頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至る

2020-10-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

意識の平穏が段階的やってくるような瞑想を近日はしているわけですが、意識の平穏が訪れる時は上半身に漂っているモヤモヤとしたものが喉の辺りを通ってハートおよび下半身に流れ込むことに気が付きました。

日常生活を送ってタマスな愚鈍なものが溜まる時と、静寂の意識、平穏の状態が保たれている時とでは何が違うのかと言うと、そのようにタマスが頭から喉およびハートを通って下半身に流れ込むことができるかどうかと言う点が異なる気が致します。

例えば、日常生活を送っている時に緊張があったりすると頭とハートを結ぶエネルギー・ルートが少し詰まりがちになります。緊張・ストレス・マイナスの意識によってそのエネルギールート、ヨガで言うスシュムナが詰まりがちになってしまいます。そうすると頭の周囲に溜まってしまうタマスな愚鈍な性質が浄化されずに溜まってしまって、愚鈍な性質が強まって静寂の意識ではなくなってしまうわけです。

一方で、日常生活で緊張をあまりせずにスシュムナが開いている状態では多少のタマスな愚鈍な性質があったとしてもすぐに清浄な意識に戻ることができる気が致します。

これは、瞑想中に起こっていたことですが、今までは清浄な意識が段階的に訪れる理由がそれほど把握できていませんでした。

今は、頭の周囲に溜まっているタマスが、まるで溜まっている風呂場の水が水栓を抜いた時に一気に抜けていくかのごとく、特に喉を通ってハート、下半身へと流れ込んでゆくのを感じます。タマスがそのように下に抜けることで清浄な意識に戻ってゆくことを同時に感じることができます。

特に喉のヴィシュッダチャクラで浄化がほぼ行われて、残りかすみたいなものが下半身に巡るような感じです。喉のヴィシュッダ・チャクラは浄化のチャクラだとも言われますけど、こういうことなのかもしれません。

おそらく、ですが、以前はスシュムナがまだそれほどきちんと開けていなかったのでしょう。そして、スシュムナが開くと清浄な意識になる、と言うのはヨガの聖典に書いてあることと一致するような気が致します。

プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空のなかに埋没したときには、このヨーガの達成者は全ての業作の根を絶ってしまう。ハタ・ヨーガ・プラディーピカー 4・12「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)

その時の私の状態としては、上半身が清浄な意識で、下半身はクンダリーニの熱い熱気に覆われています。その時、静寂な意識が保たれます。一方で、タマスな状態の時は緊張があって頭の周囲がタマスで愚鈍で、下半身は同じです。違いはと言うとスシュムナが閉じ気味という点です。少しずつスシュムナが開く時はそれに応じて意識も段階的に静寂になっていたわけです。一方で、それなりにきちんと開かれているのであれば清浄な意識が保たれるわけです。

これは程度のお話で、スシュムナが完全に閉じてしまうことは私の場合は今後はほとんどないのかなと思いますけど、少し詰まってしまうとこのように違いを感じることができます。

瞑想をして、単に眉間に集中するだけでなく、スシュムナを開くという意図を持つことが重要なのですね。そのために背筋をまっすぐにしたり、ソー・ハン瞑想をするなり、小周天をしたりしてメンテナンスが必要なわけです。これはヨーガで基本とされていることですけど、基本であるがゆえに割とスルーしがちでした。しかしながら、今となっては意識の清浄とスシュムナの関係がきちんと瞑想中に感じられますので、とても重要なのだというのがよくわかります。

そもそも日常生活で緊張をもらわなければいいのかもしれませんけど、日常生活でどうしても疲れは溜まりますから、メンテナンスは必要なわけです。そのメンテナンスが瞑想なわけですけれども、座って瞑想をするのが一番ですが、座っていなくてもスシュムナを意識してエネルギーが通る状態にすれば割と清浄な意識が保ちやすい気が致します。

私の今生の目的の1つは覚醒への階梯を確かめることですので私は割と実験的なことをしていて、意図的にタマスを増やしてみたりしてますけど、普通の人はあまりこのような実験はしなくていいのかなという気も致します。その人の自由ですけどね。