「カタカムナの道(関川 二郎 著)」では神智学と比較しつつカタカムナ的な松果体と脳下垂体の解釈をしています。
人間の性行為には、脳下垂体に刺激を与えて受胎の準備を整えさせる性行為(6次元の性)と、松果体に共振作用を与えて眠れる機能を目覚めさせる性行為(12次元の性)とがある。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」
■アジナと低次元の悟り
これを基本として、タントラ・ヨーガの手法とカタカムナの手法を比較しています。
タントラ・ヨーガの修法では(中略)クンダリーニを目覚めさせる刺激を与え、さらには想念を丹田(示数・6)に集中してクンダリーニの上昇を促す手法は明らかに眉間チャクラ(6)の開眼を目指すもので、言うなれば低次元(6次元)の悟りである霊視、霊聴に繋がるものである。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」
ここで言う6と12という数はカタカムナ的な読み時に使う数字のようです。次元数などは比喩として、ここでポイントになるのは、カタカムナ的にはアジナ・チャクラの開眼を低次の悟りとしている点です。
これは興味深い解釈です。
同書では眉間チャクラ(6)の開眼を目指す方法として「(胡座のシッダアサナで)会陰をかかとで刺激」を紹介しており、タントラ・ヨーガの手法として記載されてはありますが、この手法はタントラ・ヨーガだけでなく体操のアサナや瞑想を行うラージャ・ヨーガや仏教などでも広く知られている手法ですので、カタカムナ的に言わせればそれらは全て低い次元の悟りであるアジナ・チャクラを開くためのものだと解釈できます。
■松果体と色情
同書では、アジナ・チャクラの脳下垂体と対応して、サハスララだとは明記がないものの松果体について以下のように記載しています。
松果体の目覚めによって色情の欲求はかえって抑制されるので、それほどの忍耐を必要とすることなく「接して漏らさず」のマイナス・エントロピーの性が自然な形で営まれることになる。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」
同書によれば、男性と女性との接し方によって6次元の脳下垂体を共振させるか12次元の松果体を共振させるかの違いがあるとのことです。
■カタカムナ的な脳下垂体と松果体
同書においては以下のような対応であると解釈できます。
・脳下垂体 アジナ・チャクラに対応
・松果体 (おそらく)サハスララ・チャクラに対応
何がアジナで何がサハスララなのかは流派によって異なりますので、これは同書の解釈、と言いますか、同書にサハスララと明記はしておらず「頭頂チャクラ」として言及されているところから私がこのように解釈しました。
■ヨーガ手法への注意
同書では、ヨーガの手法について以下のように注意をしています。
ヨーガのポーズでは情欲が刺激される方向に働くため(中略)情欲に負けてクンダリーニの下降を招いて恐るべき淫獣と化したり、あるいは苦痛に耐えて目標とする空性大楽の境地を垣間みることで「われついに道を極めたり」と錯覚して慢心に陥る等の弊害が伴うことになる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」
ヨーガの道を誤れば確かにこのようになりますし、この本が書かれたのは遥か昔でしたので昔は今よりももっとこういう人が多かったのかもしれません。今もそれっぽい人がいる感じではありますけど、そんなに目立たない気もします。時代背景を理解すれば理解できますが、現代社会にこんなヨーガ行者はほとんど残っていないと思います。まあ、いるところにはいるのかもしれませんが。
■松果体を共振させるべき
同書の細かいところを読み解くのはなかなか難しいところではありますが、脳下垂体を刺激するのではなく松果体を共振させるべき、と書いてあるように読めます。
脳下垂体と松果体はすぐそこにありますので区別もなかなか難しいところでありますし、何がアジナ・チャクラなのかも以前記載しましたように流派によって色々ですので、アジナがどうのこうのと論じても仕方がありませんが、カタカムナ的に言えば脳下垂体がアジナ・チャクラのようですので、アジナというよりは脳下垂体のこういった性質について興味深いレポートがある、として私は読んでいます。
■松果体と自然な禁欲
流派によってはアジナ・チャクラを目覚めさせれば努力のいらない自然な禁欲(ブランマチャリア、ブラフマチャリア)が達成できると書いてあって、その流派のアジナ・チャクラの定義はよくわかりませんがそれが松果体だと仮定すればこちらの話と繋がってきます。
私はアジナではなくクンダリーニ活性時にマニプラ優勢になった時とアナハタ優勢になった時にそれぞれ大きな禁欲のステップアップがなされました。以前書きましたように、最初のクンダリーニ活性化の時には光の筋が2つ頭まで上がりましたので、その時に松果体も刺激されたのだとすれば筋が通ります。
■色々と見えると修行の妨げになる
仏教などでも、色々見える段階は「魔境」と解釈されていますが、それはおそらく脳下垂体のアジナ・チャクラが動いている段階を魔境と言っているような気も致します。魔境というともっと広い意味だとは思いますが、このようなアジナの魔境も含まれているように思います。
何かが見えたとしても気にせずに修行を続けましょう、というのはヨーガでも仏教でも言われていることだと思います。
■霊界の特殊な修行法
これで思い出したのですが、霊界の特殊なマントを使った修行法を思い出しました。
既にある人生でアジナ・チャクラを開いたもののその先になかなか進めない人が使う修行法です。アストラルの事が見えると様々な存在と絡むことになり、修行が進まなくなるのです。それらに悩まされて精神不安定になることもあります。アストラルの世界は色々と怖い事が多いですので。その問題を解決するために、アジナの動きを遮って霊眼を使えなくするマントを覆って、肉体的に目が見えない人と同じように霊眼が使えない、見えない人として生まれてきてこの三次元世界を生きる事があります。
まあ、一般的にはその人が誰なのか見分けがつかないですけど、霊性が高くて霊視ができてもおかしくはない人が霊視できない、という場合はこのマントを使っている可能性があります。
昔、一時期はかなり流行ったストイックな修行法らしいですけど、最近はあまり使う人がいないですね・・・ と、霊界の修行僧っぽいおじちゃんが嘆いていました(苦笑)
とっても良い修行法らしいです。
ただ、とても怖いですけど。アジナ・チャクラが使えなくなっているのでアストラルの様々な変な存在を避ける事が出来ません。
基本的にはこれは一般社会に住む人ではなくて修行僧とかで生きるつもりの人が使うようですけどね。前にこれを使って転生した人の人生を覗き見た時、その人はお寺で修行していました。お寺で座禅しているそのお兄さんはステージが上がらなくて悩んでいるらしく、グルのおじいさんに「まだ何も見えてこないのか? 見えてくるまで座禅を続けなさい」と言われていて、その人は「わかりました。座禅を続けます」と答えて辛抱強く瞑想をしていましたね。この人は前の人生でアジナ・チャクラは開いたのですがその先になかなか行けないのでこのマントを使って転生して修行することを選んだようです。なかなかのストイックなハードな修行ですよね・・・。本来はこの男の人はマントがなければ霊眼が見えるのですが、それは低次の悟りですので、その先を目指して「見えない人」として生まれてきてこのような扱いを受けているわけです。グルのおじいさんからすれば、「全くこの子は、出来が悪いな」と思っているようですが、実際にはこのように、ストイックな修行のためマントを使って「見えない」状態で生まれてきているわけです。この人は今生ではステージが上がらなくて苦労する人生になっているようですが、それも本人が選んだ修行の道のようです。まあ、こんなマントのこと知っている人はそうそういないとは思いますので修行者の違いを見抜ける訳も無い気がします・・・。
アジナ・チャクラで霊視できたとしても、サハスララで体の外に出て探る方法に比べたら精度は全然落ちますので、アジナ・チャクラが低次の悟りでしかないというのもよくわかりますし、であれば、このマントを使った修行者のような人がこの地上世界で生きていることにも納得できます。
まあ、この種のことは、きっとアジナ・チャクラを開眼してから何回も転生すればその意味がわかるとは思いますが、一度も開眼した事がなければ「なんのこっちゃ?」という感じかもしれませんが。
■2つの生き方
魂のステージを下から上、獣から進化して餓鬼になり阿修羅になり人間になり・・・やがてアジナを開花した場合にアジナが修行の妨げになる場合があります。その時にこのマントが使われたりします。
一方、魂のステージを上から下、高次のスピリットが下降して人間になった場合、最初からサハスララやアジナが開いていることが多いような気がいたします。その場合、人間としての経験をより深めるために一時的にサハスララやアジナを閉じて生きる場合がありますが、そのためにこのマントが使われたりします。サハスララとアジナが両方開いている場合は人生に支障がないのですが、人間的生活を続けるうちにサハスララが機能し辛い状態になるとアジナが優勢になって人生の妨げになる時があります。そのような場合、サハスララを再度活性化させるか、あるいは、このマントのようなものを使って一時的にアジナを使えなくして修行する場合とがあるように思います。
どちらの場合でもアジナが人生の修行の妨げになる、という点では一致しているようです。
地球の場合、やがては高次の意識が優勢な人が増えてゆきますので、アジナなしでの人生を修行するには今くらいの時期が最後かもしれませんね。物質的な生活もそれなりに学ぶ事がありますし、今はアジナなしでの論理的な生き方を学ぶのに適した時期であるように思います。であれば、このようなマントを使うのは今の時期に割と向いているような気も致します。人気はないですけどね。