順番としてはタマスな愚鈍な淀んだ状態から始まって、やがては静寂の境地に達します。
静寂の境地は一般的に言えば「空」の境地ということでありますが、空というのは平らな清浄な静寂の境地で、一般的にはそれが悟りかのように思われていると思います。それはそれで流派の方針があると思いますが、空の先には「中」とも言われている清濁併せ呑む状態があります。
これは、「空」が最上だと一般的に思われているこのスピリチュアルな業界でなかなか理解されにくいことかなとも思いますが、状態としては、次のような段階を踏むように思います。
1.タマスな状態。まずは「無」を目指す。思考が停止した状態で「くつろぎ」を感じる。無の中にずっと留まっては成長が止まってしまいますが、それでも「無」はこの時には一時的な休息として役に立ちます。
2.浄化が進んできた状態。ラジャスな状態。
3.落ち着きが出てきて、サットヴァな清浄な状態に移行する段階。
4.静寂な境地。これをサットヴァと呼ぶのかどうかは微妙なところで、流派によるとは思いますが、一応はそう呼んでも良いとは思います。この状態の前がサットヴァでここが空、という方がしっくりきますけど、サットヴァとしてもそう間違いではないように思います。
5.清濁併せ呑む境地。タマスとサットヴァの両方が共存する状態。「中」の状態。
段階としてはそうですが、この、最後の「中」の状態はなかなか維持が難しくて、気づきが弱まってしまってラジャスあるいはタマスの状態まで戻ってしまうことが多々あるように思います。
そうすると、再度、瞑想を続けて、静寂な境地に戻してあげて、それから「中」の状態へと再度持っていく必要があるように思います。
それは傍から見ると「状態が悪化している」とか「成長が戻っている」みたいな印象を与えてしまうかもしれませんけど本人にとっては違っていて、この最後の「中」の状態は、何度も行き来を繰り替えすことで自身の「気付き」が強まっていって、ますます清濁併せ呑むことができるようになるわけです。
最初の「中」の状態は、静寂な境地である「空」を引きずった状態で、ある種の「輝き」、イルミネーション、光を放つ種類の、少し「空」に寄っている「中」でした。その「光」こそが気付きをもたらしてくれて「観察」を働かせていて、毎瞬間のヴィパッサナー状態(観察状態)を可能にしていて、それがいわゆるサマーディということでありますけど、その「空」を基本にしていて、それで清濁併せ呑む「中」に移行すると、必ずしも静寂な境地でなくてもその「気付き」であるサマーディ状態が続くようになるわけです。
清濁併せ呑む「中」とは、静寂な境地が日常生活で続く、ということでもありますけど、それは、必ずしも静寂な境地でなくても気付きのサマーディが続く、ということでもあります。
言い方を変えると、気付きが強くなる、と言うこともできます。
清濁併せ呑むと言っても善悪のお話ではなくて、悪いことをしていいという意味ではなくて、上記のように、タマスな状態に対して耐性がついて、タマスな状態であったとしても気付きが続くようになるわけです。
しかし、しばらく続けているとタマスに飲み込まれていって、また瞑想をして静寂な境地の「空」に戻して、それから再度「中」である清濁併せ呑む境地で日常生活のヴィパッサナー瞑想であるサマーディ状態を続けるわけです。
こうなると、傍目には特に静寂の境地だけというわけでもなくなることから、一見するとただの人のように見えるかもしれませんけど、内部的には大きな変化が起きているわけです。静寂の境地であれば傍目にも何か輝きがあって聖人かのような印象がありますけど、この「中」の状態に進んだ場合、割と凡人に見えるようにも思います。しかし、そこには大きな変化があるわけですね。
ヴェーダンタでいうとこの世の中は全てイーシュワラの現れで、自身のいわゆる魂はアートマンで、他者もアートマンで、全体がブラフマンで、実はアートマンとブラフマンは一緒で、それはタマスとかサットヴァとかを全て超越していて全て同一で、イーシュワラはそのようなブラフマンと一緒でもあるのですが、必ずしも輝きのサットヴァや空だけが清浄なのではなくて、全てがイーシュワラでありブラフマンでありますから、タマスだとかサットヴァだとかは関係ないわけなのですよね。
この「中」の状態になると、そのようなことが次第に実感できてゆきます。必ずしも静寂の境地である「空」だけが素晴らしいのではなくて、タマスな状態だとかサットヴァな状態も含めて全てありのままに正しく受け入れられるようになります。
仏教で「中道」みたいなことが言われていて、「真ん中の道」だとか「片方に偏らない」みたいなことが言われていますけど、そこでは割と「どちらかを選ぶ時に偏らない」みたいな行動のお話で語られていることが多いと思いますけど、実際はこの「中道」とは心の状態を表していて、「どちらの選択肢を選んだとしても自分の心は偏らないことを中道」と言っているのであって、両方の選択肢の真ん中を選ぶかどうかは全く関係ないわけなのですよね。
日本で中道を語る人は「極端な選択を避けます」みたいなお話が多くて、それが日本で「決断を避ける」ことに繋がっているような気がしますけど、流派ごとの考え方がありますのでその流派の考え方があるのならばそれはそれで自由にすればいいと思っていますけど、私からすればこの中道はこころのあり方を示しているのですから、上記のように、何を選択したとしても自身の中の気付きを保って行動すべし、ということを言っているに過ぎないと思うわけです。
この「中」の状態はタマスとは違っていて、しかし、成長の過程ではタマスに落ち込んでしまうことも多々あるように思えて、そうなるとサハスララからオーラが抜けてオーラがサハスララに上がりにくい状態になってしまったりしますので、また瞑想を続けてオーラをサハスララまげ上げて静寂の境地の「空」に戻して、オーラをサハスララに保ちつつ行動するのが「中」で、それは「空」でもあるのですが「空」が強化された状態で、そのことを「中」とここでは呼んでいて、最初はすぐにオーラがサハスララから抜けてしまって「中」および「空」の状態から落ちてしまうのですが、次第にオーラが強化されてくるとサハスララにオーラがそれなりの長い時間留まるようになります。この段階を何回も繰り返してサマーディを強化してゆくわけです。