します。嫉妬があるうちはまだまだ人間的な感覚に囚われているという印ですね。



霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があった

厳密には霊界というよりも幽体に近いところで起こっていたところです。中世くらいですかね。そのくらいまでは存在していました。

今は、自殺しても放置です。

世間で言われている天国とか地獄とかいうのは絶対的なものではなくて、幽界に近い霊界において人の思いがそれらを作り出したとも言えます。

人々が「地獄というものがあるんだ」と最初に思い込んで、その想念形態として地獄という場所が作られたわけです。そのきっかけはキリスト教などの地獄の教えが元になっているわけですが、地獄がもともとあったわけではなく、人々が想像することで地獄が作られたわけです。

ですから、地獄のイメージが強かった中世以前には地獄という世界が実際にあの世に存在していて、今はその世界は割と瓦礫と化しているように思います。

その世界を作るのは人の思いだけではなくて、死後の人が実際にその維持に関わりました。地獄の門番であるとか地獄で人々を罰する役目だとか、そのような存在は人々がそうなりたいからその役割が実際に存在したのであって、どこかの神様が用意したものとはちょっと違ったように思います。

例えば人が自殺すると死後の霊(幽体)のところに槍のようなものを持った幽界の警察がビューン! と勢いよく飛んできて自殺した霊を捕まえて牢獄の中にしばらく閉じ込めることになります。少なくとも昔はそうでした。

今はそのシステムが崩壊したのか、あるいは、単に見落としなのか、あるいは、自殺が多すぎて賄い切れないのかなんなのか、基本的には自殺者は放置されているようです。



人との付き合いは死で終わるものではない

一般的には死ぬと消えて消滅すると思われておりますが、死んでも意識は幽体でそのまま継続しますので人との付き合いは死で終わるものではありません。

死んだ後は、仲の良かった人や妻や親しい親族などとあの世で楽しく暮らすことになります。金銭などの条件付けを超えたところの付き合いは死で終わるものではありません。

死ぬと金銭や住宅・食事などの制限から解き放たれますからそれらの制約のために仕方なく一緒に暮らしていた場合は死んだことをきっかけに離れて付き合いがなくなります。特に死後は、金銭や損得関係で生きていた人の人間関係は寂しいものになると思います。

人間関係において、他人を操るような強制・操作・共依存をしていた人の場合は例外として関係が続く場合もありますが、そのような関係は基本的に断ち切って自立すべきのものですので、死んで強制・操作・共依存から逃げようとしても無駄であり、生きているうちにこれらは克服する必要があるものです。

世の中は多様で、人を操ることで自身に利益をもたらそうとしている人が大勢いらっしゃいます。そういう人とは付き合わないことです。

金銭や損得関係は、他人を操ってはいけない、という基本的なルールを守る限りは自由にすべきだと思います。他人が必要としている金銭は基本的に与えるべきなのですが、上記のように人を操ろうとしているレベルの人とは付き合わないようにすべきだと思います。

まれに、間違えてお金を与えてしまってカモ扱いされてしまったが故に死後も付き纏われる場合があります。このような人は罠を仕掛けて落とし穴に落として自滅に導かせて二度と近づかないようにしたりします。他人を操ったり他人をカモにして生きる人がこの世には大勢いらっしゃいますので、時空を超えて遠目が効く人はあらかじめ人を見極めて付き合う人を見極める必要があります。

そうは言っても勘違いや間違いもありますので、後になって失敗だったと気付くこともありますが、それはそれで良いレッスンでもあります。

あまりにもしつこいと、例えば津波で家や店舗を全て流して一人だけ生き残らせて、一見すると命は助かったので運が良かったように見えますがその後の数十年を生活保護で暮らすことになりますので数十年の清貧な生活を余儀なくされます。それはそれで私なんかからすれば幸せなことのように見えるのですが、贅沢をしたい本人にとってはさぞかし辛いことでしょう。このように、欲深くてしつこく付き纏う人には本来進むべき方向に歩めるように導きがあるわけです。

これは今後、東海地震で津波によって私の幼少時代の同級生が被るであろう将来のことですが、まあ、結果として謙虚になるでしょうから、私からしたら彼にとって良いレッスンだと思えたりするわけです。津波に飲み込まれて死ぬ方がすぐに解放されて幽体になるのでもしかしたら楽かもしれないのですが、体一つで生き残ることで津波の後の人生をいわば修行のように密かに暮らすことになるわけです。

まあ、調子に乗って他人をカモ扱いしているとこのように一瞬でどん底に突き落とされるような罠に落ちますので、他人をカモ扱いなんてしない方がいいと思います。



周囲の空間と自分のむきだしの心とを混ぜる

チベット語でセワ(混ぜる)は特にゾクチェンで二元論を終わらせるための有効な手段であるわけですが、今まで、その感覚がわかるようでいてよくわからない状態でいました。

スローモーションのヴィパッサナー(観察)が始まって以来、なんとなく周いと混ざるような意識が周囲まで通っているような感覚があったわけですが、それがいわゆる「セワ(混ぜる)」ということなのかなと思っておりました。

しかし、スローモーションのヴィパッサナー状態ではそんな感じにおそらくなっているだろうな、ということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)をする感覚が今まで掴めずにいました。

「むきだしの心(リクパ)」とはヴィパッサナー状態で現れる心の本質であるわけですが、それがあって初めて物事をありのままに観察できるわけです。それを、ヴィパッサナー状態でそうなっているだろうということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)するという感覚が今まで掴めずにいたのです。

しかし、今日、ふと気がついたのですが、ここでいうセワ(混ぜる)とは周囲の目に見える物体ではなくて、普遍的にこの世界に広がっている空間と混ぜることなのではないか、とインスピレーションがあったのです。自分で気がついたのか、あるいは、密かに守護霊が微かな示唆をしてくれたのか、どちらなのかは不明です。

とにかく、そう気がついたからには試してみたわけです。

元々、セワ(混ぜる)という言葉を読んだ後に試したのは目に見える周囲の物体とセワ(混ぜる)することだったわけですが、それを、周囲にある、何もない、単なる空気の空間と混ぜるということをしてみました。

空気の空間とセワ(混ぜる)をしてみますと、目に見える物体よりは少しやりやすい気がしました。

そんなものかな・・・ と思っていましたら、ふと、それよりも近くに、自分の体という物があるではないか、と気がつきました。

ですので、空気の空間から自分の体へとセワ(混ぜる)対象を変えました。

すると、流石に自分の体ですので、更にやりやすくなりました。

理屈で言いますと、自分の体であってもそれはこの地上に一時的に存在しているものですので「本当の自分」ではありません。本当の自分、ヴェーダンタでいうところのアートマンとかそういう自己の本質、ざっくり言えば魂とかそういうものですけど、魂とかから見たら自分の体であっても外側で、自分の体すらも観察する対象なわけです。

このあたりは盲点でしたね。自分の体と周囲の何もない空気の空間とをまずは手掛かりにセワ(混ぜる)すると良さそうです。



自然に瞑想を続けるだけで良い

そんなことが言えるのはいわゆるヴィパッサナー状態であるテクチュ以降です。一般受けは良いですけど、こんなことを言う人のことを真に受けていたら成長しません。

少し前まではこのことがしっくりこなくて、「何かをしなくてはいけないのでは?」と言う思いが常にどこかにありました。それはそれでその時々としては正解で、何かをしなくてはいけないと思うのであればそれは正解だったと思うのです。

ですが、世間一般で「わかりやすい」教えというものがあって、例えば瞑想であれば特に難しいことを考えなくてもただ座って自然に瞑想を続ければ良い、みたいなお話があるわけですけれども、それは最初は理解しやすいですけど、実際やってみるとそんなにうまくいくわけでもないわけです。

この種の「簡単」なお話は、「最初」と「ある程度の経験者」にとって有益なのではないかなと思います。

最初のとっかかりとしては簡単でよくて、次第に、その簡単な境地こそが本質だとわかってゆくのだと思います。

最初は本に書いてある「三昧(サマーディ)を続けるだけで導かれてゆく」ということを読んでも「なんのこっちゃ」という感じでしたけど、最近は、特に難しいことをしなくても日々、瞑想が少しずつ深まってゆくような気が致します。厳密には日々というよりも数日あるいは1週間とかことあるごとに違いがわかるようになってゆくわけですけれども、比喩の表現としては日々深まってゆく、と言っても間違いではないと思います。

ゾクチェンでセワ(混ぜる)というお話にしても、読んだときは「どういうことでしょう?」と思ったものですが、実際やってみてふに落ちると「あれ。特に特別なことを言っているわけでもなくて、自然に導かれてゆく状態を事細かに段階わけして説明していただけでした」ということに気づいたわけです。

ですから、どこかの本に書いてあったように、おそらくはテクチュ以降は特別な努力なしに自然に瞑想が深まってゆくのだと思います。



周囲と自分を混ぜれば混ぜるほど自分が消えてゆく

セワ(混ぜる)によって周囲の空間と自分のむきだしの心(リクパ)を混ぜてゆくと、次第に自分がなくなってゆく感じがします。特に瞑想中というわけでなくても、普段の生活において自分がなくなってきて、以前に比べると30%減になった感じが致します。これは感覚的なもので、もっと前と比べたら50%減と言えるかもしれませんが、特にここ半年くらいで一気に30%くらい自分の存在がなくなって透明になってきた感じが致します。

おそらく完全にゼロになることはないのでしょうが、少なくとも自分というものが消えてゆく感じがします。

この感覚が今のところ自分の体くらいまでで周囲の物体はまだ存在しておりますが、それがどう変わるのかも今後、観察していきたいと思います。

これらを表現すれば「周囲と自分を混ぜる」という言い方になるのでしょうが、ここで誤解があって、もっと正確に表現すれば「自分の体も含めた、自分の体およびその周囲と、それを観察しているむきだしの心(リクパ)とを混ぜる」となるわけです。

比喩的に昔から「周囲と自分を混ぜることで自分がなくなります」なんてことがスピリチュアルやらニューエイジやらで言われているわけですけれど、そのまま文字通り捉えてしまうと「自分という体」と「周囲の物体や他人」とを混ぜようとしてしまうわけですが、そのように文字通り読んでしまうと間違った理解になってしまうわけです。

元々こういうことを言い出した人が言葉の表現にもっと気をつければ良かったのだと思いますが既に広まってしまったこのような、一見すると「わかりやすい」表現は実際はちょっと違うものなのだと思います。「自分という体と周囲の物体や他人」を混ぜようとしても混ざりませんし、せいぜい体を密着させて濃厚接触するくらいでしょうし、その本質であるところを理解するまでにはなかなか行きつかないような気が致します。

もう少し進んで「自分の心と周囲の物体や他人の体や心と混ぜる」というところに辿り着いたとしても、そこには自分の体すらも「外」であるという理解が抜けていますから、いつまで経っても何も起こらないし何も理解できず、逆に、他人のオーラに影響されやすくなって脆弱になってしまうかもしれません。

文字通り読むことでそのような誤解が生じてしまう危険性があるわけですけれども、スタート地点としてまず瞑想から入ってシネーの境地、テクチュの境地に達して、それからようやく自分も含めた周囲の空間とむきだしの心(リクパ)とをセワ(混ぜる)ことをすることで自分というものが消えてゆくのだと思います。

それ以前に周囲と混ぜるというようなことを試みても無駄どころか、害が多いような気が致します。



次元上昇とか高次の世界とか考えるだけ無駄

確かに高次の世界もありますし、地球よりももう少し意識が進んだ世界も存在していて、それは地球の別の面(パラレルワールド)だったり別の星系の惑星だったりするわけですけれども、そういうところに移ろうと思って生活してもあまり意味がないと思います。

基本的には類魂(グループソウル)および仲の良い仲間・友達の霊魂たちは一緒に生活をしていて、引っ越す時も割と一緒ですし、バラバラになることもありますけど、割と縁があってまた一緒になったりします。ですから、住む場所を大きく変える時も基本的には同じ仲間・友達・グループソウルと一緒にごそっと移るのが割と一般的だと思います。

新しい世界に移ったとしても、その仲間たちは今まで通り楽しく暮らすわけですね。

ですから、自分が次元上昇だとか高次の世界に行くんだ! とか思って暮らすよりも友人知人の気の合う仲間やグループソウル繋がりの人たちと仲良く暮らしているくらいで割と十分のような気が致します。引っ越す時は集合意識でそれとなくそんな感じになって、わざわざ行くぞとか決断しなくても自然にそうなりますから。

それに、次元上昇だとか高次の世界とかいう表現って割と「分離」の意識ですよね。自分がどこかに行くと思っている時点で「今、この時点。この瞬間」に生きていられていないのでは? という感じを受けてしまいます。

それでも、一人だけトコトコと高次の世界に行って生まれてみることはできます。私も随分と前にそうしたことがありますけど、繋がりのある仲の良い友達もいないですし、何より、意識が違いすぎていて、なんだか合わないです。やっぱり、自分が今いるところが一番ちょうどよくて今この地球に転生しているのだなあ、とその時はつくづく思って、すぐに地球に戻ってきましたよ。

地球上でも意識の差があって、明らかにうざったくて勝負好きだったり情欲にまみれていたり食欲を我慢できなかったりする意識が割と低めの人たちがいるわけですけれども、惑星全体が高次の意識で満たされている平穏な世界に地球の人が転生してまず思うのは、どこか疎外されている、という感じだったと思います。どこかで私以外の同じような経験をした人と話したような気がしますが、その時にも似たようなことを言っていた気がしますね。

高次の世界に地球の人が転生すると、まず、うざったがられます(苦笑)

地球で意識の低い人たちをうざったく思うのと同様に、地球である程度の意識を向上させたと自分では思っている人であっても高次の世界に行くとその世界の平均よりは劣っていますから、多くの人たちに意識が下の人として見られ、そのように扱われます。

地球にいる人の場合はだいたいはお腹のあたり、いわゆるマニプラ優勢で「(低い)感情」が優勢の人が多いですから、惑星によっては平均がアナハタ以上だったりしますから、そういうところにマニプラの低次の意識で行ったりするとうざったがられたりするわけですね。地球だとマニプラは中間より少し上くらいだと思いますけど、惑星によって平均が違いますから、世界が移った瞬間に下層に位置づけられたりするとなかなか精神的に厳しいと思います。

ブッダの本を読んでいると、どこそかの意識に達した人はそれより上の世界に一度転生をして、それから戻ってくる.... みたいなことが書かれてありましたけど、もしかしたらそれはこういうことかもしれません。そのうちこの本意を確かめてみたいとは思ってはいますが今はブッダのお話は仮説です。

そんなわけで、そんなに高次の世界だとか考えない方がいいと思いますし、そんなことよりも、今の人生を楽しく暮らした方がいいと思います。



アセンションとかわざわざ言わなくても既にこの世は壮大なパラレルワールド

何やらアセンションとか流行りましたけど、遥か以前から既にこの世界はパラレルワールドが無数に存在しておりますので、単にマーケティングの文句でしかないか、あるいは、瞑想中に受け取ったヴィジョンをそのように解釈した人(時にチャネラーと言う)がいた、というだけだと思います。

そうは言いましても、確かにこのあたりでだいたい2つのパラレルワールドのどちらに移行するか意識が変革する人が多いのは確かです。

移行.... と言いましても、この地球の三次元はこの現在のパラレルワールドではそのまま継続します。

現在の一つのパラレルワールドのまま留まるか、あるいは、別の面のパラレルワールドに移動するのか、その選択を迫られる人が多いことは確かです。多くは選択するというよりは自然にそのようになるわけで、それをアセンションという言葉で表したりすることもできるでしょう。

とは言いましても、この三次元が消えてなくなるということではなく、現在のパラレルワールドとは違うパラレルワールドに意識が一気に移動する、ということです。それは時空を超えておりますので時間で言い表すことは難しいのですがそれほどかかりません。数分あるいは数十分、あるいはもっと長いかもしれませんが、何ヶ月というわけではありません。

この際、アセンションというと意識が高い人が別のパラレルワールドに行くという固定概念がありますけど、実際は、意識で言いますと3階層に分かれます。一方で、物理次元で言いますと2つです。

■物理次元
・三次元の今の地球
・地球に人間がまだおらず、森林・荒野・海など自然が豊かな状態

■意識の次元
・マニプラに達していない人たち。情欲がコントロールできない人たち。
・マニプラに達した人たち。比較的成熟した情欲やそれなりの知識・認識がある人たち。
・アナハタやアジナ、それ以上に達した人たち。

大きく分けて以下の分類になります。
・三次元の今の地球はマニプラに達していない人。
・自然が豊かな地球はマニプラに達した人。

では、アナハタやアジナに達した人はどうするのかというと、どちらでも好きに選んで人生を楽しむのです。

自然が豊かな地球を選んだマニプラな人たちは情欲にまみれており、いわば「分離」の世界を生きている人たちです。それでいて自分たちを高級な意識のある存在だと思っている、いわゆる「スピリチュアルで勘違いをしている厄介な人たち」でもあるわけです。実際はマニプラ程度ですと情欲を完全にコントロールできてはいないのですが、ちょうどこのくらいの段階では下級の情欲と上級の情欲の中間地点でありますから、あたかも自分が情欲を完全に制圧してコントロール下にあるかのような勘違いをしてしまうわけですね。そのように制圧だとか高級意識だとか、いわゆる「分離」の意識を持ってしまうのがマニプラの段階なわけです。そのような人がパラレルワールドの1つである自然の豊かな地球を選びます。

ですから、自然豊かな地球は人間関係がことのほかめんどくさいです。スピリチュアルな規律に対して他人を指摘してぶつぶつ言う人がそこら中にいて、まだまだ完全に悟ったわけでもないのに他人と自分を比べて不満を言ったり他人をあげつらったりする面倒なスピリチュアリストが大勢いるのが自然豊かな地球のあるパラレルワールドです。

そう言う人はまた何千年、何万年かけて成長してゆく必要があるのだと思います。長い長い旅路の始まりを自然豊かな地球で始めるわけですね。それはまさに「再出発」であると言えます。

地球を抜け出して自分たちの世界に閉じこもるのが自然豊かな地球のパラレルワールドのパターンだと思います。

一方で、それよりはまだマニプラに達していない人が今の地球に残った方が幸せかもしれません。色々とこの地球には面白いことがあって、多様性もあります。

アナハタやアジナに達した人は人生や意識ごとにそれぞれの地球を選びますが、多くは現在の地球に残っている、あるいは、残ることを選択するような気が致します。この現在の地球の方が多様性があって面白いですからね。

アセンションとか言う意識に乗っかって分離の意識に囚われると地球の別の面のパラレルワールドに囚われてしまって何千年、何万年も変化のない時を過ごすことになります。

変化がなくて着実な進歩を時間をかけて歩むのか、変化にまみれた多様性な世界で多くのことを次々に体験してゆくのか。どちらが良いのか?

どれを選ぶのも自由ですけどね。 人それぞれに選択があって、好きにすればいいのです。



スピリチュアルが手段になってしまっている人がいます

どのくらいの確率かわかりませんけどスピリチュアルが何かの目的を達成するための手段になってしまっている人がそれなりにいるような気が致します。

スピリチュアルとは、この世のあり様を明らかにするだけのことであり、この世のあり様とは、世界の成り立ち、特に自分自身の成り立ちを理解するだけのことです。

行動に関して言えば、何をしてもいいのです。生き方なんて、好きにすればいいのです。

この世の成り立ちや、特に自分自身の立ち位置、過去と未来の行末の真実を理解することがスピリチュアルであって、何かの目的を達成することがスピリチュアルではないのです。

スピリチュアルはほぼ全てを包括していますのでその小さな小さな一部として目的達成というのがあると言えばあると言えなくもないですけど、その程度のものです。何をするかなんて、勝手に好きに自由にすればいいだけです。わざわざスピリチュアル を持ち出すこともありません。

女性であれば祈願をして現世利益を得ようとしたり男性であればビジネスの成功を願ったりするスピリチュアルは、ほんと自分の可能性を自分で摘み取っているようなものだと思います。

だって、本当のスピリチュアルであれば好きに生きればそんなのはすぐ叶うのに、祈願をしたり誰かに頼んだりグッズを買ったり、そんなのは、スピリチュアルというゲームを楽しむという点において楽しいのであって、本来は、そんなの全部、自分の好きにできてしまうものです。

この地球上でスピリチュアルというゲームが生まれて、そのゲームにのっとって行動すると面白い! それは否定しないです。 でも、それは所詮ゲームですから、ゲームをゲームとわかっていておもちゃで遊ぶのと、ゲームなのに本気になってスピリチュアルにのめり込んでいるのとはかなり違います。

今、流行っているスピリチュアルは一つのゲームという点において面白くて、そのゲームを提供してくれた人には感謝してもいいくらいですが、それと、本来の意味でのスピリチュアルは全く別物だということを認識しておいた方がいい、というお話です。

所詮はこの地球上の出来事はみんなゲームなのですから、スピリチュアルというゲームを楽しむ、というくらいがちょうどいいと思います。



不平等なのが当たり前

なんていうと世間では風当たりが強いようですけど、平等なのは社会のシステムのことであって、人は不平等なのが当たり前です。

まず親が違いますし兄弟も違いますし親戚、生まれた場所、周囲の環境、時代、全然違うのに平等だなんて思うから不平不満が生まれるのです。

競争社会にしてラットレースさせるために平等だなんて言い出したのでは? とも勘ぐってしまいます。

例えばアメリカ建国宣言の神の元の平等というのはキリスト教の信者が平等ということであって、それを真に受けて平等だなんて思わない方がいいです。それ自体は競争社会とは関係ないように見えても、実は影響しているなんてことはよくあります。

スピリチュアル的な観点で言いますと、人間は死んでも終わりませんから、死んだら友人知人のところにまず帰って、そこで一緒に楽しく暮らす場合もあればグループソウルと合一してから再度分霊になる場合もあります。であれば、その友人知人やグループソウル繋がりの人が助けてくれるのは当然ではないでしょうか。それを不平等とか言っていたら何にもできなくなってしまいます。

転生について色々言われていて、死んだら神様のところに戻って3つの人生から選べと言われるような場合もあるでしょうけど、私の場合は割と自分で人生を選んでいて、例えば、友人知人や元妻の霊たちが楽しく暮らしている時に一緒に転生しよう、ということになると一緒の街に生まれたり家族として生まれたりするわけです。

家族として生まれるとお互いにサポートするでしょうし、家が違っていてもそのような前世からの繋がりがあると妙に助けてくれたりもするでしょう。

仲の良かった人が転生する場合は一緒にあの世で生活している人たちの全員が転生するということはほとんどなくて一部の人が転生しますから、あの世に残った人は転生してきた人をサポートするわけです。それが、人生の節目ごとに不思議な導きという形で現れるわけです。

それを傍目から見ると恵まれているだとか不平等だとか言うかもしれませんけど、実際は単に仲の良かった人の人生が幸せになるように助けているだけです。

人生というのは一つの生で終わりませんから、来世も仲が続くような関係が理想だと思います。

他人を見て不平等だとか言う人については、本人が妬むと言うことであれば本人の問題ですから放っておくしかありませんね。関わりを持つべきではありません。

他人を妬んで他人を遠ざければ来世まで繋がるほどの人と人との繋がりは生まれませんが、他人を大切にすればそれは今世だけでなく来世にも生きてきます。

利益のために他人に親切にする人は友人も同様に利益のために他人に親切にすると言う人が近寄ってくるでしょうし、一方で、無私で奉仕する人の周囲には無私の人が集まってくるでしょう。それが基本です。

ただまあ、後者の場合は他人からただのカモだと思われるリスクがありますので現世ではなかなかやりにくいですけどね。



一番大切なのは命なのかそれ以外か

どうやら歴史上、一番大切なものは命なのかそうでないのかで人々は意見を交わしていたようです。

人間の体に魂が宿っておりますので命が三次元の物体ということであればそうではありませんけど魂というレベルからしたら確かに命が一番大切です。しかし、命は継続しますけどそれ以外の状況もありますので単純に三次元的な命を延命させる方が良いとも限りません。

人間として生まれてくるためには多大なエネルギーが要りますので簡単に肉体を捨てるべきではありません。それは大前提です。ですから自殺は基本的にはいけません。良い場合もあるのかもしれませんが私にはわかりません。

自殺とまではいかないでも、高次のスピリットあるいは守護霊の選択として死ぬ方向に導かれる時があります。それを自殺と言うのかなんと言うのかは微妙なところです。

例えば、今世の学びを終えて次の学びに行くために大きく環境を変える必要がある時は、生きたまま環境を変えることができないほどの場合、あるいは、生きている環境が閉ざされていて次の可能性がないと高次のスピリットが判断した時に死という洗濯をする場合があります。それは鬱になって自殺するとかそういうお話ではなくて、遥かな未来を見据えて、将来そのまま生きていたら来世にも渡って悪影響があると高次のスピリットが守護霊の意見も参考にしつつ決定することであるわけです。

ですから、三次元的な命は最高の価値ではなく、一時的なものであるわけです。しかしながら、簡単に捨て去っていいものでもないわけです。



悩みも所詮はゲームの1つ

人生にはもともと悩みなんてないですけど、悩むというゲームを皆さんでしているだけです。

盲目にならないと夢中になれないですし、盲目にならないと悩むなんてこともできないです。もともと清々しいですが、没入感みたいなものは盲目になるからこそ熱中できるわけです。

スピリチュアルでは「盲目をやめましょう」とか「清々しく」とか言われていますけど、確かにそれは本来の姿ですけど、単に今の皆さんは一緒になって悩むというゲームをしているだけですので、実際はあまり心配することでもないと思います。

スピリチュアルな人が「このままだと地球ガーー」とか「悩みの想念ガーーー」とか言って煽ってますけど、煽って楽しいの優越感でもあるわけで、やはりそこにも「分離」の意識が働いているわけですね。

悩んでいる人は楽しくて悩んでいるのです・・・ というと語弊がありますが、本来のスピリットは悩みという状態を観察したくて肉体の三次元の意識が悩みという状態に囚われているわけです。

確かに、その状態に長くいると元の状態に戻れなくなったりしますので、元の状態を取り戻すためのスピリチュアルというのはありです。

ですが、それは分離の意識とかではなくて、人生は全てどちらも正解であるけれども、再度、自由で選択のある状態に戻っていこう、というお話であるわけです。

悩みだけでなく、熱中して没入感と共に楽しめるのがこの三次元世界であるわけです。所詮はゲームです。



世界に介入を続ける大師たち

一部のオカルトで言われていますけど、そういう大師達が実際にいます。

フリーメーソンとは関係がなくて、あれはただの組織です。しかし、そのメンバーに大師が関わっていたことがあります。組織自体は大師とは無関係で、むしろ特定の個人との関係があります。

一部はヒマラヤにいたりしますけど、割と普通の一般社会に紛れ込んでいます。一部はインドのスワミみたいな出家者ですけど、そうでない人、例えば普通のビジネスマンだったりもします。

ヒッピーに大師がいるかどうかはわかりませんけど、似たような格好をしている大師はいます。ヒッピーは真似しているファッションであって、ヒッピーになったからと言って大師になれるわけではありません。

世界の政治を動かしている人は表には政治家ですけど、政治家の思念に影響を与えて政治を動かすなんて大師たちにとってはお手のものです。

ただ、どのあたりを動かせば良いのかまでは大師本人には細かくはわからないので、主に2つの手段を持って選択を行っています。

1つは、監視役の魂から現状を読み取る。
もう1つは、とある大天使が判断し選択した上で大師に実行を委ねる。

前者は、世の中を監視して理解を深めるために転生した、大師と同じグループソウルに属する分霊です。

その分霊の意識を大本である大師の大師のグループソウル、それは時にハイヤーセルフとも呼ばれる根元の魂ですが、その魂がいわゆる大天使であり、全ての分霊の意識を勘案した上で決断し、実行は大師などに任せるわけです。

とある大天使の分霊が大師として転生し、分霊である大師および監視役の魂が目になって、グループソウルであるハイヤーセルフであるところのとある大天使が判断し、それを大師に実行させるわけです。

ですから、大本である大天使、それは大師のハイヤーセルフでもあるわけですが、その大天使がこの世界を動かしているとも言えます。

地球には多様な存在が関与していて、地球外生命体も多く来ております。

その大天使は基本的には地球の衛星軌道上に滞在して地球を空から監視しておりますので最初は気付きにくいのですがやがては大天使の存在に気がついて多数の地球外生命体の訪問も受けているようです。



マスコミの役割は真実を明らかにすることだった

昔、ジャーナリズムというともっとプライドがあって隠された真実を世の中に広めるという使命感がありましたが今は単なる煽りの道具と化していて、真面目にやっている方々がはなはだ迷惑しているように思います。

真面目な方が真実の報道をしている一方で、目立つジャーナリストが煽り記事を広める風潮は今に始まったことではないですけど、そこはやはり歴史的なものがあるのでしょうね。海外ではジャーナリストの歴史としてまず最初にカリスマ的な報道記者がいてその周辺にジャーナリズムのあり方の思想が出来上がってきたのに対し、日本の場合は輸入してしまって単なる宣伝の道具として扱われてきたという大きな違いがあると思います。

まず最初に思想的なものがないとマスコミの報道も煽りの道具になってしまうのでしょう。

既にシステムとして煽りの道具が機能しており、システムが一人歩きして巨大になって制御不能なほど日々動き続けており、そこにはもはや人間の意図が存在せずに、ジャーナリストはシステムの一部としての煽りの機能を持たされているようにも感じます。

最初は煽りによって人の目を向けさせるとか世の中を扇動するという意図があったように思いますが、既にシステムとして煽りこそが目的と化しており、目的が存在せずに煽りだけが日々繰り返されるだけの生産性のない状況を生み出しているように思います。

日本には戦争がありませんけどアストラルな想念の世界を見てみると戦争に類似したことは起こっており、人々のうっぷんや妬み、怒り、そのようなものがそこら中にぷかぷか浮いていて雲のように漂っており、そこを通過するだけで怒りや悲しみといった感情に支配されてしまうことがあります。オーラが不安定なほどそのような漂う想念の雲の影響にさらされやすいです。

ですから、用もなくそこらを歩き回るのは、実はあまりお勧めできないです。想念を拾ってしまって不愉快になったりしますからね。

今、マスコミはそのような害毒の想念の雲をばらまく機能になってしまっているわけです。マスコミが煽り記事を出すこと自体は無視すればいいのですが、このように、煽り記事に影響されてしまった人々がそこら中にばらまく不快な想念の雲はとても迷惑です。

昔は報道機関といえば特別でしたが、今は自分で直接的に広報することができますし、記者にしても会社に属する必要が減っていって個人で発信する方が思想がよくわかって良いわけです。

そもそも「公平」な報道なんていうのは本人が思想的に公平なところを目指していることが前提になるわけで、その目的が自身で明らかになっていないのであれば公平なんてのはただの言い訳にしか過ぎないわけです。

昔のジャーナリストが言っていた「公平」というのは「事実だけを言う」ことではなくて、個人の思想に基づいて双方を判断することでありましたので、相対的なものであるわけです。事実だけを言うジャーナリズムが正しいと思うのならそうすればいいですし、個人の思想を公平と呼んで双方を判断するならそうすればいいわけです。

「事実」あるいは「個人の価値観の元の公平な双方の視点」であるなら、煽りよりもよっぽど良いです。

そのような観点がないなら、今後ますますジャーナリズムは不要なものとして扱われてゆくでしょうね。

これは、煽り記事に反応する人が減るなら自然消滅するでしょうし、増えるならば大師が手を下して人知れずジャーナリズム解体のプロジェクトを発動させるでしょうね。どちらになりますかね。

大師は自分では世の中の動向がわかりませんので目となってこの世に普通に転生している人たちの視点を参考にします。そのような人が誰かは一般的にはわかりませんけど、実は「目」である人に意見が届くように視点や意見を日々発信するのはどの人であっても大切なように思います。