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清浄になり切らない静寂の境地 - 瞑想録 2021年10月

2021-10-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

奥深い意識でオームを唱える

オームを唱える瞑想や口で唱えるチャンティング(詠唱)は色々とありますけど、最近の瞑想で行っている、心の中で唱えるオームの詠唱は深い意識で行うように自然に変化してきました。

基本は口で唱えるオームで、ことあるごとにオームという言葉がチャンティングの最初だったり何かで唱える機会がありますけどそのように口で唱えるオームがまずあります。

次に、心の中の顕在意識で唱えるオームがあります。この場合は、頭の全体、主に外側に響く形で、時には眉間の振動を伴ってオームが響くことになります。眉間がじわじわとする、というのは主に気の次元でエネルギーが振動しているようです。

一方、心の中の、深い意識、深層意識あるいは無意識のうち意識に現れ始めた表面部部分で唱える低い深いところから唱えるオームがあります。この場合、オームは口の舌の奥の少し上あたりの脳の中心部分から発せられ、その振動は頭の、特に上方に向かって広がってゆきます。その振動は次第に頭の中のオーラを頭蓋骨に沿って等しく全体にまで充満させる効果があって、頭頂のサハスララにまだ十分オーラが行き届いていない状態であってもこの深いオームを唱えることによりサハスララにまでオーラが充満していきます。それと同時に、頭の各所の隅々にまで、まるで空気の入っていない風船が少しずつ膨らむかのようにオーラが充満し、オーラが充満するごとに意識がクリアになってゆきます。

朝、まだ意識がクリアになっていない時、あるいは日常生活を送って意識が少し濁った後の夜にこのような深いオームのマントラを唱えると意識が再度クリアになり、日常生活が豊かなものになります。

実際のところ、その深いオームはもはやオームというよりは深いところから溢れて湧き出てくる振動そのものですので、オームという感じはもはやしないかもしれません。ただ、奥深いところから湧き出る振動に自分を合わせるとそれがオームとなってオーラが共振するのです。

この奥深いオームは(今の所は)頭の中でだけ感じられて、外側では感じられないものです。

この奥深いオームはナーダ音で聴こえている高周波とも違っていて、音程から言えばナーダ音は割と高い音でピーという基本の音に加えて不定期な音の変化がありますけど、ここで言っている奥深いオームはもっと深いところから、音と言えば音ではありますけど、半分は音のような半分は波動の伝わりのようなものとして感じられる、基本の振動のようなものなのです。その、基本の振動に自らの意識を合わせると、それは比喩としてオームであるわけですけど、その深いオームに意識を合わせると自然とオーラが充満して意識がクリアになるわけです。

そのまま瞑想を続けていると、奥深いオームの振動と、奥深いオームの振動と比べると少し大きな振動である物理的な体に近い振動とが繋がって共振し始めます。奥深いオームの振動の方は少し大きな振動になり、物理的な体の振動も更に大きな動きになります。

その共振は次第に強くなってゆくのですけど、ふと、港に繋がれた船がロープでそれ以上岸から離れないがごとく急に何かにその振動の動きが遮られ、体の各所の微細なショックと共に瞑想状態から出てきます。これは何かと思ったのですけど、まだ、おそらくはチャクラのあたりが強い動きに耐えることができていなくて、少しずつ慣れさせる必要があるのかな、とも思っております。体の各所のチャクラを探ってみると、チャクラの奥にも頭部と同じように奥深いオームと共振する場所があるようです。チャクラは今までエネルギーのポイントとして感じていたわけですけれども、実のところもっと深いところにもチャクラの共振する場所がある、ということだと思います。今後、そのあたりを探っていくと面白そうです。



他人にオーラを吸い取られること

以前は割とこのことに否定的で、オーラを吸い取られそうになったらエーテルのコードを切るようにしてオーラを取られないようにしてきました。ですけど、割と最近は回復も早くなりましたし、悪気がない場合や、気持ちとしてはスピリチュアルな心がけがある場合は黙って吸い取られるような場面も増えました。そこまで悪者にすることもないのかな、と。考え方が変わってまいりました。

ただ、仕事場でエネルギーヴァンパイアをしているようなスピリチュアルの気持ちがない人に対しては今まで通りエーテルコードを切るような防御をするわけですけど、そうではなくて、悪意がない場合は割と受け入れるようになってきました。

そのように、相手にオーラを吸い取られて自分が疲れた顔になったり(鏡を見ると)一時的に老けたような表情になったとしても、食事をしたり休憩をしたりすれば割とすぐに回復しますのでそこまで気にすることでもないのかな、と思うようになりました。もちろん相手にもよります。

先日、スピリチュアルの展示会に行ったときにとある人がヒーリングを安価でやっていて、ヒーリングということなので受けたのですけど、どうやらまだヒーリングして日が浅いようで、ヒーリングしているつもりなのかもしれませんけど私のオーラをごっそり抜いていきました(苦笑)

まあ、こういう場合は悪気があってしているわけではないのでしょうけど、ヒーリングをしている側が元気になってしまっている例ですね。話を聞くと以前は寝たきりでヒーリングを習ってから自分で癒しをしたりして回復してきた、とか言いますけど、それって自分では気がついていないだけで他人からエネルギーをごっそりもらったのだと思いますけど、どうでしょうかね。実際、そういうことってよくあります。

ヒーリングというのはオーラ、特にエーテルのレベルで繋がってエネルギーが平準化されてるのが基本ですので、エネルギーが高い方から低い方へと流れます。ですから、ヒーリングします、とか言ってエネルギーの低い人が誰かと繋がるとエネルギーが逆にヒーラーの方へと流れるわけです。

そういうのは基本ではあるわけですけど、私は興味本位と、どのようにエネルギーが流れるのか知りたいので時々試したりしています。終わった後に疲れてしまいました。とは言っても元々それなりに元気なのですぐに影響はないのですけど、歩いたりすると急にふらっと来て、すぐに回復のために食事と飲み物を取りました。そのくらいで回復するので別にいいのですけどね。

それに、他人の疲れたオーラを引き受けるのは慈悲の心による修行の一環でもあるわけで、実際のところ私はそれを頭では分かってはいても自分はちょっと違うと思って拒否していた方なのですけど、最近は、そういうのも私もありかもしれないなあ、という考え方に変わってきています。

ただ、以前にも少し書いたと思いますけどヒーリングには2種類あって、自分のオーラを繋げる方法と、天のオーラを降ろす方法です。天のオーラを降ろす場合でも自分の体をパイプにする場合と天のエネルギーを直接降ろす場合とがあって、自分のオーラが汚れないのは天のエネルギーを直接降ろす方法です。まあ、そうはいいましてもスピリチュアルの人がやっているのは大抵は自分の体を通してのヒーリングですので、エネルギーレベルいかんによってはエネルギーを吸い取られてしまいます。ならばやらない方がいい、というお話もあるのですけど、私は半分調査、半分は興味本位で受けたりもします。

今まで、ヒーリングするなら自分のオーラを使わずに天のエネルギーを直接相手に降ろすのがいいとずっと思っていたわけですけど、もしかしたらそうではなくて、自分が引き受ける、というのが本来の慈悲のヒーリングなのかも、という気が最近はしてきています。かと言って、それをしてしまうとなかなか大変なので実際にやる、というところにはなかなか行かないのですが。

それと、今回の展示会では瞑想の具合やコツ及び家族・親戚についてカウンセリングしてもらって、なかなかに腑に落ちました。

どうやら、わかってはいたのですけど、やっぱり私はまだ悟ってはいないようです。そりゃそうなのですけど。



十牛図・第八図「人牛倶忘」で無になる

書籍を見ると色々と書いてありますが、今思うに、これはとても簡単なことで「無」の状態だと思います。

無というとそれ以前にも何度か違った状態を経験してきていて、意識が一時的になくなるのが「無」ではあったのですが、最初に現れた「無」に関しては、その心地よい状態は数日後かに聞こえ出したナーダ音によって無の状態から強制的に弾き出されました。かなり昔、まだヨガを初めて日が浅い時、最初に「無」になって、その段階における無は顕在意識の無であって、まだ潜在意識が表面に現れてきていない状態でしたので、顕在意識が無になってしまうと何も意識がなくなってしまって、虚無の状態に落ち込んでしまっていました。それでも、心のどこかに「心地よい」「休まった」という小さな意識が働いていて、その一方で、強烈な集中の力で顕在意識を押さえつけることで無の状態を保っていました。ですけどナーダ音が聞こえ始めたことで無の状態からは弾き出されてしまいました。

その後、何度かの段階を経て静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきたりして、しばらくは「無」とは離れていたように思います。

ですから、「無」というのは私にとって割と「(既に)終わったもの」と位置付けられていました。

しかしながらここにきて、再度、「無」の状態と対峙することになりました。

それは、瞑想をしているとサハスララにオーラが満ちて雑念が入ってこなくなるのですけど、そこでは論理的な思考である、ヨーガでいうところのブッディだけが働いていて、理知的な意識だけが働く状態になります。

それはそれで分析や物事をありのままに判断するには向いている状態でもあるのですけど、瞑想的にはそのブッディすらも超えてゆく必要があります。と、いいますのは、ブッディというのは階層からいうとカーラナ(コーザル体、原因体)の段階のお話ですので、カーラナというのはまだ人の本質であるアートマンには達していないわけです。その段階でブッディを働かせて物事をありのままに見て深く知ることはできますけど、それはあくまでもカーラナの次元でのお話なわけです。

この状態であっても、顕在意識としては無念無想に既になっているわけで、意識的に働かせるブッディの思考しか顕在意識には上がってこないようになるわけですけど、その意識的に働かせるブッディすらも悟りへと到達する妨げなわけです。

この状態であっても、オーラの揺らぎなどで雑念が度々入ってきますし、それはそれですぐにオーラを調整したりそのことに気づいたりして無念無想の状態を保つわけですけど、どうやら、この先へのポイントとしては、既に意識的に働かせているブッディすらも止めてしまう必要があるようです。

そして、どうやら、十牛図の第八図「人牛倶忘」で言われているのはこの段階なのかな、と最近は思うわけです。

単に「感情」のレベルの無念無想であればそれはアストラルの次元における無念無想であって、それを達成しても日本語では一応は「無」と言えば無になるわけですけど、そのアストラル次元の感情の「無」に加えて、カーラナ(コーザル)の次元の「無」であるところの、すなわちブッディを動かさなくする、ということを同時に行うことでこの第八図「人牛倶忘」が達成できると思うのです。

解説書を見ると色々と書いてはありますけど、それはアストラルの次元とコーザルの次元を分けていないからごっちゃになっているだけで、アストラル次元の感情の無念無想の「無」に加えてコーザル(カーラナ)の次元におけるブッディを止めて「無」にすることでこれが達成できる、とすれば、すんなり理解できます。

この段階では何かを微かに知覚できているだけで、基本的には、ただ無念無想の状態が続く瞑想になります。ふと不安定になって不快感が出たり疲れたりオーラが不安定になるのと連動して雑念のようなものが出てきたりもしますけど、基本的には安定した状態の瞑想が続きます。

この段階では知覚するものはあったとしても微かなものでしかなくて、それ故に、十牛図における図がただの真っ白い円である、というのも頷けます。

この前の段階の、アストラル次元の感情だけの無念無想による「無」ですと、感覚としては「真っ黒」なのです。「真っ黒」の中で無になる、というのはアストラル次元、それは感情としての無です。

この、十牛図・第八図「人牛倶忘」になりますと瞑想中の視界がぼんやりと光って見えます。光そのものは色々な場面で見えますので、単に光っているということでしたらこの段階より前でもいくらでも光は見るのですけど、ここでの光は、目をつむって暗いはずなのに自ずから光っている、という感じです。フラッシュのような一時的な光源ではなく、環境光のように、直接的な照射というよりは、何かに反射されて全体が明るくなっている感じが致します。暗すぎず、かといって明るすぎず、適度に光っているように思います。

図を見ますと、この状態がしばらく進むと意識が次の段階になるようですので、ひとまず、この無の瞑想を続けてみます。

文字通り「無」ですのでそこまで変化もなくて書くこともないですし、しばらくこの無の状態が続くことになればますます書くことが無くなっていくのですけど、それはもう、仕方がありませんので、しばらくこれを続けてみることにします。


(写真は「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)



ジョリッという頭の中心の音と感覚と共に緊張がほぐれる

ここ数日、どうも何か完全にリラックスできていない感覚があって、意識としては割と無になるというところを基本としてはいたものの、何か、静寂の境地に足りないものを感じていました。

何だろう・・・ と思っていて、それでも基本はオーラを頭の上まで満たして雑念がかなりない状態にして、ブッディ(理性の思考)も止めることで「無になる瞑想」をしていたわけですけれども、どこか、まだ静寂の境地に至っていない感じがしておりました。

静寂の境地自体は割と最近は普通になってきてはいたものの、ここ数日は、何か、静寂の境地に達しえない状態になっておりました。

何だろうか、と思いつつも、まあ、いいか、とも思ってそのまま瞑想を続けていたわけですけれども、ふと、全く前触れなく、急に頭の真ん中のあたり、喉の上、舌の上、鼻の少し奥の少し上あたりで急に「ジョリッ」という「音」と微かなズレるような感覚がしたかと思ったら、その直後から緊張がほぐれ、リラックス状態が深まりました

実際のところ、自分が緊張していたと自覚していたわけではないのですけど、改めてリラックスが深まってみるとそれまでの自分が少し緊張していたのだと気づくわけです。

頭の真ん中のエネルギーが通りやすくなった感覚があって、頭だけでなく、ハートのアナハタチャクラの方にもほのかな「膨らみ」を感じています。

おそらく、頭の真ん中のあたりのエネルギールートがブロックされていて、エネルギーが通りにくくなっていたのかな、と思います。

これは、前から通っていて最近ブロックされた、という面もあるかと思いますけど、それと同時に、おそらくは、3歩進んで2歩下がる、というような行ったり来たりを繰り返して成長している、と判断した方が正しいような気が致します。

最近の若干の緊張状態と、それより更に前の状態を比べると更に前の状態の方がリラックスできていたわけですけれども、そのリラックス状態から少し緊張が入ってきて、そして、今回のことで緊張が取れてリラックスできたら、前のリラックス状態よりも更にリラックスが深まったような気が致します。必ずしも一直線で成長するわけではなく、少し進んでは少し戻って、を繰り返してるように思います。

頭の部分は日常生活などでブロックされやすくて、そのためにも、日頃のメンテナンスが必要になってくるようにも思いますから、状態は今後ともチェックしていきたいと思います。

今回のことで、瞑想中にやっていたのは特に変わりなくて、眉間に集中した瞑想とか、チャクラに対して深い意識でオームを唱えるというようなことで、特別なことをしていたわけではなく、普通の集中の瞑想をした結果として、今回のような変化が意図せずして不意に訪れた、ということです。

これはヨガで言われている「グランティ(エネルギールート上にあるブロック、結び目)」かもしれなくて、この場所はルドラ・グランティとかシバ・グランティとか言われているところの近くではありますけど、その近く、例えば後頭部とか首の後ろとか、あるいは確か眉間の近くの皮膚とかで脈拍が強く鼓動したことはあったのですけど、その時は今回のようにジョリッという感じではなくて、強く脈打つ、という感じだったように思います。であれば、以前のことがルドラ・グランティ(シバ・グランティ)ではなくて今回の方がそうだったのかな? という気も致します。おそらくは、前回では頭の中心ではなくて周囲の各所のエネルギー・ルートが開かれて、今回は中心のルートが開かれたのかな? という気も致します。だから今まではエネルギーが頭に通ってはいるものの何か通りが悪い時もあったりして、一方今は、頭からハートのアナハタまでエネルギーが通っている感覚が出ています。エネルギーが通った感覚それ自体はかなり前からあったわけですけれども、今回のは、直結、という感じが出てきています。今後、もっとこの繋がりが強くなるような気も致します。もう少し様子を見ていきたいと思います。



ライトボディ 第8レベルの前兆

先日、頭の真ん中でジョリッという感覚と共におそらくルドラ・グランティ(シバ・グランティ)に何か変化が起きたわけですけれども、その後、日常生活において頭や首を動かすと何かが動くような感覚が続いていました。頭の骨なのか何なのか、何かが調整しているような感じです。

それに従って、頭痛というのもちょっと違うのですけど、偏頭痛とも違って、頭の中で何か物理的なものが実際に変化しようとしていて、それに従って頭の形が、実際は鏡で見ても変化がほとんどないので微細なお話だとは思うのですけど、何か頭の骨の形が変化し始めているように思います。

これは、もしかしたらライトボディ第8レベルに相当しているかもしれなくて、その段階では松果体や脳下垂体が実際に成長するとのことです。

ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変形しはじめます。それらが成長するにしたがって、ときどき頭の中に圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれないし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」

この段階ではエネルギーのフィールドが変化するとのことで、実際のところ、もっと以前からこの段階の初期症状のようなものは出ていたように思うのですけど、実際は今回のものが相当するのかもしれない? という気もしています。どうでしょうかね。

おそらくは、前兆として感じていたのはアストラルの感情的な部分で、今回はカーラナ(コーザル、原因体)としての論理的な部分のようにも思います。スピリチュアルやヨーガではアストラルとカーラナが分かれていなかったりするので時に分りづらい時もありますけど、分けて考えると割とスッキリします。

感情的な部分は少し前に第八レベルに達して、ブッディ(理知的思考)に関してはここに来てそろそろ達成しつつあるのかな、という感じが致します。

特に、日常生活上での細かな認知に関して、認知自体は少し前と変わらないように思いますけど、その認知に必要な努力の量が減ったように思います。手足を動かすときの認知や視界の認知において、意識する必要が減って、自然な認知になったように思います。手足を動かすときはその動きを特に意図することなく意識が認知できますし、視界においても同様で、特に意図することなく細かく認知できるようになったように思います。これはおそらくは程度問題で、もちろん生まれた最初から認知はできたわけですけれども、瞑想を初めてからスローモーションの視界が始まって、最初は割と意識的に意図してそれを認知できていたわけですけれども、その努力が次第に不要になってきたように思います。そして、それはブッディ(理知的思考)の静まりとも関係があって、ブッディが静まってくるにつれて認知がより自然になってきた、という関係があるように思います。

2023/4/21追記
・・・この時は既に第8レベルかもしれない気がしておりましたが、この時点ではまだ第8レベルでは無かったようです。その前兆といえばそう言えなくもありませんが、きちんと第8レベルにはなっていなかったように思います。


2024/9
続き



プラトンとカントの哲学の違い

本山博先生は元々哲学科で勉強されたようで哲学にお詳しく、たまたま見た書籍にカントとその前後の哲学者の違いが書かれてありました。

ソクラテスやプラトンは高次の認識力が明らかにあり、物事をありのままに見ることである「イデアの直観」のような言説を残している一方で、カントおよびその弟子たちの系統はそのような直観は存在しないという前提に立っており、肉体と結びついている意識だけを考察したために哲学の幅が狭まってしまったというのです。

それは具体的には、本山博先生がいうところの「カラーナの次元」における認知力に関連して説明されています。

(カラーナ次元以上では)「心が、想像や感情、感覚の次元ではなく、真理の直観、事実をありのままにみることを、完全にではないが、できるようになる」。こういうのをプラトンは「イデアの直観」というようにいうわけです。哲学者のカントは、人間は直観できない、人間は感覚でしか物を見ることができないといったけれども、(中略)そういう世界のことを「物自体の世界」というふうに考えた。「本山博著作集8」

これは、現代において全てがそうではないとは思うのですが哲学と聞くと頭でこねくりまわした理屈のお話が真っ先にイメージに浮かぶのはこのようにカント以降の哲学者たちが肉体と結びついた次元で哲学を展開してしまったためだ、と理解できます。

ソクラテスはいわゆる神霊、ダイモンの声を聞くことができましたし、プラトンはソクラテスの弟子ですから基本的には同じことを主張しているわけです。その頃の哲学は神秘主義と言ってもよくスピリチュアルなものだったと思うのですが、近年の哲学を聞いても頭でこねくりまわすだけで説得力に欠けると私などは思うのです。



ありのままと思うのではなくて認知する

瞑想やスピリチュアルで「ありのまま」とか言われていますけどそれには2種類あって、1つは論理的に頭(ヨーガでいうブッディ)で理屈を持って理解することと、もう1つは理屈抜きに直視することです。

これは似ているようでいて実は別で、ブッディだけ、直視だけ、とあるわけです。

それ以前のところとして感情的な感受の段階もありますが、そこから成長してブッディの理屈に至ることで「ありのまま」を体感することと、理屈抜きに直接的に直視して「ありのまま」を感じる・体感することとは違うということです。

感情的なところから始まった場合はブッディに至るまでに時間がかかりますので、最初は「ありのまま」には程遠く、他人の助けが必要かもしれません。一方、直接的に直視するところから始めた場合は答えは自分の中にありますから、まず最初に「ありのまま」を認識した上で、必要があれば問題解決などを頭(ブッディ)で行ったりするわけです。この場合、理屈抜きに直接的に直視した後に必要に応じてブッディの理屈を使うことになるわけですけど、直視というのはコーザルの次元に存在していて、ブッディも同じくコーザルの次元ですけど役割が少し違っていて、直視に関してはコーザルの次元でまず直視をするわけです。

・感情のアストラル次元における感受
・論理(ブッディ)のカーラナ(コーザル、原因)次元における直視(ありのまま)
・プルシャ、あるいはアートマンにおける直視(ありのまま)

感情から始まってブッディに至る場合と、カーラナ次元の直視によってブッディを使う場合とがあるわけです。直視はブッディ以上で発生しますから、ブッディのあるカーラナ次元の直視とプルシャでの直視は違うわけですけど、一応はその2つが「ありのまま」と言って良いと思います。

ブッディの場合は直視を元にはしているもの頭の理屈で考えるわけですけれども、顕在意識がさほど意識していないだけで直視が一応働いてはいて、ですけど、表面的にはブッディが主に働いている場合があるわけです。

そして、プルシャでの直視だけの場合は基本的にブッディは働かなくて、直接的に物事の本質を認識します。

まず感情の段階(アストラル次元)があって、論理・理屈(ブッディ)の段階(コーザル、カーラナ次元、原因)があって、次にプルシャとかアートマンとか言われている段階があるわけですけれども、感情の渦に巻き込まれているところから抜ける時、論理であるカーラナを通り、そして、次にプルシャとかアートマンというところに到達するわけです。まずアストラル次元の感情を抜けてブッディの論理の世界(カーラナの次元)に入るときに理屈で根本原因を見出すわけですけどそのカーラナの段階はまだ理屈としての直視ですので、その段階ではまだ想念の渦に巻き込まれている段階になります。

一方、プルシャあるいはアートマンの段階になりますと想念の渦がかき消されて、意識が「寂静の世界」になり、物事がありのままに目の前に現れる様を直接的に認知します。この時、イメージで言えば「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と表現するが如く、世界のありのままをありありと認知できるようになります。

ブッディの段階ではありのままを「考える」とか「理解する」という段階であるのに対し、プルシャやアートマンの段階ですと「直視する」あるいは「認知する」という段階になるわけです。



寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の完成

最近の静寂の境地は以前からそれなりに体験していたように思いますが、それは非想非々想定(非想非非想処)に相当するように思われます。

ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。(中略)ここは、寂境である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」

少し前からこの状態に入っていて、ですけど、どこか安定していなかったり、思考(ブッディ)が介入してきたりして静寂の境地そのまま、ということはそれほど長くは続かなかったように思います。

最近は安定してきて、完成というのかどうかは分かりませんけど、大体はこの段階のことがわかってきたように思います。

ここにおいても基本となるのは感情のアストラル次元の安定で、まずそれが基礎となった上でカーラナ(コーザル)次元において心の理知的な認識力であるブッディも安定することで静寂の境地になるわけです。

最初は、感情と雑念の安定から始まって、感情のアストラル次元が安定した上で時折カーラナが安定する、という感じでした。その後、次第にカーラナの方も安定してきて、それは少し進んだり戻ったりを繰り返して3歩進んでは2歩下がる、という感じの時も多々ありますけど、そのようにして次第に安定が深まったように思います。

この境地はブッダが修行した時に「これは悟りではない」と判断してその師匠のところを去ったという割と有名な境地で、それ故に、仏教の流派によってはこの境地の習得は必須ではなく任意としているところもあるようですけど、個人的に思うのは、確かに理屈としてはそういうのも成り立つ気も致しますけど、基本的にはここを通らずしてどこを通るつもりなのでしょう? と思ってしまいますが、どうなのでしょうか。まだ悟っていない私が言うのもなんですけど、ブッダのエピソードはあくまでも後世の判断でしかなくて、一部の流派はこの境地を軽く身過ぎているように私なんかには思えますけど、どうなのでしょうか。

「色」というのが五感などの現実に即した世界、いわゆるアストラル世界に相当して感情など五感にまつわる諸感情や感覚の世界で、まずそれを超えたことに加えて「無色」と言うのはざっくり言えば心の世界ということですけど整理されていない雑念に加えて整理された考えであるところのブッディ(理知的な思考)をも含んでいて、その両方を超えるのが非想非々想なわけです。

仏教の流派によっては心の世界(主にブッディ)をどうにかしなくても悟れる、と言っていたりしますけど、確かに、悟った後であれば理屈で言えば心にしても何にしても全て超越していますので悟った後の世界から見ればそのように解釈することも可能かとは思いますけど、悟っていない人が悟りに至るために非想非々想を通らずして悟れるかというと、そこはちょっとよくわからないですね。

悟りの方から見て心が動いていても静止していても大差ない、というのはその通りですけど、修行の階梯としては心の静止を経て次の段階・次元へと進む、というのが王道のように思えます。悟りの境地の説明と修行方法とをごっちゃにしてしまうとよくわからないことになってしまうように思います。

悟りの境地からすれば、繰り返しになりますが、心が静止していようが、心が動いていようが、感情があろうが、感情を抑えていようが、全て変わりがないわけです。それがありのままの境地ということでもあって、自分がどのような感情や心の動きをしたとしてもそれを超越した意識があるのが悟りの状態なわけです。

ですけど、悟りに至るためには段階的に「静止」を経る必要があって、まず最初はアストラル次元の感情を抑えて静止さる、というところから始まり、次はブッディ(理知的な思考)を抑えて静止させる、というところを経るわけです。

それは修行方法であって、一部の流派が批判しているように「心を静止して一体どうするというのか」みたいなお話は、主に、悟りの状態に対しての批判あるいは修行方法に対する批判であって、悟りの状態に関してはなんら異論がなくてその通りで、心を静止しようがしまいが悟りの境地には何の影響もないというのはそれはそうなのですけど、修行方法に関してはそれぞれの流派のやり方があるのだから口を出さずに放っておけばいいと思います。

それはさておき、この非想非々想に浸っていると何やら曇りが時々入ってきて眠らせたりする、というお話があって、それが滅尽定(めつじんじょう)という状態のようですけど、個人的に思うのは、確かにそのようなぼやけた状態はあるにはあるものの、明らかに何か気持ちの悪い感じがするので、書物が危険性を指摘するかのようにその状態にずっと落ち込む、というのはないのではないか・・・ という気も致します。

そして、その後に、曇りが完全に晴れると金剛定という状態になるということですけど、私はそれに至った自覚はまだないのでまだでしょうかね。どうでしょうか。



タイムラインが切り替わると元いたタイムラインは夢になる

スピリチュアルでは、この現実は夢のようなものだ、とよく言われます。

それは、夢とこの現実の質が実は同一のものだということを悟る段階があるわけですけど、実際のところ、それを実感することは稀なわけです。

実感する一つの事例として、タイムラインの切り替えがあります。

タイムラインというのは、意識が存在している(意識がフォーカスしている)ところがタイムラインになって、夢というのは現在いる(現在フォーカスしている)ところから遠く離れたところに一時的に行っている状態に割と近くなっています。ただし夢の場合は物理的な実態がないことがほとんどですのでそこは違っています。夢でも別のタイムラインを覗く場合は物理的な実態があったりします。

タイムラインが切り替わると、元いたタイムラインは影のようになります。そして、移動した先のタイムラインからすると元いたタイムラインは夢のように認知されます。

タイムラインは波紋のようにとある一点から広がって作られてゆきますので、意識が時代の一点から広がった時は、まだ両方のタイムラインが存在しています。しかし、とあるタイムラインが優勢になった時は、もといたタイムラインは夢のように次第に薄い意識になって、人々の意識がもといたタイムラインから完全に離れた時にはかなり透明に近いものになって、完全に消えるということはなくても、ある種、凍結された状態になって時代及び時間経過もほぼ止まったものになります。意識が十分に届いていないので未来が認知されることはなく、時間がほとんど進まなくなるわけです。

そして忘れ去られてしまうとそのタイムラインはもう進行しなくなりますけどこれだけ人が大勢いますと記憶というのはそれなりに残りますので、タイムラインが次々に書き換えられる状況に加えて過去のタイムラインの記憶も残ることになります。

完全に忘れ去られる場合もありますし、一方で、心の片隅に宿題としてそのタイムラインが残る場合もあります。その場合は時代が凍結されたかのように残っているように自分には認知されて、タイムラインを切り替えたとしても宿題として残り、別のタイムラインで勉強した後に、再度、例えば数生を繰り返したりあるは同じ人生の別パターン(別の性ということもあり得る)を繰り返した後に宿題になっていた時と場所に戻ってやり直す、なんて場合もあります。

人の魂の成熟レベルにもよりますけど、学びのために転生を繰り返している人ならば現在のタイムラインを一時停止にして別の人生で学んでから人生の途中からやり直す、なんてこともあるわけです。

一方、完全にタイムラインを移動してしまって元のタイムラインは破棄する、ということも、もちろん多々あります。

詰まってしまってゲームオーバーに見えたとしても人生が継続している限りは何がしか解決策というものはあるもので、それを見出すために一時的に別のタイムラインで学ぶ、なんてこともあったりします。

はたまた、誰かに騙されたり変な結果になった時に少し時間を戻してやり直す、なんてこともあるわけです。

未来が見れない時はまだその未来が存在していなくて、物理的な面を伴って時間を経過させてみると未来が創造されていって、そうすると、その創造された記録をアストラルな状態で全ての時間軸に行き渡っている意識から把握できるようになりますので、時間軸でいうと少し前の時点の自分の意識が未来を見るかのようにして過去のその時点で未来を踏まえて判断する、なんてこともあります。

どうなるのかわからない時は実際に時間を進めてみると結果がわかるわけです。スピリットの方からすると意識で時間を進めてみると現実の時間が一つのタイムラインとして作られるわけです。その結果を見て、うまく行くようならばそのタイムラインを選択するわけです。選択した後は、映画やドラマを選ぶかのように、実際にそこに至る経過を詳しく意識で認識するわけです。未来を見てこれは良くないと思った場合は映画やドラマのタイトルやあらすじを見るだけで実際には視聴しない、という状況によく似ているわけです。

そのような時も含め、実際に自分がフォーカスしていないタイムラインというのは全て夢と同じように認知されて、実際、自分がいまいないタイムラインは夢のようなもので、誰も認知しなければそのうち消えてゆくわけです。



静寂の境地、イダとピンガラ、スシュムナ、の順番

眉間に集中する瞑想をして、まずは静寂の境地になるのを待ちます。

静寂の境地を願ったり強く意図するのではなく、静寂の境地を想像するのでもなく、静寂の境地を多少は期待したり多少は予測したり多少は意図してもいいですけど、基本はそういう願いのようなことはする必要がなくて、単に眉間への集中をします。

そうすると、しばらくすると静寂の境地が訪れますが、瞑想を始めて日が浅い場合は静寂の境地にはなかなかなりません。それはそういうものですので、静寂の境地に達したとして話を進めます。

ちなみに、瞑想や黙想で「祈り」という方法がありますけど、静寂の境地に達する前の祈りは単なる顕在意識の思考でしかなくて、なかなか「祈り」という段階には達していないものです。まずは集中して静寂の境地になるのが基本で、その後であれば「祈り」というものも効いてきますけど、まずは静寂の境地になることが必要に思います。

静寂の境地に達したらそこで瞑想を終えてもいいですけど、更に瞑想を進めるとエネルギー的な変化が現れます。

最初は、イダとピンガラのどちらかが活性化します。イダとピンガラというのはヨーガで言われている体の中のエネルギールートの名前で、イダが体の左、ピンガラが右の方に下半身から上半身にかけて流れていて、イダが冷やす性質で月に象徴され、ピンガラが温める性質で太陽に象徴されています。

その、イダとピンガラのどちらかが活性化してきて、具体的に、体の左側あるいは右側に圧力や熱感などを感じることがあります。例えば、ほほのあたりに少しの圧力と膨らみを感じるとイダとピンガラが活性化されていることがよくわかります。

日によって、例えば最初に右のほほに膨らみを感じて、それは上下へと繋がっているエネルギーのルートの一部としてほほの上下およびその延長線上にもはっきりとした「線」のようなものを感じるわけですけど、右でそれを感じた後に、更に瞑想を続けていると左にも同様に感じてきたりします。

ヨーガで言われているように左右のバランスを取ることが基本になりますので、右だけ、あるいは左だけ、というのは好ましくなくて、バランスを取るまで瞑想を続けた方がいいように思います。

そうして左右のバランスが整うと、それはイダとピンガラの両方が活性化されたということですけど、その状態になると中央の背骨に沿って存在するスシュムナにエネルギーが通り始めます。

ヨーガではスシュムナを特に重要視しますけど、例えばクリヤヨーガで教えられている理論によればスシュムナはそれ単体で存在しているのではなく、イダとピンガラをバランスよく活性化させることでスシュムナが動くようになる、と伝えられていて、それは真実だと思います。

イダとピンガラのバランスを整えたまま瞑想を続けるとスシュムナにほのかなエネルギーの流れを感じ始めます。

私は今の所そのくらいですけど、今後、この変化を更に追っていきたいと思います。



瞑想で臨界に達すると黒かった球が輝き出す

まずは基本である眉間に集中する瞑想をして静寂の境地を目指します。それと同時にイダとピンガラを活性化させます。

この時、最初に静寂の境地が来るときもありますし、イダとピンガラの活性化が先に来る場合もあります。ただ、まだイダとピンガラがそれほど活性化していない時は静寂の境地だけが来るように思います。

ですので、基本としては静寂の境地が来てからイダとピンガラ、かとは思うのですけど、イダとピンガラが活性化している場合は静寂の境地の前であってもイダとピンガラが活性化するわけです。

そうして、イダとピンガラの活性化があろうとなかろうと、瞑想をしていると静寂の境地になるわけですが、静寂の境地になると視界が目を瞑っていても輝き出すのです。

それは、不意に輝き出す、という感じではあるのですけど、その瞬間を描写すると、黒い玉が輝き出す、という感じです。

イダとピンガラが活性化していない時は不意にいきなりぼんやりと輝き出す、という感じだったのですけど、イダとピンガラが活性化してからは明確に輝き出すようになったように思います。

特に、イダとピンガラが活性化した後は黒い球幾何学模様が白く浮かび上がった後にその幾何学模様から漏れる光が激しくなって球の全体が輝き出す、という感じです。全体が輝き出した後はもはや球は見えなくなって、もっと広範囲で視界のほとんどが輝きで包まれます。

そうして、視界が輝きで包まれると静寂の境地になり、それと同時に顕在意識もはっきりしてきて物事がより正確に直接的に把握できるようになるわけです。

私の場合イダとピンガラ自体の活性化はかなり前から現れてきていて、光の筋が下半身から頭まで左右それぞれ、イダとピンガラのルートを貫いた時にイダとピンガラが活性化したように思いますけど、最初は貫いてルートができただけで、その後はことあるごとにエネルギーが通る時もありましたけど、特に頭の方にまでエネルギーが安定して常時通るようになるまで時間がかかったのだと理解しております。



各チャクラをオームで活性化させる

スピリチュアルではチャクラごとに共有振動数があると言います。振動数それ自体は確かに共振する振動数ではあると思うのですが、それよりも深いところでオームに共振させる瞑想というものがあります。

音楽とかでチャクラを活性化させる振動数はおそらくは気の次元での共振のような気もしていて、私が言っているオームの共振はもっとメンタル的なものです。

ですので実際に音に出す必要はなく、心の中のオームで共振させます。

実際の音の場合は一応は共振はしているのですけど、(ものにもよるのかもしれませんけど)どこか「発散」してしまうような気がしますけど、自分の心の中で唱えるオームの場合は細かく振動して共振して、(やりようによっては発散しないこともないですけど)中心に深く入ってゆくような効果があります。

瞑想の基本は眉間への集中ですけど、ヨーガではその時にオームを唱える、ということをよく行います。自分のマントラを持っている人がいればオームの代わりにそのマントラを唱えたりしますけど、今回の場合は単なるオームのお話です。

そのオームを眉間だけでなく、他のチャクラに対しても意識を合わせながら唱えてみます。

すると、チャクラごとに共振する周波数が違っていて、下のムーラダーラに近づくほど低い振動数、上のサハスララに近づくほど高い振動数であることが感じ取れます。

振動はとても微細なところですので自分でやってみて感覚を掴むしかないのですけど、効果としては、共振すればするほど早く静寂の境地に達するように思います。

瞑想の時間は特に決まっていないのですけど、単に眉間に集中するのは基本ではありますけどこうしてチャクラごとにオームを唱えてあげると効果が上がるように思います。

同様のテクニックは各流派でも教えられていて、例えばクリヤヨーガのテクニックの1つとして、この場合は呼吸と合わせたりしますけど、各チャクラを活性化させる手順があったりします。

流派によってはチャクラの活性化は自宅で行わずに静かな場所、アシュラムのような場所で行うべきと教えているところもあって、それはそれで人によっては適切なお話かと思います。ですから、これは誰しもが行うべきとは思わなくて、試したければ試しても良いですけど、この種のお話は適切に行わないとうまくいかなかったり逆効果になったりしますから、できれば適切な師匠を近くに見つけて教えてもらう方がいいかとは思います。



瞑想中に不快感が出てきたらどうするか

流派によって対処法が異なりますが、多くは「すぐ瞑想をやめて休憩する」と教えているところが多いように思います。

それはそうで、間違った瞑想をしていたらいけないのですぐに休憩すべきということもありますし、団体とかですと何か変なことになったらいけないので休憩しなさい、瞑想を(一時的に)やめなさい(休憩しなさい)、と教えていることもあります。

ですけど、実際のところ、瞑想をやめても不快感などがずっと続く場合もあり、それよりは、不快感があろうとそのまま瞑想を続けてしまった方が素早く不快感が解消することの方が多いように思います。

時間的制約などで不快感が十分に解消されないこともありますけど、割と大体の場合は時間で解消できて、瞑想をそのまま続けると、時間が1時間とかもっとかかる場合もありますけど、割と瞑想そのもので解消されます。

最初は調子が良くても途中で急に不快感が出てきたりすることもありますが、原因にもよりますけど例えば体のエネルギーのルート(ヨーガでいうナディ)がうまく通らない場合に不快感が出てきしまった場合は特に瞑想でないと問題はなかなか解消しにくくて、であれば、不快であろうとそのまま瞑想を続けて体のナディを調整してしまった方がいいわけです。

一方、トラウマあるいは雑念に囚われてしまうような場合は瞑想を一旦休止して休憩した方が良くて、それは時と場合によりますね。この場合は不快感ということもできますけど不快感というよりはトラウマあるいは雑念そのものですので、この場合はすぐに休憩してしまって良いわけです。そして、休憩したらまた再開すればいいわけです。

一方、エネルギー的な不快感の場合は休憩してもなかなか回復しませんので瞑想で身体中のナディを活性化させてエネルギーを高めることが必要になってきて、そうであれば、不快であってもそのまま瞑想を続けてしまった方が回復が早いわけです。このようなエネルギー的な不快感は横になって休んでも寝てもなかなか回復しないこともありますが、瞑想であれば割と15分とかで回復する時もあります。普段の調子がいい人の場合で不快感が現れた場合、大抵の場合はどこか一箇所が詰まっているとかその程度ですので、すぐに治ります。一方、ずっと不快感が続いて体の調子が良くなったことがないような人であればなかなか時間がかかりますけど、そうであっても、休憩するよりは少しずつ瞑想をした方が体の調子は早く良くなるわけです。

ですので、基本は、瞑想で不快感を感じたらすぐに瞑想をやめて休憩する、というところではあるのですけど、実際はそうではなく、かといって団体とかで教えていると受講生に「そのまま続けなさい」ということも難しいですので「休憩しなさい」とか言いますけど、そこから先は受講生の自己判断になってしまうわけです。

弟子と師匠(グル)とかの関係ですともっと深い理解と繋がりがありますから弟子に「(不快感があっても)瞑想を続けなさい」と指示したりもしますけど、まあ、それであっても昨今の事情を見ると弟子に命令できるグルというのはなかなか少なくなっているのかもしれませんね。

であれば、自分で判断してやっていくしかないわけですけど、瞑想教室で「不快感が現れたらすぐに瞑想をやめる(休憩する)」と教えられていたとしても、それはケースバイケースだということは頭の片隅に置いておいても良いとは思います。



瞑想に理屈はあまりいらない

語弊があるかもしれませんが、瞑想は割と力技的なところがあります。

精神分析とかスピリチュアルでは色々と理屈を考えて頭の中で解決しようとしますけど、瞑想はもっとストレートに力技で全てを解決しようとします。スピリチュアルでいうところの「直感型」に近いですので、女の人はごちゃごちゃと考えるよりもストレートにすんなりと腑に落ちるお話かもしれません。

こういうのは、きっと男であっても女であっても対して変わらなくてその人の性質によるところが大きくて、理屈っぽい人は割と頭の中でごちゃごちゃと考えてしまって(一応の)ゴールに辿り着かないような気が致します。

一応のゴールが静寂の境地としていいとは思いますけど、そこですら、頭の中でごちゃごちゃと考えてしまうとゴールに達しないわけです。

それよりも、スピリチュアルであれば女の人がきっと得意なように直接的にすんなりと入ればそれで終了なわけで、瞑想的に言えば力技で直接的にゴールに達すればそれで終わりなわけです。

それを、理屈でゴニョゴニョ言って傷かないようにだとか理解するようにだとか、ごちゃごちゃ言ったところで、ゴールにはなかなか辿り着かないわけです。そうは言っても、階段を一歩一歩進んでいるようなものですので少しずつ近づいているにいるとは思いますが、もっと直接的な方法があるわけです。

瞑想の力技にしてもスピリチュアルで直感に導かれる方法にしても、どちらも言葉を超えている、というところに共通点があります。

言葉の段階、理屈の段階で色々と考えて理解して手放そうとしたり色々試みたりしても、それは所詮は理屈の段階でしかないわけです。

こうして、何か物事を書いているときは、そのような理屈の段階に降りてきて書いているわけで、実際に静寂の境地に達してその状態で生きる場合は、このような理屈とは離れていて、理屈の言葉は頭の中に出てこないわけです。理屈の言葉が出てきたらそれは静寂の境地ではないわけで、静寂の境地だとしたらそこに言葉はなくて、直接的な直視とでも言える状態だけが存在しているわけです。あるがまま、ということもできます。

そのような境地に直接的に踏み込めばそれでゴールなのであって、そのゴールに一瞬でも踏み入ることができればいいですけど、踏み入ることができなかったり、あるいは、長く居留まることができなければそれはそれでまだ修行が足りないわけです。

理屈も一応は役に立って、ゴールへの道標にはなりますけど、ある程度進んだらゴールが見えて、あとは割と力技でいい気が致します。瞑想的に言えば力技で、スピリチュアル的に言えば直接的に踏み込むとか色々な言い方がありますけど、表現が違うだけでどれも似たようなお話のように思います。



清浄になり切らない静寂の境地

静寂の境地とは文字通り頭の中の雑念が消えて周囲の物事、視界や音に関してありのままに認識することですが、そのような状態になっても、まだどこか清浄になり切らない部分が残っているようです。

少し前までは、静寂の境地に達したらその状態が割と新しい目新しい状態でしたのでその状態に割と満足していて、かつ、一時的なものでした。

基本的にはその状態はサハスララにまでオーラが満ちた状態に対応していて、それは順番に起こるというよりはサハスララにオーラが満ちると同時に雑念も消え去る、というものでした。

ですので、サハスララのオーラが抜けてゆくのと同時に雑念も戻ってきてしまう感じで、程度問題になってきてしまいますが以前は今よりも抜けるのが早くて、今は抜けにくくなったように思います。サハスララのオーラが抜けにくくなったということは、雑念が消えた状態も長続きするようになったということです。

その違いは何かというと、今はイダとピンガラが活性化してきていて、それにより、普段の生活においてもサハスララにオーラが満ちた状態を維持しやすくなっているように思います。

さて、そのような静寂の境地ですけど、一時的にその状態になっていた頃には気付かなかったことですけど、どうやら、サハスララにオーラが満ちて静寂の境地になって雑念が消えたとしても、どこか清浄になり切らない部分が薄くヴェールのように被さっているようなのです。

この状態にあってもブッディ(理知的な思考)を動かすことはできて、静寂と言っても雑念が消えただけで思考は問題なくできるわけですけど、それとは関係ないところで、何か、根本的なところで何かの薄いヴェールが被さっていることを感じ取ることができるわけです。

それは、言い表すとすると「空虚」とも言える状態であり、静寂ではあるものの、何か、ヴェールに覆われている状態であるわけです。

まだ、梅雨があけたばかりのやうなものですわりがついていないから、とにかくこの明朗さに貪著(とんじゃく)したがる習気(じっけ)が浮いて來て、ようやく開顯したばかりの定相を曇らすおそれがあるのである。「信心と坐禪(油井真砂 著)」

これが、寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の後に来る滅盡定(滅尽定、めつじんじょう)の状態のようです。

これはテーラワーダ系仏教では「心の動きを完全に止めてしまう定」として理解されているように思いますが、この著者は禅系で同様に解釈しており、私の感覚からするとこの禅系の説明の方がしっくり来ます。

この状態になると止まってしまうのは雑念の方で、それはヨーガでいう「チッタ」の動きが止まるのであって、一方で理知的な働きであるブッディは動くわけですけれども、そうは言いましてもブッディの方を動かすかどうかは任意であるわけです。

ブッディを任意で止めてしまうと静寂の境地になるわけですけれども、基本としてのベースにある静寂の境地それ自体はブッディを動かそうが動かすまいが存在しているわけです。

ですから、滅尽定が心の動きを止めてしまう定だとするとのは表現的にも説明的にも不十分で、チッタの動きが止まって静寂の境地になるというのは非想非々想定と同様で、その非想非々想定の性質に加えて、上記の説明にあるような曇りがあるのが滅尽定であると思うわけです。

この油井真砂さんと同様の記述は他でほとんど見かけませんけど、まさにズバリの記述で、道案内としてとても参考になります。

テーラワーダ仏教や禅ではこの滅尽定を危うい状態と説明していて、この曇った状態に安堵してしまうと先に進まなくなってしまう、みたいな警告をしていますけど、私の見たところ、こんな曇った状態に留まろうと思う人がどれだけいるのか疑問に思います。こんな状態は、実際になってみれば、何かまだ先があるとすぐ気付いて歩むだけだと思いますが、どうなのでしょうか。

文字だけを解釈して学者が解釈したらそういうことになるのかもしれませんけど、実際の感覚からすると、これはただ単に、この段階ではそうなりがちだ、というだけのお話で、それ以上の意味はないような気が致します。

この、どこか清浄になり切らない薄いヴェールを超えてゆくのが今の私の課題のようです。

少なくとも、以前はこの薄いヴェールが存在することにほとんど気が付いておりませんでしたので、存在することに気付いただけでも少し前進であると言えると思います。



瞑想中に急にドスンと少し高いところから降りた

あぐらをかいて瞑想中、明け方でしたけど、ふと急に少し高いところから落ちたような感覚になってすぐ近くにある家具が少し揺れた感じがしました。

ずっとあぐらをかいていましたので肉体的には自分が浮き上がっていたとは思いませんけど、肉体はずっと変わらず座ってあぐらをかいていたのにも関わらず、少し高いところ、とは言いましてもせいぜい10cmか20cmくらいかとは思いますが、そのくらいのところから一瞬でドスンと地面に降りたような感覚になったのです。

意識としてはそれほど変わらなくて、単に体全体にドスンという感覚があったというだけなのですけど、これは、ヨーガ系の書物に書いてある、アストラル体が少し浮いていた状態なのかもしれません。

その時、瞑想の感覚としてはちょっと霧がかかった状態と言いますか、一応は静寂の境地に近いものになって雑念も思考も止まってはいるのですけど、どこか雲がかかっていて晴れやかになっていないような感覚でした。

そして、このように急にドスンと降りた感覚があったわけですけれども、感覚があったからと言って意識としてはほとんどそのままで、意識とこのドスンという感覚とは関係がないようにも思います。

おそらくは、アストラル体が少し浮いた状態になっていて、急に体と噛み合った瞬間に体の方がショックを感じて少し筋肉が一瞬反応したのかも? とも思っていますが、どうでしょうかね。

書物によっては、瞑想中にアストラル体だけが宙に浮く、みたいなことが書いてあったりしますし、ものによっては実際に肉体も浮くなんてこともあるようですけど、私はたぶん、アストラル体だけでした。

これがあったからと言ってどうということはなくて普段のままです。特にこのことと瞑想の進歩とは基本的に無関係かなと思っております。



清浄になり切らないと感じるのはオーラが一体になっていないため

清浄になり切らないと感じるのはサハスララやアジナとアナハタが一体になって動ききっていない為かなと解釈しています。

古い神智学系の書物ニューエージ系あるいはスピリチュアルや一部のヨーガの流派においては、クンダリーニは一旦アジナまで上がってからアナハタに下がって、その後は、アナハタとアジナとが繋がって一体になって動き出す、という説明がなされています。上がると言っても、ここで言っているのは何ヶ月あるいは何年かかけて少しずつ優勢の場所が動くというお話であって一瞬で起こるとか数分で起こるとかいうお話とは別です。

これはスピリチュアル系では「融合されたチャクラ」とも呼ばれているものです。

ハート・チャクラが優勢になるとほかのチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが融け合って、私たちが「融合されたチャクラ」と呼んでいるものになります。するとエネルギーフィールドが一体化し、素晴らしい感覚がともないます。「ライトボディの目覚め」

今まで、とりあえずサハスララにまでオーラが満ちることができれば静寂の境地に達することができていて、それで良しとしていました。しかしながら、それが割と当たり前になってから、どこか、まだ清浄になり切らない部分があるように思えてきたわけです。

それを探ってみたところ、どうやら、その原因としては、サハスララやアジナ及びアナハタが一体となって動いていないが故にまだどこか清浄になり切っていない、と感じているように思えてきたわけです。

それがわかったきっかけとしては、少しずつではありますけどアジナやサハスララのある頭部とアナハタの間が長い筒のような形でオーラが繋がり出した感覚があって、そうなると、少しずつではありますけど、静寂になり切っていないという感覚が薄くなってきたのを感知したわけです。であれば、このアジナやサハスララの頭部とアナハタとの分離が静寂になり切っていないという感覚として現れていたのではないか、と思えるわけです。

であれば話は簡単で、あまり気にせず、このまま瞑想を続ければいいわけです。

これは、サハスララにまでオーラが満ちることでまず静寂の境地になって雑念がまず減り、続いて、オーラがサハスララと一体になるだけでなくアジナを通ってヴィシュッダ、そしてアナハタの方までが一体となって以前より動き始めるわけです。まだ筒のように縦に長い感じではありますけど、以前よりチャクラの一体感を感じますので、確かに、古来から言われていたことが真実であることがわかります。



胸の奥底で祈る願いをしない

願いをしてしまうと現実として現れてきますので、願いをしないように、と最近は注意をしています。願いは割と他愛のないことで、実現してみたのはいいものの厄介ごとを招き込んだり、そもそも不要なことだったり、ほとんどの場合、大したことではないわけです。

これは人によって印象が違っているとは思いますけど、もしかしたら多くの場合は願いが叶って何が悪いのだろうか、と思うのかもしれませんけど、悟りの道に対してはこのような願いとその実現は割と邪魔なことがほとんどなわけです。

願いの中で、悟りの道へと進む方向への願いであれば助けになるわけですけど、それ以外の願いをしたところで意識の成長としては割と妨げになってしまうわけです。

例えば、仕事でこれこれこういうことをしたい、と願ったとします。胸の奥、アナハタの願いであれば割とそれは実現します。ですけど、その実現というのは所詮は(と言ってしまうと何ですけど)この現実社会における一時的な泡みたいなものですので、だからと言って、元々の願いが叶ったということ以上の意味はさほどないわけです。

その願いが叶ったことによって認識が増えたり視点が増えたり願望が一つ消えるという効果があって、特に知識という点でいうと利益になるにはなりますけど、知ったからと言って実際のところ大したことがない知識のことがほとんどなわけです。

胸の奥底で祈って何かを願ってしまうと、それはカルマの実現になります。カルマの実現は時間がかかったりすることもありますけどいつかは実現できて、実現できたら、また新たなカルマを作り出します。

新たなカルマを作り出すときは胸の奥底でまた願うわけですけど、その現実の、いわば「引き寄せの法則」というものは、単にカルマを実現させているだけの、お遊びみたいなものなわけです。

確かに、実現はしますけど、だからと言って、大した意味があるかというと、ほとんどの場合、大した意味はないわけです。

ですから、このようなスピリチュアルな道に進んでいる人にしてみれば、心の奥底で浅はかな願いをしない、ということがまず重要になります。そして、願うならば吟味の上、引き寄せたい現実だけ引き寄せること。その時は目的が重要で、目的が正しくても手段としての現実の引き寄せが間違っていることもありますから、安易に決定せず、正しく決めてから願うことが必要なわけです。



静寂の境地に達したら他人へ奉仕する

静寂の境地の次はどうしたら良いだろう、というところで、ふと見つけたのが「他人への奉仕」でした。

これは、以前にも読んではいたのですけど割とスルーしていたことで、他人への奉仕それ自体は昔からヨーガでは「カルマヨガ」として説明されていて、「見返りを求めずに奉仕すること」であるわけですけど、その意味として、静寂の境地をベースとすれば次の境地として神が宿る、ということのようです。

これは、道徳的な教え、あるいはヨーガの一部の流派においては「奉仕活動・ボランティア(無料での活動)」を意味してしまっていますけど、本来の意味としては、静寂の境地からその次の神への段階へと進む時のことを表現しているようです。少なくとも、そのように解釈している団体もあるようです。

ヨガの行をして、心も体も静まり、全体に調和のとれた安定した状態になったときは次に何をするかという問題です。何もしないで、ただそのままでいるだけでは進歩はありません。「輪廻転生の秘密(本山博著)」

この時、本山博先生が説明するには、自分という殻がまだ残っている状態だから、より大きなもの、それを神と呼ぶかもしれないし絶対者あるいはアートマンと呼ぶかもしれないが、それに「託す」ことで、大きなところから力が加わって、自分の殻が壊れて行く、と説明しています。これは親鸞のいう「他力」と同じものであるとも説明されていて、私もよく理解できます。

私はきっと次はこの段階へと進む必要があるのでしょう。無念夢想になって静寂の境地で心が休まったとしてもそれは悟りではなく、神様との間にまだ壁があって、それは個という殻がまだ残っているということでもありますけど、その殻を破ってゆく、いわば個を否定してゆく必要があって、殻が破れた時により大きなものと一体になっている筈なわけです。

無念夢想になったら(中略)全部自分を神様というか、絶対の方に向けて捨て切るわけです。ただ任しさえすればいいのです。そうすると、ここで絶対とのつながりができる。(中略)神様に任せる、神様の方に向くということは、取りも直さず”信仰”ということなのです。「輪廻転生の秘密(本山博著)」

信仰というと、単に暗黙に信じること、みたいなお話がありますけど、本当の信仰はそういうことではないわけです。

そして、具体的に、このように自分の殻を破っていく方法として本山博先生は独自の言葉で「超作」ということをするように勧めておりますが、これは造語で、具体的にはヨーガでいうところのカルマ・ヨーガと同じことで、「結果を求めずに本務を行う」ということなわけです。



「引き寄せの法則」を卒業しないと神へは辿り着けない

引き寄せの法則が発生するのはカーラナ次元(コーザル、原因)で、プルシャとかアートマンあるいはいわゆる神の次元はその先ですから、引き寄せの法則を使うのをやめなければ神の次元には辿りつかないわけです。

そのことを、最近よく理解できるようになりました。

ヨーガなどで言われている3つの体、肉体・アストラル体・原因体(カーラナ、コーザル)のうち、肉体は物理的体ですけどアストラル体は感情面のことで、まず感情的な揺らぎを鎮めるところから始めるわけです。その次に、原因体は言葉通り、この世のカルマの原因でもあり、人が個人の人として存在するに至った根源の理由でもあり、自我を持った個、ヨーガ等でいういわゆるジーヴァ(個)の本性でもあるわけですけど、その原因体は物事の根本である論理、あるいはロゴスとも言える知の根源が存在するのと同じ階層にて存在しているわけですけれども、その原因体の本質というのはカルマでもあって、カルマであるが故に物事の根本原理である理屈・法則がその階層に存在しているわけです。

そして、そのカーラナ次元においては、カルマの発現というのは、例えば「願う」とか「引き寄せる」ことによって発生します。

ですから、「引き寄せの法則」で願い通りの現実を引き寄せているように見えるかもしれませんけど、実際は、カルマを発現させているわけです。

そうして、更なるカルマの車輪のサイクルに組み込まれ、一つの願望が叶えられたらまた次の欲望へと繋がり、また違うカルマを願い、叶い、ということを延々と繰り返すことになるわけです。こうして輪廻転生のカルマの車輪の中に組み込まれてしまうわけですけど、その車輪の一翼をになっているのが「引き寄せの法則」なわけです。

それはカルマの発現でしかありませんから、単に法則的なものでしかなくて、叶ったからと言って、実際には神の次元からしたら大差ないお話なわけです。ゲームの中でイベントを一つクリアしたか失敗したか、あるいは、やらなかったか、という、そのくらいの違いしかないわけです。

神へ到達しようと思うなら、「引き寄せの法則」から離れなければ辿りつかない、というのが私の最近の理解です。

考えてみればそれはその通りで、実際のところ、私は割と「引き寄せの法則」は興味がない方でしたので幸いにしてそれを意識的に使うことはほとんどなかったわけですけれども、意図はしていなくても、昔にちょっとしたことで願ってしまっていたことが最近になってぽつぽつと実現していたりして、そのことを思い返すと、「ああ、あの時にもっと深く考えてから願っておけばよかった」と後悔・・・ とまではいきませんけど、もっとうまくやれたのではないかな、と思うことは時々あるわけです。

実際のところ、その先のプルシャあるいはアートマンあるいはいわゆる神の次元へと辿り着いた場合は引き寄せの法則をいくら使おうがカルマには影響されなくなっておりますので自由自在になるわけですけれども、そこに辿り着くまでは、まずは引き寄せの法則などのカルマを発動させないようにして生活する必要があると思っております。



無念無想と信仰

無念無想、いわゆる静寂の境地になる前の信仰はそれほど必要ないように思いますが、静寂の境地になると信仰が重要になるように思います。

静寂の境地に至る以前の場合は感情や願望(煩悩)が主となっておりますから、その状態で祈ったり信仰したりしても現世利益の方向にしか向かないわけです。一方、静寂の境地に達した後であれば信仰が神様の方へとスーッと通じるように思います。しかしながら、私の段階では、まだ、神様と自分自身の間には少し距離があるように思います。

神様と言っていても色々あって、人格神としての神様と「全体」としての神がいるわけで、ここで言っているのは人格神の方ではなくて「全体」としての神様、あるいは、自分の御本尊としての神様の方を言っているわけです。

神社とかお寺、あるいは古い歴史を持つ地域の山などには力を持った御本尊あるいは人格神が祀られていて、それはそれぞれですけれども、自分とゆかりのある御本尊あるいは「全体」に対しての信仰が基本になってくるわけです。

一方、よくわからない人格神、自分と繋がりのない神社の神様、あるいは、よくわからない宗教の教祖などを拝む必要は基本的にはないわけです。

確かに、世界は全てが「全体」としての神様の一部ではありますから理屈で言えばそのようなよくわからない存在であっても神様の一部ということもできますけど、そのように思えるのは悟った後のお話であって、悟る以前であれば、そのようなよくわかない存在をお祀りする必要はないわけです。

信仰というのは、静寂の境地に達する以前であればそれは逆にその信仰そのものが煩悩となって、静寂の境地に達する妨げになることすらあるように私には思えます。

ですから、静寂の境地に達する前は技術的な面にフォーカスして、例えばビジネスの社会でも話題になってきているマインドフルネスのように信仰とを切り離して瞑想をするのもある程度は有効で、しかしながら、静寂の境地に達した後は信仰が重要のように思えるのです。

静寂の境地に達する前の信仰というものはよくわからない変な教祖様を信仰してしまうことがあり、そのように間違ってしまうと静寂の境地に辿り着けないこともあったりしますので注意が必要です。それよりは、時間はかかるかもしれませんけど静寂の境地に達する前は信仰なしにスピリチュアルをすることもある程度は有効かもしれませんけど、それでも、神様などを受け入れる姿勢は最初からあった方が良いと思います。

人は、立てた目標にまでは達するもので、目標がビジネスの効率アップですとかストレス解消であればその目標を達成したら満足してしまうのが普通なわけです。

一方、立てた目標が静寂の境地であればそれがゴールになります。

そして、目標が神様へと到達することであれば静寂の境地にも留まらない、と言うことになる筈なのです。

そして、静寂の境地から先は信仰が重要になってくるように思います。

ここに至ると神様というものがどのようなものなのか、全体としてはおぼろげながら、それでいて以前よりは割とはっきりと理解できるようになりますので、世間で言われているような変な神様や教祖様を信仰する、という方向には行きませんし、信仰、あるいは祈りというものの本質がここに来ると見えてきますから、これが正しい道であると理解できるようになるわけです。



歓喜から静寂へと至る瞑想

瞑想で、最初は歓喜が沸き起こります。それは感情としての瞑想で、いわゆる集中瞑想(サマタ瞑想、シャマタ瞑想)によって対象と(サマーディ、三昧にて)一致した時にそれは起こります。

段階としては、ヨーガや神智学、あるいはスピリチュアル等で言われているような段階を経てゆきます。

・肉体
・アストラル体(感情を司る)
・コーザル体(カーラナ、原因の体)(理性を司る)
・プルシャ、あるいはアートマン(あるいはいわゆる神、創造神)

このうち、アストラル体の感情面で対象に一致してサマーディの状態になると歓喜が湧き起こります。
次に、コーザル体(カーラナ)にてサマーディの状態になると静寂の境地になります。

アストラル体では割と対象がはっきりしているのですが、カーラナでは対象はぼんやりとしていてはっきりしません。ですから、アストラル体では対象があって集中があってそれでサマーディが起こり、歓喜が沸き起こる、となるのに対してカーラナでは対象がはっきりしませんので、何か集中の対象があるわけでもないので対象としてはぼんやりと、しかしながら意識は明確にはっきりと明晰な覚醒の意識を保ったまま静寂の境地になるわけです。(似てはいますが全く違う状態として、意識が単にぼやっとしている時はサマーディではないわけです。)

カーラナのサマーディにおいては対象がどこを向いているのか方向としてはよくわからない、と言えばそうなのですけど、そのようにいうよりは、全方向、と表現した方が実態に近くて、アストラルの次元では方向性と対象があるのに対して、カーラナでは方向と対象としてのベクトルはよくわからなくて全方向、になるわけですけれども、カーラナのサマーディにおいては意識ははっきりとしていて、理知的な明確な思考が素早く働く状態なわけです。そして、思考がはっきりと素早く働くベースになっているのが静寂の境地なわけで、静寂の境地においては何も思考できないというわけではなくて思考しようとすればいくらでもすることができるし思考しないと意図すれば思考せずに静寂の境地に居続けられるわけです。静寂の境地というのは雑念に対して主に働きかけていて、雑念が静寂である一方で、明確な思考は意図を元にいくらでも働かせることができるわけです。

瞑想を始めてから最初は、集中瞑想から初めます。それが基本で、そのうち集中が臨界に達すると歓喜が湧き起こります。

ヨーガでサマーディというと1つのように捉えられていますけど実際にはアストラル次元のサマーディとカーラナ次元のサマーディとがそれぞれあって、アストラル次元のサマーディでは歓喜が沸き起こって、カーラナ次元のサマーディでは静寂の境地になるということです。

それは割と段階のようなもので、世間の瞑想用語に当てはめてみるとアストラル次元のサマーディは止(シャマタ、あるいはシネーの境地)で、カーラナ次元のサマーディは観(ヴィパッサナー、観察瞑想)なわけです。

これは段階的に起こるもので、瞑想を続けてゆけばそうなります。

補足として、似たようなもので「体の皮膚の感覚を観察する瞑想」とかありますけど、それはこのお話とはあまり関係がなくて、混乱の元ですので、切り離して考える方がいいと思います。皮膚の感覚というのは五感であり感覚・感情面と結びついていますから、それは基本としてはアストラル次元の瞑想ではあるのですけどそれなりに瞑想が進めば同じ瞑想がカーラナ次元の瞑想にもなったりしますけど、そうは言っても混乱がありますので、あまりこのお話とごっちゃにしない方がいいと思います。



心の動きのあるがままを認める

顕教は想念と想念の間の何も考えていない時間を伸ばそうと修行します。
密教は想念をイメージ等で変異させようとします。

このどちらも、想念を煩悩として捉え、それから離れたり変化させたりすることを目指しているわけですが、チベット仏教の特にゾクチェンの教えだったり、あるいはインドのヴェーダンタの教えにおいては心とその動きの間に善悪もなく、単なる心の働きだと教えています。

実際、その教えは単なる教えだけではなくてサマーディの状態がどのようなものなのかという具体的な目標あるいは道標の捉え方にも違いが出ています。

心の動きというものは単なる働きですから、それに善悪はない、というところが理解ですけど、実際には多くの人はその単なる働きである想念あるいは煩悩によって悩まされていたりするわけです。

静寂の境地が心の土台で、湧き上がる想念は単なるエネルギーの働きですから、そこに善悪はないわけです。

寂静な境地は何か達成すべき善で、思考の波は何か捨て去るべき悪だと考えたならば、やはり受容と拒絶という二元論にとらわれている事になる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

それ故に、サマーディ状態においては思考を捨て去ってしまうのではなく思考があってもなくても覚醒を保てば良いわけです。

この辺りには誤解もあって、サマーディというのが単なる集中の静寂の境地だと思われてしまっている面もあると思いますけど、サマーディの本質は覚醒の境地であって、静寂の境地はその土台であるわけです。



意識の認知がこの世の実態を作り出している

物質のことではなく、ここで言っているのは心の認知のお話ですけど、心、あるいは意識の認知によってこの世界が「存在している」という実感を作り出しているわけです。

(心が認知するから物質としての物体が存在しているとかそういうことを言っているわけではなくて)心が認知するから何かの対象が存在しているという「実感」が生み出されている、ということです。

これは心理学や哲学でも言われていることで、まあ、それはそうなんだと思っている方も多いとは思います。

瞑想の世界においてもこのようなことが言われていて、具体的には、サマーディの状態に至ることでこれらのことがよく理解できるようになるわけです。

サマーディの状態においては覚醒を保ちながら物事をありのままに見るわけですが、覚醒した状態というのは、上記のような「存在している」という実感を新たに作り出さない、あるいは作り出しても割とすぐに消えていってしまう状態なわけです。

この、「存在している」という実感は「幻想」あるいは「夢(のようなもの)」と説明されることもあり、それはヴェーダンタでいう「マーヤー」の一部でもあります。

既にこのような「実感」が既に自分の中にあるのならばそれをサマーディの覚醒した境地でありのままに見つめることでそれが実際は幻影であることに気づき、やがてその幻影が消えていって、実際の「ありのまま」の姿を見出すことができます。言い方を変えればそれは無常ということでもありますけど、実態や実感が壊れるまで待つことなく、単にサマーディで観察しさえすればその幻影は消えてゆくわけです。

サマーディに至れば、幻影がどのように作られてゆくのか理解することができます。

例えば視覚であれば、視覚で見た映像とそれと結び付けられている実態・実感・幻影とはセットになっています。サマーディでない状態においては視覚が新たな幻影を作り出し、それは「存在している」という「実感」になり、次々に新たな幻影が作られます。そのような状態においてはコマーシャルあるいはテレビ番組に影響されやすくなり、この世の快楽という願望を外から与えられて操られ、稼いではその分次々に消費する日々を送ることになります。

サマーディの状態においてはそのような幻想がいかに作られてゆくのか理解するだけでなく、物事の本質をも理解することができますので、幻影が新たに作られることが激減し、既にある幻影も力を失ってゆくわけです。それにより他者によって操られることが急激に減り、他人から与えられたものではない、自分自身の生活を送ることができるようになるわけです。



集中して歓喜を作り出すのが瞑想あるいは仕事においての基本

基本、とは言いましても、それだけで良いわけでもなく、やがて、歓喜のようなエネルギーに溢れた状態が普通になりますのでわざわざ歓喜などと言わなくなります。歓喜というのはそれが一時的な状態だから歓喜なのであって、常に歓喜であればそれはエネルギーに満ち溢れた状態、あるいは常に充実した状態、などと表現されるわけです。

歓喜がない場合、まずは集中から始めるわけですけど、それに一番適しているのは仕事で、仕事に集中して歓喜するのが時間の有効活用の点からも実用面から言っても一番やりやすいように思います。

昔のように一日中こもって瞑想ばかりしていられる環境でもあれば良いですけど最近はそういうことも難しいですし、であれば、さほど騒がしくない環境で、特に、何かに集中できる技術とか工芸ですとか、そのような細かな作業に集中できる時間があると良いと思います。スポーツでも良いと思いますが体の疲れには限界がありますので、意識が長く集中できる仕事の方がやりやすいように思います。

最初は、集中が極まった時に仕事の対象の事柄が透けて見えて、最初は一瞬ではありますけど仕事の全体像が見えて、それで仕事がうまく行きやすくなりますし、そのような瞬間は歓喜の状態であるわけです。

それはいわゆる、一種のサマーディ状態になっているわけで、それは言い換えばアストラル次元における感情的な一致の状態になっているわけです。サマーディにも色々と種類がありますけど最初はアストラル次元で感情面で対象と一致するわけです。それにより、対象のことがよくわかるようになります。例えば技術面だったり相手のことだったり、歓喜と共にそういった情報が流れ込んできます。

このようにして起こる歓喜は長く続かなくて、数分ですぐに消えたり、あるいは数十分、ということもあります。それは集中の上達にも関連していて、最初は短くても、次第に長く続くようになります。

そうして集中が上達してくると、やがて、一時的な歓喜は治っていって、その奥にある、深い意識の平安へと少しずつですけど導かれてゆきます。

瞑想するにしても、このような基礎があるとな意図では大違いで、集中して歓喜、それはいわゆるゾーンということでもありますけど、ゾーンの歓喜に入れる人が瞑想すると上達が早いように思います。

その歓喜は終わりではなくてその先にはカーラナ次元(コーザル、原因の次元)のサマーディによる平穏な静寂の境地というものがあるのですけど、すぐにそこにまで行かなくても、まず最初は集中瞑想をして歓喜が沸き起こるだけでも割と人生を送る上では十分であったりするわけです。

特に、普段の生活でストレスに満ちていていつも頭の中の雑念が消えずに混乱したり怒りが沸き起こったり疲れたりしている人にとっては、この種の集中による歓喜というものがまずは第一に助けになります。



ソクラテスのイデアとサマーディ

ソクラテスのイデアとサマーディにはいくつもの共通点があるように思えます。しかしながら、弟子であるプラトンあるいは後世の哲学者の見解には多様なものがあり、それらの中にはサマーディに該当しないものも多数あります。

元々のイデアがどのような主張であったのか知る由もありませんが、サマーディとの共通点ということで言えばいくつかあげることができます。

イデアとは、例えば美しさ多様な美しさがあるがイデアとしての原型は1つしかない、というように、物事にはその原型である世界がこの見えている世界とは別に存在している、というお話です。

これは、話をそのまま聞いてしまうと天のどこか、あるいはこの世ではないどこか別の場所にイデアという世界があってそこから映像のようにこの世界が投影されているだけだ、というお話にもなってきますし、そのように説明されている文献もあるようですけど、この種の説明はサマーディと同じで、この世界は投影されたものであるというのはサマーディの境地との説明とも同じですし、であれば、ソクラテスとはサマーディのことを言っていたと仮定することができると思います。

ソクラテスが言っていたのがサマーディであれば話は割と簡単で、認知する時に心がこの世界の幻影を作り出して普段はその幻影しか見ていないということが基本にあって、認知が幻影を作り出さずに直接的に物事を認識することをサマーディあるいはイデアの直視、みたいに言ったりすればいいわけです。

その場合、原型としてのイデアがどこか別の世界に存在しているわけではなくてイデアという原型を認知の幻影の妨げなしに直接的に認知しているわけです。ただ、そのことが理解でいない人に対して説明するときに別の世界だとかイデアの世界だとかいうお話を持ち出したので実際のサマーディあるいはイデアを知らない人が想像してあたかも別の世界があるかのように解釈しただけで、実際は、イデアというのはこの世界の本質そのものであって、この世界に、いわばまるで重なるように存在しているわけです。

ただ、幻影を取り除けばイデアの世界が眼前に現れて、そのことをイデアの直視だとかサマーディだとか言ったりするわけです。

サマーディというとアストラル次元の感情のサマーディとコーザル次元(カーラナ次元)の認知上のサマーディとがありますけど、イデアの直視というのは認知上のお話ですのでカーラナ以上のサマーディであるように思われます。



感情面と理性面のスピリチュアル

感情面でのスピリチュアルと理性面のスピリチュアルとがあって、割と感情面のスピリチャルの方が人気があるように思います。

特に女性は感情面と結びつきやすくて、喜びのスピリチュアルになっているように思います。

一方、理性面のスピリチュアルがあって、それは静寂の境地と結びついています。

これは、古来からの西洋の視点に基づくスピリチュアルあるいはインドのヴェーダの文化あるいはヨーガなどと比べてみますと、順番としては肉体に近い方が感情面で、更に少し離れた方が理性面のスピリチュアルになります。

・肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)
・アストラル体(微細な体、スークシュマ・シャリーラ)感情面
・コーザル体(原因体、カーラナ・シャリーラ)理性面
・アートマン(あるいはプルシャ、あるいは神、創造神、あるいは全体)

ですので、これは割と「最初に」感情面、「次に」理性面、として理解されることが多いように思います。

ですけど、実際に世の中で活躍しているスピリチュアルな人々を見てみると、どうもそのような単純な順番ではないように思います。

私の見立てによりますと、感情面と理性面は「順番」ではなくて、むしろ「並列」に存在していて、人によっては感情面から入って、人によっては理性面から入る、というくらいの違いのように最近は思います。

肉体にしても疎かにしていいものではなくて、健康を保つためには適切な運動が必要ですから肉体や感情を捨てて理性に進むというよりは、それぞれにバランスが必要なのではないかと思います。

ですから、人によっては理性が先立って感情面が弱いかもしれませんし、感情が先立って理性が弱いかもしれません。

現代社会においては理性面が強調されがちですけど、理性と感情というのは相反するものでもなくて両立できますから、それぞれ、特徴はあれども、どちらも大切のように思います。当然と言えば当然ですけど。ですけど、スピリチュアルの人は割と感情面を重視したり理性面を重視したり、それぞれのように思います。本人はそのつもりはないのかもしれませんけど。

アートマンあるいは神の視点から見れば、最初の3つのもの、肉体・アストラル体・コーザル体のいずれも「アートマンではない」ものであり、この3つともいわば「物体」に属しているものであり、永遠ではないものなわけです。ですから、アートマンの視点からすればどれも大差なく、アートマンが理性を扱おうがアートマンが感情を扱おうがアートマンが肉体を扱おうが大差ないわけです。

ですけど、人はそこに区別をしたがりますけど、実際、アートマンあるいは神からしたら大差ないわけです。

ゴールはそれぞれ違っていて、
・(肉体であれば健康)
・アストラル体であれば感情的な歓喜
・コーザル体であれば静寂の境地及び(静寂の境地をベースにした)理知的な深い見地と洞察
というようになります。



感情面を使って未来を選択する

一つの方法として、感情面を使って未来を選択することができます。

この場合、修行とか能力とかいうものはさほど必要なくて、必要なのは、将来に成功したとしても失敗したとしてもそれを明らかに表現して特定の感情を実際に出す、という行動こそが必要になります。

これはどういうことかと言いますと、そもそもスピリチュアル的には時間というものはあまり厳密ではなくて、現在が未来に向かって影響する他に、スピリチュアル的には未来から過去に向かっても影響します。それはどうやってわかるかと言いますと、まず、感情面において未来から「良い予感」あるいは「悪い予感」としてやってきます。

スピリチュアルにおける人の体の3つの構造、それぞれにおいて未来選択の方法は異なってきます。

・肉体 これは時間を超えることはできません
・アストラル体 これは感情面と結びついていて、過去及び未来の感情を現在において感知するのと同時に、現在発した感情は(劣化しつつ)時間を超えて過去と未来に伝わります。
・コーザル体 これは理性面と結びついていて、過去及び未来の理性的な思考及び選択を現在において完治するのと同時に、現在発した思考及び選択は(劣化しつつ)時間を超えて時間を超えて過去と未来に伝わります。
・アートマン(あるいはプルシャ)これは私はまだ未体験ですけど、全ての時間が同時に存在している境地だと聖典などでは説明されています。

このうち、未来を選択するだけでしたらアストラル次元だけで割と十分で、スピリチュアルとは言いましても割と成功哲学あるいは啓蒙セミナーで言われているようなことにも通じてきてしまいます。スピリチュアル的にはこのような感情面はさほど重要視してはいないのですけど、危険察知あるいは成功を選ぶ一つの手段としてこのような感情面は利用できます。

この場合、自分が多少は感情的な性格であった方がやりやすく、何が起きても感情的にさほど動かない場合は感情が他の時間軸に伝わりませんのでシグナルになりにくいという欠点があります。

ですから、何かあれば精一杯喜んだり、あるいは悲しんだり、怒ったり、という感情的な現実に悩まされているスピリチュアル段階の人とこの種の未来選択は相性が良いわけです。

まだスピリチュアル的に浄化が進んでいなくて感度が低い場合は特に、大袈裟に感情を出すことで他の時間からその結果を感知しやすくなります。特に意識していなくてもそうなることがほとんどの人もいるかもしれません。

一方、浄化が進んだ場合は感情の起伏がコントロールされますから、次第にこの種の未来選択をするにはそれ相応に感度を高める必要も出てくるわけです。

ですけど、実際のところ、スピリチュアル的には何があっても全て完璧ではあるのですから、特にこのような法則を使わずとも全て受け入れる姿勢があれば、それほど意識してこのような法則を使うこともないように思います。

それに、ある程度のスピリチュアルになれば「心地の良い選択」というのが自然になってきますから、そうなれば障害のない、あるいは少ない選択を次々に行うようになりますので、このような法則をわざわざ意識しなくても手足のように当然のように使うようになります。

それに、必ずしも心地よい方が正解でもありませんし、そのような総合的な判断が次のステップになるわけですけど、その場合、アストラル体の感情面だけでなく、コーザル体の理性面とも結びついて選択がなされるわけです。



「怒り」とは何なのか子供の頃は知らなかった

周囲には獣のような同年代の子供たちが大勢いて、すぐに血が上り怒り狂って他人に平気で暴力を振るう人が普通にそこらにいる環境で育ちました。

ですけど、私は、20代後半に至るまで、本質的なところで「怒り」とは何なのか理解できずにいて、そもそも幼児や小学校の頃はそれが何なのかさっぱり知らなくて、周囲の人が何故にあのように怒り狂って獣のような振る舞いをしているのか、全く理解できないでいました。

そのような獣のような人と一緒に過ごすうちに私のお腹の中にわだかまりが溜まってゆきましたけど、それでも、怒りという形での表現方法をどうして行ったらいいのか全く分からず、お腹の中のわだかまりが溜まるか、あるいは論理で論破するということでわだかまりを解消してゆきました。

ですけど、獣のような人にとっては論理なんて関係がありませんので、論理とは全く関係のないところで何か「特徴」をけなしてゲラゲラ笑うことで私が獣から馬鹿にされるような少年時代を過ごしました。結局、ああいう獣にとってみれば理由なんてどうでもよくて、単に馬鹿にしたかっただけなのかと今は思います。そして言い返しを避けて他人の口を塞ぐためにすぐにキレて暴力を振るうわけですから話しても意味がないわけです。まさに獣です。

学校や田舎社会というのは逃げ場がなくて最悪で、それで鬱っぽくなったりもしたのですけど、それすらも人生の計画の一部であったと今は思います。

子供の頃、私は「怒り」というものが何なのかサッパリわからなくて、年齢を重ねるうちに少しずつ理解してはいったのですけど、そのうち怒りを「爆発」させたのは20代後半になってのことで、そこでようやく「初体験」したのでした。

結局、その初体験にしても、私の中でそれを知りませんでしたので、怒りを持っている他人からこっそりとオーラを引き抜いて自分の中に入れて、そのオーラを使って初めて怒りを「爆発」させて、20代後半にして初めて「怒り」で「キレる」ことができました。なかなかに興味深い体験でした。私をカモ扱いしてきた元友人に対して、態度の変化を察知したことをトリガーにして怒りを発動したのですが、キレたら向こうの態度が一変したのは興味深かったですけど、最後まで怒りをぶつける前に相手が逃げていったのがその時は少し残念にも思えて、あれだけカモ扱いしてきた元友人が逃げ足だけは早いものだな、と思ったものでした。わざわざ怒りをぶつけるほどでもない小物だったようで、怒りというものはコスパが悪いな、と思ったものでした。怒る価値もないものに対して怒ってみせても相手は逃げるだけで、改善もありません。良かったことといえば、私の方から相手に対してバリアを張れるようになった、ということです。これはこれで有用のように思いますし、社会生活を送る上で必須の能力のように思います。ライトワーカーやスターシードは腹黒い人から搾取されることがあって、当人はそれに気づいていない、みたいなことも多々ありますけど、この種の、ずるい人を拒否する能力というのは特に「怒りを知らない」スターシードにとっては身につける能力のうちの1つのように思います。

結局、その後も含め、今に至るまで怒りでキレるというのはその1回限りでそれ以降はなくて、次第に怒りというものを理解してゆき、必要に応じて時に意図的にわざわざ怒りの感情を作り出す、という実験のようなことを実地で行ったりしてみたこともありますけど、ここ10年以上はそのような必要もなく割と平穏な生活を送っております。

世間のスピリチュアルを見ると、「怒りを抑えましょう」とか「怒りが湧き上がった時はその逆を考えましょう」とか言われていたりしますけど、そもそもこれって、獣から進化した魂に向けたメッセージなのではないかと思います。スターシードにとっては逆で、怒りという不思議な感情とは何なのか勉強しましょう、というお話になるわけです。

私もそれなりにスターシード系だと自覚はしていますけど、スターシードやライトワーカー系の人、例えば元金星人とかの魂は割と「怒り」という感情がそもそもない世界からやってきていて、地球人の「怒り」という感情を全く理解できなくて対処できない、ということがよく起こるようです。これは割と後になって知ったのですけど、最初からわかっていればもっと対処のしようもあったのに、と思ったりもします。

獣が怒り狂って暴力を振るような野蛮な人が周囲に多数いる少年時代だったのですが、それは、今世の人生の目的とも一致していて、自分をどん底に落として今まで使命を遂行する間に貯めたわだかまりとしてのカルマを今世で一掃して解消することを目的としていましたので、これは不幸なことではなく、意図通りに周囲に獣がわらわらといる環境に自ら踏み込んで、想定通り、自分を葛藤と自己否定のどん底に叩き落としたわけです。それはうまく働いたように今は思います。

この環境がなければ今でも私は「怒り」というものが何なのかさっぱり理解できない人でしたでしょうし、その場合、周囲の獣のような人たちに不注意な一言を発してしまって不愉快にさせてしまい、悪い時は恨みを買って怒りの矛先をこちらに向けてしまうことも(今までの人生と同じように)継続させてしまったことと思いますので、相手が何と言われたら不愉快になるのか、それを理解する上でも「怒り」とは何なのか勉強したのは良い経験だったように思います。

ですから、スピリチュアルな話で「怒り」がテーマの場合、大抵は私は他の人と話が合いません。世間で言われているのは大体は「怒りを鎮めるにはどうしたら良いのか」というお話ですけど、私の場合、怒りというよりは上記のような環境及びおそらく過去生で溜めてしまったトラウマに近いものがほとんどですので、見た目には怒りとトラウマは似ているように思えるかもしれませんけど、怒りの場合は表現して発散するか誰かにぶつけることが多い(らしい)のに対して、トラウマの場合は自分の中で自分が受け止めますから、トラウマの場合は他人にぶつけないのです。一見すると他人にぶつけているように見えていても実際は当人からしたら他人は見えていなくて自分の中と対峙しているのがトラウマなのです。他人にぶつけようとか攻撃しようとする意図が基本的にはなくて、トラウマの場合にはたまたま制御できずにぶつけてしまうだけなわけです。

スピリチュアルな世界では意外にこの辺りのことを理解していない人が多くて、単にトラウマはよくないもの、みたいな簡単な話しかしていなかったり、あるいは、トラウマの葛藤をぶつけられた人は自分が攻撃されたかと勘違いしてしまいますけどトラウマの場合は単に自分自身と対峙しているだけなのです。スピリチュアルの先生のような立場のような人ですら意外にこの辺りがよくわかっていないのです。私がどうこう言っても「怒りを抑えるべき」みたいな獣向けの教えに終始してしまうので、まあ、話が通じないわけです。

この種の話で分かり合えるのは割と同じスターシード系で、ライトワーカー系やスピリチュアルな人であってもこのようなことがわからなかったりします。まあ、わかってもらう必要はないので、ベースが違うのならそれはそれで違うというだけで優越はないのですけど。「怒りとは何なのかわからない」なんて相談しても大抵の場合は「はあ?」と言われるだけでしょう。そんな感じでした。今は理解している(筈)ですけどね。







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