サマーディにおいては心が動いていようが止まっていようが関係なく、いわゆるリクパ(心の本性)が自らの五感および心の動きを観察する状態になりますので特にシャマタ(心の静止)をする必要はありません。
心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。
ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。
ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。
これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。
ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。
サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。
そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)
たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。
一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。
ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。
ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。
あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。
ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。
流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。
ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。
不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。
これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。
ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。
まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。