内向的なスピリチュアルから外向的なスピリチュアルへ

2021-03-27 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

両方あって、それぞれの段階で嗜好が異なります。

特に最初は内向的になって、とにかく他と分離の自分を作り出して静寂の境地になります。その後、内なる宇宙と言いますかいわゆるアートマンの悟りに繋がると外交的になるのです。

ですから、スピリチュアルの特に最初は他人から離れて孤独を生きることが重要で、その段階ですとまだ孤独に耐えられなかったりしますけど、徐々に孤独を生きても平気な自分を育てていけばいいわけです。

その段階ですと割と他人と分断しがちで、スピリチュアルは嗜好はとにかく皆と一緒だとかワンネスだとかを主張しがちですけど、それは段階が違っていて、まず最初は分離の状態でしっかりと自身の奥深いところに繋がってからでないとスピリチュアルの本質的な意味において他人と繋がることができないわけです。

それ以前に他人に繋がる場合は損得勘定だったり感情的な面、情緒的な部分で他人と繋がりますけど、スピリチュアルのある一定以上の本質的な愛の面であるこの世の中の良いことも悪いことも全て含めて愛であるという認識の元に他人と繋がることができるのは内向的な面を徹底的に極めて静寂の境地に達した後にしかできないわけです。

このあたりはスピリチュアルで割と理解されにくいところでもありますけど、他人と繋がるためにはまず分離の孤独を生きて自分自身の本質と繋がる必要があるわけです。

分離とかいうとスピリチュアルの人は良くないことだと決めつけたりしますけどそんなことはなくて、個人としての分離を生きて他人への依存をなるべく減らして孤独の状態になって、そうして静寂の境地に達して、更にはアートマンと繋がることでそれは他者とも繋がることになってそこで初めてスピリチュアル的な意味において外交的になるわけです。

それ以前の外交的な態度というものは社交辞令だったり文化的なものであったり礼儀だったり、時には損得勘定だったり情緒や感情によるものだったりするわけです。

アートマンと繋がってスピリチュアル的な意味における外交的になったとしてもそのような社交辞令や文化的や礼儀や時には損得勘定や情緒や感情による他者との接触が必ずしもなくなるわけではないですが、それに囚われなくなります。こうした元々持っていた理由で他者と接したとしても、それは接しない時と変わらず自らの本質と繋がり続けていて、それゆえに、スピリチュアル的な外交的な面を踏まえながらかつての人との接し方が続くわけです。

ですから、実際のところ、スピリチュアルで理解されているように、スピリチュアルになったからと言って外面的に特にものすごく変わるというわけでもなく、見る人が見れば一目瞭然で違いがよく見て取れますけど、一見するとそれほど変わらなかったりするわけです。それ故に、世間では、既に悟っている人が他人に気付かれずに普通の社会生活を送る、ということが起こります。すぐそこに悟っている人が意外に沢山いるわけです。そして、それに気付くだけの認識力を持ち得ていない人が実はかなりのところ多いわけです。悟っている人は単に「いい人」のように見えたりもしますけど、実は悟っている場合もあるわけです。

実際のところ、悟りが他者に見抜かれるような悟りは浅い悟りなのかなと思います。日常生活に溶け込んでいて自らの仕事を淡々と行ってそれでいて自らの深いところに繋がっているような人は単に熟練の仕事人のように見えるかもしれませんけど、実際のところ、悟っていたりするわけです。そのような人は意外と割といるように思われますが、気付かれないことが多いように思います。目立つような悟りは、そのような役割を持って生まれてきた場合も多々あってそれはそれで目立つ行為をしますけど、そうでなければわざわざ目立つようなことはあまりないように思います。

そのような悟りは割と一般社会に溶け込んでいて、そこに達することができれば悟っているのですが、本人はそれを悟りとすら思わないでしょう。悟りなんてそのくらいのもので、悟っていない人が一生懸命になっているだけでもあると思われます。

ですから、悟っているならば割と社交的で外交的な面も出てきますけど、悟っていないのならば、もし悟りたいと思っているのならば内面に深く入り込むために内向的になることが一定期間、必要のように思うわけです。