先日 の続きです。心が心臓の音に寄り添う瞑想と同様に、心が息に寄り添う瞑想も可能になりました。
息と一体になるとまではいきませんが、以前は息を観察するにしても、少し離れたところから心(の光の筋)を伸ばして息を観察していたような感じでしたが、今は、心が息に寄り添う感じです。
おそらくは寄り添う対象は何でもいけるのではないかな、とは思いますが、今のところ自分の体より外側のものに寄り添うのはちょっと難しいというか心的ダメージが大きそうですのでやらない方が良さそうな感じです。
■息に意識を集中することで雑念が少ない状態になる
先日書きましたように雑念が半透明な感じで感じられるようになりましたので雑念が瞑想の邪魔をすることも少なくなってきているのですが、心を息に寄り添わせると、雑念がほとんど出ない状態になりました。
・・・ふと、昔のことを思い出しました。
私がヨーガを始めたばかりの頃、ヨーガの先生が「心の実験をしましょう」とか言って、「息を観察しましょう。観察している間は雑念が出ませんよね。周りの音を聞いてみましょう。電車の音などに集中している間は雑念がないです」とか「息を止めましょう。止めている間は雑念がなくなります」とか言っていましたけど、私にはどちらも腑に落ちなかったのです。「息を観察していても雑念は出るし、音を聞いている間も雑念は出るし、息を止めていても雑念は出る。確かに、一瞬はなくなりますけど」と心で思いつつもスルーしていたのですが、これ、「ヨーガをある程度修行すると、そうなる」というお話であって、初心者が実験しても「何のこっちゃ?」というお話なのだな、と今は思います。
息を止めている間ずっと集中が続けば確かに雑念はほとんどなくなりますが、息を止めた状態で集中を途切れさせたら雑念が出てきます。その時の先生は「息と心は相互関係があり、息を止めれば心も止まります」とか言っていましたけど、全く納得できませんでした。関係はありますけれども、息と心は基本的には別物だと思います。ただ単に、心を息に繋ぎ止めておけば雑念が減る、というだけのお話であればわかりますけど、「息を止めれば心(の雑念)が止まる」というお話は、もしかしたらヨーガのグルが目標地点がそこだというお話をして弟子が一般的にそうだと勘違いをしたような気もするのですが、どうでしょうか。
今回、息に意識を寄り添わせることで雑念が少ない状態になったわけですが、この状態を指して「息に意識を寄り添わせつつ呼吸をすると息を止めた時に心の動きも止まる」ということであれば納得ですが、何もしていない初心者が息を止めても息を止めたら集中が途切れて雑念が出てくるだけなのかなと思います。
同様に、周囲の音に集中しても集中している間は雑念が出ないものの初心者は集中が続かなくて雑念が出てくることでしょう。当時の私は「電車の音を聞いていても雑念は出るのだけれども、一体どういうこと?」と思っていました。ヨーガの先生のお話は初心者向けに実験するようなことでもなくて、やがて集中力が高まれば例えば周囲の音に集中を続けることで心を固定して雑念が介入しなくなる、というお話だと思います。
その実験の効果が、今回の変化でよく感じられました。特にアナハタ優勢になって以降は割と同様の感じで息や集中と心の関係が理解できるようになってきましたが、今回の変化で、それが更にきめ細やかにしっかりと感じられるようになったように思います。
これ、日本のヨーガの先生だけでなくインドのリシケシのヨーガの先生も似たようなことを言っていましたので、おそらくは有名な先生あるいは書物がそういうことを言っているのだと思いますが、かなりミスリードな気が致します。ヨーガを練習すればそうなる、というお話をあたかも初心者もそうであるかのように紹介したらヨーガに対する誤解が生じる気が致しますが・・・。少なくとも私も最初は「何かおかしい」と思いましたし。
こういう違和感を感じた時に、盲目的に受け入れないことは重要ですね。世間一般の盲目的な宗教では「そのまま経典や先生のことを受け入れる」というのが行われているように思いますけど、違和感を感じたら一旦保留して自分の理解が生じるまでは先に進まないのが本来の宗教家の在り方だと思います。宗教というとドグマを押し付けるイメージがありますけど、本来の宗教は科学と同様に一歩一歩自分が理解して成長してゆくものだと思いますので。
例えば、私が当時、ヨーガの先生から言われた時に違和感を感じてもそのまま受け入れていたとしたら成長なんてなかったかもしれませんし。よくわからないことは「わからない」として理解を保留することが大切に思います。それが「正しいと思うが、今はわからない」ことなのか、あるいは「何かおかしいと感じるので、わからない」と感じるのかによっても対処方法が違ってくると思います。どちらにせよ、理解を押し付けてくる先生は大した先生でもないので、自分の態度としては「わからない」という態度で良いと思います。
人によっては生まれた時からある程度の悟りがあると思いますので、そのような方がそのままグルになったら初心者の気持ちもわからないのかな、とも思います。私の場合、生まれてきた時はともかくとして、幼稚園と小学校で苦労する環境にいてどん底まで一旦落ちましたので色々と理解できます。というか、そのように色々と底辺まで理解することが今回の人生の計画でしたので、計画通りうまく行った感じです。一旦、どん底まで落ちてみないとそのような人の気持ちはわからないのだと理解できました。ですから、最初からある程度悟っているグルがこのような勘違い・無理解に基づいた指導をしてしまうのも無理はないのかな・・・ とも思います。
ネタ元がどこなのかは想像ですけど、ネタを聞いたグルが「その通り」と思って拡散することはあり得ると思いますので、まあ、当たらずとも遠からずなのかなと思います。
■心という手綱を手放す
心が息に寄り添う瞑想をしている時、いわば息を拠り所にして瞑想をしているわけです。この時は心が安定しているので一見すると心を拠り所にして瞑想をしているような感じにもなってきますが、よく見ると、心が息を捕まえている感じなのです。心の方は割と動きやすいのです。例えるなら「心が手綱」のような感じです。その手綱が、息というものを捉えて離さないことにより心が安定しているのです。
一旦、手綱である心を使って心を息の近くに寄り添わせることで安定した瞑想ができるわけです。心は光の筋のようなものなので、手綱に例えてもそれっぽい感じです。
心が息に寄り添っている時、「自分」から見えているのは「心(手綱)」と「息」だけで、「自分」自身は見えていません。
この状態で、「心」という手綱を「手放す」ことをしても、既に心が息の近くに留まることができて心は安定していますので、心は揺れ動かずに息の近くにい続けることができます。「心」を息に繋ぎ止める努力をやめて「手放す」ことで、非常に安定した瞑想の状態に入ることができました。
■漆黒の空間と「自分」とナーダ音
一方で、「別の視点」から瞑想状態を眺めると、自分の体全体が卵状の「漆黒の空間」に包まれているのを感じます。そして、その漆黒の空間の真ん中に「自分」がぽっかりと浮かんでいます。先日 のネバーエンディングストーリーの例えのように、世界が無になっても自分が何故か存在してぽっかりと浮かんでいる感覚に似ていますけど、今日の場合は卵状の空間だけが漆黒の空間になっているという違いがあります。その、漆黒な空間の真ん中に自分がいます。
そして、卵状の漆黒な空間の外側にナーダ音が聞こえています。このようにナーダ音が聞こえる空間の区別ができたのはこれが初めてですね。漆黒な空間の中にはナーダ音は響いておらず、漆黒な空間の外にだけナーダ音は存在しています。その、区別がはっきりと感じられます。ナーダ音は漆黒の空間の中に入ってきません。
ふと、以前 引用した「アナハタ音(ナーダ音)のないところ」の記述を思い出しました。
(4章101番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」
シャクティとは「力(パワー)」と訳されます。この記述自体は謎めいていて「虚空についての想念」が何なのか読み解くのが難しいですが、以下のように解釈できます。
・卵状の漆黒の空間の外にはシャクティ(パワー)が満ちていて、ナーダ音が響いている。
・卵状の漆黒の空間の中にアートマンはいる、あるいは卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの。
という解釈も一応は成り立つと思いますが、私の場合は卵状の漆黒の空間の真ん中に自分らしきものがぽっかりと浮かんでいる感じがあったりするので、「形相の無いものこそが至上神(アートマン)」というのとはちょっと違うのかもしれませんが。
ここでインスピレーションが入ってきたのですが「卵状の漆黒の空間の真ん中に自分がぽっかりと浮かんでいるのは、状況を分かりやすくするために以前見た物語の挿絵のイメージを送ったのであって、それは理解のためだけのものであり、本来は形などない。実際に卵状の漆黒の空間を見たときに真ん中に何もなかったと思う。」とのことです。
これとハタヨガプラピディカの「アートマンには形相の無い」という記述を踏まえますと、「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」よりも「卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの」という解釈を採用して、以下のように考えると良さそうです。
「卵状の漆黒の空間の中に浮かんでいるのは瞑想している主体である『肉体』としての『自分』であって、アートマンとしては形などない。肉体を包むようにアートマンが卵状の漆黒の空間として広がっており、アートマンは形相がないからこそ漆黒の空間として認識される。そのアートマンとしての卵状の漆黒の空間の周囲にシャクティ(パワー)が広がっていて、周囲でのみナーダ音が響いている。」
まあ、これでもいくつか疑問というか細かな不思議な感覚(違和感というほどでもないもの)が残るのですが、その感覚が何なのかも含めておいおい見極めてしてゆきたいと思います。例えば「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」というのも正しいように感覚的には思います。ヴェーダ的にはアートマンもブラフマンも実は同じだというのが最終理解ですので、視点が違うだけのお話で両方正しいといえば正しそうではありますが。
■卵状の漆黒な空間がアートマンだと判断した理由
そう判断した理由としては上記のヨーガ根本教本の引用文にある、アナーハタ音(ナーダ音)が聞こえないところが至上神(アートマン)だとする記述に基づきます。実際にそんな感じでしたので。
しかし、直感では必ずしもそうだとは判断できませんので微妙なところです。これはまだ仮説です。
ヴェーダ的には人間はいわゆる5つの鞘で囲まれているとも言われていますので、今は至上神(アートマン)の外側を見ているのかもしれません。