瞑想状態に導くヨガのアサナ(ポーズ)
ヨガと言うとスポーツの一貫のようなイメージがありますが、実際にはアサナはスポーツや体操というよりも姿勢・ポーズのことです。スポーツにせよ体操にせよポーズにせよ、ヨガには体を動かすというイメージが一貫してあるわけですが、実際のところ、ヨガのアサナ(ポーズ)は瞑想のための準備です。
有名どころではパタンジャリのヨーガ・スートラなどで階梯が述べられていますが、ヤマ・ニヤマという道徳的なところから始まって次にアサナ(ポーズ)、そしていくつかあって瞑想に至ります。
ですから、アサナは階梯においては瞑想とは別物のような書き方になっていますが、実際のところ、それは繋がっているわけです。体は心の状態と密接に繋がっていますから、アサナで体の状態を整えるのは重要です。
ヨガと言っても色々な流派がありますが、ハタヨガやアシュタンガヨガおよびホットヨガは運動やパワーを重視して、シバナンダヨガは運動量は少なくて瞑想を重視していると思います。ヨガはどれであってもその目的は瞑想状態に至ることですのでどれでもいいと言えばそれはそうなのですが、そうは言いましても内容によって向き不向きがあるわけです。
そこに通う人たちの資質も違っており、ハタヨガやアシュタンガに通う人はパワー重視やアサナの難易度を重視するマインドを持っており、シバナンダヨガはアサナは体の健康を維持するラジオ体操のような位置づけで瞑想を重視しているように思います。
ハタヨガやホットヨガに通う人は毎回違うポーズやシーケンスをして体の柔軟性を高めるわけですが、シバナンダヨガは毎回同じポーズとシーケンスを行います。
その、毎回同じポーズとシーケンスを行うというのが瞑想には一番良いわけです。
心(マインド)は新しいもの好きですからハタヨガやホットヨガで新しいことを学ぶことが楽しかったりしますが、瞑想のためにはむしろそのような新しいものというのは邪魔になるのです。日々、新しいヨガのスタイルが開発されていますが、それは心(マインド)を散らすためのものでもあるわけです。
毎回同じポーズとシーケンスを行うことで日々の違いを細かく感じ取ることができますし、同じポーズとは言ってもバリエーションを行うことで多様の難易度に対応することができます。
たまには違うポーズもやってみるのも良いとは思いますが、基本として毎回同じポーズとシーケンスを行うことが瞑想に役立つわけです。
そしてシバナンダではポーズ間にシャバアサナを行いますが、これも瞑想に役立ちます。
ヨガと言っても色々ありますし、シバナンダは割と地味で人気が出にくい印象もありますけど、瞑想には向いていると思います。
なまじサイキックな人がいない点もいいですね。精神修行をしているところでは中途半端なサイキックな人がいたりしてめんどくさかったりしますけど、ここはそのようなところがないのも良いです。
窓口が広く開いていて、宗教のように入信しなくても良いところもライトで良い感じです。
日本だと、シバナンダのヨガスタジオが開いてもアサナ(ポーズ)自体は割と簡単なので生徒さんがすぐできるようになって、飽きて生徒さんが辞めてしまうことが多いという噂を聞きます。ですから日本でシバナンダのヨガスタジオは長続きしないのですが、それはヨガが体操だと思っているからで、実際は瞑想ということが広まればシバナンダが見直されるのではないでしょうか。
そうなると先生側にも高いレベルが要求されるのでスタジオ側もなかなか大変なところもあるかもしれないですけどね。
有名どころではパタンジャリのヨーガ・スートラなどで階梯が述べられていますが、ヤマ・ニヤマという道徳的なところから始まって次にアサナ(ポーズ)、そしていくつかあって瞑想に至ります。
ですから、アサナは階梯においては瞑想とは別物のような書き方になっていますが、実際のところ、それは繋がっているわけです。体は心の状態と密接に繋がっていますから、アサナで体の状態を整えるのは重要です。
ヨガと言っても色々な流派がありますが、ハタヨガやアシュタンガヨガおよびホットヨガは運動やパワーを重視して、シバナンダヨガは運動量は少なくて瞑想を重視していると思います。ヨガはどれであってもその目的は瞑想状態に至ることですのでどれでもいいと言えばそれはそうなのですが、そうは言いましても内容によって向き不向きがあるわけです。
そこに通う人たちの資質も違っており、ハタヨガやアシュタンガに通う人はパワー重視やアサナの難易度を重視するマインドを持っており、シバナンダヨガはアサナは体の健康を維持するラジオ体操のような位置づけで瞑想を重視しているように思います。
ハタヨガやホットヨガに通う人は毎回違うポーズやシーケンスをして体の柔軟性を高めるわけですが、シバナンダヨガは毎回同じポーズとシーケンスを行います。
その、毎回同じポーズとシーケンスを行うというのが瞑想には一番良いわけです。
心(マインド)は新しいもの好きですからハタヨガやホットヨガで新しいことを学ぶことが楽しかったりしますが、瞑想のためにはむしろそのような新しいものというのは邪魔になるのです。日々、新しいヨガのスタイルが開発されていますが、それは心(マインド)を散らすためのものでもあるわけです。
毎回同じポーズとシーケンスを行うことで日々の違いを細かく感じ取ることができますし、同じポーズとは言ってもバリエーションを行うことで多様の難易度に対応することができます。
たまには違うポーズもやってみるのも良いとは思いますが、基本として毎回同じポーズとシーケンスを行うことが瞑想に役立つわけです。
そしてシバナンダではポーズ間にシャバアサナを行いますが、これも瞑想に役立ちます。
ヨガと言っても色々ありますし、シバナンダは割と地味で人気が出にくい印象もありますけど、瞑想には向いていると思います。
なまじサイキックな人がいない点もいいですね。精神修行をしているところでは中途半端なサイキックな人がいたりしてめんどくさかったりしますけど、ここはそのようなところがないのも良いです。
窓口が広く開いていて、宗教のように入信しなくても良いところもライトで良い感じです。
日本だと、シバナンダのヨガスタジオが開いてもアサナ(ポーズ)自体は割と簡単なので生徒さんがすぐできるようになって、飽きて生徒さんが辞めてしまうことが多いという噂を聞きます。ですから日本でシバナンダのヨガスタジオは長続きしないのですが、それはヨガが体操だと思っているからで、実際は瞑想ということが広まればシバナンダが見直されるのではないでしょうか。
そうなると先生側にも高いレベルが要求されるのでスタジオ側もなかなか大変なところもあるかもしれないですけどね。
料理の痛みと食べる感覚
先日の続きです。植物を傷つけるとハートが痛むようになってしばらく経ちますが、生ものの料理をするのもなかなか厳しくなってきています。
例えば、レタスやキャベツ。何日か置いて野菜の意識がなくなったものならばいいのですが、新鮮であれば新鮮であるほど葉っぱをちぎったり包丁で切った時に「痛い! 痛い!」と野菜がその度に何度も叫び、それが私のハートに突き刺さって苦しいです。最初は大声で叫んで、そのうち失神するかのように痺れた感覚が伝わってきます。レタスよりキャベツの方が痛がる感じが致します。
ですから、何日か冷蔵庫に入れておいて大人しくなってからキャベツやレタスを食べることにしています。栄養的には新鮮な方がいいのかもしれないですけどね。
お肉に関しては既に死後しばらく経っているので、その点、料理の時に「痛い」と叫んで来ることはないように思います。しかし、先日のようにお肉や卵など動物性の食材は「恨み」がこもっている時があるような感じがいたします。ですので、なるべく避けております。
ですから、料理をする際には新鮮な食材を避け、食べる際には動物性のものを避ける、という感じがいい気がしております。
アユールベーダによると牛乳やチーズなどはあまり良くないと言うお話も聞きますけど、栄養バランス的には私はチーズをよく取っています。チーズは「痛い!」と叫んだりしませんからね。美味しく頂けます。
野菜にしても、ものによって叫んだり叫ばなかったり。お芋系は大人しい感じが致します。お米も問題ないですね。小麦も平気な感じです。
自然野菜の信奉者やベジタリアンの人は野菜の選び方で新鮮なものを選んだりしますけど、私は上記のような理由で新鮮な野菜はものによっては苦手です。食べる方は平気ですけど。
新鮮な野菜で誰かに料理を作ってもらって自分は食べるだけ、と言うのがいいのかもしれません。
料理で自然食を推す人がいますけど、これは物質とオーラを別に考えるべきで、物質的には自然食は色々と混ざっていてバイ菌が増殖しやすいので食材の管理や調理に気を付けなくてはならず、実は物質的には工場で作られた食材の方が安全で栄養価が高かったりします。
しかし、実際のところ食べ物で取り入れているのはオーラの方が重要で、食べ物に備わっているオーラの量で見たら自然食の方が遥かに多いです。ですので、食材としては危険であっても自然食のオーラの方が好ましいことが多いです。
自然食の方が人間の手が一つづつ作っていますので、作っている人間のオーラが食材に乗ります。冷凍食品であってもフライパン等で温めるだけで美味しさが違うのは料理人のオーラが冷凍食品の中に宿るからです。
安全と栄養価を考えるならば工場の食品ですが、オーラ的には手作り料理になるわけです。
人間は意外に丈夫ですので、新鮮な自然食品が入手できて調理にも手間をかけられるのであればそうすれば良くて、ですが、料理をする際に上記のように食材が痛がりますのでそれにも本当は気をつけるべきだと思います。
肉食はかわいそうだからベジタリアンだと言う人もいて、基本的には同意しますけどベジタリアンにしても食材が痛がるのですからある程度は一緒だと私なんかは思います。それは程度問題でもあって、どちらにせよ人間は何かを食べないと生きられないのですから食べるならなるべく植物の方がいいと思います。
これを人間が生きる上で必ず犯す罪のようなものだと解釈したこともありますし、それがいわゆる「原罪」のようなものだと言うような解釈もできるのかもしれませんけど、植物の中には人間に食べられても気にしないものも多い感じなので、まあ、いいのかな、と最近は一応解釈しております。この辺りはまだ謎が多いですけどね。結局は食物連鎖の理屈は正しいのかなと思ったりもしますが。今後、まだまだ様子見のところです。
例えば、レタスやキャベツ。何日か置いて野菜の意識がなくなったものならばいいのですが、新鮮であれば新鮮であるほど葉っぱをちぎったり包丁で切った時に「痛い! 痛い!」と野菜がその度に何度も叫び、それが私のハートに突き刺さって苦しいです。最初は大声で叫んで、そのうち失神するかのように痺れた感覚が伝わってきます。レタスよりキャベツの方が痛がる感じが致します。
ですから、何日か冷蔵庫に入れておいて大人しくなってからキャベツやレタスを食べることにしています。栄養的には新鮮な方がいいのかもしれないですけどね。
お肉に関しては既に死後しばらく経っているので、その点、料理の時に「痛い」と叫んで来ることはないように思います。しかし、先日のようにお肉や卵など動物性の食材は「恨み」がこもっている時があるような感じがいたします。ですので、なるべく避けております。
ですから、料理をする際には新鮮な食材を避け、食べる際には動物性のものを避ける、という感じがいい気がしております。
アユールベーダによると牛乳やチーズなどはあまり良くないと言うお話も聞きますけど、栄養バランス的には私はチーズをよく取っています。チーズは「痛い!」と叫んだりしませんからね。美味しく頂けます。
野菜にしても、ものによって叫んだり叫ばなかったり。お芋系は大人しい感じが致します。お米も問題ないですね。小麦も平気な感じです。
自然野菜の信奉者やベジタリアンの人は野菜の選び方で新鮮なものを選んだりしますけど、私は上記のような理由で新鮮な野菜はものによっては苦手です。食べる方は平気ですけど。
新鮮な野菜で誰かに料理を作ってもらって自分は食べるだけ、と言うのがいいのかもしれません。
料理で自然食を推す人がいますけど、これは物質とオーラを別に考えるべきで、物質的には自然食は色々と混ざっていてバイ菌が増殖しやすいので食材の管理や調理に気を付けなくてはならず、実は物質的には工場で作られた食材の方が安全で栄養価が高かったりします。
しかし、実際のところ食べ物で取り入れているのはオーラの方が重要で、食べ物に備わっているオーラの量で見たら自然食の方が遥かに多いです。ですので、食材としては危険であっても自然食のオーラの方が好ましいことが多いです。
自然食の方が人間の手が一つづつ作っていますので、作っている人間のオーラが食材に乗ります。冷凍食品であってもフライパン等で温めるだけで美味しさが違うのは料理人のオーラが冷凍食品の中に宿るからです。
安全と栄養価を考えるならば工場の食品ですが、オーラ的には手作り料理になるわけです。
人間は意外に丈夫ですので、新鮮な自然食品が入手できて調理にも手間をかけられるのであればそうすれば良くて、ですが、料理をする際に上記のように食材が痛がりますのでそれにも本当は気をつけるべきだと思います。
肉食はかわいそうだからベジタリアンだと言う人もいて、基本的には同意しますけどベジタリアンにしても食材が痛がるのですからある程度は一緒だと私なんかは思います。それは程度問題でもあって、どちらにせよ人間は何かを食べないと生きられないのですから食べるならなるべく植物の方がいいと思います。
これを人間が生きる上で必ず犯す罪のようなものだと解釈したこともありますし、それがいわゆる「原罪」のようなものだと言うような解釈もできるのかもしれませんけど、植物の中には人間に食べられても気にしないものも多い感じなので、まあ、いいのかな、と最近は一応解釈しております。この辺りはまだ謎が多いですけどね。結局は食物連鎖の理屈は正しいのかなと思ったりもしますが。今後、まだまだ様子見のところです。
神道による簡単な審神者の方法
審神者(さにわ)とは霊感によって得られた知見が正しいかどうか判断することで、古来は古神道などで神託が正しい神によるものなのかそれとも邪霊や獣のいたずらなのか判断することです。
水を使った方法とか流派ごとに色々あるようですが、以下のような簡単な方法があるようです。
「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問いかける。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
これは山陰神道によるもので、普通の人でも簡単に見極めができるいい方法のような気が致します。
同書には更に以下のようにあります。
初期の雑念は他愛もないものだが、修行が進んでくると、まことしやかに立派な言葉が心に湧いてくる。実はそれも雑念であることがほとんどである。思いつきが、神の掲示や霊示の形で湧いてくるから始末が悪い。だから、霊示・掲示を受けたと思われる時には、それを審判(審神・さにわと言う)しなければならない。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
水を使った方法は遥か昔に見聞きしたものではっきりとは覚えていないのですが、波の立たない状態の水を桶のようなものに用意して、その表面を眺める、みたいなものだったような気も致します。
きっと他にも色々と方法があるのではと思いますが、古神道にはそれほど詳しくありませんのでこのくらいです。
スピリチュアルや魔女系ですと審神者ってあまりしない気が致しますね。魔女系の場合はちゃんと視界(というか霊視)で相手(というか霊)を見つつ話をしたり体を抜け出て幽体離脱で見極めますのでかなり正答率が高いと思いますし。
水を使った方法とか流派ごとに色々あるようですが、以下のような簡単な方法があるようです。
「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問いかける。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
これは山陰神道によるもので、普通の人でも簡単に見極めができるいい方法のような気が致します。
同書には更に以下のようにあります。
初期の雑念は他愛もないものだが、修行が進んでくると、まことしやかに立派な言葉が心に湧いてくる。実はそれも雑念であることがほとんどである。思いつきが、神の掲示や霊示の形で湧いてくるから始末が悪い。だから、霊示・掲示を受けたと思われる時には、それを審判(審神・さにわと言う)しなければならない。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
水を使った方法は遥か昔に見聞きしたものではっきりとは覚えていないのですが、波の立たない状態の水を桶のようなものに用意して、その表面を眺める、みたいなものだったような気も致します。
きっと他にも色々と方法があるのではと思いますが、古神道にはそれほど詳しくありませんのでこのくらいです。
スピリチュアルや魔女系ですと審神者ってあまりしない気が致しますね。魔女系の場合はちゃんと視界(というか霊視)で相手(というか霊)を見つつ話をしたり体を抜け出て幽体離脱で見極めますのでかなり正答率が高いと思いますし。
古代のマントラによる瞑想で胸に変化
古代のオームの唱え方でマントラを唱えていましたところ、胸のあたりに感触が出てきました。
もともとクンダリーニがアナハタ優勢になって以降は胸のあたりにエネルギーは満ちていたのですが、今日は、その中心に核というか空間というか部屋というか、心臓の形をした空間がぽっかりと浮かんできた感じが致します。
特に胸のアナハタを意識していたわけではなくて、基本は眉間や後頭部の方の松果体の周辺を意識してマントラを唱えつつ瞑想していたわけですが、この古代の唱え方をする際はいつも頭の中の何かがバリバリと割れて破片に別れるような感じをしているわけですが、それが今日は胸のあたりで起こりました。
マントラを唱える前は特にそこが強張っているだとかそういう感触はなくて、瞑想を始めるとまるで地震の時に地面が揺れるかのようにもともと止まっていたものが液状化現象のようにグラグラと動き出して割れ目が現れるのですが、今日は、それが胸のあたりで起きました。
このマントラで以前はアジナ優勢に変化したわけですが、その後はそれほどこのマントラを重視していなくて頭頂のあたりが開いた際もこのマントラに頼りきっていたわけでもないのですが、どうやら、効果を見るとこのマントラの効果が地味に効いていたような感じも致します。
古代のチベットのマントラは前半と後半があって、どうやらアジナとかに効くのは前半部分のような感じが致します。後半部分はアナハタに効く感じですね。個人的な感触による主観ですけどね。
その後、その感覚は変化して、割れ目というよりは流動的な塊が頭の中と胸の中にできた感じです。
更に様子を見てゆきます。
もともとクンダリーニがアナハタ優勢になって以降は胸のあたりにエネルギーは満ちていたのですが、今日は、その中心に核というか空間というか部屋というか、心臓の形をした空間がぽっかりと浮かんできた感じが致します。
特に胸のアナハタを意識していたわけではなくて、基本は眉間や後頭部の方の松果体の周辺を意識してマントラを唱えつつ瞑想していたわけですが、この古代の唱え方をする際はいつも頭の中の何かがバリバリと割れて破片に別れるような感じをしているわけですが、それが今日は胸のあたりで起こりました。
マントラを唱える前は特にそこが強張っているだとかそういう感触はなくて、瞑想を始めるとまるで地震の時に地面が揺れるかのようにもともと止まっていたものが液状化現象のようにグラグラと動き出して割れ目が現れるのですが、今日は、それが胸のあたりで起きました。
このマントラで以前はアジナ優勢に変化したわけですが、その後はそれほどこのマントラを重視していなくて頭頂のあたりが開いた際もこのマントラに頼りきっていたわけでもないのですが、どうやら、効果を見るとこのマントラの効果が地味に効いていたような感じも致します。
古代のチベットのマントラは前半と後半があって、どうやらアジナとかに効くのは前半部分のような感じが致します。後半部分はアナハタに効く感じですね。個人的な感触による主観ですけどね。
その後、その感覚は変化して、割れ目というよりは流動的な塊が頭の中と胸の中にできた感じです。
更に様子を見てゆきます。
エネルギーの柱が下方まで通じる
先日の続きです。
そうして古代のマントラを唱えていると胸のあたりにまで感触が出てきたわけですが、そのまま続けていましたところ、お腹のマニプラのあたりも同様になってきました。そうするうちに会陰のムーラダーラまで伸びて行きました。頭から会陰まで、濃紺はありますがエネルギーの柱が繋がったような気が致します。
いわゆるチャクラ、後頭部の松果体あるいは脳下垂体の近くや胸、お腹が特に濃い部分です。
マントラの後半部分で頭から下半身まで繋がる感じでしたのでそこだけ繰り返し唱えたりしました。
そうこうするうちにマントラの全体を唱えたりしましたところ、頭の上の方にまで少し感触が出てきました。
このマントラが載っていた書物によりますと、マントラの前半部分は高次の意識を表していて、後半部分がそれよりは低次の意識に影響を与えると言います。少し前まで前半部分と後半部分の区別をあまりしていなかったのですが、ここ数日は後半だけ唱えてみたりしてその違いを感じ取りました。
同書では、音節数によって繋がるものが違うと言います。同マントラは現代では6音節と4音節ですが、古代の唱え方ではオームはAum(アウム)と二音節になり、前半部分は7音節、後半部分は6音節になると言います。
そして、それこそが意識の変貌を司る鍵だと言うのです。
”蓮華の宝石”の目覚め、活発化は、一部の者によって次の様に考えられている。すなわち、第六感の目覚めは、マントラムの第二句(オーム・タット・サット・オーム)を正確に唱えることによって、その人の肉体および心に聖なるものの悟りと霊的知覚、霊的意義を受けさせてくれる。これが第三の目の一つの開眼であり、第三の目を開くと、その人の五官感覚のほかに霊的な感覚が加えられるのである。しかし、もし、第七感を目覚めさすと、つまり、蓮華の中の宝石を見出すと、感覚の世界を超えて上昇し、すべての存在の絶対的根源と一体となる。これが最も望ましいことなのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
これは、最初に読んだときはそんなものかな、と思っていたのですが、ここ数日の感覚の変化を見ますと、なかなかこの記述は本物のような気がしてまいりました。
そうして古代のマントラを唱えていると胸のあたりにまで感触が出てきたわけですが、そのまま続けていましたところ、お腹のマニプラのあたりも同様になってきました。そうするうちに会陰のムーラダーラまで伸びて行きました。頭から会陰まで、濃紺はありますがエネルギーの柱が繋がったような気が致します。
いわゆるチャクラ、後頭部の松果体あるいは脳下垂体の近くや胸、お腹が特に濃い部分です。
マントラの後半部分で頭から下半身まで繋がる感じでしたのでそこだけ繰り返し唱えたりしました。
そうこうするうちにマントラの全体を唱えたりしましたところ、頭の上の方にまで少し感触が出てきました。
このマントラが載っていた書物によりますと、マントラの前半部分は高次の意識を表していて、後半部分がそれよりは低次の意識に影響を与えると言います。少し前まで前半部分と後半部分の区別をあまりしていなかったのですが、ここ数日は後半だけ唱えてみたりしてその違いを感じ取りました。
同書では、音節数によって繋がるものが違うと言います。同マントラは現代では6音節と4音節ですが、古代の唱え方ではオームはAum(アウム)と二音節になり、前半部分は7音節、後半部分は6音節になると言います。
そして、それこそが意識の変貌を司る鍵だと言うのです。
”蓮華の宝石”の目覚め、活発化は、一部の者によって次の様に考えられている。すなわち、第六感の目覚めは、マントラムの第二句(オーム・タット・サット・オーム)を正確に唱えることによって、その人の肉体および心に聖なるものの悟りと霊的知覚、霊的意義を受けさせてくれる。これが第三の目の一つの開眼であり、第三の目を開くと、その人の五官感覚のほかに霊的な感覚が加えられるのである。しかし、もし、第七感を目覚めさすと、つまり、蓮華の中の宝石を見出すと、感覚の世界を超えて上昇し、すべての存在の絶対的根源と一体となる。これが最も望ましいことなのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
これは、最初に読んだときはそんなものかな、と思っていたのですが、ここ数日の感覚の変化を見ますと、なかなかこの記述は本物のような気がしてまいりました。
ネイティブアメリカンでセージ(薬草を扱う医師)として生きる
私はしばらく忘れていましたけど、子供の頃に幽体離脱した時に過去生も見て、セドナ近くでネイティブアメリカンとして生まれ、セージ(薬草を扱う医師)をしていたことを思い出しました。
思い出したきっかけは、私が少し前にセドナに旅行した時のスピリチュアルなカウンセラーの一言です。特に過去生を聞いたわけでもないのですが、見てもらったら「あなたは昔、ここに住んでいたことがあります」と言われて、その一言で色々と思い出したのです。
記憶は幽体離脱後にもしばらくあったのですが、さすがに何十年も経っておりましたので忘れていました。それが、ふとした一言で思い出したのです。
私は数字として年代は大雑把にしかわからないのですが、そのカウンセラーは約270年前と言っておりましたので1720年前後かと思われます。
これは、私の記憶とも被ります。おそらく1700年ごろに生まれて1720年頃はまだ若くて妻も子供もいて、おそらくは30歳前後で白人が攻めてきて銃で殺されたかと思います。妻や子供も皆殺しで、私は幽体で空から家族が白人に殺されるのを見ておりました。泣き叫んで白人が乗った馬から逃げようとした妻が行く手を阻まれて子供もろとも銃で殺されたりしました。
ですから、最初にアメリカに旅行や出張で行った時はその時の記憶が出てきてしまい、白人を許す気になれなかった、ということもあります。今は落ち着いてきてそうでもありませんが、どうも、時々、私を殺した白人の顔がチラつくことがあります。
当時、私が生まれた頃の村は平和そのものでした。白人が来ることもほとんどありませんでしたが、青年になって家族を持って子供も生まれた頃、白人がぽつぽつとやってくるようになりました。
最初から攻めてきたわけではありません。最初は普通にやってきて、ことあるごとにインディアンの文化を馬鹿にして行ったのです。私は薬剤を扱うセージでしたが、白人は唯物論者でしたので、葉っぱなんか飲んで治るわけがなく、化学物質を使わないと治らない、と言ってことあるごとにインディアンの薬を馬鹿にして笑い物にして帰っていったのです。
あの人たちのやり方ですが、最初は薬を無料で配るのです。そして、そのうち頼るようになったらお金や何かをごっそり持っていくようになるのです。今回の場合、トレードで財産を奪うよりは銃で丸ごと奪った方が効率的だという判断になって村ごと虐殺されたようです。
まあ、それでも虐殺までは10年かもっと時間の猶予があったと思います。さすがに奥地までは一気に攻略できないでしょうし、攻めるとすれば一気に来るでしょうし、攻め始めたら警戒されるので調査の段階では奥地までそれとなく来ていたのでしょう。
薬を無料で配られた時、私はその村のセージ(医者)でしたので、古来から伝わる薬剤の代わりにその化学の薬を代わりに村人に配るようになりました。実際、よく効いたわけです。
私はよく効くと思ったのですが、特に村の老人、お婆さんやお爺さんのような年代に言わせると、昔ながらの薬の方がいい、と言っていました。私はセージ(医者)でしたので、そういうものかな、と思って、それで効果があると言っているのだから... ということで希望に沿った薬を調合していたように思います。
今、医者と言うと診断をして薬を調合して... というあたりになりますが、当時のネイティブアメリカンの医者は、もう1つありました。「祈り」です。
まあ、「祈り」とは言っても随分と騒がしいもので、踊りや歌のようなマントラのような不思議なメロディを何時間も口ずさんだり太鼓のような楽器を使ったりして踊りながら患者を励ます、というものでした。
日本で想像する「祈り」というとキリスト教徒が教会でするような静かな祈りですが、この場合の祈りは念を口に乗せて口ずさんで音に出し、患者の生命エネルギーを高揚させて魂というかオーラのレベルで治療するというものでした。
メロディはさすがにほとんど覚えておりませんが、雰囲気だけは覚えております。随分と騒がしくて、村中に響き渡るものでした。それを、患者の具合が良くなるまで続けるのです。手を上下に上げ下げしたり半腰になって患者のベッドの周囲を歩き回ったりして、面倒を見るこちらも汗だくになるくらい大変なことでした。
時には半日、時には1日中面倒を見て、その間、患者が苦しんでいたらそれを助けるために踊りや祈りの歌を頑張り、精神的に助けていたわけです。薬だけでも治ることもありましたが、辛い時に近くにいて心の助けになるための職業だったわけです。
それで、治ったらその家族から報酬として、物々交換のお金相当のような対価をもらったのです。
踊りといえば、祭りもとても楽しいものでした。足腰がものすごく強いので、半腰になって足や腰を物凄く細かくとても長い間激しく動かし続ける踊りを村人みんなでキャンプファイヤーの周囲で行うのです。
特に子供の頃は白人も来ていなくて、とても平和で、毎日が幸せだったように思います。特に祭りの日は最高でした。
そうして成人になり、セージ(医者)を職業として選び、村の医者から調合法を学び、独り立ちして、妻をめとり、子供が生まれて、そして、白人が攻めてきて村人丸ごと虐殺されたわけです。
アメリカにいる白人は、おそらくは私のような記憶を持った人に長らく恨まれているのではないかと思います。私は特別に白人を恨んでいるわけではありませんが、時折、その時の記憶が出てくることがあります。
そういえば、村の長老は古来から伝わる秘密を代々受け継いでおりました。
私はそれほどの年齢でもありませんでしたし、それを引き継ぐ家系に生まれた訳でもありませんでしたのでその秘密の詳細は聞いたことはなかったのですが、噂は聞いてことがあります。それは星々を渡り歩く知識だったり未来の予言だったりしたと思います。
私は恐らく、殺される運命をあらかじめ知っていながら、それで十分かな、ということで転生を決めたような気が致します。 スピリットは時代を行き来できて時間を超えられるわけですけど、その時のスピリットの視点として前の人生の終わりの頃になるのが割と多いように思います。時空を超えることもできましたけど、選択肢としては時代に沿って経験することの方が多いような気が致します。
確か、その前の人生ではヨーロッパあたりで数学者か科学者か、頭をよく使う職業を選んでいたかと思います。それ故に、頭ばかり重視する人生を続けてきたためにバランスを取り戻したいと思い、自然と共に生きるネイティブアメリカンとしての人生を選んだようです。それを選んだ時代は既にアメリカに白人が詰めかけておりましたが、そのタイミングで転生したとしてもギリギリ、ネイティブアメリカンとしての人生を生きられて自然と共に生きる生き方を学ぶことができるので、殺されることを承知で転生したようです。
ですから、ある意味、殺されることも受け入れてから転生を決めたわけですが、そうして決めて受け入れて転生したとしても、実際に殺されるとかなり後味悪いもので、後に引くことになります。殺されることは、さすがに理屈ですんなりと割り切れるものではありません。
まあ、それはあくまでも過去のお話で、今は基本的にそんなこと気にしないで生きているわけですが、ふとしたことでネイティブアメリカンとしての人生を思い出すことがあるわけです。
家は茅葺っぽい感じの円錐でしたが、襲撃の日、私は家の中で薬か何かの準備をしていました。
ふと、周囲から騒がしい音がして悲鳴が聞こえ始め、何事かと思って家の外に出たら、村人が逃げ回っていて馬に乗った白人に次々に殺されていました。
白人たちはネイティブアメリカンを馬鹿にした顔つきと喜びの雄叫びをあげながら銃を突きつけ、抵抗する者もあったが次々に銃で殺されていき、私の周囲で地獄絵図のような虐殺が行われていました。それを茫然と私は眺めていました。
抵抗することもできましたが、あっという間に殺されている武力の差や馬による機動力の差があり、何より、この日をあらかじめ予見していたために今日が最後の日だと悟りました。
他の村人には雄叫びをあげながら追いかけていた白人が、ふと、私の目の前にとぼとぼとゆっくり馬に乗って歩いてきました。逃げもしない私を観察しにきたようだった。その白人の顔はそれなりに覚えていますが、逃げもしない奇妙なものを見る見つき... という感覚が30%ほど入った無表情で私を観察していました。逃げれば雄叫びをあげて追いかけるだろうが、逃げもしないのでどうしたものか、という感じが伝わってきました。
逃げを誘っているのはよくわかりましたので、私はこれが最後の時だと悟り、真っ直ぐに立ったまましばらくその白人の顔を見つめ、やがて、目を瞑りました。
そうすると、数十秒しただろうか。急に銃声が目の前で鳴り響き、私の頭、恐らくは眉間か顔に銃が1発貫通し、そのまま倒れてお亡くなりになったのです。一撃でした。何時も経たないうちにすぐに魂というか幽体が体から抜け出し、私の体を上から見下ろし、私を殺した白人の姿も同様に見下ろしていました。
私の家族が殺され、村人も虐殺され、私を殺した白人は全てを殺した後、馬に乗って、同じような無表情で立ち尽くしていました。
その後、村のあった場所に白人が入居してきました。それは勝利の人たちであり、その家族もある種の笑いというかネイティブアメリカンに勝利したという、人を踏みつける心を持った人々だった。アメリカはこうして作られていったのでしょう。その白人たちが、今、こうしてアメリカを支配しているのです。野蛮な白人。それがその時の印象でした。
楽園のようだった村は消えて無くなり、白人の街だけが残りました。それが、私の住んでいた村で起こったことでした。
・・・まあ、こういうのは、単なる夢かもしれませんし、子供の頃にどこかで見た映画を思い出しているだけかもしれません。本当かどうかはわかりません。しかし、あのリアリティはなかなか映画を見ただけで再現できるものだとは思わないのです。
思い出したきっかけは、私が少し前にセドナに旅行した時のスピリチュアルなカウンセラーの一言です。特に過去生を聞いたわけでもないのですが、見てもらったら「あなたは昔、ここに住んでいたことがあります」と言われて、その一言で色々と思い出したのです。
記憶は幽体離脱後にもしばらくあったのですが、さすがに何十年も経っておりましたので忘れていました。それが、ふとした一言で思い出したのです。
私は数字として年代は大雑把にしかわからないのですが、そのカウンセラーは約270年前と言っておりましたので1720年前後かと思われます。
これは、私の記憶とも被ります。おそらく1700年ごろに生まれて1720年頃はまだ若くて妻も子供もいて、おそらくは30歳前後で白人が攻めてきて銃で殺されたかと思います。妻や子供も皆殺しで、私は幽体で空から家族が白人に殺されるのを見ておりました。泣き叫んで白人が乗った馬から逃げようとした妻が行く手を阻まれて子供もろとも銃で殺されたりしました。
ですから、最初にアメリカに旅行や出張で行った時はその時の記憶が出てきてしまい、白人を許す気になれなかった、ということもあります。今は落ち着いてきてそうでもありませんが、どうも、時々、私を殺した白人の顔がチラつくことがあります。
当時、私が生まれた頃の村は平和そのものでした。白人が来ることもほとんどありませんでしたが、青年になって家族を持って子供も生まれた頃、白人がぽつぽつとやってくるようになりました。
最初から攻めてきたわけではありません。最初は普通にやってきて、ことあるごとにインディアンの文化を馬鹿にして行ったのです。私は薬剤を扱うセージでしたが、白人は唯物論者でしたので、葉っぱなんか飲んで治るわけがなく、化学物質を使わないと治らない、と言ってことあるごとにインディアンの薬を馬鹿にして笑い物にして帰っていったのです。
あの人たちのやり方ですが、最初は薬を無料で配るのです。そして、そのうち頼るようになったらお金や何かをごっそり持っていくようになるのです。今回の場合、トレードで財産を奪うよりは銃で丸ごと奪った方が効率的だという判断になって村ごと虐殺されたようです。
まあ、それでも虐殺までは10年かもっと時間の猶予があったと思います。さすがに奥地までは一気に攻略できないでしょうし、攻めるとすれば一気に来るでしょうし、攻め始めたら警戒されるので調査の段階では奥地までそれとなく来ていたのでしょう。
薬を無料で配られた時、私はその村のセージ(医者)でしたので、古来から伝わる薬剤の代わりにその化学の薬を代わりに村人に配るようになりました。実際、よく効いたわけです。
私はよく効くと思ったのですが、特に村の老人、お婆さんやお爺さんのような年代に言わせると、昔ながらの薬の方がいい、と言っていました。私はセージ(医者)でしたので、そういうものかな、と思って、それで効果があると言っているのだから... ということで希望に沿った薬を調合していたように思います。
今、医者と言うと診断をして薬を調合して... というあたりになりますが、当時のネイティブアメリカンの医者は、もう1つありました。「祈り」です。
まあ、「祈り」とは言っても随分と騒がしいもので、踊りや歌のようなマントラのような不思議なメロディを何時間も口ずさんだり太鼓のような楽器を使ったりして踊りながら患者を励ます、というものでした。
日本で想像する「祈り」というとキリスト教徒が教会でするような静かな祈りですが、この場合の祈りは念を口に乗せて口ずさんで音に出し、患者の生命エネルギーを高揚させて魂というかオーラのレベルで治療するというものでした。
メロディはさすがにほとんど覚えておりませんが、雰囲気だけは覚えております。随分と騒がしくて、村中に響き渡るものでした。それを、患者の具合が良くなるまで続けるのです。手を上下に上げ下げしたり半腰になって患者のベッドの周囲を歩き回ったりして、面倒を見るこちらも汗だくになるくらい大変なことでした。
時には半日、時には1日中面倒を見て、その間、患者が苦しんでいたらそれを助けるために踊りや祈りの歌を頑張り、精神的に助けていたわけです。薬だけでも治ることもありましたが、辛い時に近くにいて心の助けになるための職業だったわけです。
それで、治ったらその家族から報酬として、物々交換のお金相当のような対価をもらったのです。
踊りといえば、祭りもとても楽しいものでした。足腰がものすごく強いので、半腰になって足や腰を物凄く細かくとても長い間激しく動かし続ける踊りを村人みんなでキャンプファイヤーの周囲で行うのです。
特に子供の頃は白人も来ていなくて、とても平和で、毎日が幸せだったように思います。特に祭りの日は最高でした。
そうして成人になり、セージ(医者)を職業として選び、村の医者から調合法を学び、独り立ちして、妻をめとり、子供が生まれて、そして、白人が攻めてきて村人丸ごと虐殺されたわけです。
アメリカにいる白人は、おそらくは私のような記憶を持った人に長らく恨まれているのではないかと思います。私は特別に白人を恨んでいるわけではありませんが、時折、その時の記憶が出てくることがあります。
そういえば、村の長老は古来から伝わる秘密を代々受け継いでおりました。
私はそれほどの年齢でもありませんでしたし、それを引き継ぐ家系に生まれた訳でもありませんでしたのでその秘密の詳細は聞いたことはなかったのですが、噂は聞いてことがあります。それは星々を渡り歩く知識だったり未来の予言だったりしたと思います。
私は恐らく、殺される運命をあらかじめ知っていながら、それで十分かな、ということで転生を決めたような気が致します。 スピリットは時代を行き来できて時間を超えられるわけですけど、その時のスピリットの視点として前の人生の終わりの頃になるのが割と多いように思います。時空を超えることもできましたけど、選択肢としては時代に沿って経験することの方が多いような気が致します。
確か、その前の人生ではヨーロッパあたりで数学者か科学者か、頭をよく使う職業を選んでいたかと思います。それ故に、頭ばかり重視する人生を続けてきたためにバランスを取り戻したいと思い、自然と共に生きるネイティブアメリカンとしての人生を選んだようです。それを選んだ時代は既にアメリカに白人が詰めかけておりましたが、そのタイミングで転生したとしてもギリギリ、ネイティブアメリカンとしての人生を生きられて自然と共に生きる生き方を学ぶことができるので、殺されることを承知で転生したようです。
ですから、ある意味、殺されることも受け入れてから転生を決めたわけですが、そうして決めて受け入れて転生したとしても、実際に殺されるとかなり後味悪いもので、後に引くことになります。殺されることは、さすがに理屈ですんなりと割り切れるものではありません。
まあ、それはあくまでも過去のお話で、今は基本的にそんなこと気にしないで生きているわけですが、ふとしたことでネイティブアメリカンとしての人生を思い出すことがあるわけです。
家は茅葺っぽい感じの円錐でしたが、襲撃の日、私は家の中で薬か何かの準備をしていました。
ふと、周囲から騒がしい音がして悲鳴が聞こえ始め、何事かと思って家の外に出たら、村人が逃げ回っていて馬に乗った白人に次々に殺されていました。
白人たちはネイティブアメリカンを馬鹿にした顔つきと喜びの雄叫びをあげながら銃を突きつけ、抵抗する者もあったが次々に銃で殺されていき、私の周囲で地獄絵図のような虐殺が行われていました。それを茫然と私は眺めていました。
抵抗することもできましたが、あっという間に殺されている武力の差や馬による機動力の差があり、何より、この日をあらかじめ予見していたために今日が最後の日だと悟りました。
他の村人には雄叫びをあげながら追いかけていた白人が、ふと、私の目の前にとぼとぼとゆっくり馬に乗って歩いてきました。逃げもしない私を観察しにきたようだった。その白人の顔はそれなりに覚えていますが、逃げもしない奇妙なものを見る見つき... という感覚が30%ほど入った無表情で私を観察していました。逃げれば雄叫びをあげて追いかけるだろうが、逃げもしないのでどうしたものか、という感じが伝わってきました。
逃げを誘っているのはよくわかりましたので、私はこれが最後の時だと悟り、真っ直ぐに立ったまましばらくその白人の顔を見つめ、やがて、目を瞑りました。
そうすると、数十秒しただろうか。急に銃声が目の前で鳴り響き、私の頭、恐らくは眉間か顔に銃が1発貫通し、そのまま倒れてお亡くなりになったのです。一撃でした。何時も経たないうちにすぐに魂というか幽体が体から抜け出し、私の体を上から見下ろし、私を殺した白人の姿も同様に見下ろしていました。
私の家族が殺され、村人も虐殺され、私を殺した白人は全てを殺した後、馬に乗って、同じような無表情で立ち尽くしていました。
その後、村のあった場所に白人が入居してきました。それは勝利の人たちであり、その家族もある種の笑いというかネイティブアメリカンに勝利したという、人を踏みつける心を持った人々だった。アメリカはこうして作られていったのでしょう。その白人たちが、今、こうしてアメリカを支配しているのです。野蛮な白人。それがその時の印象でした。
楽園のようだった村は消えて無くなり、白人の街だけが残りました。それが、私の住んでいた村で起こったことでした。
・・・まあ、こういうのは、単なる夢かもしれませんし、子供の頃にどこかで見た映画を思い出しているだけかもしれません。本当かどうかはわかりません。しかし、あのリアリティはなかなか映画を見ただけで再現できるものだとは思わないのです。
みんな悟っている
アナハタ優勢になって以来、万人が悟っているように感じるわけですけれども、悟っている筈なのにおかしな行動するのはどうしてでしょう、というのが最近の謎でした。
悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?
これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。
世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。
よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。
どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。
具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。
それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。
と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。
「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。
「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。
しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。
それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。
ゾクチェンの詩に以下のようにあります。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。
悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?
これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。
世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。
よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。
どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。
具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。
それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。
と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。
「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。
「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。
しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。
それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。
ゾクチェンの詩に以下のようにあります。
多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。
瞑想中に聞こえてきた真言宗っぽいマントラ
古代のマントラを唱えていましたところ、それに被せるように違うマントラが頭に響き、それと同時に、そのマントラがもともと掲げてあった真言宗のお寺の映像記憶が蘇ってきました。
マントラ
「オーム、アジカリムン(アジカリウム? アジカリアム? アヂマリカム?)」
どこのお寺だったでしょう? 真言宗っぽいのですが、真言宗の神様のマントラ一覧には空らしきものは見当たりません。私が最近旅行した先で撮ったそれっぽい写真の記録をいくつか確認してみましたが載っていません。
古代のマントラを唱えていた時は頭上から下半身まで満遍なく反応していたのですが、こちらのマントラでは主に眉間が反応します。
今回は、あぐらで座ってプラナヤーマの呼吸法をしながらクンバカをして古代のマントラを心の中で唱えていたら上記のマントラが聞こえてきたのです。
一瞬聞こえただけですので、本当の発音をきちんと確認したいのですけど、これの出所がわからないので困ってしまいます。
そういえば、足首を骨折して入院中に病院の椅子から窓の外を眺めている時にもマントラが聞こえてきました。
om rama sri rajinisi namaha
om sri bagabante namaha
まあ、この後、退院した後にアナハタ優勢になったわけですので、今回もマントラが何かの鍵を握っているかもしれないですね。
・・・書籍にも載っている気がして、家にある蔵書を色々と調べてみました。すると、真言宗ではなく神道系の書籍に載っていました。
「アヂマリカム」「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
この本では祝詞「大神呪(だいじんじゅ)」の最後に載っており、「オーム」はついておりませんでした。私が聞こえたのはオーム付きです。
この言葉の意味は載っていませんね。神道系の筈なのに私がヴィジョンで見たのは真言宗っぽいお寺でした。まあ、お寺も神社も昔はそんなに区別ありませんでしたので一緒といえば一緒かもしれませんけど。
ですが、私が聞こえて眉間に反応があるのは最初の方で、本の通りに読んでも微妙な感じです。本のまま師匠なしに真似すると危ないかもしれないので微妙に発音を変えているのかもしれませんし、あるいは、人によって合う合わないがあるのかもしれませんが。
マントラ
「オーム、アジカリムン(アジカリウム? アジカリアム? アヂマリカム?)」
どこのお寺だったでしょう? 真言宗っぽいのですが、真言宗の神様のマントラ一覧には空らしきものは見当たりません。私が最近旅行した先で撮ったそれっぽい写真の記録をいくつか確認してみましたが載っていません。
古代のマントラを唱えていた時は頭上から下半身まで満遍なく反応していたのですが、こちらのマントラでは主に眉間が反応します。
今回は、あぐらで座ってプラナヤーマの呼吸法をしながらクンバカをして古代のマントラを心の中で唱えていたら上記のマントラが聞こえてきたのです。
一瞬聞こえただけですので、本当の発音をきちんと確認したいのですけど、これの出所がわからないので困ってしまいます。
そういえば、足首を骨折して入院中に病院の椅子から窓の外を眺めている時にもマントラが聞こえてきました。
om rama sri rajinisi namaha
om sri bagabante namaha
まあ、この後、退院した後にアナハタ優勢になったわけですので、今回もマントラが何かの鍵を握っているかもしれないですね。
・・・書籍にも載っている気がして、家にある蔵書を色々と調べてみました。すると、真言宗ではなく神道系の書籍に載っていました。
「アヂマリカム」「神道の神秘(山蔭 基央 著)」
この本では祝詞「大神呪(だいじんじゅ)」の最後に載っており、「オーム」はついておりませんでした。私が聞こえたのはオーム付きです。
この言葉の意味は載っていませんね。神道系の筈なのに私がヴィジョンで見たのは真言宗っぽいお寺でした。まあ、お寺も神社も昔はそんなに区別ありませんでしたので一緒といえば一緒かもしれませんけど。
ですが、私が聞こえて眉間に反応があるのは最初の方で、本の通りに読んでも微妙な感じです。本のまま師匠なしに真似すると危ないかもしれないので微妙に発音を変えているのかもしれませんし、あるいは、人によって合う合わないがあるのかもしれませんが。
本質と顕在意識の乖離がないことがサティア(正直)
ヨーガ・スートラという古典の聖典にはサティアについて書かれてあります。
この言葉は正直を守り通すことを現している「解説ヨーガ・スートラ(佐保田 鶴治著)」
2-36) 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」
2-36) 誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を獲得する。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
サティアは割と最初の方に出てきますし、日本でも「嘘をつかないこと」として道徳として語られていますので割と当たり前のこととしてスルーしてしまいがちですが、この当たり前とも思えるところにサマーディへの鍵が眠っているような気も致します。
これは、道徳として当たり前であっても、実行するのは難しいことです。解説書を見ますと基本的には「嘘をつかないこと。正しく話すこと」として説明されています。しかし、本質は、それよりもずっと瞑想的・サマーディ(二元性の克服)的であると思うのです。
以下は神智学系の解釈です。
真実であるためには、(触覚できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が必要である。また、真実をありのままに伝える形態を構築する能力も必要である。(中略)そしてそれは、(このスートラで述べられている)能力につながる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
ここに、「神性」とあります。サティア(正直)であるためには、神性を見抜く必要がある、というのです。であれば、サティアは単に「嘘をつかないこと」よりもずっと深いものであると言えます。そして、神性を見抜くことは単に基礎でしかない、と言います。
そうであれば、神智学系の以下の意訳の方がしっくり来ます。
2-36) すべての存在に対して完全に真実になったとき、言葉と行動の効果が直ちに現れる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
あるいは、本質と顕在意識の違いがないことであると言っても良いと思います。その方が、単に「嘘をつかないこと」というよりも意味が明確であると思うのです。
この言葉は正直を守り通すことを現している「解説ヨーガ・スートラ(佐保田 鶴治著)」
2-36) 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」
2-36) 誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を獲得する。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」
サティアは割と最初の方に出てきますし、日本でも「嘘をつかないこと」として道徳として語られていますので割と当たり前のこととしてスルーしてしまいがちですが、この当たり前とも思えるところにサマーディへの鍵が眠っているような気も致します。
これは、道徳として当たり前であっても、実行するのは難しいことです。解説書を見ますと基本的には「嘘をつかないこと。正しく話すこと」として説明されています。しかし、本質は、それよりもずっと瞑想的・サマーディ(二元性の克服)的であると思うのです。
以下は神智学系の解釈です。
真実であるためには、(触覚できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が必要である。また、真実をありのままに伝える形態を構築する能力も必要である。(中略)そしてそれは、(このスートラで述べられている)能力につながる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
ここに、「神性」とあります。サティア(正直)であるためには、神性を見抜く必要がある、というのです。であれば、サティアは単に「嘘をつかないこと」よりもずっと深いものであると言えます。そして、神性を見抜くことは単に基礎でしかない、と言います。
そうであれば、神智学系の以下の意訳の方がしっくり来ます。
2-36) すべての存在に対して完全に真実になったとき、言葉と行動の効果が直ちに現れる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
あるいは、本質と顕在意識の違いがないことであると言っても良いと思います。その方が、単に「嘘をつかないこと」というよりも意味が明確であると思うのです。
ダルドリーシッディなのかあるいはただの足の痙攣か
今日はとても寒く、座禅を組んで瞑想をしていたら窓から入る風が皮膚を冷やしてとても冷たかったのです。体が時々震え、ビリビリっと体が揺れたりしていました。
最初は、何が起きたのかよく分からなかったのですが、足がビリビリっと震えたかと思ったらちょっとだけ地面から持ち上がる方向に体が動いていました。それでも体重全てが宙に浮くことはなくて足は地面についたままで体がちょっとだけ上方向に動いた感じがしたのです。
確か数日前にも、その時はそれほど寒くはなくて同じことが起きた気が致します。そして、今日は上記の後しばらくしてから左の膝の近くの筋肉がビリビリっと痙攣が起きて左だけ筋肉がぴょんっと浮く動きがありました。
おそらくは、これは寒さあるいは何かの肉体的な痙攣による体の動きかなとも思うのですが、修行に熱心な方はこれをダルドリーシッディだと判定するかもしれません。
本来のダルドリーシッディとは以下のようなものです。
シヴァ・サンヒター
5-90) かかるムーラダーラ・チャクラに対して常に念想を施すヨーギーはダールドゥリー・シッディが得られる。そして、次第に高く大地を離れることができるようになる。ダールドゥリー・シッディ(Darduri-siddhi)は「蛙のシッディ」の義で、蛙の如く高く飛び上がる超能力のことである。
「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
ですのでこの程度でダルドリーシッディとは本来の意味からすると呼べないと思うのですが、一部の流派ではこのような「ちょっと飛び跳ね」をそれと呼んで修行の段階を見極めているようです。
・・・ですが、単なる足の痙攣な気もするのですけどねえ。よく分からないです。単に寒いだけのような気もしますけど、もっと寒い時に起きたことはないんですよねえ。
まあ、あまり気にしてもしょうがないことかな、とも思います。
その後、右腕の膝の近くでも電気ショックが走りました。運動不足ですかねえ?
最初は、何が起きたのかよく分からなかったのですが、足がビリビリっと震えたかと思ったらちょっとだけ地面から持ち上がる方向に体が動いていました。それでも体重全てが宙に浮くことはなくて足は地面についたままで体がちょっとだけ上方向に動いた感じがしたのです。
確か数日前にも、その時はそれほど寒くはなくて同じことが起きた気が致します。そして、今日は上記の後しばらくしてから左の膝の近くの筋肉がビリビリっと痙攣が起きて左だけ筋肉がぴょんっと浮く動きがありました。
おそらくは、これは寒さあるいは何かの肉体的な痙攣による体の動きかなとも思うのですが、修行に熱心な方はこれをダルドリーシッディだと判定するかもしれません。
本来のダルドリーシッディとは以下のようなものです。
シヴァ・サンヒター
5-90) かかるムーラダーラ・チャクラに対して常に念想を施すヨーギーはダールドゥリー・シッディが得られる。そして、次第に高く大地を離れることができるようになる。ダールドゥリー・シッディ(Darduri-siddhi)は「蛙のシッディ」の義で、蛙の如く高く飛び上がる超能力のことである。
「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
ですのでこの程度でダルドリーシッディとは本来の意味からすると呼べないと思うのですが、一部の流派ではこのような「ちょっと飛び跳ね」をそれと呼んで修行の段階を見極めているようです。
・・・ですが、単なる足の痙攣な気もするのですけどねえ。よく分からないです。単に寒いだけのような気もしますけど、もっと寒い時に起きたことはないんですよねえ。
まあ、あまり気にしてもしょうがないことかな、とも思います。
その後、右腕の膝の近くでも電気ショックが走りました。運動不足ですかねえ?
銀河系の形のように部屋の隅々まで広がるオーム
銀河系の中心を自分として、銀河系の周囲に星々が広がるかのように自分の周囲にオームが広がってゆくのを感じます。
今まで・・・ というか、ふと気がついたのですが、昔は割と眉間への集中のためにオームやマントラを使っておりましたが、次第に集中が不要になってきました。以前にも似たようなことを書いたかと思いますが、最近はその度合いが増えました。
最近でもオーラが発散しがちな時は眉間への集中でオーラを凝縮させていたわけですが、今日のことで言いますと、集中しなくてもオーラが割と凝縮されて安定しています。であれば集中が不要であると言えます。
その状態でオームを瞑想中に座禅を組んだまま心の中で唱えると、今までは眉間が反応していた、ということはあったのですが、周囲に広がる感じはあまりありませんでした。今朝は、自分が銀河の中心にいて部屋全体あるいはそれよりもちょっと広い範囲までオームが響き渡るのを感じました。それは静けさと共に広がるオームです。
瞑想中の状態の違いと言えば、目の筋肉の使い方が変わりました。
以前は集中する時はどうしても目の筋肉が入ってしまいましたが、今は、目を開けた状態から軽く目を閉じるだけになりました。
禅で半眼の瞑想をしたりするようですが、目を緊張させないという観点からは似ている気が致しました。ただ、半眼ですと周囲が見えてしまいますので、それよりは目を閉じた方が私はやりやすいです。半眼の時は強制的に目の緊張が解除されますが、目を閉じると緊張しがちという難点はありますけど、今は割と目に力を入れないようになってきています。
もともとヨーガの瞑想の基本として、眉間に意識は集中するけれども筋肉の力は入れない、というのは言われています。そうではあるのですが、瞑想を続けるうちにどうしても力が入ってしまうのです。ですからそのような注意がされているわけですけれども、最近は集中がなくてもオーラが安定しておりますので眉間の緊張も取れてきた、ということだと思います。
ヴィパッサナー状態になるためにはリラックスをして意識の緊張は解く必要があるわけですけれども、ヴィパッサナー状態を維持するためには緊張を解くための逆方向の力とでも言いましょうか、そのような維持する努力が今までは必要だったわけですが、最近は、維持する努力が次第に不要になってきた、ということも言えると思います。
ふとしたことでヴィパッサナー状態になり、最初は努力が必要でしたが、努力が不要になる、ということかと思います。
勘違いして欲しくはないのですが、ヴィパッサナー状態それ自体は努力とは無関係に起こります。意識の深いところで観察が起こります。それはそれとして依然として観察が存在し続けるのですが、観察する認識を妨げる顕在意識を抑えるために顕在意識と同じレベルでの抑える努力が必要なのであって、ヴィパッサナーの観察する意識に対して努力をすることはできません。
顕在意識で見ていたものを、より潜在意識に近いところで見るのがヴィパッサナーであると言えます。そして、顕在意識を抑えた時にだけヴィパッサナー状態になる... と言いますか、ヴィパッサナーの観察は顕在意識とは無関係に常に現れ続けますが顕在意識が働いているとヴィパッサナーで識別するのを妨げますので顕在意識を押さえる必要がある、ということです。
そして、今回の場合、その、潜在意識を抑える力が次第に不要になってきた、ということです。そのことにより、普段の生活でヴィパッサナー状態を維持することが以前より容易になってきたと言えます。不要になってきたと言っても力が抜けてきたということですので程度問題であってゼロにはなっておりませんのでヴィパッサナー状態を維持するためにはまだ弱い努力が必要で、まだ先があると言えます。
今まで・・・ というか、ふと気がついたのですが、昔は割と眉間への集中のためにオームやマントラを使っておりましたが、次第に集中が不要になってきました。以前にも似たようなことを書いたかと思いますが、最近はその度合いが増えました。
最近でもオーラが発散しがちな時は眉間への集中でオーラを凝縮させていたわけですが、今日のことで言いますと、集中しなくてもオーラが割と凝縮されて安定しています。であれば集中が不要であると言えます。
その状態でオームを瞑想中に座禅を組んだまま心の中で唱えると、今までは眉間が反応していた、ということはあったのですが、周囲に広がる感じはあまりありませんでした。今朝は、自分が銀河の中心にいて部屋全体あるいはそれよりもちょっと広い範囲までオームが響き渡るのを感じました。それは静けさと共に広がるオームです。
瞑想中の状態の違いと言えば、目の筋肉の使い方が変わりました。
以前は集中する時はどうしても目の筋肉が入ってしまいましたが、今は、目を開けた状態から軽く目を閉じるだけになりました。
禅で半眼の瞑想をしたりするようですが、目を緊張させないという観点からは似ている気が致しました。ただ、半眼ですと周囲が見えてしまいますので、それよりは目を閉じた方が私はやりやすいです。半眼の時は強制的に目の緊張が解除されますが、目を閉じると緊張しがちという難点はありますけど、今は割と目に力を入れないようになってきています。
もともとヨーガの瞑想の基本として、眉間に意識は集中するけれども筋肉の力は入れない、というのは言われています。そうではあるのですが、瞑想を続けるうちにどうしても力が入ってしまうのです。ですからそのような注意がされているわけですけれども、最近は集中がなくてもオーラが安定しておりますので眉間の緊張も取れてきた、ということだと思います。
ヴィパッサナー状態になるためにはリラックスをして意識の緊張は解く必要があるわけですけれども、ヴィパッサナー状態を維持するためには緊張を解くための逆方向の力とでも言いましょうか、そのような維持する努力が今までは必要だったわけですが、最近は、維持する努力が次第に不要になってきた、ということも言えると思います。
ふとしたことでヴィパッサナー状態になり、最初は努力が必要でしたが、努力が不要になる、ということかと思います。
勘違いして欲しくはないのですが、ヴィパッサナー状態それ自体は努力とは無関係に起こります。意識の深いところで観察が起こります。それはそれとして依然として観察が存在し続けるのですが、観察する認識を妨げる顕在意識を抑えるために顕在意識と同じレベルでの抑える努力が必要なのであって、ヴィパッサナーの観察する意識に対して努力をすることはできません。
顕在意識で見ていたものを、より潜在意識に近いところで見るのがヴィパッサナーであると言えます。そして、顕在意識を抑えた時にだけヴィパッサナー状態になる... と言いますか、ヴィパッサナーの観察は顕在意識とは無関係に常に現れ続けますが顕在意識が働いているとヴィパッサナーで識別するのを妨げますので顕在意識を押さえる必要がある、ということです。
そして、今回の場合、その、潜在意識を抑える力が次第に不要になってきた、ということです。そのことにより、普段の生活でヴィパッサナー状態を維持することが以前より容易になってきたと言えます。不要になってきたと言っても力が抜けてきたということですので程度問題であってゼロにはなっておりませんのでヴィパッサナー状態を維持するためにはまだ弱い努力が必要で、まだ先があると言えます。
観察すると雑念が消失するチェルドル
ゾクチェンに基けば、テクチュの境地において不二の境地であるサマーディの状態に止まり、ヴィパッサナー(観察)をすることにより雑念が消失すると言います。
チェルドルとはサマーディにおいて現れてくる3つの能力のうちの最初のものであると言います。
最初の能力であるチェルドルにおいては、自己解脱の過程は、まだわずかな力しか持っていない。チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
ゾクチェンのシネーの境地までは瞑想をした場合にここまでの力はまだなく、瞑想を長い期間繰り返すことで自らの想念を少しずつ浄化してゆきます。シネーの境地とは「集中(シャマタ)」の境地であり、雑念を押さえ込むことで安定に至る境地です。その後にテクチュの境地であるサマーディがあるわけですが、このチェルドルはサマーディの段階を示しています。
ゾクチェンに基けば、サマーディの基本的な境地がこのチェルドルであると言います。
ただ、個人的な感覚に基づきますと、サマーディの最初においてはこのチェルドルすらもかなり不安定だったように思います。というか、そこまで観察できていなかったのかもしれません。サマーディというかスローモーションのヴィパッサナーで観察をする際に、最初はとにかくサマーディ状態を維持するために努力が必要で、チェルドル的な感覚はあまりありませんでした。
チェルドルのように「太陽の光を浴びて水滴が蒸発する」というよりは、最初に想念をちょっとした努力で断ち切ってからサマーディのヴィパッサナー状態に入るという感じでした。
それが今は、ヴィパッサナーに入るための努力の必要度がかなり下がってきましたので、割と簡単にヴィパッサナーに入れるようになり、そのおかげで、ヴィパッサナーに入った時の「特別感」が抜けてきました。割と日常の感覚になりつつあります。
おそらくは、子供の頃から最初からヴィパッサナー状態の人が一定数いて、その人はこれがヴィパッサナーだとはわからないのではないか? という気も致します。であれば、瞑想の上級者がサマタ瞑想(集中瞑想)を否定してヴィパッサナー(観察瞑想)のことだけを語るのも理解できなくもありませんが、やはり、一般人にとってみれば瞑想といえばサマタ瞑想(集中瞑想)から入ると思うのです。
そうしてヴィパッサナー(観察)状態にいる時に、そのヴィパッサナー・サマーディ(不二の意識による観察)を維持する努力が減ってくると、その意識をより繊細な部分に向けることができるようになったような気が致します。
その時に、このチェルドル的な感覚が見えてきたのです。
例えば、朝起きた時にオーラが不安定だったり、ちょっとした雑念、例えば過去の記憶だったり性的なイメージだとかが湧き上がってきた時に、このチェルドル的な能力によって観察をすると、まさに上記のごとく、水滴が太陽の光を浴びるかのように想念がバラバラに消失してゆくのがわかるのです。
水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのは物質界ですとかなり時間がかかりますけど、これは比喩だと思いますし、私の場合、実際に想念がバラバラになるのは十数秒から数十秒かかります。早ければ5秒くらいですが、せいぜいそのくらいです。
関連: 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する
チェルドルとはサマーディにおいて現れてくる3つの能力のうちの最初のものであると言います。
最初の能力であるチェルドルにおいては、自己解脱の過程は、まだわずかな力しか持っていない。チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
ゾクチェンのシネーの境地までは瞑想をした場合にここまでの力はまだなく、瞑想を長い期間繰り返すことで自らの想念を少しずつ浄化してゆきます。シネーの境地とは「集中(シャマタ)」の境地であり、雑念を押さえ込むことで安定に至る境地です。その後にテクチュの境地であるサマーディがあるわけですが、このチェルドルはサマーディの段階を示しています。
ゾクチェンに基けば、サマーディの基本的な境地がこのチェルドルであると言います。
ただ、個人的な感覚に基づきますと、サマーディの最初においてはこのチェルドルすらもかなり不安定だったように思います。というか、そこまで観察できていなかったのかもしれません。サマーディというかスローモーションのヴィパッサナーで観察をする際に、最初はとにかくサマーディ状態を維持するために努力が必要で、チェルドル的な感覚はあまりありませんでした。
チェルドルのように「太陽の光を浴びて水滴が蒸発する」というよりは、最初に想念をちょっとした努力で断ち切ってからサマーディのヴィパッサナー状態に入るという感じでした。
それが今は、ヴィパッサナーに入るための努力の必要度がかなり下がってきましたので、割と簡単にヴィパッサナーに入れるようになり、そのおかげで、ヴィパッサナーに入った時の「特別感」が抜けてきました。割と日常の感覚になりつつあります。
おそらくは、子供の頃から最初からヴィパッサナー状態の人が一定数いて、その人はこれがヴィパッサナーだとはわからないのではないか? という気も致します。であれば、瞑想の上級者がサマタ瞑想(集中瞑想)を否定してヴィパッサナー(観察瞑想)のことだけを語るのも理解できなくもありませんが、やはり、一般人にとってみれば瞑想といえばサマタ瞑想(集中瞑想)から入ると思うのです。
そうしてヴィパッサナー(観察)状態にいる時に、そのヴィパッサナー・サマーディ(不二の意識による観察)を維持する努力が減ってくると、その意識をより繊細な部分に向けることができるようになったような気が致します。
その時に、このチェルドル的な感覚が見えてきたのです。
例えば、朝起きた時にオーラが不安定だったり、ちょっとした雑念、例えば過去の記憶だったり性的なイメージだとかが湧き上がってきた時に、このチェルドル的な能力によって観察をすると、まさに上記のごとく、水滴が太陽の光を浴びるかのように想念がバラバラに消失してゆくのがわかるのです。
水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのは物質界ですとかなり時間がかかりますけど、これは比喩だと思いますし、私の場合、実際に想念がバラバラになるのは十数秒から数十秒かかります。早ければ5秒くらいですが、せいぜいそのくらいです。
関連: 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する
クンダリーニはイダとピンガラによって生じる
ヨーガではナディというエネルギーのルートのうち、主要な3つとしてイダとピンガラ、そしてスシュムナのことに言及しています。イダは背骨の左側で月の癒す力、ピンガラは右で太陽の活力、そしてスシュムナは背骨に沿った悟りの力が備わっていると言います。
クンダリーニはこのうちスシュムナを通ると言います。
しかし、私がイダとピンガラの覚醒を経てマニプラ優勢の状態に至り、その後、アナハタ優勢になったわけですが、明確に認識できたのはイダとピンガラでスシュムナとクンダリーニというものがどれに相当するのか、いまいちはっきりと認識できておりませんでした。
この後、また別にクンダリーニの力が生じるのかな・・・? とも思っておりましたが、どうやら、イダとピンガラによって生じる力のことを比喩としてクンダリーニと表現するようです。
これは、私の感覚と一致します。
個別にクンダリーニが存在するのではなく、明確に存在するのはイダとピンガラで、そのバランスによって生じるエネルギーをクンダリーニと呼ぶのだとすれば、確かに、ヨーガで左右のバランスを重視している理由も肯けます。
呼吸には、2つのチャンネルがあり、それは、ピンガラという右鼻孔呼吸とイダという左鼻孔呼吸とである。両鼻孔から一緒に流入する時はスシュムナ呼吸と呼ぶ。(中略)スシュムナチャンネルは中央のチャンネルで、呼吸がイダとピンガラに同量に引き出されるとクンダリーニが昇るところである。(中略)スシュムナは、太陽エネルギーと太陰エネルギーの合流箇所であり、そこでクンダリーニを形成する渦が出来るところである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
ヨーガの本、例えばハタヨガプラピディカを読むと、イダとピンガラとスシュムナを個別のものとして記載してあることに気付きます。もしかしたらこれらの知識は古来から秘密にされていたもので、最近になって本で出回るようにはなりましたが古典にすら書かれていない、口伝の部分だったのかもしれません。
実際のところ、これらが本に書かれてあったとしても、通説で言いますとイダとピンガラとスシュムナは別ですから、私はわざわざ通説をひっくり返そうとは思いませんし、一般的にはそういう理解でいいと思います。
私のやり方は本を見てその通りにするというよりは、本はある程度に参考にはしますが、むしろ本は「確かめ」のために使っています。まずやってみて、自分の変化が先に起きて、その自分の変化とは何だろう、ということで本を調べるのです。
今回の場合もこの本を信じるとかそういうことはなくて、私の感覚に一致する表現を探した、ということです。上記の表記は私の感覚と一致します。
まあ、長らくおそらくはそうなのではないかな、とも思っていたのですが、最近になって、その確信が深まってまいりました。
クンダリーニはこのうちスシュムナを通ると言います。
しかし、私がイダとピンガラの覚醒を経てマニプラ優勢の状態に至り、その後、アナハタ優勢になったわけですが、明確に認識できたのはイダとピンガラでスシュムナとクンダリーニというものがどれに相当するのか、いまいちはっきりと認識できておりませんでした。
この後、また別にクンダリーニの力が生じるのかな・・・? とも思っておりましたが、どうやら、イダとピンガラによって生じる力のことを比喩としてクンダリーニと表現するようです。
これは、私の感覚と一致します。
個別にクンダリーニが存在するのではなく、明確に存在するのはイダとピンガラで、そのバランスによって生じるエネルギーをクンダリーニと呼ぶのだとすれば、確かに、ヨーガで左右のバランスを重視している理由も肯けます。
呼吸には、2つのチャンネルがあり、それは、ピンガラという右鼻孔呼吸とイダという左鼻孔呼吸とである。両鼻孔から一緒に流入する時はスシュムナ呼吸と呼ぶ。(中略)スシュムナチャンネルは中央のチャンネルで、呼吸がイダとピンガラに同量に引き出されるとクンダリーニが昇るところである。(中略)スシュムナは、太陽エネルギーと太陰エネルギーの合流箇所であり、そこでクンダリーニを形成する渦が出来るところである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」
ヨーガの本、例えばハタヨガプラピディカを読むと、イダとピンガラとスシュムナを個別のものとして記載してあることに気付きます。もしかしたらこれらの知識は古来から秘密にされていたもので、最近になって本で出回るようにはなりましたが古典にすら書かれていない、口伝の部分だったのかもしれません。
実際のところ、これらが本に書かれてあったとしても、通説で言いますとイダとピンガラとスシュムナは別ですから、私はわざわざ通説をひっくり返そうとは思いませんし、一般的にはそういう理解でいいと思います。
私のやり方は本を見てその通りにするというよりは、本はある程度に参考にはしますが、むしろ本は「確かめ」のために使っています。まずやってみて、自分の変化が先に起きて、その自分の変化とは何だろう、ということで本を調べるのです。
今回の場合もこの本を信じるとかそういうことはなくて、私の感覚に一致する表現を探した、ということです。上記の表記は私の感覚と一致します。
まあ、長らくおそらくはそうなのではないかな、とも思っていたのですが、最近になって、その確信が深まってまいりました。
とあるお寺の家系に生まれた人の物語
夢を見ましたよ。
あるところに由緒正しきお寺とその一族がいました。
その夢は霊界のお話と現世との繋がりのお話ですので場面は霊界から始まります。
お寺の一族は霊としてもその一族が代々引き継いでおり、霊界の一族の大御所と言いますかお節介おばさんみたいな人(霊)が半分仕切っていました。
ある日、その一族のところにどこからか霊がやってきました。
どこから来たのかもわからない、どこぞの馬の骨ともしれないわからない霊ですけど、仕切っているお節介おばさんの霊に対して「勉強したいので一族の家族として転生させてください」と熱心にお願いしました。お節介おばさんは、これは一体どうしたものかと思い、この、どこぞの馬の骨ともしれ訳の分からない魂を家族にとして転生して面倒見るのはどうなのかと考えましたが勉強したいという熱心な願いを聞き入れる事にしました。
そうして勉強したいと言って転生した筈ですが、生まれてからはその願いを忘れたのか何なのか一向に仏教の勉強をせず、世間の俗物的な快楽に身を任せてお金儲けに励んでいるではありませんか。お節介おばさんはそれを見て「やれやれ。あの願いは何だったのかしら」と思っていました。それだけならまだしも、自分はほとんど修行していないのにも関わらず自分が一族の家族というだけで自分自身が何か偉いものだと勘違いし始めました。
身近な家族がそんな態度をたしなめる為に「我が一族の名を辱めることは避けるように」と忠告したところ、その本当の意味は「君のように修行していない人は語る資格はない」「君が生まれる前に立てた誓いを思い出して勉強しなさい」というところだったのに、こともあろうか、「自分はこの一族に生まれたのだから優秀で他の者より生まれながらにして優れている」、と勘違いをし始めます。「血筋によって優越が決まる血統主義」かのごとく思ってしまったわけです。
それを霊界から見ていたお節介おばさんは「この、どこぞの馬の骨とも知れぬ者が修行もせず勘違いをするようになってしまった」と嘆きました。お節介おばさんは、「やれやれ、この勘違い坊主をどうしたものか・・・ 」と思っていたところ、自分のところで修行するのではなく、もっと緩いヨガをさせるように計らうことにしたようです。
お節介おばさんは、それでとりあえず様子を見ることにしましたが、お節介おばさんは昔を思い出して、これは教訓だったのだと理解しました。この坊主が来た時、きっと受け入れるべきではなかった。本性を見抜くべきだった。表面的に礼儀正しくてもその裏で何を求めているのか、この坊主の一生を霊界から見ていたことで理解することができた。この坊主は自らの欲望を達成するために、体のよい看板(家柄)が欲しかっただけなのだ。
だが、幸いなことに、そのような不逞なやからでも我が一族の霊気にさらされることのよって次第に改心し、霊的な理解を少しずつではあるが獲得しつつある。全ての人間は霊的に目覚める素質がある、というのもお節介おばさんが学んだことのひとつだった。
今はまだ勘違いをして困ったちゃんの状態ですが、お節介おばさんは面倒見が良いのでそんな坊主でも優しく見守っているようです。でも、次の転生で一族の者として再度生きるのは今の状態では許可できないみたいですけど。であれば今生の幸運を生かして最大限に学ぶべきなのでしょうね。
おしまい。
これはたしか数年前に見た夢で、ふとメモを発見したので載せてみました。これは実在の人物のお話で、こんな夢のお話を本人に言うなんていう野暮なことはしていませんけど、時々、謎な人と会うことがあって、これはどういうことでしょう??? と思っていると瞑想ですとか夢ですとかでこうして答えをくれる時があるのです。
もちろん瞑想や夢ですから正解とは限りませんし、本人に言う必要のないことではありますが、上記のようなことであるとすれば態度や考え方など全てスッキリ説明がつきます。多様な人がいて、それぞれの人生で学びをしているのですね。
血筋や家族・親戚はとても助けになりますが、そうであっても、やはり本人のありようが一番重要と言うことなのだと思います。
その一方で、由緒正しき血筋に変な人を招いてはいけない、と言う教訓でもあるように思います。この場合、お節介おばさんの脇が甘かったのだ、と言うメッセージも含まれていました。そのおかげでお節介おばさんは人生を通じて苦労を背負うことになりましたが、このようなお話は割とこの世界に溢れているような気も致します。とは言いましても、お節介おばさんの方はエネルギーに満ちているようですので苦労を苦労とも思わずこなすことができますので特に問題ではないようです。
人生の中では色々な人と会いますけど、それぞれ違った人生観を持っています。興味を持てばこのように人生の背景に関する知識が私のところへやってきますけど、その知識を得たからといって、それが悟りの知識に結びつくわけではありませんから、最近は他人の人生に対する興味はあまりありません。ですので、これを見たからといって感想は「ふうん」と言うくらいですけど。人生は自由ですから、他人は好きに生きれば良いと思っています。
あるところに由緒正しきお寺とその一族がいました。
その夢は霊界のお話と現世との繋がりのお話ですので場面は霊界から始まります。
お寺の一族は霊としてもその一族が代々引き継いでおり、霊界の一族の大御所と言いますかお節介おばさんみたいな人(霊)が半分仕切っていました。
ある日、その一族のところにどこからか霊がやってきました。
どこから来たのかもわからない、どこぞの馬の骨ともしれないわからない霊ですけど、仕切っているお節介おばさんの霊に対して「勉強したいので一族の家族として転生させてください」と熱心にお願いしました。お節介おばさんは、これは一体どうしたものかと思い、この、どこぞの馬の骨ともしれ訳の分からない魂を家族にとして転生して面倒見るのはどうなのかと考えましたが勉強したいという熱心な願いを聞き入れる事にしました。
そうして勉強したいと言って転生した筈ですが、生まれてからはその願いを忘れたのか何なのか一向に仏教の勉強をせず、世間の俗物的な快楽に身を任せてお金儲けに励んでいるではありませんか。お節介おばさんはそれを見て「やれやれ。あの願いは何だったのかしら」と思っていました。それだけならまだしも、自分はほとんど修行していないのにも関わらず自分が一族の家族というだけで自分自身が何か偉いものだと勘違いし始めました。
身近な家族がそんな態度をたしなめる為に「我が一族の名を辱めることは避けるように」と忠告したところ、その本当の意味は「君のように修行していない人は語る資格はない」「君が生まれる前に立てた誓いを思い出して勉強しなさい」というところだったのに、こともあろうか、「自分はこの一族に生まれたのだから優秀で他の者より生まれながらにして優れている」、と勘違いをし始めます。「血筋によって優越が決まる血統主義」かのごとく思ってしまったわけです。
それを霊界から見ていたお節介おばさんは「この、どこぞの馬の骨とも知れぬ者が修行もせず勘違いをするようになってしまった」と嘆きました。お節介おばさんは、「やれやれ、この勘違い坊主をどうしたものか・・・ 」と思っていたところ、自分のところで修行するのではなく、もっと緩いヨガをさせるように計らうことにしたようです。
お節介おばさんは、それでとりあえず様子を見ることにしましたが、お節介おばさんは昔を思い出して、これは教訓だったのだと理解しました。この坊主が来た時、きっと受け入れるべきではなかった。本性を見抜くべきだった。表面的に礼儀正しくてもその裏で何を求めているのか、この坊主の一生を霊界から見ていたことで理解することができた。この坊主は自らの欲望を達成するために、体のよい看板(家柄)が欲しかっただけなのだ。
だが、幸いなことに、そのような不逞なやからでも我が一族の霊気にさらされることのよって次第に改心し、霊的な理解を少しずつではあるが獲得しつつある。全ての人間は霊的に目覚める素質がある、というのもお節介おばさんが学んだことのひとつだった。
今はまだ勘違いをして困ったちゃんの状態ですが、お節介おばさんは面倒見が良いのでそんな坊主でも優しく見守っているようです。でも、次の転生で一族の者として再度生きるのは今の状態では許可できないみたいですけど。であれば今生の幸運を生かして最大限に学ぶべきなのでしょうね。
おしまい。
これはたしか数年前に見た夢で、ふとメモを発見したので載せてみました。これは実在の人物のお話で、こんな夢のお話を本人に言うなんていう野暮なことはしていませんけど、時々、謎な人と会うことがあって、これはどういうことでしょう??? と思っていると瞑想ですとか夢ですとかでこうして答えをくれる時があるのです。
もちろん瞑想や夢ですから正解とは限りませんし、本人に言う必要のないことではありますが、上記のようなことであるとすれば態度や考え方など全てスッキリ説明がつきます。多様な人がいて、それぞれの人生で学びをしているのですね。
血筋や家族・親戚はとても助けになりますが、そうであっても、やはり本人のありようが一番重要と言うことなのだと思います。
その一方で、由緒正しき血筋に変な人を招いてはいけない、と言う教訓でもあるように思います。この場合、お節介おばさんの脇が甘かったのだ、と言うメッセージも含まれていました。そのおかげでお節介おばさんは人生を通じて苦労を背負うことになりましたが、このようなお話は割とこの世界に溢れているような気も致します。とは言いましても、お節介おばさんの方はエネルギーに満ちているようですので苦労を苦労とも思わずこなすことができますので特に問題ではないようです。
人生の中では色々な人と会いますけど、それぞれ違った人生観を持っています。興味を持てばこのように人生の背景に関する知識が私のところへやってきますけど、その知識を得たからといって、それが悟りの知識に結びつくわけではありませんから、最近は他人の人生に対する興味はあまりありません。ですので、これを見たからといって感想は「ふうん」と言うくらいですけど。人生は自由ですから、他人は好きに生きれば良いと思っています。
瞑想中に見えるアストラル体の色
ヨーガ行者の本山博先生はアストラル体の色について記述しています。
アストラル体の3つ色(オーラ)
1. ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は無色である。
2. アジナチャクラでは黒色である。
3. サハスララチャクラでは、光り輝いている。
「密教ヨーガ(本山博 著)」
同書によれば、これは精神集中の3つの異なる状態に該当すると言います。
・浅い精神集中では煙柱。
・雑念が消えた集中では黒色。
・やがて光り輝くようになる。
先日の漆黒の闇はおそらくアジナチャクラに関係しているものかな、と言う気も致しますが確信はありません。
光は外の光かもしれないので、光は進歩の判断に適していないような気もしています。単に筋肉の緊張で光を見ることもありますし。
ヨーガの瞑想の基本としては何を見ても重要ではないので気にしない、と言うことはありますけど、こう言うのは「しるし」として役立つ時があるのです。
アストラル体の3つ色(オーラ)
1. ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は無色である。
2. アジナチャクラでは黒色である。
3. サハスララチャクラでは、光り輝いている。
「密教ヨーガ(本山博 著)」
同書によれば、これは精神集中の3つの異なる状態に該当すると言います。
・浅い精神集中では煙柱。
・雑念が消えた集中では黒色。
・やがて光り輝くようになる。
先日の漆黒の闇はおそらくアジナチャクラに関係しているものかな、と言う気も致しますが確信はありません。
光は外の光かもしれないので、光は進歩の判断に適していないような気もしています。単に筋肉の緊張で光を見ることもありますし。
ヨーガの瞑想の基本としては何を見ても重要ではないので気にしない、と言うことはありますけど、こう言うのは「しるし」として役立つ時があるのです。
給与を増やせば売り上げが増える
人は、ものを売る時に販売側が「きつい顔」をするあたりが最安値になりますから、給与を増やせば最安値が切り上げられ、売り上げが伸びます。
欲しい人たちはただ単に安く買いたいだけですから、いくらであっても構わないわけです。高ければ高いところ、安ければ安いところで流通するだけのことです。
デフレ商売に関わっている人は自分が売る場合も相手に顔色を見られますから、儲かっているところからは、売主が「きつい顔」をする寸前まで値下げ圧力がかかります。安いところで流通すれば回り回って自分の実入りが減ることになります。
多くのところでは「きつい顔」が基準になっていますので、給与を増やせば増やすほど「きつい顔」が切り上げられて売り上げが伸びるわけです。逆に給与を減らせば減らすほど売り上げは下がります。
ですから、営業の立場で言うときつそうな表情をいかに表現して相手の同情を誘うのが鍵になるわけです。
経済学では給与は固定費で減らすもので価格は下げた方がいいと思われていますが、実際は、価格なんてあってないようなものです。「雰囲気」で価格は決まります。
既に・・・、そしてこれからも価格の二分化は続いて、デフレ経済に関わる人と価格が保たれた商売をする人とで別れるような気が致します。
デフレ経済は営業が必要で営業コストがかかって価格圧力にさらされて売り上げが下がり続け、一方では営業コストがほとんどいらなくて価格圧力が少なくて給与も上がって売り上げも上がり続けるわけです。
こうなると保証はしませんし、これは経済学というよりも心理学的な解釈かもしれませんが、別に、私は心理学を専門で学んだわけではなく、そういうインスピレーションが今日の瞑想で降りてきた、というだけのことです。
欲しい人たちはただ単に安く買いたいだけですから、いくらであっても構わないわけです。高ければ高いところ、安ければ安いところで流通するだけのことです。
デフレ商売に関わっている人は自分が売る場合も相手に顔色を見られますから、儲かっているところからは、売主が「きつい顔」をする寸前まで値下げ圧力がかかります。安いところで流通すれば回り回って自分の実入りが減ることになります。
多くのところでは「きつい顔」が基準になっていますので、給与を増やせば増やすほど「きつい顔」が切り上げられて売り上げが伸びるわけです。逆に給与を減らせば減らすほど売り上げは下がります。
ですから、営業の立場で言うときつそうな表情をいかに表現して相手の同情を誘うのが鍵になるわけです。
経済学では給与は固定費で減らすもので価格は下げた方がいいと思われていますが、実際は、価格なんてあってないようなものです。「雰囲気」で価格は決まります。
既に・・・、そしてこれからも価格の二分化は続いて、デフレ経済に関わる人と価格が保たれた商売をする人とで別れるような気が致します。
デフレ経済は営業が必要で営業コストがかかって価格圧力にさらされて売り上げが下がり続け、一方では営業コストがほとんどいらなくて価格圧力が少なくて給与も上がって売り上げも上がり続けるわけです。
こうなると保証はしませんし、これは経済学というよりも心理学的な解釈かもしれませんが、別に、私は心理学を専門で学んだわけではなく、そういうインスピレーションが今日の瞑想で降りてきた、というだけのことです。
自分とスピリットの自分とグループソウルとしての自分
顕在意識としての普通の自分という意識。
時空を超えた幽体としてあるいはスピリットとしての自分。
そして、スピリットとしての自分が分かれた元であるグループソウルとしての自分がいます。
ニューエイジのスピリチュアル以降はハイヤーセルフという言葉がよく使われるようになり、これらの一部がハイヤーセルフだったりするのですが、ハイヤーセルフと言った時、何を意味するのかコンテキストごとに異なるので読み解く必要があると思います。上の中でいくつかの部分がハイヤーセルフと呼ばれたりします。
また、流派によっては更にロウアーセルフ(低次の自己)という概念があったりします。このロウアーセルフは曲者で、ロウアーと言いつつも地球意識のことを意味していたりします。それって大きな意識だからロウアーというのも違和感ありますけど、いわゆるグラウンディングとしてのロウアーセルフということなのかもしれません。
言い方としては多様であっても、あるものは同一です。
顕在意識としての自分は安全を確保する基本的な欲求から所有する感覚としてのエゴを持ち合わせています。
この顕在意識とスピリットとしての自分は、見ている観点が少し違うだけで割と一緒です。普段はその両者がごっちゃになっています。
肉体に関連した意識の部分と、スピリットとしての時空を超えた部分の両方があります。
幽体離脱する時は肉体の感覚、視覚などがなくなってスピリットの側だけになります。
あるいは、うまくやると肉体の感覚を少し残したまま、肉体の安全を確保しつつスピリットを自由に動かすこともできます。
ですから、顕在意識としての普通の自分とスピリットとしての自分は一緒と言っても良いのですが、顕在意識は時空を超えにくいのに対してスピリットは時空を超えます。
ニューエイジでハイヤーセルフというとき、「高次の自分」という意味で使われますので、それは、スピリットとしての自分の場合とグループソウルとしての自分の場合とがあります。
スピリットとしての自分は普段は顕在意識で肉体と結びついておりますので、スピリットとしての自分としての意識になった時、それは変性意識であったりするわけですが、その時のスピリットをハイヤーセルフと呼んだりしますが、同じ自分の一面です。
一方で、自分のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのスピリットをハイヤーセルフと呼ぶこともありますが、グループソウルは細かなことに口出ししないのでニューエイジでハイヤーセルフと言ってもグループソウルでないことがほとんどです。
人によってハイヤーセルフの定義がまちまちで、私なんかからするとスピリットとしての自分は単に自分のスピリットであってハイヤーセルフではないと思うのですが、あまりにも肉体との結び付きが強い人はスピリットとしての自分ですら特別に感じてハイヤーセルフとか言って特別視するのかもしれませんね。この場合のハイヤーセルフと言っても基本は自分の意識ですから、まだまだ自分の限界から超えてはいません。
グループソウルとしてのハイヤーセルフは他の人はハイヤーセルフとは言っていない気がしますけど、これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと私なんかは思います。
私のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのハイヤーセルフは、いわゆる「人の形」としての意識体として存在していて、グループソウルとしての意識もあれば、個別のスピリットの個々の意識も統合しています。これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと思うわけです。
一方で、自分のスピリットはハイヤーセルフと言うよりも単に自分のスピリットであって、ハイヤーと呼ぶほどではないと思います。
ですが、多くの人は自分のスピリット、いわゆる自分の意識の一面をハイヤーセルフと呼んでいたりしますので、他人がハイヤーセルフと言う時は何を意味しているのかコンテキストを読み解く必要があると思います。
時空を超えた幽体としてあるいはスピリットとしての自分。
そして、スピリットとしての自分が分かれた元であるグループソウルとしての自分がいます。
ニューエイジのスピリチュアル以降はハイヤーセルフという言葉がよく使われるようになり、これらの一部がハイヤーセルフだったりするのですが、ハイヤーセルフと言った時、何を意味するのかコンテキストごとに異なるので読み解く必要があると思います。上の中でいくつかの部分がハイヤーセルフと呼ばれたりします。
また、流派によっては更にロウアーセルフ(低次の自己)という概念があったりします。このロウアーセルフは曲者で、ロウアーと言いつつも地球意識のことを意味していたりします。それって大きな意識だからロウアーというのも違和感ありますけど、いわゆるグラウンディングとしてのロウアーセルフということなのかもしれません。
言い方としては多様であっても、あるものは同一です。
顕在意識としての自分は安全を確保する基本的な欲求から所有する感覚としてのエゴを持ち合わせています。
この顕在意識とスピリットとしての自分は、見ている観点が少し違うだけで割と一緒です。普段はその両者がごっちゃになっています。
肉体に関連した意識の部分と、スピリットとしての時空を超えた部分の両方があります。
幽体離脱する時は肉体の感覚、視覚などがなくなってスピリットの側だけになります。
あるいは、うまくやると肉体の感覚を少し残したまま、肉体の安全を確保しつつスピリットを自由に動かすこともできます。
ですから、顕在意識としての普通の自分とスピリットとしての自分は一緒と言っても良いのですが、顕在意識は時空を超えにくいのに対してスピリットは時空を超えます。
ニューエイジでハイヤーセルフというとき、「高次の自分」という意味で使われますので、それは、スピリットとしての自分の場合とグループソウルとしての自分の場合とがあります。
スピリットとしての自分は普段は顕在意識で肉体と結びついておりますので、スピリットとしての自分としての意識になった時、それは変性意識であったりするわけですが、その時のスピリットをハイヤーセルフと呼んだりしますが、同じ自分の一面です。
一方で、自分のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのスピリットをハイヤーセルフと呼ぶこともありますが、グループソウルは細かなことに口出ししないのでニューエイジでハイヤーセルフと言ってもグループソウルでないことがほとんどです。
人によってハイヤーセルフの定義がまちまちで、私なんかからするとスピリットとしての自分は単に自分のスピリットであってハイヤーセルフではないと思うのですが、あまりにも肉体との結び付きが強い人はスピリットとしての自分ですら特別に感じてハイヤーセルフとか言って特別視するのかもしれませんね。この場合のハイヤーセルフと言っても基本は自分の意識ですから、まだまだ自分の限界から超えてはいません。
グループソウルとしてのハイヤーセルフは他の人はハイヤーセルフとは言っていない気がしますけど、これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと私なんかは思います。
私のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのハイヤーセルフは、いわゆる「人の形」としての意識体として存在していて、グループソウルとしての意識もあれば、個別のスピリットの個々の意識も統合しています。これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと思うわけです。
一方で、自分のスピリットはハイヤーセルフと言うよりも単に自分のスピリットであって、ハイヤーと呼ぶほどではないと思います。
ですが、多くの人は自分のスピリット、いわゆる自分の意識の一面をハイヤーセルフと呼んでいたりしますので、他人がハイヤーセルフと言う時は何を意味しているのかコンテキストを読み解く必要があると思います。
信じるところから全ては始まる
他人に依存したり操作されたりしなければ信じると言うことは力になります。信じると言うと抵抗があるかもしれませんが、「覚える」と言い換えてもいいと思います。最初は文献などをなぞって、その内容をまずは信じてみて内容を掴み取るわけです。
その後、違うと思ったら捨てても構いません。一旦信じたらずっと信じ続けなくてはならないものではなく、その後の「検証」が大切ですから、確かめることを怠らなければ信じることは力になります。
最初はスピリチュアルと言っても右も左もわからない状態であればまずは信じてみるしかないでしょう。
これは、例えば科学のお勉強でも同じことが言えると思います。まずは教科書の内容を暗記することから始めるでしょう。それと同じことです。
学校のお勉強は「覚える」と言って、スピリチュアルのお勉強は「信じる」と言っているだけのことです。
似たようなものです。
学校のお勉強は科学的と言いますけど、学校ではその根本のところは教えてくれませんから、学校で学ぶことはほとんどが「覚える」ことです。
科学の根本と言いますと量子論や数学の整数論とかになってゆきますけど、大学でもきちんとこの辺りをやる人も少ないのではないでしょうか。それでいて学校で覚えるだけ覚えて科学的だとか言っていますけど、根本を理解しなければそれは所詮は覚えているだけのレベルで、科学的と言うよりも、ただ単に科学の理論を覚えて使っているだけのことです。
一方で宗教も根本を考えるのはなかなか難しく、最初は覚えることから始まります。それを信じると言っているだけのことで、科学とそう変わりません。
どちらも根本まで行きつけばいいのですが根本までたどり着かない場合はどちらも暗記でしかありません。
それでも科学であっても宗教であってもそれなりに理解が深まりますし学はつきますから、無駄ではありません。
であれば、根本まで行き着かずに「覚える」「信じる」と言うレベルであっても十分ではないでしょうか。
その後、違うと思ったら捨てても構いません。一旦信じたらずっと信じ続けなくてはならないものではなく、その後の「検証」が大切ですから、確かめることを怠らなければ信じることは力になります。
最初はスピリチュアルと言っても右も左もわからない状態であればまずは信じてみるしかないでしょう。
これは、例えば科学のお勉強でも同じことが言えると思います。まずは教科書の内容を暗記することから始めるでしょう。それと同じことです。
学校のお勉強は「覚える」と言って、スピリチュアルのお勉強は「信じる」と言っているだけのことです。
似たようなものです。
学校のお勉強は科学的と言いますけど、学校ではその根本のところは教えてくれませんから、学校で学ぶことはほとんどが「覚える」ことです。
科学の根本と言いますと量子論や数学の整数論とかになってゆきますけど、大学でもきちんとこの辺りをやる人も少ないのではないでしょうか。それでいて学校で覚えるだけ覚えて科学的だとか言っていますけど、根本を理解しなければそれは所詮は覚えているだけのレベルで、科学的と言うよりも、ただ単に科学の理論を覚えて使っているだけのことです。
一方で宗教も根本を考えるのはなかなか難しく、最初は覚えることから始まります。それを信じると言っているだけのことで、科学とそう変わりません。
どちらも根本まで行きつけばいいのですが根本までたどり着かない場合はどちらも暗記でしかありません。
それでも科学であっても宗教であってもそれなりに理解が深まりますし学はつきますから、無駄ではありません。
であれば、根本まで行き着かずに「覚える」「信じる」と言うレベルであっても十分ではないでしょうか。
カニカ・サマーディ(瞬間定)の解釈
ヴィパッサナーの本を読んでいたところ、カニカ・サマーディ(瞬間定)と言うものがあると記述がありました。
サマーディの強力な集中がサティ(気付き)の精度と速度を矢のように鋭くし、一瞬一瞬の事象に撃ち込まれ、その本質を暴き出していく...。「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これは、以前に長い瞑想をした時に何気ない山の木々の景色が映画のスローモーションのように綺麗に見えた時のことを指しているのか、あるいは、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態を指しているのか、どちらでしょうね。
おそらくは、カニカ・サマーディ自身は前者のことを意味していて、深まると後者のヴィパッサナーになるのかな、という気が致します。であれば、次のように解釈できます。
カニカ・サマーディでは強烈な「集中」が必要で状態がまだ不安定ですが、それでも、スローモーションで物事が感じられるくらいの強烈な気付きと集中があります。それはヴィパッサナーと呼ぶというよりもカニカ・サマーディの漢字にあるように「瞬間」のサマーディだとすれば状態を正確に表しているような気が致します。ただ、状態としてはあくまでもサマーディで「集中」が優勢です。ヴィパッサナーの観察する力はその集中に頼り切っているのがカニカ・サマーディだと思います。
その後、集中の努力がそれほどいらないヴィパッサナーに移行するわけです。そのように解釈するのが理に叶っていますし、自分の感覚とも一致するような気が致します。
瞑想中だけのサマーディからある程度は日常生活まで続く断続的なカニカ・サマーディになり、やがては日常生活で集中の努力がそれほど必要ないサマーディになるとヴィパッサナーと呼ばれるのかな、と思います。
同書によりますと、この状態はサマーディの後に訪れる「ウペッカー<捨>」の状態であると言います。
心に入ってくるすべての対象を公平に、等しい距離をもって眺め、無差別平等の精神に貫かれた明確な無関心の状態を保つ。ウペッカー<捨>「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これはいわゆる「七覚支」のうちの1つですが、解釈としてヴィパッサナー的な観点から記載されている点が興味深いです。言っていることは本来は1つの筈ですけど観点が違うと気づきがあります。
この「捨」の境地は、今よりも前、アナハタ優勢になった頃にも「捨」と言えばそう言えるかな、と思えたこともありますが、今のスローモーションのヴィパッサナー状態の方がより「捨」と呼ぶに相応しい気が致します。アナハタ優勢になった頃は完全な「捨」と言うよりもまだ「喜」が混ざっていたような気が致しますし、意識としてスローモーションで感じられるような奥深くまで浸透するかのような意識ではなかったように思います。
七覚支は一つづつの力をそれぞれ個別に伸ばすと言うよりは総合的に少しずつ全体的に伸ばしてゆくものなのかもしれません。であれば、「捨」に関しても以前より進歩したと言えるのかもしれません。
厳密には言葉的に違うことなのかもしれませんが、「捨」をカニカ・サマーディあるいはヴィパッサナーの段階と当てはめてみるとそれなりに一致するような気も致します。
サマーディの強力な集中がサティ(気付き)の精度と速度を矢のように鋭くし、一瞬一瞬の事象に撃ち込まれ、その本質を暴き出していく...。「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これは、以前に長い瞑想をした時に何気ない山の木々の景色が映画のスローモーションのように綺麗に見えた時のことを指しているのか、あるいは、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態を指しているのか、どちらでしょうね。
おそらくは、カニカ・サマーディ自身は前者のことを意味していて、深まると後者のヴィパッサナーになるのかな、という気が致します。であれば、次のように解釈できます。
カニカ・サマーディでは強烈な「集中」が必要で状態がまだ不安定ですが、それでも、スローモーションで物事が感じられるくらいの強烈な気付きと集中があります。それはヴィパッサナーと呼ぶというよりもカニカ・サマーディの漢字にあるように「瞬間」のサマーディだとすれば状態を正確に表しているような気が致します。ただ、状態としてはあくまでもサマーディで「集中」が優勢です。ヴィパッサナーの観察する力はその集中に頼り切っているのがカニカ・サマーディだと思います。
その後、集中の努力がそれほどいらないヴィパッサナーに移行するわけです。そのように解釈するのが理に叶っていますし、自分の感覚とも一致するような気が致します。
瞑想中だけのサマーディからある程度は日常生活まで続く断続的なカニカ・サマーディになり、やがては日常生活で集中の努力がそれほど必要ないサマーディになるとヴィパッサナーと呼ばれるのかな、と思います。
同書によりますと、この状態はサマーディの後に訪れる「ウペッカー<捨>」の状態であると言います。
心に入ってくるすべての対象を公平に、等しい距離をもって眺め、無差別平等の精神に貫かれた明確な無関心の状態を保つ。ウペッカー<捨>「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」
これはいわゆる「七覚支」のうちの1つですが、解釈としてヴィパッサナー的な観点から記載されている点が興味深いです。言っていることは本来は1つの筈ですけど観点が違うと気づきがあります。
この「捨」の境地は、今よりも前、アナハタ優勢になった頃にも「捨」と言えばそう言えるかな、と思えたこともありますが、今のスローモーションのヴィパッサナー状態の方がより「捨」と呼ぶに相応しい気が致します。アナハタ優勢になった頃は完全な「捨」と言うよりもまだ「喜」が混ざっていたような気が致しますし、意識としてスローモーションで感じられるような奥深くまで浸透するかのような意識ではなかったように思います。
七覚支は一つづつの力をそれぞれ個別に伸ばすと言うよりは総合的に少しずつ全体的に伸ばしてゆくものなのかもしれません。であれば、「捨」に関しても以前より進歩したと言えるのかもしれません。
厳密には言葉的に違うことなのかもしれませんが、「捨」をカニカ・サマーディあるいはヴィパッサナーの段階と当てはめてみるとそれなりに一致するような気も致します。
本物のスピリチュアル人はお金に困らない
お金に困らないので、たまにお金に困った状態に興味があって自分で損を出してみて貧乏な状況を意図的に苦しんで楽しむことはありますけど基本的にはお金には困りません。
スピリチュアル人は意図的に貧乏になることで貧乏人を理解しようと思うことはありますけど何も考えなければお金には困りません。
転生の時に本当に全く考えなしに生まれてきた場合はお金に困ることがあります。それは計画が悪かったのであって、自分のスピリチュアルとは関係がありません。
お金がないからスピリチュアル的にも問題が出てくるのであって、逆ではありません。
ただ単に、人生の計画を生まれる前にそれなりにしていなかったから貧乏になるのであって、スピリチュアルに問題があるから貧乏になるわけではありません。貧乏になって苦しむから生活が乱れてスピリチュアルに問題が出てくることがあるだけのことです。
ですから、貧乏の理由をスピリチュアルな原因だと言ってくる人物には要注意です。
高い物を買わせようとして「これを買えばスピリチュアルが高まってお金に困りません」と言ってくる人は偽物の可能性が高いです。
お金はただ単に現実の生きる道具でしかありませんから、人生計画に基づいてお金が入ってくるかどうかが決まるだけです。
最初の転生では考えなしに生まれてお金に困ることもありますけど何度か転生していればある程度は人生の計画を立てますのでお金には困りません。
どちらにせよ、本人のスピリチュアルとお金とは関係がないです。
ただ単に、お金が流れてくる場所に自分がいるかどうかのお話です。
自分の居場所を生まれる前に計画して決めたかどうかはスピリチュアルなお話ですが、生まれた後にスピリチュアルかどうかとお金が入ってくるかどうかはあんまり関係がないです。
本当は十分なのに欲望が高まってお金が不十分だと言っている方も多いような気が致します。であればそれはスピリチュアルが高まって欲望が減れば現状のお金に満足すると言う理屈も成り立ちますけど、高額なスピリチュアルグッズとは関係がありません。
同じお金使うなら高額なスピリチュアルグッズの代わりに普通にいい値段する良い日用品を買った方がいいと思います。
スピリチュアル人は意図的に貧乏になることで貧乏人を理解しようと思うことはありますけど何も考えなければお金には困りません。
転生の時に本当に全く考えなしに生まれてきた場合はお金に困ることがあります。それは計画が悪かったのであって、自分のスピリチュアルとは関係がありません。
お金がないからスピリチュアル的にも問題が出てくるのであって、逆ではありません。
ただ単に、人生の計画を生まれる前にそれなりにしていなかったから貧乏になるのであって、スピリチュアルに問題があるから貧乏になるわけではありません。貧乏になって苦しむから生活が乱れてスピリチュアルに問題が出てくることがあるだけのことです。
ですから、貧乏の理由をスピリチュアルな原因だと言ってくる人物には要注意です。
高い物を買わせようとして「これを買えばスピリチュアルが高まってお金に困りません」と言ってくる人は偽物の可能性が高いです。
お金はただ単に現実の生きる道具でしかありませんから、人生計画に基づいてお金が入ってくるかどうかが決まるだけです。
最初の転生では考えなしに生まれてお金に困ることもありますけど何度か転生していればある程度は人生の計画を立てますのでお金には困りません。
どちらにせよ、本人のスピリチュアルとお金とは関係がないです。
ただ単に、お金が流れてくる場所に自分がいるかどうかのお話です。
自分の居場所を生まれる前に計画して決めたかどうかはスピリチュアルなお話ですが、生まれた後にスピリチュアルかどうかとお金が入ってくるかどうかはあんまり関係がないです。
本当は十分なのに欲望が高まってお金が不十分だと言っている方も多いような気が致します。であればそれはスピリチュアルが高まって欲望が減れば現状のお金に満足すると言う理屈も成り立ちますけど、高額なスピリチュアルグッズとは関係がありません。
同じお金使うなら高額なスピリチュアルグッズの代わりに普通にいい値段する良い日用品を買った方がいいと思います。