ヴィパッサナーの本を読んでいたところ、カニカ・サマーディ(瞬間定)と言うものがあると記述がありました。
サマーディの強力な集中がサティ(気付き)の精度と速度を矢のように鋭くし、一瞬一瞬の事象に撃ち込まれ、その本質を暴き出していく...。「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これは、以前に長い瞑想をした時に何気ない山の木々の景色が映画のスローモーションのように綺麗に見えた時のことを指しているのか、あるいは、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態を指しているのか、どちらでしょうね。
おそらくは、カニカ・サマーディ自身は前者のことを意味していて、深まると後者のヴィパッサナーになるのかな、という気が致します。であれば、次のように解釈できます。
カニカ・サマーディでは強烈な「集中」が必要で状態がまだ不安定ですが、それでも、スローモーションで物事が感じられるくらいの強烈な気付きと集中があります。それはヴィパッサナーと呼ぶというよりもカニカ・サマーディの漢字にあるように「瞬間」のサマーディだとすれば状態を正確に表しているような気が致します。ただ、状態としてはあくまでもサマーディで「集中」が優勢です。ヴィパッサナーの観察する力はその集中に頼り切っているのがカニカ・サマーディだと思います。
その後、集中の努力がそれほどいらないヴィパッサナーに移行するわけです。そのように解釈するのが理に叶っていますし、自分の感覚とも一致するような気が致します。
瞑想中だけのサマーディからある程度は日常生活まで続く断続的なカニカ・サマーディになり、やがては日常生活で集中の努力がそれほど必要ないサマーディになるとヴィパッサナーと呼ばれるのかな、と思います。
同書によりますと、この状態はサマーディの後に訪れる「ウペッカー<捨>」の状態であると言います。
心に入ってくるすべての対象を公平に、等しい距離をもって眺め、無差別平等の精神に貫かれた明確な無関心の状態を保つ。ウペッカー<捨>「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これはいわゆる「七覚支」のうちの1つですが、解釈としてヴィパッサナー的な観点から記載されている点が興味深いです。言っていることは本来は1つの筈ですけど観点が違うと気づきがあります。
この「捨」の境地は、今よりも前、アナハタ優勢になった頃にも「捨」と言えばそう言えるかな、と思えたこともありますが、今のスローモーションのヴィパッサナー状態の方がより「捨」と呼ぶに相応しい気が致します。アナハタ優勢になった頃は完全な「捨」と言うよりもまだ「喜」が混ざっていたような気が致しますし、意識としてスローモーションで感じられるような奥深くまで浸透するかのような意識ではなかったように思います。
七覚支は一つづつの力をそれぞれ個別に伸ばすと言うよりは総合的に少しずつ全体的に伸ばしてゆくものなのかもしれません。であれば、「捨」に関しても以前より進歩したと言えるのかもしれません。
厳密には言葉的に違うことなのかもしれませんが、「捨」をカニカ・サマーディあるいはヴィパッサナーの段階と当てはめてみるとそれなりに一致するような気も致します。