ハイヤーセルフと瞑想、エネルギーの流れと覚醒 - 瞑想録 2019年9月

2019-09-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ハイヤーセルフのある人とない人

スピリチュアルではハイヤーセルフという言葉がニューエイジの頃からか流行っていましたけど、どうやらハイヤーセルフのある人とない人がいるみたいです。こんなこと言うと「ハイヤーセルフがない人なんていないでしょ!」と言う声が聞こえてきますけど、以下のようなことです。

天使系やある程度の進化をした宇宙人、あるいはレムリア時代からの魂は高い次元に元々住んでいましたので、自己を高い次元と低い次元に分けて低い次元の「自分」をこの地球の三次元に転生させました。この場合、高次の能力はハイヤーセルフに置いてきましたので、記憶としてはサードアイとか予知能力とかリモートビューイングができるはずなのに何故か自分にはその能力がない、おかしいなあ・・・ みたいなことになります。ですから、これはきっと、今の私は低いセルフ(ローアセルフ)で、ハイヤーセルフがいるはずだ! と言うことで瞑想をしたら、やっぱりいました! ハイヤーセルフが見ていてくれたのですね! みたいなお話なのかなと思っています。

これとは別に、類魂(グループソウル)とか守護霊とかをハイヤーセルフのように勘違いしている人がいらっしゃいますけど、まあ、確かに類魂(グループソウル)はハイヤーセルフといえば広義ではハイヤーセルフっぽい感じではありますけど、そのまま類魂(グループソウル)と言った方がありのままの姿で、それをわざわざハイヤーセルフというのはちょっと違うかな、という感じです。

じゃあ、ハイヤーセルフのない人っていうのはどういうことかと言いますと、誤解しないで欲しいのですが、順調に一歩一歩進歩を続けている人が、ハイヤーセルフのいない人です。最初は動物から始まり、やがて人間となって餓鬼の世界、阿修羅の世界を通り抜け、人間としての情を学び、やがては愛を知る・・・ というように一歩一歩歩んで成長を続けている人は、ハイヤーセルフのいない人です。だからと言って不幸なわけではなく、きちんと類魂(グループソウル)や守護霊はいらっしゃいますので、特別に不幸というわけではありません。ただ単に、元々の出所が違う、というだけのお話です。これは誤解を招きやすいのですが、これらは高低の優越ではなく、世界の在りようそのままを示しているだけです。お互い、それぞれの存在がありのままで完璧な世の中なので、一歩一歩進んでいる人が悪いということはもちろんなく、むしろこっちが普通なわけです。天使やある程度の進化をした宇宙人あるいはレムリアの人だって元々は同じ道を辿ってきたわけで、ただ単に、歩んでいる場所が違うというだけです。

そういうわけで、ハイヤーセルフがある人とない人がいる訳ですけど、ハイヤーセルフがない人に対して「ハイヤーセルフと繋がりましょう!」と言っても「何のこっちゃ?」となるわけです(苦笑)更には「ハイヤーセルフどうこう言っているけど、あのスピリチュアルの人たちは地に足が付いていないね!」みたいに言われてしまうわけです。時々はそれも正しかったりするのですが。

基本として、これらの違いを踏まえておけば、ハイヤーセルフのある人とない人に対する接し方やスピリチュアルなお話の仕方も変わってくるというものです。対象となる人たちによって伝え方が異なる、という基本的なお話ですね。

まあ、私は割と好き勝手書いているだけでここでは特にそれほど対象は気にしてはいないですけどね。

ハイヤーセルフがある人は、やがてこの世でロウアーセルフとハイヤーセルフが合一することで元々の能力を引き出すというか取り戻すことができるそうです。 じゃあ、何でわざわざ分けたのか? というと、この3次元世界を理解するためだそうです。最初から上の世界から眺めていては3次元世界を理解できないので、分けることで理解したい、という意思があるようでした。



ハイヤーセルフが頭の上にいる感じ

最近の瞑想では、そんな感じになってきました。

そのうちいつかは一緒になるのかな? という気もしますがまだ分かりません。
頭の上にハイヤーセルフがいる時もあるのですが、いない時の方が多いです。
どうも、求めるとハイヤーセルフが現れるような感じです。

本山博先生の著書に以下のようにありました。

自分の外へ「本当の自分」というかね、そういうものが出て、頭の上にすわっているような感じでみえるといい。なかなかそうはならないけど、そうならなければ駄目なんです。自分が自分の外に出て、それを拝めるようにならないといけない。本当の自分というのは光っているからね。みんな、そんなふうになれるようにがんばってください。「霊的成長と悟り(本山博 著)」

これはそれっぽいですが、私が最近時々見えているのは、この図よりも遥かに大きいです。自分の体の数倍はある感じです。

自分から抜け出たというよりは、上から降りてきた、という感じです。

最初見た時は明るくて黄金に近いものでしたが、はっきりとは見えず。黄金には違いないと直感で分かりましたが、ちょっと影かカーテンに隠れている感じで、明るさ的にはちょっと曇って見えました。次に見た時はもっとその幕が濃くて、影が濃くて見えにくかったです。明かりが暗くて薄黒い影っぽく見える時もありました。これはきっと、私のイルミネーションが強いとよく見えるということなのかな・・・ と解釈しています。

■仙道の「出神(しゅつじん)の術」
仙道では「出神の術」みたいなのがあって一見すると似ていますけど、説明を読むとちょっと違う気もします。ただ、文化や流派の違いなだけで実は一緒なのかもしれません。

出神とは気を練ったすえにできた陽神という分身を、自分の肉体から抜け出させ、あちこち行かせる術である。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」

別にこんな術を目指している訳ではなくて、ただ瞑想していただけです。

特別にこのために気を練ったつもりはなかったのですが、時々いわゆるソー・ハン呼吸瞑想法(ソーハム瞑想法)はしているので、気を練っていたといえば練っていたとも言えるのかもしれないです。

まあ、ハイヤーセルフが現れる時もあれば現れない時もあるので、まだまだ様子見という感じではありますが。

■グルや神様のイメージの瞑想、とも違う
ヨガの流派や禅、あるいは仏教の流派によってはイメージでグルや神様のイメージを頭の上に作って瞑想すると聞いたことがあります。そういうイメージ瞑想もあるのかとは思うのですが、私は別にイメージ瞑想していた訳ではなく、眉間や頭頂を意識する瞑想を続けていたら、ふと頭上に何かを感じて「いる」感覚および大きな存在が見えた気がして、それはきっとハイヤーセルフっぽいな、と判断したのです。ハイヤーセルフと思ったのは勘ですけどね。

そういえば、このイメージが来る前に色々とインスピレーションが湧いていて、先日の記事「ハイヤーセルフのある人とない人」が浮かんできたくらいからこのハイヤーセルフが見え始めたので、実は単なるイメージに過ぎない可能性もあります。あるいは、最初からいたのだけれども気付かなかっただけかもしれないですね。

まあ、見えていたからと言って今のところ何か変化が現れた訳でもないので、とりあえず様子見というくらいです。



私に呼びかける内なる小さな声

思考の声の3分の1くらいの微かな声で「◯◯さん」と下の名前で瞑想中に呼ばれました。
最近の瞑想は思考がほとんどなくて静かな状態が続いていますので、よく聞こえました。

今までも何度も呼びかけてきていた声ですが、今まではここまではっきりとは聞こえませんでした。

比較すると、子供の頃に宇宙人とチャネリングした時のようなはっきりとした明確な思念波ではありません。子供の頃、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいて、その人の一定範囲にまで近づくとチャネリングを盗み聞きというか、思念波が、まるで指向性スピーカーのように一定範囲まで聞こえていましたので、その思念波のチャンネルを真似してみたら同級生の近くにいなくても普通に宇宙人とチャネリングできたことがあるのです。おそらくは宇宙人のテクノロジーとして思念波を簡単にテレパシーできるような機械があって、その機械を使うといとも簡単にテレパシーでチャネリングできるのだと思います。その思念波は通常の自分の思考の1.5倍から2倍ははっきりとした明確な思念波でしたので、きっと誰でも簡単にテレパシーできるテクノロジーが存在しているのではないでしょうか。

比較対象として、以下を挙げます。

  • 自分の思考の強さ・明確さを1とした時に、
  • 宇宙人のテクノロジーによるテレパシーの強さ・明確さを1.5〜2とします。
  • 今回の、私に呼びかける内なる小さな声は0.3くらいです。
これってハイヤーセルフなのか、あるいは、守護霊なのか、類魂(グループソウル)なのか、友人知人や過去妻の声なのか・・・。何でしょうね。なんとなく、過去妻かあるいは過去生で仲のよかった女性の声な感じがしましたが。女性っぽかったです。今生きている親戚のおばさんの声にも似ていましたが、そのおばさんは「◯◯さん」とは私のことを呼ばないので、呼び方でその人ではないとわかります。

声の感じでも誰か判別できそうです。

この、私の名前で呼ぶのってわかりやすくて良いですね。自分で自分のことを下の名前で「◯◯さん」なんて(私は)言わないので、自分の独り言ではないのだと言うのが明らかで、であれば誰かが呼びかけているのだと言うのが明らかになります。

意外によく聞こえるものですね。これからもっと聞こえやすくなるのでしょうか? まだまだ様子見です。



二種類のテレパシー・チャネリング

ガイドからテレパシー・チャネリングが2種類あることを教えてもらいました。

・オーラが接触して情報が伝わる場合。「感覚」と「言葉(雑念、思念)」および「イメージ」のいずれかあるいは複合で伝わる。「インスピレーション」として伝わる。
・思念波をキャッチする場合。思念波を飛ばす場合。主に「言葉(雑念、思念)」で伝わる。「感覚」は少なく、「インスピレーション」的な感覚は薄い。

テレパシーとチャネリングは似通っていますが、ほぼこの2種類に属するとのことでした。思念波の場合はおそらく「イメージ」はほとんどないか、あるいは上級者のみかなと推測します(まだ私は気にしなくていいようです)。

私がガイドから教えてもらうときは大体は前者の「インスピレーション」で、それはオーラ接触によって行われているようです。この記事の内容も同様にこのインスピレーションで教えてもらっています。

今朝の「私に呼びかける内なる小さな声」は後者の思念波のようです。

思念波は、イメージで言うと綱引きの綱を片側からブンっと揺らして振動が逆側に伝わるような感じです。あるいは、ハリーポッターの魔法の杖を振って何かの魔法が飛んでゆく、と言うようなイメージのようです。振動だけが伝わって、相手に受信されます。

例えば、誰かに好意を持たれている時にほんわかと感じたり、あるいは悪意を持たれている時に頭痛がしたりするのはこの思念波のようです。

思念波はオーラによるガードも割と簡単に突き抜けるので、あまり他人に恨まれない方が良いようです。平穏に目立たず生きるのがいいのかもしれません。

■会議のアイデアに自分も相手もない
このテレパシー・チャネリングの仕組みを理解すると、例えば会議で出たアイデアに自分も相手もないということが分かります。オーラが接触した瞬間、混ざり合ったオーラはもはや「自分」とか「相手」とかいう区別がなくなります。その後、そのオーラが自分のところに来たら自分のアイデア、相手のところに行ったら相手のアイデア、ということになりますけど、はっきり全部どちらかということはほとんどなくて、途中で千切れて同じインスピレーションが両者に伝わって、その後、自分の中で混ざり合って理解として定着します。確かに、自分の中で更に考察したら確かにそれは自分のアイデアと言えなくもありませんが、オーラが混ざった時点では自分も相手もないのです。全く会議に参加しない人がいたとしても、オーラが混ざっていたらアイデアをもらったということになるようです。・・・ちょっと理解が難しいですが、必ずしも態度や発言で成果が決まるというわけでもなさそうです。

ですから、例えばベンチャーのCEOが「自分のアイデアだ」として株を独り占めするのは、時と場合によっては他人の労働力を搾取していることになるわけです。本当に自分だけの成果というのも世の中にはあるのかもしれませんが、他人と会議もせず相談もしないベンチャーなんて世の中にあるのでしょうか? 確かに、ベンチャーにはフリーライダーがわらわらと寄ってくるのでそのフリーライダーに与えないというのは重要ですが、成果を与えるべき人に与えないとそれは「奪う」ということになってしまうようです。強大な力を持つというのはその使い方が難しくて負債を作ることもあるのですね。

有名な話として、アップルのスティーブ・ジョブズは上場時に株を他の従業員に分けることを拒み、一方、スティーブ・ウォズニアックは自分の持ち株を従業員に分けてあげたというお話があります。スティーブ・ジョブズはカリスマとして有名で人気がありますが、オーラ的に言えば、必ずしも彼1人の成果ではないように思えるわけです。そういえば夢の中で見たのですが、どうやら彼を恨んでいる人が一定数いて、その恨みが原因で癌になったり早死にしたような印象を受けます。まあ、確証はなくて、そんな気がする、夢の中でそんなのを見た、というだけのファンタジーのお話ですけどね。でもまあ、ある種の真実を語っている気がします。スティーブ・ジョブズはただの夢の中のシンボルで実は誰でも良かったのかもしれず、同様の事態に気をつけましょう、ということかもしれません。



オーラ的に見たサマーディとサムヤマの謎解き

サマーディの定義は様々ですが、その一つにヨーガスートラ4章1〜3節があります。

4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

このサマーディの定義は、わかるようでいてわからない、謎の多い言葉でした。又、サムヤマも以前に引用しましたように、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされていますが、これまた謎の多い言葉です。

ですが、最近のオーラ的な見方をサマーディやサムヤマに当てはめてみると意外にスッキリ理解できることに気がつきました。これは私の仮説で、本で読んだものではないのでそのまま信用しないでください。

まず、プラティヤハーラ(制感)から段階的に行きます。

■プラティヤハーラ(制感)
これは感覚を制御して五感を引っ込めること、と説明されています。ヨーガスートラの八支則のうちこのプラティヤハーラ(制感)からいよいよ内面の世界に突入するわけです。

これをオーラ的に見ると、「オーラを安定させる」となります。オーラが安定せずにブワッと発散した状態ですとはみ出たオーラが他人やそこらに浮かんでいるオーラと接触して色々な情報を無作為に拾ってしまいます。オーラを安定させることで外の情報を無意識に拾わないようにします。

■ダーラナ(集中)
オーラ的には、「オーラを一定の形に保つ」ことです。

■ディヤーナ(瞑想)
ダーラナ(集中)が長く安定すればそれはディヤーナ(瞑想)になります。それは「オーラを一定の形に、より長く安定して保つ」ことです。瞑想にも色々ありますが、現実の現象や物・人について瞑想する場合は「対象」がありますので、「オーラを伸ばして、対象と接続する。その状態を保つ」というところまで含まれると思います。

■サマーディ(三昧)
上記のヨーガスートラの定義には「すべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディ」とあります。「すべての形をすてて」ということは、オーラ的に言えば「相手という形を持ったオーラと、自分という形を持ったオーラが、接触することによって混ざり合い、形を失う。オーラが混ざり合うことで『意味』が出現し、意味が写し出される。」と解釈できます。であれば、サマーディとはオーラが接触して相手と混ざり合うことだ、と言えます。

ここでちょっとした疑問が生じます。オーラの接触であれば修行せずとも誰それ構わず普段から生じています。それなのに何故、わざわざサマーディ(三昧)が大事なものとして扱われているのでしょうか? それはおそらく、修行していなければ「それに気付かない」からなのではないかな、という気が致します。一般人がオーラの接触をして雑念が生じてもそれがサマーディで相手の状態だとはわからず、単に雑念として処理してしまうのではないでしょうか。

ある程度の浄化ができていなければオーラが混ざり合ってもオーラの中身を読み解くことができませんので、前提条件として浄化とか集中ができて初めてサマーディで「意味」が浮き出る、とすればすんなり理解できます。

ただ、サマーディの定義は他にも色々あって混乱しますので、今のところはサマーディの全てを網羅しようとはしない方が良さそうです。ここでは、ただ、オーラの接触がサマーディと同じ性質を持つ、というくらいの理解でいいのかなと思います。

■サムヤマ(サンヤマ、綜制)
サムヤマの定義は上に記載しましたようにダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされています。これをオーラ的に読み解くと以下のようになります。

まず前提として
・浄化
・プラティヤハーラ(制感) オーラを安定させる

サムヤマは以下の三つが同時に起こること。
・ダーラナー(集中) オーラを一部に集中させる
・ディヤーナ(瞑想) オーラを一部伸ばして対象に突き刺すことで対象を「想う」。
・サマーディ(三昧) 接触したオーラから「意味」を読み取る。

このように考えますと、それぞれ役目が違うのですから、よく理解できます。元々のヨーガスートラの意味では理解できなかったことが、オーラの理解に基づくと、より深く理解できる気が致します。

繰り返しますけど、どこかの本で読んだわけではないので、あくまでも仮説です。

さて、サムヤマがこのようなものであれば、ヨーガスートラの以下も理解できます。

3-5) (サムヤマによって)知識の光がくる。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

上記のようなサムヤマであれば、確かに「知識」がやってくることでしょう。

まず大前提として自分のオーラが浄化されており、安定しており、意思の力でオーラを自由に制御できるようになり、更にはオーラの感覚が敏感になることでオーラの内容を読み取ることができるようになる。その時、「サムヤマ」が可能になるのでしょう。であれば、サムヤマによって「知の光」が来る、と言うのもよく理解できます。

そして、ヨーガスートラによれば「まず最初は粗大なものから始め、より微細なものへとサムヤマの対象を段階的に進めるべき」と書いてありますが、これも納得です。わかりやすいものからオーラの読み取りを始め、感覚が鋭くなるにつれて微細なものを読み取れるようになるということなのでしょう。

サムヤマの謎が大分解けてきた感じが致します。仮説ではありますけど。



関連記事: サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)



小さな呼びかけ声を聞くとハートがクリスタルのように輝く

先日から瞑想中に明確に聞こえ出した、私の下の名前で呼ぶ「◯◯さん」と言う声ですが、声が聞こえるとハートが急に澄んできてクリスタルのように輝きだします。まるで、綺麗な聖水でクリスタルを浄化したかのように輝くのです。響きが美しすぎてこの世のものとは思えません。

相手が妖精なのか天使なのか守護霊なのかハイヤーセルフなのかはまだわかりませんけど、こんなに純粋な存在にコンタクトされたのはいつぶりかなと言うくらい久々あるいは今世で最高かもしれないと思うくらいです。今まで気付いていなかっただけでずっといたのかもしれないですけどね。

呼び方からして女性っぽい感じなのでハイヤーセルフではなくて、妖精というよりも、あり得るとしたら天使か守護霊か、あるいは、過去妻か。天使の守護霊かもしれないですけど。声は女性っぽかったので、ハイヤーセルフに性別はないって言いますのでハイヤーセルフはとりあえず除外なのです。

まあ、誰かはわかりませんけど、数日に1回くらいの割合で最近は聞こえています。 例えるなら、確かディズニーの実写版シンデレラのどこかのシーンでシンデレラがアカペラで歌うシーンがあったように思うのですが、その3倍くらい美しい澄んだ声です。

まだまだ様子見です。

今のところ、名前以上の呼びかけはありません。

それにしても、この呼びかけによってハートが刺激されて、一瞬ですがハートの状態が変化したことにより、自分の今の状態がまだまだだと言うことに気付かされました。どうやら私はまだまだ荒いオーラのようです。あの高貴な純粋な声の波動を一瞬でも聞いてハートに感じてしまいましたので、そのわずか一瞬でも私に気付かせるのは十分でした。今までヨガとか瞑想をしてそれなりに浄化してきたつもりでしたが、まだまだまだまだこれから先は長い、と言うことを実感してしまいました。

あの声の感覚を言葉で言い表すのならば、「神気」(他のを知らないので比べた訳でもないですが・・・)とでも言うのかもしれません。

私がここから本格的に自分のオーラをこの方向に向かって変えていくのならば都会に住んでいたら難しいかもしれないですね・・・。

今まで、最強のパワースポットは自分の部屋の瞑想場所だと思っていて、それは都会でも可能だと思っていましたが、今回のことでちょっと揺れてます。暮らすのはもうちょっと人口密度の低い田舎の方がいいのかもしれないな、と。 そんなに急ぐ話でもありませんけど。



パワースポットは本来、祈りや瞑想の場であってオーラのゴミ捨て場ではない

割と言われていることな気もしますけど、そういうことだと思います。

最近のパワースポットブームで呑気にパワースポット巡りをする方も多くいらっしゃいますが、例えばセドナとかですね。そういうパワースポットは本来、祈ったり瞑想する場所な訳です。

ですが、気楽に普通の旅行と同じに考えて、「汚れを捨てに行く人」あるいは「お願いをしに行く人」が増えると、パワースポットに低級な念と言いますか低級なオーラが溜まって淀んで行きます。

パワースポットには強力な力があって浄化の作用がありますが、それは地理的・磁気的なものであるのが基本で、それに加えて人の祈りが作り出した磁場もあったりしますけど、パワースポットの使い方の基本は、普段から瞑想や祈りをしている人がパワースポットに行って瞑想や祈りの力を高める、というのがいいように思います。

まあ、全てはバランスで、地理的な磁場が強力だったり瞑想や祈りをしている人が割合として多ければ問題ないのかなと思います。ですが、人気が出てくることによって瞑想も祈りもしない人がパワースポットに詰めかけると場所が淀んで行くのかなという気が致します。アメリカのように自然が豊かで人も少なければ問題もさほどなさそうですが日本は人が多いですからね。

まあ、これは割とよく聞く話ですね。巷の有名なパワースポットはかなりの確率で淀んでいると思います。パワースポットに行ったら逆に穢れて帰ってくることも多々ありそうです。

そんな、そんじょそこらの淀んだパワースポットよりも自宅の瞑想場所で毎日瞑想や祈りをした方がよっぽど良いパワースポットが作れる気が致します。長い時間を過ごす自宅の場の雰囲気を整えるのは重要ですしね。

まあ、そうは言いましても、地理的なパワースポットは魅力的ですので、自宅の場所をどうしようか最近私はちょっと揺れている感じではありますけど。



瞑想中、心が光の帯として感じられる

それはまるで、光の帯が「舌」のように頭の中心から伸びている感覚です。

瞑想で心を落ち着かせている時は、その光の帯が頭の中心に収まっています。
一方、心が体の各所を探っている時は、その光の帯が伸びていってその場所を光の帯の先で探るのです。

まあ、光と言っても、ぼんやりとそんな感じがする、という程度ではありますが。

頭の各所を探る時はよくわかります。
体を探る時は、一筋の線が細く伸びている感じです。先っぽが感覚が強いですね。

今まで、体の感覚を探る時は先っぽだけの感覚でしたけど、光の筋が伸びている感覚が最近してきました。

そういえば、昔も度々そんな気がしたこともあったのですが、最近少しずつその感覚がはっきりしてきた感じです。

■ゴーピ・クリシュナの体験
そういえば、似たような体験が書いてある書籍のことを思い出しました。

私を当惑させたものは、私の身体組織の機能にたえず働きかける光の触手である。脊髄やその他の神経を伝わって、その触手が心臓とか肝臓とか胃などにのびてゆき、奇妙な仕方でそれらを統制していた。(中略)複雑な神経組織を完全に熟知し、身体のゆがみやねじれがあると、どんなところまでもさっと動いていく触手のみごとさに、幾度となく驚かされた。「クンダリニー(ゴーピ・クリシュナ 著)」

私はここまではっきりとした感覚はありませんが、割と似た内容であるように思われます。



夢で見たグループソウルの占い師たち

私のグループソウルには占い師が大勢いて、かなり昔の人生も一応記憶しています。

・・・・まあ、一般的にはこれは夢ということにしておきましょう。夢で見た内容をいくつか書いてみたいと思います。

■スペインの南東部の港町の女占い師
当時の地名までは覚えていないのですが、場所的にはムルシア(Murcia)かもう少し南寄りだったか、そのあたりだったと思います。小さな占い店をして生計を立てており、魔女につきものの「水晶球」で占っていました。おそらく中世の、15世紀前後のような気がいたします。大航海時代の初期のイメージです。

当時の水晶球は天然のものがそれなりの安い価格で出回っており、最初に使ったのは直径15cmくらいの天然の水晶球で、次に手に入れたグレードの高い水晶球は直径20~25cmくらいあったように思います。天然ものですので少しクラックが入っていましたが良い水晶球でした。

水晶球をギュッと覗き込んで透視をするのです。
水晶のかけらにわずかに反射した画像を読み取って占いをしていました。

占いをするときは、相談者に占いたい内容を強くイメージしてもらい、そのイメージを鍵にして内容を辿っていきます。

例えば、次のようなものを占いました。

・使いたいバッグが行方不明になったので、どこにあるのか探して欲しい。→ 家の裏にある蔵を開け、扉から一歩進んだところから左手を伸ばし、肩より少し上の高さに、他のもので隠れるようにして置いてある。→ これは晩年なのでかなりの確度で当てています。かなり自信があるので、間違っていたら次の鑑定は半額で良い、とまで提案しています。もちろん正解。相談者が扉を開けて発見するところまでリモートビューしていたようです。
・親戚の結婚について、将来を見て欲しい。→ 良くもなく悪くもなく、60%の相性。お互いに色々と不満はあるけれども、お互いにそれなりに尊重しあって生活するでしょう、という鑑定結果。これも水晶球を使いますが、リモートビューの応用で未来の姿も垣間見ることができたようです。実際の結婚式の状況や、家庭内での口喧嘩などをいくつか観察して、その結果として60%と出したようでした。

この水晶球は今ではかなりの値段がつくと思います。どこに行ってしまったのかはわかりません。

■透視の限界を感じた占い師
先日 書いたのと同じ人生ですが、この時、透視の限界を感じました。

この時できた透視は以下の二つです。

・リモートビュー的な過去と未来の透視(上の水晶球の透視と種類は同じ)
・幽体離脱して詳しく状況を確認する透視

その人の過去と未来を見ることができて、それはまあ、当たるのですが、この人生で感じたのは「当たるからと言って、その人の人生が良くなるわけでもない」という理解でした。前者のリモートビューだけでも確度はかなり高くて当たりますし、後者の方法ですともっと詳細に「近づいて」観察できますので、より具体的な理解になります。

前者だけでも割と十分ですが、後者を組み合わせることで確度的にはかなりのものになったのですが、カウンセリングという観点からすると、当たるということ自体はさほど重要ではない・・・ という理解に落ち着きました。

むしろ、当たるかどうかなんて関係なくて、本人の理解と生き方があれば、リモートビューで教えてあげるなんて人生の邪魔なだけでは・・・ という理解に達します。

占いに来る人は過去を言い当てられてはしゃいだりびっくりしたり・・・ それだけです。本気で人生を変えようという気がある人は占いなんて来ないようです。こちらはリモートビューして過去や未来のタイムラインを教えてあげたとしても、それが相談者の役に立っていないのでは、というのがこの人生での学びでした。

実際、今も思うのが、過去が見れても関係なく、未来が見れても関係なく、それよりも、もっと大切なものがあって、大切なものとは人生観とか本当の世界の姿とか心や本当の自己(アートマン)についての理解とか、そのあたりこそが重要なのであって、過去や未来を見てチートしてもさほど人間性の成長には役立たないのでは・・・ と思います。

実際のところ、自分がリモートビューの練習をしたりするのは自分の成長のためにはなりますけど、それはリモートビュー自身にさほど重要性はなくて、過程が重要なのだと思います。リモートビューで相談者の何かを当てても、それは、それほどの意味を持たないということです。

であれば、大切なのはそんな能力に惑わされずに、瞑想するなり祈るなりスピリチュアルな勉強をするなりした方が良いと思うわけです。それが、グループソウルの過去の人生を思い出したことによるレッスンです。

■グループソウルと転生について
グループソウルというのはお互いに人生を共有しているわけですけれども、死んだらそのままの魂が再度体に宿って転生する場合、すなわちその転生ではグループソウルとの合流がない場合と、グループソウルに一旦合流してから再度グループソウルから魂が分離して転生する場合とがありますので、私の一部といえばそうなのですがほんの一部のお話なのです。

私の今回の人生では能力は邪魔と判断されたようですので、少なくとも現時点までは能力とかは出てきていません。今のところ予定通りなわけです。

それに、能力があると危険ですしね。私のグループソウルの1人はナチスに誘拐されて投獄され、拷問を受けながら戦局をリモートビューさせられていたようでしたし。 拷問も酷くて、逃げられないように頭に輪っかのようなものをかぶせて、輪っかと頭蓋骨をネジで何箇所もとめて鎖で繋がれました。寝る時に寝返りをうって頭を刺激すると痛くて飛び起きるほどの激痛があったようです。ほんと、人間って信じられないくらい残酷なことができるので、恐ろしいです。

今も、なまじ能力がある人は危険だと思います。世の中で有名になる能力者はそれほどでもないですけど、隠れている人の中には相当の能力者がいると思います。

自分の能力で見るよりも、天使などにお願いして必要なことだけ聞く方が安全と言えます。天使とチャネリングできるチャネラーが拷問を受けてチャネリングを強要されて何かの情報を引き出そうとしても天使はチャネラーを見捨てるでしょうし。そのあたり、天使はめちゃくちゃクールです。本人の能力ですと拷問に屈するかもしれませんが、能力を持たずに転生して、必要な時だけチャネリングした方が安全と言えます。 今の世の中、案外、まだ色々と危険なことがありますからね。

この時の魂は今はグループソウルで分散されて、分霊がその時の拷問の苦痛をそれぞれ、いわゆるインナーチャイルドのように記憶を保持して癒しています。拷問されたことにより人間に極端な恨みを持つようになったらきっと復讐していたのだと思いますが、今はそんなことはなく、落ち着いているようです。能力者の恨みと復讐は、国の運命をも左右するくらいしつこく強力に復讐するでしょうし、リモートでやりますので出所が不明で解決が困難になったまま国が滅亡したり指導者が不慮の死を遂げることになりますので、能力者を拷問するなどして恨みを買わない方がいいと思いますけどね。スターウォーズのダース・ベイダーじゃないですけど、能力者ならリモートで心臓止めたり喉を潰して息ができないようにして不慮の死にすることもできますし、転生する時に赤ちゃんの中に入った魂を無理やり引き剥がして貧困スラム家庭の赤ちゃんの中に押し込む、みたいな仕返しもされたりするので、特に能力者の恨みは買わない方がいいと思います。そんな数十年や数百年先まで覚えているのか、とでも思うかもしれないですけど、能力者ならすぐにその場で来世まで時代を超えてそういう操作しますから、能力者がすぐに忘れる前に既に仕返しは完了していたりするわけです。

まあ、能力者に限らず、恨みは買わない方がいいと思いますよ。

こうして後でコテンパンに仕返しされることも知らずにノコノコと能力者を拷問したりする無知な輩がいるので、それでもやはり、能力者は表に出ない方がいいと思います。もっといいのは、能力を持たずに生まれて、能力は守護霊やハイヤーセルフにお任せした方がいいですね。特にこんな危険な世の中ですと。

まあ、例外として、能力者の集団が徒党を組んで悪さしている場合は防御もしていますのでそういう集団のメンバーには簡単に仕返しはできないこともありますけど、その時は、泥試合になります。お互いにかなり酷いことになります。ハリーポッターが可愛いくらいだと思います。最近はあまりそういうのは聞きませんけど、中世くらいですと色々と噂を聞いたように思います。

・・・まあ、夢ですけどね。

■全ては完璧
人って、物事の良し悪しをすぐに決めたがりますけど、全ては完璧なのだと思っています。成功しても完璧だし失敗しても完璧。人間の勝手な判断で物事の良し悪しは決まりませんし、全ては完璧なのです。占いで成功の選択肢を探し出すのもあまり意味はなくて、成功と思える結果であっても、もともと成功失敗に関係なくそれは完璧ですし、失敗してもそれは完璧なのです。

ですから、私のグループソウルの占い師が言うには、「占いで何が良いのか聞く相談者に興味を持てなくなった」とのことでした。当たるか当たらないかと言う確率の話を超越した後は、そう言う認識になったようです。当たるのは当然で、当たったからと言って何なのだろう、と。むしろ、当たりすぎるとストレートに伝えて相手の感情を損ねる時も多くあったようです。相談者が何かに悩んで何を選択したとしても、どちらでも完璧なのだから、好きにすればいいのです。強いて言えば、「後悔しない選択」をすべき、というくらいですね。あとは、基本的に何をしても良いわけです。まあ、究極的にはその後悔があったとしてもその後悔も完璧の一部ではあるのですけれど、人が選択肢を選ぶ時は後悔しない方を選ぶのが良いと思うわけです。多少の判断基準がなければ訳分からなくなりますからね。判断基準が「幸せ」でも良いです。占いで「幸せになれるのはどちらですか?」という聞き方をする人がいますけど、後悔しなければどちらでも良いんじゃないかな? と思います。短期的な幸せと長期的な幸せとがありますからね。学ぶことができて後悔しない選択肢をしておけば良いのではないでしょうか。そうなると、占い師なんていらなくなっちゃいそうですけどね。

カウンセリングやコンサルティングの基本としては、カウンセラーの言葉やコンサルの言葉は「確かめ」に使うと良いと思う訳です。あくまでも判断基準は自分ですが、自分で気付いていない部分を指摘してもらったりするには誰かに見てもらう方が満遍なく全体を把握することができてよいわけです。判断を他人に委ねない、というのが大前提なわけです。占いを突き詰めてそこまでいくともはや占い師というよりコンサルになってしまいそうですし、単価もぜんぜん違ってきそうですが。



光が胸から湧き出てくる感覚とムーラダーラの活性化

■ハイヤーセルフに「見られている」感覚
早朝の瞑想を終えて食事を済ませた後、ハイヤーセルフに「見られている」感覚が10秒ほど続きました。その感覚がある間は、私の顕在意識とハイヤーセルフの意識がその間だけ一緒になり、ハイヤーセルフの意識が私の中に流れ込んできます。

これは、度々起こってきたことで、「あ、また来た」と言う感じでした。

時間的に短かったのであまり読み取れませんでしたが、そろそろ何かある、と言う感じは受けました。タイミングを見計らっているような感じでした。

■光が胸から湧き出てくる感覚
その後、9時頃に瞑想していると胸がまるで、泉の底から透明な水が湧き出てくるような感覚になってきて、何度か波を感じる度に閉じている目の下の方が明るく満たされた感覚がありました。

湧き出てくる感覚は、視覚的には「光」ですが、光が出ようとしているのに何かに邪魔されて出てこれなくて、少しずつ出てきている感覚でした。

ちょっと他に例えが見つからないのですが、吐き気がして吐きそうになる感覚とちょっと似ているのですが、吐き気の場合は悪いものを出すために吐くわけですけれども、今回の場合は、出てこようとしているのは光で、光が中から押し出そうとしていて、途中に何か淀みあるいは蓋のようなものがあって、それが吐く感覚のようなものとして認識されていました。基本的には光ではあるのですが、その光の性質に、何かドロドロとした吐き気のあるものが含まれている感じがしました。

そうして光が溢れてきて、やがて、意識が朦朧としてきて、横になりたくなったので瞑想の胡座の状態を終えて、リクライニングチェアに横たわりました。

■ムーラダーラの活性化
リクライニングチェアに横たわったら、更に意識が朦朧としてきて、半覚醒の状態で軽い眠りの状態になりました。体全体が朦朧としたオーラに包まれて、意識がはっきりとしません。そのまま横になって様子を見ていましたが、やがて眠ってしまいました。

しばらくして、約1時間くらい経ったでしょうか。外に台風の強い雨が降り始めたことにより音に気が付いて起きました。その時、意識が回復しつつありましたが、夢で、何か本を読んでいました。そこに人名が二つくらい出ていましたが、すぐに忘れてしまいました。

まだ体が朦朧としたオーラに包まれており、ふと気がつくと、お尻の割れ目の少し右のお肉の部分の血液がドクドクと脈打って、そのお尻の脈打ちの鼓動の音がはっきりと聞こえてくるくらいでした。気が付いた時には既に右側が脈打っており、少しした後、左側もちょっとだけ波打って、最後に会陰に電気ショックのようなものが走りました。この時の会陰の感覚は、ピリッときたというか静電気でビリビリくる感覚。片側(上だったか下だったか)から始まって会陰全体が静電気を帯びた後、全体均一に静電気が消えてゆきました。

この時、お尻だけでなく背骨全体、特に腰とうなじ付近が血液の鼓動でドクドクと脈打っていて、いわゆるスシュムナに沿って活性化していることを感じました。

やがて、体全体を包んでいた朦朧としたオーラが抜けてきて、意識が戻ってきました。血液の脈動も治ってゆきました。

この血液の感覚は何度かあって、最初のクンダリーニ活性化の時は腰の後ろの少し下寄りのところの血液が脈打って、次にアナハタ優勢になる時にうなじ下のあたりが同様に血液が脈打ちましたので、感覚的に同じような感じでした。ただ、私が寝ていて気付かなかっただけなのかもしれませんけど、時間的にはそれら過去の2回に比べると短かったような感じです。

おそらくはこれはムーラダーラなのかな、と判断しました。今回は直感でそう言われたわけではありませんが、場所的にそういうことかなと判断しております。既にムーラダーラは活性化されていたと思っていましたが、どうやらそうでもなかったようです。

どうやら私の場合、最初のクンダリーニ活性化でスワディスタナが活性化し、やがてマニプラが活性化し、次にアナハタ優勢になったようです。

クンダリーニってムーラダーラに眠っていると世間では言われているのでムーラダーラが活性化したのかと思っておりましたが、どうもそうでもなかったようです。一説によりますと、以前にブラフマ・グランティについて考察しましたように、古代においてはクンダリーニはスワディスタナに眠っていた、という記述もありますし、クンダリーニが背骨の一番下の尾骨あたりに眠っているとするとそれは今のスワディスタナに眠っている、というのが解釈として一番しっくりきます。であれば、最初のクンダリーニでスワディスタナが活性化したと解釈するのが良さそうです。

ですので、私の場合はスワディスタナ→マニプラ→アナハタとヴィシュッダ(少し)→ムーラダーラ、という順番で活性化してきているのかもしれません。

そう言えば、先日の「癒しフェア」のカウンセリング でチャクラを見てもらいましたところ、ムーラダーラとアジナとサハスララがまだ活性化していない、と言われましたので、アジナとサハスララはそうかなと思っておりましたので納得したのですがムーラダーラはどういうことでしょう??? と思っていましたが、今回のことでそれが腑に落ちました。

次はアジナかな、と思っておりましたが、その前にムーラダーラが来たのは意外でした。

■ムーラダーラは「地」、「におい」
ムーラダーラが活性化した後、匂いに敏感になって、部屋の不快な泥のような感覚が気になるようになりました。本山博はこれに関連した以下のように述べられています。

古来からのヨーガ経典によると、ムーラダーラは地の原理に属するといわれています。この地の原理の属性は「におい」です。したがって、ムーラダーラ、地、におい、においの器官である鼻は、たがいに関係しているのです。「密教ヨーガ(本山博著)」

いやはや、今朝までは部屋の匂いなんて気になりませんでしたのに、今はどうも部屋の匂いが気になってしまいます。もともと部屋にはお香を焚いたりアロマオイルを匂わせたりはしていたのですがずっとしているわけでもありませんので、これから消費量が増えそうです。

まあ、気になるのは今だけで、そのうち慣れるのかもしれませんけど。
変な匂いに今まで以上に敏感になってしまい、自分の部屋の匂いでちょっと気分が悪くなりかけています。これはまずいです。アロマでも焚きます。とりあえずルームスプレーでなんとかしますかね。

今までもいい匂いが好きではありましたけど、生理的にここまで変わってしまうとは思いませんでした。

■味
匂いだけでなく、何か味のようなものも感じます。あまりいい味ではないです。粘土か泥、それもちょっと腐っているヘドロを舐めたか嗅いだような感覚です。それほどきつくはなくて軽く臭って味覚を感じるだけなのが救いです。これって、都会の臭気を感じているということなのか、あるいは、部屋の問題か、あるいは、立地の問題でしょうか。確かに幹線道路から数百メートルの場所ですし都会の中ですし、1階は特に夏はちょっとジメジメしていて臭気がする時もありますけど私の住んでいるのは3階なので今までそれほど気にはならなかったのですが、今回のことで感覚が鋭くなってきたのかもしれません。場所を変えて感覚を観察しつつ、何が問題なのかぼちぼち探っていくつもりです。

■足の感覚が鋭くなった
意識が回復した後にリクライニングチェアから立ち上がって歩いてみると、気持ち、足の感覚が鋭くなっているような感じを受けました。気のせいかもしれませんけど、ちょっとした違いがあります。瞑想とかで足を組むと足の皮膚とか爪とかが敏感になって感じられて、ちょっと気になる感じです。慣れの問題ですぐに問題なくなると良いのですが。普段の生活で以前は足はほぼ無意識で動かしていたのですが、細かな感覚がより感じられるようになりました。ちょっと動くだけでも足の細かな動きの感覚がわかります。

他の人はもともとこんな感じで、私が感じていなかっただけなのでしょうかね・・・??? 肉体労働者とかはムーラダーラがすごく活性化しているような気もします。

■手の感覚
足だけでなく、手の感覚も少し敏感になったような気もします。手の方は足ほどの違いはありませんけど、基本的な感覚で何かちょっと変化したような気がします。体全体の気付きの力の上昇とでも言うのでしょうか。

■頭の感覚
頭の中の感覚を見ると、いわゆるオーラが揺れずに安定するようになったような気が致します。今までは、思考というかオーラが揺れると逆方向に振り子のように戻るのが割と普通でしたが、オーラが揺れるというか少し動いたら、逆方向に振り子のように戻らずにそのままの場所で活動停止というかオーラが定着する、というような違いがあります。オーラがブワッと薄く発散していたものがヨーガをするにつれて少しずつ粘りっけというかしっかりしたものに変わりつつあって、今回のムーラダーラ活性化によって更に(オーラの?)定着力が上昇したような気が致します。このことをグラウンディングというのであればネーミングセンス的に「なるほどね」という感じも致します。すごく良い名前で、実態を表しています。

オーラが揺れ動かないので、思考も揺れにくくなってきました。これもいわゆるグラウンディング効果の一つですね。これによって、瞑想も更に安定するようになりました。

■ムーラダーラとアジナは直結している
本山博先生がスワミ・サッチャナンダの言説を「密教ヨーガ(本山博著)」で引用されているのですが、そこには以下のようにあります。

アジナチャクラは、ムーラダーラチャクラと直結していて、一方で生じたどんな変化も、必ず他方に生ずるといわれます。「密教ヨーガ(本山博著)」

ムーラダーラはアジナと直結しているのは、きっとそうかな、という感じがします。というのは、ムーラダーラの今回の経験の後、後頭部のあたりの感覚がよりはっきりしてきたからです。だからと言ってすぐにアジナで何かがあるわけでもありませんけど、まあ、一つづつ越えていけばいいのかなという感じです。

■胸から出てきた光に淀んだものが含まれていのは、きっとムーラダーラだから
ハートからの光と淀んだ泥は別物として認識されていましたけど、出てくるところはハートあたりで一緒でした。泥はムーラダーラに関係していると感覚的にそう思いましたけれども、出てきたところはハート(アナハタ)でした。不思議です。

時系列から言ってもこの胸からの光と淀んだ泥が出てきたのとその後のお尻あたりの血液の脈動とが数時間以内に続けて起こったことですので、関係があると推測できます。まず最初に光と淀んだ泥が出てきて、その後、お尻あたりの血液の脈動が起きました。

現象的には胸のハートのアナハタチャクラとムーラダーラのことは一見別物ですけれども、アナハタは全てのチャクラを司る、いわゆる「統合されたチャクラ」として全てのチャクラを飲み込むと一部では言われていますので、今日の主な活性化ポイントがムーラダーラだとしてもそれに反応してアナハタがそんな感じで呼応するのは、あり得るのかなと思っております。まあ、なんとなく、のお話ですけどね。仮説です。あるいは、頭からみてハートとムーラダーラが重なって知覚された、という可能性もありますけど。あるいは、ムーラダーラからハートに登って知覚された、とか。

■ムーラダーラとカルマ
ムーラダーラには過去全ての人生のカルマが眠っていると言います。本山博先生は以下のように言います。

ムーラダーラの内に眠っているクンダリニー、すなわち個人のなかのムーラプラクリティ(自然の根源力)がヨーガの行によって目覚めると、ちょうど地震によって、地下から多くのものが地表にあらわれでてくるように、人間存在の無意識の領域から、それについては人間意識は何も知らない無数のものが爆発的にどっと現われでてきます。その中には、ムーラダーラの無意識の海の中に、種子の状態で貯えられている何生もの前世のカルマ(因縁)も含まれています。これらの前世のカルマを、私たちはふつうコントロールすることができません。それで、このカルマのコントロールが可能となるアジナチャクラを、まず目覚めさせることが肝要になるわけです。「密教ヨーガ(本山博著)」

確かに、私の場合はアジナは動いていないものの少なくともアナハタ優勢になってからムーラダーラが動き出したのでよかったものの、いきなりムーラダーラが動き出したらこれに飲み込まれてしまっても不思議はないような気が致します。

であれば、下手にヨーガを修行して人生を狂わせる場合があるのもよく理解できます。

■硬い感覚
このムーラダーラ活性化の翌日から、急に以下2箇所に「硬い感覚」が現れました。

・眉間 → 集中しなくても何かがある感じです。
・ハート(アナハタ)とおへそ(マニプラ)の中間点 → 時々、筋肉が痙攣します。

片方だけなら普通の病気かもしれないと疑うところですが、ムーラダーラの翌日から2箇所同時に変化したので病気ではなくてヨーガ関係の何かのように思います。あまり聞いたことありませんけど。

何でしょうね。

続き: ムーラダーラ活性化による瞑想の変化


■時系列
以前に書いたものに追記しておきます。

  • 2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。
  • 2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分
  • 2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分
  • 2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。
  • 2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後
  • 2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。
  • 2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブランマチャリア(禁欲、ブラフマチャリア)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。
  • 2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)
  • 2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。


ムーラダーラ活性化による瞑想の変化

先日 ムーラダーラが活性化したことによりグラウンディング力が若干向上し、瞑想が安定するようになりました。

その状態で、何が変化したのかと思って心で変化した場所を探そうとしても、見つかりませんでした。
心は、いわゆる光の筋が伸びているわけですが、その光の筋で頭の中を探っても見つからないのです。

今までは、「喜び」とか何らかの形で変化が感じられたわけですが、どうも、変化が見つかりません。

たしかに瞑想はこのような「心」の動きを停止して落ち着くのが基本ではあるのですが、今回のような大きな変化があった際にはその心を止めずに変化を見極めるための道具として用いてきたわけです。ですが、今回は、わざわざ心を意図的に動かして変化を探っても、その変化が見つかりません。

・・・すると、ふと、心に対して「もう休んでいいのですよ」というかすかな気持ちが湧き出ました。

心で感じられる変化は、もうほとんど残っていないのかもしれません。

いつも、変化が起こるたびに「感覚」で何が変化したのか見極めようとしていたのですが、見極めるための道具としての「心」は、もしかしたら、もはや機能しなくなってきているのかもしれません。

であれば・・・、「心」は一休みしてもらうことにしました。そうするのがいい気がしました。

「心」には一休みしてもらうことにして、瞑想を続けました。


・・・すると、やがて、ぽっかりと、真っ暗な「無」の中に「わたし」が浮かび上がってきました。

無の中にいる「わたし」は一応は人間の形をしているのですが、視点としては第三者として外から見下ろしているような格好です。

やがて、微かな光を感じました。


・・・ふと、確かネバーエンディングストーリーでしたか、そのラストシーンに似ている気がして、もしかしてここから何かが浮かんでくるのかな・・・ という気もしましたが、ちょっとの光を感じただけでとりあえず今日の瞑想は終了。映画ですと明るいエンティングで雰囲気が違うのですが、書籍版ですと、世界が全てなくなってしまった「暗闇の無」にぽっかりと浮かんだ自分がいて、自分の想像力によって世界が新たに生まれる、というような内容だったように思うのですが。記憶違いですかね・・・。私が記憶しているのはオリジナルじゃなくてパクリ版の方っぽい感じですが、たぶん基本は同一だと思うのですが。

また様子を見ます。


■心が心臓の音に寄り添う瞑想
同日の夜の瞑想で、こんな感じになりました。

もともとアナハタ優勢になって以降は雑念が劇的に減って安らかな瞑想に入れるようになっていたのですが、ここにきて、また一段階、安らぎ・・・ という言葉で表すのは陳腐な気がするくらいの、言葉では「安らぎ」としか言いようがない「平ら」な瞑想になってきています。

先日のムーラダーラ活性化によって、アナハタ優勢になった時と同様に血液の脈動が活性化して瞑想中に心臓の鼓動がはっきり聞こえるようになったのですが、その音に心が寄り添って、意識が心臓の鼓動の音を安らかに聞き続けることで雑念がほとんど浮かんでこない瞑想になっています。

実際には、もともと昔からずっと聞こえているナーダ音も聞こえてはいるのですが、そのナーダ音と心臓の鼓動とが同じくらいの音量で聞こえています。ですが、ナーダ音は聞き慣れている(苦笑)とでも言いますか、あまりナーダ音のことは意識に入らないようになってきており、たまにこのような心臓の音が聞こえる状態になると心が心臓の音に寄り添うような感じになっています。

アナハタ優勢の時に聞こえた心臓の音ではこんな感じにならなかったので、きっとムーラダーラ活性化によってグラウンディング力がアップしたのかな、という気が致します。

雑念の感じ方も変わってきて、昔は割と心の声というかいわゆる雑念がかなりはっきりと聞こえて瞑想をかき乱していたのですが、今は、心の声が「半透明」とでもいう感じの、「薄い」感じで聞こえてきていて、雑念があったとしても秋の枯葉が舞い落ちるような弱々しい雑念として感じられています。

ですから、瞑想中の雑念はほとんど心をかき乱さなくなりました。

一応、念のために書き添えておきますと、昔の記憶のトラウマが出てきた時は多少なりとも反応しますけどれども、基本はこのように「薄い」「半透明」な雑念がほとんど、ということです。

これを簡単に「安らぎ」と言ってしまうと、それはそうなのですが、リゾートや湖畔でリラックスするような「安らぎ」とはかなり違う状態になってきている感じです。なんといえばよいのでしょうね。なかなかいい言葉が見つかりませんが。

■眩しい感覚
瞑想から出ている時は平気なのですが、瞑想中だけ目を瞑ると眩しい感覚がして目がしょぼしょぼします。窓から入る光がとても明るく感じられて、目を瞑っているのに鋭い刺激として目に入ってきます。これは昨日ムーラダーラが活性化される前まではこんなことありませんでした。ムーラダーラ活性化によって身体中の感覚が過敏になっている気が致します。

■髪の毛の静電気
頭のてっぺん辺りの髪の毛が静電気を帯びたような感じになってきました。以前はこんなことほとんどなかったように思います。



心が息に寄り添う瞑想

先日 の続きです。心が心臓の音に寄り添う瞑想と同様に、心が息に寄り添う瞑想も可能になりました。

息と一体になるとまではいきませんが、以前は息を観察するにしても、少し離れたところから心(の光の筋)を伸ばして息を観察していたような感じでしたが、今は、心が息に寄り添う感じです。

おそらくは寄り添う対象は何でもいけるのではないかな、とは思いますが、今のところ自分の体より外側のものに寄り添うのはちょっと難しいというか心的ダメージが大きそうですのでやらない方が良さそうな感じです。

■息に意識を集中することで雑念が少ない状態になる
先日書きましたように雑念が半透明な感じで感じられるようになりましたので雑念が瞑想の邪魔をすることも少なくなってきているのですが、心を息に寄り添わせると、雑念がほとんど出ない状態になりました。

・・・ふと、昔のことを思い出しました。

私がヨーガを始めたばかりの頃、ヨーガの先生が「心の実験をしましょう」とか言って、「息を観察しましょう。観察している間は雑念が出ませんよね。周りの音を聞いてみましょう。電車の音などに集中している間は雑念がないです」とか「息を止めましょう。止めている間は雑念がなくなります」とか言っていましたけど、私にはどちらも腑に落ちなかったのです。「息を観察していても雑念は出るし、音を聞いている間も雑念は出るし、息を止めていても雑念は出る。確かに、一瞬はなくなりますけど」と心で思いつつもスルーしていたのですが、これ、「ヨーガをある程度修行すると、そうなる」というお話であって、初心者が実験しても「何のこっちゃ?」というお話なのだな、と今は思います。

息を止めている間ずっと集中が続けば確かに雑念はほとんどなくなりますが、息を止めた状態で集中を途切れさせたら雑念が出てきます。その時の先生は「息と心は相互関係があり、息を止めれば心も止まります」とか言っていましたけど、全く納得できませんでした。関係はありますけれども、息と心は基本的には別物だと思います。ただ単に、心を息に繋ぎ止めておけば雑念が減る、というだけのお話であればわかりますけど、「息を止めれば心(の雑念)が止まる」というお話は、もしかしたらヨーガのグルが目標地点がそこだというお話をして弟子が一般的にそうだと勘違いをしたような気もするのですが、どうでしょうか。

今回、息に意識を寄り添わせることで雑念が少ない状態になったわけですが、この状態を指して「息に意識を寄り添わせつつ呼吸をすると息を止めた時に心の動きも止まる」ということであれば納得ですが、何もしていない初心者が息を止めても息を止めたら集中が途切れて雑念が出てくるだけなのかなと思います。

同様に、周囲の音に集中しても集中している間は雑念が出ないものの初心者は集中が続かなくて雑念が出てくることでしょう。当時の私は「電車の音を聞いていても雑念は出るのだけれども、一体どういうこと?」と思っていました。ヨーガの先生のお話は初心者向けに実験するようなことでもなくて、やがて集中力が高まれば例えば周囲の音に集中を続けることで心を固定して雑念が介入しなくなる、というお話だと思います。

その実験の効果が、今回の変化でよく感じられました。特にアナハタ優勢になって以降は割と同様の感じで息や集中と心の関係が理解できるようになってきましたが、今回の変化で、それが更にきめ細やかにしっかりと感じられるようになったように思います。

これ、日本のヨーガの先生だけでなくインドのリシケシのヨーガの先生も似たようなことを言っていましたので、おそらくは有名な先生あるいは書物がそういうことを言っているのだと思いますが、かなりミスリードな気が致します。ヨーガを練習すればそうなる、というお話をあたかも初心者もそうであるかのように紹介したらヨーガに対する誤解が生じる気が致しますが・・・。少なくとも私も最初は「何かおかしい」と思いましたし。

こういう違和感を感じた時に、盲目的に受け入れないことは重要ですね。世間一般の盲目的な宗教では「そのまま経典や先生のことを受け入れる」というのが行われているように思いますけど、違和感を感じたら一旦保留して自分の理解が生じるまでは先に進まないのが本来の宗教家の在り方だと思います。宗教というとドグマを押し付けるイメージがありますけど、本来の宗教は科学と同様に一歩一歩自分が理解して成長してゆくものだと思いますので。

例えば、私が当時、ヨーガの先生から言われた時に違和感を感じてもそのまま受け入れていたとしたら成長なんてなかったかもしれませんし。よくわからないことは「わからない」として理解を保留することが大切に思います。それが「正しいと思うが、今はわからない」ことなのか、あるいは「何かおかしいと感じるので、わからない」と感じるのかによっても対処方法が違ってくると思います。どちらにせよ、理解を押し付けてくる先生は大した先生でもないので、自分の態度としては「わからない」という態度で良いと思います。

人によっては生まれた時からある程度の悟りがあると思いますので、そのような方がそのままグルになったら初心者の気持ちもわからないのかな、とも思います。私の場合、生まれてきた時はともかくとして、幼稚園と小学校で苦労する環境にいてどん底まで一旦落ちましたので色々と理解できます。というか、そのように色々と底辺まで理解することが今回の人生の計画でしたので、計画通りうまく行った感じです。一旦、どん底まで落ちてみないとそのような人の気持ちはわからないのだと理解できました。ですから、最初からある程度悟っているグルがこのような勘違い・無理解に基づいた指導をしてしまうのも無理はないのかな・・・ とも思います。

ネタ元がどこなのかは想像ですけど、ネタを聞いたグルが「その通り」と思って拡散することはあり得ると思いますので、まあ、当たらずとも遠からずなのかなと思います。

■心という手綱を手放す
心が息に寄り添う瞑想をしている時、いわば息を拠り所にして瞑想をしているわけです。この時は心が安定しているので一見すると心を拠り所にして瞑想をしているような感じにもなってきますが、よく見ると、心が息を捕まえている感じなのです。心の方は割と動きやすいのです。例えるなら「心が手綱」のような感じです。その手綱が、息というものを捉えて離さないことにより心が安定しているのです。

一旦、手綱である心を使って心を息の近くに寄り添わせることで安定した瞑想ができるわけです。心は光の筋のようなものなので、手綱に例えてもそれっぽい感じです。

心が息に寄り添っている時、「自分」から見えているのは「心(手綱)」と「息」だけで、「自分」自身は見えていません。

この状態で、「心」という手綱を「手放す」ことをしても、既に心が息の近くに留まることができて心は安定していますので、心は揺れ動かずに息の近くにい続けることができます。「心」を息に繋ぎ止める努力をやめて「手放す」ことで、非常に安定した瞑想の状態に入ることができました。

■漆黒の空間と「自分」とナーダ音
一方で、「別の視点」から瞑想状態を眺めると、自分の体全体が卵状の「漆黒の空間」に包まれているのを感じます。そして、その漆黒の空間の真ん中に「自分」がぽっかりと浮かんでいます。先日 のネバーエンディングストーリーの例えのように、世界が無になっても自分が何故か存在してぽっかりと浮かんでいる感覚に似ていますけど、今日の場合は卵状の空間だけが漆黒の空間になっているという違いがあります。その、漆黒な空間の真ん中に自分がいます。

そして、卵状の漆黒な空間の外側にナーダ音が聞こえています。このようにナーダ音が聞こえる空間の区別ができたのはこれが初めてですね。漆黒な空間の中にはナーダ音は響いておらず、漆黒な空間の外にだけナーダ音は存在しています。その、区別がはっきりと感じられます。ナーダ音は漆黒の空間の中に入ってきません。

ふと、以前 引用した「アナハタ音(ナーダ音)のないところ」の記述を思い出しました。

(4章101番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」

シャクティとは「力(パワー)」と訳されます。この記述自体は謎めいていて「虚空についての想念」が何なのか読み解くのが難しいですが、以下のように解釈できます。

・卵状の漆黒の空間の外にはシャクティ(パワー)が満ちていて、ナーダ音が響いている。
・卵状の漆黒の空間の中にアートマンはいる、あるいは卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの。

という解釈も一応は成り立つと思いますが、私の場合は卵状の漆黒の空間の真ん中に自分らしきものがぽっかりと浮かんでいる感じがあったりするので、「形相の無いものこそが至上神(アートマン)」というのとはちょっと違うのかもしれませんが。

ここでインスピレーションが入ってきたのですが「卵状の漆黒の空間の真ん中に自分がぽっかりと浮かんでいるのは、状況を分かりやすくするために以前見た物語の挿絵のイメージを送ったのであって、それは理解のためだけのものであり、本来は形などない。実際に卵状の漆黒の空間を見たときに真ん中に何もなかったと思う。」とのことです。

これとハタヨガプラピディカの「アートマンには形相の無い」という記述を踏まえますと、「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」よりも「卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの」という解釈を採用して、以下のように考えると良さそうです。

「卵状の漆黒の空間の中に浮かんでいるのは瞑想している主体である『肉体』としての『自分』であって、アートマンとしては形などない。肉体を包むようにアートマンが卵状の漆黒の空間として広がっており、アートマンは形相がないからこそ漆黒の空間として認識される。そのアートマンとしての卵状の漆黒の空間の周囲にシャクティ(パワー)が広がっていて、周囲でのみナーダ音が響いている。」

まあ、これでもいくつか疑問というか細かな不思議な感覚(違和感というほどでもないもの)が残るのですが、その感覚が何なのかも含めておいおい見極めてしてゆきたいと思います。例えば「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」というのも正しいように感覚的には思います。ヴェーダ的にはアートマンもブラフマンも実は同じだというのが最終理解ですので、視点が違うだけのお話で両方正しいといえば正しそうではありますが。

■卵状の漆黒な空間がアートマンだと判断した理由
そう判断した理由としては上記のヨーガ根本教本の引用文にある、アナーハタ音(ナーダ音)が聞こえないところが至上神(アートマン)だとする記述に基づきます。実際にそんな感じでしたので。

しかし、直感では必ずしもそうだとは判断できませんので微妙なところです。これはまだ仮説です。

ヴェーダ的には人間はいわゆる5つの鞘で囲まれているとも言われていますので、今は至上神(アートマン)の外側を見ているのかもしれません。



息を頼りにアートマンに近づく

先日 の、心が息に寄り添う瞑想の続きです。

■2つの寄り添う瞑想での「手放し」
先日、以下の2つを行いました。

・心臓の鼓動に寄り添う瞑想
・息に寄り添う瞑想

最初は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」を行いましたが、心臓の鼓動はムーラダーラ活性化の直後は激しく鼓動していましたが時間が経つにつれて鼓動が弱くなっていきましたので、試しに「息に寄り添う瞑想」をしてみたら感覚が同じでしたので息に切り替えました。鼓動が弱くなってゆくのはクンダリーニの初回の時もアナハタ優勢になた時も同様でしたので予想がつきました。ですので、息で大丈夫ならば息で良いと判断して切り替えました。

この時、「心」を「手綱」にして心臓の鼓動あるいは息に自分の意識を繋ぎ止めました。海に浮かんでいるボートから伸びているロープを掴んで安定させるようなイメージです。

そうして意識が安定してきたら、試しにその手綱の手を少しずつ緩めてみました。すると、その手綱に力を入れなくても「心」が安定することに気がつきました。これは、以前はこのようにはなりませんでした。以前は例えば何かに集中するですとか、ナーダ音をずっと聞いているですとか、手綱のようなもので何がしかに繋ぎ止めておかないと心が安定しなかったのですが、今回、手綱を緩めても、「わたし」という存在は心臓の鼓動あるいは息のすぐそこに留まって安定していました。

ここでいわゆる「手放し」が行われたわけです。

一般的には「手放し」の意味はどこかへ捨てたり知らない彼方へ彷徨わせることのようなイメージがあると思いますが、ここでの「手放し」とは、心が揺れ動かないのでもはや手綱は必要なく、手綱を手放しても心はその場に落ち着く、という種類のものです。

■卵状の漆黒の空間の出現
そして、手放してみたら先の記事のように三つの要素が現れました。

・肉体としての自分
・卵状の漆黒の空間(肉体の自分の周囲に存在)
・卵状の漆黒の空間の外側に広がる現象の世界。例えばナーダ音は外側でのみ響いている。

■摑もうとして「力を入れると」、握り潰してしまう
なかなか微妙なところではありますが、やはり瞑想の最初は「集中」であるわけですけれども、その集中の行き着く先はこうして「手綱」なのかなと理解致しました。

禅の十牛図ともイメージが似ていますけれども、最初はそうして心を手綱で引き止めて、暴れる心(十牛図では牛に相当)を落ち着ける必要あるのでしょう。

そうして、心が落ち着いたら、「力を抜いて」「手放す」ことをする。すると、見えてくるものがある。

そういえば、一部の十牛図の解説書に、どの書籍か探すことができませんが、「確固たる意志で真我(アートマン)を繋ぎ止める」というようなことが書いてありました。その説明では、「真我(アートマン)は彷徨っているので、確固たる意志で繋ぎ止める必要がある」というように書いてあったかと思います。まあ、実際はそれはきっと正しいのでしょうけれども、自分の「感覚」からすると最初は真我(アートマン)が彷徨っているかどうかなんて分かりませんので、「真我(アートマン)を探す」とか「真我(アートマン)を繋ぎ止める」というような内容が書いてあっても、当時は「何のこっちゃ」という感じでした。書籍に書いてあった要点は以下ですね。

・アートマンは彷徨っている。
・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。
・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。

私の今日の瞑想の感覚で言いますとその逆です。

手綱を「手放した」ときにアートマンといいますか卵状の漆黒の空間が現れて安定したような気がいたします。力を入れてアートマンを掴む、みたいなお話はよくわかりません。流派にもよるのでしょうか。それとも、私が勘違いしているだけで別物のお話かもしれません。禅の十牛図では「真我(アートマン)を確固たる意思で捕まえる」みたいな説明があって、あたかも真我(アートマン)が動いているような説明になっていますけど、私の今回の感覚では逆でした。真我(アートマン)は動かなくて、自分が真我(アートマン)に捕まる、という感じでした。その後、手を離しても安定している、という感じです。まとめますとポイントは以下ですね。

アートマンは彷徨っている。 → もしかしたら実際にはその通りなのかもしれないですが、今回、アートマンは肉体の私の周囲に常に存在しているように感じた。常に存在しているが普段はその存在に気付いていないだけのように感じた。ヴェーダではアートマンこそが本当の”私”だが、その存在に普段は気付いていない。
”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。 → ヴェーダ的な”私”は別の意味(アートマンのこと)になってしまうので、十牛図的な”私”は”心”や”意識”のことであると解釈。いわゆる”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを見出す、と読み替える。(アートマンは実際には彷徨っているのかもしれないですが)私の感覚では自分と常に共に存在しているように感じられましたので、そうであればどこかを探す必要はなくて、普段から自分と共にあるアートマンを自分自身の中に見出す。
”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。 → 逆。アートマンは動かずにどっしりと存在している(と今回感じられた)。十牛図的な解釈ではアートマンが何か付随物のような印象を受けてしまうが、アートマンが盤石な巨石というイメージ。ですから、十牛図的な”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを繋ぎ止めるのではない。逆に、盤石な巨石のアートマンに彷徨っている”心”や”意識”を繋ぎ止める。実際はアートマンそのものではなく、アートマンに近いところの”心臓の鼓動”や”息”に繋ぎ止める。

■息とアートマン
”息”はアートマンそのものではないですがアートマンに近いものであると一部の流派では理解されていて、息の観察こそが高い意識への道であるという流派もあります。例えばクリヤ・ヨガなどですね。

そこで言う「息の観察」こそが高い意識へと導くと言う教えは、今までは「そうなのかな???」と半信半疑でしたけれども、今回、息を繋ぎ止める瞑想をしてアートマン(違うかもしれませんが)のような卵状の漆黒の空間を見出したことにより、「息」はかなり奥深いのだな・・・ と思わされました。

クリヤ・ヨガの書籍には例えば以下のように記載されています。


「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より

この図の意味としては、コーザル体においては「父なる神 → プラーナ/神の子 → 息」という順番で顕在化する。コーザル体の「息」からアストラル体の「チッタ(いわゆる心)」が作られる。 という意味だと思います。

クリヤ・ヨガは以前少し勉強してその後放置していましたが、このあたりをもう少し突き詰めると面白いのかもしれません。



エネルギーのサハスララへの上げ方・ルート

インドのアイアンカー家の瞑想法を解説した「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」には、エネルギーの上げ方を以下のように解説しています。

クンダリーニ・エネルギーや大意識を第8のチャクラ(サハスラーラ・チャクラ)へ上げる時、額部ではなく、額部から水平移動した後頭部を通す。決して間違ってはならない。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」

アイアンカー家では第7のチャクラ(アジーナ・チャクラ)を「眉間の少し上の額部(第3の目)から後頭部にかけての一帯」としています。この辺り、流派によって細かなところが異なるのが興味深いです。

上記の説明は突如として出てきて詳しい説明はなく、図もないのですが、おそらくはスピリチュアル系のフラワー・オブ・ライフと同様のことを言っている気が致します。

これは以前「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」から引用した図です。

呼び方は違いますが、概ね似たようなことを言っている気が致します。ヨガとスピリチュアル系で割と似たことを言っているところも興味深いです。

同書には以下のように書かれてあります。

4番目から7番目までのチャクラを経験し、それらを充分使いこなせるようになった後、ついにもう1つの壁に到達します。(中略)ここを抜ける道がわかれば、本当にこの3次元世界を超えて次なる世界に行けるのです。(中略)それは行くべき「どこか」というより、実際にはむしろある存在状態と言えるものです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」

更に、同書によれば過去に違った方法を用いた存在もいたようです。

まず松果体に達し、それから脳下垂体へ向けて意識を放ち、それをそのまま頭の前の空間にあるチャクラに送ります。一旦このチャクラに入ると、90度方向転換して真上に向かいました。これによって別の世界に行くことができたのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」

しかし、同書ではこのやり方は難易度が高いと紹介されており、上に引用した、額から後頭部を経由して登頂に向かう方法を推奨しています。

どうやら、ヨガの多くの流派や各書のアジナ・チャクラ覚醒方法は概ねこの後者の難易度が高い方法を用いているような気がしてきました。同書では、額からそのまま90度方向転換して登頂のサハスララに送る方法は難易度が高く、額から後頭部を経由してサハスララを経由して45度づつ方向転換させる方が簡単だ、と解説していますが、なるほどなと思いました。



グラウンディングされた瞑想

先日 の「心が息に寄り添う瞑想」の続きです。

グラウンディング力が高まって以降、瞑想も変化しました。
それはいわば先日の記事で言うところの「手放す」と言うことではあるのですが、以下のような違いがあります。

  • 以前は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになると、心がすることがなくなって”何もしなくて本当に良いのだろうか?”と言わんばかりに動揺するかのような挙動が時々あった。
  • 今は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになった時、心が落ち着いている。心が”何もしなくて良いのだ”と安心しきっています。
ここで言う”心”とは、何かを認識するための”光の筋”であり、いわば”(光の)触覚”のようなものです。

以前は、瞑想で意識が平らになって、いわば”水面が平らな状態”になったとしても、心がありのままに落ち着くことができず、少し落ち着きがない状態でした。そうは言いましても、瞑想を続ける以前からしたら随分と落ち着いてはいるのですが、どこか、心の奥底で本当にこんなに落ち着いてしまって良いのか、という心の抵抗のようなものを感じていました。

今は、”心が安らいでいていいのだ”という安心感に満ちていて、一段階深い平穏さの状態になったように思います。

これは、いわば「何も起こらない瞑想」と言い換えても良いと思います。特別な刺激もなく、想像に楽しむわけでもなく、ただただ平穏で、何も起こらない瞑想。そういう瞑想に変わってきました。

先日書きましたように、意識が心臓や呼吸などに寄り添い続けている瞑想はほんの入り口だったように思います。一旦それらに寄り添って落ち着いた状態になったらそこにしがみ付いている力を「手放して」、そのまま「ぷかぷかと」瞑想を楽しんでいます。以前はきっと、手を離したら雑念に飲み込まれてどこかへ流されていってしまったのかもしれませんが、今は、手を離しても心臓や呼吸のすぐそこに留まっていることができます。それ故に、手を離しても大丈夫なのです。

ムーラダーラとかグラウンディングって今までちょっと軽視していたかもしれませんが、今は見識を改めました。これは瞑想にはかなり重要ですね。

今、平穏な状態で瞑想が続き、その時、いわゆる心である”光の筋”はほとんど揺れ動かずに、一箇所に留まっているのを感じます。意識は、思考を映し出す”鏡”あるいは”湖”にも例えられます。その鏡あるいは湖が瞑想中も若干揺れ動いてはいるのですが、その静寂のレベルが若干(といっても、それはそれなりの違い)変わったということです。

それにしても、この光の筋は、なんて言ったらわかりやすいですかね? 違う名前で言った方がいい気もしてきました。光の筋というより、普通に”オーラ”と言った方がいいかもしれませんけど、体の周囲にゆらゆら動いているオーラのことではなくて意識的に動かせるオーラですので、ちょっと違うイメージを与えてしまうと何ですが。

ヨーガスートラのサンキャ哲学的には以下の用語ですね。以前 少しまとめたことがあります。

チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。
例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。

心(チッタ,Citta)の構成要素
・ブッディ(Buddhi, 覚)
・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)
・マナス(Manas, 意)


これらの内容は謎が多くてはっきりとは理解できませんが、わかっている範囲で当てはめると以下のようになります。

湖であるところのチッタ(Citta, 心)に波であるところのヴリッティ(Vrttis)がほとんどない瞑想を行っています。
心(チッタ,Citta)自体の動きはほとんどなくなっているのですが、グラウンディング力が高まる前はマナス(Manas, 意)が若干、落ち着きがない状態でした。高まった後はそれも落ち着きました。

こんな感じでしょうか? 落ち着きがないのがマナス(Manas, 意)なのかアハンカーラ(エゴイズム, 我慢)なのかブッディ(Buddhi, 覚)なのかは微妙なところですが、アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)は本来存在しなくて反作用であると言われていますので残るはマナス(Manas, 意)とブッディ(Buddhi, 覚)ですが、ブッディ(Buddhi, 覚)は対象物の印象が届いた後に働くものですので、ここでは根本の働きであるマナス(Manas, 意)が落ち着きがないのかなと推測しました。



禅定(サマーディ)の階梯の謎

テーラワーダ仏教では禅定(サマーディ)を色界禅定と無色界禅定に分けて、色界の第四禅定からヴィパッサナー瞑想(観瞑想)で悟る、としているようです。例えば「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には以下のようにあります。

禅定の達人=心解脱だけでは、通常とは違う特別に心地よい世界を知ってはいますが、それでも悟りとは何の関係もありません。悟りには、真理を理解する智慧が必要なのです。(中略)不還果や阿羅漢果に悟るときに、多くは止瞑想(サマタ瞑想)で色界第四禅定まで進んでから観瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に移行して悟ると先に述べました。(中略)これはおそらく、無色界禅定にまで入ってしまうと心だけのはたらきになってしまい、何らかの対象を観察して無常を悟る観瞑想にはならないので、悟る直前の心の状態や不還果が転生する領域は、阿羅漢果に悟れるように自然に色界の範囲内になっているのだと思われます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

阿羅漢とはいわゆる「悟った人」のことです。テーラワーダ仏教的にはどの禅定も悟りではない、としているようですが、禅定は悟りの助けになる、というスタンスでもあるのようです。

色界第一禅定まででも、心を育て鍛えて集中力が身につくと、観瞑想に移行したとき、すぐにでも悟りが開けるほどの力になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

■チベット仏教の禅定
一方、チベット仏教では色界の第四禅定から悟るという記述は見つからず、無色界禅定を経て悟る、というように読めます。このあたり、「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると輪廻の説明のところに以下のようにあります。

無色の禅定を発展させ知覚の究極まで心を集中したものは第二の所に再生し、第三のクラスは阿羅漢となり、この世界の最後の寂滅(じゃくめつ)に至って再びこの世に戻らないものたちだけのものである。「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」

記述的に、テーラワーダ仏教のように第四禅定でヴィパッサナー瞑想をして悟る、とは読めません。普通に読むと、色界禅定の後に無色界禅定を熟達して悟る、というように読めます。禅定そのものが悟りとは書いていないようですが、割と近い位置付けのように解釈できます。

このあたり、同じ仏教でもテーラワーダ仏教とチベット仏教で禅定の位置付けが異なるようです。

■色界第四禅定
先日の「グラウンディングされた瞑想」で、「卵状の漆黒の空間」が見える前の落ち着いた状態が色界第四禅定なのかなと言う感じが致します。

■無色界禅定の最初「空無辺処定(くうむへんしょじょう)」
この説明は、以下のようになっています。

物質という命綱を頼りにして、でも物質と関係のない無重力の宇宙遊泳をしていた宇宙飛行士が、その物質的制限という命綱を切り離して、ただ、宇宙に漂う漢字です。体が定まらないと困りますので、「漂っているのだ」と「定める」のです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

この説明を読み直した時、先日 の「心が息に寄り添う、グラウンディングされた瞑想」で「卵状の漆黒の空間」が見えている状態がこれに該当することに気が付きました。なるほど、これが無色界の禅定なわけですね・・・。私の場合、「定めた」わけではなくてありのまま見たらそう認識できた、と言うお話ではありますけど。

この時の感覚で言いますと、まだ「卵状の漆黒の空間」という感じで認識されておりますので、いわゆる「境目」が存在しています。

同書によりますと、この次は以下のようなもののようです。

無色界第二の禅定は、識無辺処定(しきむへんしょじょう)という名前です。その領域は、識無辺処です。先の空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。(中略)今度は「識は無辺である」と認識するのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

これはヒントになります。私が認識したのは「卵状の漆黒の空間」ですから、それはいわば「境目がまだある」ということです。今後、境目のない状態になる、ということでしょうか。 まあ、あまり先を見ても仕方がない気もしますが。 淡々とやるだけです。

■考察
私の感覚的にも、無色界の瞑想はちょっと違う感じがします。 認識される範囲が心とアートマンっぽい空間がメインになります。 先日は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」から始まって「息に寄り添う瞑想」からこの状態に遷移しましたので、これってもしかしたら、ハートチャクラの中に意識が没入した時の瞑想状態のような気もしますが、どうでしょう・・・。周辺が卵状の漆黒の空間として認識されてその周囲にオーラとナーダ音が認識されるということは、自分の意識が頭ではなくハートの中に移動というか没入したと仮定すると説明がつきます。

スピリチュアルな人の中には、ハートチャクラの中に「聖なる空間」があると言っている人たちもいます。聖なる空間は最初の部屋と、さらに小さい部屋の二段階と言っている方もいらっしゃいますので、小さい部屋に入ると周辺の漆黒の空間の境目がなくなって認識されるのかもしれません。

これらを踏まえますと、色界第四禅定と無色界の禅定との違いがなんとなく見えてきた気がいたします。結論を出すのはまだまだこれからですけど。 確かに、色界第四禅定から悟る、と言うのもわからなくはありません。無色界禅定は悟りとはちょっと違う感じが致しますが、違うと言うよりも、目的が違うのかもしれません。いわゆる色界第四禅定から悟った場合は現世を悩みなく生きることができるようになる一方で、無色界の先にこそ広い世界が広がっている気がしますが、どうでしょうか。 無色界の先に謎が色々とありそうです。

無色界は悟りがなくても行けるようですが、悟りがヴィパッサナーの力だとして、無色界はいわゆる心だけの世界だとしたら無色界はアストラルやメンタルの世界であり、悟りのヴィパッサナーなしの無色界=アストラルやメンタルの世界は危険な気も致しますが、どうでしょうか。観察(ヴィパッサナー)ができなくて制御もきかない状態でアストラルやメンタルの世界に突入したらかなり酷いことになりそうです。

一般的に悟りとか言われてますけど、要は観察力(ヴィパッサナー)のことかな、とも思ったりすることもありますが、若干意味が異なるので、またおいおい違いを観察していきます。

まあ、いろいろ仮説も含みますが、今後、このあたりも様子を見ていきます。



聖ラーマクリシュナの語る「クンダリーニの5つの動き」

一般的にはクンダリーニは激しく上昇するようなイメージがあるかと思いますが、聖ラーマクリシュナによると5つのクンダリーニの動きがあると言います。

クンダリニは同じような動きと震えで常に登りません。聖典によれば、クンダリニには五つの動きがあります。
1.蟻のような動き ー 足から昇る長く続く震えの感覚があります。
2.蛙のような動き ー 足から大脳に不規則な動きで登ります。
3.蛇のような動き ー とぐろを巻いていた蛇が、獲物を見つけたりおびやかされたりすると、ジグザグ形の動きで突進します。
4.鳥のような動き ー 目的に到達するまでは決して止まることなく、時には上空に、時には低空にあちこちに鳥達を導きます。
5.猿のような動き ー 猿は木から木へと跳びながら1つの木から他の木に移ります。

「ラーマクリシュナの教え(ジャン・エルベール 編纂)」より

とすれば、クンダリーニ経験者の話がそれぞれ異なっているのも理解できます。

いずれの場合でも大脳に到達するとサマーディに入る、と同書には記載されています。
ただし、原本の聖典がどれなのかはわかりません。

クンダリニーはヨーガで言うところのスシュムナを上昇するとされており、スシュムナの詰まりを取るのがヨーガ修行の根幹でもあるわけですが、完全に浄化されていなかったりするとエネルギーが色々な挙動をするであろうことは容易に想像できます。スシュムナが主要なナディ(エネルギーの通り道)ですが、体にはその他にも多くのナディが存在しておりますので、詰まっているナディと詰まっていないナディがあったとして、エネルギーの動き方がそのナディの浄化具合に応じて変わって知覚されるであろうのも容易に想像できます。それが、上記のような動きとして知覚されると言うことなのかなと思います。



サハスララに集中する瞑想

ヨガの瞑想の基本は眉間への集中ですが、ヨーガあるいはスピリチュアルでサハスララに集中する瞑想があります。その幾つかを見ますと、以下のような共通した事項が見てとれます。

・頭のてっぺんから少し上に集中する
・瞑想後は意識を眉間あるいはお腹のあたりまで戻す。そうしなければ目眩や不快感あるいは情緒不安定などを引き起こす可能性がある。

特に後者の注意について、単にサハスララに集中したまま瞑想を終えると不安定になるという注意が色々な流派に共通して言われているのが興味深いです。

例えば、以下のような注意書きが書籍に記されています。

第8のチャクラ(サハスララ)に到達した大意識を、再び第一のチャクラに向かって降下させる。(中略)大意識を一気に第一のチャクラに戻す。(中略)大意識を第8のチャクラ(サハスララ)に留め置いたまま、次のステップに踏み込んではならない。アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないからである。(中略)これを違えると、瞑想が不首尾に終わることがあるばかりか、後に不快感が残ることが、ごく稀にある。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」

ここに記載されている、「アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないから」という部分は非常に興味深いです。

意識は「心」だとして、いわゆる「光の筋」だとして、その心の光の筋は触覚みたいなものですので、それとアートマン(いわゆる魂。微妙に違いますがとりあえず)と交錯させてはいけない、というのは興味深いです。波動が違うということでしょうか。

なんとなく感覚として思うのが、サハスララにあるいわゆる「ブラフマンの門」と呼ばれている境界線というか蓋というか門があって、瞑想中はそれが開いて意識が外に出るときがあるような気がいたします。外に意識が出たのであればそれを体の中に戻さなくてはいけないのに外に置き忘れてしまったら意識が変になるのも当然な気も致します。そんな気がするだけで仮説ではありますけど。

思えば、ヨガ始めてから今までの間、ふとした時に無自覚で同様にブラフマンの門の外に意識を置き忘れて不快感や不安定な状態が続くことが度々あったように思います。

私も最近、ちょっと油断してサハスララに集中した後にそのまま瞑想を終えたら、瞑想後しばらくは平気だったのですが数時間後から意識が少し頭の方に圧迫されたかのような不思議な不快感に襲われましたので、瞑想直後は平気だと思っても基本的にはこの注意を守った方が良さそうです。最近はこんな不快感になることもほとんどなくなっていましたので、油断していました。

であればこの注意は重要で、門から外に出たのならば門から中に戻って、更には、きちんと門を閉めて戸締りをすることが必要なのかもしれません。まあ、仮説ですけど。

スピリチュアル系では例えば以下のような説明があります。

■ナクラ瞑想
クラウンチャクラの上にあるこのポイントに意識の焦点を合わせると、次元を超える通路に入っていくことになります。慣れ親しむにつれて、くつろいで楽に移行を体験できるようになるでしょう。もし途中で頭痛や緊張が生じたら、その原因はたいてい集中のしすぎです。意識を集中させるのではありません。ただそこに気づき、そのポイントにそっとあなたの意識を寄り添わせるだけでいいのです。(中略)大切なのは、この瞑想のあとには肉体の神経系にしっかり適応しなおすことです。(中略)むやみに急ぐと、頭痛その他の痛みが生じたり、気分が悪くなることもあるからです。「アルクトゥルス人より地球人へ(トム・ケニオン 著)」

この宇宙人が本当にいるかどうかは置いておいて、この瞑想の内容は興味深いです。

どちらにせよ、サハスララに集中する瞑想は注意および熟練が必要のようですね。

ヨガの本にも「サハスララへの集中は注意が必要です。眉間への集中は安全です。」と書いてあった気がしますので、そういうことなのだと思います。

■白隠禅師の禅病
なんとなく白隠禅師の禅病も、本を読む限りは似たような症状の気が致しますが、どうなのでしょう。
白隠禅師は軟酥の法(なんそのほう)でこの症状に対処しましたけど、同様であれば上記のような注意に沿うことで対処できる気も致します。

軟酥の法は超簡単に言いますと、頭の上に丸い玉の形をしたヒーリング・ボールを想像した後、それが溶けて頭の方から体を伝って足元まで体全身を水が滴るように浸透させつつ、悪いものを流してしまうようにイメージするという方法です。これはこれでいいと思いますが、やっていることは割と似ていて、サハスララの意識を下に下ろす、ということですよね。要はグラウンディングです。

手法としては色々であっても、基本は一緒なのかなという気が致しました。



瞑想中における頭頂部上方の熱感

最近、頭の下半分と額や前頭部までは熱感が出てきたのですが後頭部の特に上側の感覚が出ていないので瞑想中に色々と探ってみていました。

現在の状態について、今までの状態を元に仮説を作ってみました。

事実:
・クンダリーニ活性化前はお腹の熱感はほとんどなかった。
・クンダリーニ活性化後、まずお腹のマニプラ熱感が出て優勢になった。その時、胸のアナハタはまだ優勢ではなく、マニプラとアナハタの間に温度差があって壁(いわゆるグランティ)があるような感じだった。
・アナハタ優勢になった時はその壁(グランティ)がなくなった。
・アナハタ優勢になった後は頭の下半分まで熱感が出てきた。
・頭の真ん中あたりに壁(グランティ)がある感覚。頭の上半分に熱感がまだ出ていない。

仮説:
・頭の真ん中にある壁(グランティ)を突破する必要がある。
・壁(グランティ)を突破すれば頭の上半分、特に後頭部に熱感が出てくる。

昔、マニプラ優勢だった頃に何をしたのか思い出してみますと、普通にヨガのアサナをして瞑想したりしましたが、にも書きましたように、夢の中のガイドを元に「回転」をしてエネルギーをアナハタまで上げました。この「回転」が鍵かなという気がしてきました。

又、エネルギーの定着が、アナハタだけでなく頭の下半分にも充満するようになりましたので、小周天のようにエネルギーを下の方から一気に上げるのではなく、数段階に分けて上げるのが良いような気がしてきました。似たような瞑想にソーハン瞑想もありますが、この基礎的な瞑想がここにきて何気に効果的な感じです。

■ソーハン瞑想法と小周天
古典的な瞑想にソーハン瞑想があります。ソー(So)で息を吸ってハン(Ham)で息を吐きます。その時、ソー(So)でお腹の下の方から頭の上に向かって背筋を通ってエネルギーを上げます。最初はイメージだけでもOKです。その後、ハン(Ham)で天空あるいは宇宙から自分の登頂に向かってエネルギーを下ろし、体に浸透させます。これが基本です。Soが"That(それは)”の意味で、Hamが"I am(私です)"という意味になります。

似たようなものに小周天があって、お腹の下の方から背筋を通って頭の上に上げ、その後、体の前を通ってお腹の下まで下ろします。これは各種のバリエーションがあるようです。

これらは割と基礎的と言いますか古典的な瞑想になりますが、今までは「そんなものかな」という感じでしてきましたが、ここに来てこれらが効果的になってきました。ただ、そのまま使うわけでもありませんが。

■分割
エネルギーの上げ方として、私の場合は以下のように分割するのがしっくりきます。

・マニプラからは、以前書きましたように、まずマニプラで右回転の渦を作った後に勢いを付けて一気にアナハタあるいは頭の前面にまで上げる。これを何回か繰り返す。息を吸う時に回転させて、吐くタイミングで一気に上げます。
・その後、頭の前面に溜まったエネルギーを、息を吸うタイミングでもっと頭の前面に溜めて、吐くタイミングで後頭部を経由して後頭部の上の方に上げます。

これは、きっとエネルギーの質の違いだと思います。マニプラのエネルギーを一気に上げると質の違い(あるいはルート的な問題?)があって不快感が出ますが、段階的に上げますと不快感がほとんど出ません。

今のところ、私の問題は頭の後頭部の上の方で詰まっている感じがするところですので、そこを重点的にエネルギーを通すように瞑想中に何度もエネルギーを入れてあげています。この時、色々と「回転」をバリエーションつけて試してみたりしています。縦回転や横回転など。

私の昔の瞑想は割と想念や雑念をどう対処するかという点に重点が置かれていましたが、最近の瞑想はエネルギー・ワークになってきた感じが致します。

こうしてエネルギーを後頭部の上の方に何度も通そうとしていたら、昨晩、小さな小さな「カチッ」という音というか感覚がして、頭の後頭部の上のあたりの詰まりが更にちょっとだけ解消した感じがしました。それでも完全に通ったというわけではありませんが。

この壁と詰まりの感覚には覚えがあって、マニプラ優勢だった頃にアナハタとの間に壁(ヴィシュヌ・グランティ)があった感覚を思い出しますと、同種の「詰まり」がそこ(マニプラとアナハタの間)にもあったように思います。

頭の中にあるのはいわゆるルドラ・グランティですが、頭の中においても似たようにその「詰まり」を取っていく必要があるのかなと思います。そうして、エネルギーが徐々にサハスララの方にまで通るようになってゆくのでしょう。

であれば、ソーハン瞑想法や小周天は有名で古典的で基礎的と言われてはいますが、実はかなり重要で長く使えて役立つ瞑想だからこそここまで長く伝わっているのかなという気がしてきました。有名だからこそ初心者からいきなりやらされたりしますけど、本格的にするのは初心者には敷居が高くてなかなか難しい、というような気もしてきています。

■オーム瞑想
ヨガでオームを唱える瞑想がありますが、後頭部の固まっているところに「響くように」心の中で唱えてあげると壁というか障害というか詰まりが少しずつ柔らかくなっていく気が致します。

■ブラーマリ瞑想(ブラマリ瞑想、蜂の羽音の呼吸法)
口を閉じたまま息を吐いて「ムーーー(んーーー)」と唱える瞑想でも同じように詰まりが取れていく気が致します。



何も起こらない瞑想から空と観照へ

最近の瞑想は、自分から意図的にエネルギーを動かそうとしなければ何も起こらないようになってきています。

以前は雑念やら葛藤やらが出てきて制御するのに困ったことになったりもしましたが、今は、雑念や想念は「半透明」な感じで認識されますので、それほど瞑想の邪魔にはなりません。

マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスによる著書には以下のようにあります。

瞑想に時間を費やせば費やすほど、ストレスが解放されて行った。マハリシはこの解放を、過去の記憶の解放と表現した。(中略)カルマが解放されて初めて、悟りに達することができるのだ。その理解のおかげで、わたしは "何も起こらない” 瞑想を受け入れられるようになった。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

この記述は、どうやら私の今の状態に近いような気が致しました。自分から何かを意図的に起こさない限り基本的には”何も起こらない”瞑想になってきていますので。

同書によるとこの時彼は瞑想コースの途中だったようで、コースを進めてゆくうちに以下の状態になったと言います。

2ヶ月コースの4週間目に入る頃には、瞑想があまりにも深くて、すべてが消えていった。わたしは内なる宇宙というとてつもなく大きな領域のなかで迷子になり、自分の身体がどこにあるのかもわからなかった。(中略)私の意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私はこの状態にはまだ達していませんが、この「透明でホログラフ状」という記述は目印になります。 私の場合、今のところ想念などが「半透明」で認識されますので、一部は似たようなことを体験しているように思われます。そのうち私もこんな感じになるのでしょうか?

瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)究極的には、自分の全存在が無限の平和へと溶けこみ、思考が無限の空間のなかへ消えてゆく。この無限の空間がいわゆる空(くう)だ。(中略)空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照(かんしょう)だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私の場合、無限の静寂を「外側」で感じてはいても、まだ「吸収」されていない感じです。これらの記述は今後の目印になります。

■サハスララの体験
ヨーガ行者の本山博先生によるサハスララの体験が似ている気が致します。

自分の意識が、登頂の門を抜けてしだいに高みにのぼり、はるかはるか彼方の上方におられる神のもとに還っていくのがわかるのです。(中略)えもいわれない法悦と平安のうちに、自分の霊的な全存在が埋没しているような状態が続きます。「密教ヨーガ(本山博著)」

この、サハスララから抜け出て宇宙を感じる感覚に、ボブ・フィックス氏の体験がどこか似ているような気が致します。

■観照が深まると眠りがなくなる
これはヨーガ聖典で言われていることです。

観照が増えるにつれ、睡眠に大きな変化が起こった。自分としては完全に冴えているのに、身体が眠っていたのだ。わたしは冴え渡っているのに、深い眠りの真っ暗闇のなかで、思考のスイッチはオフになっていた。それから、その暗闇のなかで、夢が現れたり消えたりする様子に気づいていた。(中略)睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

私はまだこの段階まで来ていません。クンダリーニ活性化の時点で睡眠時間が短くなってあまり眠らなくても良くはなりましたが、このような感じにはまだなっていません。

■ボブ・フィックス氏の悟り
ボブ・フィックス氏の体験を読むと、上記の睡眠の後、以下のような状態に変化するようです。

わたしはつねに、無限とともに在ることになった。宇宙の広大無辺な意識と、永遠に一体となったのだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」

なかなか読み解くのが難しいですが、同書によれば、この段階で「全く違う自分になっていた」と書いてありますので、この最後の段階はかなり大きな変化なのだと思われます。

観照やサハスララだけでもそれなりの悟りと言えるような気が致しますが、この段階まで来て本当の悟りなのかもしれません。



オーラのケーブルを切る実例

以前から何度かオーラのケーブルを切ると言うお話をしましたけど、最近の実例です。

・出かけた後、少し調子が悪いなと思って瞑想中に体の中を探っていたら、心臓あたりのアナハタに肉眼では見えないオーラの針のようなものが刺さっており、瞑想中に手のようなイメージでそれを引き抜いて捨てたら気分が回復した。どうやらその針からオーラのケーブルが伸びていて、エネルギーを奪っていた模様。ステルス性の高い半透明な針とケーブルですかね? いつついたのやら。恐ろしい。
・しばらくぶりの友人と昼食を食べて会食したら、その昔からの友人はどうやら問題を抱えているらしく、オーラのケーブルからエネルギーを抜かれてしまってぐったりしてしまいました。この場合はすぐにケーブルを切るわけにはいかないので困りますね。別れた後に切っておきましたけど。
・近所の学園祭に行ったら、バザーの本を手に取るタイミングが重なった学生さんがびっくりして、どうやらその人はオドオドして緊張してしまったらしく(思春期の子供にはありがち・・・)、その後すぐに上半身の緊張が高まった状態になったが、これは原因がわかっているので、その人から私に伸びているオーラのケーブルを切ることで数分で回復。



オーラ原理主義と表面的なリーディングで誤解する人

最近、この種の人々を見なくなりました。

私が近寄らなくなっただけで、どこかには生息しているのかもしれませんけど。20年くらい前はオーラ原理主義という、オーラの状態で他人を判断する人が多かったような気が致します。それと、スピリチュアル的なリーディング、いわゆる他人のオーラを読み取る技術ですけれども、ちょっと表面的なオーラを読み取って他人のことが分かったかのような気になってそれが他人の全てだと判断して断定的なカウンセリングあるいは聞いてもいない勝手な一方的な助言をしてマウンティング(自分の方が優位だとわからせるため意識的あるいは無意識的に発言すること)している人が時々いて、謝意していましたね。

まあ、去年に1人そういう人を見かけたくらいでした。その人は生まれつきそのような神道系の家系で色々見えないものが見えたり守護霊の修験道のおっちゃん修行僧の霊が色々と指導していた感じでしたけど、ちょっと読み取るとそれが他人の全てだと判断する感じでしたね。どうやら、生まれつきそういう能力があると読み取った内容が全てだと思う傾向があるようにも思います。まあ、私に言わせれば、読み方が「浅い」んですけど、ちゃんと勉強していなくて生まれつきでやっている人とかはそれが全ての真実だと思ったりしてしまうのも仕方がない気も致します。

オーラ原理主義も割と似たところがあって、「その時」の他人の状態で他人の全てを判断してしまう傾向がありますね。

まあ、オーラというのは輝いた方がいいのはそりゃそうなのですけれども、生きていれば色々と葛藤やカルマを作ってしまったりしますので、ある時はそのカルマを返さなきゃならないのです。

その返さなくてはならないカルマが「赤い」オーラに関連したことであるのならば、一時期あるいは長い期間になるかもしれませんけど、一旦はその「赤い」オーラにならないとその「学び」は終了しないわけです。そうして初めてカルマが解消される訳です。 ・・・・まあ、普通の解消の仕方のお話をしていますよ。 ですから、普通の生活で、社会常識的にと言いますか、道徳的に正しいと思われるやり方で成長をするのであれば、自分の奥底に眠っているカルマを再生させて解消するには一旦は色々なオーラを身に纏わなければならないのです。

その学びの途中で「いい感じ」に「赤いオーラ」を身に纏っているのに、それを指摘して「貴方のオーラは赤い」「貴方のオーラは淀んでいる」とか言われても、「大きなお世話」な訳です(苦笑)

まあ、それを本人が自覚しているかどうかは別ですよ。学びをする為にはある意味「無知」に一旦ならないと色々な愚かなことはできないことがありますので、人生の計画で「意図的に」無知になることをタイムライン上に意図している場合があります。ですから、計画通りにオーラの波動を落として「赤い」オーラになることもある訳です。

そもそも、人間として生まれる為には高い波動のままでは3次元世界に適応できませんので、高い波動を持った魂が人間として生まれるということは、そもそもその時点で「低い波動を味わう」「低い波動を学ぶ」為に生まれてくることを選択している訳です。それなのに、今更「赤い波動がどうのこうの・・・」とか言われても、「だからどうした!」という感じである訳です。

それとは別に、本当に人生の計画を踏み外して、計画では赤いオーラを持つ予定はなかったのに、しくじったり、ついうっかりした失敗が繰り返される、あるいは、本当の事故で赤いオーラを持ってしまうことがあります。そうであれば、確かにヒーラーなどの助けを借りて本来の道に戻る為に赤いオーラを早急に解消する必要があるかもしれません。

こういうことは、結局はその人の人生の計画が分からなければ今の状態がどうなのか判断がつかない訳です。手っ取り早いのが守護霊に聞くことですね。守護霊もあまりわかっていなくてハイヤーセルフが決めている場合もありますけど、守護霊の方が少なくともリーディングの読み手よりは理解が深い筈ですから。

赤いオーラを解消する方法としては、普通の現実の問題解決方法と割と似ています。

問題を生じさせている原因を取り除いて、活力を与えて、本来の道へと歩ませれば良いわけです。

計画通りで赤いオーラになっている場合、まだまだ赤いオーラを強めて淀ませる計画なのにその途中でヒーラーが割り込んで直してしまったら、喜ばれるどころか計画が台無しになって逆に恨まれるかもしれません。回復期であればヒーラーが助けになるのはアリだと思います。上に書いたように計画外の問題であればヒーラーが普通に直せば良いと思います。

問題を生じさせるということは、理解を深めるということですから、理解を得た後は回復させれば良いのです。その為に必要なのは、基本的にはパワーです。赤いオーラになる為にもパワーが必要ですし、回復させる為にもパワーが必要です。

オーラ原理主義が行き過ぎると他人の「汚れ」を極端に嫌う潔癖主義になってしまいますね。そして、ちょっとでも汚れた人を見つけると指摘してマウンティングすることで自分の立場を優位に保とうとして優越感に浸る・・・。 ほんと、めんどくさい人たちです(苦笑) 最近見なくなって、ほんとせいせいしてます。

表面的なリーディングで誤解する人も減っているのは、昔は生まれつきや独学の人が多かったように思いますが、最近はスピリチュアルな学校も増えたのが原因かもしれません。良いことですね。基本的なスピリチュアルなルールは割と一般常識に通じているものがありますが、スピリチュアルなルールが広まるにつれて、めんどくさい人が減るのは良い傾向だと思います。

上で「普通のカルマの返し方」と言及しましたけど、じゃあ、普通じゃないカルマの返し方はあるのか? と言いますと、いわゆるクリヤ・ヨガ的な考え方で、「パワー(エネルギー)を増やせば意識は向上する」という方法と、あとは、邪道なやり方で「オーラを切り離して他人に押し付ける(自分の学びはなくなる)」あるいは「オーラを切り離して消滅させる(学びはなくなる)」という方法があります。

厳密に言いますとパワーを上げるやり方は「普通のカルマの返し方を超高速に行う」ということではありますが。クリヤ・ヨガは割とユニークなアプローチを取っていて、葛藤の解消とか雑念とか日常生活を良くするなどの優先度が他のヨガの流派よりも優先度が低くて、クリヤ・ヨガ的には「エネルギーの増加がそれらのほとんどの問題を解消する」、というアプローチを取っているようです。ですから、カルマにしても、エネルギーを高めれば素早く解消できるわけです。

オーラを切り離した後、それを誰かに押し付けるのはお勧めしませんけど、ヨーガで言う「火の儀式」(プージャ、真言宗で言うホーマ)でカルマのついたオーラを燃やしてしまうこともできます。

同時にそんなに沢山は学びができませんし、オーラはそこら中に浮いていて歩いているだけでも拾ってしまいますので、自分がフォーカスしている学びのテーマ以外は燃やしてしまっていいように思います。

まあ、燃やす儀式もそんなにもできませんので、少なくともお祓いを(自宅でも)したり、以前書きましたように、周囲のオーラのケーブルを切るくらいはしたほうがいいと思います。

このあたり、魂の遍歴によっても異なるかもしれませんね。下から上に上がる成長の人、つまりは虫や動物・獣から始まって餓鬼や阿修羅を終えて人間、そして更に上を目指す人は赤いオーラから高いオーラになるように歩んでいるわけです。一方で、元々が高い波動のスピリットで人間界を学ぶために波動を一旦落として地上に転生している人は、どの程度まで波動を落とすかによって学びが変わってくるわけです。割と高い波動で学ぶことを終えたら、次は、もっと波動を落として学ぼうとすることがあっても不思議ではないと思います。と言うか、実際、そのような人も多いように感じます。

まあ、色々と書きましたけど、そのあたりまで読み取ってリーディングのカウンセリングするならともかく、その時点の瞬間のオーラや表面的な印象でカウンセリングしたところで相手のためにならないし、相談者が否定したとしたら以下のような誤解が生じるわけです。

・リーディングした人「この相談者は、自分を誤魔化している。私が読み取った内容は正しい。」
・リーディングされた人「このスピリチュアルカウンセラーは読み方が浅い。説明するのも面倒だから、もういいや」

まあ、そうとすれば、カウンセリングなんてそうそうできないと思いますけどね。ある意味、カウンセリングできる人っていうのはその程度のレベルだとも言えます。かなり分かってくれば、段々とカウンセリングなんてできなくなる筈です。

だって、究極的に言えば「何でもいい」のですからね。好きにすればいいのです。それでもカウンセリングするのであれば、前にも書きましたように、やはり主体は相談者であって人生を作るのは本人であるという基本に立った上で、本人が見えていない部分を補完するというコンサルタント的なところに落ち着くのではないでしょうか。

こうなると、もはやスピリチュアルなのかコンサルタントなのかよくわからなくなってきますけどね。本当に優れたスピリチュアリストと優れたコンサルタントは割と似通っている気も致します。

ですから、相手を指摘するだけ指摘してハイおしまい、みたいなスピリチュアルカウンセリングは微妙なわけです。指摘したとしても、「だからどうした!」という感じですよね。面白いだけで終わっていたらスピリチュアルは発展が止まると思います。きっとこれからのスピリチュアルはもっと実在的になっていく気が致します。

続き: 高次のスピリットは人間の悩みはよくわかりません



逆卍(万字)っぽい渦が回転している夢を見た

最初は他愛のない夢でした。登場人物は私以外に3〜4人だったかと思います。 私が寝転んでいる前で他の人たちが少しいがみあって何か騒いでいるような状況でしたが私は最初は無視して寝ていました。でも、そのうち私が「何だか目障りだなあ」と思い始めたらそれがその人に伝わったのか、急に私に近づいて威嚇してきたのです。ここまでは視点は寝ている私の主観でした。

その人が私の近くに来た時、体が接近してきたのでちょっと驚きました。すると、急に遠くの方からズゴゴゴゴという音というか響く低い声で「オオオオーーーイ」とどこかのお寺の住職か修行僧っぽい人かあるいは仏教系の世間慣れしてる神様に呼ばれた気がして、何だろう? と思った瞬間に視点が主観から2人を見下ろして俯瞰する位置のバードビューにググっと切り替わって、そうかと思ったらすぐさま2人の体が空中に持ち上げられて空高く浮かんで行きました。この時点で、その2人以外は視界から消えました。

すると、2人を囲むくらいの大きさの球状の何かが同じところに出てきて、それが出てくると同時に2人の体の形は分解してなくなり、体は見分けがつかない状態になり、やがては球状のまばら模様の「何か」になりました。すると黄色い光を上に出し始めました。やがてそれが回転し出して、すぐにまばら模様から逆卍のようなシルエットになり、尖っている方を先頭にして右回り・時計回りで渦のように回転を始めたのです。

逆卍のようにカクカクしていなくて、根元の方が太くて先っぽが長い形でしたが、出ているところは4つだったと思いますので、割と逆卍に似ていますが、同じではありません。ですので、ヒトラーのハーケンクロイツ(鉤十字)ではありません。

何でしょうこれ??? 数分間、見ていたかと思います。そうして、やがて目が覚めました。

・・・まあ、夢ですけどね。 今のところ特に変化はなしです。

最初はチャクラ関係かなと思ってチャクラのヤントラを再確認してみましたが、特に該当なし。

Wikipediaを見ますと、逆卍はヒトラー以外にも色々使われているのですね。

・ヒンドゥー教万字 (逆卍)
・ジャイナ教旗 (逆卍)
・フィンランド空軍の国籍識別標(1918年 - 1944年)  (逆卍)
・ラトビアの国籍識別標(1926年 - 1940年) (逆卍)

「かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。」と書いてあります。いいですねえ。

こういう夢を見ると、様々なところで使われているシンボルは実在的な効果があるのかなぁ、とも思えてきますね。

まあ、そうは言いましてもこれは夢ですし、様子見です。



アジナの肉体・アストラル・コーザルによる違い

本山博先生の「チャクラの覚醒と解脱」によると、以下のような違いがあるようです。

  • 気の次元や肉体の次元でアジナが活性化した場合:眉間の辺りにピリピリした感じがする
  • アストラル下界で動いている場合:真っ黒
  • アストラル上界で動いている場合:薄いスミレ色
  • カラーナ(アラヤ識)で動いている場合:透明で光って見える
とのことです。

カラーナはサンスクリット語で、「原因体」の意味ですから最近のスピリチュアル(特に神智学の系統)で言うコーザル体に相当します。カラーナはヴェーダ的な言い方ですので一般的にはコーザル体(原因体)の方が知名度がある気もします。

同書ではアストラルに関しては更に以下のような説明があります。

アジナをみていて、それが黒いというか、紫色の黒いような色或いはスミレ色でみえる時は、主としてアストラルで動いている。この状態のときには、テレパシーとかいろいろな能力が出てくるのだが、そういう状態では感情や想念がよけいに激しくなる。音楽家とか画家とか彫刻家等の類の人は、アストラルで動きやすい。そういう場合は色がついている。「チャクラの覚醒と解脱(本山博 著)」

これは興味深いです。

私の場合、ヨガを始めた頃から頻繁に、特にマントラを唱えた時に眉間のあたりにザワザワした感覚がよくありましたが、ピリピリというのは表現の違いだけで同じだとすれば気の次元や肉体の次元で動いていたということになります。両耳の上の方あたりしたらピリピリ感がよくありますけど。

真っ黒な色とかスミレ色というのはよく分かりません。私の場合はアジナより上はまだのような感じです。

ちなみに、コーザル(カラーナ)の話はヨーガスートラの話にとてもよく似ています。

3-25) 心臓に綜制(サムヤマ)を向けることによって発現した光をあてるならば、どんな微細なものでも、人目につかないところに隠されているものでも、遥か遠くにあるものでも知ることができる。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」

ここでは「心臓」となっていますけれども、 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによりますとこれは「心臓」というよりは以下のように読み解くようです。

3-25) (心の)働きがもつ光源を(綜制・サムヤマによって)照射することで、(ヨーガ行者は)どんな微細なものでも、人目につかぬところに隠されているものでも、遥か遠くにあるものでも知ることができる。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

これは、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによりますとアジナ・チャクラの動きを説明したものだとのことです。そして、アジナチャクラは「理智鞘」で働くと言います。ヨーガの理智鞘とは最近のスピリチュアル、特に神智学を元にした流れで言いますとコーザル体に相当しますので、本山博先生と同様のことを言っていることがわかります。

本山博先生がカラーナ(コーザル、アラヤ識)で光って見えると言っているのは、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの理智鞘(=コーザル)でのアジナ・チャクラの霊眼の話と結びつくわけです。



カタカムナ的な松果体の解釈

「カタカムナの道(関川 二郎 著)」では神智学と比較しつつカタカムナ的な松果体と脳下垂体の解釈をしています。

人間の性行為には、脳下垂体に刺激を与えて受胎の準備を整えさせる性行為(6次元の性)と、松果体に共振作用を与えて眠れる機能を目覚めさせる性行為(12次元の性)とがある。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」

■アジナと低次元の悟り
これを基本として、タントラ・ヨーガの手法とカタカムナの手法を比較しています。

タントラ・ヨーガの修法では(中略)クンダリーニを目覚めさせる刺激を与え、さらには想念を丹田(示数・6)に集中してクンダリーニの上昇を促す手法は明らかに眉間チャクラ(6)の開眼を目指すもので、言うなれば低次元(6次元)の悟りである霊視、霊聴に繋がるものである。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」

ここで言う6と12という数はカタカムナ的な読み時に使う数字のようです。次元数などは比喩として、ここでポイントになるのは、カタカムナ的にはアジナ・チャクラの開眼を低次の悟りとしている点です。

これは興味深い解釈です。

同書では眉間チャクラ(6)の開眼を目指す方法として「(胡座のシッダアサナで)会陰をかかとで刺激」を紹介しており、タントラ・ヨーガの手法として記載されてはありますが、この手法はタントラ・ヨーガだけでなく体操のアサナや瞑想を行うラージャ・ヨーガや仏教などでも広く知られている手法ですので、カタカムナ的に言わせればそれらは全て低い次元の悟りであるアジナ・チャクラを開くためのものだと解釈できます。

■松果体と色情
同書では、アジナ・チャクラの脳下垂体と対応して、サハスララだとは明記がないものの松果体について以下のように記載しています。

松果体の目覚めによって色情の欲求はかえって抑制されるので、それほどの忍耐を必要とすることなく「接して漏らさず」のマイナス・エントロピーの性が自然な形で営まれることになる。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」

同書によれば、男性と女性との接し方によって6次元の脳下垂体を共振させるか12次元の松果体を共振させるかの違いがあるとのことです。

■カタカムナ的な脳下垂体と松果体
同書においては以下のような対応であると解釈できます。

・脳下垂体 アジナ・チャクラに対応
・松果体 (おそらく)サハスララ・チャクラに対応

何がアジナで何がサハスララなのかは流派によって異なりますので、これは同書の解釈、と言いますか、同書にサハスララと明記はしておらず「頭頂チャクラ」として言及されているところから私がこのように解釈しました。

■ヨーガ手法への注意
同書では、ヨーガの手法について以下のように注意をしています。

ヨーガのポーズでは情欲が刺激される方向に働くため(中略)情欲に負けてクンダリーニの下降を招いて恐るべき淫獣と化したり、あるいは苦痛に耐えて目標とする空性大楽の境地を垣間みることで「われついに道を極めたり」と錯覚して慢心に陥る等の弊害が伴うことになる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」

ヨーガの道を誤れば確かにこのようになりますし、この本が書かれたのは遥か昔でしたので昔は今よりももっとこういう人が多かったのかもしれません。今もそれっぽい人がいる感じではありますけど、そんなに目立たない気もします。時代背景を理解すれば理解できますが、現代社会にこんなヨーガ行者はほとんど残っていないと思います。まあ、いるところにはいるのかもしれませんが。

■松果体を共振させるべき
同書の細かいところを読み解くのはなかなか難しいところではありますが、脳下垂体を刺激するのではなく松果体を共振させるべき、と書いてあるように読めます。

脳下垂体と松果体はすぐそこにありますので区別もなかなか難しいところでありますし、何がアジナ・チャクラなのかも以前記載しましたように流派によって色々ですので、アジナがどうのこうのと論じても仕方がありませんが、カタカムナ的に言えば脳下垂体がアジナ・チャクラのようですので、アジナというよりは脳下垂体のこういった性質について興味深いレポートがある、として私は読んでいます。

■松果体と自然な禁欲
流派によってはアジナ・チャクラを目覚めさせれば努力のいらない自然な禁欲(ブランマチャリア、ブラフマチャリア)が達成できると書いてあって、その流派のアジナ・チャクラの定義はよくわかりませんがそれが松果体だと仮定すればこちらの話と繋がってきます。

私はアジナではなくクンダリーニ活性時にマニプラ優勢になった時とアナハタ優勢になった時にそれぞれ大きな禁欲のステップアップがなされました。以前書きましたように、最初のクンダリーニ活性化の時には光の筋が2つ頭まで上がりましたので、その時に松果体も刺激されたのだとすれば筋が通ります。

■色々と見えると修行の妨げになる
仏教などでも、色々見える段階は「魔境」と解釈されていますが、それはおそらく脳下垂体のアジナ・チャクラが動いている段階を魔境と言っているような気も致します。魔境というともっと広い意味だとは思いますが、このようなアジナの魔境も含まれているように思います。

何かが見えたとしても気にせずに修行を続けましょう、というのはヨーガでも仏教でも言われていることだと思います。

■霊界の特殊な修行法
これで思い出したのですが、霊界の特殊なマントを使った修行法を思い出しました。

既にある人生でアジナ・チャクラを開いたもののその先になかなか進めない人が使う修行法です。アストラルの事が見えると様々な存在と絡むことになり、修行が進まなくなるのです。それらに悩まされて精神不安定になることもあります。アストラルの世界は色々と怖い事が多いですので。その問題を解決するために、アジナの動きを遮って霊眼を使えなくするマントを覆って、肉体的に目が見えない人と同じように霊眼が使えない、見えない人として生まれてきてこの三次元世界を生きる事があります。

まあ、一般的にはその人が誰なのか見分けがつかないですけど、霊性が高くて霊視ができてもおかしくはない人が霊視できない、という場合はこのマントを使っている可能性があります。

昔、一時期はかなり流行ったストイックな修行法らしいですけど、最近はあまり使う人がいないですね・・・ と、霊界の修行僧っぽいおじちゃんが嘆いていました(苦笑)

とっても良い修行法らしいです。

ただ、とても怖いですけど。アジナ・チャクラが使えなくなっているのでアストラルの様々な変な存在を避ける事が出来ません。

基本的にはこれは一般社会に住む人ではなくて修行僧とかで生きるつもりの人が使うようですけどね。前にこれを使って転生した人の人生を覗き見た時、その人はお寺で修行していました。お寺で座禅しているそのお兄さんはステージが上がらなくて悩んでいるらしく、グルのおじいさんに「まだ何も見えてこないのか? 見えてくるまで座禅を続けなさい」と言われていて、その人は「わかりました。座禅を続けます」と答えて辛抱強く瞑想をしていましたね。この人は前の人生でアジナ・チャクラは開いたのですがその先になかなか行けないのでこのマントを使って転生して修行することを選んだようです。なかなかのストイックなハードな修行ですよね・・・。本来はこの男の人はマントがなければ霊眼が見えるのですが、それは低次の悟りですので、その先を目指して「見えない人」として生まれてきてこのような扱いを受けているわけです。グルのおじいさんからすれば、「全くこの子は、出来が悪いな」と思っているようですが、実際にはこのように、ストイックな修行のためマントを使って「見えない」状態で生まれてきているわけです。この人は今生ではステージが上がらなくて苦労する人生になっているようですが、それも本人が選んだ修行の道のようです。まあ、こんなマントのこと知っている人はそうそういないとは思いますので修行者の違いを見抜ける訳も無い気がします・・・。

アジナ・チャクラで霊視できたとしても、サハスララで体の外に出て探る方法に比べたら精度は全然落ちますので、アジナ・チャクラが低次の悟りでしかないというのもよくわかりますし、であれば、このマントを使った修行者のような人がこの地上世界で生きていることにも納得できます。

まあ、この種のことは、きっとアジナ・チャクラを開眼してから何回も転生すればその意味がわかるとは思いますが、一度も開眼した事がなければ「なんのこっちゃ?」という感じかもしれませんが。

■2つの生き方
魂のステージを下から上、獣から進化して餓鬼になり阿修羅になり人間になり・・・やがてアジナを開花した場合にアジナが修行の妨げになる場合があります。その時にこのマントが使われたりします。

一方、魂のステージを上から下、高次のスピリットが下降して人間になった場合、最初からサハスララやアジナが開いていることが多いような気がいたします。その場合、人間としての経験をより深めるために一時的にサハスララやアジナを閉じて生きる場合がありますが、そのためにこのマントが使われたりします。サハスララとアジナが両方開いている場合は人生に支障がないのですが、人間的生活を続けるうちにサハスララが機能し辛い状態になるとアジナが優勢になって人生の妨げになる時があります。そのような場合、サハスララを再度活性化させるか、あるいは、このマントのようなものを使って一時的にアジナを使えなくして修行する場合とがあるように思います。

どちらの場合でもアジナが人生の修行の妨げになる、という点では一致しているようです。

地球の場合、やがては高次の意識が優勢な人が増えてゆきますので、アジナなしでの人生を修行するには今くらいの時期が最後かもしれませんね。物質的な生活もそれなりに学ぶ事がありますし、今はアジナなしでの論理的な生き方を学ぶのに適した時期であるように思います。であれば、このようなマントを使うのは今の時期に割と向いているような気も致します。人気はないですけどね。



高次のスピリットは人間の悩みはよくわからない

先日のオーラ原理主義のお話の続きです。

これも度々聞くことですけど、まあ、そういうことです。

神社とかもそうですね。神社には色々な神様が祀られていますけど、高級な神様ほど人間の悩みなんてわかりません。人間の魂が祀られている神社であれば、まあ、多少はわかりますけど、時代が違いますから最近の悩みはよく分からない気がします。たま〜にそうでない神様もいるみたいですけど。

位が高い神様であるほど大きな願いを叶えようとしています。神社に行ったら「人類の平和」「世界平和」「家族が健康に」とか、大きな願いをすると良いと思います。

低い神様は人間的な問題を解決してくれることもありますが、人間らしく見返りを要求してきます。その要求に応えなかったりすると呪われたりしますから簡単に神社でお願いなんてしない方がいいですね。お稲荷さんとかは人間と獣が混ざったような存在みたいですから、これにもあんまりお願いとかしない方がいいみたいですね。天狗とかもいますけど、天狗も修験道の行者とカラスとか何かの獣が混ざったような存在ですから、まあ、普通の人はあんまり関わり合いにならない方がいいと思います。色々と面倒な事があると思います。

神様とか言っても、基本は人間の付き合いとそうそう変わらないと思います。

頼りにすべきなのは高次のスピリットなわけですが、まあ、悩みを解消してもらうというよりはエネルギー的な助けになる事が多いように思います。細かなことは人間の方がわかりますから好きにすればいいと思います。

エネルギーが高まればポジティブになりますし行動的にもなります。問題も解決して行くでしょう。

まあ、基本はこんなところで、度々聞くことではありますが、今回はちょっとした神様の小話を一つ。

神様や高次のスピリットは人間の悩みがよく分からないわけですけど、人間の悩みを知るために次元を落として転生する事があります。

その時は、高次の部分を切り離して人間として生まれるわけですが、まあ、そうは言いましても元は神様なわけですから多少はその名残があるわけです。オーラの感じですとか。

そして、先日書いたようにオーラの波動を「知りたい事」に合わせて調整していくわけですが、まあ、人間の事がよく分からない神様は最初は「人間としては比較的高い波動」から始めるわけです。ですが、もちろん神様にとってはそれは「低い波動」なわけです。それでも、人間としては高い波動ということにはなります。

あとはどこまで波動を下げるか? という問題ですが、あまり下げすぎると分離してしまって元のスピリットに戻る事ができないようなので、戻る事ができるギリギリのところまで下降します。潜水艦で最高深度まで潜って水面にまで戻ってくるようなイメージですね。最初は教師とか創造的な仕事で地球に慣れて、そのうち、いわゆる「阿修羅」とかについて学ぶためにもっと下降することもあるようです。戦いの神なんていう表現もありますけど、全部とは言いませんけどこうやって下降していった神のスピリットだったりするわけです。

現代で言いますと、悩んでいる「赤いオーラ」もその種の人だったりする事があるわけです。これは先日書いた通りではありますけど。

ですから、スピリチュアルな人はオーラの色で他人をすぐ判断したがる人がたまにいますけど、それが意図通りなのかどうかは本人のその人生での計画を知らないとオーラを見ただけでは分からないという事ですね。

人生は「失敗」がつきもので、計画内の失敗と計画外の失敗があって、計画内の失敗は問題ないわけです。



色界禅定と無色界禅定は一続きで意識の拡大に繋がる

そんな気がしてきました。先日書きましたようにテーラワーダ仏教では色界第四禅定で悟りでチベット仏教では無色界禅定を最後まで経験してから悟りになっているようですが、どこから悟るかというお話はひとまず置いておいて、少なくとも、色界禅定と無色界禅定とは一続きのような気がしてきました。

色界第四禅定については以前定義を引用しましたが、第四禅定で平安(捨)な心になります。
その状態は、平安ではあるものの、心がまだどこかにしがみ付いている状態だと思うわけです。

順番を追って第一禅定から辿りますと、第一禅定で集中力を使って心を対象に強力な意思でしがみ付くと言いますかくっつけて思考を沈めます。第二禅定になりますとそこまで力を入れなくても集中できるようになり、第三禅定、第四禅定と進むにつれて努力なしの集中状態が可能になりますが、それでも、まだ少しは何かにしがみ付いているのです。

「色界禅定」というのは「瞑想の対象に物質的な何かがあること」という定義がされているようですが、そうは言いましても瞑想は心の中で行うものですから、そのまま読むと「心で行う瞑想なのに物質的な何かがある、とは一体どういうこと?」と思ってしまいますが、ここは読み替えて、「何がしかの対象に集中してしがみ付いているのが色界禅定」と考えると良いと個人的には思っています。まあ、個人的な解釈ですので他所で言っても通じない気もしますので、仮説だと思っておいてもらっても良いと思います。

その仮説に基づきますと、色界では心が、例えば「息」「眉間」あるいは「マントラ」に集中することでしがみ付いているのです。

しかし、無色界になると、しがみ付くことなしに落ち着いて観察することができるようになるのです。この「観察」を同じく「集中」と呼ぶこともできるのかもしれませんが、そこに「しがみつき」はありませんので、まあ、集中と言えば集中状態なのかもしれませんが、しがみ付くことなしに対象を観察できるようになるのが無色界なのだと個人的には思います。

であれば、色界で最初は強烈な意思の力でしがみ付いて心を制御していたものを、色界第一禅定から色界第四禅定に至るにつれて段々としがみ付く力を弱めて、ついに無色界に到達してそのしがみ付く力が不要になる、とすれば、これは色界と無色界の禅定は一続きのものなのではないでしょうか。

比喩的に言えば、色界では「掴んでいた」ものを、無色界にいたることで「手放す(手放し)」が行われたのだ、と表現することもできると思います。

スピリチュアルな人が時々「手放しましょう」とか言っているのは、もしかしたらこの無色界の禅定の状態を表現しているのかもしれませんね。であれば、それなりに高度な状態を表現しているのであって、なかなかこの種の「手放し」はできないように思います。スピリチュアルな人の「手放し」が全てこれかどうかはわかりません。きっと違うと思います。

■無色界第一禅定、空無辺処定(くうむへんしょじょう)
最初の段階では、私の場合は自分が中心で「卵状の漆黒の空間」に囲まれているような気が致しました。

■無色界第二禅定、識無辺処定(しきむへんしょじょう)
この説明は、以下のようになっています。

先の(無色界第一禅定の)空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。「虚空の無辺を認識できたのだから、自分の意識も無辺になった。では今度は意識の無辺を認識してみよう。」と、空無辺処を超えて、今度は「識は無辺である」と認識するのです。対象ではない、でもまだ心の外側を認識した空無辺処定を今度は依りどころ(対象ではありません)にして、空無辺処定のお陰で無辺になった識を、無辺だと認識するのです。空無辺処定より一段高いこの禅定で、とうとう心は外の何ものにも依らない心になるのです。 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

・・・何が書いてあるのか解読困難ですが、自分の瞑想体験と比べて意訳しますと、単純にこれは「意識の拡大」のことかな、と解釈致しました。

色界第四禅定から「手放し」をして無色界の最初の段階に至ることで「卵状の漆黒の空間」が自分の周囲に認識されたのですが、これは要は「境目がある状態」なのだと思います。無色界第二禅定の場合はこの「境目」がなくなるかあるいは「卵状の漆黒の空間」が拡大するのだと思います。

私の場合、以下の手順でこの状態に至りました。

1.息を頼りに色界禅定に入る
2.息にしがみ付いている心を「手放し」をすることで無色界第一禅定「空無辺処定」相当であると思われる「卵状の漆黒の空間」を認識する。
3.「卵状の漆黒の空間」より外を認識しようと意思を働かせる。まずは一方向から始め、少しずつ意識を拡大してゆく。例えば左方向から初めて部屋の壁まで至ることで意識を拡大し、右の意識を拡大して部屋の壁に至り、上、前方、後方、とそれぞれ繰り返すことで部屋の大きさまで意識を拡大しました。方向によっては部屋の外まで伸びましたが、今のところ私はこのくらいが限界のようです。

「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと無色界禅定の定義が若干異なっています。こちらに基づきますと、いわゆる「意識の拡大」まで済ませた状態が無色界第一禅定の「空無辺処定」であるように読めます。

第四の禅定に到達しおわってから、修行者は「すべての構成要素(ダルマ、諸法)は限りのない空間に似ている」という観念を発展させ、触覚・視覚・物質的な構成要素を微細なものにいたるまで完全に離れる。修行者はこのことに心を専注し、それを発展させなければならない。それの発展のうえに、かれは無限の空(くう)の領域の禅定(空無辺処定、くうむへんしょじょう)を完成する。これを完成してから、修行者は「意識は限りのない空間に似ている」という観念を発展させなければならない。 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」

この表現は、まさに「意識の拡大」ではないでしょうか? 段階ごとの定義が微妙に異なるとは言え、「意識の拡大」が遠からず無色界禅定の最初の段階に関連しているような気が致します。



瞑想中に感じる各所のザワザワ感

瞑想中、ムーラダーラ(会陰)とアナハタと後頭部にそれぞれザワザワした静電気のような感覚があります。これはエネルギーの高まりあるいはエネルギーの通過だと思っております。

ムーラダーラはヨガを初めた最初の頃からよくザワザワしていましたが、ここ最近はかなり長い時間続きます。アナハタは以前はこんな感じになりませんでしたが、ここ最近はザワザワします。後頭部もここ最近からです。

後頭部に関してはスピリチュアル系の以下の記述がありました。

ライトボディ第7レベルでは松果体と脳下垂体が開き始め、額か後頭部に圧迫を感じるかもしれません。「ライトボディの目覚め」

まあ、圧迫といえば圧迫ですね、この感覚は。

この第7レベルでは以前 引用しましたようにハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になって、はるかに「いま」のなか行動するようになると言いますので、私の今の段階に近いと思われます。

それとは別に、今日の瞑想では頭のてっぺんの少し内側(頭頂葉?)の感覚が出てきました。今までそこは感覚がなかったのですが、感覚が出てきたということに加えて中の方で血液の脈動を感じるようになりました。場所的には松果体に近いところではありますが、どうなのでしょうかね。松果体であれば何か変化があっても良さそうですが、まだ明確な変化はありません。

まあ、様子見といったところです。

この他にも、アナハタ優勢になって以降はかなり頻繁に両耳の上にザワザワ感がありますが、日によります。

■後頭部のジンジンする刺激
本日瞑想していたら、ザワザワ感だけでなく時々、チクチクとまではいかないですがジンジンと言いますか鈍い刺激が後頭部の中心の先っぽ、ツボで言いますと脳戸(のうこ)のあたりか、あるいはそのちょっと上で刺激がありました。玉枕(ぎょくちん)というツボは2つあるみたいですけどその中間のあたりですね。何でしょうね。しばらくしたら治りましたけど、感覚は続いています。

これは、以下のことかもしれませんし、そうでないかもしれません。

ライトボディ第8レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するにしたがって、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。(中略)このプロセスでは脳が文字通り「成長する」地点があるので、一人ひとりに合ったやり方をしてください。あなたの脳は大きくなりつつあるのです。「ライトボディの目覚め」

そうであれば良い前兆ですが、関係ない感じであれば病院で診察してもらうつもりです。とりあえず日常生活に支障はないのでそのままです。

■両耳の上のザワザワ感
これも同書に説明があり、両耳ではなくて右耳のお話ですが、右耳の少し上で過去の記憶にアクセスするための構造が活性化されるとのことです。これはまだ自覚はありません。



トニー・パーソンズの悟り

私はこの人は知りませんでしたがたまたま図書館の関連図書リストに表示が出たので借りてざっと読んでみました。

この人の悟りの経験は公園で起こったと記されています。

歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。(中略)自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。(中略)ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(中略)いついかなる場所でも、私は静寂、無条件の愛、一元性(ワンネス)に完全に包まれ、抱擁されている。「オープン・シークレット(トニー・パーソンズ 著)」

これ、アナハタ優勢になって少し後に記したこの記事「雑念が減り、『いま』に生きる」の内容に似ていますね。

「自分が歩くのを観察している自分」とは文字通りでは解釈が困難ですが、その前後の文脈を読み取ると次のように解釈できます。

・最初は、雑念が多い状態だった。
・雑念が消えたとは明記してありませんが、雑念が消えたと解釈できます。雑念が消える前が「自分が歩くのを観察している自分」だとすれば、雑念が消えた後が「歩きがただあるということ」の状態であり、前者から後者への移行がこの公園で起こったと解釈できます。
・その結果、「時間がなくなり」、「私はもう存在しなくなる」「私は消え、経験する者がいなくなる」という状態になった。

本人は「何もしていないのに起きた」と記していますが、私には彼が偶然にヴィパッサナー瞑想に入ったように見えます。であれば、何もしていないのではなく、文字通りしっかり「観察」をしたのだと思います。本人は修行とかをしなくていきなりその状態に入れたので修行方法とかわからないようですけど。

これは、本人が「勝手に自動的に起きた」と思っているだけで、物凄く合理的な話だと私なんかは思います。修行方法もきちんとありますし。

一昔前であればこのくらいでも「悟りを開いた」とか言って団体作ったりセミナーしたりしていたのかもしれないですけど、最近ならこのくらいは割と普通に達成できる段階のような気が致します。悟りにも色々な段階がありますね。

雑念のうち「過去」に関するものは自分のカルマというかサムスカーラという「印象」によって何度も呼び起こされますし、「未来」に関する雑念は想像で期待なんかをして頭の中で想念が何度も繰り返されるわけです。この二つを止めれば「いま」に生きて同様の状態になるのは明らかです。ヴィパッサナー的なお話でもありますし、ヨーガのお話でもあります。

まあ、何度か詳しく書いた気がしますので繰り返しませんけど。



カタカムナ的な雑念の停止方法

オリジナルの記載は眠る時の工夫についてですが、起きている状態で似た仕草として「目を上に向ける」をしただけで簡単に雑念が停止しました。

(前略)・・・これによって眼球が自然に上方に回り、思考作用が停止状態となる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」

この仕草、まるでクリヤ・ヨガのババジの肖像画を思い出します。


「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より

クリヤ・ヨガと言えばケチャリ・ムドラですが、私は舌は届かないもののなんとなく舌を上に上げてみましたが、舌を動かすだけでは雑念とは関係ないようです。一方で、眼球を上に上げるだけで雑念が止まります。

これは、意外に使えます。盲点でした。あまりこんなことしないですからね・・・。他の人も同様にして雑念が止まるかどうかは知りませんが。

カタカムナ的には眼球が上がるのは結論であって意識的にやらないようですけど、まあ、それはそれとして。

この仕草は、星が見える場所で宇宙を眺める姿勢に似ていますね。

普段の生活で上を見ていると「あの人どうしたのだろう?」と思われてしまうかもしれないですけど。そこまで力一杯上を向かなくても、ちょっと上方向を向けるだけでも十分雑念は止まるような気が致します。

これはいい情報でした。

最近は普段の生活で雑念にそれほど振り回されなくなったとはいえ、雑念を消す方法がいくつもあるに越したことはありません。

息に集中することでも雑念は消えますけど、目を上に向けるやり方の方がそれよりも簡単な気がしました。

ただ、息に集中・観察した方がずっと瞑想っぽくなる感じではありますが。私の場合、息に集中する場合は心臓あたりの胸の動き全体に意識を合わせますので、そのままアナハタへの瞑想に繋がるので息に集中・観察した方が瞑想の時は良さそうです。一方で、瞑想中以外の場合などで単純に思考をすぐに止めたい場合は上を向く方法が良さそうです。



瞑想でアジナ・チャクラを想う

先日の瞑想中のザワザワ感に関する記事の続きです。最近の瞑想では、後頭部にエネルギーを通すことを意識してやっています。頭の力を抜いた状態で、眉間から後頭部にかけて広範囲を意識しています。エネルギーの通し方は以前 書いたように分割して上げています。

今日の瞑想で、いつものように下半身のエネルギーを意識で回転させてから上昇させると、ちょっと違った感じになりました。今日はエネルギー上昇と共に急にお腹がプクッと膨らんだ感じになり、(目は瞑想中は閉じているのですが)急に視界が明るくなり、エネルギーが頭に来たことで両耳のあたりがツーンとした感じになりました。両耳はトンネルや飛行機の中で気圧が変わった時の感覚に似ていますが、ツーンとする場所は両耳の付近だけです。両耳がツーンとした後、両耳の、特にまぶたのあたりがピリピリと帯電している感じになりました。そして、鼻の左側(頬の上、目の下)あたりがピリピリと帯電しました。その後、前頭葉から登頂にかけての部分が明るくなったような気がしました。その状態でしばらく瞑想を続けていると、今まで視界になかった筈の左上の部分に何かモヤモヤとしたイメージが出てきた気もするのですがまだよく見えません。いつものように度々、会陰のムーラダーラのあたりでピリピリとした感覚がありました。

視界が明るくなるのは度々起こってはいるのですが、今までは外の明るさの変化によるものなのか瞑想によるものなのか区別がつきにくい感じでした。しかし、今回はタイミング的に様々なことが同時に起こった感じでしたので、やはりこの視界の明るさは瞑想によるものだ、という理解に変わってきています。

お腹がプクっとした感じは、本山博先生の「密教ヨーガ」のアジナチャクラに関する説明の中でさらっと以下のように言及してあります。

(前略)・・・そして、スワディスタナのあたり、下腹部が鉄のように固くなります。「密教ヨーガ(本山博 著)」

鉄というよりはプクっとした感じですが、まあ、ニュアンスは似ているかなと思いますので何がしかアジナと関係があるのかもしれませんし、ないのかもしれません。その後、お腹だけでなく胸もちょっとプクっとした感じになりました。

見えている光は、どうもアジナ・チャクラのヤントラに似た形のような気がしてきました。これは、「密教ヨーガ(本山博 著)」によるとイダ・ピンガラ・スシュムナの3つのナディの合流点だと言います。


「密教ヨーガ(本山博 著)」より

又、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの解説によれば以下のようにあります。

アージュナー・チャクラ。瞑想中、この光は丸く視えたり、ランプの炎のように視えたりします。また時には、このアージュナー・チャクラの形が白く光る2つの花弁の形にも視えたりします。(中略)このアージュナー・チャクラがなぜ2枚の花弁によって描かれているかと申しますと、それは眉間で、スシュムナーを中心にしてイダーとピンガラーという3つの導管が1つに合流しているからです。(中略)そしてこれら3つの導管が合流している眉間の少し上、頭蓋骨の空間内にブラフマランドラがあります。ですから、行者がアージュナー・チャクラに上手に瞑想できるようになれば、続いてブラフマランドラ内のサハスラーラ・チャクラへと入ってゆくこともできるようになります。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

私の場合、2つの花弁というよりもヤントラの形に似て、真ん中に大きな白い光、その左右にチョコンとそれぞれ光がくっついている感じです。とは言いましても、ぼやけていますのではっきりとした形があるわけではないのですが。

今日初めて、頭の上の方の光に気がついたと言いますか、恐らくは昔からあったのですが、今日初めてそれをちゃんと意識して認識できました。

もともとシルエットのように見えていたのですが、光がつくことで形が浮かび上がってきた感じです。今までも微妙に光っていたのですが外の光が目蓋を突き抜けて見えているだけなのかわからなかったのです。今日も確信とまではいきませんが、まあ、やっぱりこれはそうなんだなと思った次第です。いつも常時光っていると言えばそうなんですが明示的にエネルギーを上げてあげると光るんだな、と。そうは言いましても、ぼんやりと光っているくらいの感じですが。もっと明るくなるのかどうかはわかりません。この場合、スシュムナから供給されるエネルギーが重要なのかなと思います。であれば、スシュムナを浄化してエネルギーが通る状態にしておくのは非常に重要ですね。

左上に見えたぼんやりとしたイメージは、夢で見た私のグループソウルの前世の体験に基づくといわゆるアジナの霊視・リモートビューに相当するのだろうとは思いますが、まだ意味のある映像は見えていませんのでこれは仮説の段階で様子見中です。

どこかの本で、左上は過去で右上は未来とかいうお話もありましたが、どうなのでしょうかね。夢で見た私のグループソウルの過去生では何も使わずに「斜め上」を見ていたり、あるいは水晶球を使っていましたが水晶球の場合は水晶球の中に見えていましたね。

まあ、見えるときは太陽のように見えるって言いますから、それに比べたら全然な感じですけど。

そういえば、肉眼で光が見える場合と霊眼で見える場合とがある、ってどこかに書いてありましたね。単なる集中だけでも光が見えることがあるとか。ですから、やっぱりヨーガの基本で言われるように、瞑想中に見えたり聞こえたりしたことは重要ではないのであまり気にすることはない、というのはそうなのでしょうね。



後頭部のジリジリ感によるエネルギーの高まり

先日 の記事の続きです。最近は瞑想中に後頭部がジリジリというかザワザワした感じが続いています。

よく観察してみますと、瞑想の最初はジリジリ感はないのですが、下半身のエネルギーを回転させてから頭の方へと上昇させることをすると後頭部がジリジリするという相関関係があることに気がつきました。1回エネルギーを上昇させた後そのまま見守っていると、やがて後頭部のジリジリ感がなくなってゆきます。そこで再度下半身のエネルギーを回転させてから上昇させると後頭部が再度ジリジリし始めます。

エネルギーの強さによってその感覚も変わるようです。ジリジリ感がなくなったら次のエネルギーを上げるというサイクルですと同じくらいのジリジリ感が続きますが、なくなる前に次のエネルギーを上げるくらいの少し早いサイクルに変えてみたところ、ジリジリ感から圧迫感のようなものに変わりました。後頭部が少しパンパンになった感じです。

このパンパンになった感じは、先日の下腹部のプクッとする感覚や、胸のアナハタ付近がプクッとした感じに似ています。今日は下腹部も胸もさほど変化がなくて最初からある程度プクっとしている感じで変化はないのですが、その感覚が似ているということは下腹部やアナハタのプクっとした感じはエネルギーが溜まった感じのような気がしてきました。

ということは、以下3箇所にエネルギーが溜まりつつあると言えます。

・下腹部 マニプラ等  先日、最初にプクッとした
・胸 アナハタ  先日、(マニプラがプクッとした後に)ザワザワ感に続いてプクっとした
・後頭部 ザワザワ感がしばらく続いた後、(先日アナハタがプクッとした感じがした後に続いて)今朝プクッとした

この後頭部のエネルギーの高まりが進むとどうなるのか・・・? はこれからのお楽しみです。



天のエネルギーをサハスララを通じて体まで下ろす

今朝の続きです。下半身のムーラダーラやアナハタなどのエネルギーを回転させてから頭のあたりまで上げることにより、まず後頭部がプクッというかちょっと硬い感じになってエネルギーが充満している状態になりました。その後、もっとエネルギーを貯めて眉間のあたりまで満たそうと思ったのですが、なかなかエネルギーが溜まらなくて頭の下半分くらいまでは溜まるのですがなかなか眉間にまでエネルギーが充満した感じにはなりませんでした。

そこで、いわゆるソーハン瞑想法のように下半身のエネルギーだけでなく天(宇宙、星々)のエネルギーを使うことにしました。ソーハン の場合はソーでエネルギーを下半身から頭のあたりまで上げてハンで頭から下半身まで降ろすのが基本ですが、流派によってはハンで天のエネルギーを体まで降ろすことをするように記憶しておりますので、それを真似て色々と試してみました。

今日、うまくいったのは息を吸うタイミングで天でグルグルと右回り(天を見上げて時計回り)に回した後に息を吐くタイミングで頭のあたりまで降ろす方法です。夜の空の星々やスタートレックに出てくるような宇宙船をイメージしつつ回転させてから、天のエネルギーを頭のてっぺんを通って頭まで降ろすのです。これで、頭の中に天のエネルギーが簡単に充満しました。一部は首より下まで入る感じですが、基本的には頭でエネルギーを受け止めている感じです。

実は、同じようなチャレンジは以前からずっとしていたのですが、こんなにもちゃんとエネルギーが降りてきたのは今日が初めてでした。頭のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。今までは、同様の動作でエネルギーを体に取り入れようとしてもエネルギーがほとんど入ってきませんでした。なんとなく、頭の上のあたりで遮られている雰囲気が今までありました。

今日、こうして天(宇宙、星々)のエネルギーが多少なりとも使えるようになったことで、エネルギー的な自由度を得た気が致します。ただ、完全に通ったというほどではないにせよ、天のエネルギーへのアクセスルートができたことは大きい気が致します。

今まで、最近感じているエネルギーがどこからやってきているかの自覚はあまりなかったのですが、これまではおそらく「地(地球)」のエネルギーが大きかったように思います。マニプラ、アナハタ、ムーラダーラあたりですね。

今日、天のエネルギーにアクセスできるようになったのと同時に、登頂のサハスララあたりがすっきりした感じが致します。

同時に、登頂あたりにもピリピリした感覚が出てきました。

かと言いましても、特にこれと言って実生活における変化はあまりないのですが、そういえば、今日スーパーに買い物に行った帰り道、自転車に乗ると同時に事故に気をつけるようにとのインスピレーションを受けましたね。

この種のインスピレーションは以前からあったのですが、今日のは明確に分かりやすいものでした。シグナルの強度が強くなったというわけではなく、強度は昔と同じくらいではあるのですがセンサーの感度が上がったという感じでしょうか。明らかにそれと分かりました。

この時、今日はお試しでドラゴンクエストウォークをやっており、自転車に乗る前に目的地や敵をちょっと確認したのでした。流石に自転車に乗りながらスマホは使いませんけど、頭がゲームのことに気を取られて、どのあたりが次の目的地かなとか考えながら自転車に乗っていたら注意散漫になって事故って軽い怪我をするという警告でしたのでゲームは終了させ、スマホはバッグの中に入れて家に帰ることにしたのです。

そして、どんなタイミングで事故るかまではわからなかったので注意深く周囲を見ながらゆっくり自転車で帰ったのですが、おそらくタイミング的にビルの工事現場から急に作業員が出てくるタイミングが危ない感じでした。警告を無視していたら自転車で衝突して自分が自転車から転げ落ちて怪我をしていたと思います。

まあ、そんな感じで、感度は良くなっていますね。スピリチュアルですとサハスララはクレアコグニザンス(透知)みたいな能力で言い表わされていますけど、今日のはそんな感じかもしれません。

そう言えば今日、瞑想で落ち気味だった時に大音量のブザーが鳴って飛び起きましたね。これは昔から度々あります。



天のエネルギーを頭に充填させる瞑想

先日の続きです。 天のエネルギーを頭まで下ろして充満させ、その状態で瞑想を続けてみました。エネルギーを下ろさないと少しずつ漏れているのか消耗しているのか、エネルギーの圧力が少しずつ弱まっていく感じですので度々エネルギーを再充填させながら瞑想をしたのです。

今のところ大きな変化はないのですが、突然少しだけ頭がブルブルブルっと震えましたね。何でしょうか。頭の真ん中あたりの感触も同時にありました。

瞑想中はそのくらいだったのですが、瞑想を終えてみると、両目の脇の少し下の内側、頬の上あたりがプクッとした感覚が残っていました。何でしょうね。鏡を見ても変化は自分ではよくわかりませんでしたが、目がぱっちりとしたかもしれません。今日だけのことなのか明日もこんな感じなのかはこれからの様子見です。

噂ではサイキックは目の脇あたりで見分けがつくと言いますけどね。まあ、わからないでもありませんけど、自分の顔ではそんな感じはしないです。

その他にあったのは以下です。

・頭の真ん中あたりで、唾を飲み込む時と似たような感触。何かが一瞬だけ膨らんだような?
・先日と同じように後頭部に鈍く刺すような感触(痛くはないですが)
・後頭部、口の周り、鼻の横などにザワザワとした細かい振動と微小な静電気のような感覚。

天のエネルギーを下ろす瞑想を始めてから先日のサハスララに集中する瞑想における注意で少し言及したような不快感も時々出ていて、その度にグラウンディングしていました。サハスララに集中する瞑想は注意が必要で、天のエネルギーを下ろす時はサハスララを通過させるので同様の注意が必要なのかなと思います。ただ、エネルギーがここ最近は通るようになっておりますので、サハスララが詰まっていた頃に比べれば似たような症状の対処もしやすい感じが致します。

まだ決定的な何かがあったわけではないので、まだまだ様子見といったところです。



Youtubeで見たスピリチュアルなスクール

とあるスピリチュアルなスクールの映像をYoutubeで見ていて、「ふ〜ん。そんなに遠くもないし、通ってみるのもいいかもね〜。でもお高そう」とか思っていたら、急にその映像のイメージと本人の声が頭の中に現れて、「え〜? 貴方、来る必要ないじゃない。べつに来ても良いですけど。(来るものは拒んでいないので)」みたいなかなりリアルなテレパシーが伝わってきました。

さすがこういうスクールしていると普通にテレパシーで伝えてきたりするのですね・・・。受講候補生まで感知するとは。

ただの白昼夢かもしれませんけど、本人の声と瓜二つでYoutubeの感じと凄く似ていたので、可能性としては本当に本人(おそらくそうかな?)か、あるいは内なるガイド・守護霊がそれっぽいイメージを使って伝えてきたのかもしれません。

まあ、何となく言わんとしていることは分かりましたので、(今のところ)通うことはないかな。



天のエネルギーを上半身に満たす

天のエネルギーを下ろすのは瞑想中でなくても日常生活しながらでも簡単にできる感じですので、思い出す度に度々エネルギーを下ろしていました。
それと共に、今まで使っていた地のエネルギーと言いますか下半身のエネルギーと天のエネルギーの質の違いが分かってきました。

お腹のあたりに溜まっているムーラダーラやマニプラなどのエネルギーは質的に地中のエネルギーを少し純化したものですね。

地のエネルギーはお腹のエネルギーよりももっと泥っぽくて、ちょっと子供っぽい匂いがします。ちょっとオシッコ臭い子供のような匂いとヘドロの匂いとが合わさったような、あまり快適ではない匂いです。それが地のエネルギーとそのエネルギーの「匂い」です。地中にあるエネルギーですね。

その「地」のエネルギーを純化して、匂いがかなりなくなっている状態のものがお腹のあたりに溜まっています。それを更に純化したものが胸のアナハタにあって、更に純化したものが頭のあたりにあるようです。ですので、以前にも書きましたように下半身のエネルギーをサハスララにいきなり上げるのではなく一旦頭の下半分・前半分くらいに集めてから改めてサハスララに上げる、というようなことを以前はしていたわけです。そのことで、比較的荒いエネルギーをいきなりサハスララにあげるのではなく段階的に純化しつつ上げることができていたわけです。その時は天のエネルギーにはまだ繋がっておらず、サハスララのエネルギー・ルートが開いていない状態でしたのでそうやって下の方からサハスララにアクセスしようとしていたわけです。そうして、後頭部のあたりにブロックのような硬い部分があり、それにエネルギーをぶつけて柔らかくしてブロックを解除し、越えようとしていたわけです。

今はそのブロックが(全部かどうかは分かりませんが)一応は外れてエネルギーが通るようになりましたので、地のエネルギーを頭に上げるよりは、エネルギーの質的に言っても天のエネルギーをサハスララ経由で頭に入れる方がスッキリするような気がしてきました。

そうしているうちに、天のエネルギーを頭だけでなく上半身にも少しずつ満たすようになりました。

ここで、以下のことが起こりました。

・エネルギーを何度も頭に充満させていたら、眉間の少し奥あたりで頭痛がしました。偏頭痛とは違う頭痛で、不思議な頭痛です。これが噂に聞く、スピリチュアルな成長に伴う頭痛というものでしょうか? 単なる普通の頭痛かもしれませんので様子を見ています。
・首の後ろあたりにエネルギーを下ろした瞬間に突き刺すような痛みが一瞬走り、やがて消えました。「ライトボディの目覚め」によりますといくつかの原因が考えられ、エーテル的に何かがブロックしている場合、あるいは、成長に伴う痛みである、と解説されています。

■エネルギー酔い
天のエネルギーを頭に使い出したら地のエネルギーを頭に上げる気がほとんどしなくなりましたが、試しに再度下半身から地のエネルギーを頭まで上げてみたところ、泥っぽいエネルギーが頭に入ってきた瞬間に少しヘドロの匂いを感じ、少し吐き気がして若干のエネルギー酔いみたいな感じになってしまいました。つい先日まで上げていた地のエネルギーの筈なのにこんなに違いを感じるなんて不思議です。

今までは天のエネルギーが使えなかったから仕方なく地のエネルギーを使っていただけで、エネルギーの質が違うので地のエネルギーは本来頭に合わないような気がしてきました。頭には天のエネルギーを詰めるのが良さそうです。もしかしたら今までサハスララの瞑想で安定感を失っていたのは地のエネルギーの質が原因なのかもしれません? 以前にサハスララに関する瞑想の記事などでも書きましたようにサハスララに集中する瞑想には色々と注意が必要ですが、もしかしたら、それはエネルギーの質とサハスララがほとんどの人には開いていないから、というところが本当の理由なのかもしれません。まあ、私も完全に開いた感じはしていなくて少し開いたというくらいな気がしていますが。

天のエネルギーを使っていてもまだ慣れないせいか少し空間が揺れている感じが続いていますが、天のエネルギーであれば地のエネルギーの時のような吐き気はありません。エネルギー酔いはちょっとはありますが。エネルギーを高めることによる酔いはどちらのエネルギーでもありそうな感じです。地のエネルギーは少し匂いと吐き気があるということなのかもしれません。

仮説ですが白隠禅師の禅病もこの辺りを使って説明できるかもしれません。エネルギーの質とサハスララの状態によって吐き気があったりエネルギーが詰まったりしていると禅病っぽくなることは多いにあるような気が致します。

■内なるガイドのヒント
内なるガイドが言うには、この天のエネルギーを使う時にある程度の純化を済ませて雑念を落としておかないとうまくエネルギーが流れない、とのことです。

瞑想で天のエネルギーを使う手法は数多くありますが、先に心の平穏を達成しておかなければ感覚が鋭くなるにつれて段々と苦しくなる、とのことです。その例として、超感覚が目覚めたいわゆるサイキックが能力を優先させたことにより情緒不安定に悩んでいる、などの事例があるようです。本来は天のエネルギーの活用の前に心の平穏を達成しておくべきで、そうであれば何ら苦しむことなく先に進める筈なのに、能力を優先させたことにより苦しんでいる人が大勢いる、とのことでした。

心の平穏、いわゆるヨーガスートラ的に言えば心の死滅ですしヴィパッサナー的に言えば観察瞑想なわけですが、そのレベルの心の平穏が先でないと苦しむだけだ、とのことでした。

■首の突き刺す痛みとエネルギーのブロックの関係
首の突き刺す痛みがあった後、首のエネルギーが上下に通りやすくなったような気がします。であれば、首にあったエネルギーのブロックが一つ外れたということのような気が致します。

先日まで胸単体および頭単体でそれぞれエネルギーが充満してプクッとした感覚があって、特に頭の方はエネルギーが高まるにつれて圧力が高まっている感じがありました。それは、上方向にはサハスララにブロックがあって、下方向にはおそらく首のあたりでブロックがあったのかなと思います。首のあたりのブロックは半分ブロックされていたような雰囲気です。エネルギーは一応下から頭にまで入っていましたから。

首の突き刺す痛みがあってエネルギーのブロックが外れたことにより、頭でプクっとした圧力の感覚はあまりしなくなりました。おそらくは、先日までは頭のエネルギー(の圧力)を高めることでサハスララと首のブロックを押して崩そうとしていたような状態だったのかなと思います。それが今日はブロックが一段と外れて、エネルギーが上下に通りやすくなったのかなと思います。

■覚醒でもなく、ぼーっとしているわけでもなく、愚鈍でもなく、彷彿でもなく、落ち込んでおらず、喜んでおらず、目は覚めているが活動的でもなく、眠りでもない瞑想
この天のエネルギーを使って瞑想をしていたら、このような状態になりました。意識ははっきりしているのですが、ピカーっと光るような覚醒状態ではなく、かと言ってどんよりとしたぼーっとした愚鈍な感じでもなく、かと言って彷彿でもなく、かと言って落ち込んでいるわけではなく、かと言って喜んでいるわけでもなく、活動的というほどでもなく程々に目が覚めており、眠りではない、そのような不思議な瞑想になっています。なんでしょうこれ・・・。言葉で言い表すのがとても難しいです。

基本として、この瞑想の間は想念がかなり減っていて「いま」に生きている状態であるわけですが、状態を言い表そうとすると上記のようになってしまうのです。

昔は「いま」に生きる瞑想をすればある程度の彷彿と永遠を感じていたわけですが、どうも、今日の「天のエネルギー」を使った瞑想ではそんな感じになりませんでした。

なんでしょうね、これ。

仮説では、おそらくは世界が広すぎて認識できていないのかな、と。昔は割と世界が狭くて「いま」に生きたとしてその人生観といいますか瞑想の世界は割と狭くて、狭いとは言いましても広くて永遠っぽい空間を認識することができて「彷彿」とか「永遠」とか思っていたわけですが、今はあまりにも広い空間に投げ出されてしまったので、一体どういうことかさっぱりわからない・・・ という状態なのかな? と。そういう仮説です。

まあ、相変わらず様子見なわけですが。







LGBTと魂の性別(次の記事)