ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、これに関連しまして 先日に視界がスローモーションで認識されるということを書きましたが、スローモーションで視界を認識すると、いかに細かなことであっても無情であることを実感できるようになってきたように思います。かすかな風であっても何かを揺らし、動きが生じます。
ただし、ここで言っている無情とは仏教での解釈とは異なるかもしれません。言葉通りに無情であることを感じる、と言うことです。
それは言葉で表現すると「感じる」ということではあるのですが、以前の私が五感で「感じる」ということをいくら努力しようとしても現在のヴィパッサナー状態には至らなかったように思います。ですから、言葉上では「感じる」という言葉が近いとも言えますし、「感じる」という言葉は間違っている、とも言うことができます。私の持っている言葉が貧弱なのかなかなか表現がし辛いのですが、ヴィパッサナー状態とは「目が、感じる」とでも言えば良いでしょうか。もちろん目は視覚ですので「見る」ための感覚器官ではあるのですが、見ているだけなのに、体全体が何かを感じ取るのです。それは、皮膚の感覚としての「感じる」とはまた違ったものです。ですから、この感覚を「目から入ってきた情報を元に、体全体の内側と外側が満遍なく感じる」と言うことはできますが、その「感じる」とは、「皮膚の感覚を感じる」と言うことではないのです。
この種のヴィパッサナー状態になった時、体全体の内側と外側とで満遍なく無情を感じるのです。人の肉体はオーラに包まれているのですが、そのオーラの方が何かを感じているのです。
それは、オーラが感覚器官として働いている、とも言えるかもしれません。目から入ってきた情報... と言いますか、もしかしたら目はフォーカスのための導入にしか過ぎず、実際に感じているのは体全体、いわゆるオーラの方であるように思います。
このヴィパッサナー状態であれば、体全体のオーラで敏感に外部を察知し、外部の細かな動きに反応して自分のオーラがその変化を読み取り、無情を感じとるのです。
これは、まず最初の基本で「頭の思考」をある程度止めないとヴィパッサナー状態になりませんので、雑念や思考で頭の中がグルグル回っている人はできないと思います。ですから、最初はヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)で雑念を減らしていくわけですけれども、その辺りについては以前少し書きました。
世間の社会を生きると言うのは世知辛いもので、思考をグルグル回すことしか知らない人が大勢いますので、そう言う人と仕事やプライベートで関与してしまいますと簡単にヴィパッサナー状態が失われてしまって、以前のようなパラパラアニメのような1秒に数コマも認識できないような空間認識能力に落ちてしまいますから困ったものです。
ここから更にヴィパッサナー瞑想を深めるためには世間との関わりを制限すべきなのかもしれません。