息を頼りにアートマンに近づく

2019-09-11 記載
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

先日 の、心が息に寄り添う瞑想の続きです。

■2つの寄り添う瞑想での「手放し」
先日、以下の2つを行いました。

・心臓の鼓動に寄り添う瞑想
・息に寄り添う瞑想

最初は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」を行いましたが、心臓の鼓動はムーラダーラ活性化の直後は激しく鼓動していましたが時間が経つにつれて鼓動が弱くなっていきましたので、試しに「息に寄り添う瞑想」をしてみたら感覚が同じでしたので息に切り替えました。鼓動が弱くなってゆくのはクンダリーニの初回の時もアナハタ優勢になた時も同様でしたので予想がつきました。ですので、息で大丈夫ならば息で良いと判断して切り替えました。

この時、「心」を「手綱」にして心臓の鼓動あるいは息に自分の意識を繋ぎ止めました。海に浮かんでいるボートから伸びているロープを掴んで安定させるようなイメージです。

そうして意識が安定してきたら、試しにその手綱の手を少しづつ緩めてみました。すると、その手綱に力を入れなくても「心」が安定することに気がつきました。これは、以前はこのようにはなりませんでした。以前は例えば何かに集中するですとか、ナーダ音をずっと聞いているですとか、手綱のようなもので何がしかに繋ぎ止めておかないと心が安定しなかったのですが、今回、手綱を緩めても、「わたし」という存在は心臓の鼓動あるいは息のすぐそこに留まって安定していました。

ここでいわゆる「手放し」が行われたわけです。

一般的には「手放し」の意味はどこかへ捨てたり知らない彼方へ彷徨わせることのようなイメージがあると思いますが、ここでの「手放し」とは、心が揺れ動かないのでもはや手綱は必要なく、手綱を手放しても心はその場に落ち着く、という種類のものです。

■卵状の漆黒の空間の出現
そして、手放してみたら先の記事のように三つの要素が現れました。

・肉体としての自分
・卵状の漆黒の空間(肉体の自分の周囲に存在)
・卵状の漆黒の空間の外側に広がる現象の世界。例えばナーダ音は外側でのみ響いている。

■摑もうとして「力を入れると」、握り潰してしまう
なかなか微妙なところではありますが、やはり瞑想の最初は「集中」であるわけですけれども、その集中の行き着く先はこうして「手綱」なのかなと理解致しました。

禅の十牛図ともイメージが似ていますけれども、最初はそうして心を手綱で引き止めて、暴れる心(十牛図では牛に相当)を落ち着ける必要あるのでしょう。

そうして、心が落ち着いたら、「力を抜いて」「手放す」ことをする。すると、見えてくるものがある。

そういえば、一部の十牛図の解説書に、どの書籍か探すことができませんが、「確固たる意志で真我(アートマン)を繋ぎ止める」というようなことが書いてありました。その説明では、「真我(アートマン)は彷徨っているので、確固たる意志で繋ぎ止める必要がある」というように書いてあったかと思います。まあ、実際はそれはきっと正しいのでしょうけれども、自分の「感覚」からすると最初は真我(アートマン)が彷徨っているかどうかなんて分かりませんので、「真我(アートマン)を探す」とか「真我(アートマン)を繋ぎ止める」というような内容が書いてあっても、当時は「何のこっちゃ」という感じでした。書籍に書いてあった要点は以下ですね。

・アートマンは彷徨っている。
・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。
・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。

私の今日の瞑想の感覚で言いますとその逆です。

手綱を「手放した」ときにアートマンといいますか卵状の漆黒の空間が現れて安定したような気がいたします。力を入れてアートマンを掴む、みたいなお話はよくわかりません。流派にもよるのでしょうか。それとも、私が勘違いしているだけで別物のお話かもしれません。禅の十牛図では「真我(アートマン)を確固たる意思で捕まえる」みたいな説明があって、あたかも真我(アートマン)が動いているような説明になっていますけど、私の今回の感覚では逆でした。真我(アートマン)は動かなくて、自分が真我(アートマン)に捕まる、という感じでした。その後、手を離しても安定している、という感じです。まとめますとポイントは以下ですね。

アートマンは彷徨っている。 → もしかしたら実際にはその通りなのかもしれないですが、今回、アートマンは肉体の私の周囲に常に存在しているように感じた。常に存在しているが普段はその存在に気付いていないだけのように感じた。ヴェーダではアートマンこそが本当の”私”だが、その存在に普段は気付いていない。
”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。 → ヴェーダ的な”私”は別の意味(アートマンのこと)になってしまうので、十牛図的な”私”は”心”や”意識”のことであると解釈。いわゆる”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを見出す、と読み替える。(アートマンは実際には彷徨っているのかもしれないですが)私の感覚では自分と常に共に存在しているように感じられましたので、そうであればどこかを探す必要はなくて、普段から自分と共にあるアートマンを自分自身の中に見出す。
”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。 → 逆。アートマンは動かずにどっしりと存在している(と今回感じられた)。十牛図的な解釈ではアートマンが何か付随物のような印象を受けてしまうが、アートマンが盤石な巨石というイメージ。ですから、十牛図的な”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを繋ぎ止めるのではない。逆に、盤石な巨石のアートマンに彷徨っている”心”や”意識”を繋ぎ止める。実際はアートマンそのものではなく、アートマンに近いところの”心臓の鼓動”や”息”に繋ぎ止める。

■息とアートマン
”息”はアートマンそのものではないですがアートマンに近いものであると一部の流派では理解されていて、息の観察こそが高い意識への道であるという流派もあります。例えばクリヤ・ヨガなどですね。

そこで言う「息の観察」こそが高い意識へと導くと言う教えは、今までは「そうなのかな???」と半信半疑でしたけれども、今回、息を繋ぎ止める瞑想をしてアートマン(違うかもしれませんが)のような卵状の漆黒の空間を見出したことにより、「息」はかなり奥深いのだな・・・ と思わされました。

クリヤ・ヨガの書籍には例えば以下のように記載されています。


「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より

この図の意味としては、コーザル体においては「父なる神 → プラーナ/神の子 → 息」という順番で顕在化する。コーザル体の「息」からアストラル体の「チッタ(いわゆる心)」が作られる。 という意味だと思います。

クリヤ・ヨガは以前少し勉強してその後放置していましたが、このあたりをもう少し突き詰めると面白いのかもしれません。



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