雑多な心を眉間に合わせ、
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせる。
両方合わせて「集中」と言ったりします。
後者は「眉間を観察」と言えなくもないですが伝統的にこれらは「眉間に意識を集中」と言うことが多いです。
この「集中」は力を入れることではありませんし、「集中だけで観察しない」というわけでもありません。
実際のところ、雑多な心であっても観察の作用がそこに含まれていますし、
微細な意識であってもそれは観察だけでなく「思う」という心理作用もそこに含まれています。
同じような心の作用が雑多な領域で五感と関連して働く場合と、微細な領域で細かな変動を感じて働く場合とがあって、その両方とも意識と呼ぶこともあれば、場合によって片方を心と呼んだり「観察」と呼ぶこともあります。
ですから、最初の言葉は以下のように言い換えることができます。
雑多な心で眉間に集中しつつ観察する。
それと同時に
微細な意識で眉間に集中しつつ観察する。
ですが、瞑想においては前者は集中という色合いが強くて後者は観察という色合いが強いために最初のように解釈する方が適切かと思います。
この辺り、流派によって言い方が異なっていますので文脈に即して理解する必要があると思います。
特にヨーガの場合はこれらの瞑想を「集中」と説明していますけど、実際には上のようなものです。
流派によっては一定以上の教えを門下生以外には教えないという方針を取っているところも多く、ヨーガなどはその傾向がありますので、一般者が質問したら「瞑想とは集中することだ」と答えて詳しくは教えないことが多いように思います。実際のところ初学者向けの回答としてはそれで十分なのですが、それ故に一般人からヨーガの瞑想はそんなものだと誤解されている面もあります。
ヨーガにせよその他の流派にせよ、奥義はそう簡単に人に教えないと思います。
奥義の本質は教えないにしてもその根幹なものは常に表に出ていますので、その本質に気がつくかどうかの違いしかないわけです。瞑想で言えば「瞑想は集中である」という言葉を聞いて「ふーん」と思うのか、その奥に奥義を見出すのか、その違いとも言えると思います。
もっと細かく言うのであれば、以下のようになります。
雑多な心を眉間に合わせる。これはゆったりとした集中で良い。
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせる。これははっきりと認識するようになるべく集中する。
後者は最初はその感覚があまりありませんが、やがて感覚がはっきりしてゆきます。後者のためには集中が必要です。
しかしながら前者はゆったりと眉間あたりに置くだけで十分です。
後者を集中しようとするとどうしても前者にも力が入ってしまいますが、それはなるべく力が入らないようにします。
理想的には、微細な意識だけに集中するようにします。その時、雑多な心は既にゆったりと弱いものになっている筈ですのでなすがままにさせておきます。その時、「観察」は常に働いています。
雑多な心は観察だけしてなすがままに任せる。
それと同時に
微細な意識を眉間に合わせて集中する。微細な心で観察は常に行う。
このような感じになるよう最近は瞑想を試みています。