普通の状態、瞑想がそれほど深まる前では人の意識というものは雑然としていて混乱しています。その状態では雑念が次々に湧き出て例えば考え事や想像、あるいは自己批判のループに陥っていたりします。
そのような状態では心が休まることがなくて常に疲れた状態になっているわけですけど、瞑想をするにつれて心が静まっている状態が増えていきます。心が動いていない状態が静まった状態でありリラックスできる状態なわけです。
そのように心が鎮まるというのが第一の段階であるわけですけれども、その状態というものが更に深まってゆくと静寂の境地になり、心が文字通り水面のように静かになっていることを体感します。
実際のところ、この状態の解釈は顕教と密教あるいはヴェーダンタやチベットのゾクチェンなどでは解釈がそれぞれ異なっています。
顕教:心が静まった状態を増やしてゆくことで解脱する
密教:思念を変容させることで解脱する
ヴェーダンタやゾクチェン:心が動いていてもいなくても同じと考える
ヴェーダンタでは心を超えたものをアートマンあるいはブラフマンとか呼んでいたりしますけどそれは全体の一部あるいは全体そのものであり、それと(おそらくは)同じことをゾクチェンで心の本性(セムニー)と言っていたりするわけです。
心が静まってリラックスするだけでも十分に瞑想の効果としては十分なのですけど、その心の静寂が深まると、やがて、心がない状態というものが何なのかを理解するようになってきます。
ただ単に表層で心の静寂、寂静になっているだけでなく、その奥底が見えてくるわけです。
その奥底が見えた瞬間、心というものが単に静寂になるだけでなく、心の中にポッカリと穴が空いたようになってその空いた穴から底が見えることによって心の限界が一時的にでも取り払われ、心あるいは意識というものが与えられたものであることを理解するわけです。
その瞬間はただ単に静寂の境地でリラックスしているのとはかなり違いますけど、土台としてはその静寂の境地のリラックスがあって、その状態が深まることで静寂の境地の中、真ん中、真正面のすぐ下、斜め下の空間にポッカリと穴が空いて、その奥底が見えるのです。
そして、その瞬間、静寂の境地にあってもまだ存在していた自分の「心」というものがその部分だけ全くないことに気づくのです。
静寂の境地それ自体でも自分の心というものはかなり薄くなっていて半透明になっていてそれなりに浄化されていますけど、このように正面に穴が開けてくる状態ではその穴の部分には自分の心がないことに気づいて、まだ自分の周囲や体に近い部分には心というものがありますけど、穴が開くことで心がない、という部分がわずかながら理解できるわけです。
そして、それと同時に、自分の心というものが与えられているものであることを理解します。
元々、自分の周囲に見ていたものは全て私の意識を通して見ていたものであり、そこには必ず私の意識というフィルターが存在していたわけですけれども、少なくともその穴の部分に関しては私の意識というものが存在していないわけです。
それを見ている自分の意識は元々あって、静寂の境地ではサマーディとしての観察の意識は続いていたわけですけれども、その穴が開く瞬間、私のサマーディとしての観察の意識も含めて無限の深淵に同化してしまってサマーディの観察するヴィパッサナーの意識も含めてほぼ完全に消えてしまいます。
まだ少し残っている私の意識は、「ああ、このまま死んでしまうのかな・・・」と思ったりしつつ、それでも、少なくとも今のところは完全に意識がなくなってしまうことはなく、少しすると意識が戻ってきます。
これは次のような変化を経るように思います。
0.(瞑想を始める前の)雑多な意識の状態
1.集中のゾーン状態
2.静寂の境地、サマーディ(三昧)のヴィパッサナー(観察)状態。観察が常時継続する状態
3.心が消え去る状態
瞑想というものは雑多な感覚から無、そして有に至るわけですけれども、その先に、心が消え去る状態があるわけです。
最近はそれを度々体験していて、心を超えた世界を垣間見ると、私という意識は与えられているものだということがわかるわけです。