意識を集中して無意識が観察する瞑想 - 瞑想録 2021年12月

2021-12-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

日常生活と人里離れた瞑想

特に都会ではざわざわしていて、仕事をしていればそれなりに葛藤もありますけどそのような日常の全てもサマーディへと融合してゆくように思います。

一方、人里離れた場所で静かに瞑想する、というお話もありますけど、そうは言いましても結局は導く師匠としての意識体などがそこにいる、みたいなことがほとんどですので、真の意味で人里離れた場所で一人で修行、ということにはならないように思います。

そうであれば、見える肉体を持った存在であっても見えない存在であっても誰がしかが近くにいるということであれば場所はあまり関係なく、それと同時に、日常生活というものもどこに住んでいても存在しているわけで、それ自体がサマーディと融合するという観点からするとそこまで変わりがないようにも思います。

特に都会は騒がしいですので修行になって、騒がしいからこそ精神が揺さぶられたり極度の緊張を強いられたりして、それでもサマーディを保つというところに修行の一環があるわけです。

修行とまでは言わないまでも普通に健康に過ごすという観点から言っても日常生活をどのように過ごすのかは重要で、瞑想というと座ってすることが基本ではありますけど、サマーディが深まるにつれて日常生活における瞑想状態が続いて行きますので、日常生活とサマーディを融合することが大切に思います。

その上で、極度に緊張することがあったとしても呼吸を保ってサマーディを保つ、みたいなお話もあると思いますし、そこまで行かないまでも、普通に覚醒を保ちながら暮らすだけでも十分、日常生活が豊かなものになるかと思います。



病気になって精神衰弱する

先週末から喉の調子がまたおかしくなって、次第に風邪の初期症状のようなものも出始めて多少の発熱も繰り返していたわけですけれども、その後数日経った後、夜中にふと目が覚めたら割と精神衰弱の状態になっていて、久々にこのような状態になりましたので興味深い状態ではありました。

とは言いましても精神衰弱の状態においてはそのような生やさしい状態ではなくて、夜中の2時くらいに目が覚めた時は意識が動かなくて、ただ「自分」が全くなくなった状態、それは「意識」がほとんど動かない状態で、ただタマス(愚鈍な性質)の中に漂っている状態でした。

かと言ってネガティブな思いが湧き出てくるということはなく、ただ単に、タマスの中に沈んでいて、思考のない状態、それはつまり自分がないということと同義ですけど、思考がないからこそ自分というものがそこには存在しなくて、ただタマスの中に自分らしきものが微かにいました。

その時、意識が現れて来なくて、何かを思う、という機能それ自体がほとんど働いて来なくて、このまま意識がなくなったら私は死ぬのかもしれない、とふと思いました。

昔、子供の頃に精神衰弱した時は確か、変なイメージやネガティブな思いが次々と出てきて疲れ果てたような気がしたのですけど、今回の場合、何もない水面のような精神そのものがタマスの愚鈍な性質でできていて、その中に自分の精神が埋まっているというかまだ現れていないような状態で、思考というものがほとんどできない状態でした。

これは、瞑想中に現れるサマーディにおける覚醒とは違うもので、瞑想にまつわる歓喜の性質というものもなく、エネルギー的にはそこまで悪くないのですけど、体全体がタマスの愚鈍な、例えるならば粘土のような体のように感じられました。

その粘土のような体が横たわっていて、精神がほとんどまだ現れていない状態、それがタマスなのだと理解しました。

実際のところ病気それ自体はそこまで重くはなくて薄い影になって意識を覆っているという感じではありますけど、精神面にこのような変化が現れるとは意外でした。

まるで、私の精神のうちの大半が体を抜け出して、体の部分には少しだけしか残されていないかのような、そんな感覚もあります。

もしかしたら、それが本当かもしれなくて、実のところ夕べの瞑想の前に予感があって、夕べの瞑想において精神のある程度の部分は幽体離脱のようになって他の人生を体験して、その経験を積んだ精神がまた私の体に戻ってくる、みたいな予感がありましたので、私の体の方は、その残された方の精神なのかもしれません。

であれば精神衰弱のように感じられるのも当然のことで、その後、割と回復してはきましたけど、何か、半分は抜け殻のような感じもしています。

このような時は自分の大元であるグループソウルあるいはハイヤーセルフと言っても良いですけど、そのような自分にまつわる神様に頼るくらいしかすることがなくて、そういえば本山博先生が「瞑想が深まってくると悪に出会ったり色々なことがあるので、どうしても神に頼るという信仰心が必要になってくる」みたいなことを言っていたように思いますが、生きている人間に頼ることもできず、神頼みしかないという状態は確かにあるものだと思います。

今回の場合、すぐに死ぬとかそんな状態でもなかったようにも思いますけど、そのままタマスの深淵に引き込まれて自分というものが消えてゆく、という感覚になって、そのタマスというものはある意味この地球そのものではありますので地球と一体化するというのも悪くはないようにも思いましたが、私の場合、それが本当に良い・望ましいことなのかわかりませんでしたので、とにかく自分の御本尊であるとある天使やずっとあの世で一緒に暮らしている元妻とかの意識体のことを思って祈ったり助けを求めたりして夜に横になっていました。していたことは割とそのものズバリで「お導きください」「助けてください」とかそんな感じですけど、その願いが通じたのか、次第にタマスの愚鈍な泥のような感覚は減ってゆきました。

これは、病気というトリガーはあったものの、もしかしたら病気になって精神が弱ったことでこの世のベースになっている地球の泥のような意識と繋がったのかもしれません。地球の意識というのはムーラダーラ・チャクラと繋がっていてそれは土の性質ですので、泥として感じられたということは、地球と一体化した、ということなのかもしれません。仮説ですが。



本気で時間がないと信じる

自分ではそんな自覚はなかったのですけど、私はそうらしいです。

ふと先日、スピリチュアルの集まりみたいなところに行ってちょっとしたカウンセリングと言いますか過去のことなどについての確認をしていたところ、ふとカウンセラーからそう言われました。

「ここまで本気で時間がないと信じている人を見るのは初めて」

と言われましたので、自覚はなかったのですけど、そうなのかもしれないです。私が過去とか未来のことを言ったというわけでもなく、ただ単に、過去のお話とか何かわかったりしますか? みたいにざっくばらんに聞いてみただけですので、このようなお話になるとは意外でした。特に色々こちらから聞くわけでもなく、最初に言われたのでした。

スピリチュアルではよく「時間と空間は本当は存在しない」というようなことを言いますけど、本気でそう思って生きている人はあまりいないらしいです。

どうやら、普通の場合は過去の影響を現在が受けている、ということなのですけど、私の場合、時間関係なしに未来からの影響が現在及び過去に対しても入り乱れていて、普通の時間軸の、過去から未来の方向への影響だけでなく、時間軸関係なしに影響し合っているようです。

個人的に思うのは、誰しもがそうかな、と思っていたのですけど・・・。私の感覚としては、誰しもがそうやって時空関係なしに未来からの影響を現在や過去が受けている、と思っていたわけですけれども、多くの人を見ているカウンセラーからすると、私のような人は珍しい、というか、初めて会ったそうです。

違った意味で私にとっては意外で、皆は普通はそこまで過去・現在・未来という時間軸に囚われて生きているのだな・・・ と、ちょっとびっくりしました。もっと皆さん、自由に時間軸関係なしに暮らしているものとばかり思っていました。

例えば、とあるタイムラインで微妙な選択したことを踏まえて私は今のタイムラインを生きているわけですけれども、普通はそうはならないようです。多少はそういうこともあるのかなと私なんかは思うのですけど、私のような生き方は割と珍しいようです。

例えば、違うタイムラインではあの可愛い子と結婚していたり別のタイムラインではあの子、また違ったタイムラインではまた違った子と結びついたりしたわけですけれども、今はそのどのタイムラインとも違った道を歩んでいたりしますけど、普通はそうはならないようです。

そのカウンセラーは「信じる」という言葉を使ったのですけど、信じているというよりはそれが当然だと思っているわけで、それは信じるといえばそうですけど、信じるというよりは真実だからそうなのであって、信じるというよりは真実を認識しているだけなわけですけど、言い方は色々とあるかもしれません。



ライトワーカーたちが光の剣で権力者を切る

これは傷付けるということにはならなくて、するのは権力者の周りに黒いモヤモヤあるいはヘドロのようにドロドロになっていたりこびりついていたりする闇の部分を切ることで光を差し込んであげることになるのです。

ですからこれは闇の退治ではなく人助けであり、欲望や嫉妬、妬み、権力欲に包まれている権力者が好き勝手にしている状況から少しでも光のさす状況へと転換できるようにすることで状況を好転させ、その人だけでなく結果として多くの人を助ける行為でもあるわけです。

これは私だけがすることではなくて、日本中あるいは世界中のライトワーカーが各自でするべきことで、今までもライトワーカーは祈りの力で浄化をしてきたわけですけれども、それでも尚、この世界を支配している階層の人たちに対してはアンタッチャブルなところがあったかと思います。

実のところ別のタイムラインではライトワーカーが分離の状態のまま権力者に踏み込まなかったがために地球が滅亡したという状況もありますので、その失敗も踏まえて、ライトワーカーはもっと権力者に積極的に関わってゆくべきなのだと思います。

それは直接的に近くに行くとかそういうことだけではなくて、むしろもっと重要なのは、遠隔でライトワーカーたちが瞑想の中で光の剣を用いて邪悪な権力者たちの闇を切ってゆくべきなのです。

それは誰も傷つけませんから、光の剣をもらったライトワーカーはその各自が光の剣を十分に使って権力者たちの闇を切ることが求められているわけです。

瞑想の中で、この日本あるいは世界、もしくはもっと地域的な闇の存在を見出して、その存在の姿が浮かび上がったら光の剣を明確にイメージして、闇の部分を切ったり突き刺して闇を取り除いてゆくことをするべきなのです。

そうしなければこのまま日本あるいは世界は更に闇に包まれ、為政者は自分達の利益しか考えず、ますますこの世界は暗くて恐怖及び不安に包まれたものになってしまいます。

ライトワーカーたちは自分達の安全確保はもちろん第一ですけど、これは山奥にいてもできることですので、日本の暗闇に対して光の剣を使うことが求められているわけです。

ただ、可能であれば都会など闇の近くに住んだ方が効果は高くて、近くの方がよりはっきりと波動や人々の不安を感じられますので、その方が世の中のためには望ましいのですけど、それは各自のライトワーカーが可能な範囲で行えばいいと思います。



自分の心は鏡のように銀色に光って世の姿を反射して映している

三種の神器のうちの1つである鏡は、神道だけでなくスピリチュアル全般で心の性質を言い表すものとして古代から語り継がれております。心は本来清浄でそれ自体は汚れることはなく周りを映し出す鏡のようなものだ、とはよく聞くお話です。

とは言いましても、実際のところ、古い鏡にはウロコがついて曇ってしまっているのと同様、実際の心にはウロコよりもがっちりとこびりついている垢あるいは黒い汚れのようなものが厚い層をなしているのが普通なわけです。

ですから、普通の人がスピリチュアルのお話を聞きかじって「そうか。私の心は清浄なのか。そして、スピリチュアルの言うように何をやってもいいのなら、私は自由だ」みたいなことを思ったとしても、確かに心の本性の部分は清浄ですけどその上に厚い雲が黒く覆い被さっておりますので、自由と思っていたとしても実際には心がその厚い雲でプログラミングされた通りの決まった動きに従ってしまっているだけなわけです。

ですから、自由だ、という言葉そのものが心の上に厚い雲として乗ってしまい、自由だと思って行動するというプログラミングが一つ加わっただけで、実際には厚い雲はそのまま残ってしまっているのが大半の状況なわけです。

実際には、その厚い雲を本当に取り除いていく必要があるわけですけど、それは時間をかけなくてはなかなか取れないもので、いわゆる浄化の作用を継続的に行う必要があるわけです。

そうして浄化がある程度進めば清浄な意識が現れてきて、最初は私の場合は単なる心の平穏、雑念のほとんどない静寂の境地、いわゆるサマーディ状態にまずは達したわけですけれども、それが割と普通になってきて日常生活にまでサマーディが広がってくると、次第にそのような心の雑念としての静寂の境地だけでなく、実際に心そのものが銀色に光っている鏡のようなものであることがありありと見えてくる瞬間が時折ではありますが出てきたように思います。

具体的には、自分の心あるいは本体が胸を中心に胴体から顔あたりにかけて楕円あるいは卵型の鏡のようなものでできていて、それがまるでブラインドが時折開くかのように時々その銀色の本性が現れていて、銀色の鏡のような本性が現れたときは周囲の物事、それは実際の現実の世界そのものでありますけど、周囲の現実、世界の出来事が自分の心の鏡に映し出されていることがはっきりとわかるわけです。

それはまだブラインドが時々開く、あるいは、いつも太陽に雲がかかっていて時折雲が晴れて太陽の光がふと差し込むかのように、瞬時に現れるけれどもまた割とすぐに隠れてしまうかのような状態です。

これは上記に書いた意識の静寂とは別物で、静寂の境地はそれはそれとして継続していて、それとは別に、このような、心の鏡がブラインドあるいは時折太陽の日がさす薄曇りの日のように感じられることが瞑想中に時折現れているわけです。

これはおそらくは心の有り様を示していて、本来心というものは何でも見通すことができるけれどもこの世にあたっては曇っていて認識が限られているのかな、という気がしています。

とは言いましても現状では時折その鏡が動く程度で、そこに見えるものも一瞬見えるだけですので何のことか理解するには至らず、実際の役には立ちませんし、(少なくとも今のところは)自分で見るものを選べるわけでもないですので、何かが写っている、というくらいのものでしかないわけですけれども。



意識を集中して無意識が観察する瞑想

よくある誤解で「瞑想とは観察することだ。だから集中は瞑想ではない」というお話がありますけど、実際のところ観察だけでなく集中も瞑想の重要な一部なわけです。

日本語に誤解があるようにも思いますが観察という言葉で言い表しているのは観察が「起こる」と言うことであって意識で観察することではないわけです。観察することを期待しても良いですけど瞑想状態における観察そのものは行動にはならなくて、行動としては集中することしかできないわけです。行動として観察しようとしてもそれは集中でしかないわけで、言葉ではいかようにも表現できてしまいますからその行動としての集中も観察と言うこともできてしまいますけど、瞑想の表現としては誤解があるように思います。

観察ということもできますけど、行動としては結局は集中でしかないわけです。それは意識での観察、あるいは、顕在意識での観察と言い換えることもできて、顕在意識の観察というのは集中とも言えるわけです。その、集中としての瞑想と、それと同時に、無意識の観察、というものも同時に瞑想中に状態として存在しています。

顕在意識の観察は集中と言い換えることができますけど、無意識の観察は集中と言い換えることができません。そこは言葉と表現ですから言おうと思えば無意識の観察であっても集中と言えなくもないですけど適切な表現ではないように思えますから、無意識の観察は集中とは言い換えできない、という前提に立った上で無意識の観察というものが存在することをまずは受け入れることが必要に思えます。

最初はこの無意識の観察というものは本当に弱い力しか持っていなくて、一瞬それが現れてはすぐに消えて、というくらいの働きしかありませんけど、その働きは次第に強くなってきて、日常生活にまでその状態が広がってゆきます。それはいわゆるサマーディ状態というもので、サマーディと言っても色々な段階がありますけど、観察が瞑想中に不意に短時間起こるようなサマーディから、日常生活にまで続くサマーディとまであるわけです。そのサマーディの働きが「無意識の観察」で、その一方、顕在意識としては集中が依然として存在するわけです。

瞑想では顕在意識を何かに集中させた上で、無意識が観察状態になることを待ちます。あるいは、意図しても良いですけど、基本的には無意識は顕在意識のコントロール下にありませんから顕在意識としては待つことしかできないわけです。

言葉それ自体を言うと無意識とは意識していない部分なのだからその無意識で観察などできるのだろうかと論理的には考えてしまいますけどそれは言葉のあやと言うもので、瞑想をするにつれて元々無意識だった部分が次第に顕在意識に組み込まれていって、そうは言いましても顕在意識の部分と無意識に近い部分とはグラデーションのように認識の強さが違っていいますので、顕在意識の強い部分が意図して集中して、一方で、無意識に近い顕在意識で観察をする、と言うこともできます。

それでは全部顕在意識なのではないかと言ってくる人もいるでしょうが、そこは心の観察と言語の機微というもので、どちらにせよ言葉としては分けて表現するしかありませんのでこうして分割して表現してはいますけど実際にはグラデーションのようになっていて、無意識と言いつつも瞑想状態が進んでくると次第に表層に上がってきて顕在意識に近いものになってくるわけです。

そういう意味では両方とも集中のような状態に次第になってくるわけですけれどもそうして両方とも集中と言ってしまうと何が何だかわからなくなってしまいますしやはりそれでもグラデーションのような濃淡がありますので、やはり顕在意識としては集中で無意識が観察、と言った方が本来の状態に近いように思います。

次第に集中が不要になってきて無意識側の観察だけで済むようになってはきますけどそれでも集中というものはかなりずっと必要になってきて、集中とは言っても力を入れることではなくて意識を向けるという程度のことではありますけど、瞑想で集中が不要になるということは基本的にはないと思います。

ただ、サマーディ状態になれば集中というものが忘れられて(元々無意識だった)観察の方が優勢になりますからその状態では集中がない、という事もできますけど、それでも、無意識の働きが観察をしている状態を広義での緩やかな集中と言えなくもありませんし、それはただ単に「(広範囲を)認識している状態」という事もできますけど、そのように広範囲を認識している状態であっても無意識の側で意図して「(広範囲を)認識している状態」から何処か一点に集中する状態に切り替える事もできますし、そうであっても基本的にはサマーディ状態は失われなくてその一点をよりはっきりと認識する状態になったという違いだけですので一点集中という事もでき、そうなりますと集中いうものと観察とが同居するようになりますので、言いようによっては広範囲に対する集中と表現できなくもありません。

そうは言いましても、そうなると何が言いたいのかわからなくなりますので、普通に表現するときは顕在意識の集中と無意識の観察、あるいは、もっと簡略化して単に集中と観察、と言ったりするわけです。瞑想の基礎は「集中と観察」なわけですけど、実際のところ、その違いはあるようでいて時にサマーディ状態では違いはそれほどなかったりするわけです。



エネルギーが頭頂まで上がると光が見える

瞑想をして静寂の境地になるとエネルギーが頭頂まで上がった状態になります。そうすると視界に光が見えるようになります。

これはどちらが先というものでもなく、エネルギーが頭頂まで上がれば静寂の境地になりますし同時に光が見えるようになります。ですから、これらは同時に起こるもので、最初に光が見えるということでもありませんし最初にエネルギーが頭頂に上がるということでもありませんけど、ここで言っているのは頭頂、という点に限ったお話であって、エネルギー的には頭頂に至るまで少しずつ上がりますので、もっと段階的に言えば、最初にエネルギーが胸や喉及び口の奥、後頭部を通って頭頂に上がることで静寂の境地に至る、という事もできます。

ですから、頭頂という観点からすれば同時ですけど、エネルギー的には段階的なわけです。

また、意識としても一応は段階的で、少しずつ意識がクリアになっていって最終的に静寂の境地になるわけですけれども、それも段階的ではありますけど一応のプラトーのような平穏状態になるのは頭頂まで上がった静寂の境地のところであるように思います。

そして、光に関してはそれまでも時折見えたりすることもありますけど基本的には頭頂に上がる事で光が見えるように思います。

おそらくはこの光は視界の肉体の器官がエネルギー的なものを受けて実際の目が感知しているもののような気がしていて、この光それ自体はヨーガ的に言えばプラーナ、あるいはクンダリーニのエネルギーを感じているだけですので光が見えることそれ自体にそれほど深い意味はないのかなと思っているのですけど、そうは言いましても、エネルギーが頭頂まで上がった「しるし」ではあるのかな、と思っております。

そして、その光が更に強くなってくると銀色のようになって鏡のように映し出すようになる気がしてきていて、そこは私はまだこれから、という感じではあります。



後頭部を経由してサハスララにまでエネルギーを上げる

クンダリーニのエネルギーは頭頂までは割と直線的に上がります。マニプラのところで少しブロック(グランティ)がありますけどそれは一旦は超えてしまえば後は割と直線的に眉間のアジナ(サードアイ)までエネルギーが上がります。

それぞれ、胸の付近及び喉の部分にもブロック(ヨーガでいうグランティ、結び目)があって、通説ではムーラダーラにブラフマ・グランティ、マニプラとアナハタの間(あるいはアナハタの中)にヴィシュヌ・グランティ、そしてアジナにルドラ・グランティ(あるいはシバ・グランティ、シバの結び目)があります。

今まで超えてきたムーラダーラのブラフマ・グランティ及びヴィシュヌ・グランティは一旦超えてしまえば割とその後はエネルギーが通った状態になる感じでしたけど、アジナのルドラ・グランティは超えたような超えていないような、微妙な状態が続いていました。

時折、サハスララにまでエネルギーが通る感じの時もありましたけど割とエネルギーがサハスララからなくなっている時もあって、瞑想の度に割としっかりと時間をかけてサハスララにまでエネルギーを上げる必要がありました。

私の場合、普通にクンダリーニのエネルギーを上昇させるとアジナのところで一旦は壁のようなものに突き当たって、サハスララにまでそのまま直上しないのです。

そして、時間をかけてアジナにずっと意識を合わせて瞑想をしていると不意にエネルギーがサハスララに通って静寂の境地になって光が見える感じになって、そうなるとサマーディ状態が強化されて日常生活にまで意識が浸透して生活できるようになっていました。

それはそれで十分で、それだけでも瞑想の効果としては十分ではあるのですけど、アジナにクンダリーニが満ちた時の圧迫感とサハスララにまでエネルギーが上がるのに時間がかかるのが一応の課題になっていて、どうにかならないかな、と思っておりました。

瞑想の基本は眉間に集中することで、意識を眉間のアジナに合わせてクンダリーニを集めるということが基本ではあるのですけど、エネルギーが眉間の周囲に集まった時にそれ以上エネルギーがどこにも動けなくて圧迫感と共に少し不安定な感じになる時があるのが課題になっていたのです。

その状態であっても時間をかけてずっと眉間に意識を合わせる瞑想を続けていれば不意にサハスララにエネルギーが抜けてリラックスが深まり、無意識で緊張していた部分が更に解けるわけですけれども、その、不意にエネルギーが抜けるまでの時間がなかなか読み辛くて、いつも不意に起こるので、時に1時間、あるいは2時間ほどずっと瞑想を続けてサハスララにエネルギーが満ちれば良いですけど、日によっては2時間でも足りない時もありました。

この辺りをどうにかできないかな、と思っていたのですけど、その解決の鍵になる気付きが最近ありました。

そもそもこの知識そのものは以前から知っていて、実際、色々なところで目にしていて、例えば神聖幾何学フラワー・オブ・ライフを研究しているドランヴァロ・メルキゼデクによるとアジナとサハスララの間は統合されたチャクラと「半歩」(グランティ相当)で結ばれているとのことですけど、他の流派でも眉間から後頭部を通ってからサハスララに上げるみたいなことはよく言われています。

ハタヨガ・プラピディカにも確か似たようなことが書かれてあったような気が致しますし、クリヤ・ヨーガの理論やタントラ系のヨーガでも同様のことが言われていると聞いたことがあります。スピリチュアルでも同じようなことを言っている方は割と多い気が致します。

ですから、アジナからサハスララへのルートは後頭部経由で、アジナから後頭部を経由してからサハスララ、ということは割と有名で、以前から知ってはいたのですけど、実際のところ、それほどピンときてはいませんでした。

それよりも、単に眉間に集中してサハスララにオーラが満ちるのを待つような瞑想を行なっていました。

ですけど、今回、ふとしたことでピンときて、単に後頭部を経由するのではなくて、むしろ、喉のヴィシュッダ・チャクラを経由すれば後頭部を通ってサハスララにエネルギーがすぐに上がることに気がついたのです。

これは、今まで似たようなことをしていても同様にはならなかったので、私の中での状態が変化したことも関係しているかもしれません。確か以前から似たようなことを何度も試しているような気がするのですけど、そうはうまくいっていなかったような気が致します。

ルートとしては、喉から直接上げるというよりは、眉間及び眉間より少し奥のところにエネルギーが集まった状態から喉のヴィシュッダを経由して後頭部を通り、頭頂のサハスララに抜ける、というルートで、一番近いのがフラワー・オブ・ライフに乗っている図ですけど、この図を見るだけですと単に壁があるというくらいですけど、それよりもガッツリと喉のヴィシュッダの方を経由している感じです。

(図は「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」より)

この半歩はスピリットの準備が整い、新しい世界での位置を達成した時にはじめて存在が明らかになるのです。肉体の中に宿るスピリットには、この半歩は隠されて識別しにくくなっており、その時にならないとわからないのです。 (同書より)

喉のヴィシュッダはアナハタからアジナにエネルギーが上がるためのルートにもなっていますけど、割と同じところがそのアジナに行くルートと、頭の真ん中の松果体かそのあたりから少しヴィシュッダの方を経由して後頭部を通ってサハスララに抜けるルートと、その両方で使われているか、あるいは近いように感じられるだけで実際は別々なのかもしれません。

感覚的にはどちらもヴィシュッダのように感じられて、図のように半歩を経由するというよりは、7番から喉のヴィシュッダを経由して後頭部、そして頭頂、というルートが感覚に近いです。

ですから、ハタヨガやクリヤ・ヨーガあるいはその他のスピリチュアルで言われているように眉間から直線的に後頭部に行く、というのは少なくとも私の場合には当てはまらなくて、それを何度も試してみてもうまくいかなくて、それよりも、この「半歩」よりガッツリとヴィシュッダに近い方を経由するルートになっているようです。

例えば神智学系のグレート・ホワイト・ブラザーフッド(白色大同胞団)では「眉間から斜め後方に直線的なルートを通って、後頭部を上昇してサハスララにルートを通す」みたいに伝えられていたように思います。以前はそのようなことを聞いてもそれっぽく感じられただけで今ほどはっきりとした実感はなかったわけですけれども、確かに今となってみればこれはそのように「斜め後ろに」という事もできて、そういう言い方も間違いではなくてかなり実態に合ってはいるのですけど、それよりは、フラワー・オブ・ライフ的な「半歩」の方が実態に近いような気が致します。フラワー・オブ・ライフの図では最初は眉間から中央まで直線的ですけど、確かに、眉間やその奥のアジナの本体である松果体などの近くにまずは集中することが必要で、それによって最初はヴィシュッダからそのままエネルギーがアジナまで上昇して、その後、「半歩」を超えて少しヴィシュッダの方を迂回してから後頭部を通り、サハスララに至る、というのが実態に近い気が致します。

これは微細なお話ですから人によって違うのかもしれませんけど、私の場合、この「半歩」の迂回が図にあるより割と大きかったように思います。私の場合はガッツリとヴィシュッダの近くを迂回しているように思います。

この微妙な違いが割と大きくて、直線的にエネルギーをサハスララに上げようとしてもほとんど上がらなくて、眉間から一直線に後頭部に通そうとしてもうまく通らなくて、この、ちょっと下の方を経由する、というところがポイントのようです。

実際のところこのフラワー・オブ・ライフの図は何度も見ていて、「半歩」も知識としては知ってはいたのですけど腑に落ちていなかったわけです。どうやら、ハタヨガなどの直線的ルートより私はこちらのフラワー・オブ・ライフの半歩の方が実態に近いようで、ここ最近の大きな発見だったように思います。

これによって瞑想にかかる時間が短縮されて、今まではサハスララにオーラが満ちるのを待つために数時間とか費やす時もあったわけですけれども、割とコツ的なものでサハスララにまでエネルギーを通せるようになったような気が致します。それでもアジナにまでエネルギーが満ちる時間は必要ですけど、その後のステップは早くなったように思います。

エネルギーが上がるようになっただけでなく、アジナや頭の真ん中あたりにエネルギーが溜まりすぎて圧迫感のようなものが感じられる時もありましたので、その解消のために長く瞑想をしてサハスララにエネルギーが抜けるのを待つ必要が減って意図的にサハスララにまでエネルギーを通せるようになりましたので、ただ単にエネルギーが上がったということ以上に、エネルギーの安定性の面でも重要な変化だったように思います。

ただ、まだそこまでこなれていないのか、日によって、うまくすんなりと上がる場合と、そうでもない日があります。これから更に様子を見ていきたいと思います。



マントラを奥深い意識で唱える

かなり昔、マントラを教えてもらった時に唱えたのと全く同じマントラが今は違う効果を表しています。マントラは3つの方法でそれぞれ効果を発揮するように思います。

・声に出して唱えるマントラ
・表層の意識で唱えるマントラ
・奥深い意識で唱えるマントラ

声に出す場合はいわゆる気とかプラーナとか言われる肉体に近い次元で働きます。オームを唱えると眉間が震える、眉間がグリグリする、などというところでマントラの効果を感じることができます。

声に出す時は声だけでなく表層の意識も使っていて、声に出さなくても表層の意識でマントラを唱えることができますので、その時も声に出す時と同様の効果が現れます。

表層の意識がうまく働くと、体にあるエネルギーのルート、ヨーガでいうところのナディの活性化が起きます。体の各所でエネルギーの流れが悪い場合にはマントラの効果でその箇所のエネルギーが活性化され、体の各所に意識が通っていなかった場合でも少しずつそこにエネルギーが満ちるようになり、その場所に感覚が出てきます。次第に身体中の細かな場所の認識ができるようになるわけです。

表層の意識でマントラを唱えるだけでも十分な効果を発揮しますが、奥深い意識でマントラを唱えるようにするとまた違った効果が現れます。

実際のところ、言葉で表すと表層の意識と同じように身体中のエネルギーを通す、という効果ということもできるのですけど、この場合、エネルギーの質自体が繊細な微細なものになっていて、表層の意識は割と荒い波動でできていて、一方、奥深い意識はその意識そのものが微細になっており、マントラをその奥深い意識で唱えると体中にその微細な波動が伝わるのです。

この、荒いとか微細とかいうのは理屈で言っていることではなくて、実際にそのように感じられることで、はっきりと違いがあることが確実に実感としてわかるわけです。

微細なところで奥深い意識が出てくる前はそのような意識を使ってマントラを唱えることができませんので声ですとか表層の意識でしかマントラを唱えることができず、それでも十分な効果を発揮するわけですけど、奥深い意識が表れてきたらそこでマントラを唱えることで体の各所にまで微細な意識を浸透させることができるわけです。

その時唱えるのは同じマントラであるわけですけど、違う効果が現れるわけです。

マントラにも色々あってそれぞれ違う効果があるわけですけど、同じマントラであっても唱える意識の階層によって違う効果が現れるわけです。

以前は、それほど効果がないのではないかと思っていたマントラであっても奥深い意識で唱えるとかなり効果があったりして、奥深い意識の場合は割と微細なところで働きますので昔は地味と思っていた短いマントラの方が効果がある時もあり、割と軽視していたマントラを見直したりもしています。

そのように奥深い意識で唱えるときは、体の背面に近い方、後頭部とか、その辺りにまず奥深い意識がコアのように表れて、そこから頭頂部とか各所に浸透していくように思います。

表層の意識は前頭葉とか頭の前面で考えていて、表層はより物理的な思考になる一方で、奥深い意識の方でも物事を考えることができますけど、より本質に近いところを捉えることができるように思います。

ですけど、奥深い意識はそれだけでなくて、言葉を超えたところにも繋がっていて、奥深い意識のうち、言葉で言い表す部分というのは奥深い意識の入り口でしかなくて、奥深い意識に入ってゆくと言葉を超えた世界になっているように思います。



エネルギーを蝕む霊体の虫を駆除する

体の調子が悪くて緊張が走ったり不快感が出ている時、もちろん肉体の不調であることも多々あるのですけど、霊体の虫が取り憑いていてエネルギーを蝕んでいる時があります。

この他にも、死霊右肩につきやすいので引き抜いたりする必要がありますけど、死霊の場合は割とわかりやすくて手探りすればすぐに感触があって引き抜きやすい状態になっていますのですぐに効果がありますが、霊体の虫の場合は見つけにくい気が致します。

今回の場合、数日前から少し調子が悪くて何が原因か探っていたのですがなかなか掴めず、今日になって瞑想で探っていたところ、胸の少し右の前面に霊体の虫がついていて、それがエネルギーを蝕んでいるようでした。これは分かりにくいです。

本当の虫くらいの大きさで、形も虫に似ていて、とても気持ちが悪いです。

形は芋虫とかクマムシとかに似ていますが体の円周と同じくらい大きな口と歯が円周上にずらっと並んでいて、とても気持ち悪いです。トンネルを掘る採掘機(シールドマシン)についている歯のように激しい歯が丸い口の全面についていて、エネルギーを蝕んでいました。

とても小さいのですが認識できればあとは簡単で、摘んでポイッと捨てるのですけど、更には光の剣で切って浄化してあげると消えてゆきました。成仏したのですかね。

こういうのは健常者につくだけでなくメンタルに不調をきたしている人に多く取り憑いている時があって、身体中が霊体の虫で覆われているときもあって、そのような人はとても気持ちが悪い時があります。

メンタルに不調がある時は精神科とか体調とか色々な分析がなされると思いますが、この種の取り憑きに関しては人は割と無関心で、ですけど、かなり重要な要素のように思います。

こういうのは他人に任せることではなくて自分で行うことが重要で、体の汚れは毎日お風呂やシャワーで綺麗にしているのに対して霊的な汚れを取ることを人はあまり知りませんので放置され、メンタルの不調に繋がるという時があります。

ただ、この種のお話があるからと言ってお寺や神社あるいは自称霊能力者のところに行ってお祓いをしてもらおうと思っても役に立たないことがほとんどで、高いお金を払って何も変わらない、ということがかなりの場合かと思いますので、他人に頼るということはしない方がいいと思います。

それより、自分で瞑想をして、自分で処理することです。

こんな虫なんてとても小さな力しか持っていませんから、存在を認知できさえすれば自分で簡単に除去できます。

力だけで言えば死霊の方がよっぽど強い力を持っていますけど、虫なんて摘めばすぐに取り出せます。

ですけど、虫の場合は小さいので認知が死霊に比べるとちょっと難しくて、そうは言いましても瞑想で見つけることができますので、体の調子が悪い時は探して取り除くと良いと思います。



霊能者などに除霊をお願いしても無駄

本物もいるにはいますけど大抵は無駄で、形通りの儀式をして、何も効果がないことがほとんどです。感覚的には99%以上は効果がないのではないかと思いますけど実際に数えたわけではありませんので単なる主観です。

お寺や寺院などで定期的にやっている儀式のほとんどは術主に力がありませんのでそのような商業的な儀式のほとんどは効果がなく、よって、本物はそれ以外ということになりますけど、それ以外のよくわからない霊能者のかなりの数は眉唾物ですので本物はかなり少ないと思って良いと思います。

大抵は「自分は本物」とか言いますけど、実際はそうではないことがほとんどです。

この種のお話の見分け方としては、現実と即してみて効果のあるコンサルティングのようになっているかどうか、という点が1つのポイントになります。スピリチュアルなのに何故にコンサルティングかと言いますと、実際のところ、本当に現実的で地に足についているスピリチュアルと本物のコンサルティングは究極的には見分けがつかないからです。とは言いましてもそこまでのレベルの方はそうそういませんから、やはり、ほとんどの場合は霊能者や術者あるいは神主や僧侶に頼んでも無駄ということになります。

お寺や神主に頼むと数十万で効果がなくて、よくわからない事象霊能者に頼むと50万以上とかザラですけど、大抵は効果がありません。

それよりも、私のお勧めは、近所に住んでいる「元気なお節介おばさん」に相談することです。そういう人は自分は霊能力を自覚していなくても周りを巻き込んで問題をどんどんと解決していきます。近所付き合いにもなりますし、そのような元気なおばさんに頼ればこちらも守ってもらえるようになります。その場合、霊能力とか術者とか、そういうこととは全く関係なしに、普通に近所付き合いをするだけで霊的な問題も解決してゆくわけです。その時、霊に取り憑かれているとか霊的な説明をする必要はなくて、ただ単に、物理面から相談をすれば十分です。眠れないだとか何か心配事があるだとか、そういう普通の相談で十分です。元気なお節介おばさんはそんな悩みを笑い飛ばして、急に相談者の悩みも吹っ切れたりしますし、多少は悩みがなくなったりします。その人と付き合いを続ければ相談者も次第に元気になってゆくわけです。

ですから、自称能力者などに頼むのは大抵はお金の無駄でしかなくて、近所の元気なお節介おばさんがその土地・地域に対しては一番の影響力を持っていて、そのおばさんが取り憑いている変な霊に対して説教すれば取り憑いている霊なんて大抵は根性がありませんからしょぼしょぼと退散して、今まで体調が悪かったり鬱っぽかった人が急に治るなんてこともよくあるわけです。霊に説教、と書きましたけど、霊が本当に取り憑いている場合は相談者と人格が一時的に一致していますので相談者に対して叱るという形態を取りますけど、相談者が叱られることで取り憑いている霊の方がまいってしまい、相談者に取り憑くのをやめて離れていく、ということがよく起こるわけです。そうすると急に相談者の人格が明るくなって、今まで何をしていたのだろう、となるわけです。本人に自覚はなかったりしますけどよくない霊が取り憑いていたわけです。

元気なお節介おばさんが周囲に対してお節介をやけばやくほどその土地の人たちが明るくなってゆきます。その時、大抵の場合、そのお節介おばさんはユーモアたっぷりにその状況を笑い飛ばしてくれますので問題解決するだけでなく元気になってお互いに楽しい気持ちになります。まるでギャグやジョークのようにどんどんと問題を解決してゆくわけです。そもそもそのようなお節介おばさんにとっては問題であるとすら感じていなくて易々と解決していくわけですけど、周囲の人たちにとってはそれが助けになるわけです。

元気な人、特に元気なおばさんが住んでいる土地に精神病の人があまりいないのはそういう理由もあるわけです。

たまに、そういう元気おばさんを頼って元気のない人が集まってきていたりもしますけど、基本的には元気なおばさんは周囲を元気にするわけです。

そういう元気なお節介おばさんは時に霊能力っぽいものも持っていて色々わかったりしますけど、それは特に霊能力とは言わなくても勘が鋭い、くらいに本人は考えている場合もあって、客観的に見てみれば未来予知だとか他人の過去を見たりだとかできる人であっても本人はそれが能力だとは自覚していない場合も多いわけです。私の見たところ、女性はかなりの割合で多少ながら能力を持っていますので、日本人の女性のうちかなりの人が巫女の素質を生まれて持っているように思います。私の周囲で言いますと相当の確率で能力を持っていて、能力がなくて鈍い人の方が少ないくらいです。よそは知りませんけど。

女性にとってはおそらくそのような勘は当たり前すぎて割と特殊な能力だと自覚していない時もありますし自覚している時もありますし、能力がそれほどない場合もありますけど、基本的にはそのような元気なお節介おばさんが問題を解決してくれますので、神主やお寺の住職に頼むより何十倍も頼りになるわけです。



瞑想で体に張り付いているアメーバを取り除く

瞑想で体の各所の緊張状態を探ると私の場合は割と右肩周辺で多少の緊張状態になっていることが多くて、右肩は死霊が憑く場所でもあるわけですけどそこから死霊を意識の手で摘んで引き抜くことが第一ではあるのですけど、引き抜いた後も残留物が残っていたりするわけです。

まずは引き抜くことでかなりのエネルギー的な解消がなされて不快感としてはかなりなくなるわけですけど、一旦侵入された箇所は防御が弱くなっておりますのでまた入りやすい状態になっているわけです。そうして何回も侵入されているとそこに残留物が残ったり古い角質のようにオーラがボロボロになってしまったりするわけです。

私の場合は過去の経緯から右肩が古傷のようになっているわけですけど、最近また瞑想でその辺りの多少の緊張状態を探ってみると何やらニキビのようになっていて、最初はニキビのように見えたのですがよく見ると核があって、その核が何なのか更に見てみると、貝あるいはフジツボのように岩に張り付いている系の二枚貝のような形をしていました。これは気持ち悪いです。

これは取り憑いているというよりも古いフジツボが残ってしまっていて、もはや貝殻だけが残っているような状態ではありましたがこれがエネルギールート上にあって右手へのエネルギーの流れを阻害しているように感じられましたので、意識でハンマーのようなものを作って根本を叩いたり、貝を取る先の尖った道具のようなものを意識して叩いて取り外しました。少し根本が残りましたが、そこは光の剣を使って、ライトセイバーの先っぽを当てて熱で焦がすようにしてそれなりに取り除いたところ、随分と右肩の緊張が取れて右手へのエネルギーが通りやすくなったように思います。

死霊が取り憑いている場合はそんなものではなくてかなりの不快感とエネルギーの損失がありますけど、この種の残存物でも多少のエネルギーの阻害がありますし、右肩の防御を固める意味でも残存物を取り除くのは重要のように思います。

同様に首筋に残っている残存物、この場合はフジツボではなくてアメーバのようなもおでしたけど、首の右筋に残っているアメーバのようなものを取り除いたところ、これまた首筋のエネルギーの通りが良くなって、その結果、背筋がその瞬間に少し伸びました。

瞑想の深さと背筋の伸びにはかなり相関関係がありますけど、単に瞑想をしてエネルギーの流れが良くなるのを待って背筋が伸びる、という通常の瞑想の深まりの段階と合わせて、このようにエネルギールートを阻害している要因を取り除くことでエネルギーの流れが良くなって背筋が伸びる、ということもあるのだと思っています。エネルギー的には同じことではありますけど単に待つよりはエネルギーを阻害している原因を直接に取り除くことでより早くエネルギー的な通りを良くすることができるわけです。



ケチャリ・ムドラと半歩とサハスララ

ケチャリ・ムドラはハタヨガなどで行われている行法のうちの一つで、端的に言えば舌を上げることではありますけど、実際のところそれはエネルギー・ルートに大きく関係しているように思います。

眉間のアジナからサハスララへと通るルートは一旦は後頭部を経由して上わけですけれども、その時、「半歩」とも呼ばれる壁を通り抜ける必要があります。

その半歩を通るために、どうやらこのケチャリ・ムドラが有効に働いてくるように思うのです。

とは言いましても文献を見ても明確にそうであるとは書いておらず、これは割と私の実体験に基づくもので、万人あるいは一般的にそうであるとは限らないのですけど、少なくとも最近の感覚で言いますとケチャリ・ムドラをするとこの「半歩」を超えてエネルギーが眉間のアジナからサハスララに通りやすくなるように思います。

また、ケチャリ・ムドラそのものをしなくても、喉の奥を大きく開けるようにするだけで割と同様にエネルギーが通りやすくなるように思います。

ケチャリ・ムドラでは舌を上げるわけですけれども、舌の先を上げるというよりは喉の部分を大きく上げる、というところが効果が出るポイントかな? という気が致します。これまた文献にそう書いているわけでもなく、流派によっては単純に舌を上げる、くらいにしか教えられておらず、例えばクリヤヨガでも特に深い注意点などはなかったように思いますので、これはあくまでも私の感覚で言うとこうである、というお話です。

そのように喉元を開けるようにするとエネルギーが「半歩」を超えてサハスララにまで上がりやすくなるように思うのです。



瞑想は雑多な感覚から無、そして有に至る

最初はモヤモヤとした雑感・雑念の多い状態と対峙して、やがて無の境地に至り、次はまた有になります。

無にも概ね2つのプラトーの段階があって、最初はいわゆる集中の歓喜の状態、言い換えればゾーンの状態です。これは無と言うほどまだ無ではありませんけどそれなりに無想が現れてきている状態で、ゾーンですと割と短期間なことがほとんどですけど、集中が高まって対象と一体となって歓喜が湧き起こります。そのゾーン状態がまずありますが、次の段階である、本当の無とも言っても良いのが静寂の境地です。

静寂の境地になりますと体の感覚もほとんどなくなって、一番わかりやすいのは体の感覚ではありますけどそれだけではなくて意識としても消えて、思考が一時的にでもなくなったかのような感覚になります。これらは「無」の段階で、流派によってはこれもサマーディと言っていますしサマーディには色々と種類がありますのでサマーディであることには変わりがありませんけど、サマーディのうちでも割と初めの段階のように思います。

その静寂の境地だけでも日常生活を豊かに暮らすには割と十分で、ポジティブに軽やかに人生を送ることができるようになります。その前の段階ですとゾーンをたまに体験するくらいですので、静寂の境地に入ることが(度々でも)できると言うだけでも人生が豊かに幸せに穏やかになるわけです。

それだけでも十分ではあるのですがその先に至ると、サマーディの次の段階に相当して、そこではもはや「有」になります。その前の静寂の境地ですと体の感覚やら思考とかが「消える」と言う状態でそれ故に「無」に相当する段階でしたけど、この「有」の段階になると、静寂の境地で静かになった顕在意識、普通の意識、表層の意識の更に奥に、文字通り奥深い意識というものが潜在意識あるいは無意識の側から湧き出てきて、元々無意識だった部分の一部が顕在意識の端っこの方に仲間入りをするようになるのです。その、奥深い意識は文字通り意識でありますから何がしかを認識する能力を持っており、静寂の境地そのものは顕在意識にとっては実はこの段階になっても変わらないのですが、顕在意識が静寂の境地で静かになっている、そのまた奥で、文字通り奥深い意識が体や思考などを背後から自動的あるいはシステム的あるいは機能的と言ってもよいくらいの動きと力で背後で強く働いている意識というものがあるのです。文字では自動的と言っても機械的というわけではなくそこは有機的な働きになっていて、有機的な人間の意識の奥深いものが、システム的と言ってしまうと語弊があるかもしれませんけどかなり有機的かつ機能的にシステムのように奥深い意識が常に働き続けているわけです。

その段階になると表層の顕在意識を働かせようがあるいは表層の顕在意識を静寂の境地で沈めようがあまり関係がなくなってきて、そうは言いましても最初は影響がありますけど次第に影響がないようになってきて、奥深い意識、それは最初は観察として現れますけど実際には意図としての意識の面もあって、その奥深い意識が常に観察あるいは意図をするようになってくるわけです。

そうなってきますと、もはや奥深い意識というのは基本的に常に動いている状態になって、あまりにも顕在意識が惑わされていたりしない限りは奥深い意識は動き続けていて、その状態はもはや「無」と言い表すんには不適当で、であればそれを言い表すいい表現はないかというと、比喩的ではありますけど「有」ということになるわけです。

瞑想にそれほど熟達していない場合は雑多な混乱した意識しかなくてそれを表現としては「有」と言えなくもありませんけど、ここで言っているのは「混乱した有」から「無」に至り、次には「無と同居することもできる有」あるいは「整理された有」とでも言える状態に変わってゆく、ということなわけです。

これは単なる哲学の理屈のお話ではなくて、そういう哲学もあるのでしょうけど、この種のお話は実際に自分で瞑想をして見出すべきことであるわけです。



邪霊を片っ端から消滅させている人たち

修行者のうち、荒っぽい人たちは自分の周囲に近づいてきた邪霊を片っ端から消滅させています。それは感覚として荒い重々しい波動を有する意識体であれば何であれ捕まえて消滅させておりますので、それが狐だろうが人間の浮遊霊だろうが関係がないようです。

と、いうことは、成仏できなくて悶々とした気持ちでこの地上を彷徨う霊がいたとして、ちょっとでも悪霊っぽい雰囲気を見せていたら消滅の対象になるということです。

そのような荒っぽい人は、まるで漫画や物語の陰陽師とか邪悪な存在に立ち向かうファンタジーものの主人公のように呪術を使って悪霊を消滅させていきます。

実際には漫画や物語のように楽しいことばかりではなくてかなり生々しくて、これは文字通り「消滅」させておりますので、消滅させられた魂はもはや転生もなく、ただ無に返るだけです。

それが良いことなのか悪いことなのか、昔は私も「それは良くないことなのでは」と思ったこともありましたけど、今は、それもまたこの宇宙のサイクルの一つなのか、と理解するようになりました。

消滅とは言ってもこの宇宙の根源のエネルギーに返るだけで、そこからまた長い年月を経て実体化してこの宇宙に実体化するわけで、邪悪になってしまった魂を一旦は宇宙の根源に返すという作用も宇宙に存在しているのだと思います。

ただ、実際にそれに巻き込まれた方は悲惨で、今まで何度も転生を重ねて積み上げてきた叡智も消えてしまい、無に返ってしまいますので、消滅させられたくなければ邪気を持った人はそのような荒っぽい人の周囲に近づかないことですね。

霊体のままこの地上を彷徨ったり旅したりすることも普通にできるのですけど、所々にこのような荒っぽい人がいて、不意に遭遇して邪気を察知されてしまうと消滅の対象になってしまいますので注意が必要です。

それよりも肉体を持ってこの世界に転生した方が安全で、体があれば邪悪なオーラを持つ人であっても消滅の対象にはなりませんから、この地球を楽しみたいのなら転生する方が安全と言えます。それに、邪気を持っていても地上に転生することで肉体の制約が加わって否応にも成長のサイクルに入りますし、望めば修行もできますので、悶々とした気持ちで漂う浮遊霊あるいは悪霊のままでいるよりは転生した方が良くなるスピードは早いと言えます。安全なだけでなく、転生することで希望も出てくるわけです。



真珠湾攻撃と命の重さ

開戦の数ヶ月前にアメリカは日本の資産を没収、石油の禁輸をしました。

1941年7月25日 ルーズヴェルト大統領、米国対日資金凍結
1941年8月1日 石油の禁輸
1941年12月7日 真珠湾攻撃

現代において同じことが起こったら戦争になるのではないでしょうか。例えばアメリカが在米の中国の資産を凍結して中国に対する石油の禁輸を世界的に行ったら中国は開戦するでしょう。あるいは中国が日本の資産を凍結して日本への石油の禁輸を世界的に行ったら今の日本はへっぴり腰ですので開戦するかどうかは微妙なところですけど、戦前の日本は開戦したということです。

その後、アメリカが勝ったことで元々の原因が覆い隠されて真珠湾攻撃で騙し討ちをしたという宣伝がなされましたけど、要は勝てば官軍ということです。

まあ、その歴史的経緯はあるのですけど、ここで言いたいのはもっとスピリチュアルなことです。スピリチュアルの観点からすれば、この真珠湾攻撃は別の面が出てきます。

それは、歴史家や政治家の間でも常に議論になる、「命の重さが第一なのか、命以上のものがあるのか」という命題です。いつもこの2つが天秤にかけられてきたわけですけれども、スピリチュアルの観点からすれば命以上のものがある、という見解になります。

一般的に信じられているスピリチュアルは「命の重さ」を重視しておりますので、命の重さが第一ではないのかと思われるかもしれませんけど、確かに命の重さというものもありますけど、第一ではないわけです。

例えばヨーガでは「アヒムサ」ということが言われていて「(他者を)傷つけないこと」が第一になっております。ですから命の重さというものが第一にあるわけですけど、それは傷つけない、ということであって、命の重さとは実は直結していないのです。生命としての肉体としての命は割と簡単になくなってしまいますけど、それで魂が傷つくかどうかということとは割と別問題であるわけです。

本当に大切なのは魂が傷つくかどうか、という点であり、肉体に傷がつくかどうかということはそれに比べたら大きなお話ではないわけです。肉体や命も普通に大切なものではありますけど、スピリチュアル的には命は循環しており、命は大切ではありますけど死ぬことで完全に消滅するものではないわけです。

人が生きて成長するには多くの人の助けが必要で、命は貴重で、そう簡単に捨てるべきものではないですけど、それでも、命というものは循環しているわけです。

自分一人の人生だけを見てみても来世あるいは何世代も先に渡るまで奴隷化の精神で生きるのか、そうでないのか、というお話になるわけです。

長い目で見た時に、次の世代あるいは何百年、民族あるいは国の将来にわたって延々と続く「奴隷化」という魂の傷を作ってまでも「(肉体としての)命」を第一に考えて大人しく従うのか、あるいは、命よりも大切なものである魂を守るため、というところで大きく違いが出るわけです。表現としては、矜持にかけて戦いに挑むのか、みたいな言い方になってしまうこともありますけど、矜持のようにプライドのためというよりは、もっと奥深いところの、魂に傷をつけるのかどうか、というお話になるわけです。

当時の人が頑張ってくれたからこそ、今の日本人の名前が「ジョン」とか「デイビッド」とかにならずに済んだわけです。

最近、真珠湾攻撃をした元特攻隊隊員へのジャニーズ・櫻井翔のインタビューが世を騒がせておりますけど、肉体だけを見たら彼のように「どうして人を殺したのですか」みたいな稚拙な質問になってしまいますし、日本の矜持を守るため、日本を侵略から守るために特攻をしてでも、勝てないまでも精神的に負けない状態にまで持っていくために特攻ということをしたわけです。

元特攻隊員の方は、自分が守った日本に彼のような気概のない人が育ってしまったことを心底残念がっただろうと思います。こんな日本を作るために自分達は命をかけたのか、と、がっかりしたのではないでしょうか。

スピリチュアル的な観点からするとどちらも一応は正しいのですがより大切なのは元特攻隊員のような理解になります。命というものは循環していて、命も大きなものが存在していることを理解しているからこそ特攻もできたわけです。

日本は戦後の植民地政策でスピリチュアルなことが忘れ去られて肉体としての命が第一だと教えられてきたがために気概を失っていますけど、肉体としての命が第一ということは刷り込みがされておりますのでなかなかそれを取り除くのは困難かとは思いますが、ひとまずその同じ前提に立ったとしても肉体より大切なものがあることは理解できるはずですので、少しずつ呪縛から解き放たれてゆければいいと思います。

かと言って戦争が正しいとは思わないですけど、肉体としての命の話は元特攻隊員に聞くようなことではないわけです。肉体の命以上のものを信じて特攻に挑んだ人に肉体の命の話をするなんて見識が軽すぎます。

スピリチュアルをやっている人の中にも戦争というとヒステリーになったりする人がいたりしますけど、そういう人は往々にして戦争で悲惨な体験をされているわけで、それは解放する必要がありますし戦争というのはない方がいいですけど、そもそもスピリチュアル的には戦争を避けることができて、戦争に巻き込まれるような人生はそもそも選ばなければいいので、戦争に巻き込まれているということは本人に何がしかそこから学ぶ必要があるということでもあります。



「有」の静寂の境地に何度も至る

瞑想をしていて、意識がはっきりしてくると「無」の静寂の境地にはもはやならず、常に「有」の静寂の境地になります。

「有」であるということは奥深い意識が常に働き続けていることで、それがベースとなった上で表層の意識あるいは言い換えれば表面に出ている雑多なオーラのザワザワ感が静まって一段階づつ静寂の境地が深まるわけです。

この種の静寂の境地は最初は極端に感じられて「無」とも言える寂静の世界に導かれるわけですけれども、最初こそそれは寂静の世界と思えた世界ではありますが、次第にその寂静の世界に対する見識が開かれてくるとそれは決して寂静ではなく、寂静のように見えつつもそこには微細なざわつき感のある世界になっているわけです。

瞑想ではそれは文字通り「世界」として感じられるのですが、そうは言いましても感じられるのは私の肉体及び意識を中心とした自分自身の世界ですから、最初こそそれは世界として感じられますけど、それは実際には自分自身のオーラの状態なわけです。

元々自分自身のオーラがざわついていて、最初に「無」の静寂の境地に入るときはかなりの「壁」を超えたように感じれますが、やがて「有」としての静寂の境地になってくるとオーラがそれなりに安定していることは普通になってきて、更に少しずつ静寂の境地を深められるようになります。その時、感覚としては同様に静寂の境地として感じられるものの、段階の違いとしてはそれほど大きくなくて、少しずつ深めてゆく感じになります。

最初は「無」の静寂の境地に入っても日常生活で割とすぐに元の状態に戻ってしまいますけど、また瞑想をすることで同様の境地に入ることができます。それを繰り返すうちに安定してきて、次第に静寂の境地が日常生活にまで広がってゆきます。

そうしてベースが出来上がってゆくと瞑想をする時にもより一段階深い静寂の境地に入ることができるようになってくるのですが、そのベースというのはいわば瞑想状態の継続のことであり、比喩的に言えばそのことが「有」になるわけです。その、「有」としての瞑想状態の日常生活における継続、そのことを日常生活におけるサマーディとも表現できるわけですけれども、その、ある程度の覚醒状態が日常生活にまで続いた上で、更に瞑想をすると「有」の覚醒状態・サマーディ状態をベースにしてもう少し瞑想を深めることができるわけです。



サハスララからオーラを広げて自分を卵状に包む

有の静寂の境地に至るということはサハスララにまでオーラが満ちるということでもあります。これらは両方同時に起こります。つまり、どちらか片方が先に起こるというものでもなく、片方が起こると同時にもう片方も起こる、ということです。これらは別々のことではなく、意識の観点とオーラの観点、それぞれから同じことを表現しているわけです。

その状態になるとサハスララにオーラが満ちているわけですけれども、単にサハスララに満ちているだけでなく、そこから体の周囲に向かって卵状のオーラの羽のようなものを作り出します。

これはスピリチュアルやヨーガの世界でよく図式されていることで、特にオーラの説明の図で見ることが多いですけど、サハスララは高次元への入り口になっているのと同時に体を包むオーラの膜を作る重要な起点となっているわけです。

それは地球の地軸と似たようなもので、北極から南極の間には電磁気の線が地球の周囲を通っていてヴァン・アレン帯としてフィールドを作っているのと同じように、人間の体にも電磁気のフィールドが存在しています。

これはスピリチュアルだけでなく科学的な実験によっても実証されていたかと思いますが実際にそのようなフィールドが存在していて、それは特に修行などしていなくても誰にでも存在しているものですけど、サハスララにオーラが満ちるとこのフィールドが強化されるように感じるわけです。

そのフィールドを強くしてゆくと、例えば、体の各所に出来ているオーラ的な「傷」が次第に癒されて傷口が少しずつ塞がってゆくように思います。その傷の周りにはオーラ的な汚れがつきやすくなっているように思うのですが、サハスララのエネルギーが強化されたことによりその汚れが取りやすくなったという効果もあるように思います。

瞑想状態で観察すると、私のフィールドはまだまだ弱くて強化が必要だと感じます。実際のところそれでも昔に比べればかなり強化はしてきてはいるのですけど、まだまだ弱い分類に入るように思います。

単に瞑想をして意識の向上を行うだけでなく、このようなオーラの管理も重要だと感じます。



辛い人生は運命なのかどうか?

スピリチュアル的にそれなりに成長した魂であればそれは自分が課した課題です。

基本的に全ての意識は自分の自由意志が尊重されていて何をすることもできるのですけど、集合意識もありますので好き勝手にすることはできなくて、自分の意識の強さに応じた自由というものが許されているわけです。

ですから、意識が弱い場合は自分が課したというよりは集合意識の側から「役割」として与えられた人生になって、その役割を全うすることが人生の中で求められます。

その上で、「自分はこれは嫌だ」とか「もっとこうなりたい」とか思うことがあるでしょうけど、基本的には元々のスタート地点がそうだったのですから、そのルートからそれほど外れることはないわけです。

そのような意識が弱い人が大半なわけですけれども、その場合は、自分が課した課題というよりは集合意識から与えられた課題をこなす人生になるわけです。集合意識とは言っても自分もその一部ですから一応は自分が決めたということにはなるのですけど、切り離された自分という意識がその役割を果たしている、ということになります。集合意識から分離をしてしまった後は割と個別の意識に包まれて、それ以外の集合意識のことはよくわからなくなるわけです。

もしかしたら自分もそれなりに成長した魂だったかもしれなくても、生きているうちに疲れてよくわからなくなってしまう、なんてことも普通にあります。

自分が生まれた理由を知ることはそれなりに有用で、瞑想で見出すこともできます。

そうすれば、自分に何ができて何が課題かを見極めることができるようになりますので目的に対して迷いがなくなります。

その目的と照らし合わせれば、もしかしたら辛い人生が目的外のことで全く避けるべきことかもしれませんし、あるいは、それこそが人生の目的で正面から対峙して突破すべきことかもしれません。

ですから、元々の目的がわからなければ人生の良し悪しというものは判断できないわけです。

ですけど、そういう、元々の予定というものはあるにはあるのですけど人生というのは途中で変わるから面白いもので、不意に発生した予定外のことであっても突破することができるのならば突破してしまうのが基本は良いように思います。

スピリチュアル的に慣れてくると生まれる前にそれなりに計画して生まれるわけですけれども、その場合でも突発的な変化というものは起こりますし、全く計画通りということはありませんから、トラブル対処というものは常に発生するわけです。

特に障害もない人生は割と初心者の人生で障害があればあるほど上級者向けと一応は言えて、それは基本は地上の生活という観点ではあるのですけど、そのこととは割と独立した形でスピリチュアルの成熟度が絡んできますので、地上の生活に慣れていなくて苦労していてもスピリチュアル的には成熟、という場合もあるにはあるわけです。

ですけど、スピリチュアル的に慣れてくると最初に人生を計画するようになって、人生の所々に「補給ポイント」をあらかじめ設定しておいて、そこで地上生活に必要な補給を行う、というようなことも最初に決めておいたりします。

一方で、それほど地上の生活に慣れていなくてとりあえずこの世界に転生した場合は苦労することが多いようにも思います。スピリチュアル成熟度とは無関係に、誰しも最初の人生は慣れていなくて苦労することが多いのではないでしょうか。



私は光、という実感が強まる

スピリチュアルではよく「私は光です」みたいなことが言われますけど、実際のところ、そのような理屈はよく理解できるのですがそこまで深く実感を伴うということはあまりなかったように思います。

光それ自体は瞑想中に「見たり」「感じたり」ということはしょっちゅう、あるいは、ほぼ毎回しているわけですけれども、私自身が光であるという実感は時々あったとは思いますがそこまで深く真に思い入るということはあまりなかったように思います。

最近、サハスララにエネルギーを上げることにより光が見えるという状態になって、その後、サハスララからオーラを広げて自分を卵状に包むという状態になってきたところで、ふと、自分の頭の上の方から光が差し込んできているような感覚になって、そうしているとふと、体全体が光に包まれた状態になって、「あれ。私って光のような気がする」という感じになってきました。

光とは言っても無色透明で全部消えてしまうというわけではなく、将来的にはそういう感覚にもなるのかもしれませんけど、少なくとも今のところは、光に包まれた実感のある光の存在としての自覚が少し出てきた、という感じです。

自覚とは言っても自我の自覚とは違って奥底の無意識で「そうだとわかる」という感覚で、ふと、気づいたらそうだった、という感じです。

スピリチュアルでの祈りで「私は光です」みたいなフレーズがよく出てきて、表現方法や言葉としてはそれぞれなのですけど多くの祈りでこの部分は一致していて、特に優越があるようにも思いませんので自分に合っていて唱えやすいものを選べばそれでいいのだとは思いますけど、その多くでこの「私は光」という部分が一致しているわけです。

その、多くの祈りで共通の「私は光」という理解と実感とはこういうことだったのかがわかる段階にようやく達した、ということなのかもしれません。

スピリチュアルの段階として、概ね3段階あるいは4段階があります。

・アストラル次元。感情を扱う
・コーザル次元(カーラナ次元)。論理を扱う
・プルシャの次元(個としての神意識)
・全体としての神意識

最後の段階はそうそう達しませんので大体は最初の3段階になるわけですが、このうち、まずアストラル次元では「水」として実感されたりします。白隠禅師の軟酥の法は頭の上から光の水のようなものを身体中に流して浄化するのですけど、ここで「水」として比喩されているということはアストラル次元のお話です。

昔はこの「水」の比喩と「光」の比喩との違いが良くわからなかったのですけど、最近は割と明快です。

「水」はアストラル次元。
「光」はコーザル次元(カーラナ次元)より上、コーザルやプルシャの次元など

水であってもそれなりに光っていて、コーザル(カーラナ)やプルシャになるとそれぞれ光を発していてより光の本筋に近いものになります。

スピリチュアルのワークではこの「水」と「光」が割と混同されていて、時に「水」のアストラル次元だったり「光」のコーザル次元以上だったりするわけです。どちらにせよ実態としては「光」なわけですけれども、段階に応じて感覚が違うわけです。

また、コーザル次元を普段は体感していたとしても肉体を持ってこの地上に生まれている以上はアストラル次元の体も持っていますので、コーザル次元だけになってしまうということはなくて、最初はアストラル次元を主に扱っていて、次はコーザル次元を主に扱うようになりますけどそれに加えてアストラル次元も必要に応じて扱うわけです。

どちらにしてもその本質は「光」であるわけです。



瞑想が深まると1日がとても長く感じる

子供の頃、おそらくほとんどの人は1日がとても長かったかと思います。
年を取るにつれて1日が短くなり、時間が短く感じられるようになり、月日があっという間に過ぎるようになります。それが大抵の人に当てはまるのかなと思います。

無意識で生きていた頃は私も似たようなもので子供の頃は1日が長かったですけどその後に次第に無自覚になり無意識のまま生きる時間が長くなり、結果、月日が流れるのがとても早くなりました。

とは言いましても辛いことがあればその分だけ月日が流れるのが遅くなり、1日がとても長く感じられたこともありました。

とは言いましても、ここで言いたいのは辛いという理由で日を長く感じるとかそういうことではなくて、瞑想が深まるにつれて1日がとても長く感じられるようになる、ということです。

瞑想が深まるということはいわゆるサマーディ状態が継続するということであり、微細な感覚を自覚できるようになります。

そうなりますと、今まで体を動かすにしても無自覚にロボットのように動かしていた状態から自覚的に細かく動かすようになります。

すると、時計の時間の動きはもちろん変わらない筈なのですが意識が認知できる事象が増えて細かく把握すること及び細かく行動することができるようになったが故に、その結果として、1日が長く感じられるわけです。

朝が始まって昼になり、夜になる。

その間、自分の認識というものがどんどんと変わっていって朝と夜とは割と細かいところで別の認識状態になっていたりします。物事に関する認識の変化や、自分自身の健康状態、あるいはオーラの状態などにも変化が現れます。たった1日でも随分と変化があるものです。

そうしてまた翌日、また1日、と過ごすのですが、無意識的に暮らしていた頃と比べると随分と長い1日を過ごしているものだなと思います。

これは、嫌なことがあって1日がとても長く感じるのとは全く違っていて、認知が行き届くが故に長く感じる、ということなわけです。

夜になってその日の朝のことを思えば随分と長い時間を1日で過ごしてきたものだ、と感慨深くなることもあるわけです。

ただ、それと同時に、遠く離れた時間の出来事であっても同時並行で存在していると感じるようにもなりますので、ここで言っているのは遠い時間を想像して感慨深くなるというよりは、ほんのりと見える今日という日を省みて哀愁漂う感覚に似ているわけです。



お金があれば大抵のことができる時代が終わる

スピリチュアルな人はポジティブな言葉でこのようなことを言いますけど、実際には、政治家が庶民に好き勝手させないためにこのように時代を変えてゆきます。

これは瞑想で何となくそうなるかな、と感じていることですので本当のことかどうかはわかりません。

同様のことは江戸時代にも行われましたし、近代になってからも行われました。それは政治家が庶民を家来としてこき使う為に画策するという面もありますし、庶民にあまり好き勝手にさせてしまうと国が乱れてしまうという長期的な観点もあって割とポジティブな考えで行われるという面もあるわけです。

そのうち政治家がお金の価値というものをリセットしますので、前澤友作さんのようにお金を持っているような人の影響力がなくなっていきます。

相対的に家系・血筋だとか物理的なモノ・土地の価値が上がってゆくわけです。

スピリチュアルな人は精神の時代とか良いように言いますけど、実際には、政治家が庶民の自由を奪うためにお金の価値を下げるわけです。

貨幣経済自体は続きますけどお金で好き勝手できないようになります。

これはある意味、良い面もあって、例えば中国が日本の土地を買い漁ることが難しくなったりしますので、日本の土地・文化が守られるという面もあります。

その一方で、お金がいくらあってもそれほどでもなくなりますので自分も好き勝手できなくなるわけです。

お金を儲けて好きに生きたいと思っている人や成功者と言われている人たちには不都合でしょうけど、実際には、ただ単に戦前の時代に戻るだけで、実際にはもちろんテクノロジーや今まで培った土壌がありますので、そこまで不幸にはならないわけです。

コロナ前に日本の土壌を荒らしまくっていた中国系の不動産業者もあまり来なくなり、土地の売買も安定したものになります。

ただ、既に買われてしまった土地は不問になってそのままになってしまう、という面もありますけど、人とモノの流動性がなくなってある程度の比率で外国人が留まるのであれば世代を重ねるうちに日本化していきますので時間が解決すると言えます。

その頃になると、今の時代を思い返して「そういえば、お金があれば何でもできそうな時代が昔はあったな」と懐かしむことになります。

岸田首相あるいはそれに似た政治家が、本人はおそらくはただ単に「庶民の自由を奪って国を好き勝手にしよう」という野心家・あざとい心理からするのですけど、その政策はある意味、中国寄りだったり韓国寄りだったりしてマスコミから人気があるためにテレビ・新聞で叩かれずに国民の人気は高い状態が保たれ、実際にはただ単に支配したいだけで、保守層からは叩かれるわけですけど、マスコミが応援してある程度の人気が保たれるために極端な政策も取れてしまう、という状況になるようですね。

その流れで、お金の価値をある意味リセットする政策が行われ、特にお金持ちをターゲットにして資産の凍結に近いことが行われますので、おそらく10億円以上の資産を持っている人が狙い撃ちにされるような気も致します。

それは酷いことではあるのですけど共産主義が資本家を攻撃したようにまさか日本で同じようにお金持ちが悪者にされてマスコミも同調してお金持ちを糾弾するという状況になるわけです。そうして資産持ちの資産の没収が世論として受け入れられて実行に移されるわけです。

こんなことをすると海外に逃げられてしまうのでは、とか、金とかの現物に変えられてしまうのでは、思われるかもしれませんし、既に大金持ちはそうしているわけですけれども、日本へのお金の流通がより厳格に管理されてゆきますので大きなお金を動かしにくくなるわけです。それに、海外の資産もその国でリセットされたりしますからどこにお金を逃していいのかわからない混乱した時代になるように思います。海外の資産が突然凍結、ということも起こるようです。日本だけで起これば大変なことになりますが今のコロナのように世界的に同調して行われるようです。

結果、土地の価値が高まって不動産など現物に資産が流れ込みますが、それを見越す形で不動産の取得税も今より高額になって、おそらく40%とか50%とかになって流動性が下がるように思います。

ただ、時代にしても、庶民にしても、そう簡単に思い通りに動かないわけです。段階的に変わってゆきますし、人の方にしても、政治家の思い通りに貧乏に甘んじるということはなくて、時代の変化を察知した人は、お金というものの価値を相対的に低いものと見るようになって、現物の価値あるいは人付き合いの価値というものを高めてゆきます。

その結果、政治家は貧乏人を増やして労働者を増やしたかったのかもしれないですけれども実際にはそれほど働かなくても普通には生活できる人が増えて、政治家の思惑とは逆に、生活にゆとりのある時代がやってくるわけです。それでいてお金を持った外国の勢力の侵略も防ぐことができるようになります。

それはある意味、政治家の思いもよらない結果でもあるわけです。日本人は表面上は従順に従っているように見えて、しっかりと正しい選択を個々がすることで時代が変革するのだと思います。政治家が時代を動かすという面もありますけど、日本人の個々の選択が新たな時代を作り出すわけです。

お金持ちになって好きに生きたい人たちにとっては生き辛い世界になると言えなくもありませんけど既に元々それが変わるわけでもなくその悩みはそのままですので、困るのは今の資産持ちだけで一般大衆にはそこまでの変化はなく、変化の結果としてスピリチュアル的に少しだけ漁夫の利を得る形になるわけです。

これは瞑想をする中で将来はこうなるかな、と漠然と感じていることですので、特にそれ以外の根拠があるわけでもありません。ただのメモ書きになります。



意識は与えられているものであることを理解する

普通の状態、瞑想がそれほど深まる前では人の意識というものは雑然としていて混乱しています。その状態では雑念が次々に湧き出て例えば考え事や想像、あるいは自己批判のループに陥っていたりします。

そのような状態では心が休まることがなくて常に疲れた状態になっているわけですけど、瞑想をするにつれて心が静まっている状態が増えていきます。心が動いていない状態が静まった状態でありリラックスできる状態なわけです。

そのように心が鎮まるというのが第一の段階であるわけですけれども、その状態というものが更に深まってゆくと静寂の境地になり、心が文字通り水面のように静かになっていることを体感します。

実際のところ、この状態の解釈は顕教と密教あるいはヴェーダンタやチベットのゾクチェンなどでは解釈がそれぞれ異なっています。

顕教:心が静まった状態を増やしてゆくことで解脱する
密教:思念を変容させることで解脱する
ヴェーダンタやゾクチェン:心が動いていてもいなくても同じと考える

ヴェーダンタでは心を超えたものをアートマンあるいはブラフマンとか呼んでいたりしますけどそれは全体の一部あるいは全体そのものであり、それと(おそらくは)同じことをゾクチェンで心の本性(セムニー)と言っていたりするわけです。

心が静まってリラックスするだけでも十分に瞑想の効果としては十分なのですけど、その心の静寂が深まると、やがて、心がない状態というものが何なのかを理解するようになってきます。

ただ単に表層で心の静寂、寂静になっているだけでなく、その奥底が見えてくるわけです。

その奥底が見えた瞬間、心というものが単に静寂になるだけでなく、心の中にポッカリと穴が空いたようになってその空いた穴から底が見えることによって心の限界が一時的にでも取り払われ、心あるいは意識というものが与えられたものであることを理解するわけです。

その瞬間はただ単に静寂の境地でリラックスしているのとはかなり違いますけど、土台としてはその静寂の境地のリラックスがあって、その状態が深まることで静寂の境地の中、真ん中、真正面のすぐ下、斜め下の空間にポッカリと穴が空いて、その奥底が見えるのです。

そして、その瞬間、静寂の境地にあってもまだ存在していた自分の「心」というものがその部分だけ全くないことに気づくのです。

静寂の境地それ自体でも自分の心というものはかなり薄くなっていて半透明になっていてそれなりに浄化されていますけど、このように正面に穴が開けてくる状態ではその穴の部分には自分の心がないことに気づいて、まだ自分の周囲や体に近い部分には心というものがありますけど、穴が開くことで心がない、という部分がわずかながら理解できるわけです。

そして、それと同時に、自分の心というものが与えられているものであることを理解します。

元々、自分の周囲に見ていたものは全て私の意識を通して見ていたものであり、そこには必ず私の意識というフィルターが存在していたわけですけれども、少なくともその穴の部分に関しては私の意識というものが存在していないわけです。

それを見ている自分の意識は元々あって、静寂の境地ではサマーディとしての観察の意識は続いていたわけですけれども、その穴が開く瞬間、私のサマーディとしての観察の意識も含めて無限の深淵に同化してしまってサマーディの観察するヴィパッサナーの意識も含めてほぼ完全に消えてしまいます。

まだ少し残っている私の意識は、「ああ、このまま死んでしまうのかな・・・」と思ったりしつつ、それでも、少なくとも今のところは完全に意識がなくなってしまうことはなく、少しすると意識が戻ってきます。

これは次のような変化を経るように思います。

0.(瞑想を始める前の)雑多な意識の状態
1.集中のゾーン状態
2.静寂の境地、サマーディ(三昧)のヴィパッサナー(観察)状態。観察が常時継続する状態
3.心が消え去る状態

瞑想というものは雑多な感覚から無、そして有に至るわけですけれども、その先に、心が消え去る状態があるわけです。

最近はそれを度々体験していて、心を超えた世界を垣間見ると、私という意識は与えられているものだということがわかるわけです。



創造の意識が持続する

約1年前から胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきたわけですけれども、ここ最近は割と落ち着いたもので、少し状態が昔に戻ってきた感じがしておりました。

この種の「戻る」感じは度々起こっていたことで、マニプラ優勢からアナハタ優勢になる前もどこか似たような停滞感を感じていたわけですけれども、これはおそらくは停滞というよりはスポーツや武道および勉強などで言われている一種のプラトー状態なのかと思います。そしてプラトー状態が少し続いた後に一気にレベルアップする筈で、今まではそんな感じでした。

ですので、この種の停滞感はポジティブな面として捉えています。

ここ1年ほどで創造・破壊・維持の意識が表れてきてそれが割と普通になってからは、それがどこかへと消えてしまってなくなったかのような感覚になっておりました。半年くらいはその感覚がはっきりとわかったのですけど、ここ最近はそのような意識を明確に感じなくなり、少し戻った感じになっておりました。

そこにきて、ふと、静かな形でぽっかりと穴が空いたかのように深淵が見えて、そこに至ると何もなくて、心が消え去ってしまう状態になってきているわけです。

それは、元々は一時的あるいは急激な変化という形で創造・破壊・維持の意識として私は認識したわけですけれども、1年前に急激な変化が来て、その同じ変化ではあるのですけどある程度の安定状態になって、その同じ変化が安定した形で更に深まったのかな、と解釈しております。

ですから、1年前は急激に来たからこそ創造・破壊・維持として認識されたわけですけれども、今は安定しておりますので、同じ意識ではあるのですけど、面としては創造の意識が強く感じられます。

それはエネルギーであり、全ての根源でありますから破壊や維持もあるのですけど、それよりは、創造という面が表に出ているように思うのです。

確かに破壊や維持という面もあって、それは一時的に表れはしますけど、それよりは創造というのが実情に合っているような気も致します。

今後、瞑想が深まるにつれて違う面も出てくるのかもしれませんけど、今の状態としては平穏な静寂の境地から更に深まって深淵の「穴」を垣間見て心というものが消え去りますので、働きとしては破壊と言えなくもありませんけど、それよりは、エネルギーの本質としては創造であるように思います。



何だろう、と思ってもすぐに「知りたい」と思わない

子供心、探究心あるいは出来心で「何だろう」と思うことは多々あるとは思いますが、その時、何に対して「知りたい」と思うのかを選択的に意識的に行うことは重要で、闇雲に「知りたい」と思わないことが重要です。

この時、「知りたい」と思ってそれがある程度高まった時にカルマの歯が回り出し、現実化に向かいます。

何かを知りたいな、だとか、何かの職業に就きたいだとか、その種の願望はこの「選択」が最初のトリガーになります。

そのトリガーが発動する前の「何だろう」という段階でやめておけばカルマは動き出しません。

ですから、「何だろう」と思ったときに、それを知りたいかどうかをまず判断して、「知りたい」と思うかどうかを選択的に行うことが必要なわけです。そのためには意識的な人生にする必要があって、無意識が生活の大半を占めているような生き方ではその種の「知りたい」という選択すらも無意識でおこなってしまって、カルマの歯が回り続けることになります。

とは言いましても大抵の人の人生はそんなものですのでそこまで気にする必要はないのですけど、カルマの歯車から抜け出したいと思うのであればまず意識的になってこの種の「〜したい」という願望から逃れる必要があるのですけど、それは大雑把に言えば「願望」ということでありますけど、それは本来は願望というよりは「選択」なわけです。意識で「〜したい」という選択がまず行われてそして「願望」というより具体的な形へと変化するわけです。ですから、最初にまず「〜したい」という選択を行わなければ願望も表れてこなくて、カルマの歯車から逃れることができるわけです。



知る必要があるのかどうかをまず考える

何だろう、と思ってもすぐに「知りたい」とは思わないことがスピリチュアル的には重要なわけですけれども、世の中のマーケットや他人から何かを奪いたい人はこの辺りの仕組みをうまく活用していて、「何だろう」みたいな不思議から始まって他人に消費を自発的にさせたり、あるいは、他人から何かを奪うようなことをあたかも自発的にさせたりするのです。それは操作とも言えますけど割と最近はこの種の手法は洗練されていて本人は自発的と思っていても実際にはマーケターの計画に従って消費させられていることがかなりあるわけです。

あるいは、他人から何かを奪う際に執拗に何かを主張して「〜はすごいだろう」ということに対して同意させるということを行います。その種の「理解の同意」に関してはなかなか否定することが難しくて、特に田舎や家族あるいは親戚あるいは学校の付き合いのような閉ざされた社会においては付き合いでその種の「同意」が半ば強制されることがあり、その同意さえ取れてしまえば「それなら、〜したいだろう」というところまで階段が用意されているわけです。そこまで来れば他人から消費を引き出したり他人から何かを奪いたい人にとっては好都合で、あとは「〜したい」という他人の欲望に何度も何度も働きかけていけば他人の中にその感情が高まって願望になりますので、そうなったら他人が思う通りに動くわけです。そうして他人のものや財産を手に入れることができる、という構図になっています。

これは短期的には販売員の手法としても使われているわけですけれども、直接的には広告という形あるいは中長期的にはマーケッティングという形でこの社会に浸透しています。

それは「何だろう」という疑問から始まって「〜知りたい」というところまで来ると願望になり、その後に待っているのは「消費行動」なわけです。

身近なところでは何かを買わせたい近所のズル賢い商売人だとか、他人から奪いたいだけの五月蝿い家族の一員、あるいは親戚などがこの種の行動を取ったりします。その種の人たちはまず「〜何だろう」というところから始めて「〜したいだろう?」というところまで執拗に話しかけてきて同意を取ります。後は上記の通り、最後の「消費」行動あるいは何かを「渡す」まで、それはつまりズル賢い人が奪う、ということですけど、それをターゲットがあたかも自発的に行うまでそのマーケティングを執拗に繰り返すわけです。

その最初が「知りたい」という点であり、「何だろう」と思っても「知りたい」と思わないことが現代においては重要なわけです。

もちろん、知る必要があることもありますから、そこは選択的に行うということです。知る必要がないことを、他人が「これ何だと思う?」とか「凄いだろ」とか言ってきたとしても、それを知りたいと思うかどうかは自分の判断次第ということです。

まず最初に「知るべきかどうか」「知る必要があるのかどうか」を判断する必要があるわけです。



ウイグルと漢民族のどちらが悪いのか

数日前にアメリカでウイグル強制労働防止法が成立して120日後から施行されるとのことですけど、その背景にはウイグルで強制労働だけでなく大量虐殺をしたり夫を処分した後の女だけの家庭に漢民族の男を送り込んで漢民族の混血の子を作らせたりとやりたい放題なわけですけれども、この種のお話は単純に片方が被害者で片方が加害者と言い切れない部分があります。

とは言いましてもこれは瞑想中に降りてきたことですので本当のことかは分かりません。

史実を見てみても古くはジンギスカンの時代より遥か昔から延々と漢民族は北方の騎馬民族の脅威にさらされていて、有名な万里の長城も北方の騎馬民族の侵入を防ぐために作られたものでしたし、昔から漢民族だけなく中国本土とモンゴル方面との争いは続いていたと言えます。

そして、時代によっては北方民族が支配したり漢民族あるいは他の民族が支配したりという歴史を繰り返したことによりカルマが積み重さなっている状況のようです。今の時代は漢民族が支配しているけれども、将来的にはウイグルがまた優勢になる時代も考えられるわけで、その時に今度は逆のことが起こる可能性が大いにあるわけです。放っておけばそのようにお互いに相手を虐殺し合う関係が中国の各民族とモンゴルの間でカルマとして積み重なっているようです。

その関係に終止符を打つには、瞑想中に明らかになった答えとしては「どちらかが最初にダルマ(良い行い、正義、秩序)に目覚める必要がある」とのことでした。そして、最初に目覚めた方が正しい秩序ある状態に導いてお互いの不和を解消してゆくことが肝心である、とのことです。

ダルマとはインドや仏教で教えられている宇宙の法と秩序のようなもので、インドの物語ではよく王様をダルマの化身、秩序の象徴として例えられることがあります。そのように、いわば公平な法を司ることがダルマであって、それにどちらか片一方が目覚めることによりこのように一方がもう一方を虐殺するような状況に終止符を打つことができるとのことです。

このようなカルマの循環がなされている状況ではどちらか一方を罰するということはできなくて、直接的に罪を問うことができるのは今現在の加害者である中国政権側で被害者としてはウイグル側であるわけですけれども、現代の法制度で問うことができるのはそこまでで、それをするのは直接的には必要なことではありますけど、それだけだと、安全になったウイグル側が勢力をつけて今度はまた逆のことを行う将来の可能性もあるわけです。

その時、今度は勢力的に優位に立っている側がダルマに目覚めてくれるかどうかが鍵になるわけで、勢力の入れ替わりは時代を経るごとにサイクルが繰り返されますけど、ダルマに目覚めていなければまた虐殺や混乱に戻ってしまって加害者が今度は被害者になるわけです。

今の直近では加害者が中国政権側で悪いのはもちろん共産党側ですけど、中期的に見るとどちらも加害者になり得るわけです。

そのサイクルを止めるためにはダルマに目覚める必要があって、目覚めるのはどちらでも良くて、今加害者で悪い側である中国共産党であっても良いわけです。テレビのドラマや映画とかですと被害者の中からヒーローが現れるというのが定番になっていますけど、実際のところ、ダルマに目覚めるのはどちらでも良いのです。

いま加害者で悪いことをしていてたとしても、このようにカルマのサイクルが回っている状態ではどちらが良いか悪いかということはダルマに目覚めるという視点からすればあまり関係がなくて、どちらであってもダルマに目覚めた人が国を収めるあるいは国を収めている人がダルマに目覚めることでカルマのサイクルから脱却してゆくようです。

そういうこともあり、今現在も、神様やライトワーカーは中国共産党の幹部などに積極的に介入しているようです。

これはやもすれば加害者側に加担しているのではと思われる人もおられるかも知れませんけどそうではなくて、結局のところポイントとなるのはダルマに目覚めた人が国を収めるかどうかの点であって、であれば、既に国を統治している人をダルマに目覚めさせる、ということも十分に選択肢の1つになるわけです。



背中からハートに繋がるハイヤーセルフ

本をパラパラとめくっていたところ、このような図が目に飛び込んできました。


「プレアデス覚醒への道」より

このページには「6次元のハイヤーセルフから伸びてきて...」と説明があります。

私が約1年前に創造・破壊・維持の意識を感じた時、それは「背中から」近づいてきてハートの中に入っていきました。実際のところ、この種の説明はこの書物以外ではほとんど見たことがなくて、背中から入ってきたこれは一体何なのだろう・・・? と思っていたのですが、ふと記述を見つけて、入ってきたのはハイヤーセルフだったのかと妙に納得しました。ただ、次元数は何なのか良く分かりませんけど。

背骨沿いの上下のエネルギールートのお話はよく耳にして、いろいろな書籍、ヨーガですとかスピリチュアルなどで頻出していますけど、このように「背中」のお話はほとんど見たことがありませんでした。

この書物それ自体は以前から所持していたのですけどこの部分は割とスルーしていて、ふと見てみたらこのような図があって驚いたのです。その記述によりますと、まず、頭頂や松果体が活性化すると次にこのように背中からハートに対してハイヤーセルフと繋がるとのことです。このワークにはもう一段階あって、会陰・お腹、そしてハートのつながりを感じてエネルギーが入ってくるようにします。

実際のところこの流派の教えを受けたわけではありませんので全く同一ではないのかもしれませんけど、内容的に似通っていて、とても興味深いお話であります。

この種のお話って、ワークに参加してもガイダンスがあるだけで、ガイダンスを聞いてなんとなくそれっぽい気になって「そんなものなのかな?」と漠然としてしまうことも多いと思いますけど、実際のところ、この種のお話ははっきりとした実感を伴っていて必ず「それ」とわかる確信に満ちたものがありますので、時にはちょっと勘違いした別物の確信だったりすることもありますけど、確信違いの場合を除けば、基本的にはこの種は確信を持ってして成し遂げたとすべきで、なんとなくセミナーで言われて「できた」と思わない方がいい種類の事であるように思います。

この種のお話は本で読んだりワークでガイダンス受けたとしてもすぐに腑に落ちないことも多々あって、そういう時は「そのような状態や変化もあるのかも知れない」と一旦は判断を保留にすることが重要で、自分が体感できないからといって嘘とは限らなくて、単に自分に準備が整っていないだけの場合も多々ありますので、真理の言葉は鵜呑みにはせずに自分で理解して体感して腑に落とすことが重要として一旦は判断を保留することが重要に思います。そこまで真面目に考えなくても、スピリチュアルのお話は多岐に渡っていますので、良くわからないお話は(否定はせずに)一旦はスルーするくらいでもいいと思います。



象と盲目の人、の譬え話

「盲人と象」あるいは「群盲象を評す」というインドで有名な昔話があります。このお話は仏教経由で日本にも広まり、多くの人がことあるごとに引き合いに出しています。

簡単に言いますと、何人かの盲人が象を触って「象とはこういうものだ」と口々に言うのですがそれは象の一部分しか表しておらず実際の象の姿とは異なる、と言うお話です。部分を持ってしてそれがあたかも全体であるかのように語る盲人は全体像が見えていない、というお話で、それを引き合いに出して、特に宗教者が自分達の教義を説明する時に使うことがよくあるわけです。

私自身もこのお話を30年以上前から度々色々なところで色々なニュアンスで聞く機会があったのですが、最初こそ「ふむふむ」と単純に納得していたのですが、次第に、言う人によって様々なニュアンスがあることに気がつきました。

大きく分けるとそれは2つで、

・(該当宗教の)権威付けのための引き合いにしている場合
・部分であっても真理であるから小さな真理を積み重ねれば全体としての真理に至ると言う例え

前者の場合、該当宗教団体の教祖などが有難い教えを享受するから有り難く受け取るべし、と言う形で表現されることが多くて、それを聞く人は単純に「そのような真理を聞くことができて私はなんて有難いのでしょう」と感謝を持って聞くことになります。その感謝はどちらかというと宗教的な感謝で、やがては盲目的な信仰に繋がってゆくものです。やがてその考え方はエスカレートして、該当宗教の教えは一般庶民には理解できない崇高なものであるという権威付けが強化され、盲人である一般庶民の理解と崇高な教えを受けた教団の人々の理解の間に断絶があって、教団員は象の全体を知っているが一般庶民は盲人のように部分だけを見て全体の真理を語っている、というように解釈されます。

このように、前者の方には断絶があり、宗教団体や教義を権威付けしようとする人たちがよく用います。

後者は部分であったとしてもそれは真理の一部を言い表しているのでそのような探求を続ければやがては真理の全体に至る、というお話です。

実際には、これら2つは重なっていて、完全にどちらか一方、というお話にはならないのですけど、場合によってどちらに重きを置いているのか、あるいは、途中まで片方に重きを置いていたかと思ったら急に話をすり替えてもう片方のお話になっている、と言う時もありますので注意が必要です。

前者には断絶があり、後者には断絶がない、と言うこともでき、これらの2分類から更に分化することもできます。

1.断絶あり → 神は不可知とする考え方
2.断絶あり → 神は認知可能だが難しい、とする考え方
3.断絶なし → 神・真理は緩やかに段階的に認識する、と言う考え方
4.断絶なし → 神は存在しない、自らの認知が全て、という考え方

1.断絶あり&神は不可知、の場合は知ることができないのですから信仰だけがそこにあります。
2.断絶あり&神の認知は難しい、とする場合は宗教団体の教祖など選ばれた人、あるいは修行をすることで神の認知をする、というお話になったりします。それにより宗教団体の権威が強化されたりします。一応は万人に神の認知の道は開かれていますけど断絶があって難しい、という考え方です。
3.断絶なし&緩やかな認識、の場合は万人に神の認知が開かれていて、ちょっとの認識を繰り返すことでやがては心理に至る、と言う考え方です。この場合、宗教団体の権威付けはしにくくて、神の経験は個人的なものになります。これが、この象の譬え話の解釈として一番適当に思います。
4.断絶なし&神は存在しない、と言うのは無神論者のお話ですからここでは話をしなくていいと思います。

この種の譬え話を聞くときは注意が必要で、話し手のニュアンスによっていかようにでも変わってしまうものです。

そもそも、私の理解では、この譬え話は真理の全体を説明するものではなくて、インドのヴェーダンタの説明において「全体」としてのアートマンとそれを認知する際の人間の限られた五感を説明するためのもので、広く一般的に理解されているような真理の全体というお話ではなかったように思うのです。

とは言いましてもこれは古い譬え話ですから本当のところで最初にどのような意味だったのかを確かめることはできませんけど、元々の出所を見ると、どうも、ヴェーダンタのアートマンの説明が世間に広まって一般的な真理のお話として広まった、と解釈するのが適当に思います。

アートマンのお話であれば、それはただ単に認知のお話をしているだけですので権威とかは全く関係がなくて、単に認知できるかどうかのお話です。それであれば普通に理解できるのですけど、象のお話は往々にして権威と結びつきやすく、聞くときに注意が必要に思います。



6次元のハイヤーセルフを身体中に満たす

胸にある創造・破壊・維持の意識はいわゆる6次元のハイヤーセルフのことだったようで、そのハイヤーセルフを身体中に満たすと意識の面でも変化が起こります。

ここで言う次元数は該当図書の言う次元数で、実際のところ何故に6次元なのかは私にもそこまでよくわかっているわけでもありませんけど、とりあえず6次元としておきます。

そのハイヤーセルフはおそらく次元を超えているわけですけれども、それでも体感としては肉体の各部位と言う「場所」の属性も持っているわけです。6次元と言ってもこの世とは全く関係のないどこか遠くの場所に存在しているわけではなくて、その次元のうち現在のこの次元と重なり合う部分があるのだと解釈しています。

そのように、ハイヤーセルフにも「場所」という属性があるわけですけれども、ざっくばらんに言うとそれは「オーラ」として認識されます。それも、割と「漆黒」のオーラとしてハイヤーセルフは認識されるように思います。

そして、それをこの次元の感覚で解釈すれば創造・破壊・維持の意識として感じられ、そこには創造だけでなく破壊などの儚い部分も同時に存在しているわけです。

その漆黒のオーラを体の各所に満たすようにすると、意識の面でも変化が現れます。

腕などに通しますとその部分に意識が通って、より細かな感覚や動きを把握できるようになります。

頭に通しますと意識が一層クリアになり、視界や思考がより高速に細かく認知できるようになります。

これをしなくてもクンダリーニのオーラを頭に行き渡らせればそれなりの静寂の境地になりますけど、この漆黒の創造・破壊・維持の意識、それはハイヤーセルフの意識であるわけですけれども、それは胸、特に背中の方から私の今の肉体の体と繋がって、クンダリーニのエネルギーとも徐々に統合されるわけですけれども、その、胸のハートから広がるエネルギーが体の各所に行き渡ることで変化が現れるわけです。

単にクンダリーニのエネルギーを体の各所、特に頭に浸透させるだけでもそれはそれで有用で静寂の境地になり寂静になって般若を得たかのような感覚に一応はなりますし、それはそれでとても重要な一歩かとは思いますけど、このハイヤーセルフの意識はそれを一段階超えているように思います。

クンダリーニのエネルギーを満たすだけでも静寂の境地であることは間違いないわけですけれども、クンダリーニのエネルギーの場合は意識にノイズがまだ乗っていて、ハイヤーセルフの意識ではそのノイズがかなりのところで取り払われますので、ハイヤーセルフの意識こそが静寂の境地、寂静の世界というのに相応しい気も致します。

とは言いましても、次の世界を知るまでは知り得たところまでが最上でありますので、クンダリーニのエネルギーが経験した最上であればそれが静寂の境地ということになりますし、これから更に深い静寂の境地を経験するかもしれませんので、このハイヤーセルフの意識すらも相対的なものなのかな、と思っております。



子供に「心が自分」と教えない

一般的には「自分とは心」と信じられていて、親や学校などではそのように教えられていると思います。

実際のところ、ヨーガなどでは心は「道具」と教えられていて、心は「自分」が使う道具に過ぎないわけです。

ここに、とてつもなく大きな認識の違いが存在しています。

心が自分だと教えられた場合、例えば酷い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとして、その考えが心の姿という解釈になりますから自分というものがそのように醜くて卑猥な存在であると認知するようになるのです。

一方で、心は自分ではなく道具だと教えらた場合、醜い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとしてもそれは五感の拡張でしかなくて、例えば目に醜い言葉や卑猥な言葉が不意に飛び込んできたり、あるいは、道を歩いていたりテレビを見ていた時に酷い言葉や卑猥な言葉が聞こえてきた時と同様、ただ単にそのような言葉が頭に浮かんだ、キャッチされた、と捉えるわけです。

これらの間にはかなりの違いがあって、学校で「心は自分」だとか「我思う故に我あり」だとかいう言葉を表面上の説明で教えられてしまうと次第にこの社会生活の中で自分が酷い人間だと思うようになり、自己嫌悪に陥ってしまうことになります。

それから逃れるためには主に2つの道があって、1つはよく勉強して真実を理解すること、もう1つは、あまり深く考えずに直感に従って生きることです。

割と多くの人がこのどちらでもなくて、ただ教えられた通りに解釈して頭を混乱させて生きているように思いますけど、その根本を辿れば、このように「自分」と「心」というものに対する理解が最初から食い違っているところに原因があるように思うのです。

直感に従って生きる道は割と女性向きでスピリチュアル的な考え方と言えなくもありませんけど、同様に直感に従うことで反抗期のようになったりもします。直感に従うことで自分の本性が出ますから、単に教えられたことに従うことを辞めた時にどのような生き方が現れるかはその人の精神性の根源に依存するわけです。

それなりにスピリチュアルな基礎がある人が直感に従って生きるようにしたならばそれなりの落ち着きを持った生活になりますけど、基礎がないのであれば社会の道を踏み外すことも考えられ、そうであればもしかしたらコントロールされて生きていた方が幸せだったかもしれません。

一方で、何かおかしい、と気づいて勉強して真理を見出す人もいるでしょうけど、それもまた大変なお話のように思います。

どちらにせよ、「心が自分」などという間違った考え、おそらくは教えている大人や学校の先生であってもそのことをよく分かっていないようなお話をおいそれと子供に教えるべきではないと思います。それにより自分がよく分かっていないことを子供に教える罪というものを大人や学校の先生は背負うことになるわけです。

子供はそんなことよりも自分のなすべきことである勉強をしたり心身を鍛えたり心を落ち着かせたりと言った実践的なことをすべきで、「心が自分」などという、実は間違っていて大人自身にとってもわかるようなわからないようなお話を教えるべきではないと思うのです。

何かを教えるのならば日本であれば仏教的な教え方もできるでしょうし、近くのお坊さんを呼んできても良いでしょう。あるいは色々な考え方を紹介して「心が自分」という考えだけでなく「心は道具」という考え方も紹介しても良いとは思いますけど、そのように幾つも教えても子供は理解せずに1つだけが頭に残るということも多いですので、そのことはお坊さんに任せるとか、あるいは、どうせ教えるなら「心は道具」という考え方にしておく方が良いと思います。その方が子供が自己嫌悪に陥らずに済みます。

学校の先生は、子供が荒れている理由がよく分からない、みたいなことを言いますけど、その原因の1つがこのことだと私は思います。「心は道具」と教えるだけで子供の心は穏やかになっていって理知的になって思考力も格段に上がります。そのくらい重要な知識であるのに、何故か、学校の現場では「心が自分」などと言った、実際はその考え方はただ単に1流派の考え方に過ぎないのに、何故か「心が自分」こそが絶対的に正しいかのように学校で教えられているが故に、その間違った考えを教えているが故に子供が混乱して学級崩壊などに繋がる一旦になっていたりするわけです。



ハイヤーセルフのエネルギーは「半歩」に妨げられない

クンダリーニのエネルギーが後頭部を通ってサハスララに抜ける時、ルートとしてはいわゆる半歩を超えてエネルギーが上昇します。ですから、クンダリーニの場合は直線的にエネルギーが行き渡るのではなく、ある程度のルートを通って行き渡るわけです。

クンダリーニのエネルギーは意識で操作することができて、意識を使ってまずは眉間に集中するわけですけれども、眉間に集中するのと同じ意識を使って後頭部及びその手前にある「半歩」を抜けてサハスララに上昇するわけです。

そうは言いましても、部分的にはそのルートを通らずにそのまま直進して上昇するエネルギーもあって、今まではそれが何なのか区別がつかずにいました。無意識のエネルギーはルートに妨げられずにスッとサハスララにエネルギーが、文字通り「いつの間にか」上昇していたように思います。

日によってはエネルギーがルートや壁に妨げられずにそのままサハスララにまで上がる場合もあったわけですけど、割合で言いますとそれは少なくて、大抵の場合はルートを通ってエネルギーが上昇していたように思います。

特に無意識になっている時にはルートに左右されない気がしていましたので、違いとしては、意識を使ってエネルギーを上げるか無意識を使っているか、という点がポイントだったように思います。

今まではそのように、無意識でふとした拍子に上がる、という感じでしたが、最近は、今まで無意識に近いところで上げていたハイヤーセルフのエネルギーも意識的に動かすようになってきました。

過去の記録を見ると最初から自分の意思でハイヤーセルフのエネルギーも動かせたような感じですけど、最初こそそれを試したものの、その後は、そもそも動かすというところをそれほどしていなかったと言いますか、動かすことを意図していなかった、という感じでした。

最近になってふと気がついて、このハイヤーセルフのエネルギーをそのまま動かせばいいのでは? とふと気がついて、やってみたら「半歩」や後頭部のルートに妨げられずにスッとエネルギーがサハスララにまで上がりました。

実際のところ、この違いは何だろうか、という点に関して、そこまで気にしていたわけではないのですけど、最近になってクンダリーニのエネルギーとハイヤーセルフの違いを明確に意識するようになってきています。元々違うエネルギーの質ということは気がついていたわけですけれども、そこまで分類していたわけではありませんでした。

同じクンダリーニの一種かな、というくらいに理解しておりましたが、昔からあったエネルギーでエネルギーのルート(ヨーガでいうところのナディ)を通るのはクンダリーニで、ナディとは関係なく身体中に満ちることができるのがハイヤーセルフのエネルギーのように思います。

妨げられずに上昇するエネルギーはハートにある創造・破壊・維持の意識、それは言い換えればハイヤーセルフの意識のことで、それは基本的に胸の周りにあるわけですけれども、その同じエネルギーを腕ですとか頭頂のサハスララにまで意識で広げて浸透させることを意識すればナディに妨げられずにエネルギーが浸透し、それによりクンダリーニがサハスララに上昇した時とはまた違った静寂の状態に至るわけです。