ゾクチェンに基けば、テクチュの境地において不二の境地であるサマーディの状態に止まり、ヴィパッサナー(観察)をすることにより雑念が消失すると言います。
チェルドルとはサマーディにおいて現れてくる3つの能力のうちの最初のものであると言います。
最初の能力であるチェルドルにおいては、自己解脱の過程は、まだわずかな力しか持っていない。チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
ゾクチェンのシネーの境地までは瞑想をした場合にここまでの力はまだなく、瞑想を長い期間繰り返すことで自らの想念を少しずつ浄化してゆきます。シネーの境地とは「集中(シャマタ)」の境地であり、雑念を押さえ込むことで安定に至る境地です。その後にテクチュの境地であるサマーディがあるわけですが、このチェルドルはサマーディの段階を示しています。
ゾクチェンに基けば、サマーディの基本的な境地がこのチェルドルであると言います。
ただ、個人的な感覚に基づきますと、サマーディの最初においてはこのチェルドルすらもかなり不安定だったように思います。というか、そこまで観察できていなかったのかもしれません。サマーディというかスローモーションのヴィパッサナーで観察をする際に、最初はとにかくサマーディ状態を維持するために努力が必要で、チェルドル的な感覚はあまりありませんでした。
チェルドルのように「太陽の光を浴びて水滴が蒸発する」というよりは、最初に想念をちょっとした努力で断ち切ってからサマーディのヴィパッサナー状態に入るという感じでした。
それが今は、ヴィパッサナーに入るための努力の必要度がかなり下がってきましたので、割と簡単にヴィパッサナーに入れるようになり、そのおかげで、ヴィパッサナーに入った時の「特別感」が抜けてきました。割と日常の感覚になりつつあります。
おそらくは、子供の頃から最初からヴィパッサナー状態の人が一定数いて、その人はこれがヴィパッサナーだとはわからないのではないか? という気も致します。であれば、瞑想の上級者がサマタ瞑想(集中瞑想)を否定してヴィパッサナー(観察瞑想)のことだけを語るのも理解できなくもありませんが、やはり、一般人にとってみれば瞑想といえばサマタ瞑想(集中瞑想)から入ると思うのです。
そうしてヴィパッサナー(観察)状態にいる時に、そのヴィパッサナー・サマーディ(不二の意識による観察)を維持する努力が減ってくると、その意識をより繊細な部分に向けることができるようになったような気が致します。
その時に、このチェルドル的な感覚が見えてきたのです。
例えば、朝起きた時にオーラが不安定だったり、ちょっとした雑念、例えば過去の記憶だったり性的なイメージだとかが湧き上がってきた時に、このチェルドル的な能力によって観察をすると、まさに上記のごとく、水滴が太陽の光を浴びるかのように想念がバラバラに消失してゆくのがわかるのです。
水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのは物質界ですとかなり時間がかかりますけど、これは比喩だと思いますし、私の場合、実際に想念がバラバラになるのは十数秒から数十秒かかります。早ければ5秒くらいですが、せいぜいそのくらいです。
関連: 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する