タマスとはヨガで言う愚鈍な重い性質のことですけど、清浄な意識の上に覆い被さるようにして意識を曇らせます。瞑想をすることでタマスの覆いを取り払い、清浄な意識に戻すことができます。
この、清浄な意識に戻す力は最初は弱く、やがては強くなってゆくような気が致します。
最初、チェルドルとも言える状態の時はその力はまだ強くありません。じっと長く瞑想で観察を続けることによってようやくタマスの雲を取り払うことができます。やがて、シャルドルとも呼べる状態に至り、その力が強くなってきているのを感じます。
これらの状態に至るまでは行ったり来たりを繰り返していて、日常生活において疲れが溜まったりするとそれに応じるかのように清浄な意識が弱まり、体や精神が休まっているとタマスが増える傾向にはありますが、根底にある、清浄へと戻す力というものは少しずつ強くなってきていてストレスに強くなってきているような気が致します。
ストレスがある生活をただやめてゆけば良いわけでもなくて、日常生活を送る上においてはストレスはどうしてもありますから、ストレス耐性をつけるという意味でも、悟りがストレスによって簡単に失われてしまわないためにはある程度、タマスな愚鈍な状態およびストレスを日頃から多少は受けることが必要なような気が致します。
それは常にストレスやタマスな愚鈍の状態にいるということではなく、清浄な状態にいることは絶対的に必要で、それだけでは不十分で意図的にストレスを作り出して清浄な意識にストレス耐性をつけてゆくことが必要なのではないかと思うわけです。
おそらくは、ヨーガや伝統的な宗教の修行においてストレスを生むような苦行が行われるのもある程度はこのような意味合いもあるのではないかと思います。
苦行を行なってしまうとこのようなストレス耐性のお話だけでなくて、意図しない「能力」的なものを引き出してしまうこともありますので何が正しいのかを見極めるのは難しいのですが、少なくとも苦行にはこのような意味もあるとは思います。
清浄な意識を保つための座った瞑想は静かな場所で行われるべきで、それによって清浄な意識を育て、その清浄な意識を確固なものとするために苦行のようなもの、あるいは長時間にわたるマントラの詠唱みたいなものが行われるのではないかなと思います。
現代人はある意味、常日頃からストレスにさらされていますのでわざわざこのような苦行をする必要はあまりなくて、普通に日常生活を送って仕事をしさえすればそれが十分に修行になっているような気も致します。
お寺やアシュラムですと外界から切り離されてストレスのない生活を送れたりしますけど、それだけだと不十分で、意図的にストレスを作り出すことで清浄な静寂の境地を確固たるものにするわけですね。
一方で、日常生活を送っている人は苦行はある意味、そこら中に普通に存在しておりますので改めて苦行を追加で行う必要はなく、静かな意識を育てるため早朝などに座って瞑想をすれば十分かなとも思うわけです。
誤解を与えてしまうと何ですので補足しておきますと、どちらにせよ、もともとタマスが厚く覆いかぶさっている人の場合はタマスを長時間かけて取り除くのが最初であって、その時はタマスをわざわざ追加でもらう必要はないと思います。
ここで言っているのは、ある程度の意識の浄化ができた後に、清浄な意識に達したけれどもその力がまだ弱い段階においてはあえてタマスを意図的に加えることで清浄な意識を強めることができる、というお話です。
日本の場合ですともともとそれなりの清浄な意識で生まれてきている人も大勢いらっしゃいますし、であればそれを強化すればいいだけであるわけです。一方、タマスな愚鈍な性質がついてしまっている方の場合はまずタマスを浄化して清浄な意識を達成して、それから、ここで言うような意図的にタマスをつけて清浄な意識を強化してゆく話が出てくるわけです。ですから、最初のタマスが暑い段階でわざわざ追加でタマスをもらう必要はないわけです。
これは、そういう手法もある、というくらいのお話ですので、やらなくても別にその人の自由です。ですけど、伝統的な手法を見ていると、今は単なるルーチンになってしまっている感もありますけど、もともとは清浄な意識を達成した後にそれを確固たるものにするためにしていたものもあるのかなぁ、という気がしています。