サマーディの定義を見ると不可思議で、文字通り解釈するとヴィパッサナー状態とまるで別物のような印象を受けます。
私はそもそもサマーディがどういう状態なのか長い間謎で、ヴィパッサナーも謎だったのですが、まずヴィパッサナー状態に至って、その状態を説明してあるチベットのゾクチェンの本を読んでゾクチェンの一つの段階に相当することを理解し、その後、ゾクチェンの定義に当てはめるとサマーディが同じ状態に該当することを知りました。
ヨーガをしている人の中にはサマーディを神聖化している人もいて、サマーディに至ると悟ると理解されていたりもします。個人的にはそんな印象を受けます。
このあたりは以前にも謎解きをしました。
ですので、私の中ではサマーディとヴィパッサナーは同じであるという理解で落ち着いた訳ですが、世間を見ますと、サマーディこそが目指すところでヴィパッサナーはその途中段階だというお話があったり、あるいは、ヴィパッサナーこそが目指すところでサマーディは悟りには至らない、みたいなそれぞれサマーディとヴィパッサナーを神聖化するお話を度々耳にします。私だけでしょうか。
サマーディを神聖化している人はヨーガスートラに基づいて思考の停止を絶対視します。
一方、ヴィパッサナーを神聖化している人は思考の停止を否定し、思考も観察するヴィパッサナーこそが悟りに至る道だと主張しています。
私の理解に基けばこれはどちらもちょっと誤解をしている訳ですが、私は別に、その論争に加わろうとかそういうつもりはありません。
本当にサマーディに到ればそれはヴィパッサナー状態であることが分かるでしょうし、ヴィパッサナー状態に到ればそれがサマーディであることが分かる、という、ただそれだけのお話です。
サマーディとヴィパッサナーとは同じ状態の2つの面を表現しているだけであり、そこに到達していない人があっちが違うこっちが正しいとか言っていても仕方がない訳です。
サマーディに到れば思考が停止してオーラが主体となってオーラで何かを見るかのような状態になりますし、ヴィパッサナー状態は思考が停止しても同じようにオーラが何かを観察している状態になる筈ですから、結局は同じことであると思う訳です。
その状態に至ってしまえば、あとはそれを何と表現するかだけのお話で、それが私はヴィパッサナーと呼ぶ方がしっくりきている、というだけのお話です。ですから、私はべつにヴィパッサナー論者ではありません。むしろやってきたことはヨーガですが、ヴィパッサナーのお話も色々と参考にしました。
ですから、私は今の状態をサマーディと呼んでも良いのですが、サマーディという言葉は何か不可思議な響きがありますので、そのような不可解な表現は好きではないのでサマーディというのを避けているだけで、内容的にはサマーディとヴィパッサナーは同一だと思っております。