サマーディの定義は様々ですが、その一つにヨーガスートラ4章1〜3節があります。
4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
このサマーディの定義は、わかるようでいてわからない、謎の多い言葉でした。又、サムヤマも以前に引用しましたように、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされていますが、これまた謎の多い言葉です。
ですが、最近のオーラ的な見方をサマーディやサムヤマに当てはめてみると意外にスッキリ理解できることに気がつきました。これは私の仮説で、本で読んだものではないのでそのまま信用しないでください。
まず、プラティヤハーラ(制感)から段階的に行きます。
■プラティヤハーラ(制感)
これは感覚を制御して五感を引っ込めること、と説明されています。ヨーガスートラの八支則のうちこのプラティヤハーラ(制感)からいよいよ内面の世界に突入するわけです。
これをオーラ的に見ると、「オーラを安定させる」となります。オーラが安定せずにブワッと発散した状態ですとはみ出たオーラが他人やそこらに浮かんでいるオーラと接触して色々な情報を無作為に拾ってしまいます。オーラを安定させることで外の情報を無意識に拾わないようにします。
■ダーラナ(集中)
オーラ的には、「オーラを一定の形に保つ」ことです。
■ディヤーナ(瞑想)
ダーラナ(集中)が長く安定すればそれはディヤーナ(瞑想)になります。それは「オーラを一定の形に、より長く安定して保つ」ことです。瞑想にも色々ありますが、現実の現象や物・人について瞑想する場合は「対象」がありますので、「オーラを伸ばして、対象と接続する。その状態を保つ」というところまで含まれると思います。
■サマーディ(三昧)
上記のヨーガスートラの定義には「すべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディ」とあります。「すべての形をすてて」ということは、オーラ的に言えば「相手という形を持ったオーラと、自分という形を持ったオーラが、接触することによって混ざり合い、形を失う。オーラが混ざり合うことで『意味』が出現し、意味が写し出される。」と解釈できます。であれば、サマーディとはオーラが接触して相手と混ざり合うことだ、と言えます。
ここでちょっとした疑問が生じます。オーラの接触であれば修行せずとも誰それ構わず普段から生じています。それなのに何故、わざわざサマーディ(三昧)が大事なものとして扱われているのでしょうか? それはおそらく、修行していなければ「それに気付かない」からなのではないかな、という気が致します。一般人がオーラの接触をして雑念が生じてもそれがサマーディで相手の状態だとはわからず、単に雑念として処理してしまうのではないでしょうか。
ある程度の浄化ができていなければオーラが混ざり合ってもオーラの中身を読み解くことができませんので、前提条件として浄化とか集中ができて初めてサマーディで「意味」が浮き出る、とすればすんなり理解できます。
ただ、サマーディの定義は他にも色々あって混乱しますので、今のところはサマーディの全てを網羅しようとはしない方が良さそうです。ここでは、ただ、オーラの接触がサマーディと同じ性質を持つ、というくらいの理解でいいのかなと思います。
■サムヤマ(サンヤマ、綜制)
サムヤマの定義は上に記載しましたようにダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされています。これをオーラ的に読み解くと以下のようになります。
まず前提として
・浄化
・プラティヤハーラ(制感) オーラを安定させる
サムヤマは以下の三つが同時に起こること。
・ダーラナー(集中) オーラを一部に集中させる
・ディヤーナ(瞑想) オーラを一部伸ばして対象に突き刺すことで対象を「想う」。
・サマーディ(三昧) 接触したオーラから「意味」を読み取る。
このように考えますと、それぞれ役目が違うのですから、よく理解できます。元々のヨーガスートラの意味では理解できなかったことが、オーラの理解に基づくと、より深く理解できる気が致します。
繰り返しますけど、どこかの本で読んだわけではないので、あくまでも仮説です。
さて、サムヤマがこのようなものであれば、ヨーガスートラの以下も理解できます。
3-5) (サムヤマによって)知識の光がくる。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」
上記のようなサムヤマであれば、確かに「知識」がやってくることでしょう。
まず大前提として自分のオーラが浄化されており、安定しており、意思の力でオーラを自由に制御できるようになり、更にはオーラの感覚が敏感になることでオーラの内容を読み取ることができるようになる。その時、「サムヤマ」が可能になるのでしょう。であれば、サムヤマによって「知の光」が来る、と言うのもよく理解できます。
そして、ヨーガスートラによれば「まず最初は粗大なものから始め、より微細なものへとサムヤマの対象を段階的に進めるべき」と書いてありますが、これも納得です。わかりやすいものからオーラの読み取りを始め、感覚が鋭くなるにつれて微細なものを読み取れるようになるということなのでしょう。
サムヤマの謎が大分解けてきた感じが致します。仮説ではありますけど。
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