心の歌の聞こえ方
先日のハヌマーン神の歌の聞こえ方もそうですが、特に瞑想中、あるいは普段の生活においても、心の声や歌の聞こえ方が「離れて」聞こえる場合と内なのか外なのかよくわからずに共振しているように聞こえる場合とがあります。
例えば、先日の瞑想中のハヌマーン神の場合は視覚的に見えて聴覚的にも聞けましたが、「離れて」認識されました。
これは夢と同じような見え方ですね。
一方で、散歩中にハヌマーン神の歌を思い出していたらふと昔はどんな曲を聞いていたかなと思いついてMisiaや浜崎あゆみの歌を思い出したのですが、最初は「離れて」認識されたのですが昔のことを思い出すと内と外のない「共振」状態になったり、その状態が交互に入れ替わったりして、状態の変化を感じました。そういえば昔は割とこの共振の聞こえ方が多かったのですが、最近は「離れた」聞こえ方になっていた、という変化を認識したのです。
「離れて」聞こえている場合はその相手の波動に飲み込まれまれませんが、共振している場合は飲み込まれます。
物事をしっかり見極めるには「離れる」見方が必要ですね。共振してしまうと感覚が飲み込まれてしまいます。
なんとなくですけど、おそらくはエネルギーが高まっているときは「離れた」見方ができますね。
エネルギーが落ちるとオーラの境目が曖昧になって「共振」状態になりやすい気が致します。今回の場合は昔のことを思い出して波動が一瞬落ちると同時に共振状態に落ちて、意識を戻すと「離れた」状態に戻ることが認識できました。
その違いは、おそらくですが、オーラの伸ばし方にも関係しているような気がしてきました。
オーラを対象物に「線」で伸ばすと「離れる」見方になるような気がいたします。このオーラについてはいつしかオーラとカフナ式みたいなお話をした時と関連しています。
一方で、オーラを「太く」全体的に楕円のように伸ばしていくと共振してしまうような気がいたします。原理的にはその部分のオーラが一緒になり過ぎてしまうのだと思います。
「線」で伸ばすと相手のオーラと多少は混ざりますが「離れて」いますので相手のことが分かる一方でそれほど飲み込まれないのだと推測しています。
このオーラの使い方、まだまだ奥が深そうですね。
基本的にはオーラをあまり混ぜたくはないですので、なるべく細くオーラを伸ばすにしても多少は混ざってしまいますが、どうやら指向性の波動だけ送ったり受け取ったりすることで心の声や歌および相手の状態がわかるかもしれません。もうちょっとこの辺りを探ってみたいですね。
どうやら、オーラを接触させて混ぜて相手のことを知ることができるのはそれはそれとして手法としてはあるのですが、波動だけ読み取ればいいのかもしれません。
あるいは、私が勘違いしているだけで、波動と言ってもオーラの更に微細な部分な部分というだけでオーラの一種だとすれば、最初はオーラをガッツリ混ぜていたものが、慣れるにつれてオーラの微細な波動だけ見れば済むようになるのかもしれないですね。
このあたりは更に様子を見てゆきたいと思います。
例えば、先日の瞑想中のハヌマーン神の場合は視覚的に見えて聴覚的にも聞けましたが、「離れて」認識されました。
これは夢と同じような見え方ですね。
一方で、散歩中にハヌマーン神の歌を思い出していたらふと昔はどんな曲を聞いていたかなと思いついてMisiaや浜崎あゆみの歌を思い出したのですが、最初は「離れて」認識されたのですが昔のことを思い出すと内と外のない「共振」状態になったり、その状態が交互に入れ替わったりして、状態の変化を感じました。そういえば昔は割とこの共振の聞こえ方が多かったのですが、最近は「離れた」聞こえ方になっていた、という変化を認識したのです。
「離れて」聞こえている場合はその相手の波動に飲み込まれまれませんが、共振している場合は飲み込まれます。
物事をしっかり見極めるには「離れる」見方が必要ですね。共振してしまうと感覚が飲み込まれてしまいます。
なんとなくですけど、おそらくはエネルギーが高まっているときは「離れた」見方ができますね。
エネルギーが落ちるとオーラの境目が曖昧になって「共振」状態になりやすい気が致します。今回の場合は昔のことを思い出して波動が一瞬落ちると同時に共振状態に落ちて、意識を戻すと「離れた」状態に戻ることが認識できました。
その違いは、おそらくですが、オーラの伸ばし方にも関係しているような気がしてきました。
オーラを対象物に「線」で伸ばすと「離れる」見方になるような気がいたします。このオーラについてはいつしかオーラとカフナ式みたいなお話をした時と関連しています。
一方で、オーラを「太く」全体的に楕円のように伸ばしていくと共振してしまうような気がいたします。原理的にはその部分のオーラが一緒になり過ぎてしまうのだと思います。
「線」で伸ばすと相手のオーラと多少は混ざりますが「離れて」いますので相手のことが分かる一方でそれほど飲み込まれないのだと推測しています。
このオーラの使い方、まだまだ奥が深そうですね。
基本的にはオーラをあまり混ぜたくはないですので、なるべく細くオーラを伸ばすにしても多少は混ざってしまいますが、どうやら指向性の波動だけ送ったり受け取ったりすることで心の声や歌および相手の状態がわかるかもしれません。もうちょっとこの辺りを探ってみたいですね。
どうやら、オーラを接触させて混ぜて相手のことを知ることができるのはそれはそれとして手法としてはあるのですが、波動だけ読み取ればいいのかもしれません。
あるいは、私が勘違いしているだけで、波動と言ってもオーラの更に微細な部分な部分というだけでオーラの一種だとすれば、最初はオーラをガッツリ混ぜていたものが、慣れるにつれてオーラの微細な波動だけ見れば済むようになるのかもしれないですね。
このあたりは更に様子を見てゆきたいと思います。
チャクラの核がマントラやチャンティングで出来てくる
最近、マントラやチャンティングに体が反応しやすくなっています。
例えば先日のチベットのマントラであれば頭の中が反応して活性化して核のようなものができつつありますし、チャンティングの種類によってはハートが反応したりします。
どうも、チベットのマントラが頭の中を貫いたかのような感じになっていて、喉はまだ詰まり気味ではあるものの、喉を通り越してハートのあたりに感覚が続くようになりました。
これは、以前からアナハタ(ハート)優勢になってきた感覚ともちょっと違っていまして、アナハタ優勢になったときはふわふわとした熱感がマニプラ優生からアナハタ優勢になったのに対して、今回は熱感というよりは核のようなものがアナハタに生じた感じです。
以前アナハタ優生になったときはマニプラとアナハタの間がブロックされていてアナハタにエネルギーが行っていなかった状態からそのブロックが外れてアナハタ優生になったのに対し、今回の場合はそのアナハタ優生な状態のまま更にアナハタに核のような感覚が生じたわけです。
その核のような感覚は、チベットのマントラを唱えてから頭の中にできつつある感覚と似ているのですが、頭の中にできつつある核よりもハートの方がしっかりした核です。
その核がチャンティングに反応するようになりました。それは熱感というよりもチャンティングに共振するような感じです。チャンティングのマントラやシュローカに共振してブルブル細かく震えて、核が強まる感じになります。
更にチャンティングをしたりチベットのマントラを瞑想中に唱えたりしますと、頭の中に感覚が出てくるのは以前の通りですが、最近はそれだけでなくアナハタにもなにか核がの感覚が出てきました。マニプラやスワディスタナにもアナハタほどではないにせよ微妙な核の感覚が出てきています。
これがいわゆるチャクラというものなのでしょうかね?
今まで、マニプラやアナハタあるいはムーラダーラが活性化して熱感が出ることでそれがチャクラかと思っておりましたが、まさかこのように核のようなものが出来てくるとは思いませんでした。
クンダリーニ活性化後は、以下の順番で熱感等が変わってきています。
1. マニプラ中心の熱感(後から思えばアナハタは未活性化だがクンダリーニ活性化以前と比べたらアナハタもそれなりに活性化)
2. (風のルンと比喩する体験後に)アナハタ優生の熱感
3. ムーラダーラの活性化(依然としてアナハタ優生)
4. (チベットのマントラにより)チャクラの核の感覚が出てくる
さて、今後どうなりますか。楽しみです。
例えば先日のチベットのマントラであれば頭の中が反応して活性化して核のようなものができつつありますし、チャンティングの種類によってはハートが反応したりします。
どうも、チベットのマントラが頭の中を貫いたかのような感じになっていて、喉はまだ詰まり気味ではあるものの、喉を通り越してハートのあたりに感覚が続くようになりました。
これは、以前からアナハタ(ハート)優勢になってきた感覚ともちょっと違っていまして、アナハタ優勢になったときはふわふわとした熱感がマニプラ優生からアナハタ優勢になったのに対して、今回は熱感というよりは核のようなものがアナハタに生じた感じです。
以前アナハタ優生になったときはマニプラとアナハタの間がブロックされていてアナハタにエネルギーが行っていなかった状態からそのブロックが外れてアナハタ優生になったのに対し、今回の場合はそのアナハタ優生な状態のまま更にアナハタに核のような感覚が生じたわけです。
その核のような感覚は、チベットのマントラを唱えてから頭の中にできつつある感覚と似ているのですが、頭の中にできつつある核よりもハートの方がしっかりした核です。
その核がチャンティングに反応するようになりました。それは熱感というよりもチャンティングに共振するような感じです。チャンティングのマントラやシュローカに共振してブルブル細かく震えて、核が強まる感じになります。
更にチャンティングをしたりチベットのマントラを瞑想中に唱えたりしますと、頭の中に感覚が出てくるのは以前の通りですが、最近はそれだけでなくアナハタにもなにか核がの感覚が出てきました。マニプラやスワディスタナにもアナハタほどではないにせよ微妙な核の感覚が出てきています。
これがいわゆるチャクラというものなのでしょうかね?
今まで、マニプラやアナハタあるいはムーラダーラが活性化して熱感が出ることでそれがチャクラかと思っておりましたが、まさかこのように核のようなものが出来てくるとは思いませんでした。
クンダリーニ活性化後は、以下の順番で熱感等が変わってきています。
1. マニプラ中心の熱感(後から思えばアナハタは未活性化だがクンダリーニ活性化以前と比べたらアナハタもそれなりに活性化)
2. (風のルンと比喩する体験後に)アナハタ優生の熱感
3. ムーラダーラの活性化(依然としてアナハタ優生)
4. (チベットのマントラにより)チャクラの核の感覚が出てくる
さて、今後どうなりますか。楽しみです。
オーラの接触の程度
どの場合にどの階層のオーラ接触なのか解明はできておりませんが、何種類かオーラ接触の種類があるようです。
肉体が近づくときにオーラが接触します。オーラの接触はなるべく少ない方が良いので自分のオーラを自分の体の近くに密着させるように意図するのをお薦めしますが、多少は混じってしまいます。お互いにオーラが体の近くに密着していればさほど危険はなく、現代人はこのようにオーラを無意識に自分の体に密着させているような気がいたします。
一方で、オーラと言いますかエーテルコードとか呼ばれたりするオーラの糸が相手と繋がる場合がありますが、どうも、これは体の近くにあるオーラよりも凝縮した形態のような気がしてきました。
体の周囲にふわふわと広がっているオーラがそのまま伸びるというよりは、もっと体に近い根幹部分が意思の力で線のようになって伸びるのかな、と。
両方共オーラと言えばそうなのですが、ふわふわとしたオーラと線のようになっているオーラとは性質が異なります。
そもそも、あまり精神訓練を行っていない人のオーラとある程度の瞑想などをした人のオーラは異なっていて、それは精神訓練のみに限らず勉強だったり生活習慣にもよるのですが、精神的に安定している人ほどオーラの「分かれ目」がしっかりしていて、精神的に未熟なほどオーラの分かれ目がぼやけていてオーラが発散しているような気がいたします。
オーラを線のように伸ばすことができるのはある意味誰でもできますが、ある程度の精神訓練をしてオーラの分かれ目がくっきりしている人は明確なくっきりとした線を伸ばすことができますが、もともとのオーラがぼんやりしている人はぼやけた線というか太いぼやけた線のようなオーラしか伸ばすことができないわけです。
この線のようなオーラは、普通のオーラと同じかなと思っていたのですが、どうも、意志で動く部分はオーラの階層が違うのかな、という気がしてきました。なんとなくですけどね。
ヨーガとか神智学とかですと人間とオーラは複数階層に分かれていて、肉体に近い方から魂の根源に近い方まで階層が分かれています。オーラというと肉体以外のところ全てを指したりしますけど、肉体に近い部分のオーラが意志を反映できる気もしなくて、もっと根源の、例えば神智学で言うところのコーザル体(原因体)あるいはメンタル体みたいなところが意志で動いて、その周囲にアストラル体とかがくっついて動くのかな、という感じがしてきています。意志で動かすという意味ではコーザル体というよりメンタル体の方が感覚に近いかもしれません。
それとも、このような分類は名目的なもので、ヨーガでいうところの3種類しかない、というのが実態なのかもしれませんけど。
感覚で知覚できるのは、基本的には
・五感による肉体
・意志によるオーラ
この2つだけであり、その他には
・見る者
もいたりしますけど、見るものはオーラを含めて鳥瞰的に見ているだけです。
これらのうち、「意志によるオーラ」が最近、意志によって動く気がする部分と動かない部分があるような気がしておりまして、それがオーラの階層による違いなのか、あるいは、単にその部分のオーラが淀んでいて制御が効かない状態、いわゆるヨーガでいうナディ(エネルギーの通路)が詰まっている状態なのか、どちらなのだろうか、と気になっておりまして、どちらかというより、両方あり得るのかな、という気がしてきておりまして、であれば、オーラの階層があるのかな... という感じになってきております。これは瞑想中の微細な感覚の違いですので、実際は違う意味を帯びているかもしれません。
まあ、このあたりを探っていくのも興味深いといえばそうなのですが。
肉体が近づくときにオーラが接触します。オーラの接触はなるべく少ない方が良いので自分のオーラを自分の体の近くに密着させるように意図するのをお薦めしますが、多少は混じってしまいます。お互いにオーラが体の近くに密着していればさほど危険はなく、現代人はこのようにオーラを無意識に自分の体に密着させているような気がいたします。
一方で、オーラと言いますかエーテルコードとか呼ばれたりするオーラの糸が相手と繋がる場合がありますが、どうも、これは体の近くにあるオーラよりも凝縮した形態のような気がしてきました。
体の周囲にふわふわと広がっているオーラがそのまま伸びるというよりは、もっと体に近い根幹部分が意思の力で線のようになって伸びるのかな、と。
両方共オーラと言えばそうなのですが、ふわふわとしたオーラと線のようになっているオーラとは性質が異なります。
そもそも、あまり精神訓練を行っていない人のオーラとある程度の瞑想などをした人のオーラは異なっていて、それは精神訓練のみに限らず勉強だったり生活習慣にもよるのですが、精神的に安定している人ほどオーラの「分かれ目」がしっかりしていて、精神的に未熟なほどオーラの分かれ目がぼやけていてオーラが発散しているような気がいたします。
オーラを線のように伸ばすことができるのはある意味誰でもできますが、ある程度の精神訓練をしてオーラの分かれ目がくっきりしている人は明確なくっきりとした線を伸ばすことができますが、もともとのオーラがぼんやりしている人はぼやけた線というか太いぼやけた線のようなオーラしか伸ばすことができないわけです。
この線のようなオーラは、普通のオーラと同じかなと思っていたのですが、どうも、意志で動く部分はオーラの階層が違うのかな、という気がしてきました。なんとなくですけどね。
ヨーガとか神智学とかですと人間とオーラは複数階層に分かれていて、肉体に近い方から魂の根源に近い方まで階層が分かれています。オーラというと肉体以外のところ全てを指したりしますけど、肉体に近い部分のオーラが意志を反映できる気もしなくて、もっと根源の、例えば神智学で言うところのコーザル体(原因体)あるいはメンタル体みたいなところが意志で動いて、その周囲にアストラル体とかがくっついて動くのかな、という感じがしてきています。意志で動かすという意味ではコーザル体というよりメンタル体の方が感覚に近いかもしれません。
それとも、このような分類は名目的なもので、ヨーガでいうところの3種類しかない、というのが実態なのかもしれませんけど。
感覚で知覚できるのは、基本的には
・五感による肉体
・意志によるオーラ
この2つだけであり、その他には
・見る者
もいたりしますけど、見るものはオーラを含めて鳥瞰的に見ているだけです。
これらのうち、「意志によるオーラ」が最近、意志によって動く気がする部分と動かない部分があるような気がしておりまして、それがオーラの階層による違いなのか、あるいは、単にその部分のオーラが淀んでいて制御が効かない状態、いわゆるヨーガでいうナディ(エネルギーの通路)が詰まっている状態なのか、どちらなのだろうか、と気になっておりまして、どちらかというより、両方あり得るのかな、という気がしてきておりまして、であれば、オーラの階層があるのかな... という感じになってきております。これは瞑想中の微細な感覚の違いですので、実際は違う意味を帯びているかもしれません。
まあ、このあたりを探っていくのも興味深いといえばそうなのですが。
神聖幾何学のラビリンスを歩く時の感覚
ヨガのアシュラムに遊びに行った時、神聖幾何学のラビリンスがありましたので何度か歩いてみました。
歩くと、体の各所がグリグリと線のように今歩いている場所に対応して体内感覚があるのが面白かったです。
体の中を(小周天のような縦回転ではなく)横回転でエネルギーの感覚がありました。
最初はお腹の左右それぞれに縦方向に動く感覚があって、次は胸からお腹にかけての外側を左右それぞれ縦方向に動く感覚、ただし最初のお腹とは逆回転でした。
そして一旦頭(確か右寄り?)に感覚が表れたのち、喉へ。そして眉間から頭上(右寄り)に行ってから中央でゴール。
戻る時も同様でした。
数日後再度試しましたところ、歩いている時にチベットのお経のような低い声でオーン、ウァーン、カー厶、みたいな長い音が後頭部の斜め上で聞こえていました。遠くでの音なのでしょうか? 空耳? 風切り音の上に乗っているような音で聞こえていました。音には指向性があるようで、ラビリンスの入り口の少し左側の方向から聞こえているようでした。耳で聞こえるというよりは上に書きましたように後頭部の斜め上の空中あたりが反応して聞こえているようでした。聞こえているのはラビリンスを歩いている時だけでした。
体の感覚は前回と同様にあって横回転していました。
体の感覚は毎回同じようにありますので、歩くだけで体内のエネルギーが活性化される興味深いラビリンスだと思いました。
チベットっぽいお経が聞こえたのは一度だけでした。
歩くと、体の各所がグリグリと線のように今歩いている場所に対応して体内感覚があるのが面白かったです。
体の中を(小周天のような縦回転ではなく)横回転でエネルギーの感覚がありました。
最初はお腹の左右それぞれに縦方向に動く感覚があって、次は胸からお腹にかけての外側を左右それぞれ縦方向に動く感覚、ただし最初のお腹とは逆回転でした。
そして一旦頭(確か右寄り?)に感覚が表れたのち、喉へ。そして眉間から頭上(右寄り)に行ってから中央でゴール。
戻る時も同様でした。
数日後再度試しましたところ、歩いている時にチベットのお経のような低い声でオーン、ウァーン、カー厶、みたいな長い音が後頭部の斜め上で聞こえていました。遠くでの音なのでしょうか? 空耳? 風切り音の上に乗っているような音で聞こえていました。音には指向性があるようで、ラビリンスの入り口の少し左側の方向から聞こえているようでした。耳で聞こえるというよりは上に書きましたように後頭部の斜め上の空中あたりが反応して聞こえているようでした。聞こえているのはラビリンスを歩いている時だけでした。
体の感覚は前回と同様にあって横回転していました。
体の感覚は毎回同じようにありますので、歩くだけで体内のエネルギーが活性化される興味深いラビリンスだと思いました。
チベットっぽいお経が聞こえたのは一度だけでした。
目を閉じていても視界をホログラムのように感じるサードアイ
ヨガの呼吸法であるプラナヤーマを目を閉じて行っていましたところ、照度5%くらいの暗い視界が現れてきました。暗いのではっきりとは見えないのですが「見えている」感覚がはっきりあったのです。
その時は、頭の上に左右2つの見えない角が出ているような感覚がありました。それは頭の上の両目それぞれの斜め上あたりの2箇所、右目の右上と左目の左上あたりにそれぞれ感覚があるのです。その部分にエネルギーが集まっているような感じです。ただ、この角のような感覚自体は今までも何度かあったのですがその時は視界が現れることはありませんでした。
ホログラムは照度5%ですので正面に何かが微かに見えますが何があるかは認識できません。とても暗いです。明らかに目の感覚とは別物とわかります。目よりも遥かにエネルギー消費量が少なくて楽なのに周囲が何となく認識できるのです。
ただ、まだ暗いので役には立たないのですが。
目を開けると目にエネルギーが大量に使われているのを感じ、目を閉じるとホログラムが前方に広がる感じです。
ですから、うまく見れるようになって慣れることができたならば目を瞑ったまま生活した方が疲れないのでは? とも思ってしまいます。そのくらいエネルギー消費量が少ないです。
このホログラムの感覚は数分から10分くらいで消えました。と言いますか、うっすらと見えていた時はそれと気づきませんでしたので、もっと時間的には長かったのかもしれませんが、変化に気付いてから状態から抜けるまでがおそらく数分から10分くらいだった、ということです。
眉間という感じではないのでサードアイ(アジナ)ではないかもしれません。書物によっては第四の目とかも書かれていますし、このあたりは謎が多そうです。
これは五感以外の感覚です。
瞑想で言われていることで「意識の拡大」とかいうポイントがありますけど、このホログラムが意識の拡大なのでしょうかね?
今までは五感で周囲を感じることを意識の拡大だと思っておりましたが、この五感を超えたホログラムの方が「意識の拡大」というに相応しい気もしますが、その一方で、これは五感ではない視野でホログラム状に見ているだけで、意識が拡大したわけではない気がいたします。今後、視野だけでなく意識として拡大されて認識されるのでしょうか?
このホログラムは先日の瞑想中に見た意識のホログラムとは違って、随分と現実的です。目の前の世界と繋がっている感じがしました。見方や見ている起点および見ているもの、全てが違います。
この時、後部は見えませんでした。指向性のものなのでしょうか?
今まで五感で周囲を感じていましたが、五感以外のものがあることが明らかになりました。確実にこれは五感ではない新しい種類の感覚器官です。
ホログラムが見えていた(感じていた)時はエネルギーの流れにとても敏感になっていました。
上で照度5%と書きましたが、照度ではなくフォーカスが合っていなくてぼやけて重なっているのかもしれません。
私の過去生と平行世界の記憶を辿りますとこの種のサードアイは単眼ですので距離感が掴みにくかったような記憶があります。単眼ですから焦点も合わせにくかった気もします。ただ、記憶によるとサードアイは360度全方向見れた気がしますけど今回は前だけでした。意識を向けている方だけが認識されるのは普通の目と一緒ですが。
また後日経験すると良いのですが。
これは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブフィックスの体験に似ているかもしれません。
わたしの意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。知覚するたびに幾つかの感覚がともなっていたので、見るのと同時に感じることができた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
ここまで熟練はしていませんが、この種の瞑想状態を垣間見たのかもしれません。
その時は、頭の上に左右2つの見えない角が出ているような感覚がありました。それは頭の上の両目それぞれの斜め上あたりの2箇所、右目の右上と左目の左上あたりにそれぞれ感覚があるのです。その部分にエネルギーが集まっているような感じです。ただ、この角のような感覚自体は今までも何度かあったのですがその時は視界が現れることはありませんでした。
ホログラムは照度5%ですので正面に何かが微かに見えますが何があるかは認識できません。とても暗いです。明らかに目の感覚とは別物とわかります。目よりも遥かにエネルギー消費量が少なくて楽なのに周囲が何となく認識できるのです。
ただ、まだ暗いので役には立たないのですが。
目を開けると目にエネルギーが大量に使われているのを感じ、目を閉じるとホログラムが前方に広がる感じです。
ですから、うまく見れるようになって慣れることができたならば目を瞑ったまま生活した方が疲れないのでは? とも思ってしまいます。そのくらいエネルギー消費量が少ないです。
このホログラムの感覚は数分から10分くらいで消えました。と言いますか、うっすらと見えていた時はそれと気づきませんでしたので、もっと時間的には長かったのかもしれませんが、変化に気付いてから状態から抜けるまでがおそらく数分から10分くらいだった、ということです。
眉間という感じではないのでサードアイ(アジナ)ではないかもしれません。書物によっては第四の目とかも書かれていますし、このあたりは謎が多そうです。
これは五感以外の感覚です。
瞑想で言われていることで「意識の拡大」とかいうポイントがありますけど、このホログラムが意識の拡大なのでしょうかね?
今までは五感で周囲を感じることを意識の拡大だと思っておりましたが、この五感を超えたホログラムの方が「意識の拡大」というに相応しい気もしますが、その一方で、これは五感ではない視野でホログラム状に見ているだけで、意識が拡大したわけではない気がいたします。今後、視野だけでなく意識として拡大されて認識されるのでしょうか?
このホログラムは先日の瞑想中に見た意識のホログラムとは違って、随分と現実的です。目の前の世界と繋がっている感じがしました。見方や見ている起点および見ているもの、全てが違います。
この時、後部は見えませんでした。指向性のものなのでしょうか?
今まで五感で周囲を感じていましたが、五感以外のものがあることが明らかになりました。確実にこれは五感ではない新しい種類の感覚器官です。
ホログラムが見えていた(感じていた)時はエネルギーの流れにとても敏感になっていました。
上で照度5%と書きましたが、照度ではなくフォーカスが合っていなくてぼやけて重なっているのかもしれません。
私の過去生と平行世界の記憶を辿りますとこの種のサードアイは単眼ですので距離感が掴みにくかったような記憶があります。単眼ですから焦点も合わせにくかった気もします。ただ、記憶によるとサードアイは360度全方向見れた気がしますけど今回は前だけでした。意識を向けている方だけが認識されるのは普通の目と一緒ですが。
また後日経験すると良いのですが。
これは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブフィックスの体験に似ているかもしれません。
わたしの意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。知覚するたびに幾つかの感覚がともなっていたので、見るのと同時に感じることができた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」
ここまで熟練はしていませんが、この種の瞑想状態を垣間見たのかもしれません。
チベットのマントラでの脳内感覚がなくなる
最近、チベットのマントラを唱えても脳内の感覚がなくなってきました。先日以降頻繁に古代の唱え方でチベットのマントラを瞑想中に唱えてきましたが、特にここ数日は脳内でグリグリ動くような感覚を感じなくなってきました。
瞑想中に脳内を観察したところ、今まで古代の唱え方でチベットのマントラを唱えて脳内で感じていたのは頭の中にブロックがあったから感覚として感じられていたのではないか? そして、ブロックが解除されたら感覚がなくなったのではないか? そんな気がしてきました。であれば感覚がないからと言ってマントラの効果が無くなったわけではなく、マントラは効果があって、脳内の感覚が動く際の抵抗がなくなってきたということでしょう。脳内の感覚は古代の唱え方でチベットのマントラを唱える前とは変わってきており、今は脳内に何かが充満したような感覚がしております。
何日かこの瞑想状態を続けましたら、時々少し脳内に抵抗を感じましたがすぐにその抵抗が消えてエネルギーが満ちた状態になりましたので、やはり上の仮説はそうなのだと思った次第です。
これはいつしか「天のエネルギーを下ろして瞑想する際に頭に充満させた時と同方向ではありますが、天のエネルギーを降ろした時の脳内のエネルギー密度は今ほどは濃くなかったような気が致します。もともと天のエネルギーである程度エネルギーを満たした状態になっており、その状態で古代の唱え方でチベットのマントラを唱えることにより頭のエネルギーの密度が更に高まった、という感じが致します。
この状態を続けたらどうなるのか、様子を見たいと思います。
瞑想中に脳内を観察したところ、今まで古代の唱え方でチベットのマントラを唱えて脳内で感じていたのは頭の中にブロックがあったから感覚として感じられていたのではないか? そして、ブロックが解除されたら感覚がなくなったのではないか? そんな気がしてきました。であれば感覚がないからと言ってマントラの効果が無くなったわけではなく、マントラは効果があって、脳内の感覚が動く際の抵抗がなくなってきたということでしょう。脳内の感覚は古代の唱え方でチベットのマントラを唱える前とは変わってきており、今は脳内に何かが充満したような感覚がしております。
何日かこの瞑想状態を続けましたら、時々少し脳内に抵抗を感じましたがすぐにその抵抗が消えてエネルギーが満ちた状態になりましたので、やはり上の仮説はそうなのだと思った次第です。
これはいつしか「天のエネルギーを下ろして瞑想する際に頭に充満させた時と同方向ではありますが、天のエネルギーを降ろした時の脳内のエネルギー密度は今ほどは濃くなかったような気が致します。もともと天のエネルギーである程度エネルギーを満たした状態になっており、その状態で古代の唱え方でチベットのマントラを唱えることにより頭のエネルギーの密度が更に高まった、という感じが致します。
この状態を続けたらどうなるのか、様子を見たいと思います。
意識の更なる鎮まりでヴィパッサナー状態が容易に
もはや、同様の鎮まりが何度もあって表現としては似たようなものになってしまいますが、更に意識が鎮まった後、ヴィパッサナー瞑想が自然になりました。
それにより、体の感覚を静かに観察する瞑想を更に自然に行えるようになりました。
そうですね・・・、違いを表現するのであれば、以前は湖のような意識の上に風が吹いてさざ波が時々立っていたとすれば、今回は、そよ風が吹いて波紋が広がる、という違いに例えられますでしょうか。
瞑想中、体を観察してヴィパッサナー瞑想をする際も、以前は体の感覚を観察していても自分の感覚が浮かび上がる感覚はそれほどなかったのですが、今回は、体の感覚が各所にぽつぽつと感じられて、その他の場所は空っぽになっており、まるで体がなくなって部分的に感覚が残っている、というような感じになっています。その空っぽの感覚により、ちょっと体が浮かび上がっているような感覚になっています。もちろん実際の体は浮いてはいませんけど。
頭の意識が更に鎮まった結果、更に努力なしに体の感覚を観察できています。
この意識の鎮まりのレベルは、その時々においては過去最高を更新していますのでその時点ではとても鎮まってこれ以上の鎮まりはないかのように思えたりもするのですが、実際のところ、更なるレベルまで鎮まってみると今までの鎮まりのレベルはそこまでではなかった、というように気付けました。
同様の鎮まりのレベルの向上が何度もあり、であれば、今現在の意識の鎮まりが最後だと思う必要もないのかな... という気にもなってきました。おそらく更なるレベルというのは存在しているのでしょうし。
この段階に達して、ようやく日常生活でのヴィパッサナー瞑想が少し可能になってきたかな、という感じが致します。
瞑想の達人は特別に座って瞑想をしなくても日常生活で瞑想しているとはよく聞くことではありますが、さすがに完全なるその実践はまだ難しいにせよ、おそらくそのことが可能なのでしょう、ということが直感でようやくわかって、あと少しで手の届きそうなところにあることがなんとなくわかってきました。
それにより、体の感覚を静かに観察する瞑想を更に自然に行えるようになりました。
そうですね・・・、違いを表現するのであれば、以前は湖のような意識の上に風が吹いてさざ波が時々立っていたとすれば、今回は、そよ風が吹いて波紋が広がる、という違いに例えられますでしょうか。
瞑想中、体を観察してヴィパッサナー瞑想をする際も、以前は体の感覚を観察していても自分の感覚が浮かび上がる感覚はそれほどなかったのですが、今回は、体の感覚が各所にぽつぽつと感じられて、その他の場所は空っぽになっており、まるで体がなくなって部分的に感覚が残っている、というような感じになっています。その空っぽの感覚により、ちょっと体が浮かび上がっているような感覚になっています。もちろん実際の体は浮いてはいませんけど。
頭の意識が更に鎮まった結果、更に努力なしに体の感覚を観察できています。
この意識の鎮まりのレベルは、その時々においては過去最高を更新していますのでその時点ではとても鎮まってこれ以上の鎮まりはないかのように思えたりもするのですが、実際のところ、更なるレベルまで鎮まってみると今までの鎮まりのレベルはそこまでではなかった、というように気付けました。
同様の鎮まりのレベルの向上が何度もあり、であれば、今現在の意識の鎮まりが最後だと思う必要もないのかな... という気にもなってきました。おそらく更なるレベルというのは存在しているのでしょうし。
この段階に達して、ようやく日常生活でのヴィパッサナー瞑想が少し可能になってきたかな、という感じが致します。
瞑想の達人は特別に座って瞑想をしなくても日常生活で瞑想しているとはよく聞くことではありますが、さすがに完全なるその実践はまだ難しいにせよ、おそらくそのことが可能なのでしょう、ということが直感でようやくわかって、あと少しで手の届きそうなところにあることがなんとなくわかってきました。
瞑想状態の表現のポエム化
理屈で表現できることが減ってきて、次第にポエム化している気が致します。先日の意識の鎮まりに関してもそうですし、この種の瞑想状態は論理で表現しようとしても似たり寄ったりになってしまい、ポエム化してしまった気が致します。
意識の状態を定義できるものなどありはしない、と誰かがポエムしていた気が致します。ゾクチェンの詩でしたでしょうか。究極の意識の状態を定義できるものなどありはしない。ありのままを定義できるものなどありはしない。であればポエム化するのも致し方ないのかな、という気も致します。
瞑想をするにあたって初期は集中(サマタ)だとか観察(ヴィパッサナー)だとかが重要になってきますけど、意識が鎮まってきた場合はどちらも微細になってきて、集中している気もするけれども集中しているわけではない気もする、観察している気もするけれども観察していない気もする、そんな状態になってきているような気が致します。それは感覚が微細になってきた、ということではありますけど、言葉で言い表そうとしますとやはりポエムになってしまうわけですね。
もはや、この状態を表現するにはポエム化に頼るしかないのだとしたら、これ以上表現しても、私がかつてそうであったように瞑想系のポエムを見ても「なんじゃこりゃ」としか読者は思わないでしょうし、であればポエム化の表現は控えるべきなのか、それとも、それでもなんとなく書くべきなのか、微妙なところであります。
そもそもこのブログは読者向けというよりは自身の瞑想録という意味合いも強いですので、そうであれば、あまり気にせずポエム化するのもありかな、という気もしております。
そういうわけで、ポエム化するかもしれません。
あるいは、バガヴァッド・ギーターを読む方にシフトするかもしれません。
はたまた、記事の頻度を減らす可能性もあります。
どうなることやら。まあ、心配はしていないですけどね。
意識の状態を定義できるものなどありはしない、と誰かがポエムしていた気が致します。ゾクチェンの詩でしたでしょうか。究極の意識の状態を定義できるものなどありはしない。ありのままを定義できるものなどありはしない。であればポエム化するのも致し方ないのかな、という気も致します。
瞑想をするにあたって初期は集中(サマタ)だとか観察(ヴィパッサナー)だとかが重要になってきますけど、意識が鎮まってきた場合はどちらも微細になってきて、集中している気もするけれども集中しているわけではない気もする、観察している気もするけれども観察していない気もする、そんな状態になってきているような気が致します。それは感覚が微細になってきた、ということではありますけど、言葉で言い表そうとしますとやはりポエムになってしまうわけですね。
もはや、この状態を表現するにはポエム化に頼るしかないのだとしたら、これ以上表現しても、私がかつてそうであったように瞑想系のポエムを見ても「なんじゃこりゃ」としか読者は思わないでしょうし、であればポエム化の表現は控えるべきなのか、それとも、それでもなんとなく書くべきなのか、微妙なところであります。
そもそもこのブログは読者向けというよりは自身の瞑想録という意味合いも強いですので、そうであれば、あまり気にせずポエム化するのもありかな、という気もしております。
そういうわけで、ポエム化するかもしれません。
あるいは、バガヴァッド・ギーターを読む方にシフトするかもしれません。
はたまた、記事の頻度を減らす可能性もあります。
どうなることやら。まあ、心配はしていないですけどね。
オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化
特に大きな経験やカタストロフィーがあったわけではないのですが、以前書きましたように特にチベットのマントラを古代の唱え方をしてそれが定着して頭の中の感覚がなくなってきておそらくブロックが頭の中なくなってきたことにより、エネルギーがアジナに集中しやすくなって体全体のオーラ分布においてアジナが優勢になってきたような気がいたします。
過去においてはアジナ集中すると意識が不安定になったりしたこともありましたが、最近はアジナ優勢の状態でも割と安定しています。
アナハタ(ハート)もかなり優勢ですので、一日のうちでアナハタ優勢とアジナ優勢とが交互に入れ替わっているような感じでしょうか。
瞑想でハートやアジナに集中しましょうというお話があるますけど、このくらいの状態になりますと瞑想してアジナに集中するとかなりエネルギーが高まるのを感じます。
目に肉体的な力が入らないように時々注意しますが、肉体的な力がなくても意識がアジナに集中しているのを感じます。
先日書いたようなサードアイ的な感覚はそれ以降出てきていませんけど。この延長線上でそういう状態が出るのか出ないのか? 常用できるようになるのか、それともたまたまの出来事だったのか? どうなるのか? それもお楽しみの1つです。
過去においてはアジナ集中すると意識が不安定になったりしたこともありましたが、最近はアジナ優勢の状態でも割と安定しています。
アナハタ(ハート)もかなり優勢ですので、一日のうちでアナハタ優勢とアジナ優勢とが交互に入れ替わっているような感じでしょうか。
瞑想でハートやアジナに集中しましょうというお話があるますけど、このくらいの状態になりますと瞑想してアジナに集中するとかなりエネルギーが高まるのを感じます。
目に肉体的な力が入らないように時々注意しますが、肉体的な力がなくても意識がアジナに集中しているのを感じます。
先日書いたようなサードアイ的な感覚はそれ以降出てきていませんけど。この延長線上でそういう状態が出るのか出ないのか? 常用できるようになるのか、それともたまたまの出来事だったのか? どうなるのか? それもお楽しみの1つです。
空を見上げ、星の海に思いを馳せる
来年から公開されるスタートレック・ピカードのトレーラーを見ていたら、ふと急に思いがこみ上げてきて、星を見上げていました。
ピカードが宇宙艦隊を引退し、任務を離れて暮らしている姿。
その後、宇宙の平和のために立ち上がる姿。
アメリカ人の気高い姿が旧世代から新世代へと変わり、意識が宇宙や世界的なものに変わってきているのを感じます。
その変化を、もう年寄りであるパトリック・スチュワートが描いているのは興味深いです。過去の作品であるスタートレックTNGでは古き良きアメリカの気高い生き方を描いていました。今回の作品で、それが変化したように思います。
アメリカン・ヒーローの姿の変化。
今までは他者の為だとか英雄になる文脈でアメリカ人の誇りが語られていました。これからは他者どうこうよりも、自らの中から湧き上がる貢献の気持ちが行動の原動力になる時代なのかなと思いました。
日本人が想像するアメリカン・ヒーローが道徳的なものから本質的なものへと変容し、自らの中で湧き上がるものになる・・・ ということは、「頭」と「体感(本質)」とが一致しているということです。今までは頭でヒーロー的なものを目指して体感(本質)がなかなかついてこないというアメリカンヒーローの姿が目立ちましたが、ここにきて、本質(体感)と頭の両方が他者への貢献を目指すという姿に変わってきたように思いました。
であれば、これからは必然的に他者との分かち合いの時代になります。
人々がその意識についていけるかどうか? そこが鍵になると思いました。
これから、仕事での終業時間が半分になる時代に徐々に移行してゆくと私は思っておりますが、そのために必要なのは分かち合いの精神であり、本質から分かち合うというスタンスがなければワークシェアリングは実現しません。
単純な仕事は減り、単に生きるための仕事は減るとなれば、全体の仕事の時間は減ることになるでしょう。
しかし、分かち合いの精神がなければ一部の「全く働かない人」と「激務で奴隷のように働く人」とが二分されてゆき、ワークシェアリングは実現できないでしょう。
分かち合いは道徳的に正しいと誰でも頭で考えるとはいえ、実際にそれができる人はそうそういません。
スタートレックは昔から未来の姿を示す道標として存在しており、かつてはピカードがTNGシリーズにおいて理想的な宇宙との関わり方を描いてきました。
これからピカードが新シリーズで表現するのは、確かに物語としては人気が必要ですのでアクションや戦闘シーンもあってそちらが話題にはなると思いますが、もともとスタートレックで描きたかったのは次世代の人生観や宇宙的な意識のありようであり、少なくともトレーラーにおいてそのあたりのピカードの意識が表現されているように思いました。
次作のピカードではそのあたりに期待したいところです。
まあ、一般的にはそのあたりの解釈にはなるのですが、もともと宇宙にルーツのある人たちに向けて、以下のような隠れたメッセージが含まれているように思いました。
「貴方(視聴者)は、今はこのピカードのように地上に暮らしていて、かつて宇宙を駆け巡って様々な冒険をしていたことを忘れてしまっています。貴方はピカードのように地上の何不自由のない生活を平和に謳歌しているかもしれません。あるいは、宇宙の生活は遠い過去のこととして現在の生活とは無関係のように思っているかもしれません。しかし、そろそろ思い出してみてください。ピカードのように、貴方にはできることがあるのです。今、地上の人として一般人として生活をし、いくら貴方が宇宙への任務への復帰を希望してかつての団体に願い入れたとしても、ピカードのようにそれは表面的には拒否されることでしょう。あまりにも地上の生活と宇宙の生活は違いすぎますし、宇宙で活動するための訓練も長い間、受けてきていません。それはそうでしょう。しかし、ピカードのように思いを強くしてください。それを宇宙の友人たちは期待しています。どのような関与になるのか、何も起こらないのか、何かが起こるのか、それは人それぞれです。しかし、貴方がピカードのように空を見上げ、宇宙的な意識を持ち、世の中への貢献が自らの内から湧き上がってくるようになった時、何がしかのアプローチが宇宙からあるかもしれません。空を見上げ、かつての姿に思いを馳せて、他者や社会および世界や宇宙への貢献の思いを抱きしめてください。貴方のそのような思いを期待しています。」
・・・そんな感じのメッセージが込められているような気が致しました。もちろん製作者に問い合わせても「そんなことはない」と言われるだけでしょう、このようなメッセージは製作者の意識の中に、それとわからないように込められるものなのです。アーティストの頭の中に隠されたメッセージを込めることなど宇宙の人たちには簡単なことです。
新シリーズのピカードがアメリカで来年に放映され、この隠れたメッセージが拡散した時、アメリカがまた一歩、次のステージに向けて変革するような気も致します。これは全員が覚醒するという種類のものではありませんが、一部の視聴者はこのメッセージを受け取って新たな意識に変わってゆく気がしております。
ピカードが宇宙艦隊を引退し、任務を離れて暮らしている姿。
その後、宇宙の平和のために立ち上がる姿。
アメリカ人の気高い姿が旧世代から新世代へと変わり、意識が宇宙や世界的なものに変わってきているのを感じます。
その変化を、もう年寄りであるパトリック・スチュワートが描いているのは興味深いです。過去の作品であるスタートレックTNGでは古き良きアメリカの気高い生き方を描いていました。今回の作品で、それが変化したように思います。
アメリカン・ヒーローの姿の変化。
今までは他者の為だとか英雄になる文脈でアメリカ人の誇りが語られていました。これからは他者どうこうよりも、自らの中から湧き上がる貢献の気持ちが行動の原動力になる時代なのかなと思いました。
日本人が想像するアメリカン・ヒーローが道徳的なものから本質的なものへと変容し、自らの中で湧き上がるものになる・・・ ということは、「頭」と「体感(本質)」とが一致しているということです。今までは頭でヒーロー的なものを目指して体感(本質)がなかなかついてこないというアメリカンヒーローの姿が目立ちましたが、ここにきて、本質(体感)と頭の両方が他者への貢献を目指すという姿に変わってきたように思いました。
であれば、これからは必然的に他者との分かち合いの時代になります。
人々がその意識についていけるかどうか? そこが鍵になると思いました。
これから、仕事での終業時間が半分になる時代に徐々に移行してゆくと私は思っておりますが、そのために必要なのは分かち合いの精神であり、本質から分かち合うというスタンスがなければワークシェアリングは実現しません。
単純な仕事は減り、単に生きるための仕事は減るとなれば、全体の仕事の時間は減ることになるでしょう。
しかし、分かち合いの精神がなければ一部の「全く働かない人」と「激務で奴隷のように働く人」とが二分されてゆき、ワークシェアリングは実現できないでしょう。
分かち合いは道徳的に正しいと誰でも頭で考えるとはいえ、実際にそれができる人はそうそういません。
スタートレックは昔から未来の姿を示す道標として存在しており、かつてはピカードがTNGシリーズにおいて理想的な宇宙との関わり方を描いてきました。
これからピカードが新シリーズで表現するのは、確かに物語としては人気が必要ですのでアクションや戦闘シーンもあってそちらが話題にはなると思いますが、もともとスタートレックで描きたかったのは次世代の人生観や宇宙的な意識のありようであり、少なくともトレーラーにおいてそのあたりのピカードの意識が表現されているように思いました。
次作のピカードではそのあたりに期待したいところです。
まあ、一般的にはそのあたりの解釈にはなるのですが、もともと宇宙にルーツのある人たちに向けて、以下のような隠れたメッセージが含まれているように思いました。
「貴方(視聴者)は、今はこのピカードのように地上に暮らしていて、かつて宇宙を駆け巡って様々な冒険をしていたことを忘れてしまっています。貴方はピカードのように地上の何不自由のない生活を平和に謳歌しているかもしれません。あるいは、宇宙の生活は遠い過去のこととして現在の生活とは無関係のように思っているかもしれません。しかし、そろそろ思い出してみてください。ピカードのように、貴方にはできることがあるのです。今、地上の人として一般人として生活をし、いくら貴方が宇宙への任務への復帰を希望してかつての団体に願い入れたとしても、ピカードのようにそれは表面的には拒否されることでしょう。あまりにも地上の生活と宇宙の生活は違いすぎますし、宇宙で活動するための訓練も長い間、受けてきていません。それはそうでしょう。しかし、ピカードのように思いを強くしてください。それを宇宙の友人たちは期待しています。どのような関与になるのか、何も起こらないのか、何かが起こるのか、それは人それぞれです。しかし、貴方がピカードのように空を見上げ、宇宙的な意識を持ち、世の中への貢献が自らの内から湧き上がってくるようになった時、何がしかのアプローチが宇宙からあるかもしれません。空を見上げ、かつての姿に思いを馳せて、他者や社会および世界や宇宙への貢献の思いを抱きしめてください。貴方のそのような思いを期待しています。」
・・・そんな感じのメッセージが込められているような気が致しました。もちろん製作者に問い合わせても「そんなことはない」と言われるだけでしょう、このようなメッセージは製作者の意識の中に、それとわからないように込められるものなのです。アーティストの頭の中に隠されたメッセージを込めることなど宇宙の人たちには簡単なことです。
新シリーズのピカードがアメリカで来年に放映され、この隠れたメッセージが拡散した時、アメリカがまた一歩、次のステージに向けて変革するような気も致します。これは全員が覚醒するという種類のものではありませんが、一部の視聴者はこのメッセージを受け取って新たな意識に変わってゆく気がしております。
ハイヤーセルフとグループソウルの関係
ハイヤーセルフという言葉は謎めいていまして、様々な意味で使われているように思います。
一般的には「高次の自分」という訳が適切のような気もしますが、以前に少し書きましたように「本当の自分」という意味や「魂」という意味、あるいは「無意識(個人的無意識、集合的無意識)」のことを意味することもあります。
以前は私はハイヤーセルフというと漠然と「魂」「高次の自分」「内なるメッセージの主」みたいな感じで捉えていましたが、最近はちょっと違った見方をしております。
まず、肉体があって、意思や思考が備わっている、いわゆる「個人」という主体が存在します。
それは個体としていわゆる「魂」というものもセットになっているわけですけれども、その魂の上位概念として「グループソウル」というものが存在します。
グループソウルは以前に転生についての記事で言及しておりますが、魂が一旦グループソウルに合流してから再度分割して分霊を作って転生する場合と、魂(分霊)がグループソウルに合流せずにそのまま転生する場合とがあります。
そのグループソウルは、そのグループで一つの意識体を構成しているのです。
私の場合、子供の頃に幽体離脱してその辺りのことを知るに至ったわけですが、その時の理解をふと思い出すと、上記のようにグループソウルとしての分霊ができるサイクルがある一方で、そのグループソウルは更に上位の意識の体の中で起こっていたことをふと思い出したのです。
その上位の意識体は地球の軌道上に漂っていて様々な地球の活動を監視や他の意識体に対して指示をしているような、割と有名な名前を持つ意識体ではあるのですが、グループソウルの概念はその意識体の体の中で起こっていたことをふと思い出しました。
と、いいますか、ことあるごとに思い出してはいたのですが、割とスルーしていてすぐに忘れてしまっていて、それほど重要なことではないと受け止めていたのですが、ふと思えば、グループソウルとその上位の意識体の関係のことってほとんど聞いたことがないな... と思ってこの度、記事にしてみました。
その上位の意識体こそが、もしかしたら本当にハイヤーセルフと呼ぶに相応しいものなのかなあ、という気も致します。
グループソウルはそれで意識を持っており、グループソウルはそれはそれで広い世界と広い意識を持っているので、グループソウルの一部だけでも意識を持っています。ですから、グループソウルがハイヤーセルフとして意識を持っていると言えなくもないのですが、むしろ、グループソウルを統括するものとして・・・ といいますか、ハイヤーセルフの体がグループソウルの母体そのものになっていて、ハイヤーセルフはグループソウルそのものと言ってもよく、ハイヤーセルフとしての統括した意識体が存在しているのです。
ハイヤーセルフがグループソウルそのものだとしたら、グループソウルから分霊が生まれるというのは、言い換えれば、ハイヤーセルフから分霊が生まれて私という存在が地上に生まれてきている、とも言えるのです。
これは、ボヤッとしたイメージでグループソウルの存在を論じるよりもよほど具体的でわかりやすい構造だと思いますし、私が幽体離脱した時の経験からして、これが真実だと思います。
今までこの上位の意識体のことを私はハイヤーセルフとは呼んではいなくて、私の魂が分離した大元の意識体、というように言ったりしていましたが、このグループソウル相当の大元の意識体をハイヤーセルフと呼ぶ方が適切かな... と最近思うようになったわけです。
認識自体は前からあったので特別に違いがあるわけではないのですが、言い方だけのお話ですね。
この大元の意識体がハイヤーセルフだとすれば、ハイヤーセルフはかなり遠くて崇高な存在です。
そして、そのハイヤーセルフの近くにいて任務を遂行したり世の中に尽くしている、私のハイヤーセルフと同系統で相応に同じレベルあるいはその近くのレベルにいる意識体が、今私のガイドとして付き添ってくれているようです。
その一方で、私の肉体の意識体と同系統といいますか割と近い存在として過去生で一緒だった人たちが守護霊として近くに大勢いたりするわけですけれども、その友人知人や家族だった守護霊たちと比べて、ハイヤーセルフの近くにもともといた意識体のレベルは相当に高いわけで、頼りになるわけです。
とは言いましても、色々と事情があって、私の今世の目的は以前書きましたようにカルマの解消ですので、その目的に沿って指導が行われてきたわけです。
世の中の理といいますか、あの世の理がわかってきますと随分とスッキリしますし、目的が達成できたらグループソウル(=ハイヤーセルフ)のところに戻るのだとわかってしまいさえすれば人生も楽になります。
私という存在はその目的を達成するべくして分霊になったのであり、帰るところがあるわけですからね。
ただ、そのハイヤーセルフに戻る一方で、今生で知り合ってあの世のコミュニティにいる友人知人や家族だった霊たちのことも気遣う必要があるのでハイヤーセルフのところに戻ったらお終いではありませんけど。人によってはこれを執着と呼ぶかもしれませんけど、コミュニティを簡単に捨てることはできませんしね。
一般的には「高次の自分」という訳が適切のような気もしますが、以前に少し書きましたように「本当の自分」という意味や「魂」という意味、あるいは「無意識(個人的無意識、集合的無意識)」のことを意味することもあります。
以前は私はハイヤーセルフというと漠然と「魂」「高次の自分」「内なるメッセージの主」みたいな感じで捉えていましたが、最近はちょっと違った見方をしております。
まず、肉体があって、意思や思考が備わっている、いわゆる「個人」という主体が存在します。
それは個体としていわゆる「魂」というものもセットになっているわけですけれども、その魂の上位概念として「グループソウル」というものが存在します。
グループソウルは以前に転生についての記事で言及しておりますが、魂が一旦グループソウルに合流してから再度分割して分霊を作って転生する場合と、魂(分霊)がグループソウルに合流せずにそのまま転生する場合とがあります。
そのグループソウルは、そのグループで一つの意識体を構成しているのです。
私の場合、子供の頃に幽体離脱してその辺りのことを知るに至ったわけですが、その時の理解をふと思い出すと、上記のようにグループソウルとしての分霊ができるサイクルがある一方で、そのグループソウルは更に上位の意識の体の中で起こっていたことをふと思い出したのです。
その上位の意識体は地球の軌道上に漂っていて様々な地球の活動を監視や他の意識体に対して指示をしているような、割と有名な名前を持つ意識体ではあるのですが、グループソウルの概念はその意識体の体の中で起こっていたことをふと思い出しました。
と、いいますか、ことあるごとに思い出してはいたのですが、割とスルーしていてすぐに忘れてしまっていて、それほど重要なことではないと受け止めていたのですが、ふと思えば、グループソウルとその上位の意識体の関係のことってほとんど聞いたことがないな... と思ってこの度、記事にしてみました。
その上位の意識体こそが、もしかしたら本当にハイヤーセルフと呼ぶに相応しいものなのかなあ、という気も致します。
グループソウルはそれで意識を持っており、グループソウルはそれはそれで広い世界と広い意識を持っているので、グループソウルの一部だけでも意識を持っています。ですから、グループソウルがハイヤーセルフとして意識を持っていると言えなくもないのですが、むしろ、グループソウルを統括するものとして・・・ といいますか、ハイヤーセルフの体がグループソウルの母体そのものになっていて、ハイヤーセルフはグループソウルそのものと言ってもよく、ハイヤーセルフとしての統括した意識体が存在しているのです。
ハイヤーセルフがグループソウルそのものだとしたら、グループソウルから分霊が生まれるというのは、言い換えれば、ハイヤーセルフから分霊が生まれて私という存在が地上に生まれてきている、とも言えるのです。
これは、ボヤッとしたイメージでグループソウルの存在を論じるよりもよほど具体的でわかりやすい構造だと思いますし、私が幽体離脱した時の経験からして、これが真実だと思います。
今までこの上位の意識体のことを私はハイヤーセルフとは呼んではいなくて、私の魂が分離した大元の意識体、というように言ったりしていましたが、このグループソウル相当の大元の意識体をハイヤーセルフと呼ぶ方が適切かな... と最近思うようになったわけです。
認識自体は前からあったので特別に違いがあるわけではないのですが、言い方だけのお話ですね。
この大元の意識体がハイヤーセルフだとすれば、ハイヤーセルフはかなり遠くて崇高な存在です。
そして、そのハイヤーセルフの近くにいて任務を遂行したり世の中に尽くしている、私のハイヤーセルフと同系統で相応に同じレベルあるいはその近くのレベルにいる意識体が、今私のガイドとして付き添ってくれているようです。
その一方で、私の肉体の意識体と同系統といいますか割と近い存在として過去生で一緒だった人たちが守護霊として近くに大勢いたりするわけですけれども、その友人知人や家族だった守護霊たちと比べて、ハイヤーセルフの近くにもともといた意識体のレベルは相当に高いわけで、頼りになるわけです。
とは言いましても、色々と事情があって、私の今世の目的は以前書きましたようにカルマの解消ですので、その目的に沿って指導が行われてきたわけです。
世の中の理といいますか、あの世の理がわかってきますと随分とスッキリしますし、目的が達成できたらグループソウル(=ハイヤーセルフ)のところに戻るのだとわかってしまいさえすれば人生も楽になります。
私という存在はその目的を達成するべくして分霊になったのであり、帰るところがあるわけですからね。
ただ、そのハイヤーセルフに戻る一方で、今生で知り合ってあの世のコミュニティにいる友人知人や家族だった霊たちのことも気遣う必要があるのでハイヤーセルフのところに戻ったらお終いではありませんけど。人によってはこれを執着と呼ぶかもしれませんけど、コミュニティを簡単に捨てることはできませんしね。
視界がスローモーションで認識される
と言いましても時間の経過速度はそのままの筈ですが、まるで映画のスローモーションのようにコマ割りで視界認識されるようになってきました。
今日は足首骨折のリハビリも兼ねて高尾山に登ってきました。ですが、リハビリというより普通にスタスタ登れました。去年お世話になった御札を返してスッキリしたのです。
この高尾山、霊験高らかということですけどメインのお寺にある願い事をするための紐は大勢が触りすぎていて、大勢が憑き物を落とそうとしてその紐に触るので同様に不意に触ると逆に悪いものが逆流してきて憑かれそうになるという罠があるにはあるのですが紐を触らなければ山としては高いエネルギーに満ちていると思いますのでよく通っています。お店がお正月モードになっていました。
最近はヨガや瞑想によって観察力が高まってきたのか、景色のコマ割りが以前より増えた気が致します。時間の経過速度は以前と同じ筈ですが景色が細かくスローモーション映像のように認識されることが多くなり、なんてことはない景色もゆっくり映像のように綺麗に見えます。遠くに行かなくても自分が変わるだけで世の中は綺麗に見えるものかもしれません。
かなり前は、例えばハイキング等で一歩ごとに3コマ程度のコマ割り認識されていたような気が致します。
例えば、以下の3コマです。
・右足、後ろ
・右足、中央
・右足、手間
今は、これが更に分割されて24コマくらいのスムーズな映像として認識されます。ハイキングするうちに疲れて認識力が弱まりましたが、それでも15コマとか8コマとかで認識されました。このコマ数はニュアンスですのでしっかり数えたわけではありませんが、趣味で動画編集した時にコマ数を変えるとスムーズさが変わることは直感的にわかりますので、それと比べるとだいたいそのくらいということです。
昔は、一体どれだけ無意識で生活していたのだろうかと思います。これはヨーガで言うところのいわゆるタマスな状態で認識力が弱まってコマ数が落ちていたわけですが、ヨーガや瞑想をするにつれて認識力が高まってコマ数が増えてきたような気が致します。
以前の、それほど認識力が高まっていない頃であっても、例えば長く瞑想をして一時的にこのような認識力が高まったこともありますけど急な変化は戻りやすいのでそれ以来それほど認識力が高まった感じはしていませんでした。
それが、ここ最近になって認識力が高まって、なんてことはない景色がコマ割りのスローモーションのように... と言っても時間の経過はそのままなのですが、時間の経過速度はそのままでもまるでスローモーションのようにコマ割りで認識される、ということです。今は、コマ割りというよりスムーズなスローモーション動画が通常速度で認識されます。何言ってるか通じないかもしれませんが、例えば、普通の動画は1秒30コマ(30fps)ですが、それ以上のコマ数を撮影できるハイスピードカメラを用意して撮影し、それを通常の1秒30コマ(30fps)で再生するとスローモーション動画になるのですが、認識としてはそのようにスローモーション動画の細かいコマ割りで認識されるのですが時間経過としては通常の速度のまま、ということです。認識力が高まってきたのだと思います。
瞑想を長くして集中力を激しく高めた時にも同様になったのですがそれは一時的で、しかも相当の集中力が必要で不安定なものだったのですが、今回は努力とかほとんどいらなくて... と言いますか、意識しなくてもナチュラルな自然な状態で集中力と観察力が高まった状態ですので特別の努力が不要で、普段の生活において観察力高まっている感じです。
例えば、普段歩く時に体が上下して視界が少し上下しているわけですけれども、以前であれば1秒に数コマくらいしか認識しておりませんでしたのでその上下移動がほとんど認識されなかったのですが、今はその視界の上下移動がスムーズに認識されるので、視界が常に上下に揺れ続けていて、近くの風景、例えば木の葉っぱとかを見ようとすると常に上下に揺れているので、その自分の揺れで自分が酔っ払ってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。自分の視界で自分が酔っ払う、って一体どういうことでしょう(苦笑)あんまり移動したくなくなっちゃいます。こうなると、視点の移動方法を工夫しないといけないですね。歩いているだけなのに、まさかの酔っ払いなんて(苦笑)ちょっと視点を変えつつ移動するか、見るものを変えつつ歩かないといけないですね。検索したら「スマホの使いすぎ」とか出てきたり... そういう原因かもしれないので注意が必要ですね。まだまだ様子見です。
関連しているのか何なのか、この認識力高まったの同時期から、夜に寝ようとしても意識が動いていて体だけ休む時間帯が寝て1〜2時間の間に生じるようになりました。最初はただ単に寝られないだけかとも思っておりましたが、これは意識が夜でも目覚めていて体だけ休まる、という状態だと解釈すれば好ましい変化であるように思います。時間前後寝るとして、最初の1〜2時間がそんな感じになりつつあります。
私が昔に幽体離脱してグループソウルの過去生を覗き見た時、とある中世ヨーロッパでの人生の中で女性として生まれていたときに同様に夜は意識だけ起きていて体だけ寝ていた、という経験をしていましたので、それと見比べるのならば、きっとやがては寝ている間ずっと意識が目覚めて体だけ休める状態に移行するのかな、とも思います。
こういうのって、スポーツ選手が体験するスローモーションの「ゾーン」みたいな体験に似ている気もしますので、スポーツ選手がヨガや瞑想をしたらパフォーマンスが上がるのではないかとか思うこともありますが、どうなのでしょうかね。私はもともとぶきっちょでおっちょこちょいですのでスポーツとは無縁ですけど、以前よりはマシになった気も致します。主観でスローモーションで見えるようになったとは言ってもスポーツ選手の動体視力は桁外れにもの凄いですから、それと比べたら私の今の状態なんて子供みたいなものだと思いますから比べることなんて全然できませんけどね。ただ、個人的に、以前と比べるとそのような変化があった、ということです。
続き: 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる
今日は足首骨折のリハビリも兼ねて高尾山に登ってきました。ですが、リハビリというより普通にスタスタ登れました。去年お世話になった御札を返してスッキリしたのです。
この高尾山、霊験高らかということですけどメインのお寺にある願い事をするための紐は大勢が触りすぎていて、大勢が憑き物を落とそうとしてその紐に触るので同様に不意に触ると逆に悪いものが逆流してきて憑かれそうになるという罠があるにはあるのですが紐を触らなければ山としては高いエネルギーに満ちていると思いますのでよく通っています。お店がお正月モードになっていました。
最近はヨガや瞑想によって観察力が高まってきたのか、景色のコマ割りが以前より増えた気が致します。時間の経過速度は以前と同じ筈ですが景色が細かくスローモーション映像のように認識されることが多くなり、なんてことはない景色もゆっくり映像のように綺麗に見えます。遠くに行かなくても自分が変わるだけで世の中は綺麗に見えるものかもしれません。
かなり前は、例えばハイキング等で一歩ごとに3コマ程度のコマ割り認識されていたような気が致します。
例えば、以下の3コマです。
・右足、後ろ
・右足、中央
・右足、手間
今は、これが更に分割されて24コマくらいのスムーズな映像として認識されます。ハイキングするうちに疲れて認識力が弱まりましたが、それでも15コマとか8コマとかで認識されました。このコマ数はニュアンスですのでしっかり数えたわけではありませんが、趣味で動画編集した時にコマ数を変えるとスムーズさが変わることは直感的にわかりますので、それと比べるとだいたいそのくらいということです。
昔は、一体どれだけ無意識で生活していたのだろうかと思います。これはヨーガで言うところのいわゆるタマスな状態で認識力が弱まってコマ数が落ちていたわけですが、ヨーガや瞑想をするにつれて認識力が高まってコマ数が増えてきたような気が致します。
以前の、それほど認識力が高まっていない頃であっても、例えば長く瞑想をして一時的にこのような認識力が高まったこともありますけど急な変化は戻りやすいのでそれ以来それほど認識力が高まった感じはしていませんでした。
それが、ここ最近になって認識力が高まって、なんてことはない景色がコマ割りのスローモーションのように... と言っても時間の経過はそのままなのですが、時間の経過速度はそのままでもまるでスローモーションのようにコマ割りで認識される、ということです。今は、コマ割りというよりスムーズなスローモーション動画が通常速度で認識されます。何言ってるか通じないかもしれませんが、例えば、普通の動画は1秒30コマ(30fps)ですが、それ以上のコマ数を撮影できるハイスピードカメラを用意して撮影し、それを通常の1秒30コマ(30fps)で再生するとスローモーション動画になるのですが、認識としてはそのようにスローモーション動画の細かいコマ割りで認識されるのですが時間経過としては通常の速度のまま、ということです。認識力が高まってきたのだと思います。
瞑想を長くして集中力を激しく高めた時にも同様になったのですがそれは一時的で、しかも相当の集中力が必要で不安定なものだったのですが、今回は努力とかほとんどいらなくて... と言いますか、意識しなくてもナチュラルな自然な状態で集中力と観察力が高まった状態ですので特別の努力が不要で、普段の生活において観察力高まっている感じです。
例えば、普段歩く時に体が上下して視界が少し上下しているわけですけれども、以前であれば1秒に数コマくらいしか認識しておりませんでしたのでその上下移動がほとんど認識されなかったのですが、今はその視界の上下移動がスムーズに認識されるので、視界が常に上下に揺れ続けていて、近くの風景、例えば木の葉っぱとかを見ようとすると常に上下に揺れているので、その自分の揺れで自分が酔っ払ってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。自分の視界で自分が酔っ払う、って一体どういうことでしょう(苦笑)あんまり移動したくなくなっちゃいます。こうなると、視点の移動方法を工夫しないといけないですね。歩いているだけなのに、まさかの酔っ払いなんて(苦笑)ちょっと視点を変えつつ移動するか、見るものを変えつつ歩かないといけないですね。検索したら「スマホの使いすぎ」とか出てきたり... そういう原因かもしれないので注意が必要ですね。まだまだ様子見です。
関連しているのか何なのか、この認識力高まったの同時期から、夜に寝ようとしても意識が動いていて体だけ休む時間帯が寝て1〜2時間の間に生じるようになりました。最初はただ単に寝られないだけかとも思っておりましたが、これは意識が夜でも目覚めていて体だけ休まる、という状態だと解釈すれば好ましい変化であるように思います。時間前後寝るとして、最初の1〜2時間がそんな感じになりつつあります。
私が昔に幽体離脱してグループソウルの過去生を覗き見た時、とある中世ヨーロッパでの人生の中で女性として生まれていたときに同様に夜は意識だけ起きていて体だけ寝ていた、という経験をしていましたので、それと見比べるのならば、きっとやがては寝ている間ずっと意識が目覚めて体だけ休める状態に移行するのかな、とも思います。
こういうのって、スポーツ選手が体験するスローモーションの「ゾーン」みたいな体験に似ている気もしますので、スポーツ選手がヨガや瞑想をしたらパフォーマンスが上がるのではないかとか思うこともありますが、どうなのでしょうかね。私はもともとぶきっちょでおっちょこちょいですのでスポーツとは無縁ですけど、以前よりはマシになった気も致します。主観でスローモーションで見えるようになったとは言ってもスポーツ選手の動体視力は桁外れにもの凄いですから、それと比べたら私の今の状態なんて子供みたいなものだと思いますから比べることなんて全然できませんけどね。ただ、個人的に、以前と比べるとそのような変化があった、ということです。
続き: 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる
過去生の記憶から辿るサードアイの変化
最近、アジナ優勢になったり一瞬だけホログラムのように感じるサードアイの経験をしましたけど、過去生の記憶を辿りますとサードアイあるいはフォースアイ(4th eye, 第四の目)とも呼ばれるものは、かなり便利な代物です。どうも、私の場合は内なるガイドの導きにより、サードアイは問題が多いという理由でサードアイをあまり活性化させずにフォースアイを目指している感があります。まあ、それは気のせいで、これがサードアイなのかもしれないですけど。
サードアイは割と霊的なものを見分ける目で、霊を見たりすることができるわけですけど、俗にいうフォースアイは現実そのものから時空を超えて認識できる能力のようです。まあ、私の場合、今生でそれを活性化させるのは必須ではないようですけど。
そのフォースアイは、最初、頭の真ん中あたりで作ります。ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの目のように... と言っても体はついていなくて目玉だけですけど、アストラルの目を頭の真ん中あたりでまず作ります。そうすると、まずぼんやりと周囲が認識できるようになります。
その後、その目の構造が強固になったら少しずつ頭の上から出したり戻したりします。最初は少し出して、安定しないようであれば戻したりします。
やがては、その目が頭の上に常に常駐できるようになります。この時点で、ほぼ360度の視野ができます。ただし、単眼ですので距離感が掴みにくいのが弱点です。後ろから来るものがどのくらい離れているのかは、最初は肉眼とで見比べて慣れる必要があります。慣れれば、しっかり見れば距離が分かりますがなかなか直感的に距離は分かりません。単眼ですので仕方がないですが、慣れてくればそれなりに実用になります。
頭の上で常駐するのに慣れてきたら、その目を動かしてみます。少し体から離して、自分の体を眺めてみることもできます。ヨガのポーズを周囲から自分で確認できたりするのでここまで行ければかなりこの目は役に立ちます。
その後、更に慣れて来ると時空を越えることができます。
・・・とまあ、そうは言いましても、私はできませんけどね。幽体離脱した時に覗き見たグループソウルの過去生の記憶を辿ったまでのことです。
順番としては、まずクンダリーニを活性化させて、瞑想をして、頭のアジナにまでエネルギーを充満させて、その後、上のように頭の中に目を作ります。
・・・真似してみてできなくても保証はしません(苦笑)
■十牛図と比較したサードアイの変化 (2020/1/8追記)
後日、それぞれに十牛図のステップが対応していることに気が付きましたので少しメモ的に記載してみたいと思います。
第一図 尋牛(じんぎゅう)
第二図 見跡(けんぜき/けんせき)
第三図 見牛(けんぎゅう)
第四図 得牛(とくぎゅう)
第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
第八図 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
第九図 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
ここで主に参考にしておりますのは「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」という書籍です。その書籍の記述を元に、自分の記憶と感覚とをそれぞれのステップに当てはめてみたいと思います。
まず第三図「見牛(けんぎゅう)」にてヨーガ・スートラの目的である心理作用の止滅を達成します。これに関しては以前から何度か書きました。更に、最近はヴィパッサナー状態に移行しました。これでおそらくは「見牛」のステップが完成したのだと思います。
次は第四図「得牛(とくぎゅう)」です。上記の書物を読みますと「真我(アートマン)」を安定させるステップと記されています。更には色々と細々な前提条件が必要のように書かれてあります。ヨーガで言うところのスシュムナという背骨に沿った主要なエネルギールートであるナディが浄化されていなくてはならず、その浄化されたスシュムナにエネルギーを通して強化するステップであると個人的には解釈しました。これはおそらく、最近やっているオーラの凝縮のステップが相当するのかなと思います。それを少し続けたところゼリーのような感覚に変わってきておりますので、上記の書物で言うところの「無形の真我を鎮める」というステップに相当するのかな、と思います。これまた同書では細かいステップが書いてありますが師匠がいることが前提の記述ですのでそのまま参考にはできませんが、所々参考になる箇所があります。同書によれば、このステップではまだ完全に真我を安定させることはできず、真我の安定に取り掛かるためのステップのようです。まとめますと「得牛」のステップはスシュムナの浄化を前提としてオーラをスシュムナに取り入れて安定・強化を開始するステップだと解釈できます。
次は第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」ですが、上記の書物の説明を読みますと第四図の「得牛」と一続きのように思われます。同書で「真我(アートマン)の離脱」と呼ばれているステップの準備として位置付けられているようです。この「牧牛」は前の第四図「得牛」で開始した「真我の安定」を完成させるステップのようです。
であれば、私はきっと今はこのステップにいるのでしょうね。このあたりは、先日書いた過去生の記憶から辿るサードアイの変化と比較しますと、頭の中に核となるものを瞑想で作り上げるステップに相当するのかな、と思います。
次の第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」は、同書によれば、前の第五図「牧牛」で完全に安定した真我(アートマン)を、同書で言うところの「離脱」を行って神我(ブラフマン)と一体化させるようです。これは私はまだ未経験ですが、過去生の記憶から辿りますと、頭の中で形となって作られたサードアイ(あるいはフォースアイと呼んだ方が適切か)を頭の上から出して多次元的な視野を得るステップに相当すると思われます。
次の第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」ですが、これは過去生の記憶を辿りましてもどのような感じかあまり思い出せませんが、おそらくは多次元的な視点を持った時の状態だったかと思います。その多次元的な視点においては個というものが消滅してトータルな視点が得られるのだと思われます。
次の第八図「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」もその先の境地を示していると思われますが、私はまだまだこれからですので、現時点でここから先を知っても仕方がない気も致します。
私の過去生の記憶が本当にこれらと対応しているかどうかは分かりませんが、メモ的に記載してみました。
サードアイは割と霊的なものを見分ける目で、霊を見たりすることができるわけですけど、俗にいうフォースアイは現実そのものから時空を超えて認識できる能力のようです。まあ、私の場合、今生でそれを活性化させるのは必須ではないようですけど。
そのフォースアイは、最初、頭の真ん中あたりで作ります。ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの目のように... と言っても体はついていなくて目玉だけですけど、アストラルの目を頭の真ん中あたりでまず作ります。そうすると、まずぼんやりと周囲が認識できるようになります。
その後、その目の構造が強固になったら少しずつ頭の上から出したり戻したりします。最初は少し出して、安定しないようであれば戻したりします。
やがては、その目が頭の上に常に常駐できるようになります。この時点で、ほぼ360度の視野ができます。ただし、単眼ですので距離感が掴みにくいのが弱点です。後ろから来るものがどのくらい離れているのかは、最初は肉眼とで見比べて慣れる必要があります。慣れれば、しっかり見れば距離が分かりますがなかなか直感的に距離は分かりません。単眼ですので仕方がないですが、慣れてくればそれなりに実用になります。
頭の上で常駐するのに慣れてきたら、その目を動かしてみます。少し体から離して、自分の体を眺めてみることもできます。ヨガのポーズを周囲から自分で確認できたりするのでここまで行ければかなりこの目は役に立ちます。
その後、更に慣れて来ると時空を越えることができます。
・・・とまあ、そうは言いましても、私はできませんけどね。幽体離脱した時に覗き見たグループソウルの過去生の記憶を辿ったまでのことです。
順番としては、まずクンダリーニを活性化させて、瞑想をして、頭のアジナにまでエネルギーを充満させて、その後、上のように頭の中に目を作ります。
・・・真似してみてできなくても保証はしません(苦笑)
■十牛図と比較したサードアイの変化 (2020/1/8追記)
後日、それぞれに十牛図のステップが対応していることに気が付きましたので少しメモ的に記載してみたいと思います。
第一図 尋牛(じんぎゅう)
第二図 見跡(けんぜき/けんせき)
第三図 見牛(けんぎゅう)
第四図 得牛(とくぎゅう)
第五図 牧牛(ぼくぎゅう)
第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)
第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)
第八図 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
第九図 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)
第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)
ここで主に参考にしておりますのは「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」という書籍です。その書籍の記述を元に、自分の記憶と感覚とをそれぞれのステップに当てはめてみたいと思います。
まず第三図「見牛(けんぎゅう)」にてヨーガ・スートラの目的である心理作用の止滅を達成します。これに関しては以前から何度か書きました。更に、最近はヴィパッサナー状態に移行しました。これでおそらくは「見牛」のステップが完成したのだと思います。
次は第四図「得牛(とくぎゅう)」です。上記の書物を読みますと「真我(アートマン)」を安定させるステップと記されています。更には色々と細々な前提条件が必要のように書かれてあります。ヨーガで言うところのスシュムナという背骨に沿った主要なエネルギールートであるナディが浄化されていなくてはならず、その浄化されたスシュムナにエネルギーを通して強化するステップであると個人的には解釈しました。これはおそらく、最近やっているオーラの凝縮のステップが相当するのかなと思います。それを少し続けたところゼリーのような感覚に変わってきておりますので、上記の書物で言うところの「無形の真我を鎮める」というステップに相当するのかな、と思います。これまた同書では細かいステップが書いてありますが師匠がいることが前提の記述ですのでそのまま参考にはできませんが、所々参考になる箇所があります。同書によれば、このステップではまだ完全に真我を安定させることはできず、真我の安定に取り掛かるためのステップのようです。まとめますと「得牛」のステップはスシュムナの浄化を前提としてオーラをスシュムナに取り入れて安定・強化を開始するステップだと解釈できます。
次は第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」ですが、上記の書物の説明を読みますと第四図の「得牛」と一続きのように思われます。同書で「真我(アートマン)の離脱」と呼ばれているステップの準備として位置付けられているようです。この「牧牛」は前の第四図「得牛」で開始した「真我の安定」を完成させるステップのようです。
であれば、私はきっと今はこのステップにいるのでしょうね。このあたりは、先日書いた過去生の記憶から辿るサードアイの変化と比較しますと、頭の中に核となるものを瞑想で作り上げるステップに相当するのかな、と思います。
次の第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」は、同書によれば、前の第五図「牧牛」で完全に安定した真我(アートマン)を、同書で言うところの「離脱」を行って神我(ブラフマン)と一体化させるようです。これは私はまだ未経験ですが、過去生の記憶から辿りますと、頭の中で形となって作られたサードアイ(あるいはフォースアイと呼んだ方が適切か)を頭の上から出して多次元的な視野を得るステップに相当すると思われます。
次の第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」ですが、これは過去生の記憶を辿りましてもどのような感じかあまり思い出せませんが、おそらくは多次元的な視点を持った時の状態だったかと思います。その多次元的な視点においては個というものが消滅してトータルな視点が得られるのだと思われます。
次の第八図「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」もその先の境地を示していると思われますが、私はまだまだこれからですので、現時点でここから先を知っても仕方がない気も致します。
私の過去生の記憶が本当にこれらと対応しているかどうかは分かりませんが、メモ的に記載してみました。
大天使はその分霊を多数この地上に派遣している
有名な大天使に限らず、強大な力と影響力を持つ大天使は地上に何かを働きかける際に直接メッセージを送ることはほとんどなく、分霊を通して地上にメッセージを送られます。それは分霊が地上近くに行ってメッセージを睡眠中や瞑想中のイメージと共に送られることもあれば、分霊が地上に転生して使命を果たすこともあります。大天使の本体がそうして転生した分霊に対してメッセージを送ることもあります。目覚めている分霊の場合は大天使の本体と相互にコミュニケーションを取りながら使命を果たすこともありますが、それよりも、単なるメッセージとして受け取って行動することの方が多いように思います。
大天使は多数の分霊をこの世に送り出していますから、自分のハイヤーセルフが有名な大天使だと言う方が多数いても不思議ではないと言いますか、それが当然なのだと思います。ハイヤーセルフと自分としての分霊が一対一かのような印象がニューエイジ思想の中に刷り込まれているように思いますが、私の認識では、ハイヤーセルフは多数の分霊を作り出していると思います。
大天使から分霊が生まれる際、分霊の側から見るとグループソウルから分離したかのような感覚になります。このあたりは以前にも少し書きました。ハイヤーセルフとしての意識が存在して、ハイヤーセルフがグループソウル相当で様々な思考を統合しており、ハイヤーセルフの意思はあるにせよ、グループソウルと分霊個々という階層で経験した意見や思考もまた存在していて、確固としたハイヤーセルフの意識とグループソウルの中にある分霊としての意識とは表裏一体と申しますか、全体と個としての関係になっているわけです。
例えば私が枝分かれした有名な大天使にしても、地上の私の分霊に対して、本体のハイヤーセルフとしての大天使はざっと私の300倍から1000倍のオーラとエネルギーを有していると思われます。ですから、私なんてのは大天使からしてみたらほんのささやかな小さな存在であり、ハイヤーセルフとは自分といえばそうなのですが、とても自分とは言えないくらいオーラもエネルギーも違います。
そうは言いましても私の分霊はハイヤーセルフの一部だった訳で、その記憶の一部を共有していたり、あるいは、もともとの目的が完遂したら元に戻る・・・、つまりは、ハイヤーセルフと再度一緒になる・・・、見方を変えれば、グループソウルとまた一緒になる、ということを期待・予定されているわけです。
その分霊はそれぞれに目的があって分霊になるわけで、地上の社会のためですとか精神的啓蒙ですとか色々と目的があるわけですが、大天使の大いなる意図があって、それから分霊が作られるわけです。
そうしてみますと、私の運命や思考や人生は自分で考えているというよりは大天使の意志の手のひらで踊っている小さな存在に過ぎないわけです。
特殊能力にしても、必要ならば与えられますし、不必要ならば普通の人として暮らす... と言いますか、不必要ならば能力は発現しないでしょう。
地上に生まれて、あたかも自由意志があるような気がずっとしておりましたが、最近、次第に、自由意志とはあるように見えるだけで幻想で、大いなる意思に左右されているのだという認識が強くなってきました。
確かに、細かな部分では自由意志は存在しますが、大いなる意思に個人の意思が従わないのだとしたらしつこくその運命の方にかなり強引に方向転換させられるような気がしております。
今年も終わりですが、来年は、更なる導きがありますように。よいお年を迎えることができますように。
大天使は多数の分霊をこの世に送り出していますから、自分のハイヤーセルフが有名な大天使だと言う方が多数いても不思議ではないと言いますか、それが当然なのだと思います。ハイヤーセルフと自分としての分霊が一対一かのような印象がニューエイジ思想の中に刷り込まれているように思いますが、私の認識では、ハイヤーセルフは多数の分霊を作り出していると思います。
大天使から分霊が生まれる際、分霊の側から見るとグループソウルから分離したかのような感覚になります。このあたりは以前にも少し書きました。ハイヤーセルフとしての意識が存在して、ハイヤーセルフがグループソウル相当で様々な思考を統合しており、ハイヤーセルフの意思はあるにせよ、グループソウルと分霊個々という階層で経験した意見や思考もまた存在していて、確固としたハイヤーセルフの意識とグループソウルの中にある分霊としての意識とは表裏一体と申しますか、全体と個としての関係になっているわけです。
例えば私が枝分かれした有名な大天使にしても、地上の私の分霊に対して、本体のハイヤーセルフとしての大天使はざっと私の300倍から1000倍のオーラとエネルギーを有していると思われます。ですから、私なんてのは大天使からしてみたらほんのささやかな小さな存在であり、ハイヤーセルフとは自分といえばそうなのですが、とても自分とは言えないくらいオーラもエネルギーも違います。
そうは言いましても私の分霊はハイヤーセルフの一部だった訳で、その記憶の一部を共有していたり、あるいは、もともとの目的が完遂したら元に戻る・・・、つまりは、ハイヤーセルフと再度一緒になる・・・、見方を変えれば、グループソウルとまた一緒になる、ということを期待・予定されているわけです。
その分霊はそれぞれに目的があって分霊になるわけで、地上の社会のためですとか精神的啓蒙ですとか色々と目的があるわけですが、大天使の大いなる意図があって、それから分霊が作られるわけです。
そうしてみますと、私の運命や思考や人生は自分で考えているというよりは大天使の意志の手のひらで踊っている小さな存在に過ぎないわけです。
特殊能力にしても、必要ならば与えられますし、不必要ならば普通の人として暮らす... と言いますか、不必要ならば能力は発現しないでしょう。
地上に生まれて、あたかも自由意志があるような気がずっとしておりましたが、最近、次第に、自由意志とはあるように見えるだけで幻想で、大いなる意思に左右されているのだという認識が強くなってきました。
確かに、細かな部分では自由意志は存在しますが、大いなる意思に個人の意思が従わないのだとしたらしつこくその運命の方にかなり強引に方向転換させられるような気がしております。
今年も終わりですが、来年は、更なる導きがありますように。よいお年を迎えることができますように。