テーラワーダ仏教では禅定(サマーディ)を色界禅定と無色界禅定に分けて、色界の第四禅定からヴィパッサナー瞑想(観瞑想)で悟る、としているようです。例えば「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には以下のようにあります。
禅定の達人=心解脱だけでは、通常とは違う特別に心地よい世界を知ってはいますが、それでも悟りとは何の関係もありません。悟りには、真理を理解する智慧が必要なのです。(中略)不還果や阿羅漢果に悟るときに、多くは止瞑想(サマタ瞑想)で色界第四禅定まで進んでから観瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に移行して悟ると先に述べました。(中略)これはおそらく、無色界禅定にまで入ってしまうと心だけのはたらきになってしまい、何らかの対象を観察して無常を悟る観瞑想にはならないので、悟る直前の心の状態や不還果が転生する領域は、阿羅漢果に悟れるように自然に色界の範囲内になっているのだと思われます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
阿羅漢とはいわゆる「悟った人」のことです。テーラワーダ仏教的にはどの禅定も悟りではない、としているようですが、禅定は悟りの助けになる、というスタンスでもあるのようです。
色界第一禅定まででも、心を育て鍛えて集中力が身につくと、観瞑想に移行したとき、すぐにでも悟りが開けるほどの力になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
■チベット仏教の禅定
一方、チベット仏教では色界の第四禅定から悟るという記述は見つからず、無色界禅定を経て悟る、というように読めます。このあたり、「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると輪廻の説明のところに以下のようにあります。
無色の禅定を発展させ知覚の究極まで心を集中したものは第二の所に再生し、第三のクラスは阿羅漢となり、この世界の最後の寂滅(じゃくめつ)に至って再びこの世に戻らないものたちだけのものである。「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」
記述的に、テーラワーダ仏教のように第四禅定でヴィパッサナー瞑想をして悟る、とは読めません。普通に読むと、色界禅定の後に無色界禅定を熟達して悟る、というように読めます。禅定そのものが悟りとは書いていないようですが、割と近い位置付けのように解釈できます。
このあたり、同じ仏教でもテーラワーダ仏教とチベット仏教で禅定の位置付けが異なるようです。
■色界第四禅定
先日の「グラウンディングされた瞑想」で、「卵状の漆黒の空間」が見える前の落ち着いた状態が色界第四禅定なのかなと言う感じが致します。
■無色界禅定の最初「空無辺処定(くうむへんしょじょう)」
この説明は、以下のようになっています。
物質という命綱を頼りにして、でも物質と関係のない無重力の宇宙遊泳をしていた宇宙飛行士が、その物質的制限という命綱を切り離して、ただ、宇宙に漂う漢字です。体が定まらないと困りますので、「漂っているのだ」と「定める」のです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
この説明を読み直した時、先日 の「心が息に寄り添う、グラウンディングされた瞑想」で「卵状の漆黒の空間」が見えている状態がこれに該当することに気が付きました。なるほど、これが無色界の禅定なわけですね・・・。私の場合、「定めた」わけではなくてありのまま見たらそう認識できた、と言うお話ではありますけど。
この時の感覚で言いますと、まだ「卵状の漆黒の空間」という感じで認識されておりますので、いわゆる「境目」が存在しています。
同書によりますと、この次は以下のようなもののようです。
無色界第二の禅定は、識無辺処定(しきむへんしょじょう)という名前です。その領域は、識無辺処です。先の空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。(中略)今度は「識は無辺である」と認識するのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」
これはヒントになります。私が認識したのは「卵状の漆黒の空間」ですから、それはいわば「境目がまだある」ということです。今後、境目のない状態になる、ということでしょうか。 まあ、あまり先を見ても仕方がない気もしますが。 淡々とやるだけです。
■考察
私の感覚的にも、無色界の瞑想はちょっと違う感じがします。 認識される範囲が心とアートマンっぽい空間がメインになります。 先日は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」から始まって「息に寄り添う瞑想」からこの状態に遷移しましたので、これってもしかしたら、ハートチャクラの中に意識が没入した時の瞑想状態のような気もしますが、どうでしょう・・・。周辺が卵状の漆黒の空間として認識されてその周囲にオーラとナーダ音が認識されるということは、自分の意識が頭ではなくハートの中に移動というか没入したと仮定すると説明がつきます。
スピリチュアルな人の中には、ハートチャクラの中に「聖なる空間」があると言っている人たちもいます。聖なる空間は最初の部屋と、さらに小さい部屋の二段階と言っている方もいらっしゃいますので、小さい部屋に入ると周辺の漆黒の空間の境目がなくなって認識されるのかもしれません。
これらを踏まえますと、色界第四禅定と無色界の禅定との違いがなんとなく見えてきた気がいたします。結論を出すのはまだまだこれからですけど。 確かに、色界第四禅定から悟る、と言うのもわからなくはありません。無色界禅定は悟りとはちょっと違う感じが致しますが、違うと言うよりも、目的が違うのかもしれません。いわゆる色界第四禅定から悟った場合は現世を悩みなく生きることができるようになる一方で、無色界の先にこそ広い世界が広がっている気がしますが、どうでしょうか。 無色界の先に謎が色々とありそうです。
無色界は悟りがなくても行けるようですが、悟りがヴィパッサナーの力だとして、無色界はいわゆる心だけの世界だとしたら無色界はアストラルやメンタルの世界であり、悟りのヴィパッサナーなしの無色界=アストラルやメンタルの世界は危険な気も致しますが、どうでしょうか。観察(ヴィパッサナー)ができなくて制御もきかない状態でアストラルやメンタルの世界に突入したらかなり酷いことになりそうです。
一般的に悟りとか言われてますけど、要は観察力(ヴィパッサナー)のことかな、とも思ったりすることもありますが、若干意味が異なるので、またおいおい違いを観察していきます。
まあ、いろいろ仮説も含みますが、今後、このあたりも様子を見ていきます。