ヴェーダンタ派とヴィパッサナー系のサマーディはただの集中瞑想で悟りではありません。一方、サマーディを悟りに位置付けている流派もあります。これは一見するとヴェーダンタやヴィパッサナーの方が上のように思えてしまうかもしれませんけど、実際のところ、そうではありません。サマーディという言葉の定義が異なるのです。
サマーディという言葉は謎めいていますけど、その定義は実のところ流派によって異なっています。
そのように、言葉の定義が違いますから、実際の境地という観点を基準にすれば、言葉と表現は違えども、どちらも悟りという位置付けからしたら最終目標は同じだと私は考えております。
特にヨーガ系ではサマーディが悟りとほぼ同等に扱われていて、日本ですと禅が三昧がサマーディに相当します。サマーディの日本語の当て字がサマーディですので発音も似ていますね。サマーディに至って悟り、という位置づけです。
一方、特にヴェーダンタ学派とヴィパッサナー系においてサマーディはただの集中瞑想だと位置づけられていて、それぞれ悟りに相当する段階に別の言葉があてがわれています。
ですから、ヴェーダンタ学派やヴィパッサナー系の流派に属している人が「サマーディを達成しても一時的なものなので、サマーディ瞑想が終わってしまったら元に戻ってしまうのであればそれは悟りあるいはヴェーダンタ学派におけるモクシャ(自由=悟りに相当)あるいはヴィパッサナー系のヴィパッサナー(観察=悟りに相当)ではない」、みたいなお話をするわけです。もちろんそれぞれの流派は自分の流派のことだけを言うわけですが、言葉の定義は違っていても、これらの流派はこの点について似通っているように思います。
インドではこれらの流派とヨーガの系統の間で仲が悪い場合もあり、例えばヴェーダンタ学派の人がヨーガ系の人に対して「サマーディなぞ一時的なものだ」とか言ったりします。本人は罵ったつもりはなくて自分の流派に忠実に表現しているだけなのでしょうけど、そう言われたヨーガ系の人はカチンと来て喧嘩になったりするわけです。まあ、そうして喧嘩になるということはその人達の程度も知れるわけですけど、そもそも、そうして誤解が生じるのかというと言葉の定義が流派によって違うからです。
喧嘩というわけではないですけど、例えば、インドのヴェーダンタ系で勉強した人が日本のとある勉強会で「サマーディなんて一時的なものだからモクシャ(自由=悟りに相当)ではない」なんてしたり顔で言っていたのを聞いたことがあります。これはきっと本人が知らないだけなので悪気はないと思いますし自分が勉強したヴェーダンタ系の流派ではそのように教えられているのですからそれ自体は真実なのですけど、ヨーガ系やその他の流派に喧嘩を売っていると思われても仕方がないように思います。本人がどの程度自覚的かどうかは知りませんけど。
大抵の人は1つの流派でしか勉強しないでしょうから、このような誤解も生じるわけです。少なくとも、大切な言葉の定義くらい別の流派との違いを把握しておいてほしいものだと思います。他の流派で大切にしている言葉を軽く扱われたら嫌なのはどの流派だって一緒だと思いますが。
ヴェーダンタ系あるいはヴィパッサナー系のサマーディの定義は上に述べた通りですけど、ヨーガ系はどのように表現しているかと言うと割と秘密主義で、サマーディが何なのかは流派に属してそれなりに修行を受けないと伝授してもらえません。
ですけど、この時代であれば書物からその一端は垣間見ることができます。
肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。(中略)単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによってのみ、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」
この著者はヨガナンダの流派で修行された方ですが、この記述は真実を示していると思います。であれば、サマーディとは単なる集中ではなく、心の本性とも言うべき深い心が現れてきた状態であると言えます。
禅の三昧(サマーディに相当)もこれと同様に、ただの集中ではありません。禅では日常生活の全てを禅として捉え、三昧(サマーディ)を日常生活にまで広げることを良しとしています。掃除をしている時も禅ですし食事をしている時も禅、何をしている時も禅なわけです。そして、そのような三昧の状態を一続きのものとして継続的に維持することが悟りの境地のしるしの1つとして説明されています。これは、ヴェーダンタ学派やヴィパッサナー系の言うような「サマーディとは一時的なもの」という立場とは異なっており、たしかにサマーディに達した修行の最初のうちは一時的なものですが、やがてそれが日常生活に広がってゆくものなのです。
同様の、日常生活そのものをサマーディにするというお話はヨーガ系の流派でも言われており、また、チベット系のゾクチェンでも言われています。
ヴェーダンタ学派はサマーディをただの集中瞑想としていますが、私の見たところ、ヴェーダンタ学派が目標としているモクシャ(自由)がその他ヨーガ系などの流派のサマーディに相当しているように思います。ですから、ヴェーダンタ学派がモクシャ(自由)と言った時はヨーガ系のサマーディの言葉に置き換えて、同様に、ヴェーダンタ学派がサマーディと言った時はヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)だと思えばいいわけです。
ヴィパッサナー系もほとんど同じで、ヴィパッサナー系がヴィパッサナーと言ったらヨーガ系のサマーディに相当して、ヴィパッサナー系のサマーディはヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)なわけです。
■ヴェーダンタ系のモクシャ(自由)= ヴィパッサナー系のヴィパッサナー(観察)= ヨーガ系のサマーディ(が日常生活にまで継続している状態)
■ヴェーダンタ系のサマーディ = ヴィパッサナー系のサマーディ = ヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)
であれば、これらの超感覚とも言うべきヨーガ系のサマーディの状態が日常にまで広がる、という特徴は割と多くの流派に共通していて、ただ、言い方が異なっているだけと言えると思います。
そうは言いましても、境地が共通していてそれなりに大勢の人が同じような境地に達しているのならばお互いの流派はもっとわかり合える筈で、表現の違いで不仲になるということは、そのような境地に達している人が割と少ないのでは、と勘ぐってしまうのですが、どうなのでしょうか。聖者は喧嘩をしませんし、相手の境地もわかり合えるわけで、であれば、ヴェーダンタ学派とヨーガ系が特にインドで不仲になっているということは、それほど聖者は大勢はいない、ということなのではないでしょうか。たまに聖者が出てきてその流派が出来て、やがて真実が失われて教本だけが残っているようにも思います。そもそも聖者は流派や宗教を自分では作りませんからね。ブッダにしてもキリストにしても後に残った人が色々と解釈して流派を作ったわけで。きっと悟りの境地は共通していて、喧嘩する必要のないものだと私なんかは思います。
少なくともインドでは割とこれらの流派のうちいくつかは仲が悪いのですが、最近、その流派で勉強した人が日本に戻ってきているのですが、インドの争いのカルマを日本に持ち込まないで頂きたいと思っています。そもそもこの種の不和は日本にはありませんでしたから、インドで勉強した人が持ち込まなければ日本でそのような不要な争いは起こらない筈なのです。
少なくともそれなりの悟りに至るまでは謙虚でいたいものです。それなりの悟りに達すれば自然に謙虚になるといいますかそもそも争う必要のないことだと理解するわけですから、謙虚でいることに気をつけるのは最初だけでいいわけです。
このあたりの説明はチベット系が一番明確でわかりやすいように思います。特にゾクチェンによる説明は明確です。
三昧(サマーディ)と修習は、まったく別のものであり、はっきり区別する必要がある。リクパすなわち覚醒した本来の叡智は、制限された存在のありようや時間の中の過程の外部にあり、それを超えている。本来の叡智は、心を超えている。それに対して修習は心のはたらきにかかわっている。だからそれは制限されたものだし、時間の中の出来事であるといえる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
このように、心とそれ以上とを別物として捉える前提に立てば、サマーディが心を超えているということが理解できます。
そして、その前提があってこそのサマーディが多くの流派で言われているのですが、流派によってはサマーディが普通の心の働きの特に集中に関する事項であると定義しているわけです。この、全く異なる事柄をごっちゃにして述べていたらサマーディが何なのかも全くわからないことになります。
■普通の心の動き = ヨーガのダーラナ(集中)= ヨーガのディアーナ(瞑想)=ヴェーダンタ学派のサマーディ=ヴィパッサナー学派のサマーディ
■(普通の心を超えた)覚醒した心の本性(リクパ)=ヨーガのサマーディ(がずっと続く状態)=ヴェーダンタ学派のモクシャ(自由)=ヴィパッサナー学派のヴィパッサナー(観察)
このように分類すればどちらのことを言っているのか明確です。であれば、上記のようにヴェーダンタ学派の人がサマーディと言っても普通の心のことを言っているということがわかりますし、ヨーガ系の人がサマーディというときは覚醒した心の本性であるリクパのことを言っているということがわかるのです。
厳密に言えばヨーガのディアーナ(瞑想)は普通の心と覚醒した心の本性(リクパ)の橋渡しのような状態ですのでそれぞれ半分ではあるのですがそうは言いましても瞑想と言うと基本は集中ですので一般的には上記の分類でそうは間違っていないと思います。
覚醒した心の本性は少しずつ動き出して確固たるものに育ってゆくのですが、勉強する上では「いきなり覚醒する」みたいな教え方をする場合が多々あります。そのように急激な覚醒という場合もあるのでしょうけど、基本的には少しずつ育つもので、最初は覚醒した心の本性(リクパ)が瞑想中にだけ少し動いている状態になり、やがて少しずつ瞑想を終えてからも覚醒が続くようになり、やがては日常生活全てが覚醒した心の本性(リクパ)によって意識されるようになります。
これらは往々にして言葉の定義による誤解なわけで、もっと本人たちが言葉の定義にきをつけて説明してくれればと私なんかは思ったりするわけですけど、そこは私にはどうすることもできませんから、私はこうして書くくらいしかできないわけです。