これは瞑想の初期に起きていた雑念による苦ではなく、意識がはっきりしてきたことによって雑念が生じる瞬間に「苦」を感じられるようになったということで、成長の証でもあります。
これは、言葉で言い表してしまうと雑念もこの種の「苦」も似たり寄ったりになってしまい、違いがわかりにくいかもしれません。
雑念に押しつぶされる種類の苦しみは混沌としたものです。雑念が止めどなく出てきて雑念に翻弄され、雑念にエネルギーを奪われて疲れたり怒りや悲しみの感情が出てきたりします。それはカルマの浄化でもあります。
それに対して、この種の「苦」は、それもカルマの浄化の一環ではあるのですが基本的な瞑想状態ではあまり雑念が浮かばなくなっており、それでも時々雑念が浮かんだその瞬間にその心の浮き沈みを感じて「苦」を感じるのです。
その雑念は完全に表には出てくることはそれほどなくて、雑念が出てこようとした瞬間に「苦」を感じて、その雑念の出現を観察するや否やすぐにその雑念が消えてゆきます。
波のほとんどない水面に時々波紋が広がってその痛みを感じているとでも言いましょうか。
以前よりは遥かに意識が明確にはなっているものの、完全に雲が取り払われたわけではない状態。であるので、昔のどんよりとした雲に比べると随分と晴れ渡ってはいるものの、それでもちょっとモワモワっとしている意識の状態。
そのモワモワっとした意識の中から時々カルマの想念が浮かび上がってきて、それを感じ取ると「苦」として認識されるようです。
しかし、「苦」と言ってもすぐに消えてしまう種類のものです。
これはなんだろう、と思っていたのですが、書籍を探ってみると以下のような記述がありました。形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えの続きの部分です。
■壊滅智(かいめつち)ただ、全てが滅んでしまったと理解する智慧
修行の叡智が一段と発展し熟すと、念じられた対象の始まりである<生じている瞬間>は智慧の対象から消え去り、終わりである<滅する瞬間>だけが次の叡智の対象になっています。それは「すべては速い速度で滅尽してしまうのだ」と思われるほどです。「自分の念じる心でさえ、次々と尽きてしまう」ということも分かります。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」
このミャンマーのヴィパッサナー瞑想は「現在の感覚をラベリングする」という手法を用いていますので表現がそれに沿ったものになっていますが、ここでのポイントは、生じた瞬間にすぐ滅するので滅する瞬間だけ把握できていれば十分、という理解にあります。
点灯したらすぐに消えるランプのように意識に雑念というランプが点灯したらすぐに消えてしまうため、意識には消えたという認識しか残りません。それでいいのだ、とこの教えは解いていると解釈できます。
それに、この章の説明を読むと私の今のようなモヤモヤとした状態は瞑想が進んだが故に起こることで、変わらず瞑想を続けること、と記されています。
一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れてきたなってとや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満、姿勢を変えたい気持ちは完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」