瞑想で集中(サマタ)すると観察(ヴィパッサナー)が現れる

2020-10-16 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想の「行為」としては「集中」です。
そして、「結果」として「観察」が生じます。

これを取り違えて、「行為」として「観察」を行おうとしてもそれは単に観察しているつもりで集中している、というお話になります。例えば皮膚の観察をする瞑想(いわゆるヴィパッサナー瞑想の流派の手法)がありますけど、それは実際は瞑想的には集中に分類されるものです。

言い方として「観察」とか「ヴィパッサナー」とか呼んでいたりしますけど、それは個別の流派の言い方がありますのでそれはそれでいいと思いますし、その流派に属するならば好きに解釈して先生の教えに従えば良いと思います。私は私なりの解釈を書いているだけで、他人に解釈を変えろと言っているわけではなく、整理のためにこのように書いているだけです。

「行為としての集中」には「顕在意識」が対応し、「結果としての観察」には「潜在意識、あるいは深層意識」が対応します。心理学用語と解釈はいろいろありますけど、ここでは厳密なものではなく、わかりやすさのために階層をそれぞれ対応付けています。

そのように、行為としては顕在意識の「思考・意志、いわゆる心」が対応し、結果としてはいわゆる潜在意識の深いところが対応するわけです。

潜在意識と言ってしまうとそれは人間が意識できないところじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ヨーガの修行の(途中の)目的(マイルストーン)の一つには潜在意識の部分を減らして顕在意識を増やす、というものがあります。ですから、その増えた部分を同様に顕在意識と呼んで顕在意識が増えたと解釈するのもそれはそれで正しいですが、それよりも、もともと潜在意識だった部分が新たに別の深い意思として現れてくる、という方が実態に近いと思います。

その深い意識が現れた状態をヨーガではサマーディと呼んだりあるいはヴィパッサナーと呼んだりします。これは多少は流派によって意味合いが異なりますので解釈に混乱があったりもしますが、基本的な意味合いとしてはこのように深い意識が現れてきた状態だ、ということができます。

その深い意識をヨーガでは「アートマン」とか言ったりしますし、ゾクチェンでは「リクパ(心の本性)」、あるいはスピリチュアル系では「スピリット」と呼んだりします。

とある点にまで至ると、顕在意識の心がいわゆる普通の意思・思考で自分を動かしている段階から、潜在意識としてのアートマン、スピリット、リクパ、あるいは心の本性が動き出して、そちらが主導権を握ることになります。

そして、アートマン(スピリット、リクパ)が主導権を握っている状態がサマーディでありヴィパッサナーであり観察であるわけです。

その時、顕在意識はどうなっているかと言いますと、顕在意識に対応する思考・意思は動こうと思えば動くことができますが、割と鎮まっている状態になっています。顕在意識は論理的思考が得意ですし、アートマン(スピリット、リクパ)は俯瞰して見るのが得意です。そういう意味で役割分担がなされていると言えます。

アートマン(スピリット、リクパ)も論理的思考および細かなところが見れますが、それは結果としてそのように論理的思考や細かいところが見れはしますけど、それはより直感的なものです。インスピレーションに近いものですね。いわゆる論理的思考で組み立てるというよりは結果が先に入ってくるようなものです。

そのように、アートマン(スピリット、リクパ)が動き出した状態が観察(ヴィパッサナー)であると言えます。

ですから、それに至るためにヨーガ・スートラに書かれているような「心の死滅(停止)」が「行為」の修行としては必要なわけです。死滅と言うと心が全くなくなってしまうかのように解釈してしまう方もおられるかもしれませんけど、これは一時的に顕在意識を鎮めるという意味であって、全く心を無くしてしまうという意味ではないのです。

もともとはサンスクリット語で二ローダという意味ですし、そもそもの意味も難解ですので解釈してくれる人が必要で、例えばインドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中でヨーガとは心素の働きを死滅させることである、と明確に述べています。同所での心素というのはChittaで、心理作用の源であるとされます。ですから、そのような狭義においての死滅であって、心を全く無くしてしまうことではないのです。

修行としてチッタを死滅(停止)させることをすると、その奥にある真相意識とも言えるアートマン(スピリット、リクパ)が動き出してヴィパッサナー(観察)に至る、というわけです。