三種の神器のうちの1つである鏡は、神道だけでなくスピリチュアル全般で心の性質を言い表すものとして古代から語り継がれております。心は本来清浄でそれ自体は汚れることはなく周りを映し出す鏡のようなものだ、とはよく聞くお話です。
とは言いましても、実際のところ、古い鏡にはウロコがついて曇ってしまっているのと同様、実際の心にはウロコよりもがっちりとこびりついている垢あるいは黒い汚れのようなものが厚い層をなしているのが普通なわけです。
ですから、普通の人がスピリチュアルのお話を聞きかじって「そうか。私の心は清浄なのか。そして、スピリチュアルの言うように何をやってもいいのなら、私は自由だ」みたいなことを思ったとしても、確かに心の本性の部分は清浄ですけどその上に厚い雲が黒く覆い被さっておりますので、自由と思っていたとしても実際には心がその厚い雲でプログラミングされた通りの決まった動きに従ってしまっているだけなわけです。
ですから、自由だ、という言葉そのものが心の上に厚い雲として乗ってしまい、自由だと思って行動するというプログラミングが一つ加わっただけで、実際には厚い雲はそのまま残ってしまっているのが大半の状況なわけです。
実際には、その厚い雲を本当に取り除いていく必要があるわけですけど、それは時間をかけなくてはなかなか取れないもので、いわゆる浄化の作用を継続的に行う必要があるわけです。
そうして浄化がある程度進めば清浄な意識が現れてきて、最初は私の場合は単なる心の平穏、雑念のほとんどない静寂の境地、いわゆるサマーディ状態にまずは達したわけですけれども、それが割と普通になってきて日常生活にまでサマーディが広がってくると、次第にそのような心の雑念としての静寂の境地だけでなく、実際に心そのものが銀色に光っている鏡のようなものであることがありありと見えてくる瞬間が時折ではありますが出てきたように思います。
具体的には、自分の心あるいは本体が胸を中心に胴体から顔あたりにかけて楕円あるいは卵型の鏡のようなものでできていて、それがまるでブラインドが時折開くかのように時々その銀色の本性が現れていて、銀色の鏡のような本性が現れたときは周囲の物事、それは実際の現実の世界そのものでありますけど、周囲の現実、世界の出来事が自分の心の鏡に映し出されていることがはっきりとわかるわけです。
それはまだブラインドが時々開く、あるいは、いつも太陽に雲がかかっていて時折雲が晴れて太陽の光がふと差し込むかのように、瞬時に現れるけれどもまた割とすぐに隠れてしまうかのような状態です。
これは上記に書いた意識の静寂とは別物で、静寂の境地はそれはそれとして継続していて、それとは別に、このような、心の鏡がブラインドあるいは時折太陽の日がさす薄曇りの日のように感じられることが瞑想中に時折現れているわけです。
これはおそらくは心の有り様を示していて、本来心というものは何でも見通すことができるけれどもこの世にあたっては曇っていて認識が限られているのかな、という気がしています。
とは言いましても現状では時折その鏡が動く程度で、そこに見えるものも一瞬見えるだけですので何のことか理解するには至らず、実際の役には立ちませんし、(少なくとも今のところは)自分で見るものを選べるわけでもないですので、何かが写っている、というくらいのものでしかないわけですけれども。