ヨーガスートラにおけるヨーガの定義
(1-2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(1-3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。
「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より
前半は、心の雑多な荒い面を鎮めること。
後半は、心を鎮めることができたならその奥に清浄な意識が現れてくる、ということを示しています。
ですから、ヨーガスートラへのよくある批判である「心をなくしてしまったらその人は人間と言えるのだろうか」みたいなお話は当てはまらないわけです。
これは、前半は主にダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)のことを言っていて、後半はサマーディ(三昧)のことを言っています。
肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
ダーラナは主に肉眼や心による1点集中。それを進めるとその対象が心に占めた状態であるディヤーナに達します。その後、「見る者(自己)」が現れてくるのがサマーディです。
このあたり、様々に誤解があって、ディヤーナ相当でも自分がサマーディだと思っている方もいらっしゃいますし、流派によっても何と呼ぶか様々なようです。サマーディ以上のものがあると言っている方もいらっしゃいますし、サマーディが最高だと言っている方もおられます。
しかし、ヨーガスートラの最終地点をこのように「自己(アートマン)」の顕現だとするのならば確かにその先もあるでしょうが、とりあえずの終着地としては十分ではないでしょうか。
その境地にすらなかなか達しないのですから、あまり理屈でどうこういうよりもその時間だけ修行したらいいと思うのです。
確かに「自己(アートマン)」の顕現が悟りそのものではないですが、悟りへと辿り着く中間地点であることは間違いありませんのでヨーガスートラは良い道しるべになると思います。否定する必要は全くないと思います。
サマーディは上級者は日常的に状態を保つことができるようですが私なんかですと時々瞑想をして30分なり1時間なりして意識を清浄に保つ必要がありますね。
その時は、最初は意識が多少もやっとしていて、30分なり1時間なり瞑想をすると急に意識が収束し、そして、清浄な意識が現れてきます。
それは全く異なる2つの質です。
もやっとしている、と言っても比較した時のお話であって普段はあまりそうと気が付きません。瞑想をしてその意識が収束して初めて今までがモヤッとしていたことに気付く、という種類のものです。
そのサマーディはいわゆるスローモーションのヴィパッサナーの境地でもあるわけですが、疲れや日常生活の行動が原因でその境地から少しずつ解除されてゆくのですよね。ですから定期的に瞑想をして再度、清浄な意識に戻してあげないといけません。
上級者だとそんな必要もないのかもしれませんけど私には定期的なメンテナンスが必要です。
このサマーディについて参考になる一節を引用します。
単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによってのみ、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
この本はつい先日入手したばかりですが、まさに今まで私が「そうなのではないか」と思っていた内容がズバリ書かれてあって本質的です。自分の中で組み立てられていた仮説が裏付けられた気が致します。
一体この著者はどのような人だろうと思ったのですが、どうやらあのヨガナンダ師の弟子だそうです。であればこの見解も納得です。ここまでの見解を出せる人はそうそういないと思います。