ヨーガのよくある誤解として、思考を停止させるだけでサマーディ(三昧)に至って悟ることができるというお話があります。
普通に思考を停止させると、それが例えできたとしても一時的な仮死状態になるだけで、いわゆる深い眠りの状態に落ちているだけになります。それを誤解してサマーディ(三昧)と呼んでいる人もたまにいらっしゃるようですし、その誤解の理解に基づいてヨーガを批判して「思考を停止させても仕方がない」なんて言ったりします。
ですが、そもそも思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはなりませんし、それで悟りになることはありません。
私の理解では、サマーディになるには思考を停止させることに加えて、オーラによる観察をしている感覚が必要に思います。
ヨーガスートラにも記されています。
(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より
これを文字通り読むと、「留まる」という文章は「ふうん。留まるから... だからどうしたの?」という感じになってしまって意味を読み取れません。文字通り心の作用を死滅(停止)させると見る者(自己、プルシャ)がそれ本来の状態に留まって、だからどうしたのだろう? というところで終わってしまいます。
これはもともとサンスクリットで難解な内容ですので思いっきり意訳が必要に思います。
おそらくは、この意味としては「見る者(自己、プルシャ)」が認識を始める、というような意味かなと思っております。
それを裏付ける形で、神智学系のヨーガ・スートラ解説書には以下のように記されています。
1章2) この合一(ヨガ)は、サイキック性質を征服し、チッタ(マインド)を抑制することによって達成される。
1章3) これが成し遂げられたとき、ヨギは自分自身のありのままの姿を知る。 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
この訳の方が真実に近い気が致します。サイキック性質というのは神智学でいうところの欲求の心であり情緒であり感情の性質です。そのような性質を制御することと、移ろいやすい思考の変化を制御することで合一(ヨガ)が達成される、と説明されています。
よって、よくある誤解のように、思考を無くしてロボットのようになることではなく、思考を制御する結果として現れてくるのはむしろ逆の生き生きとした自分自身の姿であるわけです。まあ、最近はそんな誤解を聞く機会も減ってきましたけど。
思考を制御して、見る者(自己、プルシャ)が現れて、いわゆるオーラ的な認識力が出てきた状態がサマーディなわけです。
チベットのゾクチェンでは、単に思考を停止させた状態のことをシネーの境地と呼んでいて、思考を止めただけでは次のテクチュの境地にはならず、その後にオーラによる認識力が出てきていわゆるサマーディ状態になるとテクチュの境地になって、それはヴィパッサナー状態と同じであるという個人的な認識に至ったわけですけれども、そういうことで、思考を停止させるだけではシネーの境地にしかならないわけです。
このあたりはなかなか入り組んでいますし流派によって解釈が異なるとは思いますが、個人的にはこのように理解しております。