全体に明け渡すことがスピリチュアル

2021-05-15 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

▪️永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくる

ヨーガやヴェーダンタの言い方とはちょっと違いますけど、比喩的に言えば、永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくるわけですね。

永遠を知らない理解であればそれは一時的な理解にすぎず、永遠を知った上で一時的な理解と永遠の理解がわかるとそこに違いが出てくるわけです。

顕教とかヴェーダンタ等を勉強してくると永遠のお話がたくさん出て来ますけど、永遠を勉強したからと言ってここで言っている比喩的に永遠を知るというお話にはそのまま繋がらなくて、言い換えれば、永遠を体験した上でその体験とは知識ともいいようによっては言うことのできる認識面における経験であって、そのような体験を伴う知識の体験で永遠を知った上での理解であれば違いが出てくる、と言うことです。

体験による永遠の認知なくしていくら永遠を語ったとしてもそれは表層のお話にすぎなくていくら深淵なる経典を語っていたとしても本質の面において永遠を語っていることにはならないのですよね。

これはある程度の見る側の準備が必要なところではあって、見る側に準備がなければ見ることができない、という一面もあります。

一方で、語る側にしても、自分では永遠を知っているつもりであっても単に勉強しただけ、という場合もあって、このあたりは微妙ですので、見分けるのが難しい場合もあります。きちんと勉強をすれば永遠を正しく語ることができるにはできますから、そうしてきちんと勉強した場合と本当に自分の奥底から出てくる理解で話しているのかで違いが出ることもあるのですが、きちんと勉強している方が正当なきちんとした論理になりますのでただ勉強しただけの方が立派に見える、と言うこともあります。その場合、それほど勉強せずに永遠だけ知った人の場合は粗雑に見えることもありますけど、実際は、永遠への理解で言ったら逆の場合もあるということですね。

どちらにしても、他者の本質を見抜くことは難しいですが、自分からしてみれば相手が悟っているかどうかは実際のところ学ぶという観点から言えばそれほど関係がなくて、悟っている人の方がいいといえばいいですけど学問に通じているわけではなく、あまり気にせずに近くにいる人から学べばいいのかな、と私などは思うのですが。どちらにせよある程度からの答えは自分自身でしか探求できないのですから途中までの道程はそんなに大差ないと思うのです。


▪️求めたら広大な天空の空が私の方へ降りてきた

朝の目覚めの前のうとうととした自動思考をぼんやりと横になりながら観察していました。脈略のない幾つかの考えが浮かんできていて、最近読んでいる本のこととか、オーラの広がりについてのお話が頭に浮かんできていました。

こうこうしていると、ふと、不意に頭の中に、目的や対象というものは特になかったように思いますが、急に目の前の「なにか」に対して「求めます」という言葉が浮かんできました。

すると、その言葉が頭の中の自動思考に出た瞬間、それは特に顕在意識が明確に意識して発した言葉ではなかったのですが、まるで呪文のように効果を発揮し、青空のようなイメージが急に現れてきて、それは雲ひとつなく遠くまで広がっていて、そして、その青空全てが下降してきて私の方に近づいて来ました。

先人はもしかしたらこのことを空(くう)と表現したのだとしたら、何ともうまい表現をしたものだなあ、と思います。

これは一見すると想像やイメージのことかと思われるかもしれませんが、最初こそ印象としてぼんやりとした青空、とは言ってもいうほど青くはなくてたぶん青だと思う、というくらいのぼんやりとした空でしかないのですが、イメージというよりも印象で、青空かのように思えたその空は、最初は一瞬、遠くのようにも見えましたが実はそれほど遠くなくて、近づくときは一瞬で私の方に近づいて来ました。それは、最初に少し静止していた時は遠くのようにも見えましたが、実は遠くなくて近くに元々あって、近くにあるのですが私とその天空の青空との間には何か空間が存在していて空間的には少し分離のある状態でした。その最初の状態の後、私が「求める」と言うことをしたら、天空の青空の全体が下降してきたのです。遠くから近づいて来たと言うよりは元々近くにあったものが少し動いただけのような感じが致します。

自分から移動したり近づいたり、ということはしていません。空の方が私の方に近づいて来ました。

そうして降りて来た青空ですが、これを一体、なんと表現したら良いでしょうか。

いいようによっては、これが「空(くう)」だと言うこともできますし、あるいは、「無限」と言ってもいいと思います。存在はしていますので「無」ではないですね。であれば空か無限ということになるかと思います。

あるいは、これは考えようによっては「全体」あるいはヨーガあるいはヴェーダンタで言うブラフマンのことと言うこともできるかもしれません。

アートマンが個人としての無限なる存在なのに対し、実はアートマンはブラフマンという全体の一部であるというヴェーダンタの理解は、この無限なる空との一体化のことを説明しているとも言えるかもしれません。

空と一体になるとは言っても完全に溶け切ったわけではなく、全体としての空あるいは無限あるいはブラフマンと呼ばれているものが降りてきて私と繋がりました。私の周囲に広がって行ったと言うよりは元々全体としての無限なるブラフマンの方が私に近づいてきて繋がり、全体との繋がり感じられました。私の個としてのアートマンの心は特に心臓のハートのアナハタのあたりにあるようで、アナハタの深くで熱感を持ってその繋がりを感じられています。そして、アナハタだけでなくアジナのあたりでもその熱感はあり、他の体全体でもブラフマンあるいは空あるいは無限と呼ばれるものを感じています。

これは、いわゆるオーラを広げる、という種類のものとは異なるように思います。オーラを融合させるのは割と肉体に近いエーテルのお話ですけど、このブラフマンはもっと微細なところでの融合で、肉体及びオーラはそれほど変化がなくて体の周囲に留まっているだけで、とは言いましてもこのことでオーラが活性化して少しは広がってはいますが肉体に紐づいているエーテルとしてのオーラが無限になるということはなくて、オーラとしてではなく、階層を異にするブラフマンの永遠あるいは無限が私に近づいて来た、という感じが致します。

無限とは言っても最初は私の前方上方にあるように感じていましたので空間的な隔たりがあるという意味では空間全てという意味における無限ではなく、上空に広がっているという意味においては空の方が適切ですけど、一旦空あるいはブラフマンと呼んでも良さそうなものが降りて来て自分と一体化してしまった後は空は空間的に限られたものではなくて私の周囲全てに広がっているものだと実感できて、同時に、そうであれば無限であることもわかって実感できるわけです。

最初は限られた認識における天空に広がる空が、降りて来て私のアートマンと一体化した後はそれは限りのない空あるいは無限あるいはブラフマンだということが実感できるわけです。

これらは、ヨーガやヴェーダンタの聖典で語られていることと一致していて、それらは割と神秘的な表現で語られていて、ヨーガやヴェーダンタの先生のお話を聞くとそれは説明のものであって実際はそういうことはない、みたいに言う人もいますけど実際に体験してみるとそれら聖典の表現は比喩と言えば比喩ですが経験できないものではなくて実際に経験そのものを過去の修行者が書き留めた事実であることがわかります。

同様に、それら聖典での説明は知識で理解するもので体験するものではないとか説明されることもありますけど実際にこれらを体験してみると、実際にそのようなブラフマンの知識というのは単に勉強をしっかりして頭の理解で噛み砕くものというのは確かにそうだとしてもそこで終わるものではなく実際に瞑想をするなりして体験及び実感して自らの生活の一部にできるものなのかなと思います。

思えば、同じような体験として以前に創造・破壊・維持の意識が胸のアナハタの中に浮かんできたことがありますが、思えば、これは個としてのアートマンとしての体験あるいは存在としての目覚めだったように思います。

元々存在していたのかといいますときっと認識していなかっただけで多少は存在していたのかなとも思いますが、アートマンが出てくる以前は、例えクンダリーニを経験してオーラがアナハタ優勢になったとしても同様の胸のアートマンとしての意識はほとんど現れていなかったように思います。

これは、神智学における成長の階梯に当てはめてみると、まず最初にクンダリーニが上がって下方及び上方のチャクラをまずは調整し、その後、一旦降りて来てアナハタを目覚めさせる、という階梯に相当するように思います。

アナハタの目覚め自体は個としてのアートマンとしての目覚めで、それは神智学的に言えば低我の目覚めということもできて、一方、今回のブラフマンとの一体化は完全に一体化したという漢字でもなくて接触した、というくらいのような気もしますので、神智学の階梯に当てはめてみると「変容、高我と低我の一時的結合」ということになるのかなと思います。

神智学の表によるとこの段階がアジナチャクラの活性化ということですけど、確かにアジナも多少は活性化されたとは思いますがアジナに何か凄い変化があったというわけでもありませんので、まあ、アジナに関しては様子見でしょうかね。それよりもアナハタが以前よりも働いてきて、周囲との空間とより一体化したような感じがいたします。

それはオーラとしての広がりとしてではなくて、オーラは広げずに体の近くに留めておきながら、それでも周囲との空間が一体化している感覚があります。

感覚としてはそういうことですが、そのことを、きっとヨーガやヴェーダンタではアートマンとブラフマンが一体化する、そして再度離れる、一時的な融合、みたいに表現しているのかなと思います。

神智学の階梯に基づけば、もっと進めば一時的ではなくもっと継続的に高我(ブラフマン)と一体化できるようです。

これは、言葉を借りて詩的に表現するならばキリストの言った「求めよ。さらば与えられん」という言葉がぴったりです。元々の文脈はどのような場面なのかは知りませんけど、言葉としてはまさにこれ、という感じが致します。

あるいは、キリスト教徒であればこのような体験は「主を求める」「主であるキリストに祈る」という言い方をするのかもしれません。キリストの光が天から舞い降りてきて主であるキリストの恵みに浸る、という表現は比喩的でもありますけど感覚的には似ています。

あるいは、クリヤ・ヨーガの一派で昔習った瞑想中に行う観想方法もどこか似ています。

ヨーガやヴェーダンタでは元々自分自身はアートマンでありブラフマンだがそれを知らないだけ、あるいは、無知によって覆い隠されていて見えなくなっている、みたいなことを言いますけど、私の体験では私としてのアートマンがブラフマンに近づくというよりはブラフマンとしての空の方が私の方に近づいて来ましたので、私としてのアートマンがどこかに行くとブラフマンが見つかるとかどこかにブラフマンが隠れているというよりはブラフマンというのは全体ですから私としてのアートマンの周囲に常に存在しているものなわけですよね。そのブラフマンとアートマンとの間に空間的と言っても認識的とも言っても良い隔たりがあったわけですが、その隔たりのことをヴェーダンタ的に無知と呼ぶこともできるのかもしれませんけど、無知というよりは、私の感覚的には、単に隔たりがあった、というだけのような気がいたします。そして、アートマンの意識の「求め」によってブラフマンと一時的にではあっても融合できて、余韻はまだ残っていますので完全に分離したという感じでもなく、繋がりがどの程度あるか、という違いなのかなという気も致します。

ヨーガやヴェーダンタあるいは十牛図がいうように一時的な融合というよりは、少しずつ深まる、という言い方の方がしっくりきます。

これは言い方を変えれば、確かヨーガスートラに記されていた「放棄をすれば知識がやってくる」ということもできると思います。そのような言葉が度々、不意に降りて来ていました。すぐに探してみましたがざっと見たところすぐには見つけられませんでしたけど、意味合いとしては、放棄というのはブラフマンに対する自己のアートマンの受け渡しのことで、知識というのは全体であるブラフマンと繋がることなのかな、とも思います。

かと言って何かすぐにわかることが増えたとかそういうことはなくて、まだ何か空間と時間に壁のようなものがあって、その薄い壁を超えることができれば時空を超えて色々と見聞きできるようになるのかな? という予感のようなものはしますけど、現時点ではさほど変わりがなくて、とは言いましてもブラフマンをより深く、徐々にではありますけど少しずつ体感を深めることで、いいようによってはブラフマンに対する「知識(ニャーナ。暗記や記憶ではなく)」を深めることができているのかなと思います。


▪️全体に明け渡すことがスピリチュアル

全体には自分も含まれていて自分が全体に溶け込むこと、言い換えれば明け渡すことがスピリチュアルであって、誰か自分とは分離された外側の存在である別の人あるいは団体あるいは物あるいは考え方に対して明け渡すことがスピリチュアルではないのです。

よくスピリチュアルや宗教では自分を明け渡すことが怖いというお話が出て来ますけど、誰か別の存在に全てを委ねるのであればそれは危険なことで、実際のところ、それは本当のスピリチュアルではなく、本当の意味における純粋な宗教でもありません。それはただの依存であって、自分が考えなくなって自分というものが相手の言いなりになって道具のようになってしまうようなスピリチュアルは本来のスピリチュアルではありません。そのような誤解が大いにあるように思います。

実際のところ、言葉ではそのようなことをどこも割と言っていると思いますが、本当に全体に対して明け渡すことができているかどうかが問題なわけです。口でそうは言っていても誰かの利益のためにそう言っているだけのこともありますので、実際のところ、他人に対して明け渡す、というようなことはその人がどんなに立派であってもすべきではありません。しかしながら、誰かに対してではなく、全体に対して明け渡すのであればそれは依存にもなりませんしその全体には自分も含まれているわけですから、特に損得のないお話になります。

そうは言いましてもこの世の中は色々とずるい人がいますから、処世術としては明け渡しなどは他所ではしない方がいいとは思います。

ここでは、心の持ちようとして全体に明け渡すというスピリチュアルな態度および祈りをすれば十分で、自分の心が全体に溶けてゆくような心持ちを持ちながら生活すればそこには違いが出てくると思います。

対象のない「全体」あるいは「無限」と言っても良いですが、そのような全体あるいは無限に対して自らを明け渡すのが祈りなわけです。ですから、変な団体が訴えているように「誰か」という対象のある明け渡しではないのですよね。

もちろんそれは「全体」ですからその「誰か」すらも「全体」の一部であって、とても純粋な意味からすればその「誰か」とか「なにか」すらも全体の一部としての明け渡しということですので間違いということではありませんけど、この世界にはずるい人が沢山いて、そのような言葉巧みに「明け渡し」を要求してきて何かを奪ってゆくような人がゴロゴロしているわけです。

ですから、この種の「明け渡し」には注意が必要で、明示的に自らの意思で明け渡すのであればそれは自己責任ということになりますけど、誰かに明け渡しを要求されて明け渡しを行う、なんてのは本筋ではないのですよね。例えば懺悔とか誰かへの信頼というのは自らの気持ちの内側から生じてくるもので、言葉巧みに明け渡しを要求してきたり、直接的には言わないまでもマインドコントロールしてくるような変な団体はそこらじゅうにあるのです。

まあ、とりあえず、自分一人で瞑想をして瞑想中に周囲の存在に感謝して全体あるいは無限なる存在に対して明け渡しをしている分には危険はないと思います。

その時、向きが重要で、自分から相手に対して、という方向ではなく、全体あるいは無限が自分に対して向かってきて自分と接触して自分が全体あるいは無限の一部になるのであればそれは本来のワンネスにおける明け渡しなのだと思います。

自分から相手、という方向の場合は自分の中心軸が揺らぐことにもなりかねませんし、誰かに言われてそうするのであれば依存関係を生み出す危険性もあります。一方、無限あるいは全体が自らに向かってくるのであれば自分としての中心軸はあり続けますし自分も全体の一部なのですからそのような依存にはなり得ません。このことを簡単に「明け渡し」とか言ったりすることもできますけど、そこには誤解の入る余地があるのかなと思います。


▪️心に神の姿イシュタ・デーヴァターを観想して自らを明け渡す

「全体」あるいは「無限」と言っても良い存在あるいは満ちている意識そのものに対して自らを瞑想及び日常生活中において明け渡しを行い、または、祈りを捧げます。

この時、単に無限なる広大な地平線まで続く広い空のような空間そのものが自らに迫ってくるわけですが、その時、ヒンドゥにてイシュタ・デーヴァター(Ishta Devata)あるいは単にイシュタ・デーヴァと呼ばれている心の中に浮かぶ神の姿を観想しながら行うとそれがやりやすいように思います。

これはおそらくは原型としては心の中に像を浮かべて瞑想をするチベットあるいは日本の仏教の瞑想のやり方の一つと共通している面があるとは思いますが、今回は、特にそれを意識してやっていたわけではなく、ふとしたことに「無限」と出会って自然に祈りを捧げる境地になってみたら、ふと、自らの心の中にあった神様の姿が目の前に現れて来たのです。

おそらく私はヨーロッパ等での転生もそれなりにあって、ヒンドゥの神様とかチベットの神様あるいは日本の神様よりも、割とキリスト教の白人バージョンのありがちなキリストの姿の方がイシュタ・デーヴァターとしてしっくりくるのです。かと言って今はキリスト教徒ではありませんしそれほど聖書を勉強しているわけでもなく、教会には観光で行くくらいですけど、それでも、神様というと白人バージョンのキリストの姿がしっくりきます。

色々なところで言われているように元々キリストは白人ではなくて黄色人種の生まれだったので白人の肖像画は歪曲されているとかいうお話もあって、確証はないですがたぶんそうなのかなと私も思っていますけど、実際のところ、ここでいう肖像としてのイシュタ・デーヴァターは割と誰でも良くて、自分がそれに対して神性を感じていて思い浮かべやすければぶっちゃけなんでもいいと言えばいいわけです。マリア様でもいいですし金剛力士でもいいわけですし、チベットの神様でもいいわけです。そんな大差はないと思います。

重要なのは、それが瞑想の助けになるかということで、それを観想することで「全体」あるいは「無限」に対して「明け渡し」ができるのであればそれは助けになるということです。

このような観想は本質的には無用ではあってもツールとしては有用で、ふとした時に「全体」あるいは「無限」に繋がりたい時にその神様を観想すれば無限と繋がることができます。普段の生活において瞑想の深い状態から少し落ちて顕在意識が働いているときに、深い意識に持っていくための橋渡しとして神様の像であるイシュタ・デーヴァターの観想というテクニックが使えるのかなと思います。

ぶっちゃけ、想像上の人物で実際にはいない方が現実の人間の泥臭い部分を抜きに信頼することができますので、実際に生きた人間臭いイエスキリストよりも想像上のイシュタ・デーヴァターとしてのキリスト像の方がこの用途としては向いていると言えると思います。他のイメージも同様で、現実よりもむしろ理想的な神様の像を使った方が純粋に明け渡しを行うことができるように思います。

個人的には、最初に現れてくるのが白人バージョンの理想的なキリスト像で、しばらくすると手塚治虫の漫画に出てきそうな愛着のある不動明王像に変わります。そうするうちにやがてはチベット系の神様のタンカっぽい姿に変わったかと思いきや、その後、(私の記憶の中にある)地球の静止軌道上にいる、大天使の姿に最後には変わります。

禅では「仏に出逢ったら仏を切れ」みたいなことが言われていますけど、これはおそらくは瞑想中の境地を言い表していて、今回の場合、このようなイメージが出てきたら基本的にはそれは一時的な助けに過ぎないわけです。ですから、「切れ」というのは言い過ぎな気もしますけど、イメージに頼りすぎることがないように、ということだと思います。私の場合、この言葉を思い出して試しに切ってみたら、切れるものは切れましたが、次のイメージが出てきました。その順番としては上の通りで、白人バージョンのキリストを切ると白骨だけが残ってそのままなくなるかと思えばすぐに不動明王像が出てきて、不動明王を切るとチベットの神様が出てきて、チベットの神様も切ったら大天使に変わりました。ですけど、大天使は切れないのです。切ろうと思ってもその存在が現実としてありありと存在していて、切れません。思い立って切ろうと刃を伸ばしてみますけど、それでも、大天使のすぐ頭のあたりで止まるか、あるいは、いよいよ切ってはみても、切れたかと思いきや切れ目が入ったかのように見えても切れなくてずっとそこにいます。切ろうと思っても、ハートがそれは良くない、と主張していて切る気になれませんけど、一応は禅の教えなのでそれでも切らなくてはならないかと思って一応は試してはみましたけど、どうやら最後の大天使は切る必要がなくて、むしろ、切ってはいけない大切な存在なのかなと解釈しています。切ろうと思っても刃の方がふにゃふにゃになって大天使の周囲でぼやけた霧のようになってしまいます。

このことから、おそらくは、私の御本尊がこの大天使かな、という気がしています。まあ、そういう理解でずっといたわけですけど、切ろうと思ってもやはり切れないので、これが本体なのかな、と思います。

そうなると、イメージしやすい姿としての神の姿であるイシュタ・デーヴァターとして白人キリストとか色々いて、その背後にいる御本尊がとある大天使、ということなのかなと思います。

イメージとしての神様と、実在としての御本尊は別物なのかなと思います。

御本尊はあまりにも尊くて素晴らしいので普段は隠しておいて触れないようにして、日常生活にはイメージが周囲から影響しても差し支えないイシュタ・デーヴァターとしての神の像を使うというのは理にかなっているように思います。

この時注意が必要で、油断していると自分のオーラを他の存在と混ぜてしまうことがありますので、あくまでも自分のオーラは自分の近くで留めておいて発散しないような状態にしたままで「全体」に対して明け渡しを行うわけです。

この辺りはスピリチュアルでとても誤解があるところで、自分のオーラを広げることがワンネスだとか愛だとかそういう誤解がありますけど、オーラのお話と、全体に対して明け渡すというお話とはかなり違うのです。オーラは全体にまで広がることはあり得ません。オーラを広げようと思えばそれなりには広がりますけど離れれれば離れるほど薄くなってゆくのがオーラの性質です。それは無限たる「全体」にはなり得ないのです。一方、「全体」に対して明け渡しをするときはもう一段階深いところで起こりますので、オーラとはあまり関係がないのですよね。もちろんオーラそれ自体も全体の一部ではありますけど、全体の一部だからこそ、わざわざオーラを広げる必要もなく最初から全体の一部なわけです。そのように、元々全体の一部だった自分が全体であることを受け入れるのが「明け渡し」なわけで、その時、オーラを広げているかどうかはほとんど関係がないのですよね。