子供に「心が自分」と教えない

2021-12-28 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

一般的には「自分とは心」と信じられていて、親や学校などではそのように教えられていると思います。

実際のところ、ヨーガなどでは心は「道具」と教えられていて、心は「自分」が使う道具に過ぎないわけです。

ここに、とてつもなく大きな認識の違いが存在しています。

心が自分だと教えられた場合、例えば酷い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとして、その考えが心の姿という解釈になりますから自分というものがそのように醜くて卑猥な存在であると認知するようになるのです。

一方で、心は自分ではなく道具だと教えらた場合、醜い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとしてもそれは五感の拡張でしかなくて、例えば目に醜い言葉や卑猥な言葉が不意に飛び込んできたり、あるいは、道を歩いていたりテレビを見ていた時に酷い言葉や卑猥な言葉が聞こえてきた時と同様、ただ単にそのような言葉が頭に浮かんだ、キャッチされた、と捉えるわけです。

これらの間にはかなりの違いがあって、学校で「心は自分」だとか「我思う故に我あり」だとかいう言葉を表面上の説明で教えられてしまうと次第にこの社会生活の中で自分が酷い人間だと思うようになり、自己嫌悪に陥ってしまうことになります。

それから逃れるためには主に2つの道があって、1つはよく勉強して真実を理解すること、もう1つは、あまり深く考えずに直感に従って生きることです。

割と多くの人がこのどちらでもなくて、ただ教えられた通りに解釈して頭を混乱させて生きているように思いますけど、その根本を辿れば、このように「自分」と「心」というものに対する理解が最初から食い違っているところに原因があるように思うのです。

直感に従って生きる道は割と女性向きでスピリチュアル的な考え方と言えなくもありませんけど、同様に直感に従うことで反抗期のようになったりもします。直感に従うことで自分の本性が出ますから、単に教えられたことに従うことを辞めた時にどのような生き方が現れるかはその人の精神性の根源に依存するわけです。

それなりにスピリチュアルな基礎がある人が直感に従って生きるようにしたならばそれなりの落ち着きを持った生活になりますけど、基礎がないのであれば社会の道を踏み外すことも考えられ、そうであればもしかしたらコントロールされて生きていた方が幸せだったかもしれません。

一方で、何かおかしい、と気づいて勉強して真理を見出す人もいるでしょうけど、それもまた大変なお話のように思います。

どちらにせよ、「心が自分」などという間違った考え、おそらくは教えている大人や学校の先生であってもそのことをよく分かっていないようなお話をおいそれと子供に教えるべきではないと思います。それにより自分がよく分かっていないことを子供に教える罪というものを大人や学校の先生は背負うことになるわけです。

子供はそんなことよりも自分のなすべきことである勉強をしたり心身を鍛えたり心を落ち着かせたりと言った実践的なことをすべきで、「心が自分」などという、実は間違っていて大人自身にとってもわかるようなわからないようなお話を教えるべきではないと思うのです。

何かを教えるのならば日本であれば仏教的な教え方もできるでしょうし、近くのお坊さんを呼んできても良いでしょう。あるいは色々な考え方を紹介して「心が自分」という考えだけでなく「心は道具」という考え方も紹介しても良いとは思いますけど、そのように幾つも教えても子供は理解せずに1つだけが頭に残るということも多いですので、そのことはお坊さんに任せるとか、あるいは、どうせ教えるなら「心は道具」という考え方にしておく方が良いと思います。その方が子供が自己嫌悪に陥らずに済みます。

学校の先生は、子供が荒れている理由がよく分からない、みたいなことを言いますけど、その原因の1つがこのことだと私は思います。「心は道具」と教えるだけで子供の心は穏やかになっていって理知的になって思考力も格段に上がります。そのくらい重要な知識であるのに、何故か、学校の現場では「心が自分」などと言った、実際はその考え方はただ単に1流派の考え方に過ぎないのに、何故か「心が自分」こそが絶対的に正しいかのように学校で教えられているが故に、その間違った考えを教えているが故に子供が混乱して学級崩壊などに繋がる一旦になっていたりするわけです。