静寂の境地を求める意識から清濁併せ呑むようになる

2021-03-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

そのようになって初めて集中瞑想は不要と言えるようになるのだと思います。

そこに達するまでは集中が必要で、一旦清濁併せ呑むようになっても意識が濁ってしまってリクパの状態から離れてしまったのならば再度集中瞑想をして静寂の境地に達してからリクパのある清濁併せ呑む状態に段階的に遷移する必要があると思います。

静寂の境地そのものは心の本来の姿である空の意識を体現しており、そこに形としての現れである思考・考えや雑念などというものが浮かび上がってきます。空という土台にて思考などの「ゆらぎ」がなるべくない状態に保たれているのが静寂の境地で、最初はそれこそが覚醒かのように見えてしまうのですが、実際は、雑念などは空が土台となって形となって現れてはまた形を失って静寂へと消えてゆくという一連の流れそのものを理解して観察してただ受け流す、ありのままに受け入れることこそがサマーディでありヴィパッサナーでありリクパが現れた状態なのだと思います。

ですから、静寂の境地はそれ自体は空としての土台になりますから否定されるべきものではなく、それも含めてサマーディなわけです。静寂の境地の平らな状態から形の現れた雑多な状態、どちらも合わせて観察してありのままに受け入れるのがサマーディでありヴィパッサナー(観察)なわけです。

よって、サマーディの説明において時々、静寂の境地を否定するかのような説明があったりするわけです。その説明を読んで静寂の境地は不要だと解釈してしまって、時には瞑想の先生のような人であってもそのように解釈して教えている人もいらっしゃいますし、割と有名なところでもそのように教えていたりもしますがそれは誤解で、実際には静寂の境地は心の状態の1つですからそれすらもありのままに受け入れる必要があるわけです。

実際には、まだ瞑想が進んでいない状態では静寂の境地というものは現れても数ヶ月とか数年に1回くらいしか出てこなくて、基本的には淀んだ厚い雲のような雑念の中に人は暮らしています。

ですから、本来は心の状態の1つである静寂の境地を取り戻す練習というのが絶対的に必要になるわけで、それ故に集中瞑想が必要になるわけですけれども、サマーディのこうした説明を読んでしまうと、静寂の境地を求める集中瞑想などの一連の修行が不要かのように勘違いしてしまうことがあるわけですよね。

実際は、静寂の境地はサマーディの土台になりますので絶対的に必要なわけですし、それがなければ常に雑念だけを観察することになって、空としての心の状態が見えない状態がずっと続きますから、それでは心の土台である空から形である意識としての思考や雑念が連続して次々に現れてくるさまを観察することはなかなかできないわけです。

言葉の説明としては割と同じで、静寂の境地があったとしてもなかったとしても心の土台である空から思考や雑念が現れ続ける、というところは一緒ですけれども、静寂の境地がないということは空としての平らな意識の状態がないということですので、常に形として現れている思考やら雑念やらしか見えていないことになります。それでは心がどのようになっているのか知ることはできず、そのような状態ではいくら説明の上で静寂の境地は不要とかサマーディとか語ったり理解したとしてもあまり役には立たないわけです。

これは、時に流派において「理解が大切」とか言われていることでもありますけど、実際には、理解するだけでは不十分で、実際に経験してみることが必要なわけです。流派によっては経験は不要で理解すればいい、みたいなことも言われていますけど、それは言葉だけのお話で、実際にその状態になって知ることができればそれは自分の状態が変わったということですから、それを経験と言うのか状態が変わったというのか理解したというのか、言葉の表現の違いだけのお話で、どちらにせよ、自分自身が変わらなければ理解できないお話なわけです。

そのように、最初は静寂の境地が大切になるわけですけれども、そのうち、意識が一歩下がって静寂の境地そのものを観察できるようになって、更には形の現れである思考や雑念すらも一歩下がって観察できるようになりますので、静寂の境地が清濁のうちの清の方だとしたら形の現れである思考や雑念は濁の方になって、最初は静寂の境地の清だけが大切と思っていたものが、形の現れである濁の方も同じように心として本質の違いなく受け入れることができるようになるわけです。その時、清濁併せ呑むようになる、と言えるわけです。

ここで言っている清濁併せ呑むとは善と悪の意味ではなく瞑想における静寂の意識としての空と色・形としての意識の現れのそれぞれについて比喩的に言っているわけです。