ヴィパッサナー状態に移行する前はそんなことはありませんでした。以前は、日常生活は日常生活で精神的訓練(というほどのものではないですが)は精神的訓練で、例えばヨガはヨガ、仕事は仕事、趣味は趣味、遊びは遊び、散歩は散歩でした。
しかし、日常生活でスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になると、特別に何かをしなくても割と日常生活が修行のような感じになってきました。
「修行」とか言いますと何か重苦しくて山にこもったり苦しい苦しい苦行をして誰よりも大変な思いをしなくてはならないイメージがありますが、ここでいう修行はそういうことではありません。ただ単に、日常生活で、例えば散歩をするなどをして、その時にスローモーションで感じるヴィパッサナー状態にいるだけです。ヴィパッサナー状態で日常生活することそれ自体が修行のような感じになってきたと思っています。
ですから、ただ単にヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じながら日常生活を送るだけのことです。
滝行もしなければ、険しい山にも登らなければ、お経やマントラも唱えなければ、ストレッチもしません... と言いますか、やってもいいのですけど、それをすることと、ここでいう修行とはあまり関係がない、ということです。
誰かにこれが修行だなんて言ったら激しく説教されそうなくらいです(苦笑)
特に、ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好きですからね。
散歩しながらスローモーションのヴィパッサナー状態であれば修行のような感じ、というだけのお話です。
傍目からすれば、ただ散歩しているだけです。
誰も修行とは思わないですし、誰かに修行だなんていう必要もないですし、言っても理解されないと思います。
最近は、わざわざ誰かに言わなくてもいいかな・・・ という感じになってきています。 まあ、ちょっとは雑談とかで言いますけど、そのくらいですかね。
この、日常生活が修行のような感じになってきたら、今までヨガやスピリチュアルで言われていたことがかなり「溶けて」きた気がします。
当時は、色々なことが「納得」の上で精神的なスピリチュアルを捉えていました。
例えば、瞑想について言えば以前に ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について とか書きましたけど、今の視点からすれば全てはヴィパッサナーのスローモーション状態からの視点になってしまって、理屈どうこうはあまり考えられなくなってきています。
今は、ヨガやスピリチュアルの古典的な説明よりもゾクチェン的な「ありのまま」という一言が全てを表しているような気がしていて、それが全てであるなら何にも説明は実はいらないのだ... という気になってきています。
このまま意識が溶けてしまうのでしょうか。
まあ、あまり心配しても仕方がないですし、こうして書いているほどには実際は心配していません。
それは「流れに身を任せる」という感じでもなくて、パワーが漲っているので行き着くべき場所にどんどん自分から根元から突き動かされるように進んでいくから大丈夫、という感じです。
まあ、今わかるのは、やるべきことは日常生活でのスローモーションのヴィパッサナー状態を今は続ければ良い、というだけです。後のことはそのうち開けてくるでしょう。