「怒り」とは何なのか子供の頃は知らなかった


周囲には獣のような同年代の子供たちが大勢いて、すぐに血が上り怒り狂って他人に平気で暴力を振るう人が普通にそこらにいる環境で育ちました。

ですけど、私は、20代後半に至るまで、本質的なところで「怒り」とは何なのか理解できずにいて、そもそも幼児や小学校の頃はそれが何なのかさっぱり知らなくて、周囲の人が何故にあのように怒り狂って獣のような振る舞いをしているのか、全く理解できないでいました。

そのような獣のような人と一緒に過ごすうちに私のお腹の中にわだかまりが溜まってゆきましたけど、それでも、怒りという形での表現方法をどうして行ったらいいのか全く分からず、お腹の中のわだかまりが溜まるか、あるいは論理で論破するということでわだかまりを解消してゆきました。

ですけど、獣のような人にとっては論理なんて関係がありませんので、論理とは全く関係のないところで何か「特徴」をけなしてゲラゲラ笑うことで私が獣から馬鹿にされるような少年時代を過ごしました。結局、ああいう獣にとってみれば理由なんてどうでもよくて、単に馬鹿にしたかっただけなのかと今は思います。そして言い返しを避けて他人の口を塞ぐためにすぐにキレて暴力を振るうわけですから話しても意味がないわけです。まさに獣です。

学校や田舎社会というのは逃げ場がなくて最悪で、それで鬱っぽくなったりもしたのですけど、それすらも人生の計画の一部であったと今は思います。

子供の頃、私は「怒り」というものが何なのかサッパリわからなくて、年齢を重ねるうちに少しずつ理解してはいったのですけど、そのうち怒りを「爆発」させたのは20代後半になってのことで、そこでようやく「初体験」したのでした。

結局、その初体験にしても、私の中でそれを知りませんでしたので、怒りを持っている他人からこっそりとオーラを引き抜いて自分の中に入れて、そのオーラを使って初めて怒りを「爆発」させて、20代後半にして初めて「怒り」で「キレる」ことができました。なかなかに興味深い体験でした。私をカモ扱いしてきた元友人に対して、態度の変化を察知したことをトリガーにして怒りを発動したのですが、キレたら向こうの態度が一変したのは興味深かったですけど、最後まで怒りをぶつける前に相手が逃げていったのがその時は少し残念にも思えて、あれだけカモ扱いしてきた元友人が逃げ足だけは早いものだな、と思ったものでした。わざわざ怒りをぶつけるほどでもない小物だったようで、怒りというものはコスパが悪いな、と思ったものでした。怒る価値もないものに対して怒ってみせても相手は逃げるだけで、改善もありません。良かったことといえば、私の方から相手に対してバリアを張れるようになった、ということです。これはこれで有用のように思いますし、社会生活を送る上で必須の能力のように思います。ライトワーカーやスターシードは腹黒い人から搾取されることがあって、当人はそれに気づいていない、みたいなことも多々ありますけど、この種の、ずるい人を拒否する能力というのは特に「怒りを知らない」スターシードにとっては身につける能力のうちの1つのように思います。

結局、その後も含め、今に至るまで怒りでキレるというのはその1回限りでそれ以降はなくて、次第に怒りというものを理解してゆき、必要に応じて時に意図的にわざわざ怒りの感情を作り出す、という実験のようなことを実地で行ったりしてみたこともありますけど、ここ10年以上はそのような必要もなく割と平穏な生活を送っております。

世間のスピリチュアルを見ると、「怒りを抑えましょう」とか「怒りが湧き上がった時はその逆を考えましょう」とか言われていたりしますけど、そもそもこれって、獣から進化した魂に向けたメッセージなのではないかと思います。スターシードにとっては逆で、怒りという不思議な感情とは何なのか勉強しましょう、というお話になるわけです。

私もそれなりにスターシード系だと自覚はしていますけど、スターシードやライトワーカー系の人、例えば元金星人とかの魂は割と「怒り」という感情がそもそもない世界からやってきていて、地球人の「怒り」という感情を全く理解できなくて対処できない、ということがよく起こるようです。これは割と後になって知ったのですけど、最初からわかっていればもっと対処のしようもあったのに、と思ったりもします。

獣が怒り狂って暴力を振るような野蛮な人が周囲に多数いる少年時代だったのですが、それは、今世の人生の目的とも一致していて、自分をどん底に落として今まで使命を遂行する間に貯めたわだかまりとしてのカルマを今世で一掃して解消することを目的としていましたので、これは不幸なことではなく、意図通りに周囲に獣がわらわらといる環境に自ら踏み込んで、想定通り、自分を葛藤と自己否定のどん底に叩き落としたわけです。それはうまく働いたように今は思います。

この環境がなければ今でも私は「怒り」というものが何なのかさっぱり理解できない人でしたでしょうし、その場合、周囲の獣のような人たちに不注意な一言を発してしまって不愉快にさせてしまい、悪い時は恨みを買って怒りの矛先をこちらに向けてしまうことも(今までの人生と同じように)継続させてしまったことと思いますので、相手が何と言われたら不愉快になるのか、それを理解する上でも「怒り」とは何なのか勉強したのは良い経験だったように思います。

ですから、スピリチュアルな話で「怒り」がテーマの場合、大抵は私は他の人と話が合いません。世間で言われているのは大体は「怒りを鎮めるにはどうしたら良いのか」というお話ですけど、私の場合、怒りというよりは上記のような環境及びおそらく過去生で溜めてしまったトラウマに近いものがほとんどですので、見た目には怒りとトラウマは似ているように思えるかもしれませんけど、怒りの場合は表現して発散するか誰かにぶつけることが多い(らしい)のに対して、トラウマの場合は自分の中で自分が受け止めますから、トラウマの場合は他人にぶつけないのです。一見すると他人にぶつけているように見えていても実際は当人からしたら他人は見えていなくて自分の中と対峙しているのがトラウマなのです。他人にぶつけようとか攻撃しようとする意図が基本的にはなくて、トラウマの場合にはたまたま制御できずにぶつけてしまうだけなわけです。

スピリチュアルな世界では意外にこの辺りのことを理解していない人が多くて、単にトラウマはよくないもの、みたいな簡単な話しかしていなかったり、あるいは、トラウマの葛藤をぶつけられた人は自分が攻撃されたかと勘違いしてしまいますけどトラウマの場合は単に自分自身と対峙しているだけなのです。スピリチュアルの先生のような立場のような人ですら意外にこの辺りがよくわかっていないのです。私がどうこう言っても「怒りを抑えるべき」みたいな獣向けの教えに終始してしまうので、まあ、話が通じないわけです。

この種の話で分かり合えるのは割と同じスターシード系で、ライトワーカー系やスピリチュアルな人であってもこのようなことがわからなかったりします。まあ、わかってもらう必要はないので、ベースが違うのならそれはそれで違うというだけで優越はないのですけど。「怒りとは何なのかわからない」なんて相談しても大抵の場合は「はあ?」と言われるだけでしょう。そんな感じでした。今は理解している(筈)ですけどね。