意識を眉間に合わせるのが瞑想の基本 - 瞑想録 2020年7月

2020-07-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想は経験が先に来て説明が後に来る

流派によって定義が様々で、サマーディとかヴィパッサナー等の用語に差異があります。

例えば、今日ネット配信で見たスワミジ(Swami Muktananda Yati)が言うには以下のようなものでした。

・サマーディは思考を止めること。(パタンジャリのヨーガ・スートラの定義)
・ヴィパッサナーは息を観察すること。ヴィパッサナーはサマーディへの入り口で体験する。

流派によって色々な言い方があるんですね。それに、きっと相手によって簡単な説明を選んでいるような感じです。

話を聞いていると、どうも、サマーディとかヴィパッサナーと言う言葉の意味がこのスワミジは違うみたいですね。

世間では、サマーディ1つだけで悟れるとかヴィパッサナー1つだけで悟れると言う誤解が溢れていますけど、このスワミジはサマーディやヴィパッサナーを瞑想の一面を表す説明として用いています。

瞑想の説明としてはもっと複雑で、サマーディと言うのは瞑想の一面である「思考を止める」と言う説明だけに使っており、一方、ヴィパッサナーは息を観察すると言う説明だけに使っています。

こう言う視点もあるのですね。

何やら、世間ではサマーディとヴィパッサナーの対決みたいになっていてどちらが優れているのかとかどちらで悟れるとか、そんなくだらないお話に熱心になっている人がいますけど、本質は瞑想そのものですから、瞑想の一面を説明するためにサマーディとかヴィパッサナーと言う言葉を使う場合もあるのですね。

まずは瞑想してみて、説明としては色々することが出来て、その時に瞑想の要素としてサマーディとかヴィパッサナーという言葉が使われるだけで、サマーディやヴィパッサナーがゴールではないわけですね。

言葉の定義としては私が普段使っているものとは違いますが、説明の内容からはこのスワミジはとてもよくわかっているという印象を受けます。

ですから、言葉の定義なんて本当はどうでもいいと言えばその通りなのかもしれないですね。

・・・このスワミジ(Swami Muktananda Yati)、私が通ったアシュラムのゆかりのスワミジみたいですけど会ったことがありませんので詳しくは知りません。誰かに聞けば知っているでしょうけど。



スピリチュアルも宗教も思想も全部一緒

よく分かっていない人だけが分けたがります。

思想も「信じなくてはならない」という誤解があります。
宗教も「信じなくてはならない」という誤解があります。
スピリチュアルも「信じなくてはならない」という誤解があります。

例えば思想の「唯物論」にしても、単なる論ですのにあたかも絶対的な真理として語る人がいます。それは宗教みたいなものです。

ダーウインの「進化論」にしても科学の絶体的な真理みたいに日本では語られていますけど、単なる論です。科学というのは証明が必要ですから実際に進化論を証明するには何万年もかかります。タイムマシンでも発明しない限り証明は遥か先のことになりますから、所詮は理論に過ぎません。

科学の大御所といえばノーベル賞ですが、進化論のような生物学でノーベル賞なんて聞いたことがありません。進化論なんてそのようなものなのに絶対的な真理だと思い込まされていて、「信じなくてはならない」という圧倒的な雰囲気に飲み込まれているのが日本です。これは宗教とそう変わりがありません。外から見たら、進化論を信じなくてはならない宗教団体のようなものです。

思想は単なる表面的な思いですので人間の頭が作り出したものです。

宗教にしても表面的なものがあって、それは人間の頭が作り出したものです。

スピリチュアルにしても表面的なものは人間の頭による創造物です。

思想はもともとはピタゴラス派のように神秘主義の団体によって形成されたものですので、宗教みたいなものです。思想が科学だと思っている人も多いですが、思想は宗教みたいなものです。

スピリチュアルにしても誰かの頭によって作られたものです。であればスピリチュアルも宗教みたいなものです。

どちらにせよ、作った当初は柔軟で本質に近いものでしたが、時間が経つにつれて形骸化してもともとの本質が失われるが故に避けられるようになるわけです。

今でこそ宗教が避けられていますが、宗教が作られた当初は現在の「思想」とかの意味に近かったと言えます。

今でこそスピリチュアルに新しいイメージがありますが、宗教が作られた当初、あるいは、思想が作られた当初は新しいイメージがありました。

何であれ、新しく作られるものに対しては良いイメージがあって、古いものは避けられるということです。そして、新しいものは生きていて、古いものは死んでゆくということです。

思想も古くなり、死んでゆき、宗教も古くなり、死んでゆき、やがてはスピリチュアルも古くなり、死んでゆきます。

しかし、思想を選んだとしても宗教を選んだとしてもスピリチュアルを選んだとしてもその本質は変わらないわけです。

宗教は1つだけ選ばなくてはならないと思っている人がいらっしゃいますけど、この世の中の徒弟制度にしても流派にしても、かなりのものが「1つだけ選ばなくてはならない」ものだらけですので、宗教だけ避けているのも何だかなあ、という気が致します。

昔から新興宗教みたいなものは多くありましたし、今更になって増えたわけでもありませんし。昔は宗教というよりもミステリーサークルみたいな神秘主義の集まりだったものが今は宗教団体という形を取っているだけです。

昔からカルトはいましたし、カルトは宗教団体だけのものではなく思想団体にも多くみられました。

思想も宗教もそれほど変わりがないと言えます。

昔はミステリーサークルでしたが、今はそのような任意団体だけが宗教になっているわけではなく、宗教団体を隠れ蓑にした税金対策みたいな変な団体もいたりして、宗教法人というものが利益のためにも使われている点が純粋ではないとは言えますが、昔からそういう資金流用とかはありましたので今に始まったことではありません。

「信じなくてはならない」という宗教は実際のところそれほど多くありません。初心者向けに「信じなくてはならない」と言っているだけで、実際は、本人が理解して経験しなくてはならないことだらけです。

中級者以上になったら「信じなくてはならない」なんて言われません。

思想にしても自分で考えるでしょう。
宗教にしても自分で瞑想して本質とは何かを考えて理解しようとするでしょう。
スピリチュアルにしても自分で探索して自分の頭で理解・体験しようとするでしょう。

どれも大差ないと言えます。

もっと拡張すれば、ヨーガとかも広義における思想・宗教・スピリチュアルに含まれます。

もちろん仏教もそうですし神道もそうです。キリスト教も同じです。一神教にせよ多神教にせよ、単に伝え方が違うだけで本質は同じです。

ただ、住んでいる環境や人の性質に応じて違った様相が現れているだけのことです。

思想にせよ宗教にせよ、何某か導く人は現れますし、その人を先生と呼ぶかグルと呼ぶか教祖と呼ぶか教授と呼ぶか博士と呼ぶかはそれぞれですけど、大差ないと言えます。

どちらにせよ、他人を従属したいと思っている団体はその程度ですし、本質を見極めたいと思っている団体にしてもそれぞれです。

自分の宗教があるから他の宗教はできない、みたいな方もいらっしゃいますけど、本質は同じですのであまり拘らなくてもいいのではないかと私なんかは思いますけど、1周目であれば1つの宗教なり思想なりにどっぷり使った方がいいと思うのも確かです。

最初は1つの流派でとことん極めて、その理解を元に他の流派の理解を深めてゆくのもいいかと思います。

どちらにせよ、本質は変わりません。



後頭部が脈打ち、鼻頭がピリピリする

最近の瞑想ではの各所に反応・感覚が出ているわけですが、特に最近は後頭部が脈打って、鼻頭がピリピリするようになりました。

瞑想中にマントラを唱えると特にその反応が出ます。

古代のマントラを唱えると頭から下半身まで満遍なく反応が出て特に下半身に強く出るので最近は古代のマントラは数回唱えるだけにしていて、最近は「アジカリムン(アヂマリカム)」がお気に入りです。

このマントラを唱えると後頭部のあたりに反応が出てグリグリと動き出しそうな感覚が現れます。

時々、試しに後頭部の中で筋肉を動かして水平に回転させたり横に寄せてみたりしてストレッチっぽいこともしてみています。後頭部の下の方がやりやすいですが、それより少し上のあたり、つむじの内側辺りでも同様に脳内ストレッチしてみたりしています。

そうして日々の瞑想をしていたら、血行が良くなったのか何なのか、後頭部の、つむじの少し下寄りの表面近くで脈打つ感覚が現れるようになりました。

以前から何度か、うなじや各所で脈動を感じることがありましたので似たようなものかなとは思います。

おそらくは、もともとそのあたりでエネルギーが滞っていて、エネルギー的にその箇所が活発になったのかなと思います。瞑想の効果ですね。

視界にも変化が現れていて、最近は基本的にいつもヴィパッサナー状態ではあるのですがその濃淡といいますか見え方には微妙な違いがあって、具体的には自分の意識がクリアであればあるほどはっきりと視界が細かくスローモーションで感じられます。補足しておきますと、時間が遅くなるわけではなく細かいコマでスムーズな動きで感じられるということです。それを比喩的にスローモーションと表現しています。

瞑想で脳が活性化すればするほど視界が細かいコマで感じられてスローモーション画像のように細かいコマをリアルタイムで見ている感じになるわけですね。時間経過は変わらないですが感覚的にスローモーション動画のように意識には認識されるということです。

それは意識の状態に対応していて、ちょっと眠気があってぼっとしている時はそれなりの認識ですし、瞑想後にはっきりとした意識の時ははっきりとしたコマで視界が認識されます。

その辺りの認識と、脳のあたりで脈打つ感覚が連動しているのがよくわかります。瞑想で頭が活性化すればするほど認識が細かく微細になるわけです。

認識が微細になるためには意識が静まる必要があるわけで、スローモーションで認識されたからと言ってそれで意識が特別に活性化するわけでもなく淡々とした・・・ というと語弊がありますが、意識は活性化しているのですが、それは激しい意識や感情を目的としたものではなく、一瞬で認識が入ってきて一瞬で識別するという瞬間・瞬間が連続するということです。

ですから、最初ヴィパッサナーが始まった頃は割と驚きと物珍しさで意識が多少高揚しましたが、慣れてきた今は割と淡々と識別を行っている感じです。

そうしてヴィパッサナーに慣れてきた今は、更に脳が活発化してきて、脈打つこともありますし、鼻頭がピリピリすることもよくありますけど、それも慣れたもので、違和感がなくなってきています。

このくらいになると瞑想始めた頃のようなワクワク感による期待というのはほとんどなくなってはいますけど、おそらくはまだ先の境地があることがよくわかりますので、違う意識における期待というのは多少はあります。それは一般的に言われているような期待とは違って予測に近いもので、期待するというよりは予測が感じられて、予測を感じた意識が「はい。そうですか」と思っているだけですので、それを期待と言えばそうなのかもしれないですけどよくある一般的な期待とは異なるものです。

細かい変化ですけどまだ先があるということがわかります。

この種の脈動やピリピリという感覚はその人の状態を知るための「ヒント」あるいは「しるし」として使えそうですね。



サードアイとフォースアイ

第三の目(サードアイ)とはよく言われていますけど、目といいつつ、実際のところ肉眼のような視界ではなく直感力が鋭くなります。ですので、肉眼のように微細な霊界が見れるようになるわけではありません。

その先にある、俗に言うフォースアイであれば周囲も見られますし時空も超えられます。周囲から自分を外側から見る能力はサードアイではなくてフォースアイの能力です。

ただし、そのことをサードアイと言っている方もいらっしゃいます。この辺りは流派によってそれぞれですね。

先日、リシケシ在住のスワミの講和を聞きましたがサードアイは視界のことではなく直感力およびポジティブな力のことだとおっしゃっていました。ですから、サードアイによって視界が開けると言うわけではないようです。

この辺りは、実際の姿は同一でも、その表現が異なるわけです。

流派によっては直感力やポジティブ力のことはサードアイだとはいいませんけど、先日私が聞いたリシケシ在住のスワミのお話だとそんな感じでした。

私個人の言い方ですとこのスワミに似ていて、直感力みたいなものはサードアイの範疇で、時空を超えたり自分の周囲を自由な視点で見るのはフォースアイ的なものの力です。

サードアイまででも時空を越えることはできますが受動的なものになります。自分で探しに行くというよりは直感を受け取る力になります。直感を送る方は時空を超えた先の未来の自分だったり過去の自分だったり守護霊のスピリットだったりするわけですが、それを受け取るのがサードアイの能力です。送る能力もあるにはありますけどこのくらいですとそんなに力は強くないと思います。大体の感覚を送ったり受信したりする能力がサードアイの基本的な能力です。

その先にあるフォースアイは、最初の場所としてはサードアイのあたりで近いですがクリスタルのコアのようなものがアストラルで作られて、そのクリスタルが周囲を見たり時空を超えたりします。飛行機やドローン、あるいは地球の外に浮かぶ人工衛星や宇宙船みたいなもので、離れたところからの映像を自分のサードアイに送信します。それがフォースアイです。

これはサードアイとしての基本的な送受信能力に加えてアストラルのクリスタルの両方が作られて初めて発揮する能力です。前者だけですとサードアイですし、後者のこともサードアイと言ったりもしますけど私はフォースアイと呼ぶ方がしっくりくると思っています。

サードアイは英語で「3番目の目 3rd Eye」、フォースアイは「4番目の目 4th Eye」です。フォースと言ってもジェダイのフォースではないのです。語呂合わせがいいのでそう言うことにしてしまってもいいかもしれないですけどね。



観察ではなく集中こそが瞑想の基本

息を観察する瞑想とかありますけど、観察よりも集中こそが瞑想に必要になります。

最近は理屈っぽい人が多くなっていて、ヴィパッサナー瞑想なども有名になったりして観察瞑想とか言われていますけど、瞑想の基本は観察ではなくて集中です。

瞑想の宣伝文句で「集中瞑想は本質ではなく、観察瞑想こそが本質」とか宣伝されていますけど、そういう謳い文句に流されない方が身のためです。

瞑想というものは何千年も歴史があって、瞑想というのは集中瞑想が基本です。

その基本をないがしろにして「実は瞑想は集中のことではなくて観察のことなんですよ!」なんていう煽り文句に騙されてしまうと痛い目を見ます。

特に瞑想なんてのは自分の内面で行うものですから、気がつかないうちに混乱をきたしてしまうこともあります。

上のような無責任な宣伝文句に惑わされて「観察瞑想」とやらをしてしまった結果、集中が疎かになってしまって精神的なダメージを受けてしまう方が多くいらっしゃいます。

この辺り、やはり歴史というものは重要で、歴代に渡って瞑想をされてきた流派と最近ぽっと出てきて瞑想を教えている人とは一味も二味も違うと思います。

瞑想とは何か? を聞いたときに「集中です」と答える人は本質がわかっています。

「観察です」という答えも間違いではないです。ですが、基本は集中です。

実際のところ、瞑想とは両方です。

特に初心者向けには「瞑想は集中です」と言っても間違いではないですし、「はじめての瞑想」なんていうお話であればそう言い切ってしまっても問題はないと思います。

それを、どこから持ってきたのかはそれぞれですけど「ブッダ伝来」とか理屈をつけて「観察瞑想」こそが本質だ、なんて言い出している方がいらっしゃいます。

人々は物珍しいものに惹かれるのでしょうね。そう煽られれば「そうか。集中瞑想は本質じゃないんだ。観察瞑想こそが本質なんだ」とか思ってしまうでしょう。

確かにね、中級者以上であれば観察瞑想が本質です。

しかし、ほとんどの人は瞑想初心者でしょう。質問で「瞑想とは何か」とか「瞑想は集中ですか、観察ですか」なんて聞いている時点で初心者ですよ。であれば「瞑想とは集中です」という回答で十分だと思いますよ。

書物で瞑想をかじった人は「集中です」と言われると「古典」だとか「古い」とか思ったりして、ガッカリしたりするようです。

しかしですね、やっぱり瞑想は「集中」なのですよ。そこのところがわかっているかどうかが大きいのです。

「瞑想が集中なんて言っている人は古い。瞑想は観察だ」とかいう人は瞑想の初心者確定です。そんなこと言うのは初心者だけです。

ぐるぐると大回りして、最後に「ああ、やっぱり瞑想は集中だった」と気付く人もそれなりにいらっしゃいます。

であれば、最初から古典である「瞑想は集中」から始めれば早いと思うのですけどねえ。人は、新しくて物珍しいものに惹かれますからね。「瞑想は集中ではなく観察だ!」と煽られれば「そうだ」と思ってしまうのでしょうね。

瞑想とか精神世界って落とし穴がいっぱいで、簡単に誰かを精神的な奴隷にできてしまいますから、何某かで煽ることで引き付けたい、という人もいらっしゃるのでしょうね。あるいは、何か単に瞑想について勘違いしているだけかもしれませんね。どちらにせよ、そんな煽り文句など放っておいて、古典的な瞑想である「集中」から始めるのが早道だと思うわけです。

例えば、息を観察する瞑想。これは、息に集中する瞑想のことです。中級者以上は息を観察する瞑想ですけど、初心者にとっては息に集中する瞑想のことです。

瞑想において「力を入れない」なんて言われますけど、これまた中級者以上のお話です。

初心者は瞑想においてかなり力を入れて集中しないと意識がさまよってしまいますから頑張って集中する必要があります。そんなものです。「ほんわかと観察しましょう」なんてお話を本気にしたらいつまで経っても瞑想の効果が出ないです。特に急いでいないのならばいいですけどね。悩みを早く解決したいなら集中から入るべきです。

皮膚を観察する瞑想なんてのも同じことです。これも中級者以上が観察で初心者は皮膚に集中する瞑想です。

どちらにせよ、皮膚の観察をしたところで五感の範疇ですから、強い弱いの違いがあっても全て集中瞑想とも言えますし全て観察瞑想とも言えます。所詮は割合が違うだけです。それを集中瞑想だとか観察瞑想だとか分けることこそ意味がないと言えば意味がないわけです。

五感を超えたところの意識が現れてくる段階があって、それをヴィパッサナー(観察)瞑想とも言うことができますが、そんなのは先の先のお話であって、皮膚をいくらやんわりと観察したところで所詮は五感の観察ですから、観察だとかに拘らず、基本である集中瞑想をしっかりやればいいと思うわけです。



30分から1時間の瞑想で意識が集約し、清浄な意識が現れる

ヨーガスートラにおけるヨーガの定義

(1-2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(1-3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。

「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より

前半は、心の雑多な荒い面を鎮めること。
後半は、心を鎮めることができたならその奥に清浄な意識が現れてくる、ということを示しています。

ですから、ヨーガスートラへのよくある批判である「心をなくしてしまったらその人は人間と言えるのだろうか」みたいなお話は当てはまらないわけです。

これは、前半は主にダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)のことを言っていて、後半はサマーディ(三昧)のことを言っています。

肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」

ダーラナは主に肉眼や心による1点集中。それを進めるとその対象が心に占めた状態であるディヤーナに達します。その後、「見る者(自己)」が現れてくるのがサマーディです。

このあたり、様々に誤解があって、ディヤーナ相当でも自分がサマーディだと思っている方もいらっしゃいますし、流派によっても何と呼ぶか様々なようです。サマーディ以上のものがあると言っている方もいらっしゃいますし、サマーディが最高だと言っている方もおられます。

しかし、ヨーガスートラの最終地点をこのように「自己(アートマン)」の顕現だとするのならば確かにその先もあるでしょうが、とりあえずの終着地としては十分ではないでしょうか。

その境地にすらなかなか達しないのですから、あまり理屈でどうこういうよりもその時間だけ修行したらいいと思うのです。

確かに「自己(アートマン)」の顕現が悟りそのものではないですが、悟りへと辿り着く中間地点であることは間違いありませんのでヨーガスートラは良い道しるべになると思います。否定する必要は全くないと思います。

サマーディは上級者は日常的に状態を保つことができるようですが私なんかですと時々瞑想をして30分なり1時間なりして意識を清浄に保つ必要がありますね。

その時は、最初は意識が多少もやっとしていて、30分なり1時間なり瞑想をすると急に意識が収束し、そして、清浄な意識が現れてきます。

それは全く異なる2つの質です。

もやっとしている、と言っても比較した時のお話であって普段はあまりそうと気が付きません。瞑想をしてその意識が収束して初めて今までがモヤッとしていたことに気付く、という種類のものです。

そのサマーディはいわゆるスローモーションのヴィパッサナーの境地でもあるわけですが、疲れや日常生活の行動が原因でその境地から少しずつ解除されてゆくのですよね。ですから定期的に瞑想をして再度、清浄な意識に戻してあげないといけません。

上級者だとそんな必要もないのかもしれませんけど私には定期的なメンテナンスが必要です。

このサマーディについて参考になる一節を引用します。

単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによってのみ、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」

この本はつい先日入手したばかりですが、まさに今まで私が「そうなのではないか」と思っていた内容がズバリ書かれてあって本質的です。自分の中で組み立てられていた仮説が裏付けられた気が致します。

一体この著者はどのような人だろうと思ったのですが、どうやらあのヨガナンダ師の弟子だそうです。であればこの見解も納得です。ここまでの見解を出せる人はそうそういないと思います。



意識が凪の状態になり、そこでオームを唱える

海が凪(なぎ)の状態で風がなくなって穏やかな水面になるのと同様、瞑想をしていると不意にふっと意識の凪の状態が訪れます。それは清浄な意識のことでもあります。

清浄といえばそうなのですが、それよりも凪と言った方が正確かと思います。これを「透明」とか「無」とか言う人もいらっしゃるかもございませんが、何もなくなったわけではないのは明らかですので「無」と言うのは語弊があるような気が致します。意識はあるのですが意識が凪の状態になるのです。意識の波立ちが穏やかになっていることをはっきりと感じ取ることができます。

その状態になってから心の中でオームを唱えるとオームが体のどの部分に反応するのかがよくわかります。

アーは眉間。
ウは胸
ムは下腹部

もともとオームは古代において3節で唱えていたと言いますから、私の場合、アーだけ頭の中で唱えると心地が良いです。

意識が凪の状態になり、アーを唱えると眉間がザワザワとした感触になります。

このザワザワとした感触はマントラを唱えたりアサナ(ヨガの体操)をしたりするとそのような感触が出ることもありますし、瞑想中に感触が出ることもございます。

しかしながら、このように意識を凪の状態にしてアーだけを唱えるととても純粋に眉間が反応しているように思われるのです。他のマントラではこの感触を長く続けることができますが、このように意識が凪の状態でアーだけを唱えると強すぎる感もあります。そのくらい眉間に反応が出ています。無理して続けようとするとクラクラして来るくらいです。

色々と試したところ、この2ステップがとても効果的で自らの意識を変えてゆくのに良いような気がしています。

どう変わるのかはこれからのお話ですが。

なんとなく直感としてこの2ステップが良いように思えたのです。

1.意識に凪の状態が来るまで瞑想する。この時はまだマントラを唱えない。
2.凪の状態でマントラを(心の中で)唱える。

こうすることで、マントラが単なる心の詠唱ではなく深いところに直接的に働きかけるようになるような気が致します。



意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる

意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる

雑多な意識が平穏になり、凪の状態になるとしばらくその状態が保たれます。やがて、その状態から更なる平穏なる凪の状態に遷移します。更にしばらくすると次なる凪の状態へと遷移します。

その意識の遷移は直線的なものではなく、一定時間経つと段階的に変化するものです。



変化に要する時間は3〜5秒程度の短いもので、駒やゴムが収束するかのように一気に変化をします。

例えば、このような時間軸です。

1時間:(日にも程度にもよりますが瞑想後よりは)雑多な意識状態で瞑想開始。基本的にはこの間は同じ状態で続きます。
3秒:最初の変化。平穏な状態が訪れる。静寂の境地。凪の状態。
10分:最初の変化後の状態で瞑想。
3秒:更なる変化。更に平穏な状態に変化。
5分:その状態で瞑想
3秒:更なる変化。更に平穏な境地に変化。

何段階起こるかはその時次第ですし時間があるかどうかにもよります。
最近は、この変化が起きたタイミングで瞑想をやめるようにしています。

■緊張のほぐれ
変化が起こる時、体の各所の緊張も同時にほぐれます。
それは、緊張をほぐそうとして意識的に行っているわけではなく、意識の変化と共に自動的に同時に起こります。

例えば上の例に則して言うならば、瞑想を開始して最初の1時間は緊張をもともと多少は意識しておりましたが、それは緊張というよりも意識の雑多な状態として認識されており、意識が揺れ動いている状態が体の緊張として現れている感じです。そして、次の3秒間で意識が平穏になると同時に体の緊張も瞬時に自動的に解かれます。

体の緊張は意識の緊張が原因で起こっており、意識の緊張が解ければ自動的に体の緊張もほぐれるということだと思います。

意識が静寂になって凪の状態になれば自然と体の緊張もなくなります。その変化も同時に起こりますので、瞬時に変化します。

これは、逆であるところの「体の緊張がほぐれるから意識が静寂になる」のではありません。意識の変化と体の緊張の変化はほぼ同時に起こりますので識別が難しいですが、私が瞑想中に観察したところによると、意識が先に変化して瞬時に体の緊張もほぐれるのだと理解しています。

これは、整体などで体をほぐすことによってリラックスな精神状態を得ることを否定しているわけではありません。瞑想における上記の状態の変化を説明しているだけです。



雑念があっても深い平穏なる意識は段階的にやって来る

意識の平穏は段階的に訪れるわけですが、雑念があってもその雑念と独立して雑念の背後で深い平穏なる意識がやって来ます。

先日書きましたように平穏なる意識の変化は3秒ほどの短い時間で起こるわけですが、平穏なる意識がやって来る前と後の、変化の数秒間があったとして、その変化が起こる前から湧き出ている雑念を観察しながら変化の数秒間が起こり、雑念が継続していながら深いところで意識が平穏になる、ということが起こります。

雑念はおそらくは深い意識から湧き出ていますので、平穏なる意識に達したならばその後は新たな雑念が出にくくなります。しかしながら、変化が起こる前から継続していた雑念は変化後も少しの間、継続するようです。

この状態は、集中と観察が同時に行われています。
集中だけではありませんし、観察だけでもありません。

雑念を抑え込む必要はなくて、意識は眉間に集中しています。雑念は耳で聞こえるのと同様に、雑念が聞こえてしまうのですからあまり気にかけなければいいだけです。雑念は表面的な心の声でしかありません。それは「自分」ではありませんし、一時的なものでしかありません。

意識を眉間に集中し、雑念は聞かないようにしていれば、肉体の耳で聞こえる音が気にならなくなるのと同様に雑念も気にならなくなってゆきます。

それが流派によって「定(三昧)」と言われたりもする状態のようです。雑念や心の声より奥にある意識が働いている状態です。

雑念や議論・理屈を考える心は表面的な意識で、その奥に、深くて広がっている意識があります。

ヨーガスートラの段階におけるダーラナ(集中)は表面的な意識での集中であり、ディヤーナ(瞑想)は表面的な意識から深い意識への遷移の途中の状態。そしてサマーディ(三昧)になると深い意識が働き始めます。

深い意識で眉間に集中します。そうすると、段階的な変化が起こります。

多くの流派で「雑念とは戦わないようにしましょう。観察していれば雑念は消えてゆきます」と言われていますが、基本的にそれは正しいです。ただし、本当に雑念が強力で体力を奪われてしまうような場合は戦うのではなく「消す」ということはした方がいいと思います。

それ以外の場合は、深い意識で集中して瞑想をすれば平穏な意識が現れ、雑念もそれに応じて少なくなってゆきます。

世間で集中瞑想と観察瞑想とが「どっちが優れているか」みたいなお話になっていたりしますけど、瞑想とは両方の面がありますので両方必要です。

集中というのは「深い意識を自在にコントロールすること」です。
その時、深い意識は雑念や五感を「観察」しています。

■その他諸々のお話
前者をサマタ瞑想(集中瞑想)と呼んだり、後者をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と呼ぶ人もいるかもしれません。ですが、両方なければどちらも成り立ちません。ぶっちゃけ、どちらの瞑想であっても一緒だと私なんかは思います。単に、その流派の呼び方が違うだけなのだと思っています。

例えば、
サマタ瞑想(集中瞑想)のよくある批判として「集中だけしていても何も起こらない」というお話があります。それは、まだ深い意識が働いていないだけです。ざっくり言えば「修行が足りない」ということです。それを瞑想のせいにしてしまうその人が未熟なだけです。

他によく聞くのは、
ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)は変になる人が多い、というお話があります。これはね、基礎であるサマタ瞑想(集中瞑想)をジャンプしてヴィパッサナーの真似をしているから意識がおかしくなるのですよ。五感で観察することをヴィパッサナーだと思い違いをした人が皮膚の観察を観察したり、あるいは、「体全体を感じましょう」「周囲を感じましょう」みたいな上級のお話を真に受けて五感しか働いていない人がヴィパッサナーの真似事をするから五感だけが敏感になってすぐにキレやすくなったりするのです。

瞑想は自分の心の中で行うものですからね。初心者ほどすぐに「私はできている」と思いがちですし、最近は特に宗教的な歴史伝統から切り離されたところでテクニックだけマインドフルネスとかで教えているところがありますけど、歴史が浅くて瞑想を教えているところは危険だと思いますよ。何かあったときに対処できませんよ。

例えばね、有名なところでいうとクンダリーニ症候群とかになったらマインドフルネスで対処できますか? 「そんなことになるわけがない。実証されていない。マインドフルネスは安全だ。」と言われて終わりなのではありませんか。「安全な筈」というお話と、実際に何か起こった時にどうするかは別のお話です。瞑想とは自分の中で行われるものですから正しい瞑想なのかそうでないのか判断するにはそれなりの人が必要で、マインドフルネスで教えられているような「テクニックや理論を教えてくれるだけの先生」では不十分なことは明白です。

マインドフルネスは宗教じゃないから安全だと思っている方が大勢いらっしゃいますけど、それは逆で、瞑想をして宗教的なお話に踏み入ることがタブーとなっているから伝えられていることが浅くて、現世利益優先で、本質的なところが教えられていないわけです。マインドフルネスは精神を安定させるセラピーでその目的は仕事の効率をアップさせることというところだと思いますが、宗教的な知見に踏み入らないと本質はわからないものです。マインドフルネスが宗教じゃないからいいと言っている人は、自分の意識の限界を自白しているようなものです。宗教にしても思想にしても、深く理解してゆけばどれも一緒という理解に達するので、「宗教だからいけない」「マインドフルネスは宗教じゃないからいい」とか言っているのであれば理解が浅いということです。自分で理解して経験させる宗教もあれば盲目的に信じさせる思想もあります。どちらも似たようなものです。利益目的の宗教もあればそうでない宗教もあります。利益目的の思想もあればそうでない思想もあります。瞑想にしても似たようなもので、もの次第です。法人格があるかないかというところは違っていますけど。

各所で瞑想のお話を聞く時、流派のテクニックにつけられた名前のお話をしているのか、あるいは、本質におけるお話をしているのか、用語があまり統一されておらずコンテキストによって読み替えなくてはいけないのでなかなか理解が大変だったりします。そういうこともあって、色々と落とし穴に落ちている人が散見されます。本質がわかっていればお互いに分かり合える筈だと思いますけどね。本質はそうそう変わりませんよ。

とは言いましても、個人的には、成功も失敗も含めて全て人生は完璧だと思っておりますので、そうして色々な瞑想を体験したり学習したりして人生を楽しむことができたら全てオッケーだと思います。

瞑想にまつわる色々な面倒なお話もありますけど、基本的には人それぞれ好きにすればいいと思っています。

この記事は自分の記録も兼ねていますので後で理解が変わるかもしれませんし、それはそれでオッケーです。
ですが今のところ私は前半部分に書いたように瞑想を理解しています。それをどう解釈するのも好きにすればいいと思います。



意識を眉間に合わせるのが瞑想の基本

雑多な心を眉間に合わせ、
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせる。

両方合わせて「集中」と言ったりします。
後者は「眉間を観察」と言えなくもないですが伝統的にこれらは「眉間に意識を集中」と言うことが多いです。

この「集中」は力を入れることではありませんし、「集中だけで観察しない」というわけでもありません。

実際のところ、雑多な心であっても観察の作用がそこに含まれていますし、
微細な意識であってもそれは観察だけでなく「思う」という心理作用もそこに含まれています。

同じような心の作用が雑多な領域で五感と関連して働く場合と、微細な領域で細かな変動を感じて働く場合とがあって、その両方とも意識と呼ぶこともあれば、場合によって片方を心と呼んだり「観察」と呼ぶこともあります。

ですから、最初の言葉は以下のように言い換えることができます。

雑多な心で眉間に集中しつつ観察する。
それと同時に
微細な意識で眉間に集中しつつ観察する。

ですが、瞑想においては前者は集中という色合いが強くて後者は観察という色合いが強いために最初のように解釈する方が適切かと思います。

この辺り、流派によって言い方が異なっていますので文脈に即して理解する必要があると思います。

特にヨーガの場合はこれらの瞑想を「集中」と説明していますけど、実際には上のようなものです。

流派によっては一定以上の教えを門下生以外には教えないという方針を取っているところも多く、ヨーガなどはその傾向がありますので、一般者が質問したら「瞑想とは集中することだ」と答えて詳しくは教えないことが多いように思います。実際のところ初学者向けの回答としてはそれで十分なのですが、それ故に一般人からヨーガの瞑想はそんなものだと誤解されている面もあります。

ヨーガにせよその他の流派にせよ、奥義はそう簡単に人に教えないと思います。

奥義の本質は教えないにしてもその根幹なものは常に表に出ていますので、その本質に気がつくかどうかの違いしかないわけです。瞑想で言えば「瞑想は集中である」という言葉を聞いて「ふーん」と思うのか、その奥に奥義を見出すのか、その違いとも言えると思います。

もっと細かく言うのであれば、以下のようになります。

雑多な心を眉間に合わせる。これはゆったりとした集中で良い。
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせる。これははっきりと認識するようになるべく集中する。

後者は最初はその感覚があまりありませんが、やがて感覚がはっきりしてゆきます。後者のためには集中が必要です。
しかしながら前者はゆったりと眉間あたりに置くだけで十分です。

後者を集中しようとするとどうしても前者にも力が入ってしまいますが、それはなるべく力が入らないようにします。

理想的には、微細な意識だけに集中するようにします。その時、雑多な心は既にゆったりと弱いものになっている筈ですのでなすがままにさせておきます。その時、「観察」は常に働いています。

雑多な心は観察だけしてなすがままに任せる。
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせて集中する。微細な心で観察は常に行う。

このような感じになるよう最近は瞑想を試みています。



形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教え

ヨーガの世界では、例えクンダリーニが活性化してもやがて「普通に戻る」と言うお話があります。あるいは、歓喜が現れても「やがて普通に戻る」と言うお話があります。

これは、普通に聞いてしまうと「後退」のように見えてしまうかもしれませんが、実際は、これは進歩であると言います。

その理屈を説明するのは難しいのですが、仏教の教えを使って説明するとこうです。

修行の未熟なうちは、見えたり、聞こえたり、または触れたりした時に、形などの形状が先に立ち、はっきり現れてきます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

一方で、段階が進むとはっきりした形としての現れは減ってゆき、チラリチラリと滅する想念が認識できるようになります。

これは、最初に感じた時は「調子が悪い」とか「うまく瞑想ができていない」「後退したのではないか」と思うかもしれません。私もそうでした。しかしながら、ヨーガでの体験談にもあるように、あるいは、仏教でこのようなお話から読み取れるように、それは正しい成長の過程であることがわかります。

そのことを、昔からの言い伝えで以下のようにいいます。

形状が表面化すれば現実が潜在する。
逆に、
現実が表面化すれば形状が潜在する。

「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

形状 → 表面上の物や形、印象
現実 → 全ては滅するという本質

表面上の印象や形状が表れているときは本質は潜在し、本質が認識されているときは表面的な印象や形状が捉えられなくなる、ということのようです。

これは、同書によれば「念が清浄になった」と言うことだそうです。

はっきりと感じられなくなったことが実は「清浄になった」ことを示すのだと言うお話は、言われないとなかなか気付けないような気も致します。

私の場合、これらの状態になった時に一旦は後退したのではないかと思って色々とやってみました。普段通りの瞑想やヨガだけでなく、試しにテレビゲームなどの修行の妨げになるようなことにも熱中してどうなるか試してみたことがあります。

そこでわかったのは、やはり、モヤモヤとした昔の(ヨガでいう)タマスな愚鈍な状態と、これらの「うまく言えないけれども、うまく瞑想ができない、何か調子が悪い状態」とは明確な違いがあるということでした。

一旦、テレビゲームをしてタマスな状態を一時的に作り出した時に昔ながらの懐かしいタマスを思い出し、その後、再度、瞑想をして清浄な状態まで再度一歩一歩状態を確かめながら元の不思議な状態まで変化を確認したことがあります。

それでやはりわかったのは、「不思議なモヤモヤとした何となく調子が悪い状態」はやはり、いわゆるタマスな愚鈍な状態とは明らかに異なるということです。

夜は意識がはっきりしていますし朝は割と早起きできますし、それでいて以前のような愚鈍なタマスな状態とは違った不思議なモヤモヤとした感じです。

そこらの瞑想やヨガの先生に言っても、きっと理解されないでしょうから特に相談はしていないです。言ったところで「タマスですね」と言われるだけな気がします。ですが、これは表面上は微妙な違いですが内面は非常に違うものであると思われるのです。

「清浄になったからこそ、不思議な、何か調子が悪い状態」が生まれるのだ、ということは確かにあるのだと思います。



意識の平穏が5分、10分おきに何度も現れる

一歩進んで、ゆっくりと少しずつ後退して、また一歩進んで、を繰り返しているのかもしれません。

遥か昔は、意識の平穏が瞑想中に現れることはそうそうなかったように思います。

最近は、調子が悪くても1時間、普段は5分から15分もすれば意識の平穏の段階的な変化が訪れます。

その後、日にもよりますが、何度も連続して5分おきくらいに起こる時もあります。

瞑想中ですので時間は曖昧ですが、1時間とか30分の間に何回も連続して起こっていたりしますので大体そのくらいだなというのがわかります。

そうしていますと、時々、意識といいますかオーラの塊が後頭部あたりから頭頂にまで登っていってサハスララのあたりに達するのがわかります。その後、オーラは静かに頭の上に抜けてゆきますが、それに要する時間は、だいたい1分前後になるでしょうか。

意識の平穏は、マントラを唱えていない時の方が来やすい感じです。

ですので、基本的な流れとしては、まず意識の平穏によって凪の状態にした後、マントラを唱えるという順番にしています。

このあたりはそれほど厳密ではなく、なんとなくその時の調子によって変えています。

オーラが不安定だなと思ったらマントラは唱えずに意識の平穏の瞑想をして、凪の状態がやってきたらまたその状態を確認し、更なる凪が必要と思ったら意識の平穏の瞑想を継続。どこかのチャクラ、特にアジナや後頭部などの活性化をしたいと思ったならば何かのマントラを唱えてそこを活性化させます。

一旦、凪の状態にした後にマントラを唱えるのと最初からマントラを唱えるのとでは効果がかなり違うように感じています。

特に、凪の状態にした後のアジカリムン(アジマリカム)は効果的です。「アー」だけも良いです。

マントラによって反応するチャクラが違いますので、私は最近はアジナと後頭部のみ活性化するマントラを選んでいます。



目のスローモーションと全身の感覚

スローモーションのヴィパッサナーが始まり、やがて視界のコマ送りの激しさは物珍しいものではなくなってゆきました。その後、コマが細かく見えるという感覚は減って、視界がスローモーションではなくなってきました。

視界が元に戻りつつありますが、以前よりははっきりと見ています。しかしながら、どこかぼやけた感じです。

一方で、全身の感覚が微細になり、ヴィパッサナーという感じになってきました。

この全身の感覚はおそらくスローモーションのヴィパッサナーが始まった頃から既に存在していたものですが、目の感覚が面白かったが故に私が目のスローモーションに着目していたのだと思います。

意識的に目を強く使っていたということで、目への興味が減って行ったことによりそれほど視界にエネルギーが行かなくなったのかなと思います。

それと同時に、目に対しても形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えが適用されるのかなと思います。初めは現実が表面化していて現実がスローモーションに見えていたのですが、その後、視界の形状・表面的な印象が小さくなっていって、「捉え所のないもの」(本質)が表面化してきているが故に視界がぼやけて見えるようになったのかなと思います。

最初はこの視界の明確さのなくなりは衰退なのかなとも思ったのですが、昔ながらの教えに従うならばこれは衰退ではなく成長なのだと思います。

そのように目の感覚がぼやけてきた一方で、全身の感覚が出てきました。

この感覚は皮膚の感覚とはちょっと別にあって、その感覚はというと、全身をコントロールしている微細体が確実に存在しているという実感に繋がるものです。

今までは微細体を熱感やら皮膚の感覚やらエネルギーの高まりとして感じていたわけですが、それが、微細体としての感覚が表れてきた、とでも言いますでしょうか。

私の体を動かす時に、体を動かすというよりは微細体を動かすと体も動く、という感じが少しずつ出てきています。

この感覚でわかったことは、おそらくはこれが普通のことであり、基本は微細体と肉体がロックされていて外れないようになっており、幽体離脱とかはかなりイレギュラーなことなのかなと思いました。

ここ数ヶ月は色々と試しましたが、一番効果があるのは何段階かに分けて意識の平穏をもたらす瞑想ですね。これが、この感覚へと繋がっている気が致します。



サマーディという言葉の多様な解釈

ヨーガ系のサマーディと仏教あるいはヴィパッサナー系のサマーディとでは内容が異なります。

基本的な概略は以下です。

・ヨーガ系はサマーディが最上でそれより上はない。
・仏教あるいはヴィパッサナー系はサマーディは通過点であり観察状態(ヴィパッサナー)に至ってから悟りに到達する。

これは、様々な誤解を含んでいます。

これだけを見ると仏教が最上と読めてしまいますが、実際のところ、ヨーガ系と仏教は同じようなことを言っているに過ぎません。

特にヨーガは秘密主義で弟子にしか本質を教えませんから一般向けの説明と弟子向けの説明は異なっています。仏教は誰にでも教えますから、両者の説明を比べるならば弟子向けの説明、いわゆる秘伝・奥義とを比べなくてはならないわけです。

ヨーガ系は、一般的にはサマーディは集中だと理解されていますが、実際には観察状態(ヴィパッサナー)です。今でこそ書籍に普通に書いてあったりしますが、そんなお話は弟子になってからかなり修行して瞑想が高まらないと教えてもらえないものでした。そんなわけで、色々と誤解が蔓延しているように思います。

ヨーガ系でのサマーディは「人間の心を超越した仏の心」とでも解釈できるものが表れて初めて達成されます。一般的に理解されているように「ただの集中」ではありません。集中というのは一般向けの説明です。集中を高めればサマーディになるというのは間違いではありませんから一般向けの説明としてはそれで十分だと彼らは判断しているようです。

仏教はというとその一般向けのサマーディの解釈を使って理屈を組み立てていますので特に仏教を学んだ人はサマーディという言葉を集中として解釈しがちです。しかし、ヨーガのサマーディは異なる意味だということを押さえておかないと話の理解が違ってきてしまいます。

流派によって言葉の使い方が違いますのでこのあたりはコンテキストに沿って解釈しないといけませんね。

他人が話す言葉に対してありきたりの反応をすぐにしてしまうような人もいますけど、特にこの辺りの言葉は流派および話す人によっても解釈がまちまちですから言葉通りに受け取ることができず、その時、その時に応じて解釈しなくてはならないのでなかなか大変なところでもあります。



脳内の各所を瞑想で緩める

瞑想をして何段階かで意識が平穏になると共に、緊張もほぐれてゆきます。

その緊張は、まず肩などわかりやすいところから始まり、やがて、脳内の各所の緊張もほぐれてゆきます。

瞑想の基本は眉間に意識を合わせる、いわゆる集中を行う訳ですけれども、その場合、眉間など意識を合わせた場所の緊張が先に取れてゆきます。

やがて、意識を眉間だけでなく頭頂や後頭部、そして頭の左側や右側など、ちょっと強張っていると思われる部分に意識を当てて瞑想をすることでその部分が不意に「ふっ」と段階的に緊張がほぐれて柔らかくなってゆきます。

そうして行くと頭の中も次第にふわふわのスポンジみたいになってゆきます。

体がなくなるわけではありませんけど体の緊張が抜けて、意識が体の全体に広がっているのを感じます。

その状態では、体が主で意識が備わっているというよりも、意識が主で体がそれに付随しているという感覚になります。



ハートを感じる瞑想

脳内の各所を段階的に瞑想で緩めて行くと、やがて、脳がふわふわになってエネルギーの滞りがなくなってゆきます。

頭頂から胸、そして下半身までエネルギーが充満していることを感じます。

もともと胸のあたりまでエネルギーは充満していましたが、最近は割と頭のあたり、特に後頭部や眉間などに意識およびエネルギーが集まっているのを感じていました。

これは、クンダリーニ覚醒後にまずマニプラ優勢から始まり、アナハタ優勢になり、そして、最近はアジナ優勢と言っても良い状態になっていました。

しかしながら、瞑想で脳内の緊張がほぐれて行くと、やがてアジナ優勢というよりは頭のアジナと胸のハートが一体になって大きなオーラが体を包むような感じになってきました。

これは、わかりやすく表現するならば「ハートを感じる瞑想」とでも言って良いものかもしれません。

ハートを感じることが大切だとは昔から言われていることですが、ハートを感じるにしても様々なのだと思います。

おそらく、人によっては生まれた最初からこのようなハートとアジナが統合されて生まれているような気も致します。

しかしながら、一般人にとってはハートとアジナは融合されておらず、ハートとアジナが融合された後のハートはそれ以前のハートとはかなり違ったものであるように思います。

そういえばこれは、以前読んだ本に「統合されたチャクラ」とかいう説明が書いてあったような気が致します。
あるいは他の本では、「アジナに登ってから、ハートに降る」みたいなお話も書いてあったような気が致します。

おそらくどちらも同じことの違う側面を表現しているのかとは思いますが、自分の感覚に照らし合わせてみると「ハートに降りる」というよりは「統合されたチャクラ」の方が表現としてしっくりきます。

流派によってはエネルギーをアジナに巡らせてからハートに下ろすような行法がありますけど、これはエネルギーを下ろすという感じではないです。それよりも、チャクラが統合されて動き出した、という感覚の方が正しいです。おそらく行法はこの状態を作り出すためのもので、行法が完成した際には統合されたチャクラの状態になるのかな、という気も致します。

私の場合はエネルギーを降ろすという行法はしていなくて、単に瞑想で各所の緊張を解いていったらチャクラが統合されました。おそらく、この辺りは色々とやり方があるのかと思います。降ろすというわけではないですが古代のマントラで上から下まで活性化させる、ということはしていました。結果としてはどちらも同じように体全体のエネルギーが活性化されるのかなと思います。



ナーダ音というベッドの上に横たわって寛ぐ

意識が凪の状態になるのは意識の個別の領域ごとに起こっていました。例えば眉間であればそこを中心として頭や肩などの力が抜けて寛ぐ感じです。

それはそれで有益で瞑想の基本ではありますけど、その凪の状態の先に更なる状態がありました。広範囲の力が抜けた、深いところまで届く意識のリラックスです。

その状態に入るにはいくつか方法があって、最初は凪の状態まで瞑想を続けて、その先で深い意識のリラックス状態に入っていました。

しかし、瞑想を続けるうちにその状態が徐々に解除され、また5分くらい経つと凪の状態になるという段階的な変化が起こっていました。

これ、最初のうちは階段上の変化ではあるのですが、続けていくうちにその変化分が小さくなっていって、一定以上は意識の平穏が進まない臨界点に達するのです。

変化が少ない場合は割と平準なところを行ったり来たりするところまで瞑想が達します。

その行ったり来たりの状態が意識の落ち着いた状態で、それはそれで重要なのかなと思います。

意識が平穏で、行ったり来たりの幅が狭くなった状態で更に瞑想を続けてゆくと、「あれっ。これ、全身の力を抜いても平気なのでは?」という突然の理解に達します。

今までナーダ音によって強制的に意識が働く状態になっていて、それは基本として働き続けていました。ナーダ音によって眠りを許さないが故に意識が活性化され、瞑想が進んだのです。

しかし、ここに来て、その「ナーダ音に引っ張られる意識」それ自体をリラックスさせることができるのでは、と、ふと突然に気がついたのです。

早速やってみると、それはまるで、ナーダ音というベッドの上に横たわる意識、という感じでした。

ナーダ音が聞こえ続けていて、しかしながらナーダ音に意識が引っ張られずにリラックスするのです。

今までは、ナーダ音というベッドに横たわってしまうことを、どこか意識が拒否していました。この拒否する意識は、ナーダ音に引っ張られる意識と同類のものです。おそらくは心(チッタ)は何かにすぐに引き付けられる性質を持っており、それがナーダ音に引き付けられて雑念から引き離されるという効果はあるものの、ここに来て、雑念が減ってきたが故にその役割を一旦は停止してナーダ音にすら引っ張られない状態に意識を持っていけるようになったのではないかなと思います。

ナーダ音というものに引っ張られていた心を、俗にいう「中心」に戻してあげることでリラックス状態になります。

それを比喩的に表現すると、ナーダ音というベッドの上に意識が横たわる、とでも言える状態です。

こうなると肩の力だけでなく全身の力が抜け、更に意識が深くなってゆく気が致します。

ナーダ音は悪者ではありません。それは浄化の印です。しかし、それは補助輪のようなもので、ある程度までは役に立ちますが、ここから先はその補助輪なしで行く領域な気が致します。



意識を中央に合わせることで緊張が取れ、リラックスできる

頭の中で意識を中央に合わせると急に緊張が取れてリラックスできます。

そもそもハタヨガのハタ(Hata0の意味はハが太陽で右側、タは月で左側です。ヨガで言うところのエネルギールートであるナディで言うとピンガラが太陽で右側、イダが月で左側です。ピンガラは熱でイダは冷のエネルギーです。

これらのバランスを整えると緊張が取れてリラックスできます。

これは、ハタヨガなどのヨーガにおける重要な理解の一つです。

呼吸法およびエネルギーのコントロール技法であるプラナヤーマをすることによっても左右のバランスを整えることができます。

単に体操と思ってやっていてもこれらの微細な感覚が備わってゆきます。

意識は単なる意識ではなくエネルギーの流れですから、意識が中央に合わさると違った種類のエネルギーが発生します。

一説によればイダとピンガラのエネルギーのバランスが整うとクンダリーニが生じると言われていて、私もこの考え方が正しいと思っております。

一般にはイダとピンガラの他に独立してクンダリーニのエネルギーが存在していると理解されていると思いますが、そうではなく、左右であるイダとピンガラのエネルギーを両方とも活性化してバランスを整えることでクンダリーニが動き出す訳です。

私の場合、クンダリーニらしきエネルギーは常に発生している訳ですけれども、基本の状態ですと私は左の方がエネルギーが強く、中心より少し左に引っ張られている状態です。

それを、中央に揃えるように少し右側であるところの中央に少し意識をかけて動かしてあげることで急に細かな緊張が取れてリラックスできます。

最近はそもそもそんなに緊張はないですが、それでも、気がつかないところで細かい緊張が各所に残っておりますので、それらの各所の緊張も取れて更なるリラックス状態になるわけです。

そして、その鍵になるのが意識の「中央」であるわけです。

これは、先に意識を中央に合わせてもきっとうまくいかなくて、先に凪の状態まで持って行った後に微調整として意識を中央に合わせると緊張が取れてリラックスできるのです。最初から中央に収まる場合もありますが、私なんかの場合ですとちょっと左にずれていることが多いので調整してあげます。



意識がモワモワっとして何を感じても「苦」に感じる境地

これは瞑想の初期に起きていた雑念による苦ではなく、意識がはっきりしてきたことによって雑念が生じる瞬間に「苦」を感じられるようになったということで、成長の証でもあります。

これは、言葉で言い表してしまうと雑念もこの種の「苦」も似たり寄ったりになってしまい、違いがわかりにくいかもしれません。

雑念に押しつぶされる種類の苦しみは混沌としたものです。雑念が止めどなく出てきて雑念に翻弄され、雑念にエネルギーを奪われて疲れたり怒りや悲しみの感情が出てきたりします。それはカルマの浄化でもあります。

それに対して、この種の「苦」は、それもカルマの浄化の一環ではあるのですが基本的な瞑想状態ではあまり雑念が浮かばなくなっており、それでも時々雑念が浮かんだその瞬間にその心の浮き沈みを感じて「苦」を感じるのです。

その雑念は完全に表には出てくることはそれほどなくて、雑念が出てこようとした瞬間に「苦」を感じて、その雑念の出現を観察するや否やすぐにその雑念が消えてゆきます。

波のほとんどない水面に時々波紋が広がってその痛みを感じているとでも言いましょうか。

以前よりは遥かに意識が明確にはなっているものの、完全に雲が取り払われたわけではない状態。であるので、昔のどんよりとした雲に比べると随分と晴れ渡ってはいるものの、それでもちょっとモワモワっとしている意識の状態。

そのモワモワっとした意識の中から時々カルマの想念が浮かび上がってきて、それを感じ取ると「苦」として認識されるようです。

しかし、「苦」と言ってもすぐに消えてしまう種類のものです。

これはなんだろう、と思っていたのですが、書籍を探ってみると以下のような記述がありました。形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えの続きの部分です。

■壊滅智(かいめつち)ただ、全てが滅んでしまったと理解する智慧
修行の叡智が一段と発展し熟すと、念じられた対象の始まりである<生じている瞬間>は智慧の対象から消え去り、終わりである<滅する瞬間>だけが次の叡智の対象になっています。それは「すべては速い速度で滅尽してしまうのだ」と思われるほどです。「自分の念じる心でさえ、次々と尽きてしまう」ということも分かります。
「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」

このミャンマーのヴィパッサナー瞑想は「現在の感覚をラベリングする」という手法を用いていますので表現がそれに沿ったものになっていますが、ここでのポイントは、生じた瞬間にすぐ滅するので滅する瞬間だけ把握できていれば十分、という理解にあります。

点灯したらすぐに消えるランプのように意識に雑念というランプが点灯したらすぐに消えてしまうため、意識には消えたという認識しか残りません。それでいいのだ、とこの教えは解いていると解釈できます。

それに、この章の説明を読むと私の今のようなモヤモヤとした状態は瞑想が進んだが故に起こることで、変わらず瞑想を続けること、と記されています。

一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れてきたなってとや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満、姿勢を変えたい気持ちは完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」



思考を止めて超感覚の意識を目覚めさせる

ヨーガスートラのような古典では「思考を停止させることがヨーガ」みたいに語られています。

これは普通に読むと「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」みたいな疑問が生まれますし、一般的には「我思う故に我あり」とか言われていますから、理解するのが困難に思われるかもしれません。

しかしながら、人間の心には2つあることを前提にすれば上記の表現は「低位の意識を停止させることがヨーガ」だということが理解できます。

ヨーガやヴェーダの流派には色々あって、流派によってはこの種の批判をストレートに言っている方もいらっしゃいます。

とあるインドの流派が他の流派に向かって「思考を停止させてしまって、それは人間と呼べるのだろうか」とか批判していたりします。

それぞれの流派にはそれぞれの主張があるのだと思いますし、言葉の意味も流派によってまちまちです。しかしながら、文献を読むときはその流派の用語と主張を踏まえないと読み間違えます。どちらも割と似たようなことを言っているように思えるのにも関わらず自分の流派が正しいと主張していることが多いように私なんかには思います。

言い方はどうであれ、人間には低位と高位の意識があって、低位の意識は止めるべきで高位の意識は目覚めさせるべきなのです。

低位というと欲望かと思われるかもしれませんけど、欲望というよりは五感に属する感覚が低位です。五感を超えた感覚が高位です。

例えばですね、幽体離脱の事例が分かりやすいかと思います。

幽体離脱するときは、だいたい2パターンあるように思います。

1.低位の意識が麻痺状態(トランス状態)になって高位の意識だけが体から抜け出す状態
2.低位の意識が働いたままで高位の意識が体から抜け出す状態

前者のトランスは低位の意識が純化されておらず高位の意識が働くためには低位の意識を停止させなくてはならない場合にこうなります。

一方、後者の場合は低位の意識が十分に純化されておりますから低位の意識と高位の意識とが同時に活動することができます。例えば、幽体離脱して遠くの場所を見たり過去や未来を巡っているのと同時に、肉体の手を動かそうと思えば動かせますし目からは三次元の視野が見えます。この場合、両方見ようとするとどちらも薄らとしていてぼやけた感じになります。意識を五感に向ければそちらが優勢になりますし、幽体離脱の方の意識に集中すれば体のことはほぼ忘れて超感覚が優勢になります。

ここでわかることは、肉体の五感を使った低位の感覚とそれを超えた高位の感覚とは別物であるということです。

これらを、流派によって様々な言葉で言い表しているように思います。

・仏の心と人間の心(仏教等)
・低位の心と高位の心(スピリチュアル)
・ロウアーセルフとハイヤーセルフ(私のいうハイヤーセルフとは意味合いが異なりますが)
・キリスト意識と人間の意識(キリスト教系のスピリチュアル)
・天使(の意識・心)と悪魔(の意識・心)(キリスト教)

多くの人は低位の意識のみで生きていますから、そういう人にとっては「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」という疑問が出るのはもっともだと思いますが、実は意識には2つあるのだという前提に立てばこのような「思考を停止」という教えもすんなり理解できるのだと思います。



静寂の意識と自然に起こる止息(ケヴァラ・クンバカ)

かなり前、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になる前に同様に自然に起こる止息が起こっていたことがあります。

その時も静寂の境地に達して心穏やかな状態になっておりましたがクンダリーニがそれほど動いておりませんでしたのでエネルギー的には低かったように思います。

その低いエネルギーの状態で静寂の境地を味わい、ケヴァラ・クンバカが当時起こっていたわけですが、クンダリーニ経験後にはむしろクンバカが苦手になりました。

その後もずっと基本的にはクンバカが苦手な状態が2年近く続いていたわけですが、ここにきて、段階的な静寂の境地が得られるようになってからは急に息も穏やかになってきてケヴァラ・クンバカも起きるようになってきました。

今から思えば、当時の静寂の境地はエネルギー状態が低いところでの静寂の境地だったように思います。

今は、クンダリーニが動き出してある程度のエネルギーがあるところでの静寂の境地です。

表面的にはどちらも「静寂の境地」として言い表されるものですが、その基本的な状態はかなり違うように思います。

特にエネルギーの量の差は顕著で、クンダリーニが動き出す以前はポジティブさが今ほどなかったように思います。これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るというお話で、エネルギーの絶対量が増えないままに静寂の境地に達したとしてもそれはそのエネルギーレベルにおける境地の到達であって、エネルギーが増えたらその静寂の境地の難易度が高まるような気がしています。

エネルギーが高まればその制御も難しくなりますし、そのエネルギーを安定させるスキルも高いものが要求されます。体の各所の制御もエネルギーが高い場合は難しいですし、呼吸や熱感の制御にしてもエネルギー量次第で難易度が変わってくるように思います。

それと、以前の静寂の境地は意識がそれほど活性化されていなかったように思います。静寂を感じる意識は動いているのですが、その意識の明確さが今よりも随分と低かったような気が致します。

それが、今回の静寂の境地においては常に意識が生きていて、体はというと睡眠に近い状態になったりしていびきをかくくらいになることもありますが、寝ているという感覚はあまりなくて意識が動いているように感じられる状態です。夢見に近いかもしれません。

瞑想、あるいはヨガにおける意識の状態であればすぐにこのような状態になれますし、普段の生活においても静かにしていれば割とこのような状態には入ることができます。

どちらにせよ、この状態の類似点を見るに、おそらくは成長のサイクルがループになっていて割と似通っている状態をぐるぐると体験しつつ成長していくのではないかなと思います。



テレパスのテレパシーは空気を読むことと同義

テレパスというとSFで出てくるテレパシーを使える人のことですけど、テレパシーを日本語でわかりやすく表現すると「察する」とか「空気を読む」という能力です。

こう言われると「な〜んだ。そのくらい私もできるよ」という方が大勢おられると思います。そ〜んなもんです。

特に日本人であればテレパスなんて当たり前に近いものです。その能力の強さに違いはあれど、かなりの人がテレパスであると言えます。

日本人であっても空気を読めない方がいらっしゃいますけど、そう言う人はテレパスではないのです。外国人で空気を読めない、と言う場合もテレパスではありません。もちろん外国人にもテレパスはいます。

この社会の構造はテレパスではない人によって作られておりますので、テレパス型の社会に変革する必要を感じております。特に非テレパスのシステムは日本人には合わないでしょう。

例えば、日本社会でありがちな「リーダーシップに欠ける」とか「トップが責任を取らない(連帯責任にする)」と言うのもテレパス型社会の特徴であると言えます。テレパスですと思考がお互いに行き来しますので「わたし」とか「相手」と言う感覚が希薄になります。アイデアであっても自分のアイデアなのか相手のアイデアなのかよくわからないことになります。

その人たちのところに非テレパス型の社会構造を持ってきてトップが成果を全て手に入れる資本主義システムを適用しているわけですからトップにしても「俺が決めたのではない」となるのは当然のことでしょう。テレパス型の社会は全体の思想が強調して動きますからトップの責任というよりは全体の責任になります。それ故に無責任社会になると言えます。

非テレパスのシステムにもメリットはあって、素早く大きく変えるにはリーダーシップが向いています。この辺りは一般に言われている通りです。ですけど、テレパスの人たちに向かってリーダーシップがどうこう、というお話をしても響かないのが現状なのではないでしょうか。

特に日本人は、自分たちがテレパスで他の民族の多くはテレパスではない、という自覚が必要だと思います。多くの日本人は外国人に向かって「空気が読めない人たち」とか言っていますけど、テレパスではないのでそこには超えられない壁があるのです。そんな、空気を読めるかどうかで嘆くよりも非テレパスの人たちとの付き合い方を学ぶべきかなと思います。

これは単純に「外国人が空気が読めない」ということでもありますけど、その奥には、テレパスの社会かどうか、という根本が違っているわけです。多くの日本人はそれを言語が原因だとか日本人が英語を学べばコミュニケーションギャップが解消するとか思っていますけど、問題はそこじゃありませんから。テレパスかそうではないか、というのは根本的に違うということを理解すべきだと思います。

テレパスは相手にもテレパスであることを期待しますし求めますけど、それを外国人に求めるのはかなり無理難題でかなりの時間がかかる(無理ではない)ということを理解しておかないと日本人が国際社会でうまくやっていくことは難しい気が致します。

テレパスの基本は単に雰囲気を読むことですけど相手の思い描いている背景を読み取るなんてのも普通にできます。というか、みなさん、普通にしていますでしょう? それができない、空気が読めない、つまりはテレパスではない人がこの地球上に多くいるということは知っておいて無駄ではないと思います。



忖度はテレパスの特徴

日本人は自分たちがテレパスだということを自覚していないので忖度とか言われるといけないことのように思ってしまいますが、それはお人好しというものです。テレパスであれば相手の思いは分かりますし、それに応じて勝手に何かをしてしまうということはいくらでもあります。それをダメと言われるのは、日本人であることをやめろと言われているのと同じことです。

昔、中世で魔女狩りなんてありましたけど、現代は日本人狩りの時代ですよ。周囲の国の人々は日本人というものが分からなくて気持ち悪いのです。ですから排除して消し去ってしまいたいのです。それは魔女狩りと同じ構図です。

それを、お人好しにも「そうか。忖度はいけないのか」と思ってしまって自分のテレパス能力を封印してしまう人が少なからずいらっしゃいます。ほんと、日本人は温室の中で育てられた世間知らずが多いのだなと思います。

テレパスであるのならば相手の思いを汲み取ることができますし、政治家でもあればそれができて当然と言えましょう。それができずに相手の忖度を攻撃するのであれば、それはテレパス狩りと言っても良いでしょう。現代の魔女狩りです。

陰陽師は幕末に惨殺されて散り散りになっていますし、一般人で神と対話できたり守護霊と対話できたり相手の気持ちを読み取ることができる人はごまんといらっしゃいますけど、あまり口に出していないように思われます。それは、そんなことを言えば変に見られるという社会の風潮もありまし、見えないものが見えると精神科に連れて行かれるという現実もあります。

とは言いましても、日本人が「空気を読む」のは当然と今でも思われていますので、その点、救いがあります。

身近な人のことを思うと、その人の気持ちがわかるでしょう。そして、それを「空気を読む」というでしょう。それがテレパスの基本です。

外国人はそれがあまりできない人が多くて、珍しいが故に海外では「サイキック」と呼ばれていますけど、日本人からしたらそんな「空気を読む」なんて普通ですから、言ってみれば海外から見たらかなりの日本人がサイキックです。そんな国が存在していたら海外からしたら気持ち悪くて国と民族を丸ごと消そうとするのも分からなくもありません。

日本人はもっと、自分自身がテレパスだという自覚を持った方がいいと思いますよ。

この世界は非テレパスによって支配されていますからね。日本人は自分がテレパスということをあまり言わない方がいいですし、そのための処世術を身に付ける必要があると思います。少なくとも、テレパスである日本人をこの世から抹殺しようとしている勢力があることを知っておくべきかなと思います。その目的は「日本人を全員抹殺、あるいは、日本人全てからテレパス能力をなくすこと」ですから、どちらも防ぐ必要があります。

そのような視点から見ると学校教育に仕掛けられた罠ですとか政治にまつわる罠、会社などの社会構造にまつわる罠がたくさん見えてきます。ここまで理解すればあとはいくらでも自分で見抜くことができます。



眉間で小さな雷の音を聞いた後、後頭部のあたりで圧力感による鈍い軽い頭痛がするようになった

いつものように瞑想をしていると、何段階かに分けて次第に意識が鎮まって行きました。朝早かったために少し意識がうとうとしていたのですが奥底では明るい意識が段階的に出てきておりました。

普段であればそのくらいで瞑想を終えるのですが、今朝は、急に眉間で小さな雷というか大きなものが遠くで崩れて遠くから重厚「ズザザザ」という音を小さく聴くかのような感覚がして、それと同時に急に後頭部のあたりに圧力を感じて鈍い頭痛がするようになりました。

思えば、その時にはちょっとした夢を見ていて、蛍光灯のような一本の光の棒を見ていたような気が致します。

最初は何だろうと思っていたのですが蛍光灯っぽいと思い、しばらく見ていると天井にその蛍光灯が付いているのが見えました。蛍光灯はその端の2箇所が天井に止められており、最初はただ見ているだけでしたが、しばらくしていると、それが蛍光灯ではなく、光っているドアのノブのように見えてきました。天井についている光っているドアのノブです。

そのドアの周囲には、何やら紐のようなものがいくつか垂れ下がっています。家の電灯をつける紐でしょうか? それにしては電灯そのものがなくて単に紐だけがあります。

でも、それらの紐も興味深いですが、一番気になったのはやはり光っているドアノブです。

なんだこれ・・・? 無意識のまま光っているドアノブに手を伸ばして、ちょっと引っ張ってみました。

すると、ちょっと動きました。完全にドアは開くまでは動かしておらず、ちょっと片側が開いたように思います。すると、すかさず上のような雷の音が眉間からして、びっくりして手を離したのです。

この状態では、瞑想のこれらのヴィジョンと眉間の感覚の両方を認識していたのです。ドアノブを見ながら眉間の奥で聞こえた音も感じていました。

そうして、少し離れたところからまだ開いていない光っているドアノブを眺めていると後頭部に圧力がかかっているのを感じ始め、やがて瞑想から抜けてきました。

なんだったのでしょうね。

このようなイメージは、今までの経験で言うと単なる想像ではなくて実際のスピリットの状態と密接に関連しています。

解釈はまだこれから少しずつ行っていきたいと思いますが、おそらくは、「天井」についていたということは頭あるいはそれより上と関係しているような気が致します。

候補としてはアジナやサハスララですけど、この光っているドアノブは体の部位とは関係ないところで見えていましたので単に上方にあったことしかわかりません。

今後、様子を見ていきます。



サマーディのために瞑想で思考を止める

最初は思考を止めます。
ヨーガスートラにあるように思考を止めること(プラスアルファ)でサマーディの状態になります。

しかし、時間が経てば思考があってもサマーディを保てるようになります。

ですので、訓練方法として思考を止めるというのはその奥にある深い意識を目覚めさせるために有効なわけです。

ですので、よく聞くサマーディへの批判である「サマーディで思考を止めても悟りには至らない」みたいなお話はそれはそうなのですけど、瞑想においてサマーディは必ず通る道なわけです。

ヨーガでいうサマーディは深い意識が目覚めてきた状態なのですけど特に仏教ではサマーディは思考を止めるだけを意味するという言葉の意味の違いがあります。

コンテキストに合わせて解釈しないと相手の言っていることを誤解してしまいます。

ヨーガ的にはサマーディは最上でサマーディの中にはいくつもの種類があって、それでも基本は深い意識が出てくるというところを根拠にしています。

仏教的にはサマーディは思考を止めるだけのお話でその先に観察状態であるヴィパッサナーがあります。

ですけど、ヨーガ的なサマーディを仏教がヴィパッサナーと呼んでいるだけで実際には同じことだと思うのです。

このことを踏まえておらずに「ヴィパッサナーはサマーディよりも上だ」みたいに言う方がいらっしゃいますけど、それは仏教の視点のお話であって、ヨーガの言い方は違うのですよね。

特にスピリチュアル初心者は自分のやっている修行などを最上で特別だと勘違いしてしまいがちですけど、本質を見ればどれも大差ないことが多いです。

どちらにせよ最初は思考を停止して深い意識を目覚めさせると言う点に関しては一緒ですし、深い意識が目覚めたら思考を動かしても深い意識が同時並行に動くようになります。最初こそ思考を止めないと深い意識が出てこないですけど慣れれば深い意識と浅い顕在意識が独立あるいは強調して動くようになります。

ですから、仏教やヴィパッサナーやヨーガの間で喧嘩なんてしてもしょうがないわけですね。

私なんかからすれば、宗派を1つに絞る必要性すら感じません。他の修行法をせずに自分のところだけするように言う流派も多いですけど、そんなことより多くのいいところを組み合わせて成長していけばいいと思うのですけどねえ。

その辺りの囲い込みって、精神修行が根拠になっているのではなくて現実的にスタッフを確保しないと運営していけないとかコストがかかるとか会費を集めたいとか、そう言う理由だと思うのですけどね。であれば、そんなことにあまり関わる必要もないと思うのです。

師匠という意味であれば別ですけどね。深い関係を築くためには定期的に通うべきです。ですが、宗派にそれほどこだわる必要はないと思うのです。