私はこの人は知りませんでしたがたまたま図書館の関連図書リストに表示が出たので借りてざっと読んでみました。
この人の悟りの経験は公園で起こったと記されています。
歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。(中略)自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。(中略)ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(中略)いついかなる場所でも、私は静寂、無条件の愛、一元性(ワンネス)に完全に包まれ、抱擁されている。「オープン・シークレット(トニー・パーソンズ 著)」
これ、アナハタ優勢になって少し後に記したこの記事「雑念が減り、『いま』に生きる」の内容に似ていますね。
「自分が歩くのを観察している自分」とは文字通りでは解釈が困難ですが、その前後の文脈を読み取ると次のように解釈できます。
・最初は、雑念が多い状態だった。
・雑念が消えたとは明記してありませんが、雑念が消えたと解釈できます。雑念が消える前が「自分が歩くのを観察している自分」だとすれば、雑念が消えた後が「歩きがただあるということ」の状態であり、前者から後者への移行がこの公園で起こったと解釈できます。
・その結果、「時間がなくなり」、「私はもう存在しなくなる」「私は消え、経験する者がいなくなる」という状態になった。
本人は「何もしていないのに起きた」と記していますが、私には彼が偶然にヴィパッサナー瞑想に入ったように見えます。であれば、何もしていないのではなく、文字通りしっかり「観察」をしたのだと思います。本人は修行とかをしなくていきなりその状態に入れたので修行方法とかわからないようですけど。
これは、本人が「勝手に自動的に起きた」と思っているだけで、物凄く合理的な話だと私なんかは思います。修行方法もきちんとありますし。
一昔前であればこのくらいでも「悟りを開いた」とか言って団体作ったりセミナーしたりしていたのかもしれないですけど、最近ならこのくらいは割と普通に達成できる段階のような気が致します。悟りにも色々な段階がありますね。
雑念のうち「過去」に関するものは自分のカルマというかサムスカーラという「印象」によって何度も呼び起こされますし、「未来」に関する雑念は想像で期待なんかをして頭の中で想念が何度も繰り返されるわけです。この二つを止めれば「いま」に生きて同様の状態になるのは明らかです。ヴィパッサナー的なお話でもありますし、ヨーガのお話でもあります。
まあ、何度か詳しく書いた気がしますので繰り返しませんけど。