静寂の境地とは文字通り頭の中の雑念が消えて周囲の物事、視界や音に関してありのままに認識することですが、そのような状態になっても、まだどこか清浄になり切らない部分が残っているようです。
少し前までは、静寂の境地に達したらその状態が割と新しい目新しい状態でしたのでその状態に割と満足していて、かつ、一時的なものでした。
基本的にはその状態はサハスララにまでオーラが満ちた状態に対応していて、それは順番に起こるというよりはサハスララにオーラが満ちると同時に雑念も消え去る、というものでした。
ですので、サハスララのオーラが抜けてゆくのと同時に雑念も戻ってきてしまう感じで、程度問題になってきてしまいますが以前は今よりも抜けるのが早くて、今は抜けにくくなったように思います。サハスララのオーラが抜けにくくなったということは、雑念が消えた状態も長続きするようになったということです。
その違いは何かというと、今はイダとピンガラが活性化してきていて、それにより、普段の生活においてもサハスララにオーラが満ちた状態を維持しやすくなっているように思います。
さて、そのような静寂の境地ですけど、一時的にその状態になっていた頃には気付かなかったことですけど、どうやら、サハスララにオーラが満ちて静寂の境地になって雑念が消えたとしても、どこか清浄になり切らない部分が薄くヴェールのように被さっているようなのです。
この状態にあってもブッディ(理知的な思考)を動かすことはできて、静寂と言っても雑念が消えただけで思考は問題なくできるわけですけど、それとは関係ないところで、何か、根本的なところで何かの薄いヴェールが被さっていることを感じ取ることができるわけです。
それは、言い表すとすると「空虚」とも言える状態であり、静寂ではあるものの、何か、ヴェールに覆われている状態であるわけです。
まだ、梅雨があけたばかりのやうなものですわりがついていないから、とにかくこの明朗さに貪著(とんじゃく)したがる習気(じっけ)が浮いて來て、ようやく開顯したばかりの定相を曇らすおそれがあるのである。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
これが、寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の後に来る滅盡定(滅尽定、めつじんじょう)の状態のようです。
これはテーラワーダ系仏教では「心の動きを完全に止めてしまう定」として理解されているように思いますが、この著者は禅系で同様に解釈しており、私の感覚からするとこの禅系の説明の方がしっくり来ます。
この状態になると止まってしまうのは雑念の方で、それはヨーガでいう「チッタ」の動きが止まるのであって、一方で理知的な働きであるブッディは動くわけですけれども、そうは言いましてもブッディの方を動かすかどうかは任意であるわけです。
ブッディを任意で止めてしまうと静寂の境地になるわけですけれども、基本としてのベースにある静寂の境地それ自体はブッディを動かそうが動かすまいが存在しているわけです。
ですから、滅尽定が心の動きを止めてしまう定だとするとのは表現的にも説明的にも不十分で、チッタの動きが止まって静寂の境地になるというのは非想非々想定と同様で、その非想非々想定の性質に加えて、上記の説明にあるような曇りがあるのが滅尽定であると思うわけです。
この油井真砂さんと同様の記述は他でほとんど見かけませんけど、まさにズバリの記述で、道案内としてとても参考になります。
テーラワーダ仏教や禅ではこの滅尽定を危うい状態と説明していて、この曇った状態に安堵してしまうと先に進まなくなってしまう、みたいな警告をしていますけど、私の見たところ、こんな曇った状態に留まろうと思う人がどれだけいるのか疑問に思います。こんな状態は、実際になってみれば、何かまだ先があるとすぐ気付いて歩むだけだと思いますが、どうなのでしょうか。
文字だけを解釈して学者が解釈したらそういうことになるのかもしれませんけど、実際の感覚からすると、これはただ単に、この段階ではそうなりがちだ、というだけのお話で、それ以上の意味はないような気が致します。
この、どこか清浄になり切らない薄いヴェールを超えてゆくのが今の私の課題のようです。
少なくとも、以前はこの薄いヴェールが存在することにほとんど気が付いておりませんでしたので、存在することに気付いただけでも少し前進であると言えると思います。