第1回目のクンダリーニ体験の前後 - 瞑想録 2020年1月

2020-01-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる

ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、これに関連しまして 先日に視界がスローモーションで認識されるということを書きましたが、スローモーションで視界を認識すると、いかに細かなことであっても無情であることを実感できるようになってきたように思います。かすかな風であっても何かを揺らし、動きが生じます。

ただし、ここで言っている無情とは仏教での解釈とは異なるかもしれません。言葉通りに無情であることを感じる、と言うことです。

それは言葉で表現すると「感じる」ということではあるのですが、以前の私が五感で「感じる」ということをいくら努力しようとしても現在のヴィパッサナー状態には至らなかったように思います。ですから、言葉上では「感じる」という言葉が近いとも言えますし、「感じる」という言葉は間違っている、とも言うことができます。私の持っている言葉が貧弱なのかなかなか表現がし辛いのですが、ヴィパッサナー状態とは「目が、感じる」とでも言えば良いでしょうか。もちろん目は視覚ですので「見る」ための感覚器官ではあるのですが、見ているだけなのに、体全体が何かを感じ取るのです。それは、皮膚の感覚としての「感じる」とはまた違ったものです。ですから、この感覚を「目から入ってきた情報を元に、体全体の内側と外側が満遍なく感じる」と言うことはできますが、その「感じる」とは、「皮膚の感覚を感じる」と言うことではないのです。

この種のヴィパッサナー状態になった時、体全体の内側と外側とで満遍なく無情を感じるのです。人の肉体はオーラに包まれているのですが、そのオーラの方が何かを感じているのです。

それは、オーラが感覚器官として働いている、とも言えるかもしれません。目から入ってきた情報... と言いますか、もしかしたら目はフォーカスのための導入にしか過ぎず、実際に感じているのは体全体、いわゆるオーラの方であるように思います。

このヴィパッサナー状態であれば、体全体のオーラで敏感に外部を察知し、外部の細かな動きに反応して自分のオーラがその変化を読み取り、無情を感じとるのです。

これは、まず最初の基本で「頭の思考」をある程度止めないとヴィパッサナー状態になりませんので、雑念や思考で頭の中がグルグル回っている人はできないと思います。ですから、最初はヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)で雑念を減らしていくわけですけれども、その辺りについては以前少し書きました。

世間の社会を生きると言うのは世知辛いもので、思考をグルグル回すことしか知らない人が大勢いますので、そう言う人と仕事やプライベートで関与してしまいますと簡単にヴィパッサナー状態が失われてしまって、以前のようなパラパラアニメのような1秒に数コマも認識できないような空間認識能力に落ちてしまいますから困ったものです。

ここから更にヴィパッサナー瞑想を深めるためには世間との関わりを制限すべきなのかもしれません。



ヴィパッサナー瞑想における体の観察

先日の続きです。日常生活上でヴィパッサナー瞑想をするようになって感じたことは、世間のヴィパッサナー瞑想で「歩き瞑想(歩行瞑想)」とか様々なヴィパッサナー瞑想がありますが、私が最近になって感じた状態になるまではそれは本来のヴィパッサナー瞑想ではないような気がしてまいりました。

私はテーラワーダ協会の方式とゴエンカ式とプラユキ・ナラテボー式のヴィパッサナー瞑想を経験したことがありますが、その導入としては皮膚の感覚を使うというものでした。しかし、おそらくはそれは導入で、本来のヴィパッサナー瞑想はオーラの動きを感じるものなのではないか... という気がしております。これは識者に確かめたわけではありませんが、おそらくそうなのではないかなと個人的には思います。

雑念が減って日常生活がスローモーションで見えてくるようになればヴィパッサナー瞑想でよく言われているように日常生活での瞑想(観察瞑想、ヴィパッサナー瞑想)も容易にできるでしょうが、そうでなければ、例えば「歩き瞑想」をしたところで、それは単に歩いていることとそうは変わらないと思います。...まあ、その瞑想が無駄だとは言いませんけど、違いを感じることは難しいように思います。

今になってわかることは、やはり最初は雑念の減少、いわゆる浄化が重要なのだということです。

そして、浄化できて雑念が減ってきた時にようやくヴィパッサナー瞑想が始まるわけです。



瞑想における集中の意味合いの変化

古典的なヨガの瞑想では眉間のアジナ・チャクラ(サードアイ)や胸(ハート・チャクラ、アナハタ・チャクラ)に集中するように言われますが、私にとって、昔と今ではその意味合いが変わってきました。

かなり昔は、集中とは雑念から引き離す行為であり、「一点」への集中という意味合いでした。眉間でしたら眉間にのみ集中し、胸のハートでしたらそこに意識を合わせる、と言う感じでした。雑念に囚われている時は集中が途切れていました。

今は、集中... と言えば確かに集中ではあるのですが、範囲が広範囲になってきました。

雑念が減ってきて体の各所を随時観察できるようになり、日常生活上のヴィパッサナー瞑想も可能になってきたのと時期を同じくして、瞑想中に集中しようとするとかつての集中とは異なってきているのを感じます。

それは、以前のように針の1点に集中すると言う種類のものではなく、体全体を覆っているオーラの揺らぎを抑える、と言う種類のものに変わってきたように思います。

ですから、焦点として... と言いますか、ある種の力点と言いますか、支点のような役割として眉間などを集中のポイントとして利用する必要は多少はあるのですが今までのようにそこだけに意識が行くわけではなく、ヴィパッサナー状態で体全体を観察しつつ、支点としての眉間を使いつつ、体全体のオーラに起きている細波のような振動を抑えて静かにしてゆく、と言う意味合いで集中の力を瞑想中に使用するようになってきたように思います。

それは以前とは変わらず「集中」と呼ぶこともできますし、説明が難しいですので言葉として表現する時はやはり「集中」と言ってしまうことが多いと思いますし、説明の時間があまり取れない時は「集中」と表現しておけばとりあえず良くて、それほど間違っているわけではないのですが、1点に集中すると言う意味合いにおいての「集中」とはちょっと違った集中の使い方を最近の瞑想ではするようになってきました。

瞑想の初期段階においては雑念を抑えるために集中(サマタ)が重要で、やがてそれは観察状態(ヴィパッサナー)に移行したように思いますが、ここに来て、ヴィパッサナー瞑想の中に再度、ちょっと違ったサマタ(集中)っぽい要素が入ってきたことが興味深いです。



後頭部の下方から中央にオーラが広がる

今日の瞑想は後頭部への集中から始まったのですが、そのオーラに少し変化がありました。

これは先日の続きでもあるのですが、先日までは、体の外側に広がっているオーラを体の近くに留めるような集中の仕方をしておりました。ヴィパッサナー瞑想的と言いますかオーラ的には肉体の表面で揺れているオーラを肉体の近くで留めるという集中の仕方になるのですが、その焦点と言いますか支点としては眉間あるいは後頭部のあたりで行っておりました。

図で青い部分ですね。青い部分にオーラが凝縮されている感覚がありました。色は説明のためで実際に青く感じているわけではありません。黄色や緑色も説明のためのもので実際に感じているものではありません。



その後、瞑想を続けておりますと、青い部分に変化がありました。特に変化を期待していたわけでもなく、変化を意図していたわけでもないのですが、急に青い部分が上方向に広がりを見せて緑色のような少し広範囲の感覚に変化しました。



緑色の範囲に広がった瞬間、意識も変化し、少し緊張が取れて楽になりました。

まず黄色のオーラの状態を安定させてオーラを皮膚の近くで安定させ、それと同時に青色にオーラが凝縮している状態に移行した時点で体の感覚は随分と楽になります。それだけでも十分楽な状態なのですが、更に緑の状態に移行したことによって更に緊張が解けて楽になったのです。

更に瞑想を続けていましたところ後頭部のもっと上の方まで充満したのですが、瞑想終わりの頃には青色集中の状態に戻って... と言いますか、無意識で青色の状態に戻して瞑想を終えました。

特に何かを意識していたわけでもなく、自然にこのような変化が起こりました。興味深いことです。

かなり以前は後頭部の上の方に集中するとその後に不快感が続くこともありましたが最近はそのようなことはほとんどなく、安定しております。

このことがどのような意味を持っているのかはわかりませんが、変化を楽しんでいます。



性欲と愛情、マニプラとアナハタ

性欲はマニプラでかなり制御され、アナハタに至るとほぼ超越できました。これは以前にも何度か書いたことですが、完全に性欲がなくなるというわけではありません。必要があれば性的な力を使用することができますが、暴走することがほとんどなくなる、ということです。

私の場合、クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になるまでは性欲が制御し辛い状態にありました。男ですから夢精などで出てしまったりするわけですが、そうした行為の後には不快感やエネルギーの低下を伴いました。

今は、夢精が完全にゼロではありませんが劇的に少なくなっており、性的エネルギーが漏れることがかなり少ない状態になっています。

それに伴って、愛情というものも変化して来ています。

以前は、愛や恋というものが激情とも言える強いもので、いわゆる「激しい恋」「盲目的な恋」「引き付け合う恋」という種類のものでしたが、今は、表現するとすれば「深い友情」に近いものに変わって来ています。

ですから、今から恋人を探そうとしても、私のことを理解してくれる人がどのくらいいるのか微妙なところです(苦笑)

私の態度ですと、相手からすれば本当に自分を愛してくれているのか疑問に思ってしまうかもしれません。

アナハタ優勢になった今は思い悩むこともかなり減っていますし、情欲としての愛情よりも普遍的な愛の方が強くなって来ていますから、自分だけを愛して欲しいと思っている人は私ですと満足できないかもしれません。

この状態になると、結婚するなら恋愛で日本式に最初に「愛しています」と言ってから付き合うのは難しくて、友人から初めて仲を深めてゆくのかなあ... という感じも致します。あるいはお見合いですね。

きっとこれは歳を取ったということも多少はあるのでしょうが、それよりも、タイミングとしてはマニプラ活性化とアナハタ活性化でそれぞれ優勢になったタイミングと同一でしたのでクンダリーニ 的なものの方の影響がかなり大きいと思っています。

他の方は、どうしているのでしょうかね。

今から思えば、昔のような激情としての愛も懐かしいと思うこともたまにありますが、「ま、もういいかな」という感じで、覚めて見ています。



クンダリーニ覚醒とスピリットの働き

今まで言及しておりませんでしたが、私の場合、クンダリーニ覚醒には私の内なるガイドのみならず、私自身のスピリット(いわゆる魂)も重要な役割を果たしていました。

これはなかなか説明し辛いことですのであまりきちんと書いてこなかったのですが、自分自身のスピリットは時空を越えることができるということが基本にあって、意図として明確にそれが示されたのは私の子供の頃に幽体離脱した際に(その当時から見たら)未来に行って、ヨーガをしている自分を見てクンダリーニ覚醒に導いたのです。

ですが、ここで未来とか言っていたとしても、幽体離脱して魂と言いますか意識のあるスピリットの状態になってしまえば時空を既に超えていますから、過去も未来も鳥瞰的にトータルに眺めることができて、過去とか未来とかいうのは単に視点の違いだけになります。

その状態で未来に行った... と言いますか、未来の視点を見た時、自分の将来の姿が見えて、そこではヨーガをしていて、その時点での自分自身の内なるガイド... と言いますか、平たく言えば要は守護霊... あるいは高次の指導霊とでもいうべき存在の意見も参考にしつつ、私の体の中で、ヨーガでいわゆるナディと呼ばれているエネルギーのルートのうち主要なルートであるスシュムナという背骨に沿ったルート上に詰まりがありましたので、私のスピリットは未来の自分自身の体の中を掃除するかのように詰まりを取り除いたのです。

その際、完全に取り除いてしまうと一気にクンダリーニが活性化してしまいますので、完全には取り除かずに多少は残し、徐々にクンダリーニ覚醒するように調整しました。このようにしたのは内なるガイドである高次の指導霊の意見でもあったのですが、一気にクンダリーニ覚醒してしまうとコントロールが効かなくなって危険なこともある、とのことでした。

この高次の指導霊は私は内なるガイドとか呼んでいたりしますけど、いわゆる友人知人や元家族の霊よりも数段階はレベルの高い存在で、時空を超えています。私のことを見守ってくれている友人知人や元妻などの霊たちはそれほど時空を越えることができないのですが、内なるガイドは時空を超えた視点から指導してくれています。いわゆるハイヤーセルフと同じ階層に存在していて、オーラの量や特徴・性格こそ違どもハイヤーセルフと同じ視点で活動できる存在です。

そんな感じでクンダリーニ覚醒に至ったわけですが、どうやら、単に自分でヨーガをしているだけでは数十年単位で時間がかかっていて、死ぬまで何も起きない、なんて可能性も十分にあったようです。

この種の、いわゆるエーテルあるいはアストラル的な手術は今の世の中にはそれほど一般的ではないですけど、ヨーガをしていて修行だけで覚醒している人は凄いなあ... とか私なんかは思います。

私なんて、激しく修行をしたわけでもないですし、自分自身のスピリットがやったことだとはいえ、アストラル的な介入なしにはクンダリーニなんて活性化しなかったでしょうし。

この種の手術は人のオーラの中に入り込んで行わないといけませんので、手術の最中にオーラがある程度混じる必要があり、オーラの質が低い人に対する手術の場合はカルマを共有してしまうというデメリットもあるようですが、私の場合は自分で自分の手術をしましたのでそのあたりはさほど問題にはならなかったように思います。

たぶん、ある程度目覚めた人であれば他人の体の中を探ってナディの詰まりを取り除くことはできるのでしょうけど、オーラの接触・融合をしてカルマを抱え込んでしまうことを嫌がって手術などしたくない、という人はそれなりにいそうな気が致します。

おそらく、ですが、ヨーガのグルと弟子の関係はこういうところにも効いてくるのかなと思います。グルが弟子の浄化をアストラル手術的に行ってあげることでグルは弟子の成長を促すと共に弟子のカルマをグルが抱え込んでしまう、という相互関係になるのかなと思います。であればグルと弟子の関係は密接なものとなり、グルが弟子以外に簡単に教えを説かない、というのも理解できます。

とは言いましても、古代においてグルと弟子の関係はおそらくそうであったとしても、今のグルでそのようなアストラル的な施術を行えるような人はそれほど多くないような気も致します。であれば、多くの場合、形だけが残っているのかな、とも思います。



スピリチュアルから見た哲学

頭での思考のループは終わることがない。
矛盾を見出して思考が止まる時、思考のループから抜け出すチャンスがあります。
であれば、思考に負けて抜け出す人こそが本当の勝者かもしれません。

哲学思考を続け、やがて思考の否定に達することがあります。その為の論理は何でも良いのです。論理力のある人ほど覚醒に時間がかかるかもしれません。

哲学は思考の羅列に過ぎず、次の次元に抜け出すことはない。

思考が矛盾等に突き当たって思考停止することこそが瞑想的な観点による哲学の意義になります。


・・・上記は、しばらく前に私の内なるガイドから示唆されたことです。

これを聞いた時、なるほどなあ、と思ったものです。

哲学者は何かを見出そうとしているのかもしれませんが、本当の真理とは言葉を超えたところにあって、言葉の羅列のそれ自体がその地点に連れて行ってくれることはありません。逆に、とある状態があって、その説明のために言葉が使われるのであれば言葉は有意義なものになりますが、言葉が先にあるような哲学では言葉それ自体によってはどこにも到達せず、であれば、哲学の意義とは思考停止の状態に導くことだ、というのも一理あるように思います。思考停止している状態こそが瞑想での最初のマイルストンでもあるわけですから。言葉で色々と論じていたとしても真理は言葉を超えた先にあるのですから言葉どうこうにあまりこだわり過ぎる必要はないですが、それでも、言葉はガイダンスとして役に立つものですので、上記のような意義の他にも、物事をしっかりと把握して表現するという意義も哲学には一応はあるようにも思いました。



出雲の黒いオーラ

私が若い頃は出雲大社にとても興味があって、伊勢神宮にも何度か行ったのですが東京からそれよりも遠い出雲により多く行っていた時期があります。

出雲は清々しい空気ではあるのですが、明るい黒、と言う感じがしておりました。黒が明るい??? と言われても謎かもしれませんが、エネルギーの高い黒いオーラは輝いていて、それが明るく感じられるもののの、漆黒の、真珠のような深い輝く黒のオーラであると思うわけです。

一方で、伊勢神宮と言いますのは白いオーラで、いわゆる「天」を象徴した天照大神が祀られております。主観ですけど。

出雲大社の主祭神は大国主命ですが、その大元はスサノオで、地の神ですね。

まあ、実際のところ、私にはその真偽はよく分かりません。

本題はここからで、少し前に、どうやら出雲のこの黒い漆黒のオーラをどうにかしなくてはならない、と言うことを伝えられました。

・・・誰がどうするのかは知りません。

どうも、伊勢神宮の方は天皇家とも繋がりがあってある程度活性化して活動しているのですが、出雲大社の方はまだ眠っているようなのです。

眠っているから漆黒の黒いオーラなのか、あるいは、まだ浄化されていないからそうなのか、そのあたりにも謎が残りますが、インスピレーションで内なるガイド... と言いますか、いつもの内なるガイドとはちょっと違った存在のような気が致しましたが、そのお方がおっしゃるには、誰かがどうにかしなくてはならない、とのこと。どうにかしなくては、その後の、何かに支障があるとか何とか...

・・・・そう言われましても、何が問題で何をすればいいのかも分かりませんので、私にはどうしようもないことですけど。

どなたかが何かをするのでしょうかねえ?



仏教の涅槃は禅定を超えたもの

仏教では禅定、いわゆるサマーディを色界(物質界)と無色界(非物質界、平たく言えば心の世界のこと)に分けていますが、涅槃はその両者を超えたものだと以下の経典から解釈致しました。

「第一涅槃関係経」―無縁―
 比丘たちよ、このような境地(涅槃)があります。そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処(くうむへんしょ)もなく、識無辺処(しきむへんしょ)もなく、無所有処(むしょうしょ)もなく、非想非非想処(ひそうひひそうしょ)もなく、この世もなく、あの世もなく、月・太陽の両者もありません。比丘たちよ、私はそこに来ることも、行くことも、止まることも、没することも、生まれかわることも説きません。これは、拠り所のないもの、生起のないもの、所縁のないものです。これがすなわち苦の終わりです。
(「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む(片山 一良著)」)

私は仏教を専門に勉強したわけではありませんが、涅槃について、おそらくそうであろうな... とは思っていたのですが、この経典を見ますとそれが明らかだと解釈できたわけです。

まず、地・水・火・風は物質界を構成している要素ですから仏教的には「色界」のことで、平たく言えば「物質は関係ない」と言っているわけです。その後、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処と言っていますが、これは仏教的には「無色界」のことで、平たく言えば「心の世界」になります。

仏教の世界でこれらを言う際は禅定、いわゆるサマーディとセットで語られることが多いように思います。

まずは物質界(色界)の禅定・サマーディによって心を安定させ、その後、心の世界(無色界)の禅定・サマーディで心を更に安定させて行くわけです。

諸説あって、悟りのためには物質界(色界)の禅定・サマーディだけでよくて心の世界(無色界)の禅定・サマーディは任意(オプショナル)だと言う意見もテーラワーダ仏教の「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」などを読むと書いてあったりしますけど、同書によりますと、それでも、両方の禅定・サマーディを極めてから悟りに至ることが多いようです。

であれば、上記の経典を平たく言いますと、「涅槃は物質界および心の世界、両方を超えたものである」と言えるわけです。

だから、色々と列挙して「〜ではない」と一つづつ語っているわけですね。

この、否定形で羅列する言い方はベーダンタとも似ていますね。

心の世界を超えてしまうと拠り所がなくなり、否定形でしか表現できないものになる... というはよく理解できます。

これはこれとして表現としては正しいですが、やはり、否定形の表現はよく分からないお話になってしまう気が致します。

これと同じことを表現するために、ヴィパッサナー瞑想的な表現をした方がいいかな... というのは個人的な感想です。

心の世界を越えると、というのは、心の動きを止めると、ということですし、そうしますと心を超えた感覚が出てきて日常生活がヴィパッサナー状態に遷移してゆきます。

それを表現すると、心を超えた感覚とは物質でもないし心でもないので否定形で表現するしか無くなってしまうわけです。

なかなか表現って難しいですね。

悟りって、本当は凄く単純なことだというのが実感ですし、表現もそうあるべきだと思いますが、表現とはなかなか難しいですね。



後頭部のオーラがゼリーのような感覚に変化

最近は先日書きましたように後頭部の下方にオーラを集めている訳ですが、その感覚が、以前は凝縮したモヤモヤしたオーラという感じでした。今日(1/8)も同じく凝縮されてはいるのですが、その感覚がモヤモヤという感じからゼリーあるいは柔らかい浮き袋あるいは水が緩く少し入った柔らかい風船のようなプニプニした感じになってきました。

なんでしょう、これは?

仙道をしている高藤 聡一郎の著書に、丹田あたりにネバネバした”気”を作り出す、みたいなことが書いてあったことを思い出しました。

小周天を長いことやっていると気は全身に広がり、だんだん陽気の質が変わってくる。つまり熱湯のようにサラサラした感じから、ねばっこいベトベトした感じになってくるのだ。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」

同書によれば、この後、仙道でいうところの「小薬」が作られ、(瞑想中の)視界が明るくなってくるという「虚室生白(きょしつせいはく)」の状態になると言います。

私の感覚がこれに該当しているかどうかは仙道のお話ですので微妙なところですが、参考になります。



第1回目のクンダリーニ体験

記載していなかったかもしれませんので、昔のメモに基づいて記載しておきます。これは、以前にも少し言及しました。

[2018年1月6日]
当日、リクライニングチェアでうたた寝していたら、急にアジナあたりの肌の上で空気あるいは電気的なバチッという小さな衝撃が走って飛び起きました。体の中ではなく、体の表面で、肌から1cmくらい離れた距離だと思います。バチッという衝撃の感覚はありましたが、電気的な刺激はほんの少しで、主に空気圧による急激な空気の動きに似ていて、風船が割れたときに”音なし”で空気だけがボンっと振動する感じ、あるいは、ダイナマイトの振動の弱いものを”音なし”でちょっとだけ感じるのに似ています。強さのボリュームは「弱」。とても微弱な刺激。

これによって視界に何か変化が生まれた訳でもなく普段通りです。なんでしょう、これ。

ふと思い返せば、その直前に、いわゆる(男性の)ムーラダーラの場所である会陰(お尻の穴の少し上の皮膚)にピリピリッ!と刺激があって、方向としては会陰(お尻の穴と男性性器の中間くらい)から上方向にペニスに触れるあたりまで皮膚上に上方向の電撃が走ったのを思い出しました。うたた寝状態でしたのでどのタイミングだったのかあまり覚えていないです。その強さのボリュームも「弱」。とても微弱な刺激。

ほとんど寝ていたのでどっちがどの順番で起きたのか正確なところは覚えていなくて、もしかしたら時間的に離れていた可能性もあります。

びっくりして飛び起きましたのでその前後のことは認識が曖昧ですが、先に下半身の電撃が走ってからアジナのショックが来たと考えると理屈に合います。

ただ、よく文献で読むような衝撃的なクンダリーニ上昇というわけでもなく、単に下半身とアジナが個別に電気ショック受けたような感じで、それも、とても弱いものなので、「上昇」などというほど大そうなものではなく、単にムーラダーラチャクラに刺激が走ったことに反応してアジナにもちょっと刺激が入った、というくらいのちょっとした反応でしかなかったように思えます。ですので、これをもって「クンダリーニ上昇」などとはとても言えないようなお粗末な体験ですが、それでも、ちょっとした変化があったのは面白いです。これがいわゆる「クンダリーニ上昇」に繋がるのかな?

・・・ここまでが当時のメモです。後から思い返せば音っぽい感覚があったような気もしますが、当時のメモを見るとはっきりと「音なし」と書いてあります。衝撃は感じるのに音はあるようなないような? うとうとしていたので音を認識していなかったのかもしれません。



体がオームに包まれる経験

記載していなかったかもしれませんので、2018年1月17日のメモに基づいて記載しておきます。

第1回目クンダリーニ体験の約10日後、リクライニングチェアでうとうと寝てたら、夢の中なのかなんなのか、腰から頭の中までシンギングボールのオームのようなキーンというかウォーンという高い音に包まれて、意識がはっきりしてそのまま起きました。シンギングボウルにも色々種類があって、大きなものは低い音、小さなものは高い音が鳴りますが、これはとても高い音でした。

腰のあたりが最初にオーラに包まれて、その音はどんどん秒単位で上昇して、上昇するにつれてオーラが頭まで包まれ、頭で包まれれば包まれるほど音が大きくなり、オームのようなシンギングボールの大きな音に包まれて、音が大きくなるにつれて意識がはっきりしてきて目が覚め、そのまま起きたのです。実際のオームの音とはこういうものかもしれません? ただの夢かもしれませんけどね。

腰のあたりの時は低い音。その後、そのオーラの中心は上に移動。
上に移動するにつれ、音はだんだんと高くなりました。
胸のあたりが中心になる時は既にかなり高い金属音。
頭の方にまで移動したら金属音を通り越して、よく聞こえないような高すぎる音になったのか、あるいは、音が小さくなったのか、どちらなのかは明らかではないですが、とにかく、音が小さくなって行きました。
そして、やがてはオーラが消えて、音も同じくして聞こえなくなりました。

フラループのようなエネルギーが下から上に突き抜けたとも考えられますが、視界には見えていないのでフラループのような形だったかどうかはわからないです。立体的に球で包まれたのかもしれないです。



日常生活中のケヴァラ・クンバカ(自然に起こる止息)

今は起こりませんが、当時、日常生活で自然に息が止まる経験を度々しましたので当時のメモから記載しておきます。

[2018年2月26日]
昨夜くらいから、ベッドにいるとき、あるいはリクライニングチェアでうとうとしている時、息を「吐いた」状態で自然に息が止まってしまうことがある。クンバカ(止息)が自動的に起こる。そのままクンバカを続けても良さそうですが、そのまま続けると意識が落ちてしまって危ない感じがして早くも30秒前後で意識的に無理やり指示を出して息を吸うように指示しました。でも、うっかりしているとそのうちそのまま落ちてしまいそうです。落ちてもいいのでしょうか? うとうとしている時だけでなく、リクライニングチェアで本を読んでいても息が止まります。度々そういう感じになります。

そういえば本で、自然にクンバカが起こると言う Kevala Kumbhaka のことを読んだ記憶があります。THE SCIENCE OF PRANAYAMAの第2章と3章に記述あり。Meditation and Mantraなどのヨーガスートラにも記載あり。ですが、今回の現象がこれかどうかは不明です。

睡眠時無呼吸症候群(SAS)のような気もしますが診断はしていません。

[2018年3月6日]
リクライニングチェアあるいはシャバアサナで息を吐き出してそのまま息が勝手に止まる時、ムーラダーラ(会陰)のあたりがモワモワ&サワサワとします。会陰だけがサワサワするときもあるし、下半身に円状のモワモワが発生して、それが太ももの上などにサワサワっと触れた後に会陰のあたりがモワモワ&サワサワとするようにサワサワの場所が移動してゆく場合もあります。どちらにせよ、多くの場合で会陰がサワサワとします。

そうしていなくても度々は会陰がしょっちゅうサワサワしている今日この頃ですがが、特に上記のようクンバカすると会陰がサワサワしやすいです。頻度が上がります。

それと、最近、アジナチャクラの額の部分の肌が常にピンと張っている感じ。会陰と関係があるのかないのかは不明です。


その後、クンダリーニ活性化したら起こらなくなりました。

関連記事: クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に



数十年ぶりに鼻の通りが良くなる

昔のメモから記載します。
私は子供の頃から何十年もの間ずっと左の鼻が詰まっていたのですが、当時、ヨガの手法で解消しました。

[2018年5月17日]
ここ数週間、ネティポットでジャラネティをしているが、それでも左の鼻が通らなくて万年鼻づまり状態は継続中です。

そんな時、ふと思い立って、久々に糸というか専用のゴム糸を使ったスートラネティを試してみました。

前は、ちょっと入れただけで痛くてとても無理な感じでしたが、今日は、多少は痛いけれども工夫しながら時間をかけて喉の奥まで糸を通すことができました。喉の奥の糸は手で掴むのに失敗しましたが、それでもクネクネ動かして掃除はできます。

そうしたら、翌日、鼻の通りが劇的に良くなりました! こんなにすっきりしたのは十数年ぶりかも? もっと早くやっておけば良かったです。

この後、しばらく同様の手法を使って鼻の掃除を繰り返したところ、ほぼ再発しない状態になりました。

今まで口呼吸だったのが鼻呼吸できるようになりました。ヨガのプラナヤーマも楽になりました。

今から思えば、鼻が詰まっているのにヨガのプラナヤーマで鼻呼吸の呼吸法をよくやっていたなと我ながらびっくりします。いつも息が苦しくて大変でした。

今もそれほど得意ではないですけど、当時はとてつもなく大変だったように思います。



植物や昆虫を傷つけるとハートが痛む

昔のメモから記載します。

[2018年6月27日]
ここ数ヶ月、植物や昆虫を傷つけるとアナハタチャクラあたりが痛むようになってきました。プランタの植物をシャベルで傷つけてしまったり、ドアにいる昆虫を少し踏んでしまったりすると痛みが伝わってきます。それもかなり酷い痛みです。子供の頃は田舎暮らしで、昆虫や植物なんて何とも思わなかったのですが。何が変わったのか。ヨガで感覚が鋭くなったからかもしれません。


・・・これはその後、アナハタ優勢になった時に更に決定的になり、悪口の根絶という形になって現れました。この時はまだ、強い痛みを感じはしますがそこまで決定的ではありませんでした。

更にその後、自分のオーラが強化されたのか何なのか、痛みに強くなりました。2つの面があるかもしれませんね。感じやすくなる、という面と、強くなるという面。この時は、感じやすくなった時だったのかもしれません。

このことは、植物であっても意識があるという確かな認識に至りました。そういうことはたまに耳にするわけですけれども、説明として植物も意識があると聞くのと、実際にこのように感覚を受けるのとでは自己認識にかなりの差があります。私は完全なベジタリアンではなくて植物を多めに取る食生活をしていますが、たとえベジタリアンであったとしてもこのように意識のある植物を頂いているのですからその点では動物と変わらない面も確かにあるのかな、とは思いました。植物の方が自分が食べられてしまうことに対して寛容っぽいので食べるならば動物よりも植物の方がマシ、という感じでしょうか。



オーラのざわつきを鎮める瞑想

最近はオーラを凝縮させて後頭部に集中していたわけですが、今朝はその範囲が広がって、身体中の皮膚の表面に合わせて凝縮させるような感じになってきました。後頭部に集中させるよりは密度は薄いですが範囲は広く、日常生活向きのような感じが致します。

朝起きた時などはオーラが揺らいでいてオーラの波がざわついている感じですが、こんな感じに皮膚に合わせてオーラを安定させることを意図するとその意図通りに皮膚に合わせて安定する感じが致します。

今日は、以前書いたようなゼリーのような感覚はしていません。

日常生活を送る上においてオーラを安定させるためにこのような瞑想をするだけでも役立つような気が致します。

瞑想では止観が重要とされていて、それは止(集中、サマタ、シャマタ)と観(観察、ヴィパッサナー)のことですが、サマタが足りないとこんな感じにオーラは安定しないかもしれません。



食事をする時に食材に感謝をする

最近改めて、食事をする際に感謝して食べるという日本古来の風習の良さを感じております。

それは習慣として、道徳として教え込まれてきたことですけれども、その理由を体感することは今まであまりなかったように思います。

今は、食べ物に感謝をすると食べた時の感覚が全然違います。これほど、食べ物に感謝することの効果があるとは思っていませんでした。

私はもともと雑食でしたが、最近はなるべく植物を多く取るようにしております。ただ、お肉や魚を完全に食べないわけではありません。特に日本ですと出汁や下味に含まれていますし、外食で選択肢がほとんどないこともありますし。

ベジタリアンは最近の言い方ですとプラントベースダイエット(植物由来の食事)とか言われているみたいですが、自分のことをベジタリアンとは言っていません。何でも食べますが、お肉はなるべく避けることを基本にして、欲求が求めたら食べてみたりもします。しかし、大抵の場合はお肉を食べたことを後悔します。きっと気分的にはよろしくなくても栄養素的に体が欲しているのだと理解しています。

先日、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むということを書きましたが、その観点からしますと、動物であろうとも植物であろうとも、調理されて食卓に並ぶという点では命を奪って人間が頂くという点に関しては変わりないと思っております。ただ、動物の方がより強い怨みの念を持ちやすく、動物の肉の悪影響を人間が受けやすい気が致しますのでなるべく避けております。その点、魚が恨んでいると感じたことはありませんので動物性の栄養素を取る必要性を感じたときは地上の動物よりは魚の方を選んでおります。

植物であっても、スーパーに並んでいるようなものはオーラ的には「ふつう」と言った感じを受けることが多いです。お肉は「若干、恨みの念あり」という感じがしますが、それほど気になるほどのものではありません。

それよりも、食堂やレストラン等で食事をする時は食材よりも調理人のオーラの影響を受けやすいようにも思います。

まあ、そんな訳で、外食よりは自炊を好むわけですけれども、食事をする時に黒いオーラを取り込んでしまうことも多々ありました。

良いレストランに行けば場所によってはそんなこともなかったりもするのですがそれはお金もかかりますし、自炊ならマシですが外食は私は長年、そんなものかな、しょうがないな、と思って食事をしてきたわけですけれども、ふと先日の経験を思い出して、植物であろうとも命を頂いているのだし、たまに動物を食べるときは明確に命を頂いているのだから、感謝しなくてはいけないかな、と、最初は何となくそんな気がして試してみましたところ、思っていた以上に効果絶大でした。食事の時に感じる不快感が激減しました。きっと今までは未浄化のオーラを一緒に体に取り込んでしまっていたのかなと。

今までは食事をするにしても食材任せ、あるいは、レストラン任せと言った感じでありましたが、これからは、出されたものが良くても悪くても自分で食材に感謝して有り難く頂くよう心がけたいです。

そうすることで実質的に不快感も減りますし、もともと美味しい食べ物はもっと美味しく頂けるのかな、とも思います。

きっと今までは、オーラ的な美味しさよりは肉体的・物質的な美味しさを感じていましたが、今は肉体的・物質的な美味しさはあまり興味がなくて、オーラ的な美味しさ、それはつまり快適さとか清々しさといった種類のものですが、そっちを求めるようになってきている気が致します。



瞑想とコーヒー(カフェイン、お茶)

昔から疑問だったのですが、ヨーガや瞑想においてコーヒー(カフェイン、お茶)を取らない方が良いとしている流派と、取る方が良い、あるいは、意見を表明していない流派があることを疑問に思っていましたが、最近、自分の中で整理がついてきました。

・ヨーガの流派の多くは、カフェイン非推奨です。例えばシバナンダ。
・瞑想の一部の流派やサークルではカフェイン推奨のようです(聞いたのは随分と昔の話なので具体的な名前は忘れました)。
・以前、テーラワーダ仏教のお話を聞きに行った時「ブッダのいた当時はカフェインが良いとか悪いとか、そういう話はなかったからそれについて指定はない」とおっしゃっていました。

個人的には、最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。後になればカフェインを取るのも自由だとは思いますが。

ヨーガの先生に聞いた時は、「実際、試してみて違いを見ると良い」と言われました。誰かに言われたからやる、ということではなく、実際に確かめるというのがヨーガの基本スタンスだと理解しました。

私はもともとコーヒーはほとんど飲みませんがお茶は時々飲んでいました。お茶をずっと飲まない時もあればよく飲む時もあり、急須で入れることもあれば買うこともありました。付き合いで珈琲店に行く時は試しでコーヒーを飲んでいました。

そんなこんなでカフェインについてわかるようなわからないような状態だったのですが、最近になって整理がついてきたのです。

まず、カフェインの効果はヴィパッサナー瞑想の日常生活上の観察状態に似ている、ということです。しかし物質に頼っていますので反動があります。私の場合、コーヒーを飲んだ場合に、すぐ後は良いのですが1日以内に不快感を感じることが多かったように思います。コーヒーを飲まない場合と比べて違いが顕著なのでよくわかりました。

昔、ヒッピー文化の時は瞑想にも薬(今は法律で禁止)を使ったりしたようですね。強制的に意識を覚醒させても反動があるという意味では、効果の大きさはかなり違えども、薬とカフェインは方向性は同じなのかもしれません。

ヨーガ的には、そう言った薬の使用は推奨しませんが、それを使うかどうかは個人の自由意志ですから他人の行動を否定しません。取りたい人は好きに取れば良いが、推奨しない、というスタンスのようです。

瞑想の一部の流派は、おそらくその覚醒効果を狙ってカフェイン推奨しているのかな、と推測していますが、具体的な話を直接聞く機会は最近ほとんどありません。

ヨーガでカフェイン非推奨である理由をヨーガの先生に聞きますと、団体でそういうことになっているという理由だったり、アユールベーダ的な説明をして頂いたことがあるように思います。簡単に言えば、コーヒーなどのカフェインは刺激があるから瞑想に良くない、という理由のようです。

ヨーガではカフェインのみならず、辛いものなども非推奨になっています。

個人的な経験と比べてみますと、瞑想の最初はサマタ(集中)で意識を鎮めていく必要があり、その後、ヴィパッサナー(観察)の段階に移るのですが、ヴィパッサナー状態に移行してしまえばその後で刺激物やコーヒー(カフェイン、お茶)を取ろうとも影響は少ないと思うのですが、段階としてサマタをしなくてはいけない人がコーヒー(カフェイン、お茶)を取ると瞑想の妨げになるのではないかな、と思います。あるいは、サマタを育てずにヴィパッサナーを育ててしまうことになります。

これはカフェインに限らないのですが、サマタなしにヴィパッサナーだけを育てると神経過敏と言いますか、色々なことが見えるようになる一方で自分の制御が効かない状態になりやすい気がします。平たく言いますと「キレやすい」状態になり、危険だと思います。

そういうことで、個人的には、やはり最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。

カフェインなしに「鎮める」サマタ瞑想を最初に行って、後でヴィパッサナーに移行したら好きにすればいいわけです。

ですが、ほとんどの場合はヴィパッサナー瞑想にまで行かない気がします... と言いますか、ヴィパッサナー瞑想に行ける人は、最初からそういう素養がそれなりにある気が致しますので、素養がある人はカフェイン取っても影響少ないのかもしれませんが、やはり、基本はカフェイン非推奨がいいと思います。



スピリチュアルと頭痛

色々な頭痛がありますが、頭痛はスピリチュアルで様々に解釈されるものの1つだと思います。

まず、肉体的な力による緊張がある場合。特に瞑想で眉間に集中するようなやり方をしている場合は力を入れてしまうと頭痛になったりします。瞑想で眉間に集中するのは力は入れずに意識だけ集中するのですがなかなかそれがうまくいかずに無意識に力が入ってしまって緊張になり、頭痛がしてしまうことがあります。この場合は、瞑想に慣れるなどして頭の緊張をほぐします。

次の解釈としては、悪い予感などのインスピレーション。これは頭痛の場合もあれば体全体が反応する場合があります。

あるいは、何か高次の存在からのメッセージだという解釈もあります。個人的にも、こういう場合もあると思います。

一般的には風邪を引いた場合ですとか、あるいは、精神医学的にはストレスによるものだ、と解釈されたりすると思います。

一方で、スピリチュアルの中でも特にサイキックな人々の中で昔から語り継がれているのが、サイキックになる予兆としての頭痛です。これは頭痛の中でも不思議な頭痛で、単に頭痛と言われていますが、ストレスの頭痛とも違えば風邪を引いた時との頭痛とも違います。

このサイキックな頭痛は特にイギリス等で有名らしいのですが、日本ではあまり聞きませんね。文化的なものもあるのでしょうか。イギリスとかであれば自分の症状を表に出して表現しますが、日本ですと頭痛があっても他人に言わない気もしますからね。

例えば、スピリチュアル系の書籍では以下のように記されています。

ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するに従って、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」

個人的には、これに該当するかどうかはまだ不明ですが、後頭部の下の中程で変な緊張と痛みがあって、どういうことかなあ? と様子を見ている感じです。 普通に病気で、脳腫瘍とかじゃなきゃいいですけど。



ゾクチェンのテクチュの境地あるいはヴィパッサナーのスローモーション体験

半分は推測ですが、そういうことではないかな、と思います。先日にゾクチェンの3つの境地を引用しましたけれども、テクチュについて以下のようにあります。

テクチュの境地とは、思考から離れた心の本性があらわれてきた状態のことです。(中略)むきだしになった心の働きのことを「リクパ」または「認識」と呼びます。(中略)あなたがテクチュの境地に留まり、リクパの認識が輝いているとき、対象とあなたの心を媒介していた思考は消え去ります。つまり、対象とあなたの心のあいだに設けられていた垣根が消え去るのです。対象とあなたの心の区別ができなくなり、対象があなたの心で、あなたの心が対象だという心の状態が生まれてくるのです。「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」

前半では重要なゾクチェン用語「リクパ」が出てきます。おそらくは、リクパとはヴィパッサナーのスローモーションな観察状態のことを意味しているのかなと思います。と言いますのも、その後に「媒介していた思考は消え去ります」と書いてあるからです。

更に続く説明には、「対象とあなたの心の区別ができなくなる」と書いてありますが、これはヨーガでいうところのサマーディの状態のことを言うように思います。となれば、サマーディはかなり多くの種類がありますが、このヴィパッサナー状態もサマーディの一部であるとヨーガ 的には言えるように思います。ヨーガでのサマーディの種類および定義は沢山ありますが、ヨーガ・スートラにはこのような「対象と心の区別がなくなるとき」にサマーディになる、と言うような定義が書かれてあったように思います。

サマーディは悟りではなく中継地点ですが、それがゾクチェンで言うところのテクチュの境地であるとすればスッキリします。

ただ、同書をみますとその1つ前のシネーの境地でも表現としては似ていますので、人によってはこのヴィパッサナーのスローモーション状態をシネーの境地だと判断する人もいるかもしれませんね。この辺りは、ゾクチェン的な視点で見るのであればゾクチェンのラマ僧に見て判断して頂くのが本当は一番良いのでしょうね。

今のところ、本を読んだ限りの推測のお話です。それでも、このテクチュの境地はとても興味深いものがあります。



散歩中に湧き上がってくる雑念を観察しつつヴィパッサナーに即座に立ち返る瞑想

街を散歩する意識が昔とは随分と変わってきました。

今は、街を歩くと景色がスローモーションになってヴィパッサナー瞑想の状態ですので、その目の視野を純粋に楽しみます。スローモーションで撮ったカメラをスロー再生するかのように景色の移り変わりを楽しむと言う散歩です。

時々、ふと雑念が湧き上がってきますが、その雑念が湧き上がってきたことにも割とすぐに気付いて再度スローモーションのヴィパッサナー状態に立ち返ります。

以前、ヴィパッサナー瞑想の説明を受けた時に「雑念を観察しましょう」などと説明されたことがありますが、その説明が下手だったのかあるいは私が誤解して理解したのか、今から思えばそのように湧き上がってくる雑念を観察すること自体は本質ではなく、雑念なしにありのままに景色を眺めることが本質なのだとわかります。

その本質の状態になるべく長く居座り、雑念が出てもすぐに気付いて本来の雑念なしのありのままのスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想状態に戻ることが清々しいのであって、散歩とはそのような状態で行うものへと最近は変わってきました。

かなり以前の私の散歩は、ストレスなどのモヤモヤした気持ちを散らすために散歩しているような感じでした。今では全く違いますね。

最近は以前のようなモチベーションに基づく旅行にも興味がほとんどなくなっており、その意味としましては、以前のようにストレス解消やモヤモヤした気持ちを発散させるための旅行はもう興味がないのですが、散歩と同様に、このスローモーションのヴィパッサナー状態で様々な景色を見るのはありかもしれない、と最近は思うようになりました。



サイキックな石の訓練とテクチュの境地

古典的なサイキック能力開発方法で、石を手にしてそれと一体化することで石がどこにあったのか当てる、と言う修行方法があります。

これはオーラを石と一体化させるわけですが、最近、テクチュとヴィパッサナー的な観察について気付きがあったわけですけれどもそのテクチュの境地とこの石の一体化の修行方法とで面白い一致があることに気がつきました。

古典的な修行方法では「石と一体化」をしますが、それは、テクチュやサマーディで「雑念をなくす」「対象と心を一体化する」と言っているのと同一なわけです。

サマーディの定義は有名でしたのでそれはこのサイキックのお話と似ていることは気にはなっていましたが、まさかテクチュとサイキックなお話と繋がっているとは思いませんでした。

サイキック能力開発方法で現世的能力を求めてはいても、実際のところ、本質というものは似たところにあるんだなあ、と言うのが興味深いです。



ヴィパッサナー状態で生まれてくる子供とそうでない大人

全員がそうかはわかりませんが、日常生活上でのヴィパッサナー状態で生まれてくる子供がそれなりにいると思います。

ここで言うヴィパッサナー状態とは以前記載しましたようなスローモーション体験での観察状態のことですが、大人になればなるほどそう言ったヴィパッサナー状態は失われやすく、ヴィパッサナー状態に理解のある大人の元で育つ子供とそうでない子供との間に成長力の面で著しい差が生じるような気が致します。

ヴィパッサナー状態の子供は何事もスローモーションで観察して事細かに大人に報告したりその面白さを伝えてきますが、大人は往々にしてそれほどの観察力がない、あるいは、そこまで集中する子供の態度に興味がなかったりしますから、その興味が噛み合わない場合は子供のヴィパッサナー能力は次第に薄れてゆく気が致します。

環境もそうですね。ヴィパッサナーを更に育てるような静かな落ち着いた環境であれば良いのですが、騒がしい環境では次第に子供の観察力・ヴィパッサナー力は落ちてゆきます。

ヴィパッサナー力が落ちるとスローモーション体験もいつしか失われ、1秒間で数コマの認識能力に落ちてゆきます。

それは集中力の低下に繋がり、学力や思考力にも影響を与えます。

大人がヴィパッサナーの子供と接する場合、そのヴィパッサナーに理解があるのかどうか、そして、そのヴィパッサナーを育てるかどうかが子供の成長の鍵になるわけです。

ヴィパッサナーで観察した事項に対して事細かに大人が興味を示したり、子供の態度をめんどくさがることなく興味を持ち、もちろん怒鳴らず、からかうこともせず、当たり前だとスルーすることもせず、もちろん馬鹿にもせず、子供のヴィパッサナー能力を大切なものとして育てることができればその子供の能力は急激に開花することでしょう。そして、そのような子供は旧世代がかつて成し遂げなかった高い目標も簡単に達成してしまうような能力の高い大人に育つことでしょう。

過去、大人がかつての日本で育った環境では騒がしく、ヴィパッサナー能力を育てることが難しかったように思います。

しかし、時が立つにつれて環境は落ち着き、ヴィパッサナーの土壌ができてきたようにも思います。

それと時を同じくして、今までの環境では到底生活できなくて、それ故に転生を渋っていた魂たちが徐々に日本に転生してきているように思われます。その魂は今までの魂よりも数段レベルが高く、認識力も上ですので、大人は子供の能力を見極めることができないかもしれません。基本的にはヴィパッサナー能力があって、更にその上の認識がありますから、基本的には今の子供は今の大人よりも上のレベルと思った方が良い気が致します。

まあ、例外もあるでしょうし、全てがそうであるとは保証はしませんけど。

かつてあったようなくだらない子供のお遊びや習慣なども随分と変わってきたように思いますし。

こう言うのって、世間では学校のテストの成績で頭がいいとか悪いとかそう言う面で捉えられがちですけど、そう言うことじゃないんですよね。確かにヴィパッサナー力のある子供は学校の成績も良い傾向があるような気もしますがそんなこと統計で調べた人なんておそらくこの世にいない気が致しますしね。ですから、ヴィパッサナー力と学校のテストの成績との相関関係はきちんとはわかりません。ですが、頭の良いと言われている家庭においては往々にしてヴィパッサナー力が大切に扱われているような気が致します。

ですから、世間ではテストの成績が注目されがちですが、重要なのはむしろヴィパッサナー力であると思うわけです。

例えば、車で出かけたときにどの程度景色を子供が観察しているか、とか、部屋に入った時にどこまで細かく見ているか、とか、そう言うところですね。 観察していても記憶していない場合もあるでしょうし、ヴィパッサナー力と記憶力が必ずしもイコールな気はしませんけど、ヴィパッサナーで見ていた景色はそうでない景色よりも思い出しやすい気が致します。そう言う細かなところに違いが出てくるのだと思います。

一方で、ヴィパッサナー力に理解のない大人は子供のそう言う観察力を邪険に扱い、子供はヴィパッサナー力を失ってゆきます。

これからは、テストの点数どうこうよりも、落ち着きやヴィパッサナー力で人を判断する時代になってゆくといいと思うのですが。



サマーディとは思考なしに対象をありのままに観察(ヴィパッサナー)すること

サマーディという言葉が神秘的に語られ、その内容が昨今は迷走しているように思われます。

サマーディに到れば悟るかのような誤解がスピリチュアル業界に多く見受けられ、その一方で、サマーディとは一体なんぞや? というところが様々に解釈されているような気が致します。

このお話は先日のゾクチェンにおけるテクチュの境地の続きですが、テクチュの境地の説明を元にすれば、サマーディとは本来、思考が止まって対象をありのままに認識(ヴィパッサナー)する状態であると言えます。

これは、半分は私の解釈ですので、他の人に言っても通じないかもしれません。

ヨーガ・スートラには以下のようにあります。様々な訳がありますのでいくつか引用します。

(1-41) そのヴリッティ(ス)がこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)
(1-41) 自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ[三昧]である。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」
(1-41) [定(じょう)の定義と種類] かくして心の作用がすべて消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器具(心理器具)、認識対象のうちのどれかの上にとどまって、それに染まる。これが定と呼ばれるものである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」

ヴリッティとは心の揺らぎのことで、1-40番までは心を鎮める方法が記されており、その最後にこうして心が鎮まった際にサマーディが現れる、と記されています。

その説明の中に、ヨーガの説明でよく見かける3つの要素、「見るもの(Seer、Self、プルシャあるいはアートマン)、見られるもの(Seen、Prakriti、プラクティ)、見る手段・道具(Seeing, Instrument of Seeing)」があります。

この説明はなかなか謎めいていて読み解くのが難しく、そのまま読むと神秘的なトランス状態の認識だとか色々な解釈ができてしまいますが、ゾクチェンの定義を流用しますとこの説明は明らかです。

その意味するところは、「思考なしに、見る者が見る対象をありのままにスローモーションのようにはっきりと観察(ヴィパッサナー)すること。」となります。その状態がゾクチェンで言うところのテクチュの境地に相当するものだとすれば、サマーディとヴィパッサナーとテクチュの境地とはほぼ同一の境地を表現しているのだと解釈できます。

その前提に立てば、ヨーガ・スートラのサマーディの定義もよく理解できます。

サマーディの定義は以前、いくつか引用しました。その中の幾つかを引用します。

(3-3) 静慮(じょうりょ、瞑想、ディヤーナ)が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」
(3-3) それ(瞑想、ディャーナ)がすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)

こうしてサマーディの定義だけを見ると神秘的なイメージが拡大され、サマーディがまるで悟りそのものであるかのような誤解も生じたりするかもしれませんが、ゾクチェンのテクチュの境地を前提にしますと、これはいわゆるヴィパッサナー状態であると解釈できます。以前少し書きましたように、これは単なる視覚による観察ではなく、オーラによる観察とも言える状態なのかなと思います。

その前提でヨーガ・スートラを読むと、また違った解釈ができてなかなか面白いです。

サマーディには色々と種類があるようですが、おそらくはこれが基本になるのではないかなと。

またもや1つ、謎が解けてきました。

ただし、これは主観的な個人的な解釈ですけれども。



ゾクチェンをヒントにしたサムヤマの謎解き

以前からサムヤマは謎でしたが、最近、ゾクチェンの見解をヒントにしてサマーディの解釈ができましたので、その解釈を元にするとサムヤマの謎が少し解けてきた気が致します。

まず、その解釈ではサマーディとはありのままに観察(ヴィパッサナー)することであるわけですが、別の視点からすると、ヴィパッサナー瞑想とはオーラの動きを感じるものであると思うわけです。

で、あれば、サマーディとはヴィパッサナー瞑想でありオーラの動きを感じる瞑想であるわけです。

それを前提としましてサムヤマですが、サムヤマとはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こることだと定義されています。(関連: サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)

これは、文字通り読んだのであれば「ヨーガ スートラのステップの3つを同時に行うこと」であり、意識を集中して集中を持続させて瞑想してサマーディも同時に行うこと... としか読めません。その謎は解けないわけです。

ですが、これを上記の解釈に基づきますと、サマーディとは上記のようなことですから、そのオーラのお話が前提になってダーラナー(集中)とディヤーナ(瞑想)があるとすれば、それは、サマーディ以前のダーラナー(集中)とディヤーナ(瞑想)とは別物であるわけです。

具体的には、おそらくはこれは、順番は逆に解釈するといいのではないかと思います。

1.まず、普通のダーラナー(集中)による意識(心)の集中
2.普通のディヤーナ(瞑想)で意識(心)による集中と観察
3.サマーディ = ヴィパッサナー瞑想 = オーラを感じる瞑想
4.サマーディ + オーラのディヤーナ(瞑想)でオーラを凝縮させて対象を観察する。
5.サマーディ + オーラのディヤーナ(瞑想) + オーラのダーラナー(集中)で対象を更に絞る。これがサムヤマ。

これがサムヤマだとすれば、やっていることは明白です。オーラの制御をして、オーラを伸ばして対象を知ると言うお話なのかなと思います。以前、オーラのお話の中でオーラと言うかエーテルの線(管)が伸びるとかそう言うお話をしましたが、それが自由自在にできる段階がサムヤマなのでしょう。おそらくは。

ここに来て、ゾクチェンとヨーガのみならず、スピリチュアルまでもが繋がってきました。


関連記事:
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サムヤマで光が輝き出る



半眼の瞑想、座禅

座禅では半眼で瞑想をするようで、私はヨーガ式に目を閉じてしていますが、最近になって半眼もありかな、と言う感じになってきました。

半眼あるいは普通に目を開いて瞑想をするともちろん視野に物理的な映像が見えるわけですが、おそらくは日常生活上のヴィパッサナー瞑想が可能になる以前に目を開けてしまうと雑念が多くなってしまってうまく瞑想できない気が致します。

一方で、スローモーションで見えるくらいのヴィパッサナーが可能な状態で目を開けて瞑想をすれば視野に惑わされずに視野を観察するだけのヴィパッサナー瞑想が可能になるように思います。

ただ、個人的には、ヴィパッサナー瞑想をするのであれば止まった視界よりも歩きながらの変化のある視界でヴィパッサナーをした方が効果が高いかなあ、という気が今はしております。慣れると違うのかもしれませんけど。

視野をスローモーションで観察しても、座っているとさほど景色が変わりませんので変化を見極めようとしますと目を凝らして細かいところを見なくてはなりませんので、ちょっと目が疲れやすい気が致します。一方で、歩きながらであれば景色はよく変化しますのでさほど目を凝らさなくてもヴィパッサナー状態が保てます。

そのような違いもありますし、座っている時は視野よりも内的な体の感覚にフォーカスした方がヴィパッサナー瞑想しやすい、という個人的な好みもあります。

どちらにせよ、おそらくは目を開けて行う瞑想は中級者以上向きかなあ、という気がしております。

上に書きましたように視界に惑わされて雑念が増えやすいということもありますし、そもそも瞑想の基本である集中ができていない段階で目を開けても混乱しやすい気が致します。

ただ、目を開けると言っても、目の前に絵や文字を置いて心の中に浮かべる、例えば禅の阿字観(あじかん)のようなものであれば目を開けていても実際はその映像に釘付けにするわけですから、それは初心者でもありかな、という気も致します。ただ、個人的にはそういうやり方はしてきませんでしたのでここは想像ですけど。



生きているが生きていない人生

昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。

人は、生きているが生きていない。
人は、ものを見ているが見ていない。
人は、人を見ているが見ていない。
人は、歩いているが歩いていない。
人は、食べているが食べていない。

・・・たしか、そんな感じの言葉だったと思います。

とても昔、20~30年前にどこかの本で読んだのか、あるいは、誰かが言っていたのか、そんなことをふと思い出しました。

どうやら、その境地とは ヴィパッサナー(観察) あるいは サマーディ のことを意味していたのだと今はわかります。

ヴィパッサナー状態あるいはサマーディの状態であれば、生きていることが瞬間瞬間の経験になりますが、それ以前であれば、生は鈍い体験にしかなりません。

ヴィパッサナー状態であればスローモーションで認識されるほどの細かな経験になり、それ以前であれば遥か昔のカクカクなアニメあるいは4コマまんがのような経験になります。

そのことを、昔の人は上のように表現したのかなと思います。

上の文は詩ですので論理的には何のことを言っているのかわかりませんが、それを理解するにはヴィパッサナーの状態が必要だったわけです。

そういえば、この話を聞いた時、同時に次のようなことも聞きました。「頭で考えるんじゃない。感じるんだ」、と。 スターウォーズやニューエイジや禅の好きな人が言いそうな言葉ですが、感じたところでわからない人にはわからないものです。それよりも、事細かにきちんと説明してくれた方がよくわかります。

今となれば日常生活上のヴィパッサナー瞑想を経験できるようになってこのことがわかるようになりましたが、かと言って、上の詩のような文を改めてみたところで「感じる」ことでその内容を読み解くのは今ですらかなり困難です。「感じる」ことではなくて、自分の経験と照らし合わせて論理的に組み立てるとこのことを言いたかったことがわかるのであって、当時は、「ふうん。感じることでわかるんだ???」と謎な感じを受けていましたが、今わかるのは、「感じることでは理解できないので、感じようとして理解できなくても全く問題ない」と言うことでした。「感じる」というのは結果であって、ヴィパッサナーに至るための方法ではなかったわけです。結果として感じられるようになるということであって、感じていれば辿り着くわけではないのだと思います。

今わかるのは、スピリチュアル業界にはわかるようなわからないようなことをあれこれ言う人が大勢いますので、あまり事細かに付き合う必要はない、ってことですね。詩的表現は目を引くものがありますけど、実際の感覚とは随分と違うなあ... というのが感想です。詩的表現を読むと、本当はわかっていない人が分かった感じになるのも良くない気もします。

言葉の追求をしすぎても仕方がなくて、自分の状態が先にふと変化して、その経験を元に表現をしたり、その経験に照らし合わせて書物に書かれてある内容を読み解く、と言うのが良い気がしています。

コンサルとかカウンセリングと一緒で、書籍や文章というのは外側にあるものですので「確かめ」のために使う、という感じですかね。本当の理解は自分にしか作り出すことができないのだと思います。ですが、幅広い見解を持つため、あるいは、自分の状態を確認するために外部の情報は使えると思います。



思考を止めただけではテクチュの境地にはならない

おそらく、そういうことではないかと思います。ここ最近のお話でテクチュの境地とはおそらくスローモーションのヴィパッサナーでありサマーディでもあるという結論に至ったわけですが、テクチュの境地がそうであれば、単に思考を止めただけのお話ではないように思います。

ゾクチェンでは、以前引用しましたように3つの境地があり、思考を止める境地は「シネーの境地」であり、それはそれで心地の良い境地であると説きます。実際、私もヨガを始めてしばらく後、思考が落ち着いてきて「無」の境地とか瞑想中に集中する境地を味わったわけですが、それらがおそらくシネーの境地に相当しているのでしょう。

その後、私が体験したマニプラ優勢の状態とかアナハタ優勢の状態がゾクチェンでどれに相当するのかはわかりませんが、おそらくはシネーの境地とは瞑想で集中した状態のことを指すのだと思います。

そして、テクチュの境地がヴィパッサナーおよびサマーディであるわけですが、私の場合、順番としては以下の順番だったと思います。

1.ゾクチェンのシネーの境地 = 良く集中できている心地よい状態 = ヨーガ・スートラのヨーガの定義の最初にある「心の作用を止滅」の段階。止滅とはインドで「シャマタ」。
2.クンダリーニ活性化、マニプラ優勢の状態。生命力(パワー)の増加。
3.アナハタ優勢の状態。よりポジティブになる。
4.ゾクチェンのテクチュの境地 = スローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想状態 = サマーディ
5.オーラの意識的な活用 = サムヤマ (私はまだまだこれから)

もちろんこの前後や途中にも色々とありましたが、いくつかのポイントを列挙してみました。

それぞれの段階において、それぞれの程度において「悟り」と呼んでも良い意識をいくつか通過してきました。

シネーの境地では、さすがにこの段階では自分でも「悟り」とは思えない状況でしたが、それでもある程度の悟りの片鱗を垣間見た気がしたこともあります。その後、クンダリーニ活性化してマニプラ優勢になり、これが最終形態にしては何かが足りないという気がしてはいたもののある程度の悟りの片鱗を垣間見た感じがしておりました。次のアナハタ優勢になった時は更にポジティブになり、最終ではないことが今度も流石にわかりましたが、それでも一般的には悟りと言っても差し支えない状態になり、きっと一昔前であればアナハタ優勢でも悟りと言って良い状態だったのかと思います。今は人々の意識レベルが上がってきていますのでアナハタ優勢の人は数多くいらっしゃる気が致しますし、社会の中で活躍されている方にはこのアナハタ優勢のレベルを、本人はそれと気付かずに生活されている場合も多いような気が致します。

そして今回、ここ1ヶ月くらいでスローモーションのヴィパッサナー状態に突入したわけですが、ゾクチェンの段階を勉強するとそれがようやく2段階目だということが明らかで、私が今まで悟りの片鱗を垣間見たと思っていたのは、実はまだまだだったのだ、というのが良くわかります。

ですが、ゾクチェンの本を読みますとシネーの境地とテクチュの境地の間は溝が大きいとのことですが、テクチュの境地の後は一続きのようですので、一旦テクチュの境地のスローモーションのヴィパッサナー状態のコツが分かってしまえば、あとはその先に進むだけだと明確にわかりましたので迷わなくて良いです。

今までゾクチェンの本を何冊か読んできましたが謎な表現が多く、なかなか読み解くのが難しかったですが、最近になってわかりやすい本「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」が出てきて参考になりました。

本当はこういうのは師匠に見てもらうのが一番なんでしょうけど、師匠になり得るほどの人かどうか見極めるために質問を浴びせまくると逆にめんどくさがられることが多いので、今まで師匠と思えるような人に巡り合ったことはありません。べつに議論をしたいわけではなくて、師匠になってくれるほどの人であればそのくらいの質問に簡単に答えて欲しい、という気持ちの方が多いのですが、どうも、ピントがずれた回答ばかりだったりめんどくさがられたりして、師匠と思える人に巡り合ったことはないです。 私の場合、内なるガイドがいるので、それで十分と言えばそうなのですけど。



ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好き

インドの文化なのでしょうかね。インドのリシケシでヨーガの先生からも誰かが言われていました。

その時、ヨーガの授業でチャクラのお話になって、生徒の一人が「私は全部のチャクラを感じるわ」と言っていたことに対し、先生が「それは単なる想像だ。そんな気になっているだけに過ぎない」と言っていました。

チャクラの話のみならず、スピリチュアルなお話に対してヨーガの人が同様に「それは想像だ」と言うのが一部で流行っていると言うのか文化的にそうなのか、良く耳にする気が致します。

この種のお話は数十年前から聞いていますので、おそらくは最近に始まったお話ではないと思います。
スピリチュアルでも数十年前からちょくちょく聞いていたように思いますが、具体的にはあまり覚えていません。

まあ、このお話ですけど、それはそうなんですけど、指摘することで他人に対する優位性を植え付ける、いわゆるマウンティングに使われることが時々あるので、それはどうなんだろうなぁ〜? と思います。 マウンティングに使われてしまうくらいなら、他人が想像で語っているのを聞いたとしても「ふ〜ん」と言って聞き流している方が最近は良いようにも感じます。

知識を沢山仕入れて、何かを話している人に「それは想像よ」とか言って話の腰を折ったり、自分が「指導したい」と言う気持ちがマウンティングとして現れていることに自分が気づかずに「それは想像だよ」と指導のつもりが単なるマウンティングになっていたり・・・ そんなつまらないことになるくらいなら、この習慣なんて廃れた方がいいと思います。

きっと文化的なもので、インドの文化なら合っているのかもしれません。

と言いますのも、インドの人は自己主張が強くて思い込みが激しくて自信満々なので、自分が出来ていると思ったら頑なになりますのでこうして指摘することで本来の姿に立ち直らせるのも必要かと思いますが、日本のようなところで同様に指摘したとしても「何を言ってるの、この人は」となる場面が最近は多いように思います。

そもそも、他人の状態を見て指導できるレベルの人はそうそういなくて、グルのレベルでないと他人の状態なんて良くわからないのに、他人の発言を想像だとか何とか言ったところで、それは本当かもしれないし想像かもしれないですし、良くわからないでしょう。

まあ、そんなこんなで、他人に「それは想像だ」とか言う、古くから知られたありきたりの指摘をする人は、私はちょっと疑って見てしまいますね。

インド人が言うなら文化的にもありだと思いますけどね。



意識的に緊張を解くと、緊張にまつわる記憶が出てくる

最近は、瞑想中にヴィパッサナーで体を観察していると肩や股関節など色々な箇所に緊張があることに気付くようになって、それを意図的に解除するようにしています。

解除する際、その緊張にまつわる様々な記憶が出てくるようです。

体というものは随分と昔の記憶まで保持しているもので、体と言いますかオーラと言いますか、記憶のよりどころになっているようです。そのような知識を以前仕入れたことがあるのですが、ここにきてそれを実感し始めているという感じでしょうか。

その緊張はなかなか解除しにくいもので、例えば肩の緊張を一旦は解除しても割とすぐに緊張が戻ってきてしまいます。

ですので、何度も何度も緊張を解除する必要があるのですが、流石に何度も解除すると少しずつほぐれて行くようです。

右肩、左肩、を繰り返して行くと、やがてはニュートラルな状態でも以前よりほぐれてきたような気が致します。股関節も同様ですね。

あまり意識していなかったところに緊張があり、それ故に筋肉が緊張していたようです。

この種の緊張は自分で気がついていなかったものが多く、たとえ自分ではリラックスできていると思っていても実は緊張があった、ということを実感しています。

以前仕入れた理論ですと緊張には原因があって、その原因を解消しなければ緊張は継続する、というようなお話だったかと思いますが、それはそうだなあ、と実感し始めています。ですので、まずはヴィパッサナーで体の緊張をほぐして、ほぐす際に出てくる過去の記憶を観察して、その記憶を味わって消して行き、記憶が解消されたら緊張も根本からほぐれる、という順番かなあ、という感じです。



昼も夜も半覚醒の状態で体の緊張をリセットし続ける

今まで随分と体の緊張を続けてきたことを最近はよく感じるようになりました。

最近は、昼の日常生活において顕在意識と並行して半覚醒の意識が体を観察していて、体に緊張があるとそれに時々気が付くのでその度に強制的に緊張をリセットしてあげています。これは以前はここまで気付くことはありませんでした。時期としては景色がスローモーションで認識されて日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じるようになった頃から次第にこの種の緊張に気付けるようになりました。

最近は夜も、全時間ではないですが時々深夜に半覚醒の意識が自分の体の緊張に気付いてその度に緊張を強制的にリセットするような睡眠の取り方をしています。熟睡で意識がなくなってしまうような睡眠から、半覚醒の睡眠に徐々に遷移してきているような気が致します。

起きているときに何か作業をしている時や歩いている時もその同様の半覚醒の意識が働き続けていて、自分の顕在意識とは別なのか一続きの別の意識になっているのか、その関係は微妙なところですが、明確な脳の働きの思考とは並行して半覚醒の意識が体の状態に気付き続けているような感じが致します。

それと同じ半覚醒の意識がスローモーションのヴィパッサナー状態を作り出していて景色なども細かく認識しているように思います。ですから、必ずしも視覚で読み取っているわけではなく、ヴィパッサナー状態はおそらくはオーラが感じているという種類の感覚なのではないかと推測しています。

ただ、目を閉じるともちろん視界の情報は消え去りますので、オーラが感じていると言っても、副次的なものなのかなと思います。

目で見える視覚情報の処理スピードが上がったことと、体の感覚を微細に感じられるようになったことの2点ですかね。
後者はオーラというよりは単に皮膚や内的感覚が微細になっただけとも解釈できなくはないですし、そういう面もあるかと思います。

ですから、もっと細かく言うのであれば、視覚処理能力向上と皮膚や内的感覚を感じる力の向上および微細な周辺の雰囲気を感じる力(オーラ感知力)の向上、という3つに分けられるのかなと思います。

この3つのうち、オーラの感知力はまだまだ低いです。以前感じたような五感以外の感覚でもあるのですが、動いてる時と動いていない時があって、動いている時でもやはり5%くらいの照度(比喩です)でしか感じません。これはまだまだのようです。

そんな感じで最近は昼も夜も感知力が高まって、ここ最近は体の緊張を意識でほぐすことがマイブームになりつつあります。

ストレッチ等は以前の通りヨガのアサナ(体操)とかでやりますけど、意識で緊張をほぐす、というやり方でどのくらい変化があるのかが最近の興味です。経過観察中です。



座った瞑想で準備をし、日常生活でヴィパッサナー瞑想を行う

最近は日常生活上でスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想を行っているわけですが、座った瞑想をしてもスローモーションな感じにはならないようです。私が座った瞑想をする際は目を閉じて行っているわけですが、視覚情報がないとスローモーションを感じられないということでしょうか。

座った瞑想は、少なくとも気持ちを落ち着かせる効果はあって、日常生活上のヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラを安定させる手段としてここ最近は効果が出ている感じが致します。

日常生活上でヴィパッサナー瞑想ができるようになったからと言って座った瞑想が必要なくなったわけではなく、今のところ、両方がそれぞれの役割を果たしている気が致します。

日常生活を送る上で不安定になりがちなオーラを座る瞑想で安定させるということと、それと同時に、発散しがちな思考を落ち着けてヴィパッサナー状態をしやすくするために座る瞑想が最近は役に立っています。単純に疲れを取る、という効果もあります。

そうすれば座る瞑想が終わった後に日常生活でヴィパッサナー状態に簡単に入ることができるようです。

座る瞑想はそれはそれで有用で、色々なやり方はありますが、最近は特に眉間に集中するということもなくチベットのマントラを(古代の唱え方で)唱えるということもなく、ただ単純に、ヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラと思考を落ち着ける、という単純なやり方に落ち着いています。

特にそれがいいとか悪いとか読んだわけでもないですし指導を受けたわけでもありませんが、自然にこんな感じになっていています。

そして、スローモーションに感じるヴィパッサナー瞑想や私の最近のマイブームである日常生活中に体の緊張に気付いて意図的に緊張を解除してゆく、みたいなことを最近はしています。



くつろぎの3段階

W.E.バトラーによると、くつろぎには3段階あると言います。

第一は緊張している場所をさがすこと。次には緊張をくつろがせること。そして最後に、つりあいのとれた筋肉の状態を確立することである。(中略)着実にこれを実践すれば、君は完全なくつろぎと、正しいつりあいを手に入れることができよう。(中略)これは大切なことなのである。「魔法修行(W.E.バトラー著)」

緊張している場所を探し、意図的にわざと緊張させたりすることでその緊張を理解し、意図的に筋肉をくつろがせ、最後には、同書で「つりあい」と表現されているような状態にするべきと言います。それはくつろぎがぐったりしたものでなく意識の通ったいつでも動けるリラックス状態に達することと説明されています。いわゆる「緊張と弛緩」のようなテクニックに加え、意図的に緊張をほぐすというテクニック、そして、くつろいだときにありがちなどんよりとした気持ちに落ち込むのを避ける、という重要な点を指摘しているようです。

この本はヨガの本ではありませんがヨガの体系も参考に書かれており、同著者のやり方ではこれが一番最初に来て、ヨガのアサナ(体操)やプラナヤーマ(呼吸法)よりも前に行うべきことであると記されています。

私の場合はヴィパッサナー状態に達してからようやく「意図的に緊張をほぐす」というテクニックが(簡単に)使えるようになりましたが、同書の順番でヨガのアサナや瞑想をする前の一番最初にそれをしようとしたらきっとなかなかうまくいかずに苦労していたのかな、と推測致します。

確かに、筋肉の緊張という意味では最初に来ると思いますが、意識の方がそれについてくるのはかなり後なのかな、という気も致します。

一方、リラックスを以下のように説明している方もおられます。

宇宙に命令しても(実現を心像化しても)そのことが実現しない理由は、リラックスの欠陥によるものだということを知っている人は殆どいない。何かのことを達成しようとしてそのものに精神集中をし、それの出現を命じた後に、よりよい結果を得ようとするには、もしその場合に命令だけをしているのであったのなら、命令(心像化)の後にリラックスをしなければならないのである。(中略)リラックスは、筋肉のリラックスに加えて心のリラックスが必要なのである。「秘教真義(M.ドーリル博士著)」

これは度々スピリチャルでも言われていることですが、これは古い本ですので昔からこういうことが一部では伝えられていたようです。



体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行う

先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。

ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。

とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。

とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。

視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。

視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。

と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。

私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。

日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。

ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。

ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。

これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。

思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。

まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。



日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想

ヴィパッサナー状態に移行する前はそんなことはありませんでした。以前は、日常生活は日常生活で精神的訓練(というほどのものではないですが)は精神的訓練で、例えばヨガはヨガ、仕事は仕事、趣味は趣味、遊びは遊び、散歩は散歩でした。

しかし、日常生活でスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になると、特別に何かをしなくても割と日常生活が修行のような感じになってきました。

「修行」とか言いますと何か重苦しくて山にこもったり苦しい苦しい苦行をして誰よりも大変な思いをしなくてはならないイメージがありますが、ここでいう修行はそういうことではありません。ただ単に、日常生活で、例えば散歩をするなどをして、その時にスローモーションで感じるヴィパッサナー状態にいるだけです。ヴィパッサナー状態で日常生活することそれ自体が修行のような感じになってきたと思っています。

ですから、ただ単にヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じながら日常生活を送るだけのことです。

滝行もしなければ、険しい山にも登らなければ、お経やマントラも唱えなければ、ストレッチもしません... と言いますか、やってもいいのですけど、それをすることと、ここでいう修行とはあまり関係がない、ということです。

誰かにこれが修行だなんて言ったら激しく説教されそうなくらいです(苦笑)
特に、ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好きですからね。

散歩しながらスローモーションのヴィパッサナー状態であれば修行のような感じ、というだけのお話です。

傍目からすれば、ただ散歩しているだけです。

誰も修行とは思わないですし、誰かに修行だなんていう必要もないですし、言っても理解されないと思います。

最近は、わざわざ誰かに言わなくてもいいかな・・・ という感じになってきています。 まあ、ちょっとは雑談とかで言いますけど、そのくらいですかね。

この、日常生活が修行のような感じになってきたら、今までヨガやスピリチュアルで言われていたことがかなり「溶けて」きた気がします。

当時は、色々なことが「納得」の上で精神的なスピリチュアルを捉えていました。

例えば、瞑想について言えば以前に ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について とか書きましたけど、今の視点からすれば全てはヴィパッサナーのスローモーション状態からの視点になってしまって、理屈どうこうはあまり考えられなくなってきています。

今は、ヨガやスピリチュアルの古典的な説明よりもゾクチェン的な「ありのまま」という一言が全てを表しているような気がしていて、それが全てであるなら何にも説明は実はいらないのだ... という気になってきています。

このまま意識が溶けてしまうのでしょうか。

まあ、あまり心配しても仕方がないですし、こうして書いているほどには実際は心配していません。

それは「流れに身を任せる」という感じでもなくて、パワーが漲っているので行き着くべき場所にどんどん自分から根元から突き動かされるように進んでいくから大丈夫、という感じです。

まあ、今わかるのは、やるべきことは日常生活でのスローモーションのヴィパッサナー状態を今は続ければ良い、というだけです。後のことはそのうち開けてくるでしょう。



ヴィパッサナーと通常状態がスーっと切り替わる

以前はいつの間にか切り替わるか、あるいは、瞬時に切り替わる感じでしたが、今日は思考を止めてヴィパッサナー状態にスムーズにスーっと遷移しました。遷移する瞬間の間をスローモーションで観察する感じですが実際には数秒だと思います。

思考が止まるというよりは思考が空間に溶けてゆく感じです。

思考が空間に溶けてゆくと景色がよく見えてきてスローモーションのヴィパッサナー状態に移行します。

今週は色々と作業があって少し疲れが溜まっておりましたので、それであまりうまくヴィパッサナー状態に遷移できないのかもしれません。調子の良い時であれば動画で言うところの30fpsくらいのスムーズさで視界が認識されますが、今日は15fpsから8fpsくらいの認識でした。その状態は多少は思考が混じっている状態ですが、上記のように思考が空間に消え去ると24fpsとかで多少はスムーズに認識されました。

ハイキングをした時も感じたのですが、ヴィパッサナー状態は疲れとかに左右されますね。

であれば、元気な時に散歩をして明確にヴィパッサナーすると気分も晴れ晴れとして良い気が致します。



目の前にあるオーラの壁にすり寄る

座った瞑想をしていると、目の前にもやっとした壁が感じられました。それは壁のようにも見えますし、シュタイナーの言う「境域の守護者」かもしれません。色は黒ですが嫌な感じはしません。見た目ではドラゴンクエストに出てくるフレイムに似ていますが色は黒です。

広い壁だということはなんとなくわかりますが目の前を見るとそこだけはフレイムっぽいので、大きなフレイムがいるというわけではなく、目の前に自分と同じくらいのフレイムがいるということです。その周囲と言いますかすぐ背後に広く壁があるようです。

それは、例えば水面を水の中から認識することに似ています。穏やかな湖あるいは湾の中の海に潜り、浅い砂地の底に横たわって透明な水を通して水面及び空を眺める感じです。そして、最近はその距離が近づいて次第に自分が水面に近づいているのを感じます。水面に近づくにつれ、上記のような壁及び越境の守護者のようなものを感じ始めています。

これは、大前提としてヴィパッサナー状態でないと感じられません。ヨーガ的に言えばサマーディ(の基本的な状態)なわけですが、思考が止まって周囲を感じる(五感の皮膚の感覚とちょっと違いますが)と、上記のように感じられるわけです。

境域の守護者は以前にも少し言及しました。ちなみにシュタイナーは薔薇十字系です。これは、以前に載せた、瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影に似ていますが今回は特に目は光っていませんでした。

記憶が曖昧なのですが、攻殻機動隊という映画の初代の確か最初の方で主人公が水面に浮かぶシーンがあったかと思うのですが... 探してみたらやはりありました。これです。今は探せばすぐに見つかりますね。この画像は同映画のワンシーンです。カラーだとイメージと少し異なりますので白黒にしました。

感覚としては、そんなイメージに似ています。

思えば私が子供の頃、隣町の湾の海岸で泳いでいたことがありました。その時、水深3m前後の砂地に潜り、水中の砂に横たわって海面と空を見ていました。そこは砂地の部分ではありましたが岩場の多い海岸でしたので基本的には水は澄んでいて綺麗で、息はもちろん止めていましたが肺だけを動かすとある程度は呼吸っぽくなるので潜ったまま肺だけを動かし、砂の上でうとうとし始めました。心地良くて、そのまま眠ってしまいそうです。意識が落ちかけて、ふと、このまま意識が落ちて眠りこんだら死ぬかもしれないというかすかな気付きが現れました。そうして手で軽く砂を押して海面に上がりました。その時の清々しさは今でも度々思い出します。今回のものは海の体験の清々しさとはちょっと違うのですが、似ている部分もあります。

今生きているのは水面の下の世界で、すぐ目の前に水面があって、その先には本当の・・・ と表現すれば良いのでしょうか、なんと表現すれば良いのでしょうか。水面の向こう側に世界があって、それをこちらから眺めている感覚です。

その壁との距離が近づきつつあって、その向こう側に何があるのかまだ不明です。ちょっとドキドキする反面、ちょっとだけ期待があって、ほんの少しの緊張感と共にその壁を眺めている感じです。壁の向こう側は「無限」と繋がっているかもしれない??? 実際はどうなのでしょう...

少しだけ自分とその壁とが交わりつつある気がしますが、まだ1割くらいの感じが致します。



サマーディとヴィパッサナーは同じ

サマーディの定義を見ると不可思議で、文字通り解釈するとヴィパッサナー状態とまるで別物のような印象を受けます。

私はそもそもサマーディがどういう状態なのか長い間謎で、ヴィパッサナーも謎だったのですが、まずヴィパッサナー状態に至って、その状態を説明してあるチベットのゾクチェンの本を読んでゾクチェンの一つの段階に相当することを理解し、その後、ゾクチェンの定義に当てはめるとサマーディが同じ状態に該当することを知りました。

ヨーガをしている人の中にはサマーディを神聖化している人もいて、サマーディに至ると悟ると理解されていたりもします。個人的にはそんな印象を受けます。

このあたりは以前にも謎解きをしました。

ですので、私の中ではサマーディとヴィパッサナーは同じであるという理解で落ち着いた訳ですが、世間を見ますと、サマーディこそが目指すところでヴィパッサナーはその途中段階だというお話があったり、あるいは、ヴィパッサナーこそが目指すところでサマーディは悟りには至らない、みたいなそれぞれサマーディとヴィパッサナーを神聖化するお話を度々耳にします。私だけでしょうか。

サマーディを神聖化している人はヨーガスートラに基づいて思考の停止を絶対視します。
一方、ヴィパッサナーを神聖化している人は思考の停止を否定し、思考も観察するヴィパッサナーこそが悟りに至る道だと主張しています。

私の理解に基けばこれはどちらもちょっと誤解をしている訳ですが、私は別に、その論争に加わろうとかそういうつもりはありません。

本当にサマーディに到ればそれはヴィパッサナー状態であることが分かるでしょうし、ヴィパッサナー状態に到ればそれがサマーディであることが分かる、という、ただそれだけのお話です。

サマーディとヴィパッサナーとは同じ状態の2つの面を表現しているだけであり、そこに到達していない人があっちが違うこっちが正しいとか言っていても仕方がない訳です。

サマーディに到れば思考が停止してオーラが主体となってオーラで何かを見るかのような状態になりますし、ヴィパッサナー状態は思考が停止しても同じようにオーラが何かを観察している状態になる筈ですから、結局は同じことであると思う訳です。

その状態に至ってしまえば、あとはそれを何と表現するかだけのお話で、それが私はヴィパッサナーと呼ぶ方がしっくりきている、というだけのお話です。ですから、私はべつにヴィパッサナー論者ではありません。むしろやってきたことはヨーガですが、ヴィパッサナーのお話も色々と参考にしました。

ですから、私は今の状態をサマーディと呼んでも良いのですが、サマーディという言葉は何か不可思議な響きがありますので、そのような不可解な表現は好きではないのでサマーディというのを避けているだけで、内容的にはサマーディとヴィパッサナーは同一だと思っております。



思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならない

ヨーガのよくある誤解として、思考を停止させるだけでサマーディ(三昧)に至って悟ることができるというお話があります。

普通に思考を停止させると、それが例えできたとしても一時的な仮死状態になるだけで、いわゆる深い眠りの状態に落ちているだけになります。それを誤解してサマーディ(三昧)と呼んでいる人もたまにいらっしゃるようですし、その誤解の理解に基づいてヨーガを批判して「思考を停止させても仕方がない」なんて言ったりします。

ですが、そもそも思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはなりませんし、それで悟りになることはありません。

私の理解では、サマーディになるには思考を停止させることに加えて、オーラによる観察をしている感覚が必要に思います。

ヨーガスートラにも記されています。

(2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
(3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。

「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より

これを文字通り読むと、「留まる」という文章は「ふうん。留まるから... だからどうしたの?」という感じになってしまって意味を読み取れません。文字通り心の作用を死滅(停止)させると見る者(自己、プルシャ)がそれ本来の状態に留まって、だからどうしたのだろう? というところで終わってしまいます。

これはもともとサンスクリットで難解な内容ですので思いっきり意訳が必要に思います。

おそらくは、この意味としては「見る者(自己、プルシャ)」が認識を始める、というような意味かなと思っております。

それを裏付ける形で、神智学系のヨーガ・スートラ解説書には以下のように記されています。

1章2) この合一(ヨガ)は、サイキック性質を征服し、チッタ(マインド)を抑制することによって達成される。
1章3) これが成し遂げられたとき、ヨギは自分自身のありのままの姿を知る。
「魂の光(アリス・ベイリー 著)」

この訳の方が真実に近い気が致します。サイキック性質というのは神智学でいうところの欲求の心であり情緒であり感情の性質です。そのような性質を制御することと、移ろいやすい思考の変化を制御することで合一(ヨガ)が達成される、と説明されています。

よって、よくある誤解のように、思考を無くしてロボットのようになることではなく、思考を制御する結果として現れてくるのはむしろ逆の生き生きとした自分自身の姿であるわけです。まあ、最近はそんな誤解を聞く機会も減ってきましたけど。

思考を制御して、見る者(自己、プルシャ)が現れて、いわゆるオーラ的な認識力が出てきた状態がサマーディなわけです。

チベットのゾクチェンでは、単に思考を停止させた状態のことをシネーの境地と呼んでいて、思考を止めただけでは次のテクチュの境地にはならず、その後にオーラによる認識力が出てきていわゆるサマーディ状態になるとテクチュの境地になって、それはヴィパッサナー状態と同じであるという個人的な認識に至ったわけですけれども、そういうことで、思考を停止させるだけではシネーの境地にしかならないわけです。

このあたりはなかなか入り組んでいますし流派によって解釈が異なるとは思いますが、個人的にはこのように理解しております。



体の緊張をリセットし続けたところ、ヨガのアサナ(体操)が調子良くなりました

先日書きましたように最近は緊張をリセットするようにしておりますが、ここ5日ほど忙しくてヨガのアサナ(体操)ができなかったのにもかかわらず今日のアサナ(体操)では随分と体が柔軟に曲がりました。

体の緊張のリセットを意識的にし始めたのはいつ頃からだったでしょうか。記事を書いたのは1週間前くらいだったかと思いますが、その少し前から行っていたように思います。その効果が出てきたのでしょうか。

半年くらい前に右足首を骨折しまして、それから体をあまり動かさなかったのでかなり体が硬くなっていたのですが、ここ1ヶ月ほどはヨガのアサナを再開して多少は戻っていたところでした。それが、このように緊張を意識的にリセットするようにしてから急激に体の状態が回復してきたように思います。

今日のアサナでは、体の調子が骨折前にかなり近付きました。いきなりここまで回復するとは思っていませんでした。

まあ、たまたまタイミングが合っただけかもしれませんけど。

それに加えて、今まで曲がらないと思っていたところが少し曲がり始めたのが驚きです。これはほぼ確実に今回のリセットの効果と言って良いかもしれません。

もともと上半身の背筋がとても硬かったのですが、最近は胸やお腹の中の方の筋肉や肩まわりのリセット回数が多かったかと思いますので、背筋が柔軟に曲がるようになってきたことは関係がありそうです。