瞑想中における頭頂部上方の熱感(同テーマ&時系列の前記事)

何も起こらない瞑想から空と観照へ

2019-09-19
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

最近の瞑想は、自分から意図的にエネルギーを動かそうとしなければ何も起こらないようになってきています。

以前は雑念やら葛藤やらが出てきて制御するのに困ったことになったりもしましたが、今は、雑念や想念は「半透明」な感じで認識されますので、それほど瞑想の邪魔にはなりません。

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスによる著書には以下のようにあります。

瞑想に時間を費やせば費やすほど、ストレスが解放されて行った。マハリシはこの解放を、過去の記憶の解放と表現した。(中略)カルマが解放されて初めて、悟りに達することができるのだ。その理解のおかげで、わたしは "何も起こらない” 瞑想を受け入れられるようになった。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

この記述は、どうやら私の今の状態に近いような気が致しました。自分から何かを意図的に起こさない限り基本的には”何も起こらない”瞑想になってきていますので。

同書によるとこの時彼は瞑想コースの途中だったようで、コースを進めてゆくうちに以下の状態になったと言います。

2ヶ月コースの4週間目に入る頃には、瞑想があまりにも深くて、すべてが消えていった。わたしは内なる宇宙というとてつもなく大きな領域のなかで迷子になり、自分の身体がどこにあるのかもわからなかった。(中略)私の意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私はこの状態にはまだ達していませんが、この「透明でホログラフ状」という記述は目印になります。 私の場合、今のところ想念などが「半透明」で認識されますので、一部は似たようなことを体験しているように思われます。そのうち私もこんな感じになるのでしょうか?

瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)究極的には、自分の全存在が無限の平和へと溶けこみ、思考が無限の空間のなかへ消えてゆく。この無限の空間がいわゆる空(くう)だ。(中略)空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照(かんしょう)だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私の場合、無限の静寂を「外側」で感じてはいても、まだ「吸収」されていない感じです。これらの記述は今後の目印になります。

■サハスララの体験
ヨーガ行者の本山博先生によるサハスララの体験が似ている気が致します。

自分の意識が、登頂の門を抜けてしだいに高みにのぼり、はるかはるか彼方の上方におられる神のもとに還っていくのがわかるのです。(中略)えもいわれない法悦と平安のうちに、自分の霊的な全存在が埋没しているような状態が続きます。「密教ヨーガ(本山博著)」

この、サハスララから抜け出て宇宙を感じる感覚に、ボブ・フィックス氏の体験がどこか似ているような気が致します。

■観照が深まると眠りがなくなる
これはヨーガ聖典で言われていることです。

観照が増えるにつれ、睡眠に大きな変化が起こった。自分としては完全に冴えているのに、身体が眠っていたのだ。わたしは冴え渡っているのに、深い眠りの真っ暗闇のなかで、思考のスイッチはオフになっていた。それから、その暗闇のなかで、夢が現れたり消えたりする様子に気づいていた。(中略)睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私はまだこの段階まで来ていません。クンダリーニ活性化の時点で睡眠時間が短くなってあまり眠らなくても良くはなりましたが、このような感じにはまだなっていません。

■ボブ・フィックス氏の悟り
ボブ・フィックス氏の体験を読むと、上記の睡眠の後、以下のような状態に変化するようです。

わたしはつねに、無限とともに在ることになった。宇宙の広大無辺な意識と、永遠に一体となったのだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

なかなか読み解くのが難しいですが、同書によれば、この段階で「全く違う自分になっていた」と書いてありますので、この最後の段階はかなり大きな変化なのだと思われます。

観照やサハスララだけでもそれなりの悟りと言えるような気が致しますが、この段階まで来て本当の悟りなのかもしれません。



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