意識の平穏は段階的に訪れるわけですが、雑念があってもその雑念と独立して雑念の背後で深い平穏なる意識がやって来ます。
先日書きましたように平穏なる意識の変化は3秒ほどの短い時間で起こるわけですが、平穏なる意識がやって来る前と後の、変化の数秒間があったとして、その変化が起こる前から湧き出ている雑念を観察しながら変化の数秒間が起こり、雑念が継続していながら深いところで意識が平穏になる、ということが起こります。
雑念はおそらくは深い意識から湧き出ていますので、平穏なる意識に達したならばその後は新たな雑念が出にくくなります。しかしながら、変化が起こる前から継続していた雑念は変化後も少しの間、継続するようです。
この状態は、集中と観察が同時に行われています。
集中だけではありませんし、観察だけでもありません。
雑念を抑え込む必要はなくて、意識は眉間に集中しています。雑念は耳で聞こえるのと同様に、雑念が聞こえてしまうのですからあまり気にかけなければいいだけです。雑念は表面的な心の声でしかありません。それは「自分」ではありませんし、一時的なものでしかありません。
意識を眉間に集中し、雑念は聞かないようにしていれば、肉体の耳で聞こえる音が気にならなくなるのと同様に雑念も気にならなくなってゆきます。
それが流派によって「定(三昧)」と言われたりもする状態のようです。雑念や心の声より奥にある意識が働いている状態です。
雑念や議論・理屈を考える心は表面的な意識で、その奥に、深くて広がっている意識があります。
ヨーガスートラの段階におけるダーラナ(集中)は表面的な意識での集中であり、ディヤーナ(瞑想)は表面的な意識から深い意識への遷移の途中の状態。そしてサマーディ(三昧)になると深い意識が働き始めます。
深い意識で眉間に集中します。そうすると、段階的な変化が起こります。
多くの流派で「雑念とは戦わないようにしましょう。観察していれば雑念は消えてゆきます」と言われていますが、基本的にそれは正しいです。ただし、本当に雑念が強力で体力を奪われてしまうような場合は戦うのではなく「消す」ということはした方がいいと思います。
それ以外の場合は、深い意識で集中して瞑想をすれば平穏な意識が現れ、雑念もそれに応じて少なくなってゆきます。
世間で集中瞑想と観察瞑想とが「どっちが優れているか」みたいなお話になっていたりしますけど、瞑想とは両方の面がありますので両方必要です。
集中というのは「深い意識を自在にコントロールすること」です。
その時、深い意識は雑念や五感を「観察」しています。
■その他諸々のお話
前者をサマタ瞑想(集中瞑想)と呼んだり、後者をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と呼ぶ人もいるかもしれません。ですが、両方なければどちらも成り立ちません。ぶっちゃけ、どちらの瞑想であっても一緒だと私なんかは思います。単に、その流派の呼び方が違うだけなのだと思っています。
例えば、
サマタ瞑想(集中瞑想)のよくある批判として「集中だけしていても何も起こらない」というお話があります。それは、まだ深い意識が働いていないだけです。ざっくり言えば「修行が足りない」ということです。それを瞑想のせいにしてしまうその人が未熟なだけです。
他によく聞くのは、
ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)は変になる人が多い、というお話があります。これはね、基礎であるサマタ瞑想(集中瞑想)をジャンプしてヴィパッサナーの真似をしているから意識がおかしくなるのですよ。五感で観察することをヴィパッサナーだと思い違いをした人が皮膚の観察を観察したり、あるいは、「体全体を感じましょう」「周囲を感じましょう」みたいな上級のお話を真に受けて五感しか働いていない人がヴィパッサナーの真似事をするから五感だけが敏感になってすぐにキレやすくなったりするのです。
瞑想は自分の心の中で行うものですからね。初心者ほどすぐに「私はできている」と思いがちですし、最近は特に宗教的な歴史伝統から切り離されたところでテクニックだけマインドフルネスとかで教えているところがありますけど、歴史が浅くて瞑想を教えているところは危険だと思いますよ。何かあったときに対処できませんよ。
例えばね、有名なところでいうとクンダリーニ症候群とかになったらマインドフルネスで対処できますか? 「そんなことになるわけがない。実証されていない。マインドフルネスは安全だ。」と言われて終わりなのではありませんか。「安全な筈」というお話と、実際に何か起こった時にどうするかは別のお話です。瞑想とは自分の中で行われるものですから正しい瞑想なのかそうでないのか判断するにはそれなりの人が必要で、マインドフルネスで教えられているような「テクニックや理論を教えてくれるだけの先生」では不十分なことは明白です。
マインドフルネスは宗教じゃないから安全だと思っている方が大勢いらっしゃいますけど、それは逆で、瞑想をして宗教的なお話に踏み入ることがタブーとなっているから伝えられていることが浅くて、現世利益優先で、本質的なところが教えられていないわけです。マインドフルネスは精神を安定させるセラピーでその目的は仕事の効率をアップさせることというところだと思いますが、宗教的な知見に踏み入らないと本質はわからないものです。マインドフルネスが宗教じゃないからいいと言っている人は、自分の意識の限界を自白しているようなものです。宗教にしても思想にしても、深く理解してゆけばどれも一緒という理解に達するので、「宗教だからいけない」「マインドフルネスは宗教じゃないからいい」とか言っているのであれば理解が浅いということです。自分で理解して経験させる宗教もあれば盲目的に信じさせる思想もあります。どちらも似たようなものです。利益目的の宗教もあればそうでない宗教もあります。利益目的の思想もあればそうでない思想もあります。瞑想にしても似たようなもので、もの次第です。法人格があるかないかというところは違っていますけど。
各所で瞑想のお話を聞く時、流派のテクニックにつけられた名前のお話をしているのか、あるいは、本質におけるお話をしているのか、用語があまり統一されておらずコンテキストによって読み替えなくてはいけないのでなかなか理解が大変だったりします。そういうこともあって、色々と落とし穴に落ちている人が散見されます。本質がわかっていればお互いに分かり合える筈だと思いますけどね。本質はそうそう変わりませんよ。
とは言いましても、個人的には、成功も失敗も含めて全て人生は完璧だと思っておりますので、そうして色々な瞑想を体験したり学習したりして人生を楽しむことができたら全てオッケーだと思います。
瞑想にまつわる色々な面倒なお話もありますけど、基本的には人それぞれ好きにすればいいと思っています。
この記事は自分の記録も兼ねていますので後で理解が変わるかもしれませんし、それはそれでオッケーです。
ですが今のところ私は前半部分に書いたように瞑想を理解しています。それをどう解釈するのも好きにすればいいと思います。